2026/03/06 - 2026/03/06
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gianiさん
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長崎街道佐賀宿は、佐賀藩35万石の城下町に設けられ、全長4kmと規格外の長さでした。参勤交代という観点からすると、10万石以上の大名は通過せず、その繁栄は一般の人たちの通行と物流によるものでした。
県庁所在地の中では圧倒的に地味なこともあり、封建時代の歴史やレトロな光景があちこちに遺っており、彼らの思いを感じられる楽しい時間でした。
東側は明治維新後も経済/商業の中心地として栄え、西側は幕末の近代化を感じさせるスポットが多いです。沿道の解説板が充実しているのも、大きな特徴です。
- 旅行の満足度
- 5.0
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佐賀宿は、牛嶋構口から始まります。
現在の構口橋は、1975年架設です。 -
長崎街道
小倉~長崎を結ぶ路線で、江戸~京/大坂~馬関(下関)に接続します。五街道に準ずる一大幹線道路で、参勤交代が義務付けられると重要度が増します。西洋/東洋の海外事情が幕府に伝達される情報ハイウェイでもありました。沿道の小倉/佐賀宿は、城下町でした。 -
構口当時の姿
街道が左に折れると、大溝川に架かった橋を渡ります。その先は塀と木戸で遮断され、番所が置かれました。無事に番所を越えるとクランクして宿場です。3回も曲がるのは、防衛上の配慮です。 -
構口橋上からの光景
前方には、R264に架かる牛嶋橋で1932年架設のレトロもの。藩政時は両橋の間に、幅6mの牛嶋構口橋が架かっていました。 -
下を掘ると、当時の遺構が現れます。石垣で補強され、街道部分は砂と粘土を交互に何層も突き固めて路面を強化していました。
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発掘と展示
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木戸と塀をイメージしています。
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大溝川に沿って折れた街道沿いには、土塁/溝/柵が施され、完全な防備でした。
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無事に番所を通過して、城下町を進みます。
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旧長崎街道のルート
牛嶋構口の小倉側は、隣の隣の神埼宿まで情緒の無い景色が展開されます。
巨勢(こせ)川を渡る高尾宿橋の南側に、藩の御米蔵があったことを示す標識があるだけです。城下町を出ても、牛嶋宿/高尾宿と自然発生的に宿場機能が拡張していました。 -
高尾宿公民館横の遊園地には、年貢米を保管する藩の米蔵4棟と倉番所が存在したことを記す標識があります。蔵横の巨勢川岸には高尾津(港)があり、有明海や筑後川へ通じていました。物流拠点として市も立って賑わいます。米蔵跡は、現在はJA倉庫となっています。
佐賀宿へ戻ります。 -
構口からしばらく歩くと、有明海沿岸地域でしか見られないクド造り屋根の民家が。
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佐賀を特徴付ける恵比須の多さ
戦争反対/自転車泥等、アナーキーな表示が笑えます。 -
東佐賀町交差点を横断すると、味のある公民館があります。
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構口から350m進んだ思案橋を渡ると右側には、
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船着場の遺構が。
2019年に民家を解体した際に見つかりました。 -
前回訪れた際は、こんな感じで発掘後の整備中でした。
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雁木(石段)は藩政時よりも幅が狭くなっていました。
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現在は瘦せ細っていますが、当時の紺屋川は幅の広い水路で、潮の干満を利用して20世紀に入るまで城下有数の荷揚げを誇りました。筑後川河口の諸富港まで川船で運びました。
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思案橋を渡る写真で、左前の住宅部分は、江戸時代から「うどんの橋口屋」が営業していましたが、1943年に原料調達が叶わず閉店しました。
荷揚げ場の遺構の一部分は、蔦屋の土蔵が建っていました。 -
荷揚げ場から30mほど進むと十字路です。江戸時代はT字路でした。長崎街道は右折します。当時は、右手前角が蔦屋(現蔦屋商店)/左手前角が池田千六(煙草製造)/直進道路部分に西村本店が建ちました。
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1890年の様子
①は蔦屋本舗で角地に建っているのが分かります。②西村本店、③は池田千六で角地に建っているのが分かります。 -
1964年の蔦屋商店の姿
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街道を逸れて左折します。
右側には、味のある建物が。 -
佐賀名薬「野中烏犀圓(うさいえん)」本店(1798年築)
1626年創業、1798年に生薬「野中烏犀圓(うさいえん)」を販売、現在も第3類医薬品として販売中。肥前売薬は、越中/近江/大和と並ぶ四大売薬の一つでした。 -
側面も漆喰塗り。藩の許可を得て販売していただけあって、大きな敷地です。解体新書の初版を所有していることから、医学への探求心とネットワークを感じさせます。
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道路の向かいには、ウサイエン製薬株式会社の大きな本社ビルが。
長崎街道まで引き返します。 -
蔦屋の隣には、南里邸があります。18世紀前半地区で、元々は足軽の持ち家でした。ちなみに池田千六は1904年の煙草専売制度※に伴い南里呉服店に改めているので、お互い関係があると思われます。長崎街道は、止まれを左折します。この先は南蛮寺跡を街道が通ります。
※日露戦争戦費調達のため -
ちなみに右折すると味のある橋が架かっています。紺屋川を横断しています。
長崎街道へ引き返します。 -
教会跡
1608-13年にかけて、ドミニコ修道会による教会が建っていました。慶長年間の長崎街道は、現在よりも北側(紺屋川の北)を通っていました。 -
味のある店舗を越えると、柳町の中心へ突入します。
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長崎街道と観光スポットの位置関係。
柳町は南北を紺屋川/裏十間川に挟まれ、軒裏から直接荷揚げ/荷出しできる便利なロケーションです。柳町は、1896年に路線価が県下最高値になります。 -
松尾畳店の隣は、1921年築の旧久富家住宅。履物屋として創業し、裏十間川まで軒が続きます。
旧久富家住宅 名所・史跡
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奥へ入れます。
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現在はテナント方式になっており、2階へ上がると屋根の構造も良くわかります。
こねくり家 グルメ・レストラン
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斜め前には、旧三省銀行。1882年に佐賀藩士により創業、1893年に倒産。
旧三省銀行 名所・史跡
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旧牛島家住宅
18世紀初頭築。佐賀江川沿いに建っていましたが、県道拡幅に伴い移築。問屋を営んでいた足軽高楊伊助が建築、昭和期に牛島家所有になります。旧牛島家 名所・史跡
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牛島家の隣は旧森永家北蔵。
いかにも佐賀的な苗字ですが、煙草屋として18世紀に創業し「富士の煙」は大隈重信も愛用しました。政府専売に伴い呉服店になったのは池田千六と同じです。 -
昔から森永家に鎮座する恵比寿像
柳町は、江戸/明治期に呉服/履物/銀行が並び、佐賀県で一番の商業エリアでした。 -
奥には南蔵も。裏十間川に面しています。
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1890年の様子
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向かいには、江戸期から柳町に住む旧古賀家。1884年築で、武家屋敷風の建築。
旧古賀家 名所・史跡
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内部は意匠に富み、1954年に所有者が変わってからは料亭として用いられました。
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古賀銀行
1885年に創業し、九州五大銀行の一角まで成長しますが、第一次世界大戦後の恐慌の煽りを受けて1926年に休業し解散。この建物は1906年築。柳町は、金融の中心でした。旧古賀銀行 (佐賀市歴史民俗館) 美術館・博物館
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内部は1階が佐賀宿の歴史、2階は葉隠の説明です。
佐賀市歴史民俗館 美術館・博物館
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葉隠は口伝で藩士に継承され、思考言動に大きな影響を及ぼします。
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中村家住宅
古賀銀行の斜め向かいに位置し、古賀銀行創業時から1906年まで社屋として使用された歴史があります。三省銀行と同じ土蔵造り。 -
その先には、八坂神社があります。境内には成就院も立ちました。
八坂神社 (佐賀市柳町) 寺・神社・教会
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境内を越えて17世紀から架かる成就院橋を渡ります。武家町と町人町を結ぶ懸け橋でした。
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裏十間川
名前の通り、幅18mの水路。明治以降の埋立てで、半分ほどに狭まっています。裏は十間堀川に呼応した表現です。町人町は紺屋川と裏十間川に挟まれた細長いエリアでした。長崎街道は町人町をチョイスして通しているので、宿場内で18回も曲がり角があります。 -
素敵なお茶との出会いがある通仙亭もあります。
肥前通仙亭 名所・史跡
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長崎街道へ戻ります。
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馬場家住宅を越えると
馬場家住宅 名所・史跡
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旧蓮池町へ突入し、大財通りを横断します。
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晒橋で新堀(真宗堀)を渡ると呉服町です。
橋の名前は、罪人を見せしめのために晒したことが由来です。
橋を渡った左側は光明寺、右のマンション部分は本陣跡です。 -
本陣跡
宿場の宿泊施設の中でも最高級、幕府高官/参勤交代中の大名が利用しました。18世紀末まで御用商人野口恵助の邸宅を借りていましたが、その後藩が買い上げ、土地を買い増して建物も整備しました。 -
開運さが恵比寿ステーションでは、恵比須様を観光資源としてアピールしています。七福神の中で、唯一の日本固有の神様です。
開運さが恵比須ステーション 名所・史跡
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長崎街道は、突き当りを右折します。道幅は、江戸時代の頃から変わらないそうです。
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角には、道しるべが。多くは複製ですが、こちらは城下に3本しかない藩政時代のオリジナルのうちの一つ。
恵比寿像は、烏帽子部分が欠けています。 -
長崎街道に背を向けて左折すると、歴史ある建物が並びます。1911年以降、最高地価の場所が柳町から呉服町に移ったことの表れです。
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裏十間川を欄干石橋で渡ると武家地になります。右側には佐嘉神社が見えます。
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裏十間川には藩の御蔵がありました。
呉服町は、大正期から銀行街となりました。 -
引き返します。
藩主は参勤交代の際、この橋を渡って長崎街道へ合流しました。写真は1925年築の旧佐賀中央銀行本店です。1999年まで佐賀銀行呉服町支店として営業し、現在はアパレル倉庫となっています。 -
煉瓦色のタイルに沿って長崎街道は左折します。
旧元町です。昭和に入ると、路線価は呉服町/元町/白山町が最高値になります。 -
左折しないで直進すると、願正寺が建ちます。関ケ原で西軍に味方した鍋島勝茂の命乞いをした准如上人を招聘して開基します。城下の時の鐘を司りました。
願正寺 寺・神社・教会
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長崎街道に戻ると、右斜め前にエスプラッツが見えます。2階にある佐賀市観光案内所は、かなり役に立つスポットです。
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エスプラッツ構内で長崎街道は右折します。
街道の左側には、手前から順に宿屋が4軒/御用茶屋/駅場/芥捨場が並びます。 -
こんな感じ
駅場は、一般には人馬継場/問屋場と呼ばれ、馬/駕籠/荷役人が詰めて、隣の宿場までリレー方式で荷物を運びました。芥捨場はゴミ捨て場です。他にも、町人の納税場所や米の取引所もありました。 -
エスプラッツの反対側からクランクして、長崎街道が続きます。現在はアーケードが整備されています。
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その先は、白山町です。
レッドカーペットが延々と敷かれていました。 -
素敵な喫茶店もあります。
佐賀市が推しているシシリアンライスもいただけます。
長崎街道のすぐ裏を十間堀川が並走し、城下の北端を走行します。トネリコ カフェ グルメ・レストラン
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中央大通りを横断すると、
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左手には高寺があります。有名な龍の天井画があります。
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県庁前通りの右前には、龍造寺八幡宮があります。
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明治期に境内は北へシフトし、旧長崎街道は境内を横断する形になりました。
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自動車の右横に高札場がありました。現在も高札場恵比須が安置されています。
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鳥居を潜ると、本殿の手前に石橋があります。
龍造寺八幡宮 寺・神社・教会
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多布施井樋水路を渡る橋で、右側が境内北端、左側に水路に沿って長崎街道が走っていました。
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境内は暗渠になっています。長崎街道は、水路に沿って右の白いテントの場所を通っていました。
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境内には楠神社も鎮座し、幕末の尊王攘夷運動のシンボルとなりました。
楠神社 寺・神社・教会
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境内西面のブロック塀。長崎街道は、路面に色がついています。
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クランクして、西進します。
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1793年に掘られた状態の良い恵比寿像があります。
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味気ない光景がしばらく続きます。R264を左折します。
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左へ分岐する小路を進むと、
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善佐衛門橋で、多布施川を渡ります。左は護国神社で、突き当りを右折します。善佐衛門が1764年に従来の土橋を私財で石橋に架け替えました。260年超の年代物で、自動車も通行します。
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R264を横断します。
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右側の大覚寺の山門(1671年築)の先にある眼鏡橋(1672年)は、現存する県内最古のものです。1606年開山で、後陽成天皇の勅名で現在の名称になりました。境内の右辺(東面)は、多布施川に面しています。
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伊勢神社
伊勢神宮から勧請した唯一神社で、対馬/五島も含めた信仰圏からの参拝者が絶えませんでした。1605年創設。正面の肥前鳥居は、1607年奉納。伊勢神社 寺・神社・教会
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鳥居には慶長十二年(1607年)と刻まれています。
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境内の狛犬は1667年作で、市内最古のものです。
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伊勢神社に突き当たって左折した長崎街道は、この先の十字路で右折します。
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曲がり角には、江戸時代に立てられたオリジナルの道標が残っています。なかさき道/こくら道と濁音を使用していない点が、明治以前の証です。
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天徳寺を越えると、全長350mに及ぶ六座町です。天満宮と市場が1575年に当地へ移転した際に六座が自然発生します。まず現れるのが金銀座跡。
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続いて木工座
右前には、クド造りの屋根を持つ民家が。 -
煙硝座跡
あともう一つは鉄砲座跡です。 -
右斜め前は縫工座跡
表具職人が住みました。つまり、鉄砲や鎧といった武具の生産も行う重要エリアということです。 -
自販の前には、穀物座跡。
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天祐寺川が一瞬並行します。その先は、長瀬町です。
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交差点を左折すると、
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ひたすら南下し、県庁隣に移転した中原内科を右折します。
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長瀬町
橋本忠吉ら長瀬村の刀鍛冶が、城下へ移住させられたことが町名の由来です。谷口家を中心とする鋳物師も割り当てられます。肥前忠吉屋敷跡 名所・史跡
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R264からのルートが表示されます。
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近所には、築地反射炉の跡が。幕府や諸藩が大砲製造のための溶鉱炉に取り組む中、国内で最初に実用的な銑鉄を生産した施設です。鍛冶/鋳物師/火薬/大量の水と大砲製造に必要な人や材料がすぐに揃う立地でした。
築地反射炉跡 名所・史跡
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橋本忠吉屋敷の先には、江戸時代の道標が。これで、城下にある3つのオリジナルを全て訪問したことになりました。こくら/なかさきが指で指された面と、いさはやとかいば(諫早渡海場)と書かれた面が見えます。
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町屋のように奥へ長く伸びる北島邸の先は、鯰橋。一応ここで城下は終わりです。この先は八戸新宿と呼ばれる宿場町が続きます。
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その特徴は、ノコギリ歯型の家並みです。
有事は、この隙間に隠れて、敵を撃ちました。 -
現在もハッキリと遺ります。
のこぎりの歯型のような家並み 名所・史跡
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旧枝梅酒造跡
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現在は、飲み屋さんになっています。
酒の蔵 えん グルメ・レストラン
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久保薬局も、江戸時代から有名でした。
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地蔵橋で地蔵川を渡ると、八戸古宿です。
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橋の袂にある地蔵堂が橋と川の名前の由来です。
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地蔵橋を渡り、右折して街道を逸れると龍雲寺。
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『葉隠(1716)』で有名な山本常朝の墓があります。
四方を水路に囲まれた境内は、八戸城址と比定されています。 -
環状西通り(R208)を横断すると、
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長安寺
歴代橋本忠吉の墓および橋本家の墓があります。特に3代目のは立派です。長安寺 寺・神社・教会
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右折先が江藤新平生誕地になっています。
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城下ではなく、村で生まれました。
江藤新平誕生地 名所・史跡
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左へうねります。
実は、番所跡です。 -
この先は、高橋宿になります。
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高橋に到着。ここで佐賀宿は終わりです。
高橋宿/八戸(やえ)古宿/八戸新宿は、嘉瀬郷三宿と呼ばれます。 -
本庄江川は、佐賀でも重要な水運路で、船着場もありました。
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元々は扇町橋と呼ばれましたが、船が通過できるよう橋を高くしたので、高橋と呼ばれるようになりました。
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橋を渡って左折し、さらに右に曲がると
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次の牛津宿へ続きます。
次の旅行記↓
https://4travel.jp/travelogue/12034507高橋餅本舗福屋 グルメ・レストラン
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