2026/04/28 - 2026/05/06
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rome†juri§さん
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2026年ゴールデンウィークは2度目のイタリア、初のシチリア島に行ってきました。
今回のシチリア旅のテーマは、「文明が重なる島を見ること」です。アラブ・ノルマン様式の建築、ノルマン王国のモザイク、古代ギリシャの神殿、そしてイスラム文化の痕跡!それぞれの文明を巡るルートで旅をしてきました☆
こちらはNo.1.5、※旅行記ではありません※。
今回シチリアに行くにあたり、シチリアの歴史も知っておいた方がより楽しめるかなと思い、古代~中世までの歴史をまとめてみました。(WikipediaやチャットGPTに手伝ってもらいながら)
せっかくまとめたので、備忘録として残しておこうと思いますが、簡単にと思いながらもかなり長くなってしまいました。旅行記だけで結構、という方は次の旅行記へ☆歴史に興味ある方はドウゾ☆
☆往路
関西国際空港(KIX)4/28(火)22:10発
イスタンブール(IST)4/29(水)5:00着
乗継2H
イスタンブール(IST)4/29(水)7:00発
カターニアファンタナロッサ(CTA)4/29(水)8:25着
☆復路
カターニアファンタナロッサ(CTA)5/5(火)19:25発
イスタンブール(IST)5/5(火)22:45着
乗継3H15m
イスタンブール(IST)5/6(水)2:25発
関西国際空港(KIX)5/6(水)19:05着
関空までの行き方
新幹線、岐阜羽島16:35→京都駅17:12
JRはるか、京都駅17:30→関西空港駅18:59
関空からの帰り方
JRはるか、関西空港駅20:46→新大阪
新幹線、新大阪22:06→岐阜羽島
☆旅程
4/28火、22:10大阪KIX発
4/29水、8:25カターニア空港着→パレルモ
4/30木、パレルモ⇄チェファルー
5/1金(メーデー、祝日)、パレルモ
5/2土、パレルモ⇄アグリジェント
5/3日、パレルモ⇄モンレアーレ
5/4月、パレルモ→シラクーザ
5/5火、シラクーザ→19:25カターニア空港発
5/6水、19:05大阪KIX着
◯航空券、ターキッシュエアライン:228,810円
◯関空までの交通費往復:18,660円
◯交通費SAISバス、カターニア空港→パレルモ:€ 14(2,633円)
◯交通費interbus、パレルモ→シラクーザ:€15.2(2,871円)
◯交通費interbus、シラクーザ→カターニア空港:€6.2(1,171円)
◯パレルモホテル、ホテル・コルテーゼ(ホテルの直サイトで予約、宿泊税?込)5泊:€269(51,522円)
◯シラクーザホテル、Hotel Como(agoda)1泊:8,174円(52.94USD)+宿泊税(?)€2
◯グローバルWi-Fi、イタリア 4G(高速) 容量無制限 乗り継ぎ(トランジット)オプション9日間:7,890円
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 5.0
- ショッピング
- 5.0
- 交通
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 徒歩 飛行機
- 航空会社
- ターキッシュ エアラインズ
- 旅行の手配内容
- 個別手配
- 利用旅行会社
- Agoda
-
シチリアの歴史、支配者の移り変わり
(紀元前~16世紀初頭まで)
ギリシア人・フェニキア人(都市国家時代)
↓
ローマ共和国 → ローマ帝国
↓
ゲルマン王国(オドアケル・東ゴート)
↓
東ローマ帝国(ビザンチン帝国)
↓
イスラム勢力
↓
ノルマン人(オートヴィル家)
↓
ホーエンシュタウフェン家(ドイツ系)
↓
アンジュー家(フランス系)
↓
アラゴン家(スペイン系)
↓
スペイン
シチリア島は地中海の中央に位置し、ヨーロッパ・北アフリカ・中東を結ぶ交通の要衝にあります。そのため古代から多くの民族や国家がこの島を支配し、文化が重なり合う独特の歴史を歩んできましたーーー。 -
シチリアの歴史は、紀元前の古代までさかのぼります。古代ギリシア人は地中海各地へ植民活動を行い、イタリア南部やシチリアにも多くの都市を築きます。彼らはこの地域をマグナ・グラエキア(大ギリシア)と呼びました。シチリアには今も、シラクサやアグリジェントなどに古代ギリシアの遺跡が残っています。
一方、シチリア西部にはフェニキア人の都市が築かれ、やがてそれらはカルタゴの勢力圏に入りました。こうして島では、ギリシア勢力とカルタゴ勢力が対立する構図が生まれました。 -
紀元前3世紀中頃、ローマ共和国がイタリア半島統一をした頃、シチリアではメッシーナの傭兵集団がシラクサのヒエロン2世と対立していました。追い詰められたメッシーナは、ローマとカルタゴ、両軍に援軍を要請するという危うい二股外交をしました。
メッシーナvsシラクサの争いに、ローマ軍とカルタゴ軍が加わり、最終的にローマvsカルタゴの第一次ポエニ戦争に発展しました。
メッシーナという地理的に、ローマはイタリア半島の防衛観点から、カルタゴは既得権益(シチリア西部)から、地中海の覇権をめぐる大国同士の争いは避けられなかったのでしょう、ローマとカルタゴがついに正面衝突(第一次ポエニ戦争)した引き金が、メッシーナの二股外交でした。
第一次ポエニ戦争はシチリアが主戦場となり、ローマが勝利しシチリアを占領して、シチリアはローマ最初の属州となりました。シチリアはローマの主要な穀物供給地として重要な役割を果たしていきます。 -
ローマは共和制から帝政へ緩やかに移行して繁栄していきますが、395年にローマは東西に分裂してしまい、シチリアは西ローマ帝国領となりました。
-
476年、西ローマ帝国最後の皇帝ロムルス・アウグストゥルスは、ゲルマン人の将軍オドアケル(西ローマ帝国の傭兵)によって退位させられ、西ローマ帝国は滅亡してしまいます。
皇帝を退位はさせても、オドアケルは皇帝を名乗らなかったそうです。オドアケル軍事政権が成立したと言うのが分かりやすいでしょうか。皇帝位はいらなーいって東ローマ皇帝に皇帝の象徴を送り返し、東ローマ帝国への宗主権を形式上は認めました。ローマ的統治機構は継続し、東ローマ皇帝に形式上従属している体をとって、実質はイタリアを支配しました。
それにより、西ローマ帝国領であったシチリアもオドアケル政権下に置かれることになります。なお当時、北アフリカを拠点とするヴァンダル王国が地中海で強い海軍力を持ち、シチリアの一部に影響力を及ぼしていましたが、オドアケルは交渉によってシチリア島の大部分を掌握しました。 -
493年、東ローマ皇帝ゼノンの意向を受けてイタリアに侵攻した東ゴート族の王テオドリックは、長い戦争の末にオドアケルを破り、最終的に彼を殺害しました。
こうしてイタリアには東ゴート王国が成立し、シチリアもその支配下に入りました。
東ゴート王国の首都はラヴェンナに置かれ、ローマ的文化は尊重され、東ローマ帝国に形式的に従属する形で、テオドリックはイタリアの安定を図りました。しかしテオドリックの死後、後継者争いや内部対立で国力は衰退していきます。 -
これを好機と見た東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌスは、旧西ローマ帝国領の回復を目指して、将軍ベリサリウスを派遣しました。まずはシチリアを奪還し、ゴート戦争(535-554年)が始まります。
最終的に554年、東ローマ帝国が勝利し、東ゴート王国は滅亡、イタリアおよびシチリアは、東ローマ帝国領となりました。
ユスティニアヌスの死後、東ローマ帝国は財政的、軍事的に疲弊し、弱体化していきます。
苦労して回復したイタリアにはランゴバルド族が侵入して、イタリア北部にはランゴバルド王国が築かれました。
また、イスラム勢力の急速な拡大でエジプトやシリアを失い、防衛に追われる状況となりました。 -
そして、827年、シチリアに北アフリカのアグラブ朝が侵攻してきます。831年パレルモ陥落、878年首都のシラクサ陥落と、シチリアの征服は段階的に進められ、ついに902年、シチリアは完全にイスラムの勢力下に置かれ、東ローマ帝国はシチリアを失います。
909年にアグラブ朝が滅びると、シチリアは新たに成立したファーティマ朝の支配下に入りました。
ファーティマ朝は現チュニジアを拠点とし、シチリアはその属州となり、アミール(総督)が派遣されます。
その総督職を代々継承し、実質的に世襲化していったのがカルブ家であり、半独立的な支配体制を築きました。 -
イスラム勢力下のシチリアは衰退ではなく発展の時代を迎えます。
灌漑技術の導入により農業は飛躍的に向上し、レモンやビターオレンジ、サトウキビ、米、ナス、ほうれん草、アーモンドなどの新作物が広がりました。また、イスラム世界の交易ネットワークの一部となったことで香辛料が流入し、都市は繁栄しました。とりわけパレルモは大都市へと成長し、公衆浴場や庭園を備えた多文化都市となりました。さらに数学・天文学・医学などの学問や高度な行政制度ももたらされ、後の時代の基盤となりました。
イスラム期のシチリアは、地中海交易の拠点であり、文明が混ざり合う多文化社会の島となりました。 -
969年、ファーティマ朝が拠点をエジプトのカイロへ移すと、シチリアのカルブ家の自立性はさらに強まり、事実上の半独立状態となりました。中央との距離が生まれたことでカルブ家内部の争いや地方の有力者の自立が進み、やがて各都市はほぼ独立状態となり、シチリアはターイファ的な分裂状態に陥っていきます。
-
この混乱を好機と見た東ローマ帝国はシチリアの奪還を試み、一時シラクサを再征服しましたが、本国の政変とイスラム側の反撃により再び失います。
ちょうどこの頃、イタリア本土ではノルマン人傭兵が各勢力に雇われるようになっていました。ノルマン人とは、フランスのノルマンディー地方出身のヴァイキングの子孫で、キリスト教徒化していた人々です。
また、イスラム内部でも有力者同士のが争い頻発しており、その1人イブン・スムナは危機に瀕してノルマン人傭兵に援助求めました。この出来事が、後のノルマン人による本格的なシチリア征服への道を開くことになります。 -
その頃、南イタリアで傭兵として活動していたノルマン人の中で勢力を伸ばしていたのがオートヴィル家であり、その一族の一人が後にシチリア征服を主導するルッジェーロ1世でした。(ルッジェーロ1世、オートヴィル家12人兄弟の末子)
1061年、ルッジェーロ1世と兄ロベルト・グイスカルドはメッシーナを占領し、シチリア征服を開始しました。しかし南イタリア本土での戦いも並行していたため兵力は分散し、ルッジェーロ1世はシチリアと本土を往復しながら征服を進めることになります。その間にイブン・スムナは殺害され、島内のイスラム勢力はさらに分裂しました。
北アフリカのズィール朝からは二度援軍が送られましたが決定的な支援とはならず、戦況は徐々にノルマン側に傾いていきます。
1071年にカターニア、1072年には首都パレルモが陥落し、1086年にシラクサ、1091年には最後の拠点が陥落して、シチリアは完全にノルマンの支配下に入りました。 -
1091年に征服が完了しても、すぐにシチリア王国が成立したわけではありません。ルッジェーロ1世はシチリア伯として統治体制を整え、多文化共存の支配を確立させました。1101年にルッジェーロ1世が死去すると、幼いルッジェーロ2世が後を継ぎます。成長とともに南イタリア本土も統合することになります。そして1130年、ついに王冠を戴きシチリア王国が誕生しました。
1130年以前のシチリアは、外から支配される島でした。1130年のシチリア王国成立により、シチリアが主体となる王国が初めて誕生します。文明が交差する島は、やがて文明を統合する島へと変容していきます。
因みに、プーリア公グリエルモ2世(ロベルト・グイスカルドの孫)の死によりその家系は断絶したため、ロベルトの甥にあたる ルッジェーロ2世 が相続を主張し、南イタリアを統合しました。
これにより、シチリア王国はシチリア島だけでなく、南イタリアも領土とする国家になりました。 -
ルッジェーロ2世は、シチリアに残っていたビザンチンやアラブの文化を排除せずに受け入れ、王国の黄金時代を築きました。
彼はそれまでの文明を消すのではなく、存在しているものをすべて活用しました。イスラム系の官僚をそのまま登用し、行政ではアラビア語を維持し、ギリシア人司祭も残しました。さらにラテン教会も導入し、さまざまな文化が共存する体制を作りました。
この時代に建てられた建築は数多くありますが、特に有名なのは
パラティーナ礼拝堂(ノルマン王宮)、
チェファルー大聖堂、
モンレアーレ大聖堂、
などです。
ノルマン人は少数だったため、既存の住民や制度を排除すると王国の統治ができませんでした。イスラム支配時代のシチリアは、かなり高度な行政システムを持っていたため、ビザンチンやアラブの文化・行政を残し、それらを利用することでシチリア王国の統治を安定させました。実際、ルッジェーロ2世の宮廷ではアラビア語・ギリシア語・ラテン語が同時に使われていました。 -
それは建造物にも現れています。
ルッジェーロ2世が建てさせたパラティーナ礼拝堂は、モザイクはビザンチン様式、天井はイスラムのムカルナス装飾、建築構造はノルマン様式という、異なる文明が融合した空間です。
また、同じくルッジェーロ2世が建てさせたチェファルー大聖堂は、建築構造はノルマン様式ですが、後陣にはビザンチン様式の壮大なキリストの金モザイクが置かれています。
さらに後の時代、ルッジェーロ2世の孫のグリエルモ2世によって建てられたモンレアーレ大聖堂では、ノルマン建築を基礎としながら、内部は全面がビザンチン様式の金モザイクで覆われています。回廊の装飾や幾何学模様にはイスラム的な要素も見られ、ここでもシチリアの多文化的な伝統が表れています。 -
ルッジェーロ2世の死後、シチリア王位はその息子のグリエルモ1世へと継承され、さらにその息子のグリエルモ2世へと受け継がれていきます。
しかしグリエルモ2世は王位継承者のないまま没してしまいます。本来であれば、ルッジェーロ2世の娘であるコスタンツァと結婚していた神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世が王位を継承する立場にありました。
しかしシチリアの住民たちは、ドイツ皇帝による支配を嫌い、ルッジェーロ2世の庶子の系統にあたるタンクレーディを王として擁立します。
これに対してハインリヒ6世は軍を率いてシチリアに侵攻し、1194年に王国を征服します。こうしてハインリヒ6世がシチリア王位に就き、ノルマン人のオートヴィル朝は断絶しました。ここにホーエンシュタウフェン朝による支配が始まります。 -
しかしハインリヒ6世は早くに亡くなり、翌年にはその妻のコスタンツァも亡くなり、彼らの息子であるフリードリヒ2世が幼くしてシチリア王位を継ぐことになります。
幼くして孤児となったフリードリヒ2世は、パレルモの宮廷で成長しました。そこにはラテン人、ギリシア人、アラブ人、ユダヤ人など様々な文化を持つ人々が集まり、多様な言語と知識が交差していました。
このような環境で育ったフリードリヒ2世は、当時のヨーロッパの君主の中でも特異な存在となります。学問や科学に深い関心を持つ一方で、教皇権力と激しく対立し、しばしば破門を受けることもありました。 -
また、彼はイスラム世界の文化や学問にも理解を示し、第六回十字軍 においては、イスラム側の君主アル=カーミル との外交交渉によって、戦闘を行うことなくエルサレムの返還を実現しました。
-
フリードリヒ2世の死後、シチリア王国は大きく揺らぐことになります。彼の死後、王国の統治を担ったのは庶子であるマンフレーディでした。
マンフレーディは父と同様に学問や文化に理解を示す君主であり、シチリアの人々からも支持を集めていました。しかし、教皇は依然としてホーエンシュタウフェン家の勢力拡大を警戒しており、フランス王家(アンジュー家)の出身であるシャルル・ダンジュー(シャルル1世)をシチリア王位に就けようとしました。
1266年、ベネヴェントの戦いでマンフレーディはシャルル・ダンジューと戦いますが敗れて戦死し、ここにホーエンシュタウフェン家のシチリア支配は終焉を迎えました。
シチリアは地中海の中央に位置し、古くからヨーロッパ、北アフリカ、東方世界を結ぶ交易と軍事の要衝として重要な位置を占めていました。そのためこの島をめぐっては、常にヨーロッパの有力な王家が支配を争うことになります。 -
その後シチリア王国はアンジュー家の支配下に入ります。しかしフランス人による統治はシチリアの人々の強い反発を招き、1282年、パレルモでフランス人支配に対する大規模な蜂起が起こりました。これは夕刻の祈りの時間に始まったことからシチリアの晩祷と呼ばれています。
-
この反乱の背景には、シチリア王マンフレーディの娘コンスタンサと結婚していたアラゴン王ペドロ3世の存在がありました。シチリアの反乱勢力はアラゴン家の支援を受け、ペドロ3世を新たな王として迎えます。
こうしてシチリア島はアラゴン王国の支配下に入りました。
一方、南イタリア本土ではアンジュー家の支配が続き、後のナポリ王国へとつながっていきます。しかし1442年、アラゴン王アルフォンソ5世がナポリを征服し、アンジュー家の支配は終わりました。
これによって、アラゴン家の支配下にあったシチリア島と南イタリア本土は、再び同じ王のもとに置かれることになります。ただし、両地域は一つの国家に統合されたわけではなく、シチリア王国とナポリ王国という別々の王国のまま存在しました。 -
その後、アラゴン王フェルナンド2世(カトリック両王)の死後、王位は孫のカール5世に継承され、シチリアはスペイン・ハプスブルク家の支配下に入りますーーー。
スペイン統治に入ったところで、歴史の予習はここまでにしました。
その後の歴史は本当にサラッと、どの王家が支配したかくらいを流し読みした程度です。
中世までは、歴史の流れや支配者の移り変わりを理解したくて、自分なりにまとめてみたつもりですが、サラッと書いたつもりが思ったより長くなってしまいました。
※自分的に理解のしやすさ重視のため、ちょいちょい省いてる部分もありますし、史実とのニュアンスが違う部分もあるかもしれません。ご了承ください※
ここまでお付き合いいただきありがとうございます。
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