関ヶ原・垂井旅行記(ブログ) 一覧に戻る
 関ケ原の戦いと壬申の乱ゆかりの地へ行きました。「歴史は、過去と現在の終わりのない対話」と言った歴史家がいました。現在、ロシアのウクライナ侵攻、かつて「天井のない監獄」と呼ばれ、今は「生存そのものが困難な地」へと変貌してしまったガザ地区の現状、イラン情勢等、国際秩序は揺らぎ、平和への先行きが見えない状況になっています。歴史を学ぶことは、単なる「暗記」ではなく、「現在進行形の悲劇を読み解き、最悪の事態を回避する」ために不可欠な行為です。過去の戦乱を知ることは、決して戦いを賛美するためではなく、「どうすれば二度とその道を歩まずに済むか」を探るための知的な防衛手段です。今の不透明な世界を生き抜くために、かつて極限状態に置かれた人々がどう動いたのかを学ぶことは、非常に価値のある「未来への準備」と言えるでしょう。「歴史に学ばない者は、過ちを繰り返す運命にある」という言葉をかみしめながら、関ケ原の地に降り立ちました。

関ケ原の戦いと壬申の乱ゆかりの地へ

13いいね!

2026/02/21 - 2026/02/21

266位(同エリア269件中)

0

43

ゆきたびひろ

ゆきたびひろさん

この旅行記スケジュールを元に

 関ケ原の戦いと壬申の乱ゆかりの地へ行きました。「歴史は、過去と現在の終わりのない対話」と言った歴史家がいました。現在、ロシアのウクライナ侵攻、かつて「天井のない監獄」と呼ばれ、今は「生存そのものが困難な地」へと変貌してしまったガザ地区の現状、イラン情勢等、国際秩序は揺らぎ、平和への先行きが見えない状況になっています。歴史を学ぶことは、単なる「暗記」ではなく、「現在進行形の悲劇を読み解き、最悪の事態を回避する」ために不可欠な行為です。過去の戦乱を知ることは、決して戦いを賛美するためではなく、「どうすれば二度とその道を歩まずに済むか」を探るための知的な防衛手段です。今の不透明な世界を生き抜くために、かつて極限状態に置かれた人々がどう動いたのかを学ぶことは、非常に価値のある「未来への準備」と言えるでしょう。「歴史に学ばない者は、過ちを繰り返す運命にある」という言葉をかみしめながら、関ケ原の地に降り立ちました。

旅行の満足度
5.0
  • 「阪神往復フリーきっぷ」で大阪まで行きます。でも、このきっぷ、2026年3月31日利用開始分をもって発売終了になります。残念。

    「阪神往復フリーきっぷ」で大阪まで行きます。でも、このきっぷ、2026年3月31日利用開始分をもって発売終了になります。残念。

  • 新大阪からは関ケ原までは「JRの会社をまたぐ」区間だから、「紙の切符」を購入。

    新大阪からは関ケ原までは「JRの会社をまたぐ」区間だから、「紙の切符」を購入。

  • 朝、5時に松山を出発し、11時20分に関ケ原駅に着きました。

    朝、5時に松山を出発し、11時20分に関ケ原駅に着きました。

    関ケ原駅

  • 駅前の観光交流館で情報収集。

    駅前の観光交流館で情報収集。

    関ヶ原駅前観光交流館 名所・史跡

  • 関ヶ原の戦いは、慶長5年9月15日(1600年10月21日)に起きた「天下分け目の戦い」として知られる、日本史上最大規模の合戦です。豊臣秀吉の死後、徳川家康(東軍)と石田三成(西軍)が激突しました。<br /><br />

    関ヶ原の戦いは、慶長5年9月15日(1600年10月21日)に起きた「天下分け目の戦い」として知られる、日本史上最大規模の合戦です。豊臣秀吉の死後、徳川家康(東軍)と石田三成(西軍)が激突しました。

  • 歴史を学ぶと、対立する双方にそれぞれの「正義」があることが見えてきます。石田三成は、豊臣家への忠義と、筋道を通すという「義」。徳川家康は、戦乱を終わらせ、長期的な平和(江戸幕府)を築くという「実利」。現代の紛争も、一方的な悪だけでなく、互いの譲れない理屈が衝突して起きています。歴史を通じて複数の視点を持つことで、物事を客観的に捉える力を養います。

    歴史を学ぶと、対立する双方にそれぞれの「正義」があることが見えてきます。石田三成は、豊臣家への忠義と、筋道を通すという「義」。徳川家康は、戦乱を終わらせ、長期的な平和(江戸幕府)を築くという「実利」。現代の紛争も、一方的な悪だけでなく、互いの譲れない理屈が衝突して起きています。歴史を通じて複数の視点を持つことで、物事を客観的に捉える力を養います。

  • まずは、岐阜関ケ原古戦場記念館に行きます。ここは、2020年にオープンした非常にモダンで「体験型」のミュージアムです。

    まずは、岐阜関ケ原古戦場記念館に行きます。ここは、2020年にオープンした非常にモダンで「体験型」のミュージアムです。

    岐阜関ケ原古戦場記念館 美術館・博物館

  • 特別展示していました。現在、2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」に関連した甲冑展示などが開催されています。豊臣秀吉や秀長に焦点を当てた、今だけの展示が見られます。

    特別展示していました。現在、2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」に関連した甲冑展示などが開催されています。豊臣秀吉や秀長に焦点を当てた、今だけの展示が見られます。

  • 入館料は500円です。写真撮影は禁止でしたが、グラウンド・ビジョンやシアターは、完成度が高く、楽しめます。また、展示室は、実際の古文書や武具、合戦図屏風などが展示されています。

    入館料は500円です。写真撮影は禁止でしたが、グラウンド・ビジョンやシアターは、完成度が高く、楽しめます。また、展示室は、実際の古文書や武具、合戦図屏風などが展示されています。

  • 戦国体験コーナーは、本格的な陣羽織を羽織ったり、刀の模型を持ったりして写真撮影ができました。刀や火縄銃、大筒など、触ることができます。

    戦国体験コーナーは、本格的な陣羽織を羽織ったり、刀の模型を持ったりして写真撮影ができました。刀や火縄銃、大筒など、触ることができます。

  • 5階の展望室は、360度ガラス張りで、関ケ原の町を一望できます。ここから実際の石田三成陣跡を眺めています。

    5階の展望室は、360度ガラス張りで、関ケ原の町を一望できます。ここから実際の石田三成陣跡を眺めています。

  • レンタサイクルで移動します。4時間で660円です。受付のスタッフに「坂が多いから電動がおすすめですよ」と言われました。しかし、普段から体力維持と健康づくりのためサイクリングやウォーキング等をしているという自負と慢心から、「大丈夫です」と言い、普通の自転車を借りました。結果、激しく疲れました。私のような人の助言を聞かない人がいるから、紛争が起こるのかも、と反省してます。

    レンタサイクルで移動します。4時間で660円です。受付のスタッフに「坂が多いから電動がおすすめですよ」と言われました。しかし、普段から体力維持と健康づくりのためサイクリングやウォーキング等をしているという自負と慢心から、「大丈夫です」と言い、普通の自転車を借りました。結果、激しく疲れました。私のような人の助言を聞かない人がいるから、紛争が起こるのかも、と反省してます。

  • 徳川家康最後陣跡【陣場野(じんばの)公園】です。岐阜関ケ原古戦場記念館隣にあります。関ヶ原の戦いにおいて家康が勝利を決定づけ、合戦後に首実検(討ち取った敵の首を確認する儀式)を行った史跡です。合戦当日、家康は当初、後方の「桃配山(ももくばりやま)」に陣を構えていました。しかし、一進一退の攻防が続き、なかなか決着がつかない状況に苛立った家康は、自ら全軍の士気を高めるため、西軍の本陣である笹尾山(石田三成陣)からわずか数百メートルのこの地点まで本陣を押し進めました。この場所への移動には、天下取りへの強い執念と、前線の将兵への強烈な督戦(急き立てること)の意味が込められていました。通説では、この最後陣跡から家康が、なかなか動かない小早川秀秋の陣(松尾山)に向けて威嚇の鉄砲(問い鉄砲)を撃ち込ませ、それが秀秋の寝返りの決断を促したと言い伝えられています。

    徳川家康最後陣跡【陣場野(じんばの)公園】です。岐阜関ケ原古戦場記念館隣にあります。関ヶ原の戦いにおいて家康が勝利を決定づけ、合戦後に首実検(討ち取った敵の首を確認する儀式)を行った史跡です。合戦当日、家康は当初、後方の「桃配山(ももくばりやま)」に陣を構えていました。しかし、一進一退の攻防が続き、なかなか決着がつかない状況に苛立った家康は、自ら全軍の士気を高めるため、西軍の本陣である笹尾山(石田三成陣)からわずか数百メートルのこの地点まで本陣を押し進めました。この場所への移動には、天下取りへの強い執念と、前線の将兵への強烈な督戦(急き立てること)の意味が込められていました。通説では、この最後陣跡から家康が、なかなか動かない小早川秀秋の陣(松尾山)に向けて威嚇の鉄砲(問い鉄砲)を撃ち込ませ、それが秀秋の寝返りの決断を促したと言い伝えられています。

    徳川家康最後陣跡 床几場 名所・史跡

  • 岡山(丸山)烽火場です。黒田長政と竹中重門の約5千は東軍の最右翼としてここに布陣しました。

    岡山(丸山)烽火場です。黒田長政と竹中重門の約5千は東軍の最右翼としてここに布陣しました。

    黒田長政 竹中重門陣跡 / 岡山 ( 丸山 ) 烽火場 名所・史跡

  • 標高164mの丘陵で、おそらく戦況がよく見渡せたでしょう。

    標高164mの丘陵で、おそらく戦況がよく見渡せたでしょう。

  • クマには出会わないように。

    クマには出会わないように。

  • 自然の中をサイクリングします。

    自然の中をサイクリングします。

  • 関ヶ原の戦いにおいて最も激しい戦闘が繰り広げられた決戦地です。午前中に始まった戦いは、当初は一進一退でしたが、正午ごろに小早川秀秋の裏切りが起きたことで一気に東軍有利へと傾きました。追い詰められた西軍の石田三成隊に対し、東軍の諸将(田中吉政、黒田長政、竹中重門など)が四方八方からこの地点へとなだれ込み、最後の大激戦となりました。

    関ヶ原の戦いにおいて最も激しい戦闘が繰り広げられた決戦地です。午前中に始まった戦いは、当初は一進一退でしたが、正午ごろに小早川秀秋の裏切りが起きたことで一気に東軍有利へと傾きました。追い詰められた西軍の石田三成隊に対し、東軍の諸将(田中吉政、黒田長政、竹中重門など)が四方八方からこの地点へとなだれ込み、最後の大激戦となりました。

    関ケ原古戦場 決戦地 名所・史跡

  • 家康は、「圧倒的に不利な盆地の底」に自ら入り込みました。それは、「地形の不利を、調略(裏切り工作)という心理戦で覆す」という家康の計算があったからこそです。もし小早川秀秋が裏切らず、南宮山の毛利軍が山を下りていれば、東軍は地形の罠にハマって全滅していた可能性が高いと言われています。

    家康は、「圧倒的に不利な盆地の底」に自ら入り込みました。それは、「地形の不利を、調略(裏切り工作)という心理戦で覆す」という家康の計算があったからこそです。もし小早川秀秋が裏切らず、南宮山の毛利軍が山を下りていれば、東軍は地形の罠にハマって全滅していた可能性が高いと言われています。

  • 笹尾山交流館です。決戦地のすぐ隣にあります。

    笹尾山交流館です。決戦地のすぐ隣にあります。

    関ケ原笹尾山交流館 名所・史跡

  • 甲冑体験などができる施設です。

    甲冑体験などができる施設です。

  • 笹尾山は、西軍の主将・石田三成が布陣した場所です。笹尾山は北国街道を押さえる位置にあり、高所から盆地を一望できるため、防御に適した場所でした。石田三成率いる約6千の軍勢は、前日の夜半に大垣城を出発し、合戦当日の午前1時頃にここへ布陣しました。<br />

    笹尾山は、西軍の主将・石田三成が布陣した場所です。笹尾山は北国街道を押さえる位置にあり、高所から盆地を一望できるため、防御に適した場所でした。石田三成率いる約6千の軍勢は、前日の夜半に大垣城を出発し、合戦当日の午前1時頃にここへ布陣しました。

    石田三成陣跡 名所・史跡

  • 復元された竹矢来(馬防柵)があります。

    復元された竹矢来(馬防柵)があります。

  • 笹尾山から桃配山(徳川家康の最初の本陣)方面を見ています。家康は、中山道を見下ろせる位置にあり、敵の進軍を監視するのに最適で、かつて天武天皇が壬申の乱で勝利した際に桃を配ったという伝説がある縁起がいい桃配山に陣を置きました。関ヶ原の戦いにおける両軍の布陣は、「西軍(石田方)が圧倒的に有利」でした。西軍は関ヶ原の盆地を囲む山々に陣を敷き、東軍を包囲する「鶴翼(かくよく)の陣」のような形をとっていました。対する東軍は、敵に囲まれた盆地の中央に細長く伸びる「魚鱗(ぎょりん)の陣」に近い形で応戦しました。

    笹尾山から桃配山(徳川家康の最初の本陣)方面を見ています。家康は、中山道を見下ろせる位置にあり、敵の進軍を監視するのに最適で、かつて天武天皇が壬申の乱で勝利した際に桃を配ったという伝説がある縁起がいい桃配山に陣を置きました。関ヶ原の戦いにおける両軍の布陣は、「西軍(石田方)が圧倒的に有利」でした。西軍は関ヶ原の盆地を囲む山々に陣を敷き、東軍を包囲する「鶴翼(かくよく)の陣」のような形をとっていました。対する東軍は、敵に囲まれた盆地の中央に細長く伸びる「魚鱗(ぎょりん)の陣」に近い形で応戦しました。

  • 陣形だけを見れば「西軍の勝ちパターン」でしたが、実際には山に布陣した西軍の多くが「傍観」したり「裏切ったり」したため、実戦力では東軍が上回ってしまいました。松尾山方面を見ています。ここに布陣した小早川秀秋の裏切りにより、鶴翼の陣は崩れました。

    陣形だけを見れば「西軍の勝ちパターン」でしたが、実際には山に布陣した西軍の多くが「傍観」したり「裏切ったり」したため、実戦力では東軍が上回ってしまいました。松尾山方面を見ています。ここに布陣した小早川秀秋の裏切りにより、鶴翼の陣は崩れました。

  • 島左近(しまさこん)は、石田三成に仕えた「軍師」であり「猛将」です。当時の人々に「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と謳われるほど、主君を凌ぐほどの器量を持っていたと評価されています。開戦後、黒田長政や細川忠興ら東軍の精鋭の猛攻を受けますが、島左近(清興)を中心に石田隊は奮戦し、東軍を何度も押し返しました。

    島左近(しまさこん)は、石田三成に仕えた「軍師」であり「猛将」です。当時の人々に「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と謳われるほど、主君を凌ぐほどの器量を持っていたと評価されています。開戦後、黒田長政や細川忠興ら東軍の精鋭の猛攻を受けますが、島左近(清興)を中心に石田隊は奮戦し、東軍を何度も押し返しました。

  • 島津義弘の陣跡です。島津義弘は、敗北が決定的になった瞬間に「前方にいる家康の本陣をかすめて、正面から突破して撤退する」という、常識破りの離れ業を演じた猛将です。有名な「島津の退き口」です。背後の山を越えるよりも、敵の密度が薄い一瞬を突いて正面突破する方が生き残る確率があると踏んだ、あまりに攻撃的な撤退戦でした。戦場を脱出した時、1,500人いた兵はわずか80名余りに減っていたと言われています。しかし、大将である義弘は見事に薩摩(鹿児島)まで帰り着きました。島津義弘は、寒い夜には兵士たちと一緒に焚き火を囲んで暖をとり、一人一人に声をかけるようなリーダーでした。そのため、部下たちは彼のためなら喜んで死ねたと言われています。「絶体絶命のピンチこそ前に出る」という強烈な突破力と、それを支える部下との深い信頼関係を持った武将でした。<br />

    島津義弘の陣跡です。島津義弘は、敗北が決定的になった瞬間に「前方にいる家康の本陣をかすめて、正面から突破して撤退する」という、常識破りの離れ業を演じた猛将です。有名な「島津の退き口」です。背後の山を越えるよりも、敵の密度が薄い一瞬を突いて正面突破する方が生き残る確率があると踏んだ、あまりに攻撃的な撤退戦でした。戦場を脱出した時、1,500人いた兵はわずか80名余りに減っていたと言われています。しかし、大将である義弘は見事に薩摩(鹿児島)まで帰り着きました。島津義弘は、寒い夜には兵士たちと一緒に焚き火を囲んで暖をとり、一人一人に声をかけるようなリーダーでした。そのため、部下たちは彼のためなら喜んで死ねたと言われています。「絶体絶命のピンチこそ前に出る」という強烈な突破力と、それを支える部下との深い信頼関係を持った武将でした。

  • 早朝、関ヶ原は深い霧に包まれていました。本来、東軍の先陣は福島正則と決まっていましたが、徳川家の面目を保つため、家康の側近・井伊直政と家康の四男・松平忠吉が霧の中を突き進みました。井伊隊が西軍の宇喜多秀家隊に向けて発砲したことで、天下分け目の戦いが始まりました。開戦地で火花を散らした宇喜多秀家は、西軍の中で最も激しく、かつ最後まで粘り強く戦った武将の一人として知られています。

    早朝、関ヶ原は深い霧に包まれていました。本来、東軍の先陣は福島正則と決まっていましたが、徳川家の面目を保つため、家康の側近・井伊直政と家康の四男・松平忠吉が霧の中を突き進みました。井伊隊が西軍の宇喜多秀家隊に向けて発砲したことで、天下分け目の戦いが始まりました。開戦地で火花を散らした宇喜多秀家は、西軍の中で最も激しく、かつ最後まで粘り強く戦った武将の一人として知られています。

    関ケ原古戦場 開戦地 名所・史跡

  • 壬申の乱(じんしんのらん)ゆかりの場所に行ってみます。壬申の乱は、672年に起きた古代日本最大の内乱です。天智天皇の後継者を巡り、天皇の弟である大海人皇子(おおあまのおうじ)と、天皇の息子である大友皇子(おおとものおうじ)が激突しました。

    壬申の乱(じんしんのらん)ゆかりの場所に行ってみます。壬申の乱は、672年に起きた古代日本最大の内乱です。天智天皇の後継者を巡り、天皇の弟である大海人皇子(おおあまのおうじ)と、天皇の息子である大友皇子(おおとものおうじ)が激突しました。

  • 「不破の関(ふわのせき)」は、現在の岐阜県不破郡関ケ原町にあった古代の関所です。壬申の乱をきっかけに設置され、日本の歴史において「東国」と「西国」を分ける運命の分岐点として極めて重要な役割を果たしました。

    「不破の関(ふわのせき)」は、現在の岐阜県不破郡関ケ原町にあった古代の関所です。壬申の乱をきっかけに設置され、日本の歴史において「東国」と「西国」を分ける運命の分岐点として極めて重要な役割を果たしました。

    不破の関跡 名所・史跡

  • 壬申の乱の際、大海人皇子(後の天武天皇)はいち早くこの地を占拠しました。ここは北に伊吹山、南に養老山地が迫る狭い場所で、東国から近江(滋賀)へ抜ける唯一の主要ルートでした。ここを封鎖したことで、近江朝廷軍が東国から兵を集めるのを阻止し、逆に大海人皇子は東国の軍勢を盤石に整えることができたのです。この経験から、乱の直後の673年、国を守るための最重要拠点として正式に関所が設置されました。平安時代まで、朝廷は天皇に不測の事態(崩御や政変)が起きた際、即座に「三関(さんげん)」を封鎖して反乱軍の移動を防ぎました。「三関」とは、「不破の関」「鈴鹿の関」「愛発の関」(後に愛発の関に代わり、「逢坂の関」)です。「関東」という言葉は、この不破の関(および他の三関)よりも東側の地域を指したことが始まりです。

    壬申の乱の際、大海人皇子(後の天武天皇)はいち早くこの地を占拠しました。ここは北に伊吹山、南に養老山地が迫る狭い場所で、東国から近江(滋賀)へ抜ける唯一の主要ルートでした。ここを封鎖したことで、近江朝廷軍が東国から兵を集めるのを阻止し、逆に大海人皇子は東国の軍勢を盤石に整えることができたのです。この経験から、乱の直後の673年、国を守るための最重要拠点として正式に関所が設置されました。平安時代まで、朝廷は天皇に不測の事態(崩御や政変)が起きた際、即座に「三関(さんげん)」を封鎖して反乱軍の移動を防ぎました。「三関」とは、「不破の関」「鈴鹿の関」「愛発の関」(後に愛発の関に代わり、「逢坂の関」)です。「関東」という言葉は、この不破の関(および他の三関)よりも東側の地域を指したことが始まりです。

  • 「兜掛石(かぶとかけいし)」は、不破の関からほど近い野上行宮(のがみあんぐう)跡にある、大海人皇子にまつわる伝説の石です。壬申の乱の際、大海人皇子が「自分の兜を脱いで掛けた」と伝えられる石です。長い行軍や指揮の合間に、ふと兜を置いて休息を取った姿を想像させます。

    「兜掛石(かぶとかけいし)」は、不破の関からほど近い野上行宮(のがみあんぐう)跡にある、大海人皇子にまつわる伝説の石です。壬申の乱の際、大海人皇子が「自分の兜を脱いで掛けた」と伝えられる石です。長い行軍や指揮の合間に、ふと兜を置いて休息を取った姿を想像させます。

    関庁跡と兜掛石 名所・史跡

  • 「沓脱石(くつぬぎいし)」は、皇子が「靴(沓)を脱いで置いた」、あるいは「靴を脱いで石の上に座った」とされる石です。兜掛石のすぐ近くに並んで鎮座しています。

    「沓脱石(くつぬぎいし)」は、皇子が「靴(沓)を脱いで置いた」、あるいは「靴を脱いで石の上に座った」とされる石です。兜掛石のすぐ近くに並んで鎮座しています。

  • 不破関は、藤古川を西限として利用し、左岸の河岸段丘に主要施設が築造されていました。川面と段丘上との高度差は20mの急な崖となっており、自然の要害になっていました。

    不破関は、藤古川を西限として利用し、左岸の河岸段丘に主要施設が築造されていました。川面と段丘上との高度差は20mの急な崖となっており、自然の要害になっていました。

    藤古川 名所・史跡

  • 山中の若宮八幡神社(関ケ原町)に来ました。この神社は、「全国的にも珍しい光景」が見られます。参道を横切るように東海道本線が通っています。青い機関車(EF210形、通称桃太郎)が牽引する貨物列車が写っています。

    山中の若宮八幡神社(関ケ原町)に来ました。この神社は、「全国的にも珍しい光景」が見られます。参道を横切るように東海道本線が通っています。青い機関車(EF210形、通称桃太郎)が牽引する貨物列車が写っています。

  • 若宮八幡神社は、大谷吉継(おおたによしつぐ)が布陣した「大谷吉継陣跡」の登り口(山麓)に位置しています。祭神は、壬申の乱で敗れて自害した大友皇子(弘文天皇)を祀っています。

    若宮八幡神社は、大谷吉継(おおたによしつぐ)が布陣した「大谷吉継陣跡」の登り口(山麓)に位置しています。祭神は、壬申の乱で敗れて自害した大友皇子(弘文天皇)を祀っています。

  • 大谷吉継は合戦の約10日前(一説には1ヶ月前)から、若宮八幡神社の上の急斜面に空堀を巡らせた強固な陣(山中城とも呼ばれる)を築きました。

    大谷吉継は合戦の約10日前(一説には1ヶ月前)から、若宮八幡神社の上の急斜面に空堀を巡らせた強固な陣(山中城とも呼ばれる)を築きました。

    大谷吉継陣跡 名所・史跡

  • 吉継は、松尾山に陣取った小早川秀秋の裏切りを当初から予測しており、ここから松尾山を正面に見据えて監視していました。吉継は病の影響で失明に近い状態でしたが、輿(こし)に乗って指揮を執りました。実際に小早川が裏切って山を駆け下りてきた際、吉継の軍勢(約600~2,000人)は、その数倍もの小早川軍(約15,000人)を3度も押し戻すという神がかり的な奮戦を見せました。

    吉継は、松尾山に陣取った小早川秀秋の裏切りを当初から予測しており、ここから松尾山を正面に見据えて監視していました。吉継は病の影響で失明に近い状態でしたが、輿(こし)に乗って指揮を執りました。実際に小早川が裏切って山を駆け下りてきた際、吉継の軍勢(約600~2,000人)は、その数倍もの小早川軍(約15,000人)を3度も押し戻すという神がかり的な奮戦を見せました。

  • しかし、脇坂安治ら他の味方まで連鎖的に裏切ったことで、吉継の陣は完全に包囲されます。「もはやこれまで」と悟った彼は、自害を選びました。吉継は自害する際、側近の湯浅五助に「自分の首を敵に渡すな、汚い顔をさらすな」と命じました。五助は主君の首を戦場に深く埋めて隠し通し、自分もその後討ち死にしました。

    しかし、脇坂安治ら他の味方まで連鎖的に裏切ったことで、吉継の陣は完全に包囲されます。「もはやこれまで」と悟った彼は、自害を選びました。吉継は自害する際、側近の湯浅五助に「自分の首を敵に渡すな、汚い顔をさらすな」と命じました。五助は主君の首を戦場に深く埋めて隠し通し、自分もその後討ち死にしました。

    大谷吉継の墓 湯淺五助の墓 名所・史跡

  • 大谷吉継と石田三成の「友情」は有名です。吉継と三成は若い頃からの親友でした。関ケ原の戦いが始まる前、三成から「徳川家康を打倒したい」と打ち明けられた際、吉継は最初こう反対しました。「三成、お前には人望がない。家康に勝てるわけがないからやめておけ」あまりにストレートな物言いですが、これは親友だからこその忠告でした。しかし、三成の決意が固いことを知ると、「負けると分かっていても、お前との義理のために命を捨てる」と、西軍への参加を決意します。当時、吉継は重い病(ハンセン病と言われています)を患っており、顔を白い頭巾で覆っていました。ある茶会で、吉継が口をつけた茶碗に病の影響で膿が落ちてしまい、他の武将たちが飲むのをためらう中、三成だけがためらわずその茶を飲み干し、「美味しい茶だ」と笑ったといいます。吉継はこの恩を一生忘れなかったと伝えられています。

    大谷吉継と石田三成の「友情」は有名です。吉継と三成は若い頃からの親友でした。関ケ原の戦いが始まる前、三成から「徳川家康を打倒したい」と打ち明けられた際、吉継は最初こう反対しました。「三成、お前には人望がない。家康に勝てるわけがないからやめておけ」あまりにストレートな物言いですが、これは親友だからこその忠告でした。しかし、三成の決意が固いことを知ると、「負けると分かっていても、お前との義理のために命を捨てる」と、西軍への参加を決意します。当時、吉継は重い病(ハンセン病と言われています)を患っており、顔を白い頭巾で覆っていました。ある茶会で、吉継が口をつけた茶碗に病の影響で膿が落ちてしまい、他の武将たちが飲むのをためらう中、三成だけがためらわずその茶を飲み干し、「美味しい茶だ」と笑ったといいます。吉継はこの恩を一生忘れなかったと伝えられています。

  • 大谷吉継の隣には湯浅五助(ゆあさごすけ)の墓もあります。大谷軍の敗北が決定的になった時、病で目が見えなくなっていた吉継は自害を決意します。その際、五助に次のような遺言を残しました。「私の首を敵に渡すな。病で崩れたこの醜い顔を、敵にさらしてはならぬ」五助はこの重い約束を引き受け、主君の介錯を務めました。五助が吉継の首を戦場の土深く隠し終えた直後、東軍の武将・藤堂高刑(とうどうたかなり)に見つかってしまいます。五助はこう切り出しました。「私の首を差し上げる代わりに、主君(吉継)の首を隠した場所だけは、決して誰にも言わないでほしい。」高刑はこの決死の願いに心を打たれ、約束を交わして五助を討ち取りました。戦後、徳川家康は「大谷吉継の首をどこへやった」と高刑を厳しく追及します。しかし、高刑は五助との約束を守り、「五助を討ちましたが、首の場所までは聞き出せませんでした」と嘘をつき通しました。家康は高刑が嘘をついていることを見抜きましたが、「敵ながら、そこまで固い約束を交わした五助と、それを守る高刑の義心は見事である」と逆に感心し、高刑を罰することなく褒美を与えたと伝えられています。

    大谷吉継の隣には湯浅五助(ゆあさごすけ)の墓もあります。大谷軍の敗北が決定的になった時、病で目が見えなくなっていた吉継は自害を決意します。その際、五助に次のような遺言を残しました。「私の首を敵に渡すな。病で崩れたこの醜い顔を、敵にさらしてはならぬ」五助はこの重い約束を引き受け、主君の介錯を務めました。五助が吉継の首を戦場の土深く隠し終えた直後、東軍の武将・藤堂高刑(とうどうたかなり)に見つかってしまいます。五助はこう切り出しました。「私の首を差し上げる代わりに、主君(吉継)の首を隠した場所だけは、決して誰にも言わないでほしい。」高刑はこの決死の願いに心を打たれ、約束を交わして五助を討ち取りました。戦後、徳川家康は「大谷吉継の首をどこへやった」と高刑を厳しく追及します。しかし、高刑は五助との約束を守り、「五助を討ちましたが、首の場所までは聞き出せませんでした」と嘘をつき通しました。家康は高刑が嘘をついていることを見抜きましたが、「敵ながら、そこまで固い約束を交わした五助と、それを守る高刑の義心は見事である」と逆に感心し、高刑を罰することなく褒美を与えたと伝えられています。

  • 壬申の乱で、大友皇子と大海人皇子の軍勢がこの川を挟んで激しく戦いました。その際、両軍の兵士の血で川底の石が黒く染まったことから「黒血川」と呼ばれるようになったと伝えられています。

    壬申の乱で、大友皇子と大海人皇子の軍勢がこの川を挟んで激しく戦いました。その際、両軍の兵士の血で川底の石が黒く染まったことから「黒血川」と呼ばれるようになったと伝えられています。

  • 徳川家康は、関ケ原の戦い後、約260年続く「平和の礎」を築くための大規模な国家改革を行い、システム作りに非凡な才能を発揮しました。

    徳川家康は、関ケ原の戦い後、約260年続く「平和の礎」を築くための大規模な国家改革を行い、システム作りに非凡な才能を発揮しました。

13いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

この旅行で行ったスポット

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

この旅行記の地図

拡大する

PAGE TOP