2026/02/22 - 2026/02/22
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gianiさん
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平安古地区は、萩で国選定重要伝統的建造物群保存地区に指定される3地区のうちの一つで、この旅行記シリーズでは堀内に次ぐ第2弾です。
観光客が皆無で、のんびりと観光できるのが嬉しいスポットです。萩を特徴づけた夏みかんについて学べます。夏みかんの果実がなっている姿は、ここだけ春が訪れているかと錯覚させます。
夏みかん/武家屋敷/鍵曲といった、萩のアイコンが揃うエリアです。
- 旅行の満足度
- 5.0
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平安古(ひやこ)地区伝統的建造物群保存地区
橋本川に面した狭い地区で、堀内地区に住まう重臣の下屋敷や上級家臣の屋敷で構成され、当時から静かなエリアでした。武家屋敷と地割、150年程の歴史がある夏ミカン畑のある景観が共存する「萩的」光景が広がります。 -
エリアの一部が夏ミカンをメインとした展示スペースになっており、休憩もトイレできる施設でまずお勉強。
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交流館は鉄筋コンクリート造りですが、旧児玉家の庭園が今も残ります。橋本川から水を引いて笠山石の護岸と舟付場が付属する池は、観賞用と水運の実用性を兼ねた舟入式池泉庭園です。
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幕末の地図では児玉三郎右衛門と記載されています。堀内の本邸(上屋敷)に対し、こちらは下屋敷でした。
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児玉家は、家老職にも就ける寄組で2243石の知行を拝領する上級家臣でした。上屋敷は堀内地区の平安古総門に面し、長屋門が現在も遺っています(写真)。
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1952年の土地利用を見ると、景観が保たれている地区を中心に夏みかん畑が広がっています。栽培が広まった背景には、士族の失業対策が関係しています。1876年に士族への恩給廃止が施行されると、困窮する士族を救済するために全国で多くの授産事業が立ち上がりますが、その多くは頓挫します。萩では小幡高政が「耐久社」を設立して経済的価値の高い夏みかんの苗を植え続け、大きな成功を治めます。
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小幡高政(1817-1906)
1858年に萩町奉行、その後江戸留守居役として幕府/朝廷との間を取り持ち、四境戦争では芸州口戦線に参加、新政府では小倉県権令(副知事)を歴任して引退します。キャリアからは有能さが窺えますが、明治維新に身を捧げつつも社会的弱者となった人々を顧みる人格も兼ね備えていました。食用としての歴史の浅い作物を栽培する困難が伴いながら、適応力と信念による粘り強さが成功へと導きます。 -
当初は夏橙と呼んでいましたが、1875年に大阪天満市場の問屋の勧めで夏蜜柑に改称します。夏みかん生産者は1879年に組合を結成し、ラベルには「長州本場萩夏蜜柑」と銘記することにします。
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夏蜜柑の歴史
長門市青海島の大日比地区に、現在も原木が存在します。1700年頃に海岸に流れ着いた果実の種子を撒いたのが経緯です。冬季に果実を搾って酢にしていましたが、幕末には初夏になると酸味が和らぐことが知られ、果物として食べるようになりました。 -
経済的価値
1887年頃は夏蜜柑3個で米1升と交換という高値で取引され、夏蜜柑の木が3本あれば子供を上級学校へ上げられると言われました。生産量は、20世紀初頭で町の年間予算の8倍分に及びました。当時は夏に流通する果物が少なかったために、日本中から注文が殺到しました。 -
好条件
幕末の山口への藩庁移動と明治維新に伴い、上級家臣の広い屋敷は空き家となります。屋敷地は、夏蜜柑を植えるにぴったりの土地でした。土塀や長屋に囲まれた果樹園は、風から樹木を守るのに最適でした。その結果、藩政期の地割と土塀/多くの建造物がそのまま後世まで残りました。 -
観光資源
崩れかけた土塀から覗く夏蜜柑の景観は、1950年代には旅行雑誌に取り上げられ始め、1970年以降の国鉄「ディスカバージャパンキャンペーン」でも取り上げられます。工場や煙を上げない近代化の成果です。 -
1970年代から伊予柑/八朔/ネーブル等が広く流通し、輸入果物の増加や嗜好の変化に伴い、夏蜜柑は需要と価値が減少し、作付面積も減少していきます。
では、鍵曲館を出て、現地を歩いてみます。藩政時代、城下の三大幹線の一つ(平安古総門~萩往還口)をトレースしてみます。 -
上級家臣宅で固められている堀内地区(三の丸に相当する)から城下へ抜ける3本の橋の一つ、平安橋を渡ると平安古地区です。
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ここには、平安古総門があり、番所が設けられました。
夜間(半日間)は扉が閉められ、特別な手形を所持する者だけが通行できました。
明治4年に廃止されます。 -
総門の少し手前には、かいまがり館の元所有者児玉家の上屋敷があり、長屋門が現存します。長屋内に門番や使用人を住まわせ、防衛機能を果たします。
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門を潜って、長屋門の反対側も見学できます。
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平安橋
1652年の絵図に木橋として描かれ、1770年頃に現在の石橋に架け替えられたと思われます。全長6m/幅4m/高さ2.5m。平安橋 名所・史跡
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外堀を兼ねる新堀川を渡ります。往時を偲ばせる川幅が今も確保されている貴重な景観です。
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橋を渡ると平安古地区です。
道路沿いは町人町で、萩の町奉行管轄下28町を構成する平安古一丁目/二丁目です。 -
本道を逸れて、平安橋右岸をまっすぐ進んで新堀川が橋本川と合流するところを左に折れると、
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毛利登人生誕地
毛利敬親世子の近従/目付を委ねられた重臣で、第一次長州征伐の際に野山獄で処刑されます(1864)。 -
現在は穏やかな景観
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平安橋に戻り、今度は左岸を端まで進むと、
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渡辺内蔵太旧宅
藩主/世子の胡椒として仕えるも、第一次長州征伐に伴い野山獄で処刑されます。 -
再び平安橋に戻り、本道を進みます。
坂倉食料品店の新店(しんみせ)は味があり、町人町の頃を彷彿とさせます。 -
250mほど進んだ十字路に岡村商店があります。
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今まで進んだ道沿いが藩政時代の平安古一丁目で、岡村商店からが二丁目になります。
ここを左折して寄り道します。最初の十字路の右前には、 -
久坂玄機誕生地
玄瑞の兄で、緒方洪庵の適塾で塾頭を務めた秀才でした。藩で初めての種痘実施し、31歳で最年少の好生館教授に就任します。海防に関わる多くの洋書を翻訳し、藩の将来に大きな影響を与えました。
十字路を左折すると、 -
村田清風別宅跡
天保の改革を促進した村田清風の別宅。藩政に携わった1820-45年にかけて居住。長屋門は当時のもので全長15m。村田清風別宅跡 名所・史跡
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敷地は幾らか整備されています。井戸も遺っています。
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長屋門を裏から見た感じ。
久坂玄機生誕地に戻り、真っ直ぐ進むと、 -
戻って、そのまま直進すると、
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佐久間佐兵衛(1833-64)旧宅地があります。
明倫館の助教として尊王攘夷を推し進めますが、第一次長州征伐に伴い処刑されます。佐久間佐兵衛旧宅地 名所・史跡
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再び本道へ戻ります。
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200mほど進むと平安古町交差点。国道191号線を横断します。
この先は、平安古でも完全な武家町でした。 -
R191を渡る前に左折します。
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満行寺
坪井玄蕃開基のお寺。石山の合戦の際に毛利家から本願寺を助成するために派遣され、第11世顕如上人に帰依し出家し、毛利輝元から寺地を拝領します。山門は萩へ移転(1605年)して間もなくの建築で、本堂は1721年に再建されたものです。満行寺 寺・神社・教会
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本堂が1685年築の古刹。平安古地区に因んで、1703年に平安寺と改名しています。
平安古地区の名称は、元々鎮座した平安寺に因みます。現在の平安寺とは別のお寺です。
では本道に戻ります。平安寺 寺・神社・教会
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平安古町交差点の左前にある平安古会館(自治会館)の敷地内には、
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柴田家門(1862-1910)生誕地。
田中義一の竹馬の友であり、第三次桂内閣では文部大臣を務めます。 -
更に進むと、久坂玄瑞(1840-64)生誕地。
藩医の三男として生まれ、藩の医学所「好生館」に入るも医業を好まず、松下村塾へ通い「村塾の双璧」と呼ばれ、松陰の妹と結婚します。藩論を尊王攘夷へ転換することに成功しますが、禁門の変で敗れ自刃します。久坂玄瑞誕生地 名所・史跡
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他の史跡と違い、石碑だけでなく土地付きで情緒あるスポットです。
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玄瑞妻の文(ふみ)は、ふみにゃんしてキャラクター化されています。大河ドラマで文を演じた井上真央さんを意識したデザインだそうです。
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武家町に入ると、道幅が広くなっています。藩政時代の武士>町人の演出を継承しています。
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曽祢荒助(1849-1910)旧宅地
出自が一門筆頭宍戸家ということもあってキャリア路線を歩み、大蔵大臣として日露戦争の戦費調達に奔走、子爵に叙せられます。曽祢荒助旧宅地 名所・史跡
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平安古南団地
景観に配慮した外見です。 -
Y字路です。
茶色いアパートのある左分岐方向へ進めば、本道です。 -
1.4kmほど進むと、萩往還に合流しました。写真右は合流点に位置した旧当島勘場跡。
では、平安古地区へ戻ります。先ほどのY字路を右折します。中村製菓本舗 グルメ・レストラン
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高大な塀と夏ミカン畑が現れます。
ここを左折すると、 -
古い建物の斜め向かいには
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田中善一別邸
萩城下で生まれた義一は、萩の乱に加わった後に陸軍に入り、陸軍大将/内閣総理大臣を歴任します。積極外交で、15年戦争の下地を作りました。田中義一別邸 名所・史跡
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幕末の地図では毛利筑前の屋敷となっています。
毛利筑前守元亮は、右田毛利家(一門第2席)16000石当主で、幕末は三田尻防衛に当たりました。自身は養子で、実家は吉敷毛利家(一門第4席)です。 -
舟入式池泉庭園が存在し、橋本川から直接舟を接岸させることができました。
堀内にあった右田毛利家上屋敷跡は、現在県立萩高校となっています。 -
広い敷地は、かんきつ公園の夏ミカン畑として活躍中。
田中邸になる前は、小幡高政邸でした。小幡は自ら率先して敷地内に夏蜜柑を植えました。 -
園内には、開花基準となる3本の木もあります。5月に開花し、収穫は5月以降なので、気の長い話です。
この時期に橙の色合いは、心をときめかせる素晴らしいアイコンです。 -
昨年移植されたばかりの日本最大の夏ミカンの樹木。
原産地の青海島から萩へ持ち込まれたうちの1本です。 -
参考までに、温州ミカンの木は実がありません。
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長閑な田中邸。
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舟入は、当時の姿からだいぶ手が加えられています。
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外側から見ると、こんな感じです。
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河川敷側にも、公園出入口があります。
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田中邸を後に公園の塀沿いに進むと、
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突き当りを左折します。
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その先は直ぐに右方向へ折れます。
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こうしたクランク状の道を鍵曲(かいまがり)と呼びます。道をクランク状にすることで敵の攻撃速度を遅らせ、滞留箇所で攻撃できる防衛上の地割。
平安古の鍵曲 名所・史跡
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もう一度鍵曲があります。
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右の白い塀が、かいまがり館(旧児玉家下屋敷)です。
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舟入式池泉庭園を持ちます。
旧児玉家屋敷跡 (平安古かいまがり交流館) 名所・史跡
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船は水路を通って敷地外へ出て、
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橋本川へ合流します。
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河川敷から見た水路
明治維新後、水路の殆どは幅が狭められています。 -
かいまがり館を出ると、向かい側には
萩市平安古地区伝統的建造物群保存地区 名所・史跡
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坪井九右衛門旧宅
坪井家は大組頭で157石。九右衛門は養子で、実家は田布施の佐藤家。村田清風の並び称されたが、佐幕派とみなされ1862年に野山獄で粛清されます。写真は長屋門で、門番が門に隣接して住まいます。坪井九右衛門旧宅 名所・史跡
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母屋/蔵も当時の様子を保っています。
※九右衛門実兄の曾孫は、岸信介/佐藤栄作兄弟です。 -
当時の絵図を見ると、かいまがり館は児玉家住宅の庭園部分のみを占有し、今まで歩いてきた周囲は屋敷地だったことが分かります。
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R191が正面に見えます。
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その先は、毛利登人旧宅へ通じます。
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引き返して、再びR191へ戻ります。
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下り坂になっています。頂上部の標高は5.2m。平安古の武家屋敷が橋本川の微高地(自然堤防)に築かれたことが分かります。
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すきやを右折すると、「かいまがり館」の裏側には、宍戸左馬之介(1804-64)旧宅跡があります。寄せ組に次ぐ大組の家系で、大坂藩邸の留守居役として尊王攘夷運動に奔走するも禁門の変で大坂藩邸を幕府に引き渡し、野山獄で処刑されます。
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おしまい
次は、藩校が置かれた川向地区を巡ります↓
https://4travel.jp/travelogue/11990063
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