2025/12/21 - 2025/12/21
1位(同エリア7件中)
gianiさん
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この旅行記スケジュールを元に
コルシカ島の中央に位置するコルテは、交通の十字路でもあり、島の天王山です。そのため歴代為政者はコルテ掌握に努めます。
現在のコルテは、頂部に三重に囲まれた鉄壁の要塞が築かれ、城塞慣れしている欧州人をも感嘆させます。天敵を寄せ付けない樹上の鷹の巣を連想させる岩盤頂部に聳え立つ城館は、コルシカ人ヴィンチェンテッロ・ディストリアが1419年に築いたもので、他国支配からの独立を目指すコルシカ人にとって心の拠所となります。他国の支配が及びにくい山岳都市コルテは、独立運動において特別な歴史を背負います。
FLNCのテロ活動も記憶に新しいですが、2014年に武力闘争の中止を宣言し、2018年以降は県の枠を廃止して単一地方公共団体となり、より大きな地方自治権を勝ち得ています。
- 旅行の満足度
- 5.0
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コルテ到着は夜だったので、周囲は真っ暗でした。
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レジデンスタイプの宿で朝を迎えます。
ヴァニア パーク ホテル
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徐々に町の全容が明らかに。
山間部だと頭では理解していましたが、いざ景色が目の前に現れると言葉が出ません。 -
コルテの人口は8000人で、それとは別に5000名の大学生が滞在しています。
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左側には、コルシカ・パスカル・パオリ大学のグリマルディキャンパスが。
コルテは大学都市でもあります。 -
パスカル・パオリによって1765年に設立されました。
紆余曲折の末、1981年に総合大学として復活しました。 -
レストニカ川を渡ります。
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コルシカ2大河川であるタヴィニャーノ川を渡ります。
岸辺でローマ時代の浴場跡が見つかり、入植の歴史が古いことが分かります。タヴィニャーノ(Tavignano)川は、ローマ時代の州都アレリアでティレニア海へ注ぎます。写真のポンテベッキオは、旧市街へアプローチする数少ないルートです。 -
この歩行者用橋の右側で両川が合流します。
コルテの街は、2つの川が自然の濠となっています。自然の地形と人間の構築物によって、中世から要塞都市として歴史を歩みます。 -
コルテ略史①コルシカの十字路
コルシカ島中央部に位置するコルテは、南北縦断/東西横断路の交差する島の十字路です。タヴィニャーノ川を下ればアレリア、道のりで10km離れたゴロ川を下ればマリアナへ出られます。コルテを手中に治めるのは、時の為政者にとって重要課題でした。 -
コルテ略史②独立の象徴
1419年にヴィンチェンテッロ・ディストリアが岩山の頂上に、鷲の巣のような城塞を築きます。ジェノバに征服されますが、城塞は独立の象徴としてコルシカ人の目に映り、ジェノバへの抵抗が何度も試みられます。 -
コルテ略史③四十年戦争
18世紀になるとジェノバ支配は大きくほころび、沿岸部の幾らかを実効支配するにとどまります。1755年にコルテを事実上の首都とするコルシカ共和国が樹立され、パスカル・パオリが首長に選出されます。啓蒙主義を実践した国家は、大国の承認を得られませんでした。ナポレオンの父は、パオリの副官を務めます。 -
コルテ略史④フランス統治
1768年にジェノバはコルシカをフランスへ売却し、コルシカ共和国はフランス軍に敗れて瓦解します。1789年に始まるフランス革命でパオリは復権しますが、ジャコバン派が恐怖政治を行うと訣別し、1794年にイギリス保護下のアングロコルシカ王国を樹立します。 -
コルテ略史⑤要塞の強化
1796年にナポレオンが侵攻することでアングロコルシカ王国は終焉します。七月王政(1830-48)の下でコルテの要塞は強化され、1982年に外人部隊が退去するまで軍事施設の役割を果たします。1997年からはコルシカ博物館として次の人生を歩んでいます。 -
再びポンテベッキオ。古い橋という意味です。別名ジェノバ橋とも呼ばれます。旧市街へのアクセスは、アジャクシオ方面からこの橋を渡るか、反対側のバスティア方向からの2か所のみです。
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斜面をジグザグに道路が通ります。ヘアピンカーブの連続です。斜面にへばりつくコルテの街を進みます。
ポンテベッキオから続く道は、1788年に建設が決まったコルテの目抜き通りです(後述)。 -
崖から沁み出る湧水を汲む場所が残っています。汲んだ水は、頭に載せて運びました。中東/アフリカと同じです。
目抜き通りとはいえ、自動車同士がすれ違えない狭い幅で、一方通行道路の標識。でも戦略上重要で、ルート決定には陸軍大臣が最終決裁を下しました。 -
こんな感じで、コルシカ女子は子供の頃から訓練されています。
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Prof.サンティアージ通りをゆっくりと上っていくと、パスカル・パオリ広場に出ます。
ホテル デュ ノール ホテル
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パスカル・パオリ(1725~1807)
コルシカで最も敬愛される人物です。コルシカの独立運動をリードし、1755-69年にはコルシカ共和国のトップを務めました。議会制民主国家で、啓蒙思想に基づく憲法は、主権在民を体現するゆえに高く評価されています。教育も重視し、1765年には総合大学も開設しています。 -
パオリ広場の先はパオリ通りで、街を出てバスティアまで道が続きます。
旧市街を探検します。広場から階段を上って、上を目指します。 -
旧市街の殆どの道は馬車が通行できない歩行者専用路でした。
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坂道の先の小さな広場の左側には、受胎告知(annnunziata:アンヌンツィアータ)教会が。字義は告知された人(女性形)で、聖母マリアの受胎告知を示すカトリック圏の慣用表現です。
15世紀に建設されたコルテ市街の歴史とイコールの街のシンボル的教会で、単に教会と記載されたりします。1450-59年にかけて建設され、現在は1655年に改築されたものです。 -
教会広場またはガフォリ広場
bar de la haute ville で検索すると、ビューがヒットします。
ジャン=ピエール・ガフォリ(1704-53)の銅像が。17-18世紀にかけて後ろの建物にガッフォリ家が住んでいたそうです。 -
J.P.ガフォリは、コルシカ独立運動におけるパスカル・パオリの先駆者でした。1736-40年に存在したコルシカ王国において、パスカルの父と共に指導的立場にいました。コルシカ共和国(1755-)建国途上は将軍に任命されますが、反対勢力に暗殺されます。これを機に、パスカルは亡命先からコルシカへ戻ります。ガフォリの家には、ジェノバ軍による教会広場への攻撃の際に撃ち込まれた銃弾の跡が今も残っているそうです。
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広場から階段を上ると建物にPalais nationalという銘板が見えます。
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国務宮殿(Palais national)
ジェノヴァ政府の副官住居として、1600-30年にかけて建てられました。1755-69年までは、コルシカ共和国の議会を初めとする政府機関が置かれました。20世紀には博物館として使われました。 -
アルム広場には、アリギ・デ・カサノバ邸(16-18cに所有)が建ちます。パドヴァ公爵となったジャン=トマ・アリギ・デ・カサノヴァは、1778年にこの家で生まれました。
1765年には、新婚のナポレオンの父シャルル・ボナパルト(1747-85)一家がカサノヴァ邸に住んでいました。 -
18歳のシャルルと15歳のレティツィア夫婦は、コルシカ共和国政府に参画するためにアジャクシオからコルテへ移住し、シャルルはパオリの副官となります。ナポレオンの兄ジョゼフは、1768年に此処で生まれました。二人は1769年のポンテノヴォの戦いにも加わり、パオリは英国へ亡命、ボナパルト家は帰郷し3か月後にナポレオンが誕生します。
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幼いジョセフの事を考えて亡命は諦めましたが、コルシカ独立とパオリについて子供たちに教え込みます。成長したナポレオンは、パオリに親孝行とも言えるほどの尊敬と忠誠心を抱き、22歳の時には著作を亡命中のパオリに献呈しています。
コルテの景観は、ジェノバ共和国による植民地支配(1285-1768)への抵抗が表現されています。手段は、①外部の政治勢力に頼る②あくまで自力で達成するに分かれ、双方で内部分裂を引き起こし「復讐」が伴うことが度々でした。 -
アルム広場の反対側は、要塞です。ヴォーバン様式なので、フランス統治時代のものと分かります。左には、パレ・ナシオナルが写り込んでいます。
城塞内は、封建時代から1982年まで軍事施設でしたが、市が取得してから整備が進み、1997年以降は博物館を伴う史跡(入場料が必要)として一般公開されています。では要塞(シタデル)の歴史を展示を通して辿ります。 -
Vincentello d'Istria(1380s-1434)
ヴィンチェンテッロ・ディストリアは、ジェノバへの組織的抵抗という点で顕著な働きをした最初の人物です。コルシカ南部出身の貴族の出で、ジェノバと交戦中のアラゴン王国(現スペインの一部)と手を組み、戦功により1407年コルシカ伯に任命されます。
1419年にはアラゴン王アルフォンソ5世によってコルシカ副王に任命され、ボニファシオ/カルヴィ(当時のジェノバの重要拠点)の中間のコルテに城を築いて政府を樹立します。1434年にジェノバで斬首され、1437年にコルテもジェノバの手に落ちます。 -
ディストリアが1419年に築いた城塞は、谷間から111m上方に突き出た岩塊に位置します。自治は15ないしは18年間でしたが、総督ではなく副王として統治したことも含めて、コルシカ人には大きなインパクトを残します。
ジョヴァン・パオロ・ダ・レカを以て、封建領主による抵抗の時代は終焉します。 城塞中央には、四角塔と地下室があり、1535年頃には城壁に2つの塔が追加されました。 -
1541年に描かれたコルテ
城塞の壁に住居と礼拝堂が築かれていました。オリジナルの塔と1535年頃増築された2つの塔によって城壁が強化されています。 -
現在の様子
ルイ16世の治世中に大きく手を加えられました。 -
Sampiero Corso(1498-1567)
15世紀末からジェノバはイタリア戦争に巻き込まれ、度々フランスの侵攻を受けます。サンピエロ・コルソはフランスの傭兵として、アンリ2世を説得してコルシカ遠征を行います。1553年にコルテを征服するも、翌年にはジェノバの傭兵アンドレア・ドーリアに奪い返されます。1559年のカトー・カンブレジ条約で、フランスはイタリア介入を放棄します。サンピエロは旧縁のメディチ家を頼って、1564年にコルテを征服するも、数か月後にジェノバのステファノ・ドーリアに奪い返されます。 -
コルシカ独立戦争(通称40年戦争(1729-69))
前年の塩税徴収をきっかけに島全体にジェノバへの抵抗が広まり、1730年に十二貴族評議会の一人L.ジャフェリが将軍(指導者)に選出されます。ジェノバの国力は既に低下しており、オーストリアに鎮圧を委ねます。
1732年には再び蜂起し、1733年に将軍としてL.ジャフェリ/ヒシャント・パオリが選出、オーストリアはポーランド継承戦争に手一杯で、大きな空白が生じます。J.P.ガフォリも合流して、1735年にコルシカ王国を樹立します。 -
コルシカ王国
テオドール・ド・ノイホフを君主とし、憲法や国歌等を制定した本格的な立憲君主政体でした。聖母マリアはコルシカ島では特別な存在で、1735年1月30日の独立宣言において守護聖人として無原罪の聖母マリアを選び、国章にも描かれました。聖母マリアに捧げられた宗教歌Dio vi salvi Reginaが国歌として採用されました。ジェノバはフランスに鎮圧を依頼して1739年に王国は崩壊します。
ガフォリは将軍に選出され、オーストリア継承戦争中にも蜂起し、1746年に一時コルテを占拠します。 -
写真は、テオドールの下で1736年に鋳造された5セント銅貨(通貨単位は不明)。
上が表面、下が裏面です。
独自の通貨を流通させる点など、本格的でした。 -
ピエーヴ(pièves)
ジェノヴァ時代から、島はピエーヴと呼ばれる66程の町村単位に細分されました。範囲は礼拝堂が受け持つ区域(小教区)で、カトリックが深く浸透した地域では行政区分としても実際的な区分でした。時代と共に、民意を問う選挙区としての意味合いも加わります。ガフォリ/パオリ等は、ピエーヴで「国家の将軍(Général de la nation)」に選出されました(単に将軍(Général)と呼ばれます)。1755年にコルシカ共和国が樹立される際も、ピエーヴとジェネラルが大きな役割を果たします。 -
コルシカ共和国とP.パオリ
1753年にガフォリが暗殺されると、コルシカ王国崩壊後ナポリ王国へ亡命していたパスカル・パオリが父に代わってコルシカへ戻ります。ピエーヴから将軍に選出され、1755年にコルシカ共和国を樹立します。三権分立等を反映した憲法を起草し、批准されます。最高指導者に選出され、1765年には国立大学も開設します。首都はバスティアでしたが、ジェノバ総督の本拠地だけあって制圧できず、1761年にコルテは暫定首都から正式な首都になります。コルシカの復讐という文化は、ジェノバの法が公正を全く反映していないことが大きな原因でしたが、この時期は復讐の件数が激減します。 -
コルシカ旗
コルシカ語で「バンデラ・テスタ・モーラ」として知られるムーア人の頭の旗は、白地にヘッドバンドを巻いた左横顔を描いています。1755年にパスカル・パオリによってコルシカ共和国の旗として正式に採用されます。現在も、コルシカのシンボルとして公私あらゆる分野で使用されます。
ムーア人の頭の起源は諸説ありますが、アラゴン王国由来というのが有力です。 -
独自の通貨も発行します。
上:1764年鋳造の20セント銀貨
下:1768年鋳造の20セント銀貨 -
フランス領へ(1768~)
ジェノバは1768年のヴェルサイユ条約で、今後10年間の経費を支払うことを条件にフランスへ軍隊派遣を要請します。但し、支払不可能な金額だったので、事実上のコルシカ譲渡でした。沿岸部ボルゴの戦いでは、共和国が勝利します。フランス軍司令官のヴォー伯爵は兵の規模を7倍に増やして砲装も強化したうえで再チャレンジし、1769年5月9日にコルテ北東のポントノヴォの戦い(写真)で勝利します。22日にコルテが占領されると、パオリは英国へ亡命し政権は崩壊します。 -
フランスの懐柔策
コルシカ総督となったヴォー伯爵は、懐柔策として共和国参画者を含む100名を貴族に叙任します。副総督のちに総督を務めたマルブフ伯とボナパルト家は昵懇の仲になり、レティシアと不倫の噂も出ます。貴族特権という飴によって、統治は一定の平穏を維持します。 -
コルテ都市計画(1769)
初代総督ヴォー伯爵は、フランスの威信を示すとともに共和国時代の記憶を消し去るための新しい都市計画(写真)を進めます。コルテはコルシカ島の中心に位置し、民政/軍事の両面において最も重要な拠点でした。最高裁判所/大学/神学校/司教館/行政本部を集約し、強力な駐屯地/食糧貯蔵庫が設ける計画でした。左下に突き出たダイヤ形状のサン・マルセル稜堡が印象的です。一辺500mほどの正三角形の面積で、図上の南東方向が北です。革命前の単位は、1toise(トワーズ)=1.949mです。 -
1772年の修正案
上の計画は対岸のガフォリ丘(矢印)からの砲撃に弱い等の防衛上の問題が発覚し、1772年に周囲の丘陵地帯を囲む巨大な要塞都市に修正されます。市街で建設する際はこの都市計画図を閲覧の上で、図上の街路配置に従う必要がありました。図上の左方向が北です。城塞とサン・マルセル稜堡、ヒッポダモスの都市計画に基づく(格子状の)市街地が表現されています。レストラン・パグリア・オルバ 地元の料理
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費用と規模が大きすぎたために、計画は大幅に縮小されます。まず取り掛かったのは鷲の巣の麓にある旧カステラッチ地区の要塞化で、城壁/稜堡/兵舎の建設です。サン・マルセル稜堡も並行して着工されます。住民の反乱を阻止しつつ島へ上陸した敵を迎え撃つ能動的ミッションと、周囲が制圧された際に部隊の避難所として援軍が到着するまでの3か月間籠城するための能力が求められました。
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この地区は全人口の1/3に相当する600名(76世帯)とサンルイ礼拝堂(1740年アリギ家によって建立)が既に存在し、2or3階建ての家々は岩盤の上に建てられ、タヴィニャーノ渓谷に平行する階段(3段)状の街並みを構成します。兵舎中庭と地区最上部の標高差は17メートルあり、馬車用のスロープが設けられています。
入口(6)の先には、衛兵隊が詰めています(7)。右にパドゥア兵舎(8)とベーカリー(9)、左に建物(10)、ピンク色は民家で取り壊し予定の指定建造物(1,24,183)です。 -
Citadelle(城塞/牙城)
都市防衛システムの要です。カステラッチ地区の表側を城壁(ramparts)で囲みました。写真②のパドゥア兵舎の左右に2つ、⑤右奥の3か所に稜堡(bastions)が配置されます。1670年代からフランス軍が採用したヴォーバン式要塞に基づき、城壁の間に菱形の稜堡を設けて死角を無くしています。③④⑥⑦は、18世紀には着工できませんでした。 -
上の図(6)の入口です。入口は唯1箇所だけです。
3階建てのパドゥア兵舎が奥に写っています。カステラッチ地区で最も標高の低い地点です。 -
パドゥア(Padoua)兵舎
最大600名を収納し、両端は将校用の宿舎、それ以外は中央に階段、階段周りに4つの部屋を十字に配置したモジュールを細長く繋げていく構造です。地上3階建てで、地下は武器庫と倉庫として使用されます。兵舎の奥には、ブランジュリーが設置されます。コルシカ島内陸部では唯一の要塞なので、重要な軍事拠点でした。 -
火薬庫(1780~84年建設)の平面図と断面図
周囲の丘陵地帯からは見えにくい場所に、アーチ型の屋根が厚い土層を支え、砲弾の衝撃から守る構造です。床は2段の木製格子で構成され、火薬樽を地面の湿気から守りました。砲弾が室内に侵入するのを防ぐため、換気口はS字型に設計され金属製の格子で覆われました。21tの火薬を貯蔵でき、要塞の大砲(23門)に供給しました。 -
水汲場の平面図、断面図、立面図 1776年
1769~78年にかけて建設された4方向に噴出口を設けた水汲場は軍の水汲場/稜堡水汲場と名付けられ、夏季には毎分950リットル、冬季には1,200リットル以上の水を供給しました。直径5m高さ10mです。 -
駐屯軍の需要と比べて過剰な供給量でしたが、市民が自由に水を汲めることで軍の存在を市民に高評価させるのが狙いでした。豊富な水量ゆえに水路(canal)が下町まで掘られ、流域11か所の庭園に水を供給し、市民が恩恵を受けました。
巨大な建造物は、グーグルマップでrue de la fontaineで検索し、方角を調整するとバッチリ写っています。 -
1781年着工予定の計画図
カステラッチェ地区の城塞がひと段落し、市街地を拡張して要塞化しようとします。ピンク色は既存の建物で、殆どのエリアが未開発です。シタデルの東側とポントベッキオの横に衛兵所を設けて、通行をチェックできます。一方で、1772年の図で立ち退き確定だった物件が全く立ち退いていない状況も垣間見られです。この計画は、実行されずにフランス革命を迎えます。 -
1789年着工予定の計画図
1788年に陸軍大臣が承認した新道路が描かれています。現在のプロフェッサーサンティアージ通り/パオリ広場/パオリ通りを抜けるルートで、この年に始まったバスティア~アジャクシオ間の国道建設のルートに含まれています。陸軍工兵隊は現在のフェラッチ大佐通りを提案しましたが、道路局の役人は勾配の緩い現ルートを提案し、陸軍大臣のセギュール元帥の決裁を仰いだ内容です。 -
フランス革命(1789~92)
王政は覆され、11/30にコルシカは(書類上も)正式にフランス領となります。革命は混乱を極め、1790年にはコルシカを1県に纏めたかと思えば、1793年には2県に分割します
英国に亡命していたパスカル・パオリは1790年にコルテへ戻り、県(島)代表に選出されます。本国が1792年に王政を廃止して第一共和政へ移行すると、考えの違いが顕在化します。翌93年にジャコバン派が独裁(恐怖)政治を開始すると、コルシカは共和国を離脱して王党派と同じく第一次対仏同盟盟主の英国に接近します。ジャコバン派のナポレオンは副司令官としてコルシカを攻撃するも、失敗します。 -
アングロコルシカ王国(1794-96)
パオリは、1794年にコルテを首都とするアングロコルシカ王国を樹立します。現在の英連邦に近い関係性です。しかしトゥーロン解放を始めとするナポレオンの活躍で対仏同盟国は英墺のみになり、英国軍が引き上げるとパオリは亡命を余儀なくされます。翌96年にはナポレオン率いるイタリア方面軍がコルシカを制圧して、再びフランス領へ戻ります。 -
カステラッチェ地区住民の暴動
フランスによる制圧でコルシカ王国が崩壊した1796年、およびナポレオンが失脚した1814年の政権交代に伴う権力空白期に、カステラッチェ地区の住民はシタデルを占領し略奪を行いました。敵は文字通り内部にいたのです。政府は1773年以降、地区内の家屋の修繕/改装を禁止して住民の立ち退きを促しますが、1820年現在で一軒も立ち退いていませんでした。 -
弱点克服①
七月革命を経て即位したルイ・フィリップ(在1830-48)は、カステラッチェ追放勅令を布告します。タヴィニャーノ渓谷側に建物が連なるためにその部分の城壁が建設できず、防備が手薄でした。さらに住民は、タヴィニャーノ川沿いに作られた小道からシタデル内にいつでも自由に出入りしていました。改善策となるのが、写真下1834年着工の計画で、黄色で建設予定の城壁/稜堡が描かれています。上は現状(1833年)を記したものです。 -
弱点克服②
パドヴァ兵舎と武器庫/城郭部の間に民家が立ちはだかるために、駐屯部隊は分断された状態でした。しかも住民は反抗的で、いざとなると銃で武装して抵抗します(1796,1814)。立ち退きが急務でした。図(1839年現在)の青枠は谷側の城壁建設のために取り壊し済みの家屋(22棟)、青色は買収済み未解体(10)、桃色は買収予定(28)、桃枠は買収未定(13)です。 -
現存する住宅の価値を示す表(1839年)で、土地家屋等詳細に記述されています。結論を述べると、1846年に立ち退きが完了します。
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代替住宅
1845年には、ウ・カソーネ(大きな家の意)と呼ばれる集合住宅が完成し、300名の立ち退き住民が移転します。さらに300人の家(写真)と呼ばれる立ち退き住民用の集合住宅もプロフェッサーサンティアージ通りに完成します。地上7階建て(屋根裏を含む)の巨大な建築で、現在でも存在感があります。 -
1847年の計画
広場を挟んでパドゥエ兵舎(桃)の反対側に新たに陸軍病院(橙,白)を建設します。城塞で保護された安全な場所に患者を収容し、当時としては画期的な浴室も設置されていました。1853年元日に供用を開始します。 -
1848年の計画
1776年までに完成した稜堡(Bastion1~3)に加えて、建設中の陸軍病院(橙,白)の両側(B4,B7)と裏の渓谷側(B5,B6)の4つの稜堡が完成しています。 -
完成した防御システム
入口は6つの機能で守られます。今は取り除かれていますが、①入口の周りに半円形の壁が築かれ、狭い隙間からしか入れませんでした。②その先は濠(写真)と③跳ね橋を突破する必要があります。④堡塁からの砲撃⑤城壁の銃眼からの銃撃の中でこれらを行う必要があります。 -
内側から見た入口。入口の壁は、復古王政期にかなり分厚くなっています。入口を抜けると、⑥横の衛兵舎に詰める守衛隊の攻撃を受けます。これらを克服しても、城塞の1層目を突破したに過ぎず、制圧できるのはパドゥア兵舎のみです。このエリアは、日本の城郭でいう三の丸に相当します。2層目(≒二の丸)、3層目(≒本丸)を突破しなければなりません。
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衛兵所を越えた広場へ出ると、城塞の上に陸軍病院が建っています。第二帝政期に完成しただけあって、優雅さが感じられます。病床は3割未満の稼働率で、3年後には兵舎へ転用されます。セリュリエ(Sérurier)兵舎と呼ばれ、現在はコルシカ博物館常設展のスペースとして使用されています。ガラス張りの部分は、博物館の新館です。
コルシカ博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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二層目の堡塁(B4-7)へは、大砲を移動させるためのスロープを備えた壁沿いの階段(トンネル)でのみアクセス可能でした。写真のトンネルはB4,B5,B6へ通じます。左はパドゥア兵舎、右はセリュリエ兵舎の立つ2層目の城塞です。
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新館は、稜堡(bastion)7のスペースに建てられています。このように屋外へ出る通路と繋がり、バスティオン時代の銃眼等を間近に見学できます。
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B1まで移動して、B7を俯瞰します。右にはセリュリエ兵舎が写り込んでいます。新館は企画展の展示室/チケットオフィスになっており、屋上は芝生が植えられて緑化されています。
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ヴォーバン要塞の様式に従って複雑な角度で曲り、死角を無くしています。
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B1とB7は隣り合わせ、連続しています。
絶壁ではなく傾斜に面したB1は最も攻撃を受けやすいので様々な工夫が凝らされています。4段階の射撃防御と、土塊で形成された城壁が設けられました。セリュリエ兵舎からの援護を受けやすくなっています。 -
B1は、鋭角の三角形です。
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タヴィニャーノ渓谷側に土塁へ登る階段があります。
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土塁の間は、こんな感じです。兵士が身を潜めながら敵陣を見下ろして攻撃できます。
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階段状にすることで、弱点をカバーしています。
最上段から見ると、B1に面する敵地は、攻撃に有利な地形だと分かります。 -
1830年代に民家を立ち退かせて築いた城塞です。正面には、城塞に沿ってカステラッチェ地区へ通じる山道が残っています。渓谷沿いの民家や畑へのアクセスもあって、自然発生的に誕生した生活道路です。
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19世紀の古写真
城塞は完成していますが、小道を使って住民が自由に出入りしていた様子を想像できる景色です。 -
セリュリエ兵舎の奥にも巨大な平屋が段々に並びました。
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現在は、1990年代に建てられた(3段を跨ぐ)1棟の建物が景観に溶け込むように埋め込まれています。
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その先には、B6があります。
このエリアに76軒の住居と600名が住んでいたと考えると、軍事施設としてかなり難ありだったと痛感させられます。 -
隣にはB5です。内部の標高が下がっているので、アーチで嵩上げして周囲の城壁と高さを合わせることで、防御の弱点にならないよう配慮されています。B5,B6は、2層目と3層目の中間層的ポジションです。
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コルテの城郭が一番高い所に位置します。3層目です。ルイ16世の時代に立派な階段が整備されました。日本の城郭に例えるなら、三の丸/二の丸の先にある本丸です。当時は、アーチ状のB6を経由しなければ到達できませんでした。
入口が塞がれ、重機が駐機され、中へ入れませんでした。 -
2022年から、リフォーム工事をしているみたいです。ちなみにグーグルマップのストリートビューでは城郭内は道路扱いで、城壁に沿って一周できます(笑)。
写真上では、15世紀オリジナルの天守閣と地下室の基礎が写っています。 -
火薬倉庫の屋根が樹木と共に見えます。
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B4からは、受胎告知教会、パレナシオナル、ボナパルト家が住んだ家の3軒がまとめて写っています。
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B4の奥には、広場から通じるスロープ付き階段トンネルが顔を出しています。
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トンネルの出口には、1849年竣工のプレートが填め込まれています。左には、軍司令官(陸軍大佐)官舎とセリュリエ兵舎があります。
ここから火薬庫と城郭部を眺めると、民家が並んで両者を隔てていた頃の不便さが実感できます。 -
過剰なインフラ
住民に威厳や畏れを植え付けるためとはいえ、パドゥア兵舎は定員600名に対して実際は400名以上が同時利用することはありませんでした。軍用病院も120床のうち30床を超えて使用されることはありませんでした。さらには、シタデルが実戦で使用されることもありませんでした。 -
終焉
大砲が著しく進歩(砲丸→砲弾,ライフリング弾道を伴うアームストロング砲の登場)した1880年代には、200年以上経過したヴォーバン式防御システムでは対応できなくなり「難攻不落」という看板を降ろすことになります。とはいえ軍施設としては使用され、地域経済も鑑みて1962~82年までは外国人部隊(中隊)が駐留します(現在は郊外へ移転)。1942-43年には、イタリア軍が占拠しました。
三重の防御層を持つその壮麗な景観は、ヨーロッパにおいても他に類を見ないために文化遺産/観光資源として活用されています。 -
シタデル沿いにカランケ(Calanche)地区へ移動します。
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長閑な光景です。
ユ・ミュゼウ 地元の料理
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城郭の先に岩塊があり、展望台になっています。
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もう一枚
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ベタな構図は、この展望台から望めます。
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真下は渓谷。
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パスカルパオリ大学グリマルディキャンパスが見えます。封建時代には、フランシスコ会の修道院が建っていました。
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麓へ降ります。
右にはカルティエ・カランシュ(カランシュ地区)というフランス語表記のプレートが。コルシカ語はイタリア語寄りの発音なので、カランケの方が通りが良いです。 -
美しい光景です。
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急な道を下ります。
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お昼時です
街を後にします。 -
麓には大学のマリアーニキャンパス
約8,000人のコミューンに5000人規模の大学が置かれています。
横にはオルタ川が流れます。当初の計画では、オルタ川もシタデル内にする遠大かつ無謀な計画でした。ル・ニコリ フレンチ
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ここでオルタ川がタヴィニャーノ川に合流し、ティレニア海まで注ぎます。
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駅前からの眺め
この辺りにシタデル外縁の稜堡が1772年の計画図に描かれていました。本当に無謀です。 -
アジャクシオを目指します。
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蒸気機関車時代の給水塔と石炭塔
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おまけ
いかにもコルシカ的な一皿を戴きます。
パオリ通りのLa Trattoriaというお店です。 -
仔牛のコルシカ風オリーブ煮込み&
Rummo社製のペンネ添え 18EUR
極度の円安で、結構きついです。
次の旅行記↓
https://4travel.jp/travelogue/11693021
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