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新宿駅から都営地下鉄大江戸線に沿って芝公園、三田まで歩く。<br /><br />途中の慶應義塾信濃町キャンパス(医学部)を経て、旧乃木邸と乃木神社、東京ミッドタウンに立ち寄り、芝公園、芝東照宮から最後は慶應義塾三田キャンパスへ。<br /><br />表紙の写真は、信濃町キャンパスにある初代医学部長北里柴三郎博士の胸像。正しくは当時は医学科の学科長だったそうだが、同博士ゆかりの「北里記念医学図書館」の玄関にある。<br />北里博士は、2024年に新千円札の顔となり、知名度が一段と向上した。<br /><br />信濃町に「慶応病院」があるのは知られているが、慶應大学の学生でも信濃町キャンパスを訪問経験者は少ないであろうし、この北里博士胸像に会った人は稀だと思う。<br /><br />対する三田といえば、慶應義塾の創始者として、また旧一万円札で有名な福澤諭吉。義塾内では、福澤諭吉先生と呼ばれている。<br />三田の「福澤諭吉胸像」は、昭和50年代以降の慶應大学の学生であれば大多数が会ったことがあるであろう。しかし一万円札の福澤諭吉は、渋沢栄と交替して引退に、お疲れ様でした。

新千円札の北里さんこんにちは!1万円札の福澤さんおつかれさま。慶應義塾信濃町から三田へ。

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2023/11/26 - 2023/11/26

65813位(同エリア85462件中)

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ワンダラー

ワンダラーさん

新宿駅から都営地下鉄大江戸線に沿って芝公園、三田まで歩く。

途中の慶應義塾信濃町キャンパス(医学部)を経て、旧乃木邸と乃木神社、東京ミッドタウンに立ち寄り、芝公園、芝東照宮から最後は慶應義塾三田キャンパスへ。

表紙の写真は、信濃町キャンパスにある初代医学部長北里柴三郎博士の胸像。正しくは当時は医学科の学科長だったそうだが、同博士ゆかりの「北里記念医学図書館」の玄関にある。
北里博士は、2024年に新千円札の顔となり、知名度が一段と向上した。

信濃町に「慶応病院」があるのは知られているが、慶應大学の学生でも信濃町キャンパスを訪問経験者は少ないであろうし、この北里博士胸像に会った人は稀だと思う。

対する三田といえば、慶應義塾の創始者として、また旧一万円札で有名な福澤諭吉。義塾内では、福澤諭吉先生と呼ばれている。
三田の「福澤諭吉胸像」は、昭和50年代以降の慶應大学の学生であれば大多数が会ったことがあるであろう。しかし一万円札の福澤諭吉は、渋沢栄と交替して引退に、お疲れ様でした。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
友人
交通手段
徒歩
旅行の手配内容
団体旅行
  • 今日のスタートは、新宿駅 新南口。<br />新宿バスタの裏側の広場からは、東口側の高島屋から西口側のサザンテラスまで線路がびっしり敷き詰められた構内を見渡すことができる。<br /><br />今日は、大江戸線の環状部を一周歩こうという(自分よりも若い人が多い)グループに参加して、途中でエスケープさせてもらう計画。<br /><br /><br /><br />

    今日のスタートは、新宿駅 新南口。
    新宿バスタの裏側の広場からは、東口側の高島屋から西口側のサザンテラスまで線路がびっしり敷き詰められた構内を見渡すことができる。

    今日は、大江戸線の環状部を一周歩こうという(自分よりも若い人が多い)グループに参加して、途中でエスケープさせてもらう計画。



  • 山手線の外側にある大江戸線地下駅の上を通り、代々木駅の先で山手線ガードをくぐり、神宮外苑に入る。<br />地下鉄国立競技場駅の上を通ると、巨大な国立競技場がある。<br />周辺の森を威圧するような高さを感じる。こんなに巨大な競技場が必要だったのか?

    山手線の外側にある大江戸線地下駅の上を通り、代々木駅の先で山手線ガードをくぐり、神宮外苑に入る。
    地下鉄国立競技場駅の上を通ると、巨大な国立競技場がある。
    周辺の森を威圧するような高さを感じる。こんなに巨大な競技場が必要だったのか?

    国立競技場 名所・史跡

  • 中央線線路の上を越えて、北に寄り道。目的は、慶應義塾の信濃町キャンパスにあるという「北里記念医学図書館」信濃町メディアセンター。<br />戦争末期の1945年5月の空襲により、信濃町キャンパスは木造建築物中心に多くが焼失したが、SRC造りであったこの図書館と予防医学校舎、別館は焼失することなく残って、以来80年、現役で使われているという。<br />今日は、同医学部関係者と落ち合い、案内してもらう。ありがたい。

    中央線線路の上を越えて、北に寄り道。目的は、慶應義塾の信濃町キャンパスにあるという「北里記念医学図書館」信濃町メディアセンター。
    戦争末期の1945年5月の空襲により、信濃町キャンパスは木造建築物中心に多くが焼失したが、SRC造りであったこの図書館と予防医学校舎、別館は焼失することなく残って、以来80年、現役で使われているという。
    今日は、同医学部関係者と落ち合い、案内してもらう。ありがたい。

  • 入口には、初代医学部長北里柴三郎博士の胸像。<br /><br />2024年に新千円札の顔となった北里博士は、破傷風の予防法や治療法を確立するとともに、ペスト菌を発見するなど、国内外の感染症研究、免疫血清開発などに大きく貢献したとされる。<br /><br />「ドイツ語で雷を意味する「ドンネル」先生と呼ばれて学生に怖がられたようだが、「官」や「東大閥」に反発するところが、福澤諭吉と気が合い、土筆ヶ岡養生園開設などで世話になったお礼に、福澤の没後に慶應医学部の初代部長(当時は医学科の学科長)に就任したらしい。<br /><br />(犬山の明治村を訪問した際に、北里研究所保存建物に40歳前?「ペスト菌を発見した記念胸像」が置かれていたが、それよりもずっと貫禄があるお姿。)

    入口には、初代医学部長北里柴三郎博士の胸像。

    2024年に新千円札の顔となった北里博士は、破傷風の予防法や治療法を確立するとともに、ペスト菌を発見するなど、国内外の感染症研究、免疫血清開発などに大きく貢献したとされる。

    「ドイツ語で雷を意味する「ドンネル」先生と呼ばれて学生に怖がられたようだが、「官」や「東大閥」に反発するところが、福澤諭吉と気が合い、土筆ヶ岡養生園開設などで世話になったお礼に、福澤の没後に慶應医学部の初代部長(当時は医学科の学科長)に就任したらしい。

    (犬山の明治村を訪問した際に、北里研究所保存建物に40歳前?「ペスト菌を発見した記念胸像」が置かれていたが、それよりもずっと貫禄があるお姿。)

  • 北里記念医学図書館は、初代医学部長北里柴三郎博士を記念して、北里博士記念医学図書館建設会によって1937(昭和12)年に建てられたもの。1944(昭和19)年に、同建設会から正式に慶應義塾に寄付されたという。<br /><br />二階には、北里記念講堂がある。アーチ状だったらしい天井や照明器具、途中からつくられた空調設備などは改修されているが、古い写真と比べると外壁面の窓や演壇の意匠は残されているよう。

    北里記念医学図書館は、初代医学部長北里柴三郎博士を記念して、北里博士記念医学図書館建設会によって1937(昭和12)年に建てられたもの。1944(昭和19)年に、同建設会から正式に慶應義塾に寄付されたという。

    二階には、北里記念講堂がある。アーチ状だったらしい天井や照明器具、途中からつくられた空調設備などは改修されているが、古い写真と比べると外壁面の窓や演壇の意匠は残されているよう。

  • 演壇上部には、慶應義塾を象徴するペンの徽章。建築当初はなかったらしい。

    演壇上部には、慶應義塾を象徴するペンの徽章。建築当初はなかったらしい。

  • こちらは、山村耕花作「腑分」の絵画。1927(昭和2年)の、絹本着色作品。<br />「腑分(ふわけ)」とは、有名な「解体新書」が書かれたころの死体解剖のこと。<br />それまでは日本になかった医学の研究手法として、北里の頃には、近代医学の象徴とされたのであろうと理解する。<br />

    こちらは、山村耕花作「腑分」の絵画。1927(昭和2年)の、絹本着色作品。
    「腑分(ふわけ)」とは、有名な「解体新書」が書かれたころの死体解剖のこと。
    それまでは日本になかった医学の研究手法として、北里の頃には、近代医学の象徴とされたのであろうと理解する。

  • 「予防医学校舎」や「北里記念医学図書館」の外壁には、1945年の空襲時に受けた焼夷弾や機銃掃射の痕跡が残されていると聞く。<br />捜してみたが、これはその道の研究者などに案内してもらわないと分からない。

    「予防医学校舎」や「北里記念医学図書館」の外壁には、1945年の空襲時に受けた焼夷弾や機銃掃射の痕跡が残されていると聞く。
    捜してみたが、これはその道の研究者などに案内してもらわないと分からない。

  • こちらは慶応義塾信濃町キャンパスに残る1929年(昭和4年)竣工という約1世紀前の校舎。<br />現在は「予防医学校舎」という名称のようであるが、「慶應義塾大学醫学部豫防醫学教室」といういかめしい校舎。<br /><br />設計は、戦前に慶應義塾の代表的な建物(日吉キャンパス第一・第二校舎など)を設計した曾禰中條建築事務所で、一部にその意匠が残されている作品。1920年に発足した国内で最も古いとされる寄生虫学教室を収容しているという。

    こちらは慶応義塾信濃町キャンパスに残る1929年(昭和4年)竣工という約1世紀前の校舎。
    現在は「予防医学校舎」という名称のようであるが、「慶應義塾大学醫学部豫防醫学教室」といういかめしい校舎。

    設計は、戦前に慶應義塾の代表的な建物(日吉キャンパス第一・第二校舎など)を設計した曾禰中條建築事務所で、一部にその意匠が残されている作品。1920年に発足した国内で最も古いとされる寄生虫学教室を収容しているという。

  • 「予防医学校舎」内は、案内者がいても、立ち入り制限で見学できず。残念。

    「予防医学校舎」内は、案内者がいても、立ち入り制限で見学できず。残念。

  • 信濃町キャンパスから南下して神宮外苑に戻り、外苑東通りをさらに南下する。<br /><br />青山地区と赤坂地区の境、乃木坂に、旧乃木邸と、乃木神社がある。<br />日露戦争の軍神、明治天皇崩御で殉死した乃木希典将軍を祀る。<br /><br />こちらの黒塗りの簡素な建物が、旧乃木邸。<br />乃木将軍の遺言により、公園として東京市に寄贈され、現在は港区が管理。<br />

    信濃町キャンパスから南下して神宮外苑に戻り、外苑東通りをさらに南下する。

    青山地区と赤坂地区の境、乃木坂に、旧乃木邸と、乃木神社がある。
    日露戦争の軍神、明治天皇崩御で殉死した乃木希典将軍を祀る。

    こちらの黒塗りの簡素な建物が、旧乃木邸。
    乃木将軍の遺言により、公園として東京市に寄贈され、現在は港区が管理。

    乃木神社 寺・神社・教会

  • 煉瓦造り、日本瓦葺きの平屋建て馬小屋は乃木邸母屋が改築される以前、明治22 年(1889)に建てられ、母屋やりも立派で「馬屋敷」といわれたそう。

    煉瓦造り、日本瓦葺きの平屋建て馬小屋は乃木邸母屋が改築される以前、明治22 年(1889)に建てられ、母屋やりも立派で「馬屋敷」といわれたそう。

  • 乃木邸の前には、旧ニッカ池公園から移設されたという「乃木大将と辻占売少年像」が建つ。

    乃木邸の前には、旧ニッカ池公園から移設されたという「乃木大将と辻占売少年像」が建つ。

  • こちらは「乃木大将と辻占売少年像」の解説板。

    こちらは「乃木大将と辻占売少年像」の解説板。

  • 乃木希典が明治天皇に殉じて自刃したという「殉死の間」も、ガラス越しに観ることができる。(ご命日の前後などには、内部見学ができたので、以前に内部見学済。)

    乃木希典が明治天皇に殉じて自刃したという「殉死の間」も、ガラス越しに観ることができる。(ご命日の前後などには、内部見学ができたので、以前に内部見学済。)

  • 少し南下すると、明治時代から一気に平成になり、赤坂の東京ミッドタウンとして再開発されたビル群に入る。<br /><br />

    少し南下すると、明治時代から一気に平成になり、赤坂の東京ミッドタウンとして再開発されたビル群に入る。

  • 昔ここの前の通りには「麻布竜土町 防衛庁前」というバス停があったのを思い出す。元々は、赤坂に駐屯していた帝国陸軍の兵舎などがあり、戦後には防衛庁などがあった一角の再開発。<br /><br />六本木交差点を経て、麻布十番に向かう。

    昔ここの前の通りには「麻布竜土町 防衛庁前」というバス停があったのを思い出す。元々は、赤坂に駐屯していた帝国陸軍の兵舎などがあり、戦後には防衛庁などがあった一角の再開発。

    六本木交差点を経て、麻布十番に向かう。

  • 大江戸線沿いに、将軍の別荘建設で古川改修の10番目の工区だったという名称がが残る麻布十番から川下の中の橋に抜ける。<br />ここは麻布の台地から下った古川の橋で、赤羽橋と一の橋の間に架かったので、「中の橋」と呼ばれたよう。「一の橋」の上流には「二の橋」「三の橋」もある。<br />麻布十番商店街をバイパスして六本木交差点と結ぶ道を川下に下る。<br /><br />

    大江戸線沿いに、将軍の別荘建設で古川改修の10番目の工区だったという名称がが残る麻布十番から川下の中の橋に抜ける。
    ここは麻布の台地から下った古川の橋で、赤羽橋と一の橋の間に架かったので、「中の橋」と呼ばれたよう。「一の橋」の上流には「二の橋」「三の橋」もある。
    麻布十番商店街をバイパスして六本木交差点と結ぶ道を川下に下る。

  • 赤羽橋交差点を過ぎると、左側は芝公園になり、右側に妙定院(みょうじょういん)がある。<br />妙定院は、1763(宝暦13)年、徳川九代将軍家重公を開基と仰ぎ、三縁山増上寺四十六世妙誉定月大僧正によって開山されたとされる古刹。<br />2022年には、小林ご住職が浄土宗大本山増上寺 執事長に就任されているという格式が高いお寺。

    赤羽橋交差点を過ぎると、左側は芝公園になり、右側に妙定院(みょうじょういん)がある。
    妙定院は、1763(宝暦13)年、徳川九代将軍家重公を開基と仰ぎ、三縁山増上寺四十六世妙誉定月大僧正によって開山されたとされる古刹。
    2022年には、小林ご住職が浄土宗大本山増上寺 執事長に就任されているという格式が高いお寺。

    妙定院 寺・神社・教会

  • 妙定院の東側、芝公園内には、芝丸山古墳があるので立ち寄り。

    妙定院の東側、芝公園内には、芝丸山古墳があるので立ち寄り。

    芝丸山古墳 名所・史跡

  • 芝丸山古墳は、鬱蒼とした森になっている。

    芝丸山古墳は、鬱蒼とした森になっている。

  • 芝丸山古墳の麓には「丸山貝塚」がある。<br />縄文時代中期に棲んでいた人は、カキを食べて、貝塚を築いたらしい。

    芝丸山古墳の麓には「丸山貝塚」がある。
    縄文時代中期に棲んでいた人は、カキを食べて、貝塚を築いたらしい。

  • こちらは、芝公園にある東照宮の参道。<br />参道を駐車場に貸しているようだが、檀家が徳川家だけだとすると、存続させるには稼ぎが必要のよう。

    こちらは、芝公園にある東照宮の参道。
    参道を駐車場に貸しているようだが、檀家が徳川家だけだとすると、存続させるには稼ぎが必要のよう。

    芝東照宮 寺・神社・教会

  • 日光東照宮に比べると、はるかに小規模。<br /><br />ここで大江戸線沿いに歩くグループから離脱して、慶應義塾三田キャンパスに向かう。

    日光東照宮に比べると、はるかに小規模。

    ここで大江戸線沿いに歩くグループから離脱して、慶應義塾三田キャンパスに向かう。

  • 慶應義塾の信濃町キャンパスを見学したので、こちら三田キャンパスの象徴である旧図書館にも寄ってみる。<br />慶應義塾のよいところは、キャンパスの出入りが自由なところ。<br />

    慶應義塾の信濃町キャンパスを見学したので、こちら三田キャンパスの象徴である旧図書館にも寄ってみる。
    慶應義塾のよいところは、キャンパスの出入りが自由なところ。

    慶應義塾 図書館旧館 名所・史跡

  • こちらの旧図書館は、耐震改修を経て、旧閲覧室を4年前から「塾史資料室」に改装して、無料開放している。博物館としてはライバルの早稲田大学よりも整備が遅れているが。<br />今日の目玉展示は、夏の全国高等学校甲子園野球大会で優勝した慶應義塾高等学校が預かった深紅の大優勝旗で、期間限定で展示されている。<br />この旗を勝ち得るまでの高校生の努力は、正に図り切れないといえよう。<br />

    こちらの旧図書館は、耐震改修を経て、旧閲覧室を4年前から「塾史資料室」に改装して、無料開放している。博物館としてはライバルの早稲田大学よりも整備が遅れているが。
    今日の目玉展示は、夏の全国高等学校甲子園野球大会で優勝した慶應義塾高等学校が預かった深紅の大優勝旗で、期間限定で展示されている。
    この旗を勝ち得るまでの高校生の努力は、正に図り切れないといえよう。

  • 甲子園野球大会の優勝盾や写真も展示されている。<br />高校生の努力だけでなく、今年は「運」も味方してくれたのであろう。<br /><br />新制高校として70数年の歴史で初めてであるし、前身の旧制慶應普通部でも1回しか優勝していないと聞いた記憶。

    甲子園野球大会の優勝盾や写真も展示されている。
    高校生の努力だけでなく、今年は「運」も味方してくれたのであろう。

    新制高校として70数年の歴史で初めてであるし、前身の旧制慶應普通部でも1回しか優勝していないと聞いた記憶。

  • さて、「福澤諭吉はどこに」というと、三田図書館の玄関を入って右側の会議室のような場所に肖像画が掛けてあった記憶があった。記憶の場所は喫茶室などに改装されたような気もしたが、川村清雄作の肖像画が記念室に飾ってあるらしい。<br /><br />一方、「福澤諭吉胸像」は、この三田図書館がまだ現役の1983年(昭和58)年から34年間メディアセンターに移転後も、三田図書館正面の向かって左側が定位置であった。(昭和29年に設置されたときは、現在の研究室棟の場所とされる。)<br />訪れて記念写真を撮ったりする人も多く、人気があった。<br />2018年にこの三田図書館を訪問したときには、図書館の耐震工事が始まっていて、「福澤諭吉はどこに」と捜したら、前年に南側の演説館前に移転されていた。これがその時の写真であるが、現在も同じ演説館前にある。<br /><br />一万円札からの引退よりも早くに、三田キャンパスの象徴的な旧図書館前から、この地味な場所に隠居されてしまったとは。<br /><br />

    さて、「福澤諭吉はどこに」というと、三田図書館の玄関を入って右側の会議室のような場所に肖像画が掛けてあった記憶があった。記憶の場所は喫茶室などに改装されたような気もしたが、川村清雄作の肖像画が記念室に飾ってあるらしい。

    一方、「福澤諭吉胸像」は、この三田図書館がまだ現役の1983年(昭和58)年から34年間メディアセンターに移転後も、三田図書館正面の向かって左側が定位置であった。(昭和29年に設置されたときは、現在の研究室棟の場所とされる。)
    訪れて記念写真を撮ったりする人も多く、人気があった。
    2018年にこの三田図書館を訪問したときには、図書館の耐震工事が始まっていて、「福澤諭吉はどこに」と捜したら、前年に南側の演説館前に移転されていた。これがその時の写真であるが、現在も同じ演説館前にある。

    一万円札からの引退よりも早くに、三田キャンパスの象徴的な旧図書館前から、この地味な場所に隠居されてしまったとは。

  • こちらは慶應大学の三田キャンパスの東側を通る国道1号線。<br /><br />正面に東京タワーが見えるのは昭和33年から変わってはいないが、昭和30年代にはあった札ノ辻行きの都電の線路は廃止になって久しいし、三田国際ビルが出来て随分経つが、赤羽橋から両側がずっとビル化してきて、庶民的な街並みがなくなってしまったには残念dもある。<br /><br />今日は、若い人たちと歩けたし、北里記念図書館や甲子園の深紅に大優勝旗も見ることができて大満足の旅。

    こちらは慶應大学の三田キャンパスの東側を通る国道1号線。

    正面に東京タワーが見えるのは昭和33年から変わってはいないが、昭和30年代にはあった札ノ辻行きの都電の線路は廃止になって久しいし、三田国際ビルが出来て随分経つが、赤羽橋から両側がずっとビル化してきて、庶民的な街並みがなくなってしまったには残念dもある。

    今日は、若い人たちと歩けたし、北里記念図書館や甲子園の深紅に大優勝旗も見ることができて大満足の旅。

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