2025/07/18 - 2025/07/18
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gianiさん
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余市から反時計回りで積丹半島を一周しました。
沼前~川白は1997年に開通し、遂に陸の孤島は解消しました。
鰊漁が盛んで、方角と地形から袋澗と呼ばれる構造物が集中的に分布するのも特徴です。
数ある鰊漁展示の中でも、分かりやすい展示も魅力です。
昭和20年代に鰊漁が終わり、北海道唯一の原発を誘致して1989年に稼働した一面もあります。
- 旅行の満足度
- 5.0
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旅のはじまりは余市駅
余市駅 駅
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ここから神威岬までバスでひたすら走ります。
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神威岬に到着
神威岬 自然・景勝地
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ここで休憩です。
しゃこたん土産と喰処 カムイ番屋 グルメ・レストラン
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岩内行のバスに乗り換えます。
こちらはICカードが使えません。 -
天気も良くなりました
R229は、小樽~江差を結ぶ海岸道路です。 -
ダイナミックです
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この先は、30年程前に道路が繋がったばかりです。
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神恵内村役場を過ぎて
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弁天島を越え
弁天島 自然・景勝地
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法輪寺バス停で下車し、
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浜へ下ります。新道が建設されるまで、こちらが本道でした。
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鰊御殿
旧武井邸の敷地を利用しています。 -
鰊と北海道
3-5月に産卵のためにサハリンから南下し、雄の精子で岸から1km沖合まで白濁するほどでした。鰊の群来は春の前兆で、春告魚とも呼ばれます。アイヌはにとっては鮭と並ぶカムイ(神)であり、海岸に祭壇を設けて迎えました。
和人は15世紀以降に松前周辺で乱獲を開始し、18世紀以降は鰊を求めて日本海側を北上して漁場と番屋を設置します。こうした実務をこなしたのは松前藩の「場所(知行地)」を請け負った内地の商人でした。北陸/東北沿岸から出稼ぎ労働者が、漁期の人手を担いました。僅か2ヶ月の漁で一年分の必要を賄って余る程の富をもたらします。 -
鰊と古宇郡(泊村/神恵内村)
1594年に近江商人の田付氏が視察に訪れたのが始まりで、1601年に津軽からの出稼ぎとアイヌを労働力として操業を開始しました。1604年には現在の古宇郡沿岸が「フルウ」場所に指定されます。寒冷で稲作ができない松前藩では、家臣に田畑ではなく交易権(場所)を与えます。アイヌとの物々交換や知行地内で漁に携わることによって家臣は収入を得ました。18世紀になると、知行地の運営を町人に委託運営(場所請負制度)させることで効率向上を目指し、フルウ場所は1752年以降田付新助(世襲名)が請け負いました。 -
場所の運営
アイヌと交易を行う運上屋を場所内に設け、物々交換を行います。現在の泊村域では7箇所の漁場を経営し、主に鰊漁と加工を行います。労働力としてアイヌを用いましたが、過酷な労働と伝染病の影響で人口が激減し、奥州からの出稼ぎに依存するようになります。収入の幾らかを運上金として委託主の藩士へ支払いました。 -
江戸時代の漁法
自給自足ベースのアイヌはタモ/笊で掬って獲っていましたが、和人は商品目的なので刺し網、後に笊網(定置網:写真上)漁を行います。 -
幕末には建網(行成網:写真下)を採用して、漁獲量を増やします。漁期のみの居住が、年間を通して定住する者が現れ始めます。
行成網
磯から沖へ向かって全長250-300mの手網(垣網)を張って鰊の進路を阻みます。沖方向の身網へ誘導され、起船が岸まで身網に閉じ込められた鰊を運びます。 -
明治に入って場所請負制は廃止され、自由参入へと変化します。家族経営では数人を雇って、安上がりな刺し網漁を行います(写真下)。和人が蝦夷地で最初に用いた漁法で、文字通り網に刺さって動けなくなった魚を漁獲します。
明治中頃30人以上では行成網が進化した角網漁に代わります。身網から獲物が逃げにくいように改良されました。ヤン衆(出稼ぎ者の蔑称)の給与は、固定給から歩合制へ変化します。 -
1923年に深刻な不漁を記録し、以降は激減し、1952年に泊の鰊漁は終焉します。用途は専ら魚肥でしたが、戦中戦後にかけては食用でした。網元は船舶の動力化や漁獲対象を変えたり周年営業にする等の対策を講じるも、再生への模索が今も続きます。
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漁場の作業暦(概略)
1,2月:官有林から払い下げられた薪の買付
3月:漁夫の来道/定置網作りと設置/船出し/漁具修理/操業開始
4,5月:海での操業/陸上での加工と出荷
6月:操業終了。定置網の引揚/漁具の点検補修/賃金と買掛金支払/漁夫帰宅
7-12月:代金回収/資材発注/農耕/余暇/漁夫確保 -
年末or正月明けに親方が奥州へ赴き、出稼ぎ者をリクルートします。契約時に前渡金を支払います。
2月末に彼らが到着すると「顎合せ」と呼ばれるささやかな酒宴が催されます。 -
3月になると漁撈の準備が始まります。
雪切り
漁場の初仕事で、橇で雪を運び海へ捨てます。雪が硬い時は鋸で切って畚に背負って海へ投棄します。 -
船出し
浜に雪が残っているうちに、船を倉から出して点検修理します。 -
漁具を修理します。
山仕事:道具/梱包用の資材を切り出します。
身欠鰊を吊るす木架(なや)作りも行います。 -
大きな網を手際よく船積みします。
網に使用するロープや浮子(あこ)等、道具は数百種に及びます。 -
建網準備のために沖に船を出します。
型入れ:波や潮流で網が移動しないよう石を詰めた土俵と綱で海中に固定します。 -
船頭や数人の漁夫は夜通し船で過ごし、鰊の到来を待ちます。
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網起し
鰊が身網の上に乗ると起船の乗手(11-17名)が網を手繰り、袋網へ追い込みます。枠網(身網)に鰊を放置しておくと、海藻と間違えて卵を産み付け、重さで網を放棄しなければならなくなります。 -
①ロープで枠船の船底の下に袋網を回し込みます。
②乗り手が身網のトッタリを拾い、袋網と接合します(網合わせ)。
③トッタリ(身網の漏斗状の部分)を通して、鰊を身網から袋網へ移します。
④程好い所で袋網の両方の網口を縛り、袋網を船尾へ移します。
上記の作業を繰り返します。鰊御殿とまり 名所・史跡
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沖揚げ
袋網は袋伝馬船へ移し替えて岸へ輸送します。30分サイクルのピストン輸送です。袋網は太い綿糸で作られ、容量は12-20石(3.6-6万尾)程で、網元は50枚ほど所有していました。 -
袋澗(ふくろま)
鰊漁は時化と隣り合わせだったために、急に時化た場合は鰊がいっぱいの身網を放棄する必要がありました。そこで少しずつ袋網に移して人工的に作った袋澗へ一時貯蔵しました。 -
積丹半島は礒が多く浜が少ないために、鰊を干すスペースが不足していました。乾燥時間確保のために新鮮な鰊を貯蔵するために袋澗が建設されました。
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袋澗に運び込まれた袋網を桟橋へ移動させ、大たもで掬い上げます。
鰊はポッタモで畚に入れられ、廊下や魚坪へ運ばれます。
畚背負いは女性/子供が担当し、日当は現物支給(畚3,4杯の鰊)でした。食事は畚を背負ったまま、おにぎりを頬張りました。底の方が小さくなっていて鰊を入れやすく、畚を背負ったまま横へ体を傾けるだけで中身を出せました。 -
鰊の加工
品質毎に用途が決まり、見た目の良いものは数の子/身欠(専ら食用)となり、傷物は肥料となります。
漁期で見ると、走り(3月)は7-8年の成熟した個体なので生食/身欠、中鰊(4月)は4-5年の中型なので生食/身欠/絞め粕、後鰊(5月)は3年の小型漁なので絞め粕にされます。 -
鰊潰し:身欠鰊を作るために内臓を取ります。一人で8000尾/日をこなします(写真左側)。鰊潰しでは、身/数の子/白子/笹目(エラ)を選別します。鰊潰しは包丁を使わず、指で裂きます。選別したものはテッコへ入れられて、次の作業場へ運ばれます。
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尻繋ぎ:潰した鰊は20~22尾程に纏めて結び(一連と数える 写真)、
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廊下(写真左)/魚坪(なつぼ:写真右)に2,3日貯蔵され、腹などが柔らかくなるのを待ちます。
※廊下は屋内の通路という一般的な用法ではなく、屋根の下が空洞になっているスペースという本来の意味で用いられています。 -
鰊裂き:柔らかくなった腹を裂き、身欠鰊(背部)/胴鰊(背骨)/ハラシ(腹部)に分けます(裂く=切り取らずに分岐する)。
木架(なや)掛け:鰊裂きしたものを、一連ずつ木架に掛けて2週間ほど干します。
※単位:一連=20-22尾、一本=61連。
身欠鰊を切断し(身欠き抜き)、100本で1束に結束し、身欠き鰊として出荷(1俵=24束)します。ハラシと胴鰊は一緒に胴鰊(肥料 1俵=8束)として出荷します。 -
鰊潰しで選り分けられた数の子は、海水で洗って血抜きします。白子/数の子は水切れの良い簾、笹目は莚の上に並べて干します。夜間/雨天時は小屋へ仕舞います。その後出荷(1俵=24貫)します。白子/笹目は肥料として用いられます。
※莚1枚は、1畳に相当します。 -
締め粕作り(食用に適さないもの)
釜炊き
直系1.5~2mの鰊釜で1000尾程の鰊を海水で90分ほど煮ます(写真)。焦げ付かぬよう身が崩れないようにヘラでかき混ぜ、温度を下げずに注水するには熟練を要します。 -
粕締め
煮た鰊を箱型の締め胴へ投入し、締め木で蓋をして轆轤を回して圧搾して粕玉を作ります。写真左は後期のもので、鉄製の丸胴は開閉式で粕玉を取り出しやすいのがメリットです。
抽出された液体は、油八合と呼ばれる容器へ移されて水と脂を分離させます。槽内を2,3分割して、溢れても魚油が流れ出ないようにしました。鰊油は、石鹸/燃料用として出荷されました。 -
粕干し
圧搾された粕玉は藁の上に広げ、玉切包丁で切断/粕砕きやエビリ棒で粉砕し、コマザライで均して(写真)春風に晒して乾燥させます。粉砕は、上写真右側の解粕機に取って代わり、ハンドルを回すだけで細かく挽くことができました。早く乾燥させるために、1日に何回も掻き混ぜたり細かく砕いたりしました。 -
あん醸
莚を被せて数日間放置し、発酵/着色します。
出荷
棒秤で計測し、出荷(1俵=24貫)します。 -
出荷:4月末の晴天日に行います。
帆走する北前船が季節風に乗って到来し、数の子/身欠き/肥料を出荷します。 -
締め粕の移出先
大阪/兵庫の問屋へ卸され、和歌山(蜜柑)/徳島(藍)/岡山(綿花)/広島(藺草)等の付加価値の高い商品作物の栽培肥料として使用されました。食用は限度があるので、豊漁の年は肥料加工が増えました。 -
5月初め:網揚げ
型揚げ:網を固定していた浮子類を回収し、土俵を支えていた綱を切断します。
網洗い:網を解体し、枠網/身網は真水で洗い防腐剤で処理します。
船囲い:鰊を貯蔵していた廊下を清掃し、船を収納します。
5月末:漁場の切り上げ
顎別れ:酒宴で歩合金を受け取り、ヤン衆は自宅へ戻ります。 -
袋澗
北海道の日本海側<積丹半島<泊村に多く分布する構築物で、漁期に北西季節風を受けて時化やすい方角且つ礒に建設されます。枠網に溜まった鰊を袋網に移して(小分けして)沖揚げすることで時化の際のロスというリスクを回避しました。袋澗は、その際の袋網を数日保管する貯蔵庫でした。網元が自費で石の堤防を築いて囲むことで役割を果たします。陸揚げや荒天時に船を格納して保護する防波堤の役割も果たします。 -
間知石
当初は木の柱と板で囲った隙間に砂利と玉石を流し込む簡便な方法でしたが、耐久性に難があり、岩盤の土台に石を積むようになります。その際、間知石(写真)と呼ばれる四角錐の石を積んで、隙間を土砂で埋めてセメントで固めました。立方体の石を積むよりも遥かに強度が増しました。 -
実際の光景
底辺の長さが30cmだったので、横に積まれた石の数を数えれば寸法が分かることから、間知石と呼ばれました。
※袋澗では40cm四方の石が使用されます。 -
改めて、屋内に注目します。入口の先は細長い土間で、左側には板張りが奥まで続きます。板溜まりと呼ばれ、出稼ぎ漁師の共同生活空間でした。食事/休息/睡眠を取りました。中央に囲炉裏が切られています。上部は寝床が並んでいます。彼らにとって唯一のプライベートな空間です。
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食事
戦後まで庶民に高値の花だった白飯が食べ放題でした。副菜は一汁一菜が基本です。鰊は焼き魚/漬物/汁物の具として登場します。お茶ではなく湯/水が提供されます。 -
食事は、炊事係が拍子木を叩いて合図しました。
朝食5時/昼食10時/夕食15時、沖掛かりの際は夜食も提供されました。夜食では、鰊と一緒に網に掛かった魚介類も提供されました。 -
一番奥は炊事スペースで、漁溜まりとの境目はなく、まとめて台所と呼ばれます。専門の炊事婦が雇われ、土間の竈と板張りの流し等で調理しました。
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土間を挟んで台所の向かい側が座敷です。畳が敷かれ、親方(網元)とその家族のためのスペースでした。
タモやセンの木の太い柱は、現在では入手不可能となっています。 -
建物と入口の関係は此のような感じで、入口の左側の漁師60名の生活スペースと右側の親方のスペースの極端な差が鰊御殿の特徴でもあります。川村家は、1894年築です。
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土間に面した部屋には、様々な展示が。座布団は100年超の年代物で、表生地の状態も良く、中の綿もフワフワ。最上の材料で作った賜物です。
奥に向かって家族部屋、その先は左奥が餅つき場(台所の倉庫)/右奥が女中部屋になっています。 -
神棚
海の上の安全と豊漁を祈ります。金沢家から移設しました。 -
女中部屋
6畳間で、居間兼作業場です。裁縫の仕事が多かったみたいです。男性かつ単身赴任のヤン衆の生活スペースとは対角に位置し、彼らと遭遇しないよう配慮されているようです。 -
神棚の裏側は座敷で、屏風など高価な装飾が特徴です。
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赤坂家に伝わる伊万里の大皿
二階へ移動します。 -
板溜まりの上は、寝台へ通じる通路。現場を取り仕切る大船頭の石松が、ここから60名程のヤン衆に睨みを利かせていたそうです。
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かなり緻密な組み方です。
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座敷の上の部分は畳敷きです。
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飾り窓
当時のトレンドで、稲妻をイメージしています。
※大阪の雷おこしのロゴと同じ柄です。 -
隠し部屋
2階の奥にあり、移設に伴う取り壊しの際に再発見されました。それ位巧みに隠されていたということです。用途としては、歩合金に納得しないヤン衆たちが荒れた時に親方と家族が一時避難した、現金の一時保管場所、不漁の年に借金取りから隠れる等です。 -
川村家
当主は代々川村慶次郎を名乗り、初代は津軽出身で廻船で財を成し、1847年に24歳で泊村へ移住して鰊建網漁を始めます。
二代目(写真)は1880年に泊村の戸長になり、私財を投じて行政業務と10万坪(33ha)の農地を開拓します。
三代目は1894年に家督を相続し、村のごく初期に入植した家系として村の発展に寄与します。鰊御殿の役目を終えると、公的な役割を担う庁舎として使用され続けます。
川村家の往時を偲ばせる帳面類 -
1904年公布の漁業免許状
いわゆる漁業権を証明する一番大切な書類。範囲が記載されています。 -
川村家は、岩内市街に隣接した旧発足村(現岩内町)で田地を開墾し専業農家を育成しました。泊村は山地が海岸線に迫り、農耕地が不足していたからです。村内の畑地は、漁業従事者が自給自足のために栽培する今でいう第二種兼業農家でした。
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川村家の姿
現在の泊村興志内村に建ちました。 -
板溜まりの扉を開けて、武井家住居へ移動します。上には、寝台スペースが写り込んでいます。
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古宇郡
明治の地図です。神恵内/赤石/珊内の3村が現在の神恵内村域です。
興志内/盃/泊/芽沼/堀株の5村が1909年に合併して現在の泊村が誕生します。旧芽沼/堀株村は岩内郡から編入されています。 -
1919年の地図
泊地区には、武井本店と書かれています。横には旅館2軒/理髪店2軒/金融機関/医院があるのが特徴です。 -
1953年の地図では、旅館は1軒に減り、派出所と村役場が浜沿いへ移転しています。
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実際の建物
初代武井忠兵衛が1839年に天保飢饉に伴って津軽から岩内へ移住したのに始まります。1841年に独立し、旧芽沼村に居を構えます。二男三女を独立させ、泊には次男忠吉が分家します。女子は嫁入りさせず、婿養子を取って分家させることで拡大政策を取ったのが特徴です。 -
左より武治(長女ミワの息子:岩内で酒造/荷役/廻船業)
政治(次女ミネの婿:岩内で漁場2ヶ統経営)
忠兵衛(宗家2代目:芽沼)
忠次郎(次男忠吉の息子:泊)
総作(養女チヨの息子:茂岩 5ヶ統経営) -
泊武井家の漁場
現在の法輪寺辺りの高台にも干場があります。 -
千石場所の一つ茂岩漁場では、1913年の豊漁に伴って忠次郎が干場まで専用軌道を建設する等、先進技術を採用します。
建網1ヶ統で単年で400石取れれば採算が採れ、500石取れれば資産家になれると言われています。1石は75kgで、1000石は250万尾に相当します。 -
樺太進出
1908年には樺太へ進出し、4ヶ統を経営します。 -
経営多角化
発足村に53haほどの農地を開発し、食料や漁具の材料となる桐の栽培を行います。他にも函館で倉庫業、鉱山経営、農場経営に携わります。 -
公共事業
1903年には茶津トンネル開削(写真)で岩内と陸路で、1915年には兜岬トンネル開削で盃/興志内村と陸路で繋がり、地域の交通を向上させました。いずれも私費工事です。 -
宗家
分家と合わせて泊村55戸92ヶ統のうち1戸で22ヶ統の経営を管理。さらに1856年には芽沼で石炭を発見し、松前藩に石炭を運上、1883年に払い下げられると炭坑経営に乗り出し、鰊炊きの薪に代わる燃料確保を目指します。写真は芽沼の邸宅。さりげなく和洋折衷です。 -
カネ忠武井家
長女と婿松兵衛夫婦を両親に持つ武治は、樺太進出をリードします。アニワ湾沿いに8ヶ統を経営し、製氷所や山林を経営して樺太漁や泊で必要な資材を生産します。アニワ遊園地を建設経営し、手広く事業を行います。これらは北海道での鰊不漁を見据えてのリスクヘッジの一環でした。
では1916年築の客殿を観察します。 -
商人と当主が商談を行っています。酒が振る舞われます。
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襖は希少な葛の繊維を横糸に用いた葛布。耐水/調湿/抗菌作用などがあります。取っ手は京都の職人によるものです。
襖上の透かしは、近江八景を描いています。 -
写真中央の床柱は時価数百万円の黒檀、右枠外には現在はワシントン条約に抵触する檳榔樹の柱です。
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八方方杖合掌組工法
大正期の先端工法で、屋根瓦の重量を下の八角形の一点に集めることで逆に上へ逃がすというもの。床に支柱を立てる必要もなく、梁に長い木材を必要としないことがメリットです。サイロなどに用いられました。 -
かつて袋澗だった場所が見えます。
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田中漁場
1897年に7年かけて完成。 -
番屋は小樽の祝津へ移築されました。
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こちらが実物。
120名の漁師を収容できる大きなものでした↓
https://4travel.jp/travelogue/11764448 -
北海道の漁業従事者の長者番付では、泊の武井忠吉は関脇に、茂岩の武井総作は前頭八枚目、田中福松も前頭に入っています。
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来た道を戻ります。
坂を下る道が、従来の国道です。 -
法輪寺の新しい境内は、鰊干場でした。
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沖稲荷
1682年に田付新助が家宝を祀ったのが起源で、1801年に稲荷を勧請しました。1862年に田付新右衛門らによって本殿が造営され、装飾は蝦夷に比類ない彫刻とたたえられました。鰊御殿の上に鎮座します。 -
泊市街を眺めます。
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昭和初期の光景
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バスで来た道を戻ります。
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盃温泉湯本バス停で下車
金澤家の漁場がありました。盃温泉郷 温泉
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海抜26mにある高台
1953年の地図には記載されている旅館に泊まります。
駐車場も広々。鰊干場の跡と思われます。 -
盃漁港を見下ろします。
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1921年の写真
当時は、金澤家の漁場でした。写真には袋澗があるのと茂岩にトンネルが開通しているのが分かります。 -
袋澗の名残が見えます。
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夕食には、鰊の塩麹漬けが。とても合います。札幌でも買えます。
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月夜でした。
次は岩内を目指します↓
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