雷電・岩内旅行記(ブログ) 一覧に戻る
函館~小樽までの日本沿岸は町村のみで、市がありません。その中で三都(函館/小樽/札幌)に次ぐ大都会が存在しました。岩内です。当時は、小樽と並ぶ商業都市でした。<br />鰊は北方から群来するので、真っ先に不漁に陥るも、不屈の岩内魂で新しい漁法を確立します。鰊漁だけでない見どころ、漁業/農業/鉱工業等で様々な先駆的な取り組みをした歴史(日本初/道内初etc.)を感じる静かな街です。<br />札幌から直通バスがあるのも、ツーリストには大きなメリットです。<br />平成生まれでは、全く耳にしたことがないであろう地名の岩内へ、いざ出陣!

岩内:鰊漁だけでない様々なエッセンスを感じられる特異な街。

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2025/07/19 - 2025/07/19

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gianiさん

この旅行記スケジュールを元に

函館~小樽までの日本沿岸は町村のみで、市がありません。その中で三都(函館/小樽/札幌)に次ぐ大都会が存在しました。岩内です。当時は、小樽と並ぶ商業都市でした。
鰊は北方から群来するので、真っ先に不漁に陥るも、不屈の岩内魂で新しい漁法を確立します。鰊漁だけでない見どころ、漁業/農業/鉱工業等で様々な先駆的な取り組みをした歴史(日本初/道内初etc.)を感じる静かな街です。
札幌から直通バスがあるのも、ツーリストには大きなメリットです。
平成生まれでは、全く耳にしたことがないであろう地名の岩内へ、いざ出陣!

旅行の満足度
5.0
  • 宿を後にして、岩内を目指します。

    宿を後にして、岩内を目指します。

  • 積丹半島とりわけ泊村の特徴である「袋澗」が見えます。

    積丹半島とりわけ泊村の特徴である「袋澗」が見えます。

  • 旧道に掘られたトンネルが見えます。

    旧道に掘られたトンネルが見えます。

  • 茅沼を通過します。<br />北海道初の炭坑がありました。武井忠兵衛が本家を構えました。

    茅沼を通過します。
    北海道初の炭坑がありました。武井忠兵衛が本家を構えました。

  • とまりん館と羊蹄山が見えます。<br />北電の原発関連の施設で、とまりん館より先は岩内町域です。スケートリンク等のスポーツ施設を地域に提供しています。

    とまりん館と羊蹄山が見えます。
    北電の原発関連の施設で、とまりん館より先は岩内町域です。スケートリンク等のスポーツ施設を地域に提供しています。

    とまりん館 美術館・博物館

  • 発足(はったり)郵便局<br />泊村の網元武井家/川村家が農地開発しました。現在は共和町です。

    発足(はったり)郵便局
    泊村の網元武井家/川村家が農地開発しました。現在は共和町です。

  • 豊かな農地になっています。遠くに、旧発足武井農場が。

    豊かな農地になっています。遠くに、旧発足武井農場が。

  • 岩内の郷土館へ入ります。

    岩内の郷土館へ入ります。

  • 岩内は松前藩の領地として、イワナイ場所が開かれることで和人の開発が始まります。米がとれないので、海産物が採れる海岸線を区切って家臣に知行地として与え、アイヌと交易した利益を財源としました。

    岩内は松前藩の領地として、イワナイ場所が開かれることで和人の開発が始まります。米がとれないので、海産物が採れる海岸線を区切って家臣に知行地として与え、アイヌと交易した利益を財源としました。

  • 武士の商法は、やがて行き詰まり、藩の出入商人に経営を委託する場所請負制度が18世紀以降導入されます。彼らは城下に住んで、漁期になると現地へ支配人/通詞/帳役/番人を派遣して、アイヌと交易しました。交易所を運上屋と言います。あるいはアイヌを雇用して、漁業を営みました。

    武士の商法は、やがて行き詰まり、藩の出入商人に経営を委託する場所請負制度が18世紀以降導入されます。彼らは城下に住んで、漁期になると現地へ支配人/通詞/帳役/番人を派遣して、アイヌと交易しました。交易所を運上屋と言います。あるいはアイヌを雇用して、漁業を営みました。

  • イワナイ場所は家老蠣崎佐士の知行地でしたが、1781年に藩の直轄地になります。記録に残る最古の請負人は岡田弥三右衛門(1751-65)で、彼は番人を通年で定住させたので、この年を岩内のはじまりとします。明治に区分された郡は、場所の境界線をそのまま引き継ぎました(写真)。

    イワナイ場所は家老蠣崎佐士の知行地でしたが、1781年に藩の直轄地になります。記録に残る最古の請負人は岡田弥三右衛門(1751-65)で、彼は番人を通年で定住させたので、この年を岩内のはじまりとします。明治に区分された郡は、場所の境界線をそのまま引き継ぎました(写真)。

  • 佐藤仁左衛門<br />親子二代で場所を請け負い、二代目は明治政府が制度を廃止するまで請け負います。インフラ整備やアイヌも対象とした福祉活動も行い、運上屋とアイヌ家屋しかなかった状態から1853年には203戸1904名が暮らす蝦夷地屈指の都会としました。

    佐藤仁左衛門
    親子二代で場所を請け負い、二代目は明治政府が制度を廃止するまで請け負います。インフラ整備やアイヌも対象とした福祉活動も行い、運上屋とアイヌ家屋しかなかった状態から1853年には203戸1904名が暮らす蝦夷地屈指の都会としました。

  • 岩内を中心に雷電や稲穂峠まで私費で道路を通しました。函館~札幌を結ぶ国道5号線の区間も多く含まれるのが興味深いです。

    岩内を中心に雷電や稲穂峠まで私費で道路を通しました。函館~札幌を結ぶ国道5号線の区間も多く含まれるのが興味深いです。

  • 明治2年に北海道は開拓使の管轄下となり、岩内郡を含む86の郡が誕生します。岩内は、立派な港と茅沼炭鉱に近いこともあって開拓使の出先機関が置かれます。岩内郡と隣の古宇郡を統括する郡役所も設置されます。旧会津藩家老の簗瀬真精は開拓使に出仕し、岩内に赴任して民生/教育の向上や漁業振興に貢献、退官後も岩内に留まって郵便局長等を歴任しました。

    明治2年に北海道は開拓使の管轄下となり、岩内郡を含む86の郡が誕生します。岩内は、立派な港と茅沼炭鉱に近いこともあって開拓使の出先機関が置かれます。岩内郡と隣の古宇郡を統括する郡役所も設置されます。旧会津藩家老の簗瀬真精は開拓使に出仕し、岩内に赴任して民生/教育の向上や漁業振興に貢献、退官後も岩内に留まって郵便局長等を歴任しました。

  • 当時の古宇郡には郡役場も各村の戸長役場もなく、岩内の庁舎で行政業務が代行されました。<br />余談ですが、朝鮮の著名な独立運動家金玉均が日本へ亡命した際に犬養毅や福沢諭吉らが支援したことは有名ですが、岩内の簗瀬家にも暫く滞在し、元会津藩士という経歴もあって手厚くもてなしたそうです。お礼に岩内では未達のカレーライスのレシピを教わったそうです。

    当時の古宇郡には郡役場も各村の戸長役場もなく、岩内の庁舎で行政業務が代行されました。
    余談ですが、朝鮮の著名な独立運動家金玉均が日本へ亡命した際に犬養毅や福沢諭吉らが支援したことは有名ですが、岩内の簗瀬家にも暫く滞在し、元会津藩士という経歴もあって手厚くもてなしたそうです。お礼に岩内では未達のカレーライスのレシピを教わったそうです。

  • 1872(M5)年の岩内の様子<br />北海道の多くの場所が明治30年代に入植が始まったのとは対照的に、多くの民家と商家が立ち並んでいます。それだけの人数を養えるだけの産業があったことの証です。

    1872(M5)年の岩内の様子
    北海道の多くの場所が明治30年代に入植が始まったのとは対照的に、多くの民家と商家が立ち並んでいます。それだけの人数を養えるだけの産業があったことの証です。

  • 1875(M8)年の札幌の様子<br />西方向を向いています。岩内通りが南西部に確認できます。道内でも名の通った街である証です。明治2年に建設の始まる人工都市札幌の人口の少なさと、岩内の繁栄ぶりを比べると興味深いです。

    1875(M8)年の札幌の様子
    西方向を向いています。岩内通りが南西部に確認できます。道内でも名の通った街である証です。明治2年に建設の始まる人工都市札幌の人口の少なさと、岩内の繁栄ぶりを比べると興味深いです。

  • 1869(M2)年に場所制度が廃止され、1877年には漁業権も開放されると、誰もが自由参入する機会が訪れます。特にニシン漁を仕切ること(親方業)が大きな収入をもたらす花形産業で、岩内では漁場を10か所所有した浜喜三郎/6か所所有した橋本清吉らが現れます。

    1869(M2)年に場所制度が廃止され、1877年には漁業権も開放されると、誰もが自由参入する機会が訪れます。特にニシン漁を仕切ること(親方業)が大きな収入をもたらす花形産業で、岩内では漁場を10か所所有した浜喜三郎/6か所所有した橋本清吉らが現れます。

  • 潤沢なニシンマネー<br />ニシン場の経営は莫大な利益をもたらし、親方の多くは潤沢な資金で副業を営み、事業を多角化します。その多くは住民の生活に関わるもので、多くの益をもたらします。財力を地方自治や社会貢献へ直接用いる親方もいました。

    潤沢なニシンマネー
    ニシン場の経営は莫大な利益をもたらし、親方の多くは潤沢な資金で副業を営み、事業を多角化します。その多くは住民の生活に関わるもので、多くの益をもたらします。財力を地方自治や社会貢献へ直接用いる親方もいました。

  • 二代目梅沢市太郎は、北海道一級町村制施行に伴い初代町長を務め、築港整備で負債を負うと第6代町長を務め、財政改革を行います。<br />初代大井昌次郎は、農業にも力を入れて米等の自給自足を目指し、原野の開墾に努めます。<br />二代目大井昌次郎は1940年に農地解放を行い、37名の自作農が誕生します。一人当たりの耕地は2haに及び、現在の日本平均を大きく上回ります。夫人は長年教鞭を取ることで、女子教育に貢献します。<br />※北海道庁では市町村制が施行されず、区制(市に近似)/一・二級町村制が施行されました。一級は自治財政を負担できる証でした。

    二代目梅沢市太郎は、北海道一級町村制施行に伴い初代町長を務め、築港整備で負債を負うと第6代町長を務め、財政改革を行います。
    初代大井昌次郎は、農業にも力を入れて米等の自給自足を目指し、原野の開墾に努めます。
    二代目大井昌次郎は1940年に農地解放を行い、37名の自作農が誕生します。一人当たりの耕地は2haに及び、現在の日本平均を大きく上回ります。夫人は長年教鞭を取ることで、女子教育に貢献します。
    ※北海道庁では市町村制が施行されず、区制(市に近似)/一・二級町村制が施行されました。一級は自治財政を負担できる証でした。

  • 1922年の東京平和博の品評会で鰊鯑(かずのこ)が銅賞を受賞した時の賞状<br />梅沢市太郎の名前が入っています。

    1922年の東京平和博の品評会で鰊鯑(かずのこ)が銅賞を受賞した時の賞状
    梅沢市太郎の名前が入っています。

  • 鰊の漁法<br />江戸後期から定置網を使用して改良が続けられましたが、明治中頃の角網漁で完成に至ります。毎年同じ場所で産卵することと、障害物に当たると逆走する習性を利用しています。進路を妨げる手網に沿って反転した鰊の群れは、その先の身網に誘導されて一網打尽に収穫します。このような根こそぎ漁法で、岩内では一か所当たり一億円ほどの利益を生み出しました。

    鰊の漁法
    江戸後期から定置網を使用して改良が続けられましたが、明治中頃の角網漁で完成に至ります。毎年同じ場所で産卵することと、障害物に当たると逆走する習性を利用しています。進路を妨げる手網に沿って反転した鰊の群れは、その先の身網に誘導されて一網打尽に収穫します。このような根こそぎ漁法で、岩内では一か所当たり一億円ほどの利益を生み出しました。

  • 岩内郡漁業権の絵図(部分)を見ると、郡内に103ヶ統の建網漁場があり、現在の町域だけでも62ヶ統にのぼります。浜喜三郎が10ヶ統、梅沢市太郎が8ヶ統と続きます。岩内町にも相当の税収源があったと推察されます。<br />小樽区という記述から1899年以降、敷島内村/野束村の記述から両村が合併して島野村が誕生した1909年までの間に作成されたようです。

    岩内郡漁業権の絵図(部分)を見ると、郡内に103ヶ統の建網漁場があり、現在の町域だけでも62ヶ統にのぼります。浜喜三郎が10ヶ統、梅沢市太郎が8ヶ統と続きます。岩内町にも相当の税収源があったと推察されます。
    小樽区という記述から1899年以降、敷島内村/野束村の記述から両村が合併して島野村が誕生した1909年までの間に作成されたようです。

  • 1909年の市街地図。<br />市街地が大きく拡張され、北海道らしく碁盤の目状の地割となっています。2年後に完成する漁港(築港)の整備もほぼ終わっています。<br />1902年の時点で、岩内町の人口は15560人で道内で5番目に人口が多い自治体でした。

    1909年の市街地図。
    市街地が大きく拡張され、北海道らしく碁盤の目状の地割となっています。2年後に完成する漁港(築港)の整備もほぼ終わっています。
    1902年の時点で、岩内町の人口は15560人で道内で5番目に人口が多い自治体でした。

  • 岩内繁栄の根源だった鰊漁<br />岩内の最大の特徴は鰊番屋がないことと、出稼ぎ労働者が少ないことです。<br />輸送/保存技術が発達した現在の沿岸漁業のように、網を降ろして獲物を取って、帰港と同時に市場へ卸して終了ではありませんでした。インフラを含めた入念な準備と、複雑な製品加工を親方(網元)を筆頭とする100名ほどの組織で行いました。<br />

    岩内繁栄の根源だった鰊漁
    岩内の最大の特徴は鰊番屋がないことと、出稼ぎ労働者が少ないことです。
    輸送/保存技術が発達した現在の沿岸漁業のように、網を降ろして獲物を取って、帰港と同時に市場へ卸して終了ではありませんでした。インフラを含めた入念な準備と、複雑な製品加工を親方(網元)を筆頭とする100名ほどの組織で行いました。

  • 鰊漁の準備は3月から始まり、蔵から漁船を浜へ引き出し、浜には「やり出し」「セイロ(写真)」と呼ばれる臨時の船着場が作られます(浜ごしらえ)。<br />東北地方から雇い漁夫が到着し、あとは鰊の群来を待つだけです。<br />岩内は漁業従事者以外の人口が多く、雇い漁夫の大半は地元で調達できました。商業/物流も盛んで旅館が多く、番屋を設ける必要もありませんでした(1955年に合併した旧島野村域を除く)。

    鰊漁の準備は3月から始まり、蔵から漁船を浜へ引き出し、浜には「やり出し」「セイロ(写真)」と呼ばれる臨時の船着場が作られます(浜ごしらえ)。
    東北地方から雇い漁夫が到着し、あとは鰊の群来を待つだけです。
    岩内は漁業従事者以外の人口が多く、雇い漁夫の大半は地元で調達できました。商業/物流も盛んで旅館が多く、番屋を設ける必要もありませんでした(1955年に合併した旧島野村域を除く)。

  • どんよりとした空になると、北方から鰊の群れの到来です。北海道では「群来(くき)」と呼ばれ、「群来る」という五段活用の動詞も存在します※。<br />鰊は多年生で、群れになって行動する回遊魚で、産卵は自分が生まれた場所で行います。<br />※季節の風物詩として、鰊は春告魚とも呼ばれます。

    どんよりとした空になると、北方から鰊の群れの到来です。北海道では「群来(くき)」と呼ばれ、「群来る」という五段活用の動詞も存在します※。
    鰊は多年生で、群れになって行動する回遊魚で、産卵は自分が生まれた場所で行います。
    ※季節の風物詩として、鰊は春告魚とも呼ばれます。

  • 冷蔵技術の無かった時代を反映して、鰊は加熱/乾燥等を経て日持ちするように処理されました。鰊は捨てる部分がなく、「鰊潰し」と呼ばれる諸工程で身を細分し、それぞれを食用/燃料/肥料といった用途に応じて加工/出荷しました。

    冷蔵技術の無かった時代を反映して、鰊は加熱/乾燥等を経て日持ちするように処理されました。鰊は捨てる部分がなく、「鰊潰し」と呼ばれる諸工程で身を細分し、それぞれを食用/燃料/肥料といった用途に応じて加工/出荷しました。

  • 建網漁は、鰊の習性を利用して手網を介して身網という罠へ誘き寄せる漁法です。30名以上の漁夫を要するので、親方には莫大な資金と組織を纏めるリーダーとしての能力が求められます。成功すると、複数の建網場を所有するようになります。

    建網漁は、鰊の習性を利用して手網を介して身網という罠へ誘き寄せる漁法です。30名以上の漁夫を要するので、親方には莫大な資金と組織を纏めるリーダーとしての能力が求められます。成功すると、複数の建網場を所有するようになります。

  • 群れの進路を阻んで罠へ誘導する手網は、250間(455m)の長さがあります。<br />胴網とも呼ばれる身網は、7×33間(12.7×60m)の範囲を囲い、深さは36m以上ありました。

    群れの進路を阻んで罠へ誘導する手網は、250間(455m)の長さがあります。
    胴網とも呼ばれる身網は、7×33間(12.7×60m)の範囲を囲い、深さは36m以上ありました。

  • 手網/身網は、設置場所から流されないように土俵と呼ばれる重りで固定されます。海底なので小さく見えますが、米俵と同じ大きさです。特にニシンでいっぱいになったときの身網はかなりのエネルギーで反発するので、複数の土俵を使用します。網は所定の位置に張られるので、建網と呼ばれます。

    手網/身網は、設置場所から流されないように土俵と呼ばれる重りで固定されます。海底なので小さく見えますが、米俵と同じ大きさです。特にニシンでいっぱいになったときの身網はかなりのエネルギーで反発するので、複数の土俵を使用します。網は所定の位置に張られるので、建網と呼ばれます。

  • あば(浮き)<br />アバと呼ばれる浮きを網の上面に装着して、網が沈まないようにします。土俵とアバの相反する力が作用して、あそびがある範囲内で網は固定されます。<br />アバはコアな業界用語で、漁師界隈限定です。木製は、軽くて水に強い桐を用います。高価なので、結び目が解けて漂着した場合や陸上での保管に備えて、所有者が分かるように一つ一つに名前や記号が記されています。

    あば(浮き)
    アバと呼ばれる浮きを網の上面に装着して、網が沈まないようにします。土俵とアバの相反する力が作用して、あそびがある範囲内で網は固定されます。
    アバはコアな業界用語で、漁師界隈限定です。木製は、軽くて水に強い桐を用います。高価なので、結び目が解けて漂着した場合や陸上での保管に備えて、所有者が分かるように一つ一つに名前や記号が記されています。

  • 手網に沿って誘導された魚群は、口前と呼ばれる開口部を通して、身網へ入ります。

    手網に沿って誘導された魚群は、口前と呼ばれる開口部を通して、身網へ入ります。

  • 位置関係は、こんな感じです。

    位置関係は、こんな感じです。

  • 身網がいっぱいになると、写真奥の枠船の下に張った枠網と身網を接続し、起し船が身網を手繰り寄せながら徐々に枠船へ寄ってきて、枠船下の枠網へ追い込みます。枠網がいっぱいになると身網と切り離し、枠船は岸へ向かいます。<br />枠船が身網から離れると、そばで待機していた「代り枠船」が身網に寄り添います。<br />詳細は、泊村の旅行記も参考にしてください↓<br />https://4travel.jp/travelogue/12019869

    身網がいっぱいになると、写真奥の枠船の下に張った枠網と身網を接続し、起し船が身網を手繰り寄せながら徐々に枠船へ寄ってきて、枠船下の枠網へ追い込みます。枠網がいっぱいになると身網と切り離し、枠船は岸へ向かいます。
    枠船が身網から離れると、そばで待機していた「代り枠船」が身網に寄り添います。
    詳細は、泊村の旅行記も参考にしてください↓
    https://4travel.jp/travelogue/12019869

  • 沖揚げ<br />枠船は枠網を曳いて岸へ向かいます。そして汲船へとリレーされます。枠網を手繰り上げて、枠船の船倉へ鰊を移します。

    沖揚げ
    枠船は枠網を曳いて岸へ向かいます。そして汲船へとリレーされます。枠網を手繰り上げて、枠船の船倉へ鰊を移します。

  • やり出し(桟橋)に船付けされた汲船から、たも(写真下)と呼ばれる柄のついた網で陸揚げされます。写真のようにやり出し内に槽があり、直接鰊を移します。

    やり出し(桟橋)に船付けされた汲船から、たも(写真下)と呼ばれる柄のついた網で陸揚げされます。写真のようにやり出し内に槽があり、直接鰊を移します。

  • 槽内の鰊は、タモで掬って、畚背負いの背負っているモッコ(畚)へ移されます。畚背負いは廊下/納坪まで運びます。畚は下へ行くほど狭くなっているので、体を横へ曲げると鰊が流れ落ち、背負ったままで空にすることができます。<br />左は番棒で、畚背負いが1回運ぶ毎に渡され、枚数に応じた日当が現物で支払われました。

    槽内の鰊は、タモで掬って、畚背負いの背負っているモッコ(畚)へ移されます。畚背負いは廊下/納坪まで運びます。畚は下へ行くほど狭くなっているので、体を横へ曲げると鰊が流れ落ち、背負ったままで空にすることができます。
    左は番棒で、畚背負いが1回運ぶ毎に渡され、枚数に応じた日当が現物で支払われました。

  • 袢纏の横に架かっているのは、子供用の畚です。漁期は一刻を争い、次の工程が滞らないよう子供の手を借りてでも迅速な作業が求められました。<br />その下にある担桶(たご)と鰊担ぎ天秤棒で、2人で運ぶ方法もありました。

    袢纏の横に架かっているのは、子供用の畚です。漁期は一刻を争い、次の工程が滞らないよう子供の手を借りてでも迅速な作業が求められました。
    その下にある担桶(たご)と鰊担ぎ天秤棒で、2人で運ぶ方法もありました。

  • 鰊潰し<br />廊下(屋根付き)/納坪(青空)で数日寝かせた鰊は、素手で処理できるほど身が柔らかくなります。逆に数の子は、崩れない程度まで固まります。左手で鰊を握り、笹目(エラ)を取ると右親指で腹を割いて内臓/数の子/白子を取り出します。ベテランは、一日あたり8千~1万尾を処理します。つぶし方は、女性が担います。<br />※手がけ(保護用手袋)/手首(指サック)は使用します。

    鰊潰し
    廊下(屋根付き)/納坪(青空)で数日寝かせた鰊は、素手で処理できるほど身が柔らかくなります。逆に数の子は、崩れない程度まで固まります。左手で鰊を握り、笹目(エラ)を取ると右親指で腹を割いて内臓/数の子/白子を取り出します。ベテランは、一日あたり8千~1万尾を処理します。つぶし方は、女性が担います。
    ※手がけ(保護用手袋)/手首(指サック)は使用します。

  • 写真の尻かけの上に座って膝にゴザを敷き、手がけ/手首を填めて作業します。白子(精巣)と数の子(卵巣)は、それぞれテッコと呼ばれる木の箱へ分別されて次の工程へ回されます。<br />数の子は海水で血抜きした後、莚の上で干し(夜間/雨天は納屋へ入れる)て、俵詰めして出荷されます。白子は莚の上で干して、俵詰めして肥料として出荷されます。エラも莚の上で干された後、俵詰めして肥料として出荷されます。

    写真の尻かけの上に座って膝にゴザを敷き、手がけ/手首を填めて作業します。白子(精巣)と数の子(卵巣)は、それぞれテッコと呼ばれる木の箱へ分別されて次の工程へ回されます。
    数の子は海水で血抜きした後、莚の上で干し(夜間/雨天は納屋へ入れる)て、俵詰めして出荷されます。白子は莚の上で干して、俵詰めして肥料として出荷されます。エラも莚の上で干された後、俵詰めして肥料として出荷されます。

  • 尻繋ぎ<br />鰊の身は、つなぎづらと呼ばれる藁を通して20-22尾単位(=1連)に纏めて結びます。

    尻繋ぎ
    鰊の身は、つなぎづらと呼ばれる藁を通して20-22尾単位(=1連)に纏めて結びます。

  • 結束(尻繋ぎ)された鰊を洗い鉤の付いた天秤に吊るして、木架(なや)まで運びます。尻繋ぎ/運搬という一連の作業は、つなぎ方と呼ばれる男性によって行われます。

    結束(尻繋ぎ)された鰊を洗い鉤の付いた天秤に吊るして、木架(なや)まで運びます。尻繋ぎ/運搬という一連の作業は、つなぎ方と呼ばれる男性によって行われます。

  • 木架掛け<br />鰊は一連ずつ木架に架けて数日干します。生乾きの状態で、身を裂きます。<br />

    木架掛け
    鰊は一連ずつ木架に架けて数日干します。生乾きの状態で、身を裂きます。

  • 鰊裂き<br />サバサキで、身を身欠(背肉)/胴鰊(背骨)/ハラシ(腹肉)に裂きます。<br />鰊裂きしたものを、一連ずつ木架に掛けて2,3週間ほど干します。<br />

    鰊裂き
    サバサキで、身を身欠(背肉)/胴鰊(背骨)/ハラシ(腹肉)に裂きます。
    鰊裂きしたものを、一連ずつ木架に掛けて2,3週間ほど干します。

  • 身欠を切断し(身欠き抜き)、100本で1束に結束し、身欠き鰊として出荷します。シナノキの樹皮(写真)orオヒョウ楡の樹皮を裂いて作った紐で結束します。身欠きは24束で建1本と呼ばれ、1本単位で俵に詰められて出荷されます。<br />胴鰊は俵詰めして肥料として出荷します。<br />ハラシは身の乗り具合に応じて、身欠きor胴鰊に分別されます。<br />

    身欠を切断し(身欠き抜き)、100本で1束に結束し、身欠き鰊として出荷します。シナノキの樹皮(写真)orオヒョウ楡の樹皮を裂いて作った紐で結束します。身欠きは24束で建1本と呼ばれ、1本単位で俵に詰められて出荷されます。
    胴鰊は俵詰めして肥料として出荷します。
    ハラシは身の乗り具合に応じて、身欠きor胴鰊に分別されます。

  • 粕炊き<br />鰊は大きさと品質によっても選別され、傷物や漁期後半に取れる小さいものは最初から肥料用に加工されます。<br />鰊潰しの時に内臓として分別されたものや上記の鰊は、海水と共に鰊釜で90分茹でて肥料へ加工します。

    粕炊き
    鰊は大きさと品質によっても選別され、傷物や漁期後半に取れる小さいものは最初から肥料用に加工されます。
    鰊潰しの時に内臓として分別されたものや上記の鰊は、海水と共に鰊釜で90分茹でて肥料へ加工します。

  • 締め粕<br />ゆで上げたものは、締め胴へ入れられてプレスされます。<br />隙間から零れ落ちる液体は、油八合と呼ばれる容器へ流れ落ち、水と油に分離します。油は、燃料/照明等に用いられました。

    締め粕
    ゆで上げたものは、締め胴へ入れられてプレスされます。
    隙間から零れ落ちる液体は、油八合と呼ばれる容器へ流れ落ち、水と油に分離します。油は、燃料/照明等に用いられました。

  • 締め胴を押し付ける際は、長い締め木を使って梃の原理を利用しました。1901年に登場した吉川式は歯車を使用して、ずっと押さえつけなくても加圧が続くように改良されました。

    締め胴を押し付ける際は、長い締め木を使って梃の原理を利用しました。1901年に登場した吉川式は歯車を使用して、ずっと押さえつけなくても加圧が続くように改良されました。

  • キリン<br />その後、キリンと呼ばれるハンドルで螺子を絞めていく方式にとって代わります。

    キリン
    その後、キリンと呼ばれるハンドルで螺子を絞めていく方式にとって代わります。

  • 粕砕き<br />締め胴から塊を取り出し、粕玉包丁で切り分けます。それを粉砕機(写真)へ入れて、細かく砕きます。

    粕砕き
    締め胴から塊を取り出し、粕玉包丁で切り分けます。それを粉砕機(写真)へ入れて、細かく砕きます。

  • 粕干し<br />粉砕したものを莚に並べ、エビリ棒で薄く均等に均して乾燥させます。一日に3回ほど天地替えをして、それを3日間繰り返します。<br />あん醸<br />粕干しし終えた粕玉の上に莚を掛け、数日安置します。発酵して、色合いが良くなります。

    粕干し
    粉砕したものを莚に並べ、エビリ棒で薄く均等に均して乾燥させます。一日に3回ほど天地替えをして、それを3日間繰り返します。
    あん醸
    粕干しし終えた粕玉の上に莚を掛け、数日安置します。発酵して、色合いが良くなります。

  • 天秤で重量を計測し、俵詰めして出荷します。化学肥料が登場するまで、高値で取引されました。

    天秤で重量を計測し、俵詰めして出荷します。化学肥料が登場するまで、高値で取引されました。

  • 春に海が穏やかになると、北前船/弁財船が、大坂から到来します。18世紀より続く交易航路です。米/酒/味噌/醤油/呉服/陶器といった生活必需品を北海道へ届け、鰊や昆布といった海産物を載せて南下。大坂まで帰らず、東北/北陸で引き返して、年に数回来道する船も現れます。莫大な利益の上がる鰊を少しでも多く仕入れたいからです。1902年には、159隻が来航します。

    春に海が穏やかになると、北前船/弁財船が、大坂から到来します。18世紀より続く交易航路です。米/酒/味噌/醤油/呉服/陶器といった生活必需品を北海道へ届け、鰊や昆布といった海産物を載せて南下。大坂まで帰らず、東北/北陸で引き返して、年に数回来道する船も現れます。莫大な利益の上がる鰊を少しでも多く仕入れたいからです。1902年には、159隻が来航します。

  • 町費で築港事業(1906-11)<br />岩内港は北西の方角に面し、年2回の季節風の方向と完全に一致しました。それゆえ鰊漁の船が転覆して獲った鰊が台無しになることも珍しくありませんでした。大規模な港湾整備は国や道庁の仕事ですが、どちらも動かなかったために前例のない100%自前(町債発行)で建設しました。町の予算10年分の町債を発行し、鰊漁の収入で償還する手堅い内容でしたが、いざ建設が始まると鰊は不漁に陥り、債務償還のめどが立たなくなります。

    町費で築港事業(1906-11)
    岩内港は北西の方角に面し、年2回の季節風の方向と完全に一致しました。それゆえ鰊漁の船が転覆して獲った鰊が台無しになることも珍しくありませんでした。大規模な港湾整備は国や道庁の仕事ですが、どちらも動かなかったために前例のない100%自前(町債発行)で建設しました。町の予算10年分の町債を発行し、鰊漁の収入で償還する手堅い内容でしたが、いざ建設が始まると鰊は不漁に陥り、債務償還のめどが立たなくなります。

  • 岩内郡の鰊漁獲量の推移を見ると、1918年以降目立って減少し、1924年には0を記録します。1928年以降は壊滅的です。築港に伴う負債と、鰊が獲れず住民の収入や自治体の税収が減るダブルパンチです。

    岩内郡の鰊漁獲量の推移を見ると、1918年以降目立って減少し、1924年には0を記録します。1928年以降は壊滅的です。築港に伴う負債と、鰊が獲れず住民の収入や自治体の税収が減るダブルパンチです。

  • スケソ漁の勃興<br />岩内町の増田庄吉は、鰊漁も何れは衰退するかもしれないと予測し1902年に佐渡へ出向いてスケトウタラの延縄漁業を習得し、翌年に岩内前浜で試験操業を実施します。群生地が沖合の水深200m、漁期が寒冷/荒天の11,12,1月ということもあり、川崎船(帆船の一種)ではハードな環境です。

    スケソ漁の勃興
    岩内町の増田庄吉は、鰊漁も何れは衰退するかもしれないと予測し1902年に佐渡へ出向いてスケトウタラの延縄漁業を習得し、翌年に岩内前浜で試験操業を実施します。群生地が沖合の水深200m、漁期が寒冷/荒天の11,12,1月ということもあり、川崎船(帆船の一種)ではハードな環境です。

  • 延縄<br />幹縄1枚の長さは76mで、長さ65cmの枝糸の先に餌を刺した釣り糸を結び付け、幹縄に120本取り付けます。間隔は61cm/170cmをリエゾンします。幹縄4枚を繋ぐ毎に、長さ180mの瀬縄を結び、先端には浮きを取り付けます。1回の航海で200~220枚の幹網を投下するので、全長14.4~15.8kmの延縄を水深180m付近に24000~26400本の釣り針を仕掛けることになります。

    延縄
    幹縄1枚の長さは76mで、長さ65cmの枝糸の先に餌を刺した釣り糸を結び付け、幹縄に120本取り付けます。間隔は61cm/170cmをリエゾンします。幹縄4枚を繋ぐ毎に、長さ180mの瀬縄を結び、先端には浮きを取り付けます。1回の航海で200~220枚の幹網を投下するので、全長14.4~15.8kmの延縄を水深180m付近に24000~26400本の釣り針を仕掛けることになります。

  • 縄の仕立ては、直径55cmの延縄笊の上で行われ、幹縄/枝糸/釣り針を結びます。一人当たり8~10枚の縄を仕立てます。一回の漁で使用する延縄を一日で用意するには、22~27名が必要です。<br />1923年には、岩内に135艘の鱈漁船が稼働していました。

    縄の仕立ては、直径55cmの延縄笊の上で行われ、幹縄/枝糸/釣り針を結びます。一人当たり8~10枚の縄を仕立てます。一回の漁で使用する延縄を一日で用意するには、22~27名が必要です。
    1923年には、岩内に135艘の鱈漁船が稼働していました。

  • 地元漁師の創意工夫に加えて、大正時代に船の動力化が急激に進んだこともあって、昭和に入ると漁獲量が激増し、鰊漁の穴を埋める産業になります。汽船を係留できる港があったことも大事で、築港という先行投資に命を救われる形になりました。戦後、スケトウダラの加工量で岩内は日本一になります。

    地元漁師の創意工夫に加えて、大正時代に船の動力化が急激に進んだこともあって、昭和に入ると漁獲量が激増し、鰊漁の穴を埋める産業になります。汽船を係留できる港があったことも大事で、築港という先行投資に命を救われる形になりました。戦後、スケトウダラの加工量で岩内は日本一になります。

  • 前例のない町費での築港、新しい漁法の考案といった進取の気性は、幕末から西洋人との交流があり、最新技術に触れてきた特異な岩内の歴史も大きく関係していると思われます。<br />1864年に箱館奉行所が招聘したエラスムス・ガウワーの提案によって、茅沼炭砿に鉄道建設を始めたのをきっかけに、開拓使が派遣した十余名の技師や、道庁の技師で築港を提言したシーエス・メーク(写真中央)が挙げられます。

    前例のない町費での築港、新しい漁法の考案といった進取の気性は、幕末から西洋人との交流があり、最新技術に触れてきた特異な岩内の歴史も大きく関係していると思われます。
    1864年に箱館奉行所が招聘したエラスムス・ガウワーの提案によって、茅沼炭砿に鉄道建設を始めたのをきっかけに、開拓使が派遣した十余名の技師や、道庁の技師で築港を提言したシーエス・メーク(写真中央)が挙げられます。

  • 茅沼炭鉱<br />1859年に箱館が開港されると、寄港船に燃料を供給するために周囲の木が伐採されて禿山となります。1856年に石炭が発見された茅沼の炭鉱開発が急務となります。釧路/白糠は、筑豊でのノウハウを投入しますが、お雇い外国人を伴う政府の肝入りで日本初、西洋技術を投入した茅沼炭鉱が開坑します。<br />※茅沼/堀株は、1909に泊村に編入されるまで岩内郡でした。

    茅沼炭鉱
    1859年に箱館が開港されると、寄港船に燃料を供給するために周囲の木が伐採されて禿山となります。1856年に石炭が発見された茅沼の炭鉱開発が急務となります。釧路/白糠は、筑豊でのノウハウを投入しますが、お雇い外国人を伴う政府の肝入りで日本初、西洋技術を投入した茅沼炭鉱が開坑します。
    ※茅沼/堀株は、1909に泊村に編入されるまで岩内郡でした。

  • 日本最初の鉄道<br />玉川を遡った坑口から積出用の港までの2.8 kmにレールと枕木を敷設する工事が1866年に開始、明治維新を経て1869年に開業します。<br />日本初の鉄道システムは、高低差を利用した傾斜で港まで貨車を転がし、復路は牛/人の力で引き上げました(写真)。<br />※旅客営業がなかったこと、レールが木製、蒸気動力ではないゆえに、一般には鉄道ではなくトロッコ軌道と認識されます。

    日本最初の鉄道
    玉川を遡った坑口から積出用の港までの2.8 kmにレールと枕木を敷設する工事が1866年に開始、明治維新を経て1869年に開業します。
    日本初の鉄道システムは、高低差を利用した傾斜で港まで貨車を転がし、復路は牛/人の力で引き上げました(写真)。
    ※旅客営業がなかったこと、レールが木製、蒸気動力ではないゆえに、一般には鉄道ではなくトロッコ軌道と認識されます。

  • 写真は、1881年に鉄製に交換されたレール。<br />開拓使によって茅沼を改良築港するも、大型船が接岸できず、艀を介して岩内港で積み込みます。開拓使の支庁が岩内に置かれたのは、茅沼炭鉱の戦略的重要性ゆえでした。炭鉱は1884年に民間に払い下げられ、1927年には蒸気機関車が投入されます。

    写真は、1881年に鉄製に交換されたレール。
    開拓使によって茅沼を改良築港するも、大型船が接岸できず、艀を介して岩内港で積み込みます。開拓使の支庁が岩内に置かれたのは、茅沼炭鉱の戦略的重要性ゆえでした。炭鉱は1884年に民間に払い下げられ、1927年には蒸気機関車が投入されます。

  • 輸送のネックを解消すべく、1931年に選炭場から岩内港までロープウェイで直接<br />結びますが、寒さと湿気がケーブルが凍結する等、問題が残ります。炭坑は1962年に17万tを生産するも、1964年に閉山します。1880年代に開拓使が幌内炭鉱(石狩炭田)へ注力したのが潮目でした。<br />結果的には、脆弱なインフラゆえに岩内港が選炭/積出の窓口になり、岩内には利得となりました。

    輸送のネックを解消すべく、1931年に選炭場から岩内港までロープウェイで直接
    結びますが、寒さと湿気がケーブルが凍結する等、問題が残ります。炭坑は1962年に17万tを生産するも、1964年に閉山します。1880年代に開拓使が幌内炭鉱(石狩炭田)へ注力したのが潮目でした。
    結果的には、脆弱なインフラゆえに岩内港が選炭/積出の窓口になり、岩内には利得となりました。

  • 函館に次ぐ馬車鉄道開業<br />海運の要所という地位に胡坐をかかず、鉄道有志会を結成して函館~札幌間の鉄道ルートが岩内経由となるよう運動します。結果は失敗でしたが、現在のR393経由ではなく、近所の小沢経由となるよう運動し、1904年に小沢駅が開業します。町民は岩内馬車鉄道を設立し、翌年には小沢~岩内市街までの18kmで営業開始します。<br />。<br />

    函館に次ぐ馬車鉄道開業
    海運の要所という地位に胡坐をかかず、鉄道有志会を結成して函館~札幌間の鉄道ルートが岩内経由となるよう運動します。結果は失敗でしたが、現在のR393経由ではなく、近所の小沢経由となるよう運動し、1904年に小沢駅が開業します。町民は岩内馬車鉄道を設立し、翌年には小沢~岩内市街までの18kmで営業開始します。

  • 都市間連絡機能だけでなく、岩内市街を一巡(約3km)して都市交通の役割を担わせたもの先見の明があります。写真は、会計帳簿と市街の地下2mで発見された軌道の枕木。小沢~岩内14.9kmは、1912年に官営鉄道が敷設され、国鉄岩内線として旅客/貨物輸送の要となります。

    都市間連絡機能だけでなく、岩内市街を一巡(約3km)して都市交通の役割を担わせたもの先見の明があります。写真は、会計帳簿と市街の地下2mで発見された軌道の枕木。小沢~岩内14.9kmは、1912年に官営鉄道が敷設され、国鉄岩内線として旅客/貨物輸送の要となります。

  • 札幌で偶然水力発電を耳にした町民の武内喜三郎は、岩内に技師を招いて調査/講演を行い、協賛者を集めて1906年に北海道初の水力発電所を稼働させます。当時町に電力が供給されたのは、札幌/小樽/札幌市(当時は区)だけでした。

    札幌で偶然水力発電を耳にした町民の武内喜三郎は、岩内に技師を招いて調査/講演を行い、協賛者を集めて1906年に北海道初の水力発電所を稼働させます。当時町に電力が供給されたのは、札幌/小樽/札幌市(当時は区)だけでした。

  • 敷島内の幌内川沿いに、44mの落差を利用して最大120kw(20W電球6000個分)を発電しました。1909年には市街に北海道初のガスタービン式火力発電所を併設して、渇水期に稼働させて通年供給を実現します。旭川や釧路よりも先に、街に灯りがともりました。

    敷島内の幌内川沿いに、44mの落差を利用して最大120kw(20W電球6000個分)を発電しました。1909年には市街に北海道初のガスタービン式火力発電所を併設して、渇水期に稼働させて通年供給を実現します。旭川や釧路よりも先に、街に灯りがともりました。

  • 野生ホップ発見の地<br />開拓使のお抱え技師トーマス・アンチセル(写真中央)は、1871年に堀株川流域で野生のホップを発見し、。札幌でビール製造を行う条件が揃ったと上申し、1876年に国産ビールが誕生します。現在のサッポロビールのはじまりです。

    野生ホップ発見の地
    開拓使のお抱え技師トーマス・アンチセル(写真中央)は、1871年に堀株川流域で野生のホップを発見し、。札幌でビール製造を行う条件が揃ったと上申し、1876年に国産ビールが誕生します。現在のサッポロビールのはじまりです。

  • アスパラガス発祥の地<br />日本で初めてアスパラガスを栽培し、西洋へ輸出できる品質まで引き上げたのは、岩内出身の下田喜久三(1895-1970)でした。実家が米穀や肥料を扱っていたので、東京で薬学(化学肥料)を修め、家業の傍らで冷害に強い作物を模索し、岩内で近隣種のホソバキジカクシが自生していることからアスパラガスにターゲットを定めます。

    アスパラガス発祥の地
    日本で初めてアスパラガスを栽培し、西洋へ輸出できる品質まで引き上げたのは、岩内出身の下田喜久三(1895-1970)でした。実家が米穀や肥料を扱っていたので、東京で薬学(化学肥料)を修め、家業の傍らで冷害に強い作物を模索し、岩内で近隣種のホソバキジカクシが自生していることからアスパラガスにターゲットを定めます。

  • アスパラガスは食通の食べ物でハードルが高く、苦味を除き香味を出し色合いも良いものを作るために、欧米を視察します。当時のパスポートやビザ/旅行鞄等が展示されていますが、往路は神戸からマルセイユまで日本郵船、復路は東洋汽船で横浜までと長い旅路が窺われます。

    アスパラガスは食通の食べ物でハードルが高く、苦味を除き香味を出し色合いも良いものを作るために、欧米を視察します。当時のパスポートやビザ/旅行鞄等が展示されていますが、往路は神戸からマルセイユまで日本郵船、復路は東洋汽船で横浜までと長い旅路が窺われます。

  • 包装も含めた視察を終えますが、最期の壁は国産への偏見でした。昭和初期には、缶詰製造も順調になり、日本アスパラガス株式会社の経営に参画、役員は日銀総裁をはじめ堂々たる顔ぶれで、道内に14の工場を稼働させるに至り、多くの農家に恩恵をもたらします。<br />西洋諸国との関係悪化で輸出禁止、転作の命令を受けたために会社は解散します。現在の会社は、戦後に復興されたものです。

    包装も含めた視察を終えますが、最期の壁は国産への偏見でした。昭和初期には、缶詰製造も順調になり、日本アスパラガス株式会社の経営に参画、役員は日銀総裁をはじめ堂々たる顔ぶれで、道内に14の工場を稼働させるに至り、多くの農家に恩恵をもたらします。
    西洋諸国との関係悪化で輸出禁止、転作の命令を受けたために会社は解散します。現在の会社は、戦後に復興されたものです。

  • 意外な一面が、1931年に開発/特許取得した肝油。ビタミンAだけを抽出する技術を開発し、日本でお馴染み肝油の父でもあります。岩内特産のスケソウタラの肝臓が捨てられているのを、もったいないと思って研究した成果です。

    意外な一面が、1931年に開発/特許取得した肝油。ビタミンAだけを抽出する技術を開発し、日本でお馴染み肝油の父でもあります。岩内特産のスケソウタラの肝臓が捨てられているのを、もったいないと思って研究した成果です。

  • 昭和に入っても、岩内は繁栄を続けます。その大きな要因は、漁業一辺倒ではなく商業が盛んだったことです。鰊漁の網元は、金融/醸造/呉服等、あらゆる方面へ事業を多角化したことが背景にあります。加えて、鉱業や地域港が地域のハブとして機能していたこともあります。倉庫業が発展したのが、その証です。

    昭和に入っても、岩内は繁栄を続けます。その大きな要因は、漁業一辺倒ではなく商業が盛んだったことです。鰊漁の網元は、金融/醸造/呉服等、あらゆる方面へ事業を多角化したことが背景にあります。加えて、鉱業や地域港が地域のハブとして機能していたこともあります。倉庫業が発展したのが、その証です。

  • 岩内大火(1954)<br />昭和29年9月26日夜から翌朝にかけて、市街地の2/3が全焼する大火事を経験します。罹災者17223名、船舶は145艘、岩内は再起不能と呼ばれる惨状でした。手前は、前年発行の市街図。台風15号の襲来で、風速20mを超える風が吹き続けたことが大きな要因でした。

    岩内大火(1954)
    昭和29年9月26日夜から翌朝にかけて、市街地の2/3が全焼する大火事を経験します。罹災者17223名、船舶は145艘、岩内は再起不能と呼ばれる惨状でした。手前は、前年発行の市街図。台風15号の襲来で、風速20mを超える風が吹き続けたことが大きな要因でした。

  • 同日に洞爺丸事故があったために、当初は人々の注目を得られませんでした。北海道新聞の号外でさえ、このようなコマ割り。<br />町民は焼け跡にバラックを建て、道路建設による失業対策を経て、3年で市街は回復します。

    同日に洞爺丸事故があったために、当初は人々の注目を得られませんでした。北海道新聞の号外でさえ、このようなコマ割り。
    町民は焼け跡にバラックを建て、道路建設による失業対策を経て、3年で市街は回復します。

  • 飢餓海峡に登場する放火事件は、岩内大火がモデルだそうです。<br />高度成長期に入ると、国策で炭鉱は閉山へ追い込まれ、太平洋ベルト以外は恩恵を被らなくなります。岩内線も1968年に廃止対象にリスト入りします。

    飢餓海峡に登場する放火事件は、岩内大火がモデルだそうです。
    高度成長期に入ると、国策で炭鉱は閉山へ追い込まれ、太平洋ベルト以外は恩恵を被らなくなります。岩内線も1968年に廃止対象にリスト入りします。

  • 人口は1970年頃から減少を辿ります。<br />岩内港の求心力は低下し、地域物産の集積地としての地位は、地域の過疎化で低下します。それでも、トップアイドルが訪問する体力は残っていました。1978年のポスター。

    人口は1970年頃から減少を辿ります。
    岩内港の求心力は低下し、地域物産の集積地としての地位は、地域の過疎化で低下します。それでも、トップアイドルが訪問する体力は残っていました。1978年のポスター。

  • 1985年に国鉄岩内線は廃止され、バス転換されました。直江津港を結ぶ航路は1999年に廃止されます。ここ50年で人口は60%減少し、周囲の温泉観光地の旅館は閉鎖され、岩内に所在した官公庁/企業の出先機関は、倶知安等へ撤退し続けています。ヤマト運輸は、町内に拠点を持っていません。札幌までの直通バスが残っているのが、僅かな救いです。

    1985年に国鉄岩内線は廃止され、バス転換されました。直江津港を結ぶ航路は1999年に廃止されます。ここ50年で人口は60%減少し、周囲の温泉観光地の旅館は閉鎖され、岩内に所在した官公庁/企業の出先機関は、倶知安等へ撤退し続けています。ヤマト運輸は、町内に拠点を持っていません。札幌までの直通バスが残っているのが、僅かな救いです。

  • ツーリストが最初に到着するであろうバスターミナルを起点に、現地を歩いてみます。<br />

    ツーリストが最初に到着するであろうバスターミナルを起点に、現地を歩いてみます。

  • 隣接するのは、万代公園。

    隣接するのは、万代公園。

  • 園内には、地元出身画家のコレクションも。

    園内には、地元出身画家のコレクションも。

    木田金次郎美術館 美術館・博物館

  • 延々と前進(西進)すると、三角地に旧岩内町役場中央玄関の天井ドームが。ハイカラです。<br />BTからここまでの広い空き地は、旧国鉄岩内線の岩内駅構内だった故のスペースです。

    延々と前進(西進)すると、三角地に旧岩内町役場中央玄関の天井ドームが。ハイカラです。
    BTからここまでの広い空き地は、旧国鉄岩内線の岩内駅構内だった故のスペースです。

  • 手前の石碑には、ここがイワナイ運上屋本陣跡だったことを示す石碑が。

    手前の石碑には、ここがイワナイ運上屋本陣跡だったことを示す石碑が。

  • 石碑位置と当時の地割をプロットすると、石碑の通り向かいが運上所だったことが分かります。<br />

    石碑位置と当時の地割をプロットすると、石碑の通り向かいが運上所だったことが分かります。

  • 1751年に設置され、明治2年に廃止されるまで和人の居住/商業拠点でした。

    1751年に設置され、明治2年に廃止されるまで和人の居住/商業拠点でした。

  • ドームのある角(写真左手前枠外)に背を向け、十字路を横断します。真っ直ぐ伸びるのは中央通りで、写真右側が運上屋跡地です。明治時代は、この通り沿いが岩内の中心で、次の信号で交差するR229より手前が江戸時代からの市街地、その先が碁盤の目状に整備された明治以降の拡張された市街です。

    ドームのある角(写真左手前枠外)に背を向け、十字路を横断します。真っ直ぐ伸びるのは中央通りで、写真右側が運上屋跡地です。明治時代は、この通り沿いが岩内の中心で、次の信号で交差するR229より手前が江戸時代からの市街地、その先が碁盤の目状に整備された明治以降の拡張された市街です。

  • 写真は明治時代の同じ構図の写真です。馬車軌道が分岐しています。

    写真は明治時代の同じ構図の写真です。馬車軌道が分岐しています。

  • 当時の市街地図(南が上)で見ると、左下の海に沿って国鉄の駅構内、②から伸びる道が駅にぶつかった地点が、BTと万代公園東端です。①が石碑のある交差点です。

    当時の市街地図(南が上)で見ると、左下の海に沿って国鉄の駅構内、②から伸びる道が駅にぶつかった地点が、BTと万代公園東端です。①が石碑のある交差点です。

  • 真っ直ぐ中央通りへ進まず右折すると、右側にマルコー設備が。

    真っ直ぐ中央通りへ進まず右折すると、右側にマルコー設備が。

  • 〇甲(マルコウ)清水商店という銅鉄販売がルーツの歴史ある会社です。

    〇甲(マルコウ)清水商店という銅鉄販売がルーツの歴史ある会社です。

  • 次の信号を右折して進むと、左側にこんな碑が。

    次の信号を右折して進むと、左側にこんな碑が。

  • 実は、漱石は1892-1914年にかけて、本籍地を岩内に置いていました。有力な理由は、徴兵回避のためで、当時北海道は徴兵制が敷かれていませんでした。岩内には縁もゆかりもないことを、本人は述べています。1914年には、早稲田南町へ変更しています。

    実は、漱石は1892-1914年にかけて、本籍地を岩内に置いていました。有力な理由は、徴兵回避のためで、当時北海道は徴兵制が敷かれていませんでした。岩内には縁もゆかりもないことを、本人は述べています。1914年には、早稲田南町へ変更しています。

  • 当時は、三井物産岩雄登硫黄(鉱)山の御用商人だった浅岡家宅。北海道人との個人的つながりが、たまたま岩内で商売をしている人物だったようです。

    当時は、三井物産岩雄登硫黄(鉱)山の御用商人だった浅岡家宅。北海道人との個人的つながりが、たまたま岩内で商売をしている人物だったようです。

  • 意外なつながりを後に交差点へ戻り、元来た道へ戻ります。

    意外なつながりを後に交差点へ戻り、元来た道へ戻ります。

  • 万代御崎通りには、青橋が明治の花街の中心街だったことを示す石碑が。料亭/遊郭が建ちました。1880年の大火で遊郭は移転します。

    万代御崎通りには、青橋が明治の花街の中心街だったことを示す石碑が。料亭/遊郭が建ちました。1880年の大火で遊郭は移転します。

  • 今来た道振り返ると、こんな感じ。界隈は橘町と呼ばれました。

    今来た道振り返ると、こんな感じ。界隈は橘町と呼ばれました。

  • R229を進み、岩内町郷土館へ戻って来ました。<br />この裏、野束川から分岐する水路沿い(ファミマの裏)に、火力発電所と本社を置いていました。

    R229を進み、岩内町郷土館へ戻って来ました。
    この裏、野束川から分岐する水路沿い(ファミマの裏)に、火力発電所と本社を置いていました。

    岩内町郷土館 美術館・博物館

  • ホップ発見の地の石碑と、発見者が記念されています。

    ホップ発見の地の石碑と、発見者が記念されています。

  • ホップの実がなっています。<br />桑科と訊いて、妙に納得。<br />ちなみに、サッポロビールは花巻市のホップ園から撤退して、国産ホップ供給から撤退しています。

    ホップの実がなっています。
    桑科と訊いて、妙に納得。
    ちなみに、サッポロビールは花巻市のホップ園から撤退して、国産ホップ供給から撤退しています。

  • 109m四方の道路割の中、R229の一筋裏には

    109m四方の道路割の中、R229の一筋裏には

  • 簗瀬邸<br />郡長/郵便局長として岩内に尽くした旧会津藩士簗瀬真精が発注した邸宅。1906年築と推定され、玄関を中心に左右対称な和風建築です。

    簗瀬邸
    郡長/郵便局長として岩内に尽くした旧会津藩士簗瀬真精が発注した邸宅。1906年築と推定され、玄関を中心に左右対称な和風建築です。

  • 更に東進すると、岩内山帰厚院。岩内最古の寺院です。

    更に東進すると、岩内山帰厚院。岩内最古の寺院です。

    岩内山 帰厚院 寺・神社・教会

  • 境内には、1921建立の6.8mの大仏が安置され、東京以北では最大とされます。

    境内には、1921建立の6.8mの大仏が安置され、東京以北では最大とされます。

  • 右折して八幡通りまで進むと、岩内神社の鳥居が。

    右折して八幡通りまで進むと、岩内神社の鳥居が。

    岩内神社例大祭 祭り・イベント

  • 来た道へ戻ります。<br />坂を上ります。

    来た道へ戻ります。
    坂を上ります。

  • 右側には新しい岩内町役場が。住所は高台町で、岩内大火で被害を免れた崖で囲まれた台地です。

    右側には新しい岩内町役場が。住所は高台町で、岩内大火で被害を免れた崖で囲まれた台地です。

  • 一筋裏の八幡通りには、町民体育館などが建ちます。明治23年の大火後、市街地が拡大しました。

    一筋裏の八幡通りには、町民体育館などが建ちます。明治23年の大火後、市街地が拡大しました。

  • 右に協会病院が見えたら左折して、駅前通りを下ります。

    右に協会病院が見えたら左折して、駅前通りを下ります。

  • 病院が駅前通りに面したエリアには、日本アスパラガス発祥の地記念碑が。<br />当時は、近くに加工工場が建っていました。

    病院が駅前通りに面したエリアには、日本アスパラガス発祥の地記念碑が。
    当時は、近くに加工工場が建っていました。

    日本のアスパラガス発祥の地記念碑 名所・史跡

  • このように坂を下り、高台地区を後にします。写真は、坂を下り切って後ろを振り返った様子。

    このように坂を下り、高台地区を後にします。写真は、坂を下り切って後ろを振り返った様子。

  • 道の駅いわない<br />いろいろと揃うスポット。

    道の駅いわない
    いろいろと揃うスポット。

    道の駅 いわない 道の駅

  • 駅前通りを突っ切って、海岸線まで進みます。<br />道の駅を背に来た道を振り返った構図。

    駅前通りを突っ切って、海岸線まで進みます。
    道の駅を背に来た道を振り返った構図。

  • 漁期でないのか、漁船が少ないです。1906年から始まった築港事業は、第一期後に国費も投入されました。浚渫と築堤、埠頭整備が行われました。

    漁期でないのか、漁船が少ないです。1906年から始まった築港事業は、第一期後に国費も投入されました。浚渫と築堤、埠頭整備が行われました。

  • 整備前は日本海の波をモロに受けましたが、堤防で仕切って係留地を保護しました。台風時等は、漁船の避難場所となり、洞爺丸台風時の火災では145艘が延焼してしまった悲劇も生じました。<br />向こうには、泊原発が見えます。

    整備前は日本海の波をモロに受けましたが、堤防で仕切って係留地を保護しました。台風時等は、漁船の避難場所となり、洞爺丸台風時の火災では145艘が延焼してしまった悲劇も生じました。
    向こうには、泊原発が見えます。

  • 静かな港。定期航路もない状態が長く続きます。

    静かな港。定期航路もない状態が長く続きます。

  • 築港のかつての姿<br />浜です。鰊船が接岸できないので、沖へ桟橋(やり出し)を出しています。現在のフェリー埠頭の写真です。

    築港のかつての姿
    浜です。鰊船が接岸できないので、沖へ桟橋(やり出し)を出しています。現在のフェリー埠頭の写真です。

  • 岩内を後にします。<br />小樽行に乗って、余市を目指します。

    岩内を後にします。
    小樽行に乗って、余市を目指します。

  • おまけ<br />鰊漁の起こし船の側面には、このような豪華な装飾が施されていました。実用的/宗教的意味は一切ないので、粋を示すための100%贅沢な投資です。鰊マネーの凄さを感じる一品でした。<br />次の旅行記↓<br />https://4travel.jp/travelogue/11990063

    おまけ
    鰊漁の起こし船の側面には、このような豪華な装飾が施されていました。実用的/宗教的意味は一切ないので、粋を示すための100%贅沢な投資です。鰊マネーの凄さを感じる一品でした。
    次の旅行記↓
    https://4travel.jp/travelogue/11990063

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