2025/07/17 - 2025/07/17
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gianiさん
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札幌のベッドタウンに含まれる当別町は、戊辰戦争で逆賊の汚名を着せられ、領地1万4千石を丸々没収された岩出山伊達家主従の前人未踏の苦労の痕跡が残ります。
姻戚関係にあった冷泉家の至宝が北海道の片田舎に存在する意外な発見も。旭川、道東/道北へ通じる開拓の第一歩として、開拓史を語るうえで欠かせない土地の資料館を訪れました。
伊達邦直主従の言葉で表現できない苦労も伝わりました。
実弟伊達邦成主従の北海道開拓はコチラ↓
https://4travel.jp/travelogue/11776948
- 旅行の満足度
- 5.0
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月形から当別まで、札沼線廃止に伴う代替バスを利用します。
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北海道医療大学駅でJRに接続、隣の石狩当別駅までバス路線が設けられています。
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医学部系は歯科医のみ養成、薬剤師/看護師等の医療職を育成する高等教育機関です。
北海道医療大学駅 駅
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まずは、当別開拓原始の地を訪れます。
当別神社 寺・神社・教会
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1967年に当別神社と改名されるまで、阿蘇神社と呼ばれました。明治5年に開拓の松を植えた横に建てた祠が起源です。
当別開祖の伊達邦直逝去後は、彼を祭神として祀っています。 -
阿蘇公園には、開拓の面影がいろいろと遺っています。
阿蘇公園 公園・植物園
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当別伊達記念館へ行って情報収集。
伊達邦直(1834-91)
仙台藩一門第8席・岩出山伊達家10代当主。戊辰戦争の責任を問われ、領地14000石を僅か65石に減らされます。当主として、家督相続時736名いた家臣と背後の家族を養うべく北海道開拓に身を投じて当別町の基礎を築きます。伊達市を開拓した亘理伊達家当主(一門第3席)伊達邦成は、実弟にあたります。伊達邸別館、当別伊達記念館 美術館・博物館
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岩出山城
宮城県大崎市に位置し、秀吉による奥州仕置で政宗が米沢から移封されたお城です。徳川政権での仙台(青葉)城築城までの期間(1591-1603)、伊達政宗の居城でした。
岩出山伊達家
政宗四男宗泰(1602-39)を祖とします。政宗は大名格の1万石を与え、江戸詰の職務を命じて幕閣とも接触させ、宇和島藩を創設した庶子秀宗のように幕府から大名に取り立てられることを目論むも実現せず、支藩ではなく家臣として代々仙台当主に仕えることになります。 -
菊荻薄几帳模様箔内掛(1675)
第12代当主冷泉為清娘の於妻が岩出第3代当主伊達敏親へ嫁いだ際の嫁入り道具の一つ。普通に文化財クラスです。刺繡の美しさにため息が出ます。 -
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※冷泉家:藤原定家直系の子孫。日本一の文化人を継承する家系。 -
化粧道具をズームアップ。
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松竹梅模様縫箔振袖(1705)
第13代当主冷泉為綱娘の伊世が岩出第4代当主伊達村泰へ嫁いだ際の嫁入り道具の一つ。 -
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※村泰は婿養子なので、2代続けて嫁入りしても血縁上の遺伝障害等は起きません。 -
扇草花模様縫箔綸子打掛(1705)
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こちらは夏用でしょうか。薄めの生地です。
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子授けの霊力をあらわす桃の刺繍も見えます。甲斐あって子宝に恵まれ、2名以上の男子が成人しています。
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鏡と鼈甲細工の施された櫛と簪
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源氏かるた
源氏物語全54帖の各帖から一首ずつ選んだもの。読み札/取り札の文字は、全て為綱の自筆です。思わぬ至宝に出会え、びっくりです。 -
癖の強い定家様とは違い、雅がストレートに伝わる書体です。
記念館には、姻戚関係にあった冷泉家との様々なやり取りで用いられた書簡が所蔵されます。 -
余談ですが、こちらは京都の冷泉家が一般開放されたときに訪れた時の写真。京都御所の春の一般公開と重なりました。
明治維新後に天皇が江戸へ移動したのに伴い、公家衆も東京へ移りましたが、唯一京都に留まったのが冷泉家です。 -
写真中央は、第5代当主伊達村緝が着用した長袴(正装)。藤原家嫡流にして五摂関家筆頭の近衛家から拝領した品です。
写真左の火事装束と右の陣羽織は、第10代当主伊達邦直が江戸時代に着用したものです。江戸での消火活動などに携わりました。 -
伊達邦直は、奥羽越列藩同盟の下で活躍しますが、仙台藩は同盟を離脱して新政府に従います。仙台藩は62万→28万石へ減俸されますが、伊達邦直は14643→58石への減俸になり、家臣と家族3000余名を養うのは不可能になります。そこで北辺の開拓と警備を自費で行うことで、逆賊の汚名と失業問題を挽回しようとします。申請は受理され、石狩国空知郡を委ねられます。家臣を藩校有備館に集めて説明会を開き、43戸161名が志願します。
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視察(下見)旅行(1870)
船で入道し、函館から陸路で札幌の開拓使を目指します。ここで初めて、現在の奈井江町周辺の土地を割り当てられます。当時、札幌より先は未開の地で、役人も足を踏み入れたことの無い土地を地図上で事務処理しただけでした。船で石狩川を遡り、上陸/小屋を建てて宿泊します。現地には上陸碑が建ちます。内容は、過酷な探検でした。 -
残念ながら開拓に適した土地ではなく、小野省八郎らを現地に残し、沿岸部と土地交換できないか開拓使との交渉に当たらせます。家老任せではなく、邦直自ら下見したことからより適切な判断を下せました。そしてシップを拝領します。旧松前藩の交易所に近い石狩川河口部です。宮城から室蘭入りした181名は、シップを目指します。
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現在の石狩市聚富地区にあたるシップには、第一陣の入植を記念した石碑があります。漁小屋3棟を借り受けて、共有しました。
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当時の屋敷割もしっかりと分かります。視察後も現地で折衝に当たった小野省八郎/伊藤鼎の屋敷も記載されています。
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海風は冷たく、砂地ということもあって発芽不良に悩まされ、農耕に不適切なことが判明、代替地を探すべく調査隊を組織します。
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調査は2回にわたり、当別が肥沃な土地であると分かります。とはいえ、移住の資金を作るために既に家財等を売却して来道していたので、元手がありません。
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こちらは、当別拝領のために開拓使本庁へ提出した図面。当別川沿いが描かれ、支流の部分に「左右開墾に宜し」と。西南方向は厚田郡堺迄、東北方向も(空知)郡境迄と書かれています。
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石狩川河口に倉庫を建てる事業を請け負い、総出で取り組み1000余円の資金を得ます。石狩道に面したシップから当別へ至る道路を建設します。五里七丁(全長20.4km)を僅か13日で完成させました。
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いざ開拓
邦直は旧領へ戻り、開拓団の第2陣182名を引き連れます。第1陣と合わせて新しい当別の地を開拓します。阿蘇公園のイチイノキは、一行が到着して野営した際の基準樹です。下見の際は、この木の下で宴を開きました。 -
2018年の台風で倒れるも、再び立たせます。
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いざ開拓(1872-)
邦直は旧領へ戻り、開拓団の第2陣182名を引き連れます。新しい当別の地を開拓します。当初は開拓小屋と呼ばれる笹小屋でしたが、強い結束力を武器に開拓を成功させます。最初の屯田兵村ができたのは、当別開拓の3年後でした。当別開拓は、その後の北海道集団開拓のモデルとされました。 -
こんな感じで道を拓いて移住しました。
後に、第3陣も移住してきました。 -
続いて伊達邸別館へ移動します。
筆は、仙台本家17代当主によるものです。 -
左側には記念館が写り込んでいます。
1880年築で、建設の動機は、菊亭侯爵の滞在に備えて建設した迎賓館でした。その後は、小松宮を筆頭とする貴賓、役人等の宿舎としても利用されました。 -
玄関の左側は、書院造の和室があります。
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こんな感じです。
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右側は洋間になっており、会議室としても使われました。
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当別村にも戸長が置かれることになり、元家老の吾妻が就任します。
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1891年に邦直は当別で死去します。1914年には、正五位に昇進します。
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1892年に第12代当主伊達正人は、祖父の功を以てして男爵に叙任されます。
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こちらは、そのお祝いに本家から拝領した三幅対(1705)。左は柏雉子、中央は太公望、右は芦鴛鴦。
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見学を終えて、当別駅へ。
周囲には、レンガ建築があって情緒があります。こちらは、ふれあい倉庫と呼ばれる商業施設になっています。そば切り 高陣 グルメ・レストラン
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札沼線が複線化/電化されているのに、改めて驚きます。
石狩当別駅 駅
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石狩川を渡ります。
次は、余市を目指します↓
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