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お嬢と行く大阪・京都(1-⑮/完)"大阪関西万博2025"【イエメン】

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2025/07/17 - 2025/07/17

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旅熊 Kokaz

旅熊 Kokazさん

お嬢と行く大阪・京都(1-⑮/完)"大阪関西万博2025"【イエメン】

  • 『《総説》イエメンという国 松本 弘(大東文化大学国際関係学部・教授)』によると、<br />https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/yemen/country/<br /><br />『正式国名はイエメン共和国。アラビア半島の南西角に位置し、西に紅海、南にアラビア海(ともにインド洋の付属海)、北にサウジアラビア、東にオマーンと接する。<br /><br />1990年5月22日に、イエメン・アラブ共和国(以下、旧北イエメン)とイエメン人民民主共和国(以下、旧南イエメン)が統合されて成立した。旧北イエメンの人口密度は旧南イエメンのおよそ5倍であり、この格差が統一後のさまざまな問題の背景となった。<br /><br />民族構成は大半がアラブ人であり、少数のユダヤ人やインド系およびアフリカ系住民が居住する。宗教は大半がイスラームであり、その宗派は人口の65%がスンナ派(シャーフィイー法学派)、35%がシーア派のザイド派とされる(CIA推計)。そのほかに、ごく少数のシーア派のイスマーイール派、ユダヤ教などの信徒が居住する。』<br />

    『《総説》イエメンという国 松本 弘(大東文化大学国際関係学部・教授)』によると、
    https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/yemen/country/

    『正式国名はイエメン共和国。アラビア半島の南西角に位置し、西に紅海、南にアラビア海(ともにインド洋の付属海)、北にサウジアラビア、東にオマーンと接する。

    1990年5月22日に、イエメン・アラブ共和国(以下、旧北イエメン)とイエメン人民民主共和国(以下、旧南イエメン)が統合されて成立した。旧北イエメンの人口密度は旧南イエメンのおよそ5倍であり、この格差が統一後のさまざまな問題の背景となった。

    民族構成は大半がアラブ人であり、少数のユダヤ人やインド系およびアフリカ系住民が居住する。宗教は大半がイスラームであり、その宗派は人口の65%がスンナ派(シャーフィイー法学派)、35%がシーア派のザイド派とされる(CIA推計)。そのほかに、ごく少数のシーア派のイスマーイール派、ユダヤ教などの信徒が居住する。』

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  • 『2011年「アラブの春」のなかで、イエメンも深刻な混乱と政変に見舞われ、さらに2015年には現在まで続く内戦が勃発した。<br /><br />イエメンは世界銀行により最も貧しいとされる低所得国に分類されている。産業構成は、2019年では農業が19.0%、サービス業が60.5%に変化した(国連統計)。農業従事者は労働人口の50~60%を占めるが、GDPに占める割合は10%台に過ぎない。<br /><br />1988年から旧北イエメンで石油の生産を開始し、当時は大きな財政収入となったが、その後に生産量が落ち込んだ。天然ガス田も発見されているが、その開発は進んでいない。イエメン最大の産業は、経済協力である。外国や国際機関から開発援助を獲得することが政府の最優先課題であり、獲得した援助を国内で不満が生じないように分配することが、政権延命の絶対条件である。』

    『2011年「アラブの春」のなかで、イエメンも深刻な混乱と政変に見舞われ、さらに2015年には現在まで続く内戦が勃発した。

    イエメンは世界銀行により最も貧しいとされる低所得国に分類されている。産業構成は、2019年では農業が19.0%、サービス業が60.5%に変化した(国連統計)。農業従事者は労働人口の50~60%を占めるが、GDPに占める割合は10%台に過ぎない。

    1988年から旧北イエメンで石油の生産を開始し、当時は大きな財政収入となったが、その後に生産量が落ち込んだ。天然ガス田も発見されているが、その開発は進んでいない。イエメン最大の産業は、経済協力である。外国や国際機関から開発援助を獲得することが政府の最優先課題であり、獲得した援助を国内で不満が生じないように分配することが、政権延命の絶対条件である。』

  • 『イエメンにおける農業は、古代において高価で取引された乳香や没薬も生産し、交易相手のエジプト・シリア方面から、イエメンは「幸福のアラビア」と呼ばれた。農業と交易は、サバ王国(BC8世紀~AD3世紀)やヒムヤル王国(BC1世紀~AD575ca)などの南アラビア古代諸王国成立の要因でもあり、アラビア半島随一の古代文明を形成した。また、砂漠のなかに奇跡のように出現するイエメン山地の緑地や耕地は、中世の資料に「緑のイエメン」という呼称を残した。さらに15世紀になると、紅海対岸のエチオピアを原産地とするコーヒー豆の生産が、イエメン山地で始まった。降雨があり霜が降りない高地という生育条件に適したイエメンは、当時のコーヒー豆の一大産地となり、それは紅海の輸出港ムハーの名を取ってモカコーヒーと呼ばれた。<br /><br />一方、カートと呼ばれる嗜好品の栽培も盛んに行われている。カートの葉には、軽度の覚醒作用をもたらす成分が含まれ、大量の葉を口中に入れ奥歯で押し嚙むようにして、その葉液のみを摂取する。片頬を膨らませた男性の姿は、イエメンの風物ともなっている。一般に社交の場で用いられ、友人宅のカートパーティーでカートを噛みながらの談笑が続く。しかし、近年では農地がカート耕地に転用され、他の農作物の生産量が落ち込む問題も深刻化している。』

    『イエメンにおける農業は、古代において高価で取引された乳香や没薬も生産し、交易相手のエジプト・シリア方面から、イエメンは「幸福のアラビア」と呼ばれた。農業と交易は、サバ王国(BC8世紀~AD3世紀)やヒムヤル王国(BC1世紀~AD575ca)などの南アラビア古代諸王国成立の要因でもあり、アラビア半島随一の古代文明を形成した。また、砂漠のなかに奇跡のように出現するイエメン山地の緑地や耕地は、中世の資料に「緑のイエメン」という呼称を残した。さらに15世紀になると、紅海対岸のエチオピアを原産地とするコーヒー豆の生産が、イエメン山地で始まった。降雨があり霜が降りない高地という生育条件に適したイエメンは、当時のコーヒー豆の一大産地となり、それは紅海の輸出港ムハーの名を取ってモカコーヒーと呼ばれた。

    一方、カートと呼ばれる嗜好品の栽培も盛んに行われている。カートの葉には、軽度の覚醒作用をもたらす成分が含まれ、大量の葉を口中に入れ奥歯で押し嚙むようにして、その葉液のみを摂取する。片頬を膨らませた男性の姿は、イエメンの風物ともなっている。一般に社交の場で用いられ、友人宅のカートパーティーでカートを噛みながらの談笑が続く。しかし、近年では農地がカート耕地に転用され、他の農作物の生産量が落ち込む問題も深刻化している。』

  • 『 この緑(農業)をもたらしたモンスーンは、東南アジアやインドの物品を地中海方面に運ぶ「香料の道」という海上交易路にも用いられ、アラブ世界に名高い「イエメン商人」を生み出した。アデンやシフルといったイエメン南岸の港湾には、冬季の北東季節風を用いた商船がインド方面から到来し、香辛料などの交易品を陸揚げした(商船は半年後の夏季南西季節風を待ってインド方面に戻る)。交易品は、紅海を北上する海上ルートや砂漠の移動に適したラクダを用いたイエメン山地と砂漠の境界線ルート、馬やロバを用いたイエメン山地縦断ルートに分かれて地中海方面に向かう。これらを担ったのが、イエメン商人であった。<br /><br />農業と交易は、確かにイエメンに富をもたらした。しかし、それはあくまでアラビア半島のなかで豊かであったという意味で、当然ながらエジプトやメソポタミヤと比較すれば、農業も交易もその規模は限られていた。イエメン商人という外向性がある一方で、同時にイエメンには保守的で排外的な性格も根強い。その内向性の担い手が、イエメンの部族社会である。』

    『 この緑(農業)をもたらしたモンスーンは、東南アジアやインドの物品を地中海方面に運ぶ「香料の道」という海上交易路にも用いられ、アラブ世界に名高い「イエメン商人」を生み出した。アデンやシフルといったイエメン南岸の港湾には、冬季の北東季節風を用いた商船がインド方面から到来し、香辛料などの交易品を陸揚げした(商船は半年後の夏季南西季節風を待ってインド方面に戻る)。交易品は、紅海を北上する海上ルートや砂漠の移動に適したラクダを用いたイエメン山地と砂漠の境界線ルート、馬やロバを用いたイエメン山地縦断ルートに分かれて地中海方面に向かう。これらを担ったのが、イエメン商人であった。

    農業と交易は、確かにイエメンに富をもたらした。しかし、それはあくまでアラビア半島のなかで豊かであったという意味で、当然ながらエジプトやメソポタミヤと比較すれば、農業も交易もその規模は限られていた。イエメン商人という外向性がある一方で、同時にイエメンには保守的で排外的な性格も根強い。その内向性の担い手が、イエメンの部族社会である。』

  • 『アラビア半島の80%以上を砂漠が占めるが、イエメンの国土のおよそ半分は山岳高原地帯となっている。標高2000~3000m級の山々が旧北イエメン中央部を縦走し、首都サナア近郊にはアラビア半島最高峰のナビー・シュアイブ山(3666m)がある。山々の間には大きな盆地平野も南北に続いており、標高がより高く峻険な地形の多い旧北イエメン北部の山岳地帯は上イエメン、大規模な盆地平野が多い旧北イエメン南部の高原地帯は下イエメンと呼ばれ、ダマール州がその境界とされる。イエメン山地は東に向かって標高を下げ、やがて半島最大のルブゥ・アルハーリー砂漠に至る。イエメン山地はタイズ州南部で終わるが、旧南イエメンの内陸部には岩石の高地地帯が東西に走る。』

    『アラビア半島の80%以上を砂漠が占めるが、イエメンの国土のおよそ半分は山岳高原地帯となっている。標高2000~3000m級の山々が旧北イエメン中央部を縦走し、首都サナア近郊にはアラビア半島最高峰のナビー・シュアイブ山(3666m)がある。山々の間には大きな盆地平野も南北に続いており、標高がより高く峻険な地形の多い旧北イエメン北部の山岳地帯は上イエメン、大規模な盆地平野が多い旧北イエメン南部の高原地帯は下イエメンと呼ばれ、ダマール州がその境界とされる。イエメン山地は東に向かって標高を下げ、やがて半島最大のルブゥ・アルハーリー砂漠に至る。イエメン山地はタイズ州南部で終わるが、旧南イエメンの内陸部には岩石の高地地帯が東西に走る。』

  • 『イエメン各地の部族は、中央政府に対する地方の政治勢力であり、それぞれに政治的影響力を保持してきた。部族長は政府に対するさまざまな陳情を行なう一方で、その部族や地方の連帯や利害を背景とした圧力も政府にかけた。それは、都市で逮捕された部族民の釈放要求から外国の援助の割り当て交渉まで多岐にわたるが、政府は地方部族との関係を損なわずに穏便にことを進めるよう、常に腐心しなければならなかった。<br /><br /> なかでも、上イエメンの山岳地帯に居住するハーシド部族連合とバキール部族連合は、拠って立つ峻険な地形を天然の要害とし、強力な民兵力を保持して、長くイエメン最大の圧力団体というべき位置を占めた。冒頭で記したザイド派の信徒は、このハーシド部族連合とバキール部族連合の部族民であり、その居住地域は近代まで歴代王朝の支配に入らず、自治を続けてきた。彼らは第一次大戦後の北イエメンに、ザイド派のイマーム(指導者)を国王とする王国を建国したが、1962年の北イエメン革命で打倒された。しかし、その後のイエメン・アラブ共和国においても、両部族連合は中央政府にとって必要不可欠な支持基盤となるとともに、潜在的な対抗勢力であり続けた。<br /><br /> 2015年から続く現在の内戦において、一方の主体を形成するホーシー派(フーシ派)はもともとザイド派の復興運動を起源とするもので、その担い手は両部族連合の若い部族民であった。しかし、だからといって両部族連合そのものが、内戦の主体となっているわけではない。実は、イエメンは1996年にIMF世銀の構造調整を受け入れており、それにより破綻寸前の経済が再建された。当時のサーレハ政権はその過程で、構造調整の莫大な資金に関わるさまざまな利権を駆使して部族長を懐柔し、両部族連合の政治的影響力を減退させた。若い部族民たちは、政権に篭絡された部族長に幻滅し、両部族連合の凋落に憤慨した。彼らの不満の受け皿となったのが、部族に代わるアイデンティティとしてザイド派を提示するホーシー派であった。それゆえ、内戦の背景には、地方の部族社会における深刻な世代対立という新しい変化があるといえよう。イエメン政治の不安定性や混乱には、常に地方部族の政治的影響力や部族社会の変容が関わっている。』とのこと。

    『イエメン各地の部族は、中央政府に対する地方の政治勢力であり、それぞれに政治的影響力を保持してきた。部族長は政府に対するさまざまな陳情を行なう一方で、その部族や地方の連帯や利害を背景とした圧力も政府にかけた。それは、都市で逮捕された部族民の釈放要求から外国の援助の割り当て交渉まで多岐にわたるが、政府は地方部族との関係を損なわずに穏便にことを進めるよう、常に腐心しなければならなかった。

     なかでも、上イエメンの山岳地帯に居住するハーシド部族連合とバキール部族連合は、拠って立つ峻険な地形を天然の要害とし、強力な民兵力を保持して、長くイエメン最大の圧力団体というべき位置を占めた。冒頭で記したザイド派の信徒は、このハーシド部族連合とバキール部族連合の部族民であり、その居住地域は近代まで歴代王朝の支配に入らず、自治を続けてきた。彼らは第一次大戦後の北イエメンに、ザイド派のイマーム(指導者)を国王とする王国を建国したが、1962年の北イエメン革命で打倒された。しかし、その後のイエメン・アラブ共和国においても、両部族連合は中央政府にとって必要不可欠な支持基盤となるとともに、潜在的な対抗勢力であり続けた。

     2015年から続く現在の内戦において、一方の主体を形成するホーシー派(フーシ派)はもともとザイド派の復興運動を起源とするもので、その担い手は両部族連合の若い部族民であった。しかし、だからといって両部族連合そのものが、内戦の主体となっているわけではない。実は、イエメンは1996年にIMF世銀の構造調整を受け入れており、それにより破綻寸前の経済が再建された。当時のサーレハ政権はその過程で、構造調整の莫大な資金に関わるさまざまな利権を駆使して部族長を懐柔し、両部族連合の政治的影響力を減退させた。若い部族民たちは、政権に篭絡された部族長に幻滅し、両部族連合の凋落に憤慨した。彼らの不満の受け皿となったのが、部族に代わるアイデンティティとしてザイド派を提示するホーシー派であった。それゆえ、内戦の背景には、地方の部族社会における深刻な世代対立という新しい変化があるといえよう。イエメン政治の不安定性や混乱には、常に地方部族の政治的影響力や部族社会の変容が関わっている。』とのこと。

  • 外務省 イエメン共和国(Republic of Yemen)基礎データ<br />1 面積:55.5万平方キロメートル(日本の約1.5倍弱)<br />2 人口:約3,370万人(2022年/世銀)<br />3 首都:サヌア<br />4 民族:主としてアラブ人<br />5 言語:アラビア語<br />6 宗教:イスラム教(スンニ派及びザイド派(シーア派の一派))<br /><br />7 略史<br />紀元前10世紀頃~:古代イエメンの王国はインドと地中海及び東アフリカの貿易の中継地として繁栄。古代ギリシャ人、ローマ人から「アラビア・フェリックス」(幸福のアラビア)と呼ばれる。<br />9世紀~:ザイド派のイマーム(宗教指導者)が支配。<br />16世紀~:	オスマン・トルコが北イエメン地域を支配。<br />1839年:英国がアデンを占領。以降南イエメン地域を保護領とした。<br /><br />北イエメン地域では、1918年オスマン・トルコからイマーム王国が独立。その後1962年には軍による共和制革命によりイマーム王制が廃止され、イエメン・アラブ共和国が成立(旧北イエメン)。<br />南イエメン地域では、1962年に南アラビア連邦が発足したが、反英運動が激化し、1967年英国から南イエメン人民共和国として独立。1969年マルクス・レーニン主義を標榜する社会主義政権が誕生し、1970年にイエメン民主人民共和国と国名を改めた(旧南イエメン)。<br />東西冷戦構造もあり、1970年代、1980年代には南北イエメン間でたびたび武力衝突が発生したが、統一への努力は継続された。<br /><br />1989年11月30日	アデン合意により南北統一への途が開かれる。<br />1990年5月22日	南北イエメン統合により現在のイエメン共和国が成立。

    外務省 イエメン共和国(Republic of Yemen)基礎データ
    1 面積:55.5万平方キロメートル(日本の約1.5倍弱)
    2 人口:約3,370万人(2022年/世銀)
    3 首都:サヌア
    4 民族:主としてアラブ人
    5 言語:アラビア語
    6 宗教:イスラム教(スンニ派及びザイド派(シーア派の一派))

    7 略史
    紀元前10世紀頃~:古代イエメンの王国はインドと地中海及び東アフリカの貿易の中継地として繁栄。古代ギリシャ人、ローマ人から「アラビア・フェリックス」(幸福のアラビア)と呼ばれる。
    9世紀~:ザイド派のイマーム(宗教指導者)が支配。
    16世紀~: オスマン・トルコが北イエメン地域を支配。
    1839年:英国がアデンを占領。以降南イエメン地域を保護領とした。

    北イエメン地域では、1918年オスマン・トルコからイマーム王国が独立。その後1962年には軍による共和制革命によりイマーム王制が廃止され、イエメン・アラブ共和国が成立(旧北イエメン)。
    南イエメン地域では、1962年に南アラビア連邦が発足したが、反英運動が激化し、1967年英国から南イエメン人民共和国として独立。1969年マルクス・レーニン主義を標榜する社会主義政権が誕生し、1970年にイエメン民主人民共和国と国名を改めた(旧南イエメン)。
    東西冷戦構造もあり、1970年代、1980年代には南北イエメン間でたびたび武力衝突が発生したが、統一への努力は継続された。

    1989年11月30日 アデン合意により南北統一への途が開かれる。
    1990年5月22日 南北イエメン統合により現在のイエメン共和国が成立。

  • 【イエメンの観光情報】<br />  ↓  ↓  ↓  <br />イエメンで観光はできる?おすすめ観光スポット5選&治安情報を紹介<br />https://newt.net/yem/mag-9877686944<br /><br />在イエメン日本国大使館 <br />https://www.ye.emb-japan.go.jp/itpr_ja/about_yemen.html

    【イエメンの観光情報】
      ↓  ↓  ↓  
    イエメンで観光はできる?おすすめ観光スポット5選&治安情報を紹介
    https://newt.net/yem/mag-9877686944

    在イエメン日本国大使館
    https://www.ye.emb-japan.go.jp/itpr_ja/about_yemen.html

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