2025/06/19 - 2025/06/19
76位(同エリア17046件中)
- #パリ
- #オルセー美術館
- #ルーブル美術館
- #カフェカンパナ
- #カフェ・モリアン
- #ブキニスト
- #シェイクスピアカンパニーカフェ
- #Perigourdine
- #サンジェルマン大通り
- #サン=ジェルマン=デ=プレ教会
関連タグ
SamShinobuさん
- SamShinobuさんTOP
- 旅行記132冊
- クチコミ1件
- Q&A回答1件
- 216,034アクセス
- フォロワー118人
今日は昨日夕飯を共にした友人と2人で、オルセー美術館とルーブル美術館をはしごする。かなりの強行軍になるが、62歳の体力の限界に挑戦だ。
-
時差ボケであまり眠れず、早朝に起きてしまった。ホテルのまわりをぶらぶらする。
-
8:00に友人とロビーで待ち合わせ。さあ、出かけよう。
パリの朝は独特な光と空気に満ち溢れていて、まだ人も少なく気持ちいい。 -
Googlemapによると、ホテルからオルセー美術館まで徒歩40分ほどなので、街歩きも兼ねて歩いて行くことに。
-
パリ市内は近代的な建物はほとんど無く、全てが石造りの歴史的建造物だ。
-
右を向いても左を見ても日本だったら「すげぇ~!」ってなる名建築ばかり。いや、名建築しか建っていない。初めのうちは写真を撮りまくっていたが、10分も歩いたらお腹いっぱいになって、もはや何を撮ったらいいか分からなくなった。
-
サンジェルマン大通りには、おしゃれなカフェが多い。
-
サン=ジェルマン=デ=プレ教会。
パリで最も古い教会だ。 -
堅牢なロマネスク様式にうっとりする。
内部は改築されてゴシック様式らしい。見てみたかったが、オルセー美術館の予約時間があったので、ここは外観だけで我慢。 -
オルセー美術館に到着。だんだん暑くなってきた。
-
セーヌ川のほとりでしばし休憩。
-
オルセー美術館
1900年、パリ万国博覧会の開催に伴い大型の駅が誕生した。その後1939年に幹線の運行は中止されたが、1986年に美術館としてオープンする。
収蔵している美術品だけでなく、建物自体も凄い文化財だ。かつての鉄道駅としての面影が多く残っていて、時が止まったかのような雰囲気が漂っている。 -
Entrance A2が事前予約者の入口だ。日本からtiqetsで予約し、支払(入館料€16+手数料€3)も済ませていた。
-
A2に行くとレーンが2つあり、予約時間によって9:30、10:00、10:30と30分刻みに交互に並ぶシステムのようだ。9:30に予約しているので、そのレーンに並ぶ。
-
入館すると、まずセキュリティチェックがある。
その後、tiqetsのアプリに表示されるQRコードをリーダーにかざし入場。 -
そこはかつて駅のホームだった0階だ。
ちなみにフランスでは日本の1階は0階。日本の2階が1階となる。 -
右手にあるInformationで日本語マップを貰った。
-
自由の女神
-
天球を支える世界の四方位
ジャン・バティスト・カルポー
四方位とはヨーロッパ、アフリカ、アメリカ、アジアのことで、それぞれ四大陸の人種の女性像を表している。 -
中央通路を真っすぐ進み、一番奥のエレベーターで5階へ。
-
5階
駅舎だった頃をしのばせる大時計。みんな記念撮影している。 -
大時計から外の景色が見える。
-
ここからは名画のオンパレード。もし日本に来たら、その1枚だけで大混雑必至の超有名な作品ばかり。それを駆け足で観なければならないのが残念だ。
ただし、オルセーで一番観たかったアンリ・ルソーの「戦争」「蛇使い」の展示はない。事前にオルセーのホームページで確認済だが、それが分かった時はがん萎えだった。まあ、最終日に訪れるオランジェリー美術館にはルソー作品が多数あるので、今回はそれでよしとしよう。 -
草上の昼食 (1862年–1863年)
エドゥアール・マネ
マネがまだ18歳の頃、父親が21歳の肉感的なピアノ教師をマネに充てがう。実は彼女は父の愛人だった。マネはピアノを習ううちに、つい彼女と関係を持ってしまう。すると彼女は妊娠してしまい、子供の父親はマネなのかマネの父なのか最後まで分からなかった。マネの父親が死んで、結局マネは彼女と結婚するが、マネは子供を認知しなかった。
マネが両親を描いた絵があるが、親子関係が冷めきっていると批評される。そりゃそうでしょ。どんな複雑な家庭なんだよ。
さて、この「草上の昼食」は、宗教画でも神話でもない普通のピクニックの一場面に裸の女性を描いたことで、「なんてエロいんだ!けしからん!」となった作品だ。正直それほど官能的ではないし、同じ年に描かれたカバネルの「ヴィーナスの誕生」の方がよっぽどエロい。しかし「ヴィーナスの誕生」は神話だから、どんなにエロかろうと許される。マネは確信犯的にそこを突いてきた。後に印象派と言われる画家たちは、旧態依然としたフランス芸術アカデミーに対抗するマネを見て、「先輩、一生付いていきます!」と慕うようになる。マネリスペクトで、モネやセザンヌも「草上の昼食」を描いているのが面白い。また、有名な映画監督になったルノワールの息子ジャン・ルノワールは「草上の昼食」という映画を撮っている(邦題「草の上の昼食」)。 -
ドラクロワ礼賛(1864年)
アンリ・ファンタン・ラトゥール -
草上の昼食 (1865年)
クロード・モネ
マネリスペクトで描き始めたが、あまりに大きくて完成しなかった。そればかりか宿代のかたに取られたことで損傷が激しく、後に切断されて残念な形で残っている。 -
蝶取り(1874年)
ベルト・モリゾ
かなりの美人だったモリゾはマネのモデルを務め、マネが彼女を描いた絵画は11作品も残っている。当初カミーユ・コローの弟子だったモリゾはマネの才能に惚れ込み弟子入りを申し込むが、「わしゃ弟子は取らん」と断られてしまう。しかしその後、マネはあっさりとモリゾより8歳下のエヴァ・ゴンザレスを弟子にしてしまう。豊満で肉感的なエヴァ・ゴンザレスは、ポチャ好きなマネの好みだったらしく、モリゾはこれに嫉妬の炎を燃やすことに。
印象派の画家たちからは慕われていたマネだが、モリゾが印象派展に参加するのは反対していた。しかしモリゾは第一回印象派展に出品し、マネとの決別を決意。それどころかマネの弟との結婚を決めてしまう。それがマネへの当てつけだったのかどうかは分からないが、その後モリゾは優しい夫と娘に恵まれ幸せな人生を送った。それに結婚してから彼女の絵はますます良くなったので、結果オーライだったんじゃないかな。
モリゾを描いた映画「画家モリゾ、マネの描いた美女~名画に隠された秘密」(2012年)を観ると、そのあたりのことがよく描かれていて興味深い。 -
ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会(1876年)
オーギュスト・ルノワール
言わずと知れたルノワールの名画。木漏れ日の表現笑。ただルノワールも印象派の手法に思うところがあったようで、その後スタイルが大きく変わっていった。 -
ぶらんこ(1876年)
オーギュスト・ルノワール
これも「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」と同じ年の作品で、手法も同じ。木漏れ日! -
陽光の中の裸婦(1875年−1876年)
オーギュスト・ルノワール
第2回印象派展に出展した時は「肌に死斑が出ている」と批判された。肌に回りの緑の光が映っていることを筆触分割で表現しているんだけど、果たして上手くいっているのかなあ。 -
クロード・モネ(1875年)
オーギュスト・ルノワール
ルノワールが描いたモネの肖像。35歳のモネ。 -
イタリア座の桟敷席(1874年)
エヴァ・ゴンザレス
マネの唯一の弟子だったぽっちゃりゴンザレスの作品。オペラ座のボックス席で観劇する人々が描かれているが、マネの影響をもろ受けてる笑。 -
舞台のバレエ稽古(1874年頃)
エドガー・ドガ
ドガは1874年第1回印象派展の立ち上げメンバーだが、外の光で描く印象派たちと違ってほとんど室内で描いていた。
オペラ座の舞台裏や練習風景を描いた作品が300枚以上ある。当時バレリーナになるのは、金持ちの愛人にならないと生きていかれないような貧しい家の娘たちだった。 -
この稽古を見ているおっさんもバレリーナのパトロンか、あるいは「いい娘いないかな」と品定めをしている金持ちだ。ドガはあえてそんな闇の部分も描いている。
-
アイロンをかける女たち(1884年)
エドガー・ドガ
この一瞬を切り取る力は見事。さすがデッサンの天才、ドガ。 -
思ったより人も少なく、写真も撮り放題だった。
-
都会のダンスと田舎のダンスだ!
-
都会のダンス(1883年)
オーギュスト・ルノワール
このモデルはユトリロの毒母、シュザンヌ・ヴァラドン。貧しかったヴァラドンはルノワールやロートレックのモデルをして生活費を稼いでいた。美人だが身持ちの悪いヴァラドンは、この絵の描かれた12月に18歳で父親不明のユトリロを産む。そのためルノワール父親説が濃厚だが、当時貧乏なルノワールより金持ちのロートレックの方がいいと思っていたヴァラドン。ロートレックとも付きあったが、遊び人のロートレックはすぐにヴァラドンの本性を見抜き逃げ出した。 -
田舎のダンス(1883年)
オーギュスト・ルノワール
「田舎のダンス」のモデルは、ルノワールの彼女だったアリーヌ・シャリゴ。一説によると初めはこの絵もヴァラドンをモデルに描こうとしていたが、2人の仲を疑ったアリーヌが「私も描いて!」と迫ったらしい。「都会のダンス」のヴァラドンの美しさに比べて、「田舎のダンス」のアリーヌはぽっちゃりしていてどこか垢抜けない。でもとても幸せそうだ。
結果としてシルクをまとった都会女性と、木綿の服を着た素朴な田舎娘の対比がよく出て、素晴らしい作品に仕上がったと思う。
ルノワールはこの時代が1番好きかな。
ルノワールとアリーヌはその後結婚し、2人は生涯添い遂げた。 -
日傘をさす女(右向き)
クロード・モネ
奥さん大好きモネは、妻カミーユをモデルにした絵が多くある(この絵のモデルは2番目の奥さんアリスの娘)。
ある日、モネにデパート経営者のオシュデというパトロンができる。絵を買うだけでなく、自宅に滞在させ居間に飾る絵を描かせたりした。ところが好事魔多しで、魔が差したモネはオシュデ夫人のアリスとできてしまう。そしてアリスはモネの子を妊娠、出産。そんな時オシュデのデパートが潰れて破産し、オシュデは家族を残してひとり国外へ逃亡してしまう。
残されたアリスは、なぜかモネの家に子供6人(一番下はモネの子)を連れて転がり込んだ。
たまったもんじゃないのは奥さんのカミーユだ。しかしどうしたことか、この奇妙な共同生活は続く。もともとモネは奥さん大好きなので、カミーユとアリスの間に挟まれてどんな思いをしていたのだろう。
そんなカミーユは心労からか病気がちになり、とうとう亡くなってしまった。モネは罪の意識に苛まれて相当苦しんだようだ。 -
日傘をさす女(左向き)
クロード・モネ
宮崎駿の映画「風立ちぬ」のポスターに、日傘をさした女の子のビジュアルがあるが、これ完全にモネのパクリ。まあ、オマージュということなんでしょう。 -
ルーアン大聖堂
クロード・モネ
1892年から1894年にかけてノルマンディーのルーアン大聖堂を30点以上描いた。睡蓮(250点)にしても、積みわら(25点)にしても、モネはほんと連作好きだ。 -
青い睡蓮 (1916-1919年)
クロード・モネ
250点も睡蓮を描いていると、良い睡蓮、さほど良くない睡蓮とあるのは仕方がない。これはかなり良い睡蓮だと思う。 -
睡蓮の池、緑のハーモニー(1899年)
クロード・モネ
これは初期の頃の睡蓮。これも良い睡蓮じゃないかな。 -
浴女たち (1918-1919年)
オーギュスト・ルノワール
78歳で亡くなる前年の作品。車椅子で体が思うように動かなくなっても、女性の肉体を追求し続けた。この頃描く女性は全てこんな感じ。だらしない体型で三段腹どころじゃない。
映画「ルノワール 陽だまりの裸婦」(2012年)では、自由のきかない手で懸命に創作を続ける晩年のルノワールとモデルたちの関係性がよく描かれていた。特に、後に息子のジャン・ルノワールの奥さんになるカトリーヌ・ヘスリングのヌードを描いていると、カトリーヌが「あたし、こんなにデブじゃない」と怒っていたのが笑えた。 -
自画像(1875年頃)
ポール・セザンヌ
我が強くて偏屈な感じがよく出ている。 -
水浴する男たち(1890年−1894年)
ポール・セザンヌ
セザンヌの水浴図はたくさんあるが、これが1番好きかな。 -
サント・ヴィクトワール山(1890年)
ポール・セザンヌ
映画「セザンヌと過ごした時間」(2016年)を観ると、サント・ヴィクトワール山を描くセザンヌの様子が分かる。
映画はセザンヌと作家エミール・ゾラの友情を描いている。同郷の2人は幼なじみだった。いじめられているゾラを助けるセザンヌ。助けてくれたお礼にセザンヌの家にりんごを届けるゾラ。田舎の自然の中で一緒に遊び、ともに成長していく。
画塾に通うセザンヌに「デッサンは苦手だろ」と言うゾラ。「だから画塾に行くのさ」と言うセザンヌだが、その画塾の先生に画才はないと言われる始末。
先にパリに来ていたゾラを訪ねるセザンヌ。バーでマネ、ピサロ、ルノワールらと飲んでいるところにタンギー爺さんが来る。マネがティッツアーノやアングルの模写をしていると言うと、アングルの模写なんて吐き気がすると言って出ていくセザンヌ。1886年、ゾラが発表した小説「制作」がセザンヌをモデルにしており、そのことがふたりの友情に亀裂を生んでしまう。
1899年。有名人のゾラが久しぶりに故郷に帰って来た。山の中で絵を描いていたセザンヌは、まだ鳴かず飛ばずだった。ゾラの帰郷を聞いて走って山を下りる。皆に囲まれて市長と話しているゾラ。人々の後ろでそれを聞くセザンヌ。市長にセザンヌについて聞かれたゾラは、「親友のセザンヌ、彼は天才だった。でもその才能は花開かなかった」と言う。それを聞いて、一人静かに山に戻って行くセザンヌ。
タイトルバックは彼が描いたサント・ヴィクトワール山の絵が続く。セザンヌにとってゾラは唯一の親友だった。 -
リンゴとオレンジのある静物(1895年−1900年)
ポール・セザンヌ
セザンヌと言えば、これ。
近代絵画の父と言われたセザンヌは、一枚の絵の中でそれぞれの対象物を違う視点から捉えるという誰もやったことのない手法で、ピカソらのキュビズムに影響を与えた。
でもそれは単に遠近法が下手くそで、遠近法の基本である消失点が上手く使えなかった、要は多消失点になってしまっただけじゃないのかな。だってこのテーブルの傾きとか、子供が描くとよくこうなるよね。「これじゃあ、りんごが落ちちゃいますよ」と、先生に注意されるやつ。 -
さあ、どんどん行こう~!次はゴッホか。
-
オーヴェール・シェル・オワーズの教会(1890年)
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ
絵画は本やネットでいくら観ても、やはり本物を直に観ると違う。特にゴッホはそうだ。びっくりするくらい絵の具を塗りたくっているので、絵の具が飛び出ている。平面の絵なのに3Dなのだ。 -
自画像(1889年)
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ
子供の頃、映画「炎の人 ゴッホ」(1956年)を観た時、カーク・ダグラスの怪演がめちゃくちゃ怖かった思い出がある。 -
ローヌ川の星月夜(1888年)
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ
もう一つの「星月夜」(1889年)はニューヨーク近代美術館(MoMA)にある。「星月夜」というと、そちらを思い浮かべる人が多いかもしれないが、「ローヌ川の星月夜」は抑制が効いていて実に美しい。 -
わらぶき屋根の家々(1890年)
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ
このゴッホは初めて観たけど、なんかいいな。
映画「永遠の門 ゴッホの見た未来」(2018年)では、ゴッホの死因は自殺ではなく、近所の悪ガキに撃たれたことになっている。近年ではそれが定説になりつつあるようだ。 -
カフェ カンパナ(Café Campana)
5階にあるカジュアルレストラン。
10:30オープンだが、食事ができるのは11時からなので、後でまた来よう。ここにも大時計があるんだ。 -
黄色いキリストのある自画像(1890年)
ポール・ゴーガン
映画「ゴーギャン タヒチ、楽園への旅」 (2017年)では、タヒチ時代のゴーガンの様子がよく分かって面白い。それにしても妻と5人の子供がいながら勝手にタヒチに渡り、そこで13歳のテフラと出会って結婚するって、どんだけ自分勝手なんだ、ゴーガン。ていうか、いくらなんでも13歳はマズイだろ。 -
白い馬(1898年)
ポール・ゴーガン
サマセット・モームの「月と六ペンス」の主人公はゴーガンがモデルで、破滅型の粗暴な変人として描かれている。語り部の「私」がその画家の絵を見た時の感想が、「はじめは、酔っぱらった辻馬車の御者が描いた落書きのようだ、と思った。(中略)色彩も、異様にどぎつい」と書かれていて笑った。 -
アレアレア(1892年)
ポール・ゴーガン
それにしても、ゴーギャン、ゴッホ、セザンヌと、ポスト印象派の画家って、みんな性格破綻者ばかりだな。 -
目を閉じて(1890年)
オディロン・ルドン
あんなに目玉ばかり描いていたのに、代表作は目を閉じてるなんて。ルドンからインスパイアされて「目玉おやじ」のキャラを作った水木しげるもびっくりでしょう。 -
ルドンの花シリーズ
1900年頃、ルドンはある男爵から城の食堂に飾る絵を依頼される。彼は全16点を制作し、そのうちの1点が三菱一号館美術館にある「グラン・ブーケ」だ。残りは全てオルセーにあり、今回楽しみの一つだった。でも結局、三菱一号館の「グラン・ブーケ」が一番いいな。 -
駅舎時代を彷彿とさせる渡り廊下。
-
2階に降りてきた。
-
地獄の門
オーギュスト・ロダン
地獄の門は、上野の国立西洋美術館と静岡県立美術館で鋳造作品を観ていたが、その石膏原型がオルセーにあるとは知らなかったのでテンションが上がった。 -
映画「カミーユ・クローデル」(1988年)では、この「地獄の門」の制作過程が描かれている。カミーユは、ゲス男のロダンに人生をめちゃくちゃにされた女性彫刻家だ。彫刻家を志す19歳のカミーユは、雲の上の存在だった42歳のロダンに恋をする。ロダンには内縁の妻がいたが、若くて才能のあるカミーユに手をつけ、彼女との関係を15年も続けた。そのうちカミーユの実力はめきめきと上がり、ロダンの再来とも言われるように。ただ私生活はドロドロになって、カミーユが妊娠するとロダンは産むことを許さず堕ろさせてしまう。その頃からカミーユは次第に精神を病んでいく。奇行に走るカミーユにロダンは「この女ヤベッ」となって、ついには別れることを決意。カミーユはますますおかしくなり、それまで作った作品を自ら破壊し、その後一切創作活動はしなかった。そして最後は精神病院で寂しく死んでいった。
ほんと、ゲスでしょう、ロダンって。 -
この細長い構造はまさにプラットホームを想起させる。
-
弓を引くヘラクレス
アントワーヌ・ブールデル
これも国立西洋美術館と東京富士美術館で観たことがあったので、懐かしい。 -
シロクマ(1922年)
フランソワ・ポンポン
白くてつるつるしている動物がいたら、だいたいポンポンだ。 -
天窓からの優しい自然光で作品を鑑賞できる。
-
ペネロープ(1912年)
エミール=アントワーヌ・ブールデル
先月、この巨大バージョンを白金の松岡美術館で観たばかりなので、親近感を覚える。トロイア戦争に出征中の夫を心配して待ち続ける妻。ロダンの弟子、ブールデルの傑作だ。美貌の妻と言うけど、凄まじく下半身デブなんですけど。 -
2階にも絵画があった。
ゼザンヌ礼賛(1900年)
モーリス・ドニ
「ルドンさん、セザンヌって凄くないですか」とモーリス・ドニがルドンに語りかけている図だ。
イーゼルにかけられたセザンヌの「果物入れ、グラス、りんご」を取り囲む画家たち。この「ゼザンヌ礼賛」を所有していたのは、なんとゴーガンだった。 -
踊るジャヌ・アヴリル(1891年)
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
ジャヌ・アヴリルはモンマルトルのキャバレー「ムーラン・ルージュ」の人気スター。
ジョン・ヒューストン監督の「赤い風車」(1952年)は、ロートレックの伝記映画だ。19世紀末のパリの雰囲気がよく出ており、特にムーラン・ルージュの描写は、ロートレックのポスターそのままで興味深かった。 -
赤毛の化粧する女(1896年)
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
ロートレックは子供の頃両足を骨折して足の成長が止まってしまった。そのため足が異様に短かく、成人しても身長は150cmくらいしかなかった。父親は騎馬隊の隊長だったこともあり乗馬が趣味で、ロートレックと乗馬や狩猟をするのを楽しみにしていたが、障害者のロートレックは馬にも乗れなかった。軍人気質の厳格な父親は彼の絵には全く理解を示さず、父親にとって期待外れだったロートレックは家では居場所がなかったんじゃないかな。 -
絵は身体障害者の自分を差別しないし、絵を描くことで父親から自立することができたロートレックは、キャバレーや娼館にようやく居場所を見つける。その証拠に30歳くらいからほぼ売春宿に住み着き、娼婦たちの日常を描いている。
-
疲労(1896年)
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
足の痛みからアルコール依存症になったロートレックは、33歳で蜘蛛が襲ってくる幻覚を見る。35歳で精神病院に強制入院させられ、37歳でなくなった。 -
考える人越しの地獄の門。
-
セーヌ川の向こうにルーブル美術館が見える。
-
カイユボットの「床を削る人々」が展示されていなかったのは残念だ。そもそもカイユボットがいなかったら、オルセー美術館はなかった。
ギュスターヴ・カイユボットは印象派画家たちの中では一番の金持ちだった。1874年に親の莫大な遺産が入ると、印象派の仲間たちの絵を買いまくって彼らを援助した。そして自分が死んだらそれらを国に寄贈すると遺言を残し、ルノワールを執行人に指名した。1894年にカイユボットが亡くなり、ルノワールは69点の印象派作品を国に納めようとしたが、なんと国はそれを拒否。芸術アカデミーの会長が「国がモネ、ピサロといったごみのようなものを受け入れたとなれば、道義上ひどい汚点を残すことになる」と反対したからだ。1894年の時点でも、まだ印象派はそんな扱いだった。しかしルノワールが奔走して、セザンヌ、ドガ、マネ、モネ、ピサロ、ルノワール、シスレーら印象派の代表作40点の遺贈を実現させた。それらが今日でもオルセー美術館の主要収蔵品になっている。 -
11時になったので食事をするため、再び5階に上がる。
あれ、スーラがあるぞ。さっきは見落としたのかな。
サーカス(1891年−1892年)
ジョルジュ・スーラ
出た!点描技法。点描は動きの表現が苦手と言われ、スーラはサーカスの動的表現に挑む。
当時の画家たちが皆一度は試した点描だが、一時的な流行りで終わったのは、多分描いていて楽しくないというのも一因じゃないかな。ただ、スーラやシニャックが、後の画家たちに与えた影響は大きかった。 -
カフェ カンパナ(Café Campana)
かなり混むと聞いていたので、早めにブランチとしよう。 -
ラ・パリジェンヌビール 6.3€ (1,070円)
(La Parisienne , bière blonde 330ml)
このビール美味しい。 -
名画の連続で、頭から湯気が出そう。ビールでクールダウンしよう。
-
バスク風チキン、バズマティライス添え 20€
(Basque style chiken with basmati rice)
バズマティライスとはインディカ米のこと。インディカ米は細長い米で、実は世界のコメ生産量の約8割を占めている。
チキンもよく煮込まれていて美味しかった。
友人はペンネリガーテと生ビールを注文。 -
支払いは割勘ではなく別々にしてもらい、お互いカードで払った。ビールとチキンライスで、26.3€(4,560円)だった。
-
昼時にもなると満席で待っている人もいた。
-
さあ、最後に0階を観よう。
箕をふるう人(1848年)
ジャン=フランソワ・ミレー
「箕をふるう人」は全3点あり、他2点はルーブルとロンドン・ナショナルギャラリーにある。農民を描き続けたミレーはバルビゾン派を代表する画家だ。 -
晩鐘(1857年−1859年)
ジャン=フランソワ・ミレー
ミレーの「落穂拾い」は展示なしだったが、「晩鐘」があったので良かった。 -
革のベルトを持つ男(1845年−1846年)
ギュスターヴ・クールベ
自画像。若い頃はイケメンだったクールベ。 -
画家のアトリエ(1855年)
ギュスターヴ・クールベ -
オルナンの葬儀(1849年−1850年)
ギュスターヴ・クールベ
修復作業中だったが、その様子がガラス越しに見られるようになっていた。それにしても横7メートル近い作品の修復って、さぞかし大変だろうな。 -
アパルトマンの一隅(1875年)
クロード・モネ
なんかモネっぽくない感じがして、気になった作品。 -
泉(1820年−1856年)
ドミニク・アングル
アングルにしては、体の均整が取れ過ぎていないか。描かれた期間も36年って長過ぎるので、何かいわく付きのような気がする。今度じっくり調べてみよう。 -
モデルヌ・オランピア(1873年−1874年)
ポール・セザンヌ
マネリスペクトで、マネの「オランピア」から着想を得て描かれた作品。この訳の分からない1枚だけで、なんかセザンヌが好きになる。 -
ヴィーナスの誕生(1879年)
ウィリアム・アドルフ・ブクロー
ブクローはこの作品をサロンに出展すると、高い評価を受けてローマ大賞を受賞した。アカデミーの伝統を重んじ、それに対抗する印象派などに比べると古臭いと思われがちだが、このヌードの表現、めちゃくちゃエロくないですか。これヴィーナスじゃなかったら、完全にポルノでしょう。
この作品とカバネルの「ヴィーナスの誕生」は、その徹底したエロさから一周回って、ある意味新しいと思う。 -
ベレッリ家の肖像(1856年−1859年)
エドガー・ドガ
2025年10月から2026年2月まで上野の国立西洋美術館で開催される『オルセー美術館所蔵 印象派―室内をめぐる物語』で展示される予定の作品。今回観たオルセーの名作たちに日本で再会できるのが、今から楽しみだ。 -
13:00 オルセー美術館からルーブル美術館へ向かう。ロワイヤル橋(Pont Royal)からオルセーをパチリ。ルーブル美術館(カルーゼル凱旋門)まで徒歩15分だ。
-
カルーゼル凱旋門
ナポレオンの命によって1808年に造られた元祖凱旋門。完成したものを見たナポレオンはサイズ感が気に入らなかったようで、「ちょっとショボいんですけど~」と建て直しを命じた。それがシャンゼリゼ通りのエトワール凱旋門だ。確かに高さ50mあるエトワール凱旋門と比べると、高さ19mのカルーゼル凱旋門は小さく感じる。しかし8本のコリント式ジャイアントオーダーの門は、実に美しく見応えのある歴史的建造物だ。 -
向こうにルーブル美術館の入口(ガラスのピラミッド)が見える。でも、ガラスのピラミッドには行かない。
-
カルーゼル凱旋門の横にある階段から地下に入り、逆さピラミッド目指して進む。
ネット情報によると、ガラスのピラミッドの入口は激混みだが、ここから入った先の逆さピラミッド横の入口はすいているらしい。 -
逆さピラミッド。
-
逆さピラミッド右手の、予約者のみ入れる「Carrousel du Louvre入口」から入館。 案の定、待ち時間ゼロだった。
-
「ナポレオンホール」(地下2階)に到着したら、「インフォーメーション」で日本語フロア マップを入手。
-
ルーブル美術館は南側のドゥノン翼、東側のシュリー翼、北側のリシュリュー翼に分かれている。僕らはドゥノン翼から入った。日本からtiqetsで予約しており、入館料も支払済 (€22+€3手数料)だ。
ルーブル美術館はとにかく広い。なんと展示室だけで403室あるそうだ。403室!どうやったらそんなに見て廻れるんだ。
睡眠不足と時差ボケですでに疲労困憊なので、とりあえず入ったら一旦休憩しよう。 -
カフェを探していたら、いきなりミケランジェロが出てきた。
抵抗する奴隷 (1513年−1515年)
ミケランジェロ・ブオナローティ -
瀕死の奴隷 (1513年−1515年)
ミケランジェロ・ブオナローティ
ミケランジェロと言えば、2015年に公開されたジョージ・クルーニー監督、脚本、主演の「ミケランジェロ・プロジェクト」は傑作だった。
ヒトラーは自らの「総統美術館」の実現のため、世界中で略奪行為を繰り返していた。しかし敗戦を悟ったヒトラーは、敵国に何も渡さず全てを破壊する「ネロ指令」を発する。
それを阻止すべくハーバード大学付属美術館の館長(クルーニー)やメトロポリタン美術館の学芸員(マット・デイモン)ら7人のモニュメンツ・メンが招集される。彼らは、ミケランジェロの彫刻「ブリュージュの聖母子像」など略奪された美術品を救出するためにヨーロッパ各地を捜索する。結果的に彼らが救った作品には、「モナリザ」や「最後の晩餐」、ゴッホの「ひまわり」などがあった。ナチスが略奪した美術品は約500万点にものぼる。それらを守り抜いたのは、兵士でもない美術館の館長や学芸員というのが泣かせる。 -
暑くて喉もカラカラ。早く休みたい。あの上にありそう。
-
Café Mollien(カフェ・モリアン)
ドゥノン翼1階にあるカジュアルなカフェで休憩しよう。巨大な円柱に目を見張る。 -
レジでオーダーし、トレイに載せて自分で座席へ運ぶ。オレンジジュースとVittelを購入。
-
テラス席からはナポレオン広場やカルーゼル庭園も見渡せる。
-
テラス席からガラスのピラミッド入口を見たら、長蛇の列だった。
-
大理石に真鍮を用いた内装で、淡いピンクの照明が美しい 。外は暑かったので、店内席を確保。
-
少し休んだら元気になったので、よし回るぞ。
-
次から次へと名画が出てくるので、事前に絞り込んでおいた作品を目指していく。
-
民衆を導く自由の女神 (1830年)
ウジェーヌ・ドラクロワ
ナポレオンがロシアに負けて失脚し、再び王政の世になってしまった。怒った市民が立ち上がった1830年の7月革命を描いている。
何故真ん中の女性はおっぱいぽろりしているのか。それは彼女が人間ではなく女神だから。だって戦場で国旗を掲げた女性がおっぱいぽろりしているわけないよね。たまたまおっぱいぽろりしちゃうこともあるかもしれないって?でも当時の常識としてそんな絵を描くわけないので、おっぱいぽろりしている時点で、これは女神だと分かる仕組みになっている。 -
メデュース号の筏 (1819年)
テオドール・ジェリコー
1816年アフリカ沖で軍艦メデュース号が難破した。150人が筏で13日間漂流したが、救出された時生存者は15人しかいなかった。ジェリコーは当事者に取材し、死んだ人肉を食べて生き長らえたという話を聞き出す。それだけでなく、海軍が賄賂を貰って大量の密航者を乗せていたことまで絵に描いて暴いてしまった。いわば文春砲ですな。フランス海軍の大スキャンダルは、ジェリコーをロマン主義の第一人者に押し上げる。今まさに現実で起こっている事件を描くロマン主義は、仲間だったドラクロワの「民衆を導く自由の女神」に繋がってゆく。 -
グランドオダリスク (1814年)
ドミニク・アングル
アングルはローマ賞を受賞して26歳でローマに留学が決まる。その前に渾身の作品「玉座のナポレオン」をサロンに出したが大酷評される。頭にきたアングルは、それから18年間フランスに帰らなかった。それでもローマからパリのサロンに作品を送り続けるが、その度に批判される。この「グランドオダリスク」も背中が長すぎ、背骨が3つ多いとまで言われる。
しかし師匠だったダビッドが死んで、フランス芸術アカデミーに重鎮がいなくなったタイミングで帰国すると、新古典主義のアングルは急に偉くなってしまった。すると背中を長く描いても誰も何も言わなく(言えなく)なった。
それにしてもアングルはどうして女性の背中だけ長く描くんだろう。それはただ女性の美しい背中が大好きだったからじゃないかな。「背中好きすぎて長くなっちゃうー」なんて巨匠、可愛いかっ! -
ナポレオン1世の戴冠式 (1807年)
ジャック=ルイ・ダヴィッド
で、でかい!確かに絵の中を歩き回れそうだ。
1804年にノートルダム大聖堂で行われたナポレオンの戴冠式は異例ずくめだった。本来ならナポレオンがヴァチカンに赴かなくてはいけないのに、ナポレオンは教皇をパリに呼びつけた。そして教皇がナポレオンに戴冠しようとすると、なんとその手から帝冠を奪い取り自ら自分の頭に載せてしまったのだ。自分の方がローマ教皇より偉いとまわりに見せつける行為だった。そして続けざまに、その帝冠を后のジョセフィーヌに被せる仕草までした。
最初ダヴィッドは自分の頭に戴冠するナポレオンの絵を描いたが、忖度の人ダヴィッドは、それではナポレオンがあまりにも不遜に見えるのではないかと思いとどまる。そこでダヴィッドはナポレオンがジョセフィーヌに戴冠するところを絵にした。だからこの絵は正確にはナポレオンの戴冠を描いているのではない。
ダヴィッドの忖度はまだまだ続く。例えば、チビで小太りのナポレオンを背が高いイケメンに描いたり、皇帝になることに反対して式に出席しなかったナポレオンの母親を堂々と登場させている。また、なんと戴冠式をスケッチする自分自身をちゃっかり描いている。 -
ナポレオン1世の戴冠式の前で説明を受ける子供たち。学校の課外授業だろうか。
-
娘のジュリーとの自画像 (1789年)
ヴィジェ・ルブラン
マリー・アントワネットと同い年の女流画家で、マリーは肖像画を描かせるだけでなく、「私たち親友だからね」と一瞬に遊ぶ仲だった。しかし、1789年のフランス革命によって宮廷文化は風前の灯となり、ロココ様式も終わりを告げることになる。そして、マリーはギロチン刑に処されて、ルブランは仲がよかっただけにフランスにはいられなくなった。でもこの人、結構したたかで世界中の王室を渡り歩いて肖像画を描いていた。 -
グランドギャラリーには名画がずらり。
-
サモトラケのニケ(前200~前190年)
ナイキのニケ(NIKE)ね。約2200年前の古代ギリシャ彫刻。空から降りてきた勝利の女神が、船の舳先に立つ姿。 -
発掘された1118個の破片をつなげて組み立てたが、顔と腕は発見されていない。
-
ミロのヴィーナス(紀元前130年~前100年頃)
1820年、ギリシャのミロス島(Milos)で出土。フランス語は最後のSを発音しないので、ミロのヴィーナスという。発見直後の1821年からルーブル美術館で展示されている。 -
ミロのビーナスは過去にたった一度しか海外に出されていない。なんとそれが日本で、1964年に国立西洋美術館で展示された。だから日本人はミロのビーナスが大好き。
8頭身美人で、片方の足に重心を置くことでS字曲線が美しい。腰に巻いた布もリアルだ。 -
後ろ姿も美しい。
-
ジョルジュ・ブラックの天井画。
-
ルイ14世によって作られた「アポロンのギャラリー」
歴代の王侯貴族が身に付けていた宝飾品を展示しているが、天井画やド派手な室内装飾に圧倒されて、展示品を観る余裕はなかった。 -
そう言えば、映画「岸辺露伴 ルーヴルへ行く」(2023年)のポスターに、ここで撮影したものもあった。
-
洗礼者ヨハネ (1513年−1516年)
ダ・ビンチ3点が並ぶ。 -
岩窟の聖母 (1483年−1486年)
レオナルド・ダ・ヴィンチ -
聖アンナと聖母子 (1503年−1506年頃)
レオナルド・ダ・ヴィンチ -
カナの婚礼 (1562~1563年)
ヴェロネーゼ
モナリザの正面に掛けられたルーブルで一番大きな絵。130人の登場人物が描かれている。カナで行われた結婚式に招かれたイエス・キリストが、水をワインに変えた有名な場面だ。正直、「モナリザ」よりもこっちの絵のほうが面白い。だって、そんな凄い奇跡を起こしているのに誰もキリストに注目してないし、キリストに後光はさしているけど、皆知らん顔で飲み食いやお喋りに夢中になっている。「皆さん、無視ですかー!」とキリストの心の叫びが聞こえてきそうだ。
きっとヴェロネーゼは、キリストより宴会の絵の方に興味があったんじゃないか。調べてみると、この人、食事の光景を描いた作品がやたら多い。「レヴィ家の饗宴」なんて「カナの婚礼」をはるかに超える縦5m超、横12mの超巨大な宴会画だ。 -
カナの婚礼よりモナリザを観る人の方が圧倒的に多い。
-
モナリザ(1503~1506年)
レオナルド・ダ・ヴィンチ
「モナリザ」は、さすがの人気ぶりだ。一番前まで行ってモナリザの微笑みを拝もう。少しずつ前に進んで20分くらいでモナリザまでたどり着けた。
輪郭線を使わないスフマートや空気遠近法など、当時は最先端技術を駆使した絵画だった。またカンヴァスではなくポプラの板に油絵で描いているのも珍しい。
過去に2度しかフランスから出たことがなく、そのうちの1回がなんと日本だ。1974年に上野の東京国立博物館で展示された。だから日本人はモナリザが大好きなんだ。当時の大騒動ぶりは、子供ながらにテレビで見て知っている。 -
ダ・ビンチは両親に捨てられ祖父母に育てられた。同居していた叔父に可愛がられたが、それが同性愛のきっかけになったと言われている。好奇心旺盛な天才イケメンのダ・ビンチは、イタリア各地を転々とした後、最後にフランソワ1世に招かれてフランスに移住。その際に「モナリザ」「洗礼者ヨハネ」「聖アンナと聖母子」を持ってきたので、これらの名画がルーブルにあるのだ。
ダ・ビンチはおよそ50年の画家人生の中で、未完成作品も合わせて、なんと15点しか絵を描いていない。そのうち5点がルーブル所蔵というのが凄い。
「モナリザ」は、ダ・ビンチが生涯をかけて究極の美を追い求めた絵と言われているが、それほどの美人さんかなあ。なんか神秘的過ぎて血が通っていないし、ダ・ビンチが同性愛者だったからかもしれないけど、僕にはモナリザがオネエに見えて仕方ない。 -
浴女 (1808年)
ドミニク・アングル
ローマに留学していたアングルが、パリに送った作品の一つ。 -
トルコ風呂 (1862年)
ドミニク・アングル
「浴女」から54年経っても、真中の背中の長い女性は変わっていないところが面白い。 -
ルブラン夫人と娘ジュリー (1786年)
ヴィジェ・ルブラン
また、ルブランと娘の自画像があった。前述の作品より娘が小さい。 -
廃墟となったルーブルのグランドギャラリー(1796年)
ユベール・ロベール
これは知らなかったけど、面白い。近未来ってこと?なぜ廃墟にしちゃったかな。 -
ルーブルはまるで迷路だ。にも関わらず案内表示も不親切で、何度も自分がどこにいるのか分からなくなった。
-
水浴の女たち (1765年−1772年)
ジャン・オノレ・フラゴナール -
かんぬき (1777年−1778年)
ジャン・オノレ・フラゴナール
2023年に国立新美術館で行われた「ルーブル美術館展」の目玉として来日した「かんぬき」。その時から気になっていたので、ようやく会うことができた。 -
ルイ15世の時代、フランスの宮廷文化は腐りきっていた。その頃の絵画や家具をロココ様式と呼ぶ。ロココ絵画の特徴は、無邪気さを装って男を誘う「あざとい」女性が主役だ。ましてロココ最後の画家と言われるフラゴナールともなると、男女関係の歪みは半端ない。
なのでこの絵も、一見すると部屋に押し入ってきた若く逞しい使用人に、まさに襲われようとしている場面に見える。女性は抵抗し、男は逃げられないように高い所のかんぬきをかけようと手を伸ばしている。それだけでも相当スキャンダルな絵だが、しかし本当のロココはそんなもんじゃない。
こんな解釈もある。女性にあざとく誘惑された若者がその気になって部屋に入ってくると、女性は突如「おやめになって~」と拒み出した。「そりゃなかろう」と辛抱たまらない男は、慌ててかんぬきをかけて女性を我が物にしようとしているシーンだというのだ。実は全て彼女の性的欲求を満たすプレイで、男はまんまと彼女の術中に嵌り弄ばれている。これぞまさにロココ絵画の真骨頂。ロココならキラキラした可愛い画調の中に、それくらいの闇が潜んでいて当然だ。ロココ、面白すぎて目が離せない。
この絵は1974年にルーブルが購入した比較的新しくルーブルに入った作品だが、いい買い物をしたんじゃないかな。 -
赤エイ (1725年頃)
ジャン・シメオン・シャルダン
そんなロココ時代に己を見失わずに庶民的かつ家庭的な絵しか描かなかった画家もいた。ジャン・シメオン・シャルダンだ。シャルダンの自画像を見ると、男性なのにまるで農家のおばさんのようだ。
新鮮な赤エイは美味しいらしい。それにしてもこのグロテスクな内臓だらりのインパクトは強烈。でもよく観ると、多様な質感の描き分けや写実の画力は凄い。ただ猫の踏んだ生牡蠣は食べたくないゾ。 -
食前の祈り (1740年)
ジャン・シメオン・シャルダン
中流市民の日常にささやかな幸せが伝わる穏やかな絵だ。ロココ全盛のフランスでも良心の画家がいた。 -
オダリスク (1749年)
フランソワ・ブーシェ
ポンパドゥール夫人に気に入られたブーシェは、夫人に絵を教えたり、セーヴル磁器の下絵なども描いたそうだ。 -
シテール島の巡礼 (1717年)
アントワーヌ・ヴァトー
いちゃつく8組のカップルを何シテールと罵倒するヴァトーの「シテール島の巡礼」。ロココ最初にして最高傑作。 -
ピエロ(ジル) (1717年−1719年)
アントワーヌ・ヴァトー
そのヴァトーのちょっと変わった絵。ピエロのくせに浮かない顔をしている。 -
灯火の前のマグダラのマリア (1640年頃)
ジョルジュ・ド・ラ・トゥール
ちなみにラ・トゥールはいい絵を描く割に、人間としては最低だったらしく、傲慢かつ暴力的で脱税で訴えられたこともある。 -
大工聖ヨセフ (1642年頃)
ジョルジュ・ド・ラ・トゥール
ラ・トゥールは、夜の宗教画が多い。蝋燭の明かりに照らされるヨセフのしわくちゃな額や、光が透かされるイエスの指の表現には驚かされる。 -
ダイヤのエースを持ついかさま師 (1635年)
ジョルジュ・ド・ラ・トゥール
ルーブルが1972年に8億円で購入。
夜の画家の異名を持つラ・トゥール。1652年に亡くなってから、一度は忘れ去られていたが、20世紀になって再評価された。
この絵は3人のいかさま師が、田舎の坊っちゃんをカモっている図だ。坊っちゃんの頭の羽根は、これからカモがむしられるという暗喩。これは「若者よ、ギャンブルは怖いよ~」と教える風俗画だ。 -
読書する二人の少女 (1890年頃)
ピエール=オーギュスト・ルノワール -
真珠の女 (1868年−1870年頃)
カミーユ・コロー -
フランス国王ルイ14世の肖像 (1701年)
イアサント・リゴー
実際のルイ14世は160センチもないチビだったので、ハイヒールとカツラで背を高く見せたそうだ。それにしても美脚ですこと。 -
宰相ロランの聖母 (1435年頃)
ヤン・ファン・エイク
この絵、細か過ぎる!まるで米粒写経だ。ヤン・ファン・エイクはこの米粒写経を実現するために油絵具を完成させた凄い画家だ。
当時絵具の主流だったテンペラは、顔料を卵黄で溶いたものだった。ただテンペラは重ね塗りに向いておらず、完璧な下絵に色をつけるので、描きながら修正するのが難しかった。油絵具もあるにはあったが、問題点が多くてあまり使われていなかった。ヤン・ファン・エイクは研究と改良を重ねた結果、この油絵具の問題点を解決し完成させたと言われている。
それによってヤン・ファン・エイク独特な細密表現、明暗や微妙な色のニュアンスを出せるようになった。そして、西洋絵画は油絵が主流になっていく。 -
リシュリュー翼3階の「ルーベンスの間」
アンリ4世の王妃マリー・ド・メディシスの生涯を描いた連作21枚とマリー・ド・メディシスと両親の肖像画3枚が展示されている。
ルーベンスは、「フランダースの犬」で死ぬ間際にネロがやっと見られた祭壇画を描いた画家だ。 -
マリー・ド・メディシスの生涯
「マルセイユ上陸」(1622年~1625年)
ピーテル・パウル・ルーベンス
ルーベンスがマリー・ド・メディシスから「私の生涯を21枚の絵にして!」と依頼されて描いた超大型の連作。
でもルーベンスとも言えども、この依頼には頭を抱えた。だってマリーに絵の題材となるようなエピソードが何一つなかったからだ。それでもなんとかやり切ったルーベンス。「そうだ、全部神話のワンシーンのように描けばいいんだ。神話ならどんなに盛って描いても成立する!」
なので、フランスに嫁入りするマリーを迎えているマントの男性はフランスの擬人化。その後ろの女性はマルセイユの擬人化。へいこらするフランスやマルセイユに対して、マリーの尊大な態度ったら。空には天使が飛び、船を運んでいるのは海の神様たち。実際チビデブブスだったマリーに忖度し、海の神様たちを肉々しく描くことで、マリーがちょっと可愛く見える。ルーベンス、天才! -
どの絵も盛り方が半端なくて笑える。
-
マリー・ド・メディシスの誕生
-
マリー・ド・メディシスの教育
-
マリー・ド・メディシスの縁談
-
マリー・ド・メディシスの結婚
-
マリー・ド・メディシスと王の対面
-
王太子出産
-
この部屋は最低でも1時間は観たかったけど、その為にはルーブルに泊まらないと無理だな。
-
風景の中のヴィーナス (1529年)
ルーカス・クラーナハ
クラーナハって小児性愛者?だって当時陰毛表現はタブーだったとしても、このつるぺたは絶対未成年だよね。と思って調べてみると、この細身でしなやかな体つきは当時のドイツ宮廷で好まれた美の規範だそうだ。この頃そんな絵の需要が一定数あったとしても、ちょっと変態っぽくない? -
三美神 (1531年)
ルーカス・クラーナハ
クラーナハは教科書で必ず見る宗教改革のマルティン・ルターの肖像画を描いた画家だ。ルターはバチカンが免罪符を売りまくるのを見て、金を出せば罪が許されるなんておかしいだろと、教会に反抗し宗教改革を起こす。そこでカトリックに対するプロテスタントが生まれるわけだが、クラーナハはルターの肖像画をたくさん描いてそれを応援した。
その後、プロテスタントは宗教画を偶像崇拝と言って禁止する。クラーナハにとって宗教画は大きな収入源だったので、結果的に自分で自分の首を絞めることになってしまった。そこで今度は、教会が宗教改革で弱っているどさくさに紛れて、エロい裸婦像を量産。ナイスバディじゃないつるぺた裸婦像が受けて、こんなのばかり描きまくった。 -
ガブリエル・デストレとその妹 (1594年頃)
フォンテーヌブロー派の画家
アンリ4世の妾ガブリエル・デストレが姉妹に乳首をつままれていたり、ガブリエルが指輪をさり気なく持っているのは、アンリ4世の子供を身籠ったという匂わせなのか。
あるいはアンリ4世の子供ができたと調子に乗ってたから毒殺されたんだと、後に嘲笑されて描かれた絵なのか。今となっては作者も分からない謎だらけの作品。でも、インパクトは強烈で一度観たら忘れられないマニエリスムの代表作だ。 -
この後、フェルメールの《レースを編む女》、《 天文学者》、レンブラントの《ダビデ王の手紙を手にしたバテシバの水浴》を観るつもりだったが、そこへの通路が閉鎖されていて行けなかった。残念。
-
ハムラビ法典 (紀元前1792年−1750年)
作者不詳
「目には目を、歯には歯を」は、やられたらやり返せと言う意味ではないそうだ。過度な報復はイカンと戒めているのだ。へぇ~、知らなかった。倍返しだー、はダメですよってことか。 -
ハムラビ法典を観て、ミッションコンプリート。
達成感~。 -
ルーブルから歩いて帰る。
-
セーヌ川沿いを行こう。
-
-
ブキニスト(古本市)
セーヌ川沿いに古本屋がずらっと軒を並べる「Bouquinistes(ブキニスト)」は17世紀から続く露天書店だ。ユネスコの世界遺産にも登録されている。 -
でも今は観光客向けの土産物やプリントされた有名絵画の方が売れるみたい。
-
メトロの入口もなんかお洒落。
-
-
ポンヌフ橋
映画「ポンヌフの恋人」(1991年)は、パリ最古の橋であるポンヌフに暮らす大道芸人の青年と、失恋して自暴自棄になっている娘との出会いを描いた名作だ。 -
セーヌ川のクルーズ船が頻繁に行き交う。
-
-
-
老舗書店のShakespeare and Companyに行列ができていたけど、なんだろう?
-
Shakespeare and Company Café
書店の隣のカフェに入る。 -
アイスカフェラテ6.5€(1,100円)を注文。
-
気持ちいいのでテラス席で飲もう。
-
テラス席からノートルダム大聖堂が見える。
-
L'Annexe de la Petite Périgourdine
ホテルから徒歩5分のところにあるビストロ。このテラス席で夕食だ。 -
4日前にパリ入りしている友人と、今朝着いた友人も合流し全員集合。
-
先ずはビールで乾杯。
-
サラミ、生ハム、チーズ等の盛合せ。
-
それぞれ今日までのパリの旅の報告をしつつ、明日から2日間は一緒に観光をするので、そのスケジュール確認をする。
-
イタリアの白ワイン「プロセッコ」。
-
注文はパリ在住の友人任せ。この店も彼女の家から徒歩2分の距離にあり常連さんだ。食事も美味しく、スタッフもフレンドリーで値段もリーズナブル。
-
次はロゼワイン。
-
大いに飲み、大いに食べて、学生時代に戻る時間を楽しんだ。
-
合計を人数分で割る。割りやすくするために少しチップを加えて等分すると、1人38€(6,480円)だった。
今日の歩数は、23,962歩(約13キロ)だった。
「パリ4泊5日の旅(3日目)」に続く。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
パリ(フランス) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
195