2025/05/20 - 2025/05/21
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tomo_miichiさん
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*この旅行記は、ドイツ観光局の提供により投稿しています*
ゲーテ街道の旅も終盤となってまいりました。
ところで今回、8都市ゲーテ街道の町をめぐったわけですが、その中で「え、うちってゲーテ街道なんすか?」みたいな地元民の反応に出会うことがありました。
そのひとつがライプツィヒ。
なぜならば、この町が誇る有名人はダントツでバッハ先生だからなのです。
そしてゲーテとライプツィヒとの関わりは、ゲーテがまだ何者でもなかった若かりし日、この町で一学生さんだったという経緯。
とはいえ、あの大作『ファウスト』にも登場する居酒屋アウアーバッハスケラーのある町です。
若きゲーテの感性に影響を与えた町であることに間違いはありません。
ゲーテ街道は、たどっていくとバッハの通った道にも重なります。
バッハは1750年に亡くなり、ゲーテは1749年に生まれました。
さまざまな人生の道が交差し、時代を超えてつながっていく。
そこにゲーテ街道のおもしろさがあるように感じました。
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ゲーテが若くして文学者として名を馳せ、その人生において文学者としてだけでなく政治家、法律家、自然科学者としても業績を残し、いわば成功者の人生を送ったのに対し、バッハは生前、同時代のヘンデルやテレマンの影に隠れていました。
ライプツィヒでトーマス教会のカントル(音楽責任者)に就任した時も、テレマンが断ったためバッハにチャンスが回ってきたという経緯がありました。
音楽史の専門家で中部ドイツの音楽に詳しい園田順子さんは、そもそも作曲家という概念が確立したのは19世紀で、バッハは生前、作曲家としてではなくオルガン奏者としてその存在を知られていたと解説してくれました。
バッハの死後、残された妻は困窮生活を送り、バッハの作品も後年、メンデルスゾーンによって再発見されるまでは忘れ去られていました。
写真はトーマス教会の前に立つバッハ像です。聖トーマス教会 寺院・教会
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トーマス教会外観。
バッハが指導したトーマス教会少年合唱団は、今も存続しています。 -
トーマス教会には、バッハの肖像が描かれたステンドグラスも。
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トーマス教会の向かいにあるのがバッハミュージアム。
ここでは、バッハが生きた時代背景も含めてその軌跡をたどることができます。
1723年からトーマス教会のカントルを務めたバッハの生活は、現代の売れっ子作曲家もびっくりのいそがしさでした。
毎週日曜日および教会の祝祭日のために週一以上のペースでカンタータを1本作曲し、指導していたトーマス教会少年合唱団は、市の大切な行事や冠婚葬祭の際にはその都度出演を求められる...という具合。
録音技術のない時代だから当然なのですが、すべてがライブ演奏だったわけです。
ちなみにバッハの作品のほとんどは、ライプツィヒに来て最初の5年間の間に書かれたと言われています。バッハ博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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トーマス教会の横、バッハ・ミュージアムの向かいにある記念碑。
この場所には1902年までトーマス合唱団の学校、トーマスシューレがあり、バッハの住居もこの中にありました。 -
こちらはバッハ・ミュージアムの入り口に展示されている、バッハ像。
よく知られているバッハ像の原型がこれですが、1895年にバッハのものと思われる墓が、ヨハネス教会の墓地の改築で発見され、その時に見つかった頭蓋骨などを参考に、ライプツィヒの彫刻家カール・ゼフナーによってつくられたものなのだそうです。 -
同じゼフナーによってつくられたのがこちらのゲーテ像。
旧証券取引所前に立つのは珍しく若いゲーテです。
1890年代に建てられたこの像は、ゲーテが10代の時にライプツィヒ大学で学んでいたことをアピールするために学生の姿をしているのだとか。ゲーテ像 モニュメント・記念碑
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話がようやくゲーテに戻ってきたところで、お昼休憩を。
旧市街の真ん中にあるマルクト広場のレストラン「ヴァインシュトック」で、ライプツィヒ名物の「ライプツィガー・アレライ(Leipziger Allerei)」をいただきました。
これはニンジンやエンドウ豆、アミガサタケの入った「野菜炒め」なのですが、シュパーゲル(アスパラガス)シーズンはシュパーゲルの入った豪華バージョンに!
さらになんとザリガニも入っているという、ヘルシーかつ高級なメニューとなっていました。ワインストック 地元の料理
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旧市庁舎の前のマルクト広場は市場でにぎわっていました。
冬にはここでクリスマスマーケットも開催されます。マルクト広場 (ライプツィヒ) 広場・公園
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ライプツィヒは、神聖ローマ帝国時代の2つの重要な街道がちょうど交差する地点にありました。
王の道(Via Regia)と帝国の道(Via Imperii)がその2つです。
帝国自由都市にはなれず、領主の居城がある都だったこともないライプツィヒが、商業の町として栄えてきたのはこの地の利が大きかったと言われています。
古い建物には中庭空間が多いのも特徴です。 -
ある意味、バッハとゲーテを結びつける存在でもあるメンデルスゾーン。
その家が今もライプツィヒ市街に残っていて、記念館になっています。
自身も著名な作曲家として名を残しているメンデルスゾーンは1829年、死後100年以上忘れられていたバッハの「マタイ受難曲」を再演奏し、バッハの存在を世に知らしめた人でした。
メンデルスゾーンは父親の代からゲーテと交流があり、稀代の人物だったゲーテから多くのインスピレーションを受けたと言われています。メンデルスゾーンハウス 建造物
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ライプツィヒのかつての商業都市としての先進性を示すものの一つが、欧州最古のカフェ。
1711年から続くとされる「ツム・アラービッシェン・カフェ・バウム」は、現在も営業しているカフェとしては欧州最古。
建物は記念碑指定されています。カフェ バウム 地元の料理
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コーヒーに、ライプツィヒ名物のお菓子、レルヒェ(Lerche)。
ヒバリという鳥の名を持つこのお菓子にはその昔、ヒバリを食用にしていたためにその数が激減し、1876年、ザクセン王アルベルト1世によって禁猟令が出されたという歴史が背景にあります。
ヒバリを食べられなくなった代わりに、ライプツィヒのパン屋が「ヒバリ」と名付けて焼き始めたお菓子がこれだったのだとか。
タルト生地にマジパンやジャムが入った甘い焼き菓子で、サイズも手頃なのでおやつにぴったりです。 -
ライプツィヒでゲーテの影が薄いなどと言うなかれ!
500年の歴史を持つアウアーバッハスケラーは、あの『ファウスト』1部にも登場する居酒屋です。
今は、居酒屋というより高級めな感じのレストランになっています。
このお店の前の、メフィストとファウストを描いた像はあまりにも有名です。アウアーバッハス ケラー 地元の料理
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地下のホールは広々としていて、居酒屋時代の庶民的な雰囲気を残しています。
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店内の壁を彩る壁画の数々も見どころ。
若き日にドイツで学び、このアウアーバッハスケラーにも立ち寄った、森鴎外の姿も描かれています。 -
まるでお芝居の一場面に、自分自身も入り込んだかのようなドラマチックな空間です。
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いろいろな趣向のイベントが開催されていて、「ルター夫妻と楽しむディナーの夕べ」などもあります。
ご興味のある方はぜひ。 -
ドラマチックといえば、ライプツィヒ中央駅を忘れるわけにはいきません。
19世紀末~20世紀初頭にかけてつくられたライプツィヒ中央駅は、宮殿のような荘厳な空間。
ライプツィヒを訪れるならばぜひ、この駅に降り立つことのできる鉄道の旅をおすすめします。
ドイツに最初の鉄道が敷設されたのは1835年。ゲーテが亡くなったのは1832年でした。
フランクフルトからライプツィヒまで330kmの距離を、ゲーテの時代は馬車で3日間かけて移動したといいます。
(協賛:ドイツ観光局)
前回のエアフルトの旅はこちら
https://4travel.jp/travelogue/11982088ライプチヒ中央駅 駅
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