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「賓日館」(ひんじつかん)は、ホテルから夫婦岩への道中に二見浦に静かに佇んでいました。現在、賓日館は資料館として一般公開されており、当時の建築技術や意匠を間近で見ることができます。賓日館は、1887年(明治20年)に神宮の崇敬団体である神苑会によって建設されました。明治天皇の母である英照皇太后の伊勢参拝に合わせて、明治19年12月に着工し、翌年2月19日に竣工するという短期間で完成しました。その後、明治末期から大正初期、昭和初期にかけて2度の大規模な増改築が行われ、現在の形となりました。明治24年には、幼少期の大正天皇(明宮嘉仁親王)が避暑や療養、水泳訓練などを兼ねて3週間余り滞在されるなど、歴代の皇族や各界の要人が宿泊しました。1911年(明治44年)には、隣接する「二見館」に払い下げられ、1999年(平成11年)までその別館として使用されました。二見館の休業後、2003年(平成15年)に二見町に寄贈され、資料館として一般公開されています。<br /> <br /><br />

「賓日館」(ひんじつかん) 国指定重要文化財

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2025/05/13 - 2025/05/13

13位(同エリア299件中)

旅行記グループ 各指定重要文化財・史跡

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harusu

harusuさん

「賓日館」(ひんじつかん)は、ホテルから夫婦岩への道中に二見浦に静かに佇んでいました。現在、賓日館は資料館として一般公開されており、当時の建築技術や意匠を間近で見ることができます。賓日館は、1887年(明治20年)に神宮の崇敬団体である神苑会によって建設されました。明治天皇の母である英照皇太后の伊勢参拝に合わせて、明治19年12月に着工し、翌年2月19日に竣工するという短期間で完成しました。その後、明治末期から大正初期、昭和初期にかけて2度の大規模な増改築が行われ、現在の形となりました。明治24年には、幼少期の大正天皇(明宮嘉仁親王)が避暑や療養、水泳訓練などを兼ねて3週間余り滞在されるなど、歴代の皇族や各界の要人が宿泊しました。1911年(明治44年)には、隣接する「二見館」に払い下げられ、1999年(平成11年)までその別館として使用されました。二見館の休業後、2003年(平成15年)に二見町に寄贈され、資料館として一般公開されています。


旅行の満足度
3.5
旅行の手配内容
個別手配
  • 夫婦岩への海岸通り伊勢湾に面して建てられています

    夫婦岩への海岸通り伊勢湾に面して建てられています

  • 国指定重要文化財「賓日館」

    国指定重要文化財「賓日館」

  • 木造2階建てで明治天皇の母である英照皇太后の伊勢参拝に合わせて、建設された。

    木造2階建てで明治天皇の母である英照皇太后の伊勢参拝に合わせて、建設された。

  • 現在は資料館として一般公開されいます。<br />開館は9:00~17:00(火曜日:休館)<br />大人¥310 小中高¥150<br /><br />

    現在は資料館として一般公開されいます。
    開館は9:00~17:00(火曜日:休館)
    大人¥310 小中高¥150

  • チケット¥310

    チケット¥310

  • 「玄関」<br />玄関屋根は、昭和5年(1930)始まる賓日館2回目の大増改築で唐破風に改められました。切妻や入母屋屋根の妻側に取り付けられた厚板を破風と呼び、その破風板の中央部が盛り上がり、左右両端が反り返る連続した曲線になっている構造を唐破風と言います。<br />虹梁は化粧垂木に使われている木の木目が珍しい中央から左右対称の木目になっていて、これは返し杢と呼ばれています。上がり框には檜、式台には欅、天井には屋久杉が使われていますが、天井板にひび割れが入っていないのは釘を使わずに組まれているからです。

    「玄関」
    玄関屋根は、昭和5年(1930)始まる賓日館2回目の大増改築で唐破風に改められました。切妻や入母屋屋根の妻側に取り付けられた厚板を破風と呼び、その破風板の中央部が盛り上がり、左右両端が反り返る連続した曲線になっている構造を唐破風と言います。
    虹梁は化粧垂木に使われている木の木目が珍しい中央から左右対称の木目になっていて、これは返し杢と呼ばれています。上がり框には檜、式台には欅、天井には屋久杉が使われていますが、天井板にひび割れが入っていないのは釘を使わずに組まれているからです。

  • 伊勢志摩地方の「注連縄」<br />この地方では注連縄を一年中飾る風習があり、毎年年末の日柄のい日に新しい物に付け替えられます。<br />中央の札(桃符)に書かれている「蘇民将来子孫家門」は蘇民将来伝説に由来し、「“私の家は蘇民の子孫の家ですよ”」という意味を表しています。

    伊勢志摩地方の「注連縄」
    この地方では注連縄を一年中飾る風習があり、毎年年末の日柄のい日に新しい物に付け替えられます。
    中央の札(桃符)に書かれている「蘇民将来子孫家門」は蘇民将来伝説に由来し、「“私の家は蘇民の子孫の家ですよ”」という意味を表しています。

  • 武者人形

    武者人形

  • 「兜飾り」は希望者に譲渡するそうな。

    「兜飾り」は希望者に譲渡するそうな。

  • 「120畳の大広間」<br />120畳式の大広間は、昭和5年(1930)に始まる賓日館2回目の大増改築で建築された代表的書院造りの広間で、桃山式の折上格天井が特徴です。

    「120畳の大広間」
    120畳式の大広間は、昭和5年(1930)に始まる賓日館2回目の大増改築で建築された代表的書院造りの広間で、桃山式の折上格天井が特徴です。

  • 面の格縁と呼ばれる部材で格子を作り、格子の間(格間)に正方形の板を張った天井を格天井と言い、その格縁を「亀の尾」と呼ばれる曲げ物にして折り上げた形式の天井を折上格天井と言います。

    面の格縁と呼ばれる部材で格子を作り、格子の間(格間)に正方形の板を張った天井を格天井と言い、その格縁を「亀の尾」と呼ばれる曲げ物にして折り上げた形式の天井を折上格天井と言います。

  • 「大広間の天井」<br />格間の天井紙は型押しをしてから彩色し、金箔を置いたため見る角度によっては金箔が浮き出して見えます。

    「大広間の天井」
    格間の天井紙は型押しをしてから彩色し、金箔を置いたため見る角度によっては金箔が浮き出して見えます。

  • 「大広間の天井」<br />桃山時代に流行した天井形式なので桃山式天井とも言われています。格縁には木曽檜が使われています。

    「大広間の天井」
    桃山時代に流行した天井形式なので桃山式天井とも言われています。格縁には木曽檜が使われています。

  • 「大広間舞台」<br />この舞台の下には、多くの能舞台がそうであるように、6つの大きな甕が据えられています。これには、必要な音だけを反響させる効果があります。天井板には反響した音が柔らか味を増すように桐が使われています。舞台背景に描かれているの、郷土の日本画家?中村左州の手になる「老松」(昭和10(1935)年作)で、畳に座った時の目線では舞台から浮き出して見えます。

    「大広間舞台」
    この舞台の下には、多くの能舞台がそうであるように、6つの大きな甕が据えられています。これには、必要な音だけを反響させる効果があります。天井板には反響した音が柔らか味を増すように桐が使われています。舞台背景に描かれているの、郷土の日本画家?中村左州の手になる「老松」(昭和10(1935)年作)で、畳に座った時の目線では舞台から浮き出して見えます。

  • 天床の間の床框は螺鈿の輪島塗です。螺鈿とは、貝殻の真珠光を放つ部分を研磨することで平らにして細がく切り 、文様の形に嵌め込んだ装 飾を言います。

    天床の間の床框は螺鈿の輪島塗です。螺鈿とは、貝殻の真珠光を放つ部分を研磨することで平らにして細がく切り 、文様の形に嵌め込んだ装 飾を言います。

  • 自由に弾ける街かどピアノならぬ「館内・琴」(調律できる方はご協力依頼あり)

    自由に弾ける街かどピアノならぬ「館内・琴」(調律できる方はご協力依頼あり)

  • 2階渡り廊下

    2階渡り廊下

  • 2階から見える庭園

    2階から見える庭園

  • 賓日館で結婚式を挙げられる夫婦

    賓日館で結婚式を挙げられる夫婦

  • 「御殿の間」<br />御殿の間は明治20年(1887)寶日館創建当時からその構造は変わっていません。本間天井は珍しい二重格天エ+います。格天井とは、格式を尊ぶ部屋に用いられる天井形式で、2~2.5寸角の断面の格縁と呼ばれる部材で格子を作り、格子の間(格間)に正方形の板を張った天井を言います。格子を二重にしたのは、皇室を迎えるに当たり格式を重んじる格天井により一層の格式を持たせることを意図したものです。

    「御殿の間」
    御殿の間は明治20年(1887)寶日館創建当時からその構造は変わっていません。本間天井は珍しい二重格天エ+います。格天井とは、格式を尊ぶ部屋に用いられる天井形式で、2~2.5寸角の断面の格縁と呼ばれる部材で格子を作り、格子の間(格間)に正方形の板を張った天井を言います。格子を二重にしたのは、皇室を迎えるに当たり格式を重んじる格天井により一層の格式を持たせることを意図したものです。

  • 御殿の間」にて<br />礼宮文仁親王殿下(現 秋篠宮皇嗣殿下)<br />昭和59年ご来館時に、「御殿の間」でくつろぐ殿下

    御殿の間」にて
    礼宮文仁親王殿下(現 秋篠宮皇嗣殿下)
    昭和59年ご来館時に、「御殿の間」でくつろぐ殿下

  • 「広縁」<br />床框は螺鈿の輪島塗です。螺鈿とは、貝殻の真珠光を放つ部分を研磨することで平らにして細かく切り、文様の形に木地に嵌め込んだ装飾を言います。<br />広縁の天井は比較的脂分の少ない屋久杉で、広縁奥の化粧室の天井は寄せ木造りです。

    「広縁」
    床框は螺鈿の輪島塗です。螺鈿とは、貝殻の真珠光を放つ部分を研磨することで平らにして細かく切り、文様の形に木地に嵌め込んだ装飾を言います。
    広縁の天井は比較的脂分の少ない屋久杉で、広縁奥の化粧室の天井は寄せ木造りです。

  • 「寄木細工の床」<br />階段の踊り場には寄木細工が施されています。寄木細工は様々な種類の木材をパズルのように組み合わせ、それモれの色合いの違いを利用して模様を描く伝統的木工技術です。<br />日本の寄木細工は神奈川県箱根の伝統工芸として有名で、約200年の歴史があるとされていますが、その起源は古く平安時代に見ることができるとも言われています。<br />床に寄木細工を施す工法は「寄木張り」とも言われ、海外でも住宅の寝室や廊下などに使われ、木タイルよりも足元が温かく感じられる特徴があります<br />この踊り場の寄木は床面積の割に個々の木材が小さく、職人の技がよく見て取れます。なお、階段自体の踏み板にはヒノキが使われています。

    「寄木細工の床」
    階段の踊り場には寄木細工が施されています。寄木細工は様々な種類の木材をパズルのように組み合わせ、それモれの色合いの違いを利用して模様を描く伝統的木工技術です。
    日本の寄木細工は神奈川県箱根の伝統工芸として有名で、約200年の歴史があるとされていますが、その起源は古く平安時代に見ることができるとも言われています。
    床に寄木細工を施す工法は「寄木張り」とも言われ、海外でも住宅の寝室や廊下などに使われ、木タイルよりも足元が温かく感じられる特徴があります
    この踊り場の寄木は床面積の割に個々の木材が小さく、職人の技がよく見て取れます。なお、階段自体の踏み板にはヒノキが使われています。

  • 「中広間」

    「中広間」

  • 「中広間」

    「中広間」

  • 大きな掛け軸

    大きな掛け軸

  • 廊下

    廊下

  • 「板倉白龍の彫刻と二見ガエル」<br />階段親柱に彫られている「二見かえる」の作者は板倉白龍です。<br />白龍は有名な彫刻家「橋本平八」の弟子で、倭姫命像を千体以上彫ったことで知られ、院展でも入選しています。<br />この蛙は親柱と同じ楠の一木に彫られていて、後で取り付けたものではありません。親柱裏の刻銘「昭和11年」から、賓日館2回目の大増改築の最後に据えられたことがわかります。ちなみに「二見かえる」は縁起のよい「無事かえる」との語呂合わせから二見興玉神社祀神?猿田彦大神のお使いのように扱われ、二見のシンボルともなっています。

    「板倉白龍の彫刻と二見ガエル」
    階段親柱に彫られている「二見かえる」の作者は板倉白龍です。
    白龍は有名な彫刻家「橋本平八」の弟子で、倭姫命像を千体以上彫ったことで知られ、院展でも入選しています。
    この蛙は親柱と同じ楠の一木に彫られていて、後で取り付けたものではありません。親柱裏の刻銘「昭和11年」から、賓日館2回目の大増改築の最後に据えられたことがわかります。ちなみに「二見かえる」は縁起のよい「無事かえる」との語呂合わせから二見興玉神社祀神?猿田彦大神のお使いのように扱われ、二見のシンボルともなっています。

  • 「第34期王将戦 第3局」<br />王将・十段・棋聖?棋王:米長邦雄(41)/中原誠(37)<br />昭和60年(1985)2月5日6日 賓日館「御殿の間」

    「第34期王将戦 第3局」
    王将・十段・棋聖?棋王:米長邦雄(41)/中原誠(37)
    昭和60年(1985)2月5日6日 賓日館「御殿の間」

  • 旅館時代の帳場

    旅館時代の帳場

  • 資料館<br />明治20年(1887)2月の竣工当初から、賓日館の実質的管理は隣接する旅館「二見館」の若松徳平に委ねられていました。

    資料館
    明治20年(1887)2月の竣工当初から、賓日館の実質的管理は隣接する旅館「二見館」の若松徳平に委ねられていました。

  • 二見館は本家・若松家の分家の3代目若松 明治17年(1884)に創業した旅館です。<br />当初の寶日館は神宮関係の博物館も兼ねていましたが、神苑会が神宮専門の博物館「徴古館」建設を計画すると、明治37年(1904)11月、神苑会と若松徳平の間に「賓日館貸借契約」が結ばれ、その後、明治44年(1911)2月には賓日館は二見館に払い下げられました。

    二見館は本家・若松家の分家の3代目若松 明治17年(1884)に創業した旅館です。
    当初の寶日館は神宮関係の博物館も兼ねていましたが、神苑会が神宮専門の博物館「徴古館」建設を計画すると、明治37年(1904)11月、神苑会と若松徳平の間に「賓日館貸借契約」が結ばれ、その後、明治44年(1911)2月には賓日館は二見館に払い下げられました。

  • 明治末期~大正初期と昭和5年(1932)~昭和11年(1936)の2回、賓日館は大増改築を<br />経て平成11年11月まで「二見館別館」として営業を続け、平成15年11月、建物を譲り受けた二見町により資料館として再開館しました。

    明治末期~大正初期と昭和5年(1932)~昭和11年(1936)の2回、賓日館は大増改築を
    経て平成11年11月まで「二見館別館」として営業を続け、平成15年11月、建物を譲り受けた二見町により資料館として再開館しました。

  • 「海水浴の始まりと賓日館」<br />二見浦の海水の成分が滋養に富むとして、明治十五年(1882)十月十九日、夫婦岩のある立石崎に日本初の国公認の海水浴場が開設されました。当時の海水浴は医療が目的で、海中に打った杭に荒縄を張り、それに掴まって海水を浴びる「冷浴」と、海水を温めて入る「温浴」が症状によって使い分けられていました。

    「海水浴の始まりと賓日館」
    二見浦の海水の成分が滋養に富むとして、明治十五年(1882)十月十九日、夫婦岩のある立石崎に日本初の国公認の海水浴場が開設されました。当時の海水浴は医療が目的で、海中に打った杭に荒縄を張り、それに掴まって海水を浴びる「冷浴」と、海水を温めて入る「温浴」が症状によって使い分けられていました。

  • 資料館 お伊勢参りの様子

    資料館 お伊勢参りの様子

  • 中庭

    中庭

  • 中庭から2階大広間

    中庭から2階大広間

  • 二見浦海岸沿いの遊歩道

    二見浦海岸沿いの遊歩道

  • 老舗の旅館

    老舗の旅館

  • 二見蛙は二見興玉神社の縁起物としてむかしから人々に愛好されています。<br />蛙は吸い込む習性があり幸福を招き入れるという信仰を生み、また蛙は遠き地に移しても必ず元の地に「かえる」といわれますので参拝者が「無事かえる」の願いから蛙の信仰が出たものです。<br />「無事かえる」<br />「貸した物がかえる」<br />「若かえる」……コレが一番大事

    二見蛙は二見興玉神社の縁起物としてむかしから人々に愛好されています。
    蛙は吸い込む習性があり幸福を招き入れるという信仰を生み、また蛙は遠き地に移しても必ず元の地に「かえる」といわれますので参拝者が「無事かえる」の願いから蛙の信仰が出たものです。
    「無事かえる」
    「貸した物がかえる」
    「若かえる」……コレが一番大事

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