2025/02/23 - 2025/02/23
19866位(同エリア49401件中)
しもつきさん
毎年恒例の冬の旅。
23年北部九州
24年南部九州
と順調に南に足を伸ばして、今年はさらに海を飛び越えて沖縄へ。
沖縄上陸は人生初。
モノレール以外の公共交通機関がバスしかない沖縄本島。
今回も路線バスを縦横無尽に活用して沖縄を満喫します。
沖縄漫遊2日目。
世界遺産のグスク三昧しながら南下し、ふたたび那覇へ戻ります。
そしてその途上のあちこちで沖縄の現実を認識して、その景色を目に焼き付けます。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
【1日目からのつづきです】
おはようございます。
名護にて迎えた2日目の朝。
今日もどんよりなお天気。
昨日は天気も持って結構暖かったけど、今日はさすがに雨降りみたい。気温も低し。 -
ホテル1Fのお食事処でバイキングスタイルの朝食。
今日のお宿も朝食付けちゃいました。
いつもの旅なら次の目的地へ始発のバスで、、、となるところですが、今回の旅は沖縄本島内しか廻らないので行程はゆったりめ。 -
どれを取ろうか、、、
-
野菜ちゃんぷるー。
提供料理をありきたりなゴーヤーちゃんぷるーにしていないのはやんばるホテルの矜持か、それとも経費の問題か。 -
紅イモコロッケも沖縄ぽくて良し。
-
ゆし豆腐、もずくと沖縄らしさを演出してみる。
スクランブルエッグが無かったのがややヘコみ。 -
野菜ちゃんぷるーは再度とってしまった。
昨朝のバイキングに比べてしまうとさすがに勝てませんけど、シンプルなラインナップでおいしゅうございました。
ごちそうさまでした。 -
9時半にはチェックアウト。
いや、しかし無料で洗濯できるのはありがたかった。
洗濯物が溜まっていて、なおかつ名護を観光する方にはお勧めのホテルです。 -
既に小雨降る名護の街をバス停まで歩く。
雨晴れないのかねぇ。 -
昨夜も通ったひんぷんガジュマルの木のロータリー。
ヒンプンガジュマル 自然・景勝地
-
ロータリーの横はちょっとした広場になっており、2000年九州・沖縄サミットの記念写真などが飾られています。
当時サミットが開かれた「万国津梁館」は名護市内にある施設で、昨日那覇から乗ってきたバスのルート沿いにあったのよね。 -
懐かしい迷言M氏が日本国の首相としてホストを務めてましたな。
あとも懐かしい顔ぶればかりですが、、、 -
約1名、未だにこの時と同じ肩書を現在も有している人が。。。
2000年って25年前だよ?
それがいまだに(途中退任時期あったとはいえ)大統領やってるって何かおかしくないかっ!!
しかもそんな権力執着者によって、今日も世界で攻撃され、戦火が絶えない国が存在するという…。 -
気を取り直して。
1924年(大正13)のひんぷんガジュマルの写真。
ちなみに偶然ながら大正13年は私の亡き祖父母達の生まれた年です。 -
現在のひんぷんガジュマル。
写真の位置とほぼ同じ位置からの図(だと思う)。
上の写真だとまだまだ天に向かって勢いがあるけど、現在の姿はどっしりとして脂の乗り切った大御所役者のよう。
(どんな例えよ) -
-
-
イイネ。
-
沖縄 名護なのに「うらわ印刷」
学生時代は浦和に住んでいた。
なにもかもがなつかしひ。。。 -
今日も元気に「沖縄路線バス周遊パス」で旅を再開。
本日一発目のバスを待つ。
今日は名護から那覇方面に南下していきます。
小雨降る中バス待ち。
はよ来い。 -
始発の名護バスターミナルからこのバス停まで3km程度の距離しかないのに、予定時刻より15分経ってもバスが見えない。
なぜ。。。 -
ようやっと来ました。
沖縄バス 77名護東線[前原]屋慶名バスターミナルゆき
名護城入口9:48(から17分程度の遅れ)→ -
77名護東線は名護市街から山を越えて東海岸側の辺野古へ出てR331を宜野座村・金武町・うるま市を経て那覇バスターミナルまで結ぶ沖縄本島路線バス最長の路線だったのだけど、この旅行の1ヶ月前の1月19日に運転手不足による再編に伴い、うるま市内の屋慶名バスターミナルまでに区間短縮されてしまった。
-
名護市街を抜けると西海岸側から左折して山の中へ。
沖縄本島を横断して東海岸側へ。 -
-
-
東海岸側へ抜けました。
目の前の海中の工事現場は米軍基地の辺野古移転のための埋め立て現場のようです。 -
ここでも敢えて、埋め立てや基地の移転の是非については触れません。
ただ現実として日米安全保障条約下の核の傘の下にある平和な日本に住んでいるから、こうやって楽しい旅行が出来ているという事。
この平和を維持するための抑止力の一端を担う戦力が沖縄に集中して置かれているという事。
その事を日本国民として、視て知っておかなければいけない。 -
-
-
工事搬入口と思しきゲートの前に、反対派の方々のプラカード。
ピンボケなのは、別にボカしているのでは無くて、カメラを向けるのが遅れてピントが合わなかったから。 -
雨模様の海もうら寂し気。
東海岸自体も昨日通ってきた西海岸側に比べるとあまり開発が進んでいないのかひと気が少ない感じです。
まぁ雨の日曜日の朝って事もありますし。 -
バスは名護市辺野古から国頭郡宜野座村→国頭郡金武町へ。
-
と、今度は車窓右側に米軍基地「キャンプ・ハンセン」が。
-
ここも広大な敷地です。
日曜だからか?それともそんな外から見えるようなところには居ないのか?
人の姿は全く見えず。 -
再び海岸線をゆく。
ちなみにポツポツお客さんが乗ってきたり降りたりするのですが、基本的にガラガラなまま。
ちなみに名護から乗り通しているはワタシ一人だけ。 -
-
バスはうるま市に入りました。
-
そんなこんなそんなこんな。
バスに揺られること2時間。
うるま市の[西原]にてようやくバスを降りました。
いや~、かなり乗り疲れた。 -
2時間かけて沖縄本島の中央部分を一気に南下してきました。
ググったマップ検索だと1時間10分~40分とか書いてあるけど、昨日からと同じように沖縄の路線バスでそんな早く着くわけもなく。 -
で、なんでこんなところで降りたのかというと、、、
-
本日最初の目的地。
世界遺産 勝連城跡。
昨日に引き続き、本日も琉球グスクへ参りました。勝連城跡(世界遺産) 名所・史跡
-
グスク麓にビジターセンター。
地元?のおばあちゃんがひとり休んでますな。。。 -
と、思ったらマネキンだった。。。
実をいうとこの時、バス2時間乗車でずっと我慢していたおトイレに行きたくて行きたくてすごい焦っていた。
だからほんとに最初気づかなくって、スゲ―ビビった。 -
なんか、うるま市を舞台にしたアニメが絶賛放送中らしいですよ。
-
まずは城を横目に見つつ、
-
城の道路向かいの「あまわりパーク」なる、うるま市の歴史資料館にてオモ―な荷物をコインロッカーに突っ込んで、入城チケット購入。
大人¥600也。あまわりパーク 美術館・博物館
-
この阿麻和利って方が「あまわりパーク」のあまわりなのね。
《史書によれば、悪政を強いる前城主の茂知附按司(もちづきあじ)を倒して10代目勝連城の按司となる。東アジアとの貿易を進め、大陸の技術などを積極的に取り入れた。勢いを増す阿麻和利に第一尚氏王統の第6代国王・尚泰久王は娘である百度踏揚を妻に娶らせ懐柔策を取り、同王の娘婿の立場になった。当時琉球では麒麟児との評判が広まり、首里の尚氏は伯父である護佐丸の次に滅ぼす計画を練る。史書によれば首里城攻略を計画していたとされる中城城主の護佐丸を王の命令で攻め、忠誠のあかしとして自刃させた。
さらには阿麻和利自身が首里城攻略の野望を抱いたとされ、王府の疑いにより差し向けられた越来賢雄(鬼大城)の軍に攻め滅ぼされたとされているが、城趾には大きな戦いの痕は見られない。
阿麻和利英雄説
正史では護佐丸が忠臣、阿麻和利が悪人とされているが、『おもろさうし』には阿麻和利を英雄として讃えるおもろが収録されており、新城俊昭は通説に疑問を呈している。》
(wikipedeより)
どうにも阿麻和利の栄枯盛衰を読み進めていくと、第一尚氏が琉球を統一していく過程で有力豪族だった諸氏を滅ぼしていった、というのが流れのようです。
正史は勝者の第一尚氏が記したものであり、敗者は悪く書かれるもの。
阿麻和利はうるま市のちょっとした歴史上の英雄のようです。 -
再び外へ出て、勝連城へ。
これからこれを登るのか。。。
雨降ってるし、昨日から脚痛いし、キツイなぁ。 -
…。
-
が、、、なんと入口から途中の広場までカートで乗せていってくれると。
しかも無料で!
マジ助かる。 -
-
楽チンだ…。
文明の利器に感謝。
こういうのは、世界遺産だからバリアフリーに配慮したサービスとかなのかな? -
石垣の下あたりの広場までは道も舗装してあり、カートで乗せていってくれました。
この一番下に位置する広場は「四の曲輪」でここから三、二、一と郭を上っていくのです。
しかしここからは階段みち。
オノレの脚で歩いて行けよ、と。 -
脚イタイ(>_<)
心折れそう…。 -
-
「三の曲輪」に到達。
-
-
勝連城は勝連半島(与勝半島)の南側。ちょうど半島が突き出る付け根の部分にある。
海に面した要害の地。 -
《勝連城は、14世紀初頭に英祖王統2代・大成の五男、勝連按司によって築城されたと考えられているが、いっぽうで12世紀から13世紀頃には既に築城が始まっていたとする説もある。
そして、この城の最後の城主・阿麻和利(10代目勝連按司)は、圧政を敷き酒に溺れていた9代目勝連按司の茂知附按司に対してクーデターを起こし殺害、この地方の按司として成り代わり海外貿易などを推し進めますます力を付けた。阿麻和利は護佐丸・阿麻和利の乱で護佐丸を討ち取ったのち、尚泰久王をも倒そうと琉球の統一を目論んだが、1458年に王府によって滅ぼされた。》(wikipedeより) -
さらに上へ。
-
-
「二の曲輪」にはこの城の政庁の建物があったそうです。
-
-
かまど石。
火の神様(ウミチムン)を祀ったここには台所があったと。
沖縄のグスクは神を祀る立派な石の祠のようなものが多くみられる。 -
-
では、一番上の「一の曲輪」へ。
写真じゃわかりにくいけど、階段が上るごとに少しずつ狭くなっていて、敵が勢いよく侵入してこれないようになっている、のだそうな。 -
石畳の階段もゴツゴツしてて脚の痛みが増す、、、
-
最上郭の「一の曲輪」に到達。
-
海が見渡せます。
小雨降るどんよりな天気で眺望がいまいち。 -
南の方角。
かすかに見える陸地は中城湾をはさんだ北中城村、中城村方面。
中城には阿麻和利のライバル、護佐丸の居城があったとの事。 -
東方面は勝連城から連なる丘陵が勝連半島の先まで延びる。
-
-
勝連半島と平安座島を結ぶ海中道路(沖縄r10 伊計平良川線)。
浅瀬に作られた5.2kmの堤防道路で真ん中に見える橋は、船の航路確保のためにあえて橋にしてあるらしい。海中道路 名所・史跡
-
-
さて降りようか、、、
-
脚の痛みに耐えながら帰りは下まで歩いて降りました。
-
-
石垣は、昨日の今帰仁城に比べるときっちり加工して積上げられてるような。
勝連城の方が築城年が100年近く新しいようです。
石垣技術の進歩だね。 -
いや~、堪能してしまった。
-
「あまわりパーク」の歴史文化施設に戻りコインロッカーから荷物回収。
-
先程触れたうるま市舞台のTVアニメの原作マンガのポップもあり。
-
激しくなってきた雨の中、次に向かうバスを待つ。
-
沖縄バス 52与勝線[美栄原]那覇バスターミナルゆき
勝連城跡前12:26(から18分程度の遅れ)→ -
-
外は結構な雨模様です。
-
バスはうるま市から沖縄市に入り「コザ十字路」へ。
沖縄市の中心街です。
なんの変哲もない交差点に見えますが、アメリカ統治下の1970年(昭和45)に酒気帯びのアメリカ兵が起こした交通事故に端を発して、車両75台以上を焼損し、アメリカ軍人40人沖縄人ガード5人アメリカ軍属16人地元住民14人容疑者7人警察官6人が負傷、死者は0という被害を出した「コザ暴動」が発生した場所。 -
北中城村に入り[北中城村役場前]にて下車。
-
今回はググったマップ通り45分ほどの乗車時間でした。
-
で、なんでこんなところで降りたかというと、、、
-
-
北中城村役場の脇の道を歩き進むと、、、
-
-
-
高速道路上のバス乗り場にたどり着きました、と。
徒歩5分程度で乗り換えられます。
このまま路線バスで那覇に戻るのではなく、ここからはちょとだけ高速バスで。 -
バスの待合スペースも沖縄っぽさ出てるね。
-
目の前は遮るものも特に無いので、自動車がビュンビュン飛ばしていきます。
-
乗るべきバスが来ました。
那覇バス 117高速バス[美ら海直行・谷茶]那覇空港国際線旅客ターミナルゆき
喜舎場13:44(から19分程度の遅れ)→ -
バスは観光客に大人気の美ら海水族館から那覇空港まで行く便ということもあり、そこそこの混み具合。
だいぶ後方に空き席を見つけて着座。 -
沖縄の高速バスは高速道路上のバス停の間などの短距離の利用も可能。
ちなみに昨日「沖縄路線バス周遊パス」購入時にも述べましたけど、このきっぷで高速バスは利用できません。
なので、このバスは別払いで利用します。 -
3つ目の[幸地]にて下車。
運賃¥510也。
けっこう他にも短距離利用している人がいましたね。
ここでも私のほかにも3名ほど下車してました。
ま、ここで降りる人は私と同じとこ目指してるんだろうね。 -
高速道路上のバス停を出て、また徒歩でプラプラと5分ほど、、、
-
ゆいレールの駅に到達。
こちらは高速バスからゆいレールに乗り換えられるのでした。 -
-
ゆいレールのてだこ浦西駅。
2019年(令和元)に延伸開業したゆいレールの終点駅。
那覇市の隣の浦添市にあり。てだこ浦西駅 駅
-
終着駅なので、折り返しの那覇空港ゆき始発列車に乗ります。
沖縄都市モノレール 那覇空港ゆき
てだこ浦西14:15→ -
ゆいレールは高架で高いところを走るので見晴らしが抜群です。
-
-
てだこ浦西から2つ目の経塚は駅前周辺に大規模な霊園が。
沖縄の墓地は一つ一つが大きいから霊園も広大な敷地になるのね。
しかし「経塚」って地名、お経=墓地となんか関連あるのかな? -
-
しかしこうして見てもよくわかるけど、沖縄本島は起伏が多い。
相変わらずお脚が痛いのだけど、あと今日明日とこの旅をやっていけるのだろうか。。。 -
-
-
てだこ浦西から4つ目、首里にて下車。
首里はゆいレール開業時の終点だった駅。首里駅 駅
-
そして世界遺産 首里城への最寄り駅。
-
そんなわけで首里城を目指します。
ホントは脚が痛いので、駅前からバスに乗る予定だったが、バス乗り場までたどり着く前に目の前をバスが通過していってしまった>_< -
シー
-
サー
-
龍潭が見えてきたら首里城も、もうすぐ。
龍潭とは《1427年、琉球王国の第一尚氏王統・第2代尚巴志王の命により、国相懐機が作庭したといわれる人工の池である。魚が多く住み、魚小堀(イユグムイ)とも呼ばれる。作庭のきっかけは、1425年、来琉した冊封使が尚巴志王に首里城北に作庭するように勧めたこととされる。尚巴志王は懐機を明へ派遣して、中国各地の池を調査、帰国後作庭に着手した。》(Wikipediaより)
尚巴志は琉球王国(第一尚氏)を統一した王ですね。龍潭 名所・史跡
-
龍潭沿いを歩いていくと、、、
-
-
お~ 守礼門。
首里城公園に着きました。
首里城は正式には国営沖縄記念公園の首里城地区(通称・首里城公園)。
御存知、世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一部ですが「首里城跡」自体が世界遺産であって、守礼門や現在再建中の正殿などの建造物は世界遺産に含まれてないんですよね。
なぜなら首里城の建造物はほとんどが復元されたもの。
沖縄戦の際に沖縄防衛を企図する日本陸軍第32軍が首里城地下に大規模な地下壕を構築しここに総司令部を置いて籠城抵抗したため、米軍の艦砲射撃や両軍の凄惨な戦闘で地上の建造物はほぼ焼失したそうです。 -
公園入口のビジターセンター「首里杜館」にてコインロッカーにここまで持ってきてしまったオモ―な荷物を預けて、、、
-
《守礼門(しゅれいもん)は、沖縄県那覇市首里にある首里城歓会門の外、首里を東西に貫く大通りである「綾門大道」(アイジョウウフミチ または アヤジョウウフミチ とも)の東側に位置する牌楼型の門(楼門)。「上の鳥居」や「上の綾門」の別名をもつ首里城の第二の坊門である。
第二尚氏王朝の時代、中国からの冊封使が琉球に来た際には、国王以下の高官らが守礼門まで出迎え三跪九叩頭の礼をとっていた。沖縄戦で全壊したが、1958年(昭和33年)に再建され、1972年(昭和47年)5月12日に「旧首里城守礼門」として沖縄県指定有形文化財となった。》(Wikipediaより)
ちなみに扁額の「守礼の邦」とは『琉球は礼節を重んずる国である』との意との事ですけど、国のスローガンみたいなのが王宮の入口に掲げられてるって、カッケーな。
なお台風銀座の沖縄。台風が直撃しそうなときは扁額は片付けられるそうです。守礼の門 名所・史跡
-
-
守礼門をくぐって進んだ左手には「園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)」
場内にある唯一世界遺産に登録されている建造物。
《石門の背後にある森が園比屋武御嶽である。この御嶽は国王が各地を巡航する旅に出る際必ず拝礼した場所であり、また聞得大君が就任する時にまず最初に拝礼した、いわば国家の聖地だった。》(Wikipediaより)園比屋武御嶽石門 名所・史跡
-
-
-
「歓会門」
ここからいよいよ城郭内へ。 -
-
周知のとおり、首里城は2019年(令和元)10月31日に正殿など7棟が火災で焼失してしまい現在未だ再建の途上です。
上に見えてきたのは再建工事中の正殿を覆う足場棟。 -
次なる門が近づいてきました。
-
「瑞泉門」
脚の痛みに耐えてふぅふぅ言いながら登る。。。 -
くぐるとすぐに次の「漏刻門」
琉球王朝の時代、駕籠で乗り入れる事が許されている高貴な身分の者でも、この門の前で駕籠を降りなければならなかったそうな。
どんな身分の者でも私と同じく痛めた脚を引きずって、ここからは登ったのね…。 -
これはソテツですか?
-
ちなみに「漏刻門」の名の由来は、楼門内に水時計が設置されて鐘で時を知らせたことからだそうです。
-
-
改めて振り返ると、首里城はだいぶ高い位置にあることが解る。
-
-
「広福門」
明治末期に破却されてしまったものを1992年(平成4)に再建。
くぐった裏側にはここから先の有料区域の券売所があり。 -
-
チケットを買って「奉神門」をくぐって有料エリアへ。
-
かつては門をくぐると首里城正殿のある「御庭(うなー)」が広がっていたけど、先の大火で正殿は焼失。
-
正殿再建中の現在は、その工事現場を囲う工事フェンスが。
かつてはこのように目の前に広がっていたであろう正殿の風景がフェンスに描画されてます。 -
-
順路に沿ったフェンスには工事の様子も描かれてる。
-
-
-
現在絶賛復元工事中の現場はガラス貼りで観察できるようになってます。
本日は日曜日なので工事作業はやってません。 -
-
-
-
さらには大火で焼け残った正殿の建材なんかの展示も。
-
-
-
見学コースを階段で上がり、屋根復元現場の足場と同じ高さのフロアまで上がる。
しっかし今日は休日で工事してないから良いけど、こんなガラス貼りの衆人環視の中で作業しなきゃいけない職人さんはめっちゃプレッシャーかかる作業よね。 -
-
-
復元工事エリア(素屋根見学エリア)を出てさらに奥に進み、「東のアザナ(あがりのあざな)」へ。
首里城跡の一番奥にある、高台でかつての物見台だった場所との事。 -
-
「白銀門」
《「白銀門」は創建年不明であるが、東のアザナ下方にある内郭石積に接して設けられた門で、別名「しろがね御門(うじょう)」とも称される。「白銀門」と「東(あがり)のアザナ」の間には、国王の霊柩を安置する「寝廟殿(しんびょうでん)」があり、「寝廟殿」へ詣でる国王が通る門であると考えられている。それ以外の人びとは、脇門をくぐったと伝えられている。
この門は城内の他の石門と様式が異なり、琉球石灰岩で建物の屋根を表現する石造形式の門となっている。復元整備にあたっては、古写真をもとに石組を忠実に復元している。》(首里城公園公式サイトより) -
くぐった先は先祖を祀る聖なる場所だったよう。
-
-
脚が、、、
-
「東のアザナ」まで登り切った!
痛みに耐えてよく頑張った。
感動した。東のアザナ 名所・史跡
-
-
-
さすがに首府の物見台なので良い景色。
思いの外、那覇の街の向こうに海が間近に見える。 -
建物の谷間にゆいレールも見えます。
-
-
復元工事見学エリアまで下りてきて、、、
-
-
「淑順門」より退場順路へ。
-
《女性が取り仕切る「奥」の世界
正殿を境にした東側の一帯は「御内原(おうちばら)」とよばれる国王やその親族の私的空間である。王妃を頂点とする厳正な女官組織のもとに多くの女性が仕えており、「淑順門(しゅくじゅんもん)」は女性がすべてを取り仕切る「奥」の世界へ通じる門であった。》(首里城公園公式サイトより)
「奥」の世界からの脱出。。。 -
-
-
-
さらに「右掖門」を抜ける。
-
-
-
城内にこんな場所が。
沖縄戦の際、琉球王朝時代の貴重な建造物を破壊して造られた沖縄防衛の任を受けた日本陸軍第32軍の司令部壕。
しかし、破壊して造られた壕自体も戦後80年に至り貴重な歴史遺産となろうとしている。
この首里城の地下に籠った、おそらく今の私より若かった将兵やその他諸々人たちは、日々何を思い何を考えて地下で過ごしたのだろう。 -
-
-
「守礼門」まで戻ってきました。
ここを最初にくぐったのからちょうど一時間。
けっこうガッツリ見学できました。 -
「首里杜館」にてオモ―な荷物回収して首里城公園を退去。
次に来るときは正殿が再建されてからかな?
そうなったら必ずまた来たい。 -
公園を出て、道を一本渡ると世界遺産の「玉陵(たまうどぅん)」。
第二尚氏王統の歴代国王の陵墓。
中には沖縄県下最大の破風墓があるらしい。
…脚が痛くて、もう道を渡って入る元気すらありませぬ。
申し訳ない。。。玉陵 名所・史跡
-
壁にシーサーが飾られている。
-
くだり坂道がツライ。。。
-
ずいぶん古びた家屋(失礼!)なのですが、
-
屋根にはシーサー。
-
更に飾り瓦も。
かつては由緒あるお宅だったのか。 -
-
こうして見ると、シツコイようだけど沖縄本島は起伏が激しい。
-
-
さて、次なる目的地に向かうべくバスを待つ。
また、けっこう雨が降ってきました。 -
予定時刻より大幅に遅れてバスが来た。
34分遅れ。
その間、ひと様の軒先で雨宿り。
心折れそうになる。。。
那覇バス 125普天間空港線[中城]琉球大学病院ゆき
山川16:48(から34分遅れ)→ -
かなりな雨模様。
-
20分ほどバスに揺られて浦添市の[広栄]にて下車。
-
今夜のお宿は那覇市内なんですけど、首里から北へ、那覇から少し離れます。
-
さて、これから向かうのは別段観光地とか名所とかではないのです。
はじめての沖縄旅行で敢えて巡るポイントなのか…。
また、雨の中重い荷物を背負ってまでして行くべき処なのか…。
でも見に行った方がいい気がする。。。 -
やって来たのは「嘉数高台公園」
嘉数高台公園 公園・植物園
-
住宅街の中にあるフツーの市民公園なんですけど。
強いて言うなら、結構な高低差のある高台の傾斜面全体が公園になってます。 -
-
公園の一角に保存されている穴の空いたコンクリート壁。
「弾痕の塀」
沖縄戦の時の弾痕です。
ただし、これは近隣の民家のものを移設したものだそうです。
《嘉数の戦い
嘉数の戦い(かかずのたたかい)とは、太平洋戦争末期の沖縄戦において、嘉数高台をめぐって1945年4月8日(7日)からの16日間に行われた戦いである。この戦いは沖縄戦最大級の戦闘の1つとしても知られるほどの激戦であった(中略)頑強に抵抗したため、嘉数は米軍からは「死の罠」「忌々しい丘」などと呼ばれた。》(Wikipediaより) -
高台の上へ。
脚が、、、
試される大地…。 -
1945年(昭和20)4月1日に沖縄本島中部の読谷に上陸したアメリカ軍は日本軍が司令部を構築した首里へ向けて南下進軍。
対する日本軍は上陸前より中南部の高地や高台に防衛陣地を構築し頑強に対抗。
「嘉数の戦い」と呼ばれるこの地での4月8日~23日の16日間の戦闘で日本軍戦死傷64,000、米軍戦死傷24,000の犠牲がこの高台周辺で出たと言う。
ひとつの場所で88,000人の損害なんて。
ちょっと想像できない。 -
階段の途中の踊り場を左に逸れたところには「陣地壕」の跡。
《嘉数高地は、第二時大戦中に作戦名称第七〇高地と命名され、藤岡中将の率いる第六十二師団独立混成旅団、第十三大隊原大佐の陣頭指揮で約千人の将兵と約千人の防衛隊で編成された精鋭部と、作戦場自然の要塞の上に堅固な陣地構築がなされたため十六日間も一進一退の死闘が展開されたが遂に日本軍は矢尽き刃折れ後退したが、しかし米軍にとっては「死の罠」「いまわしい丘」だと恐れられた程に両軍共に多くの尊い人命を失った激戦地である。この嘉数高地七〇高地は、旧日露戦争の二〇三高地に値する第二次大戦の歴史の上に永代に残る戦跡である。》(銘文より引用) -
コンデジのレンズを立入禁止の柵の間に突っ込んで奥を撮影。
どこまで続いているのだろうか。
この中でどれほどの数の人が息を潜めて「その瞬間」を待ったのだろうか。 -
高台公園の頂上には展望台があります。
-
展望台脇に宜野湾市の地図が。
ちなみにさっきバス降りてきた[広栄]は浦添市ですけど、ここ嘉数高台公園は宜野湾市になります。
なんか市内のど真ん中に不自然に色ついて無い地域がありますね、、、 -
展望台を登ると、中段フロアで何かを撮影?してる人がいました。
-
…。
-
…。
-
。。。
-
展望台からの眺め。
目の前に広がるのはアメリカ軍の普天間飛行場。 -
かつて戦場と化した緑多き高台の目の前に、
-
かつてここを戦場として戦った異国の軍隊の基地が存在する。
-
そして、聞きしに勝るほどの住宅地との近接ぶり。
これが戦後から今日までの沖縄の現実。 -
配備以降、何かと話題に上がるアメリカ軍輸送機オスプレイが見えます。
-
-
中段フロアのカメラを構えた御仁は軍事マニア的な方なのだろうか。
それとも基地に反対する立場で監視的な目的で注視しているのだろうか。 -
政治家とかが『普天間基地の現状視察』みたいなニュースで普天間飛行場の滑走路を遠望しているのは、大体この公園だそうです。
-
-
「京都の塔」
「嘉数の戦い」に投入された第62師団独立混成旅団のうち3個大隊(約3,500名)は京都で応招、編成されており、そのうちの多くはこの地で最期を迎えた。
彼らを慰霊する慰霊碑を京都府の方々が建てたのだそうです。
また右手奥には「嘉数の塔」
戦場に巻き込まれ、また動員等でともに戦い亡くなった嘉数地域の住民の慰霊碑。嘉数地区は住民の過半数が犠牲となった。 -
《沖縄「京都の塔」について
「京都の塔」とは
先の大戦において、沖縄で戦没された京都府出身者2,530有余の方々の慰霊のため、昭和39年4月に京都府沖縄慰霊塔建設奉賛会により沖縄県宜野湾市の嘉数高台公園内に建立されました。毎年2月頃、「京都の塔」前において、沖縄で戦没された京都府出身の方々を追悼し平和を祈念するため、(一社)沖縄京都の塔奉賛会主催で、慰霊追悼式を実施しています。(中略)昭和50年6月に(一社)沖縄京都の塔奉賛会により、京都の部隊を援助し、共に戦った嘉数地域の住民343名を慰霊する「嘉数の塔」が建立されました。毎年6月に慰霊祭が行われています。》(京都府 公式ホームページより) -
「青丘の塔」
朝鮮半島出身の犠牲者の慰霊の塔。 -
高台公園の北側斜面「嘉数の戦い」の際にアメリカ軍が攻め寄せて来た方向に向かってトーチカが残されています。
《トーチカとは、主にコンクリートで作られた、防御用の小さな陣地のことです。》(google検索より) -
-
これが陣地側、つまり味方側。
入口が狭く感じる。
80年前の日本人は令和の我々よりもうちょっと小柄だったかもしれないけど、それでも狭く小さい気が。
まるで中に入って戦闘を始めたら撤退することは考慮されていないような。 -
敵側。
小さい穴は銃眼。ここから銃身を突き出して敵の攻撃から身を守りながら射撃を行う。
日本のお城でいうところの「狭間」と同じ構造物。
この雑な荒っぽい造りがいかにも戦場の有り合わせ感を感じる。 -
写真じゃいまいちわからないけど、時刻は18:20とだいぶ暗くなってきた。
そろそろ引き上げます。
ハブ居るのね。。。
ハブは気温が低いと活動が低調になるらしいけど、ハブは冬眠しないそうで。 -
高台より降りて来てみれば普通の都市公園。
だけど80年前ここで10,000名近くが犠牲となった戦闘があった。
そして今現在、目の前に巨大な軍事飛行場が在る。 -
嘉数高台公園より10分ほど歩きR330にある[嘉数]バス停へ。
かなり雨が激しくなってきました。
重い荷物、痛む脚で、つらい環境だ。。。
ホントはこの後、北谷町の美浜タウンリゾート・アメリカンビレッジまで行って夕食を喰べたりお買い物したりするプランだったのだがもはやそんな気力全く無し。 -
R330は沖縄有数の幹線道路で、このあたりの区間は沖縄県でただ単に「バイパス」といえばこの道を指すくらい。
交通量も多く車がビュンビュン飛ばしていく。 -
なんか私が応援している某野球チームのマスコットにビミョーに似てるような、似てないような…。
-
本日最後のバスに乗る。
最後も雨の中を待ちに待ったり27分。
琉球バス交通 90知花線[古島駅]那覇バスターミナルゆき
嘉数18:16(から27分遅れ)→ -
バスは那覇中心地まで戻り[県庁北口]にて下車。
で、疲れきってて、もう次はいきなりホテル内の写真しか撮られおりませぬ。
ホントはバス降りてから[県庁北口]バス停の目の前にある商業施設「パレットくもじ」地下の「リウボウ食品館」で盛大にお土産になる品を買い込んだのだけど、もう疲れてて写真撮ってなかった。 -
今宵のお宿のお部屋。
すごくオモシロい。
と言うかすごくセマい。
これは部屋のドア開けたところから撮った図なのだけど、デスク(掘りごたつ式)とガラス貼りのシャワー&トイレしか有りません。 -
ベッドはロフトの上に有り。
狭いスペースを有効活用した部屋の造りになってます。
その分縦には広いけど。
リビングスペースは凄まじく狭く、シャワールームにバスタブ無しとか最低限の室内設備ですけど、まぁ一泊ですし。
インバウンドさん達がお盛んな那覇市中心部にあって一泊¥5,100という格安っぷり。Kariyushi LCH. Izumizaki 県庁前 宿・ホテル
-
沖縄最後の夜。
限界を迎えた身体にムチ打って国際通りへ。
最後の夜はナニ喰べよ?
とりあえず近くのファミリーマートでサーターアンダギー買って喰べ歩き。
沖縄のコンビニではファミマはコンビニ売上第1位で、沖縄ファミマは本土に比べて独自色も強いらしい。
ホットスナック的にサーターアンダギー売ってるのも沖縄ならでは。
ちなみに沖縄ではサーターアンダギーは各家庭それぞれに「家庭の味」があるらしい。 -
沖縄最後の夜はステーキを。
アメリカ統治の影響で沖縄ではステーキを日常的に喰べる文化が普及してるとの事。人口10万人あたりのステーキ店の店舗数は沖縄県が1位だとか。
飲み帰りに「締めのステーキ」って文化も有るそうです。
豪快に呑んだ後にステーキ喰うっていう沖縄最後の夜を演出したかったけど、疲れてるし脚痛MAXでもうそんな元気もない。。。
ホテルからも程近く、国際通りの入口にデンと構えるこちらのお店に入店。JUMBO STEAK HAN'S 奇跡の1マイル店 グルメ・レストラン
-
とりあえずオリオンドラフト。
今宵も旨し。 -
注文を終え肉待ちの図。
店名の「奇跡の1マイル」とは戦後、廃墟の中いち早く驚異的な復興して繁華街へと成長した国際通りを指しているんだそうな。 -
ランプステーキ1パウンド(450g)¥5,225也!
旅で喰い物にケチっちゃダメだ!
オノレのココロの命ずるママに?? -
いゃ~今宵も喰ってしまった。。。
-
ホテルに戻りまして。
バタンキュウ、と行きたいところですけど、ベッドのこの急階段を登り降りするのがまた、コワイこと。。。 -
しかもロフトなんで天井も高いです。
しかしベットでは立ち上がれる高さ幅もない。
寝転がって撮った寝る前最後の1枚に膝写り込んでる。
沖縄最後の夜は、かくして更けていきました。
【3日目につづく】
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
この旅行で行ったホテル
この旅行で行ったスポット
もっと見る
この旅行で行ったグルメ・レストラン
沖縄 の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ はじめての沖縄
0
247