伊賀・上野旅行記(ブログ) 一覧に戻る
亀山から名阪国道を通り忍者の郷伊賀へ向かいます。伊賀は三重県西部の都市で藩がごく短時間置かれた事はあるものの基本的には津藩の領地でした。ただ江戸時代初期、豊臣氏との二重政権時代に大阪城の豊臣家に対する備えとして伊賀上野城に天守を改修するも、建築途中に倒壊。その後再建の流れもありましたが天守は造られず明治維新に至った城です。ただ昭和初期に地域の有力者が天守を再建し現在に至るまで木造の天守が残っています。こちらは史実とは異なる天守ですが、築城の天才藤堂高虎が築いたという高石垣は健在でした。<br />上野城を見学後は藩校だった旧崇廣堂を訪れ庭園と1800年代前半に造られた講堂を見学、その後は明治期に建築された旧小田小学校で明治から昭和の教育についての展示を見たり、立派な校舎の見学をしました。<br />あまり深く計画した旅ではなく、特に後半の伊賀に関しては前日新幹線の中で行った事ない場所を探していたら見つけたので来たという感じなんですが見どころは多かったので1日いても良かったかなと思いました。<br />この頃は名古屋数日滞在が多かったのですが現在はさらに増えている状態なので、今後も1日や数日の名古屋近場の旅をしていきたいと思います。

2023年3月、三重の城下町、亀山と伊賀の旅(後編・伊賀観光編)

5いいね!

2023/03/03 - 2023/03/05

337位(同エリア493件中)

かるあみるく

かるあみるくさん

この旅行記スケジュールを元に

亀山から名阪国道を通り忍者の郷伊賀へ向かいます。伊賀は三重県西部の都市で藩がごく短時間置かれた事はあるものの基本的には津藩の領地でした。ただ江戸時代初期、豊臣氏との二重政権時代に大阪城の豊臣家に対する備えとして伊賀上野城に天守を改修するも、建築途中に倒壊。その後再建の流れもありましたが天守は造られず明治維新に至った城です。ただ昭和初期に地域の有力者が天守を再建し現在に至るまで木造の天守が残っています。こちらは史実とは異なる天守ですが、築城の天才藤堂高虎が築いたという高石垣は健在でした。
上野城を見学後は藩校だった旧崇廣堂を訪れ庭園と1800年代前半に造られた講堂を見学、その後は明治期に建築された旧小田小学校で明治から昭和の教育についての展示を見たり、立派な校舎の見学をしました。
あまり深く計画した旅ではなく、特に後半の伊賀に関しては前日新幹線の中で行った事ない場所を探していたら見つけたので来たという感じなんですが見どころは多かったので1日いても良かったかなと思いました。
この頃は名古屋数日滞在が多かったのですが現在はさらに増えている状態なので、今後も1日や数日の名古屋近場の旅をしていきたいと思います。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
5.0
グルメ
5.0
交通
4.5
同行者
一人旅
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
レンタカー 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
  • 亀山から名阪国道で伊賀へ向かっている途中に伊賀ドライブインという休憩施設がありましたので寄ってみました。このちょっと先には道の駅もあったみたいですが、こちらは昔ながらのドライブインという雰囲気です。今はこういう雰囲気のドライブインはどんどん減ってきていますが、名阪国道に面しているだけあってかなり混んでいました。

    亀山から名阪国道で伊賀へ向かっている途中に伊賀ドライブインという休憩施設がありましたので寄ってみました。このちょっと先には道の駅もあったみたいですが、こちらは昔ながらのドライブインという雰囲気です。今はこういう雰囲気のドライブインはどんどん減ってきていますが、名阪国道に面しているだけあってかなり混んでいました。

    伊賀ドライブイン 道の駅

  • 伊賀は滋賀県の甲賀と並ぶ忍者の郷なので忍者グッズも多く売っていました。というかここから甲賀も近いですね。前年に甲賀も訪れていますが、ここまで忍者推しは見なかったですがここはなかなかすごい。<br />そして呪術廻戦のグッズも売っていました。

    伊賀は滋賀県の甲賀と並ぶ忍者の郷なので忍者グッズも多く売っていました。というかここから甲賀も近いですね。前年に甲賀も訪れていますが、ここまで忍者推しは見なかったですがここはなかなかすごい。
    そして呪術廻戦のグッズも売っていました。

    伊賀ドライブイン 道の駅

  • 掛け軸などの巻物も売っていました。ドライブインで巻物売っているとは・・・。<br />さすが伊賀ですねというしかないです(笑。

    掛け軸などの巻物も売っていました。ドライブインで巻物売っているとは・・・。
    さすが伊賀ですねというしかないです(笑。

    伊賀ドライブイン 道の駅

  • 既に1時ですし伊賀についてからの時間を考えると食事をしてはやく伊賀に向かいたいです。当初計画していた伊賀を観光後名阪国道で天理まで行き天理ラーメンを食べて帰ってくるというのは難しそうな気がします。<br />伊賀なので少し心配していたのですが、そばを扱っていない食堂がありましたのでこちらにします。オムカレー、なかなか見ないですが好きなメニューです。

    既に1時ですし伊賀についてからの時間を考えると食事をしてはやく伊賀に向かいたいです。当初計画していた伊賀を観光後名阪国道で天理まで行き天理ラーメンを食べて帰ってくるというのは難しそうな気がします。
    伊賀なので少し心配していたのですが、そばを扱っていない食堂がありましたのでこちらにします。オムカレー、なかなか見ないですが好きなメニューです。

    伊賀ドライブイン 道の駅

  • オムカレーにチーズトッピングを注文しました。思ったより早く出てきてびっくり。<br />久々にオムカレー食べましたが美味しいですね。カレーも昔ながらのドライブインっぽいお店であまり期待はしていなかったのですが辛さもあって美味しいカレーでした。

    オムカレーにチーズトッピングを注文しました。思ったより早く出てきてびっくり。
    久々にオムカレー食べましたが美味しいですね。カレーも昔ながらのドライブインっぽいお店であまり期待はしていなかったのですが辛さもあって美味しいカレーでした。

    伊賀ドライブイン 道の駅

  • 再び名阪国道を走り伊賀市街地を通り伊賀上野城のある上野公園へやってきました。市街地を抜けてと書きましたが、上野公園は伊賀市の中心部にあります。<br />講演入り口には忍者の郷だけあって様々な国の方が訪れるらしく多言語で表記がありました。<br />隣には可愛らしい忍者の絵もありました。

    再び名阪国道を走り伊賀市街地を通り伊賀上野城のある上野公園へやってきました。市街地を抜けてと書きましたが、上野公園は伊賀市の中心部にあります。
    講演入り口には忍者の郷だけあって様々な国の方が訪れるらしく多言語で表記がありました。
    隣には可愛らしい忍者の絵もありました。

    上野公園 紅葉

  • この上野公園ですが結構広いし高低差あります。廃城令で解体された城だと午前に訪れた亀山城の様に近くまで駐車場で行けたり、そうでなくても官公庁などに転用されたりして公園の面積が狭くなったりしているのですが、森の様になっていてあまり人が立ち入らないような場所もあったりします。<br />公園を歩いていて見えてきたこの建物は地場産品を販売しているお土産屋の様です。

    この上野公園ですが結構広いし高低差あります。廃城令で解体された城だと午前に訪れた亀山城の様に近くまで駐車場で行けたり、そうでなくても官公庁などに転用されたりして公園の面積が狭くなったりしているのですが、森の様になっていてあまり人が立ち入らないような場所もあったりします。
    公園を歩いていて見えてきたこの建物は地場産品を販売しているお土産屋の様です。

    伊賀上野 地場産買物処 グルメ・レストラン

  • 少し進んできましたが、こんな風に森の中に建物がある感じなんですよね。奥の建物は伊賀流忍者博物館だそうです。博物館と言っても実演と体験が主の体験型アクティビティみたいですね。子連れとかだと楽しめるんだと思います。<br />この時はだいぶ緩くなったとは言え永住や就労以外の外国人の入国が自由でなかったのであまり混んでいませんでしたね。今だと大人気だと思います。

    少し進んできましたが、こんな風に森の中に建物がある感じなんですよね。奥の建物は伊賀流忍者博物館だそうです。博物館と言っても実演と体験が主の体験型アクティビティみたいですね。子連れとかだと楽しめるんだと思います。
    この時はだいぶ緩くなったとは言え永住や就労以外の外国人の入国が自由でなかったのであまり混んでいませんでしたね。今だと大人気だと思います。

    伊賀流忍者博物館 美術館・博物館

  • 忍者博物館の西側にあった一風風変りな建物は俳聖殿という建築物でした。古くからあるものかと思ったら1942年に松尾芭蕉生誕300周年の記念事業の一環として建築されたものだそうです。松尾芭蕉は伊賀出身なんですね。そして言うまでもなく俳聖とは松尾芭蕉の事です。この形は松尾芭蕉が全国を旅した時の姿を模しているとか・・・。<br />

    忍者博物館の西側にあった一風風変りな建物は俳聖殿という建築物でした。古くからあるものかと思ったら1942年に松尾芭蕉生誕300周年の記念事業の一環として建築されたものだそうです。松尾芭蕉は伊賀出身なんですね。そして言うまでもなく俳聖とは松尾芭蕉の事です。この形は松尾芭蕉が全国を旅した時の姿を模しているとか・・・。

    俳聖殿 名所・史跡

  • 公開はされていないのですが、外から見える位置に松尾芭蕉の像もありました。この松尾芭蕉増は伊賀焼で造られていて等身大だそうです。ちょっと遠近感で大きさがわかりにくいのもありますけど、座像とは言えこれで等身大なのか。

    公開はされていないのですが、外から見える位置に松尾芭蕉の像もありました。この松尾芭蕉増は伊賀焼で造られていて等身大だそうです。ちょっと遠近感で大きさがわかりにくいのもありますけど、座像とは言えこれで等身大なのか。

    俳聖殿 名所・史跡

  • 俳聖殿のあった場所から森の中を抜け急坂を登りやっと天守へ近づいてきました。距離はともかく坂は結構な勾配です。天守はこの背に建っていますが、こちらの石垣の上から伊賀上野城がよく見えるという事でした。伊賀上野城天守は完成間際だった大坂の陣直前に倒壊してしまいその後再建はされておらず、この石垣の上に藤堂家の城代屋敷があったそうです。

    俳聖殿のあった場所から森の中を抜け急坂を登りやっと天守へ近づいてきました。距離はともかく坂は結構な勾配です。天守はこの背に建っていますが、こちらの石垣の上から伊賀上野城がよく見えるという事でした。伊賀上野城天守は完成間際だった大坂の陣直前に倒壊してしまいその後再建はされておらず、この石垣の上に藤堂家の城代屋敷があったそうです。

    上野公園 紅葉

  • 石垣の上に来ました。ここは伊賀上野城がよく見えるという事ですが門の遺構がありました。正式には裏門ということだったそうですが、台所棟が近かったので台所門と呼ばれている門が廃城令までここにあったそうです。伊賀上野城では数少ない遺構の様ですね。南側には正門があり、そちらは城の政務を行う場所で、この裏門側には城代屋敷や台所棟などがあった様です。

    石垣の上に来ました。ここは伊賀上野城がよく見えるという事ですが門の遺構がありました。正式には裏門ということだったそうですが、台所棟が近かったので台所門と呼ばれている門が廃城令までここにあったそうです。伊賀上野城では数少ない遺構の様ですね。南側には正門があり、そちらは城の政務を行う場所で、この裏門側には城代屋敷や台所棟などがあった様です。

    上野公園 紅葉

  • 確かに見晴らしが良いですね。藤堂高虎が豊臣家に対する備えとして築城した伊賀上野城は完成間近で倒壊してしまい以後は天守台のみが長く残っていた城です。それ以前にも1585年頃から豊臣家に近い筒井定次の城として天守があり、その時代の天守台はこの背の位置にあった様ですが現在は石碑が残るだけの様です。関ヶ原の合戦の後豊臣に対する備えとして1608年に改易され伊賀上野藩は8年で廃藩となります。その後今治から築城の天才と言われる藤堂高虎が移封し現在の天守台に五層式天守を建築しようとしたとされています。

    確かに見晴らしが良いですね。藤堂高虎が豊臣家に対する備えとして築城した伊賀上野城は完成間近で倒壊してしまい以後は天守台のみが長く残っていた城です。それ以前にも1585年頃から豊臣家に近い筒井定次の城として天守があり、その時代の天守台はこの背の位置にあった様ですが現在は石碑が残るだけの様です。関ヶ原の合戦の後豊臣に対する備えとして1608年に改易され伊賀上野藩は8年で廃藩となります。その後今治から築城の天才と言われる藤堂高虎が移封し現在の天守台に五層式天守を建築しようとしたとされています。

    上野公園 紅葉

  • 先ほど眺めた向きとは反対から見てみました。こっちの角度の方が自分としては好きです。小天守との連立式の天守です。白壁が美しいですね。長く天守台のみが残っていましたが昭和に入り1932年にこの地出身の衆議院議員川崎克により川崎の私財と協力金を使って現在の天守が造られました。同時期に天守を造った大阪城が鉄筋コンクリートですが、上野城は白漆喰を使い造られています。<br />ただ本来の白とは違う構造で、現在の天守に比べ天守台の方が大きい造りになってしまっているそうです。

    先ほど眺めた向きとは反対から見てみました。こっちの角度の方が自分としては好きです。小天守との連立式の天守です。白壁が美しいですね。長く天守台のみが残っていましたが昭和に入り1932年にこの地出身の衆議院議員川崎克により川崎の私財と協力金を使って現在の天守が造られました。同時期に天守を造った大阪城が鉄筋コンクリートですが、上野城は白漆喰を使い造られています。
    ただ本来の白とは違う構造で、現在の天守に比べ天守台の方が大きい造りになってしまっているそうです。

    伊賀上野城 名所・史跡

  • 伊賀上野城で有名なもの一つに高石垣があります。この先がそれなんですが石垣の高さで有名な伊賀上野城ということでもっと人いるかと思ったらわりと空いているので城に入る前に行ってみます。ちなみにこちらは方角的には西になり、大坂城方面になります。高石垣は西側全面と南側の西よりに設置されているので、防衛線になった時の為にこの地形を選んだんでしょうかね。

    伊賀上野城で有名なもの一つに高石垣があります。この先がそれなんですが石垣の高さで有名な伊賀上野城ということでもっと人いるかと思ったらわりと空いているので城に入る前に行ってみます。ちなみにこちらは方角的には西になり、大坂城方面になります。高石垣は西側全面と南側の西よりに設置されているので、防衛線になった時の為にこの地形を選んだんでしょうかね。

    伊賀上野城 名所・史跡

  • 上の写真にも写っているのですが「キケン この先高石垣があります」の立て看板。左下は壊れているように見えたらんですがよく見ると石垣になっていますね。まあこの後見に行くんですが落ちたら確実に死ぬだろうな、という高さです。

    上の写真にも写っているのですが「キケン この先高石垣があります」の立て看板。左下は壊れているように見えたらんですがよく見ると石垣になっていますね。まあこの後見に行くんですが落ちたら確実に死ぬだろうな、という高さです。

    伊賀上野城 名所・史跡

  • この高石垣をじっくり見ていたらどんどん人が増えてきました。来たときはたまたま人が少なかったみたいですね。<br />ここから下の写真の様に覗いてみましたけど怖いです。まあ日本一の高さじゃなくても石垣から下を見下ろすと怖いですが・・・。<br />でも景色はいいですし遠くの山々も見えて気持ちの良い場所でしたね。

    この高石垣をじっくり見ていたらどんどん人が増えてきました。来たときはたまたま人が少なかったみたいですね。
    ここから下の写真の様に覗いてみましたけど怖いです。まあ日本一の高さじゃなくても石垣から下を見下ろすと怖いですが・・・。
    でも景色はいいですし遠くの山々も見えて気持ちの良い場所でしたね。

  • 私は結構な高所恐怖症なのでスマホを手で持って撮影しています。<br />それでも怖かったですけどね(笑。<br />ただこの写真だと遠近感がわかりにくくてちょっと高さがわかりにくいですね~。

    私は結構な高所恐怖症なのでスマホを手で持って撮影しています。
    それでも怖かったですけどね(笑。
    ただこの写真だと遠近感がわかりにくくてちょっと高さがわかりにくいですね~。

  • 石垣の貼りだした部分がありましたのでそこから撮影。角ではないんですがここに櫓でもあったのでしょうか?それとも防衛上この貼りだした部分に兵を配置することがあったのかそれはわからないです。<br />ただここから見るといかに上野城の石垣が高いかわかりますね。大阪城に次いで高い石垣の様で、豊臣氏からの防衛の為に築かれた城というのもよくわかります。

    石垣の貼りだした部分がありましたのでそこから撮影。角ではないんですがここに櫓でもあったのでしょうか?それとも防衛上この貼りだした部分に兵を配置することがあったのかそれはわからないです。
    ただここから見るといかに上野城の石垣が高いかわかりますね。大阪城に次いで高い石垣の様で、豊臣氏からの防衛の為に築かれた城というのもよくわかります。

  • 高石垣をじっくりと見ていたら結構時間がかかってしまったので伊賀上野城に入っていきます。天守と小天守の間に入口がありそこで入場料を払う形になっています。現地では気づかなかったですけど、言われてみると天守と天守台の大きさがあっていないので天守の周りに壁があるのがわかりますね。

    高石垣をじっくりと見ていたら結構時間がかかってしまったので伊賀上野城に入っていきます。天守と小天守の間に入口がありそこで入場料を払う形になっています。現地では気づかなかったですけど、言われてみると天守と天守台の大きさがあっていないので天守の周りに壁があるのがわかりますね。

    伊賀上野城 名所・史跡

  • 上野城に入りまず目に入るのは上野城を築城した築城の天才藤堂高虎の像と伊賀市のゆるキャラ、「た伊賀ー」がいました。た伊賀ーの名前自体藤堂高虎から取っているそうです。築城の天才とか築城の名手というと藤堂高虎と加藤清正がまず上がると思います。知名度は加藤清正が上だと思いますけど、藤堂高虎の城の方が好きです。まあこの上野城は当時の姿を遺しているわけではないんですけど・・・。

    上野城に入りまず目に入るのは上野城を築城した築城の天才藤堂高虎の像と伊賀市のゆるキャラ、「た伊賀ー」がいました。た伊賀ーの名前自体藤堂高虎から取っているそうです。築城の天才とか築城の名手というと藤堂高虎と加藤清正がまず上がると思います。知名度は加藤清正が上だと思いますけど、藤堂高虎の城の方が好きです。まあこの上野城は当時の姿を遺しているわけではないんですけど・・・。

    伊賀上野城 名所・史跡

  • これは藤堂高虎が使用したとされる兜です。豊臣秀吉から拝領し愛用していた兜を大坂夏の陣に出陣の際に一族の若武者に与えたものだそうです。その若武者は討ち死にしましたが、弟に領地を継がせその弟の子孫がこの兜を大切に保管していたそうです。

    これは藤堂高虎が使用したとされる兜です。豊臣秀吉から拝領し愛用していた兜を大坂夏の陣に出陣の際に一族の若武者に与えたものだそうです。その若武者は討ち死にしましたが、弟に領地を継がせその弟の子孫がこの兜を大切に保管していたそうです。

    伊賀上野城 名所・史跡

  • 少し先に進むと現在の上野城天守の模型が展示されていました。現物ではわかりにくい状態でしたがこの天守の模型をみると天守台に対して天守が非常に小さいのがわかります。<br />なんでこんな造りにしたんだろ。

    少し先に進むと現在の上野城天守の模型が展示されていました。現物ではわかりにくい状態でしたがこの天守の模型をみると天守台に対して天守が非常に小さいのがわかります。
    なんでこんな造りにしたんだろ。

    伊賀上野城 名所・史跡

  • 城内の階段を登っている時に撮りました。中央の梁の部分に忍者が!!!<br />結構驚きました(笑。<br />ちなみに城内は木造なので歴史的な反映はされていないものの、コンクリート造りなどと違って雰囲気はあると思います。

    城内の階段を登っている時に撮りました。中央の梁の部分に忍者が!!!
    結構驚きました(笑。
    ちなみに城内は木造なので歴史的な反映はされていないものの、コンクリート造りなどと違って雰囲気はあると思います。

    伊賀上野城 名所・史跡

  • 昭和初期に造られていて、江戸時代の上野城を検証して建築したものではないので本来の城と違うんですが明るいですし天井も高いですね。そして昭和初期の建築とは思えない程綺麗です。

    昭和初期に造られていて、江戸時代の上野城を検証して建築したものではないので本来の城と違うんですが明るいですし天井も高いですね。そして昭和初期の建築とは思えない程綺麗です。

    伊賀上野城 名所・史跡

  • 最上階はこんな感じの造りです。再建した天守、特に模擬天守だとバルコニーがあってそこに出て四方を見えるという構造が多いですが、上野城はそうではなくて窓から外を眺める形です。まあ風が強いと怖いし物が飛びそうになるのでこれはこれでいいのかもしれません。2021年に行った犬山城は強風で怖かったですしね。

    最上階はこんな感じの造りです。再建した天守、特に模擬天守だとバルコニーがあってそこに出て四方を見えるという構造が多いですが、上野城はそうではなくて窓から外を眺める形です。まあ風が強いと怖いし物が飛びそうになるのでこれはこれでいいのかもしれません。2021年に行った犬山城は強風で怖かったですしね。

    伊賀上野城 名所・史跡

  • 伊賀市中心部の方は結構栄えていますね。中央よりやや左手手前側に見える赤い屋根の建物が伊賀鉄道の上野市駅です。ちなみにこの地域は以前上野市という市でしたが、2004年に周辺町村と合併し伊賀市になりました。でも駅名は以前のままですね。駅後ろにあるビルはハイトピア伊賀という最近出来た商業施設だそうです。

    伊賀市中心部の方は結構栄えていますね。中央よりやや左手手前側に見える赤い屋根の建物が伊賀鉄道の上野市駅です。ちなみにこの地域は以前上野市という市でしたが、2004年に周辺町村と合併し伊賀市になりました。でも駅名は以前のままですね。駅後ろにあるビルはハイトピア伊賀という最近出来た商業施設だそうです。

    伊賀上野城 名所・史跡

  • こちらは西方向。あの山の奥は奈良県になるようです。手前のグラウンドは城の南にある三重県立上野高校のグラウンドです。西側は長閑な風景が広がっていました。

    こちらは西方向。あの山の奥は奈良県になるようです。手前のグラウンドは城の南にある三重県立上野高校のグラウンドです。西側は長閑な風景が広がっていました。

    伊賀上野城 名所・史跡

  • 北側はこんな感じ。南側程開けていないけど西に比べたら賑わっているという感じでしょうか。伊賀鉄道の上野市駅が伊賀市の中心部ですが、JR関西本線の伊賀上野駅はこの方面にあります。地方の旧国鉄駅にありがちな市の郊外に駅があるというパターンですね。伊賀上野駅から伊賀鉄道が分岐し上野市駅を通り近鉄大阪線の伊賀神戸駅までを結んでいます。ちなみに伊賀鉄道は2007年まで近鉄が運営していました。

    北側はこんな感じ。南側程開けていないけど西に比べたら賑わっているという感じでしょうか。伊賀鉄道の上野市駅が伊賀市の中心部ですが、JR関西本線の伊賀上野駅はこの方面にあります。地方の旧国鉄駅にありがちな市の郊外に駅があるというパターンですね。伊賀上野駅から伊賀鉄道が分岐し上野市駅を通り近鉄大阪線の伊賀神戸駅までを結んでいます。ちなみに伊賀鉄道は2007年まで近鉄が運営していました。

    伊賀上野城 名所・史跡

  • 伊賀上野城から出た後は城下町の方へ向かってみます。伊賀も亀山同様そこまで城下町は残っていないようですが、城を出てすぐに藩校だった崇廣堂が保存されているそうなので、そこを見るのと他に何か城下町にあれば見てみたいなと思っています。<br />ちなみにこの先には門があり雰囲気がありますが、城との位置関係を見るとこの路は搦手道だと思います。

    伊賀上野城から出た後は城下町の方へ向かってみます。伊賀も亀山同様そこまで城下町は残っていないようですが、城を出てすぐに藩校だった崇廣堂が保存されているそうなので、そこを見るのと他に何か城下町にあれば見てみたいなと思っています。
    ちなみにこの先には門があり雰囲気がありますが、城との位置関係を見るとこの路は搦手道だと思います。

  • 駐車場から歩いて行ったので直接上野公園に入っていきましたが、この門から入っていくと登城という気持ちになりそうです。上野城白鳳門ということですが、近年造られた門ですね。でも風格合っていいです。<br />白鳳という名は上野城の別名でもある白鳳城から取られたそうです。そういえば駅伝の強い伊賀白鳳高校という学校もありますね。

    駐車場から歩いて行ったので直接上野公園に入っていきましたが、この門から入っていくと登城という気持ちになりそうです。上野城白鳳門ということですが、近年造られた門ですね。でも風格合っていいです。
    白鳳という名は上野城の別名でもある白鳳城から取られたそうです。そういえば駅伝の強い伊賀白鳳高校という学校もありますね。

  • 白鳳門を出ると国道163号になり、西へ歩くと三重県立上野高校があります。とても立派な門がありそこから覗いてみると上野高校明治校舎が見えました。1900年に建設された三重県立第三尋常中学校校舎で三重県の尋常中学校の校舎で唯一現存していて、1989年には三重県の重要文化財に指定されています。コロナ前は見学できたみたいですが、この時点ではできませんでした。<br />ちなみに立派な門の写真を撮り忘れてしまったのが残念です。

    白鳳門を出ると国道163号になり、西へ歩くと三重県立上野高校があります。とても立派な門がありそこから覗いてみると上野高校明治校舎が見えました。1900年に建設された三重県立第三尋常中学校校舎で三重県の尋常中学校の校舎で唯一現存していて、1989年には三重県の重要文化財に指定されています。コロナ前は見学できたみたいですが、この時点ではできませんでした。
    ちなみに立派な門の写真を撮り忘れてしまったのが残念です。

    上野高校校舎 名所・史跡

  • 上野高校からさらに西に向かっていくと旧崇廣堂という津藩藩校跡があります。上野高校と伊賀市立崇広中学校の間に建っており、法人格としては別でしょうがおそらく上野高校の前身になるのだと思います。<br />こちらも立派な門がありますが、ここから入るようではないのですぐ隣にある門へと向かいます。

    上野高校からさらに西に向かっていくと旧崇廣堂という津藩藩校跡があります。上野高校と伊賀市立崇広中学校の間に建っており、法人格としては別でしょうがおそらく上野高校の前身になるのだと思います。
    こちらも立派な門がありますが、ここから入るようではないのですぐ隣にある門へと向かいます。

    旧崇廣堂 名所・史跡

  • こちらが現在の旧崇廣堂へ入場できる門です。旧崇廣堂は有料施設で入場料は300円でした。津藩では既に津に有造館という藩校がありましたが、津から遠く離れたこの地の武士の教育の為に津藩10代藩主藤堂高兌の時代の1821年に造られた分校の様な藩校です。

    こちらが現在の旧崇廣堂へ入場できる門です。旧崇廣堂は有料施設で入場料は300円でした。津藩では既に津に有造館という藩校がありましたが、津から遠く離れたこの地の武士の教育の為に津藩10代藩主藤堂高兌の時代の1821年に造られた分校の様な藩校です。

    旧崇廣堂 名所・史跡

  • 正面が玄関、右手にあるのが藩校生が学習した講堂になります。とても重厚な造りで今まで見てきた藩校より建物が立派に感じました。嘉永7年に起きた伊賀上野地震で玄関や講堂以外は倒壊してしまい再建されています。なのでこの見えている範囲は1821年に造られたものが残っているのだと思います。<br />ちなみに嘉永7年に安政と改元した為、安政の大地震に嘉永7年の伊賀上野地震が含まれているそうです。当時は東南海地震、安政江戸地震など相次ぐ地震に加え黒船来航、急速に社会不安が高まっていた時期になります。

    正面が玄関、右手にあるのが藩校生が学習した講堂になります。とても重厚な造りで今まで見てきた藩校より建物が立派に感じました。嘉永7年に起きた伊賀上野地震で玄関や講堂以外は倒壊してしまい再建されています。なのでこの見えている範囲は1821年に造られたものが残っているのだと思います。
    ちなみに嘉永7年に安政と改元した為、安政の大地震に嘉永7年の伊賀上野地震が含まれているそうです。当時は東南海地震、安政江戸地震など相次ぐ地震に加え黒船来航、急速に社会不安が高まっていた時期になります。

    旧崇廣堂 名所・史跡

  • 本堂に入る前に裏にやってくると歴史がありそうな土蔵がありました。この辺りは安政に建て直されたところだと思います。崇廣堂は明治維新後小学校として利用され、その後手狭になったため校舎が移転した後、1984年まで上野市の図書館として利用されていたそうです。この図書館というのも見たかったですね。

    本堂に入る前に裏にやってくると歴史がありそうな土蔵がありました。この辺りは安政に建て直されたところだと思います。崇廣堂は明治維新後小学校として利用され、その後手狭になったため校舎が移転した後、1984年まで上野市の図書館として利用されていたそうです。この図書館というのも見たかったですね。

    旧崇廣堂 名所・史跡

  • 旧崇廣堂の隣には伊賀市立崇広中学校という中学校がありました。この学校の名前は言うまでもなくこの旧崇廣堂から名前が採られています。上野高校を挟んで反対側には伊賀市立上野西小学校があり、旧崇廣堂が出来て約200年経った今でもこの一帯は文教地区になっています。現在の旧崇廣堂敷地は往時の半分程度になっていて、江戸時代にはこの中学校の南側も敷地だったようです。

    旧崇廣堂の隣には伊賀市立崇広中学校という中学校がありました。この学校の名前は言うまでもなくこの旧崇廣堂から名前が採られています。上野高校を挟んで反対側には伊賀市立上野西小学校があり、旧崇廣堂が出来て約200年経った今でもこの一帯は文教地区になっています。現在の旧崇廣堂敷地は往時の半分程度になっていて、江戸時代にはこの中学校の南側も敷地だったようです。

    旧崇廣堂 名所・史跡

  • この講堂は創建時の姿をそのまま残しており、扁額は上杉治憲の筆によるものだそうです。七十二畳の広さを持つ講堂は江戸時代に藩校生が学んでいた場所です。現在は三重県で唯一残る藩校建築であり史跡として見学できるほか、講話やコンサートでも利用されているそうです。

    この講堂は創建時の姿をそのまま残しており、扁額は上杉治憲の筆によるものだそうです。七十二畳の広さを持つ講堂は江戸時代に藩校生が学んでいた場所です。現在は三重県で唯一残る藩校建築であり史跡として見学できるほか、講話やコンサートでも利用されているそうです。

    旧崇廣堂 名所・史跡

  • この日は3月4日だったのですが、講堂では前日までひな人形の展示をしていて片付け中でした。自由に見て良いですよという事で見せていただきましたが、左手は片付いているもののそれ以外は展示した時のままだったみたいで、数の多い大きなひな人形を見る事が出来ました。<br />土日関係なしに3月3日で展示は終了になるんですね。まあ本当は早く片付けた方が良いそうなのでその方がいいんでしょうね。

    この日は3月4日だったのですが、講堂では前日までひな人形の展示をしていて片付け中でした。自由に見て良いですよという事で見せていただきましたが、左手は片付いているもののそれ以外は展示した時のままだったみたいで、数の多い大きなひな人形を見る事が出来ました。
    土日関係なしに3月3日で展示は終了になるんですね。まあ本当は早く片付けた方が良いそうなのでその方がいいんでしょうね。

    旧崇廣堂 名所・史跡

  • 中庭もありました。まだ冬と言っていい時期なので花が咲いたりはしていませんが、春になればもっと明るくなっていくんだと思います。下の方の写真で上げましたしたが庭園も少しですがありますし、そういう楽しみ方も出来る場所だと思います。

    中庭もありました。まだ冬と言っていい時期なので花が咲いたりはしていませんが、春になればもっと明るくなっていくんだと思います。下の方の写真で上げましたしたが庭園も少しですがありますし、そういう楽しみ方も出来る場所だと思います。

    旧崇廣堂 名所・史跡

  • 絵図と発掘調査を元に制作された1/100の崇廣堂の模型だそうです。現在残っていない建築物も多いですが、すべて復元されるとこんな感じになるようです。午前中訪れた亀山城は二の丸が学校用地に転用されていますが、今の地図と比較すると上野藩はこの崇廣堂跡地が上野高校をはじめとする小・中・高へ転用されています。

    絵図と発掘調査を元に制作された1/100の崇廣堂の模型だそうです。現在残っていない建築物も多いですが、すべて復元されるとこんな感じになるようです。午前中訪れた亀山城は二の丸が学校用地に転用されていますが、今の地図と比較すると上野藩はこの崇廣堂跡地が上野高校をはじめとする小・中・高へ転用されています。

    旧崇廣堂 名所・史跡

  • 崇廣堂は全ての建築物が残っているわけではなく敷地も狭くなっていますが、庭園なども残っていて敷地内を散策することが出来ました。奥が本堂になりますが、こうやって庭園越しに見るとなんとなく往時の姿の様にも思えてきます。<br />3月初めでまだまだ寒い時期でしたが暖かくなってくると花が咲いて緑も濃くなりより雰囲気は良くなりそうです。

    崇廣堂は全ての建築物が残っているわけではなく敷地も狭くなっていますが、庭園なども残っていて敷地内を散策することが出来ました。奥が本堂になりますが、こうやって庭園越しに見るとなんとなく往時の姿の様にも思えてきます。
    3月初めでまだまだ寒い時期でしたが暖かくなってくると花が咲いて緑も濃くなりより雰囲気は良くなりそうです。

    旧崇廣堂 名所・史跡

  • いろいろと調べてみると城の北西に明治時代に建てられた旧小田小学校本館があるみたいなので旧崇廣堂を出て北側へ歩いていきます。<br />途中先ほど上から見た上野城の石垣です(先ほどいたのはこの写真の右端よりさらに右側ですが)。こうやってみると石垣の高さがよくわかります。平山城などで石垣を何か所にも作って高くしている城がありますが、その石垣2つまとめたくらいの高さがありますね。

    いろいろと調べてみると城の北西に明治時代に建てられた旧小田小学校本館があるみたいなので旧崇廣堂を出て北側へ歩いていきます。
    途中先ほど上から見た上野城の石垣です(先ほどいたのはこの写真の右端よりさらに右側ですが)。こうやってみると石垣の高さがよくわかります。平山城などで石垣を何か所にも作って高くしている城がありますが、その石垣2つまとめたくらいの高さがありますね。

  • 道路左手の上野高校第二グラウンド(天守の最上階で見えたグラウンドです)に何やら相当古そうな石碑があったので撮影してみました。読んでみると「三重縣立上野中學校第二運動場」と書かれた石碑でした。昭和4年10月に母校創設30周年記念事業として建てられたものの様です。歴史を感じますね。

    道路左手の上野高校第二グラウンド(天守の最上階で見えたグラウンドです)に何やら相当古そうな石碑があったので撮影してみました。読んでみると「三重縣立上野中學校第二運動場」と書かれた石碑でした。昭和4年10月に母校創設30周年記念事業として建てられたものの様です。歴史を感じますね。

  • グーグルマップをみるとすぐかなと思っていましたが距離は近いものの少しわかりにくいところにありました。1881年に建設された木造洋風建築で当時の小学校としたらかなり立派な造りの建物だった様です。1960年まで小学校として利用され現在は資料館になっていて、三重県下の現存する最古の小学校建築になっています。

    グーグルマップをみるとすぐかなと思っていましたが距離は近いものの少しわかりにくいところにありました。1881年に建設された木造洋風建築で当時の小学校としたらかなり立派な造りの建物だった様です。1960年まで小学校として利用され現在は資料館になっていて、三重県下の現存する最古の小学校建築になっています。

    旧小田小学校本館 名所・史跡

  • 中は小学校時代の姿は残しておらず、資料館の様になっていました。ただ展示内容は昭和の学校にあったものや教育についてで、私は昭和産まれですが教育は平成初期でわかるものあればこんなものもあったんだ、というものもありなかなか楽しめました。解説も豊富でなかなか良い資料館でした。

    中は小学校時代の姿は残しておらず、資料館の様になっていました。ただ展示内容は昭和の学校にあったものや教育についてで、私は昭和産まれですが教育は平成初期でわかるものあればこんなものもあったんだ、というものもありなかなか楽しめました。解説も豊富でなかなか良い資料館でした。

    旧小田小学校本館 名所・史跡

  • 昭和20年代の子供たちの作品という事で並んでいました。昭和20年代ってかなり幅が広い、というか昭和20年と昭和29年でだいぶ世の中が変わっていますが激動の時代ですね。その頃の子供たちの作品という事で興味深かったです。<br />ご存命なら80代半ばから90歳ころでしょうか。

    昭和20年代の子供たちの作品という事で並んでいました。昭和20年代ってかなり幅が広い、というか昭和20年と昭和29年でだいぶ世の中が変わっていますが激動の時代ですね。その頃の子供たちの作品という事で興味深かったです。
    ご存命なら80代半ばから90歳ころでしょうか。

    旧小田小学校本館 名所・史跡

  • 入って左手には昭和20年代の小学校教室を再現したコーナーがあります。昔ながらの机と椅子、こういう所をみるのが好きなので何回も見ていますが、こうやって座って同じ目線になると当時の雰囲気をなんとなく感じる事が出来ますね。

    入って左手には昭和20年代の小学校教室を再現したコーナーがあります。昔ながらの机と椅子、こういう所をみるのが好きなので何回も見ていますが、こうやって座って同じ目線になると当時の雰囲気をなんとなく感じる事が出来ますね。

    旧小田小学校本館 名所・史跡

  • 左が1985年の電子オルガン、右が大正時代の電子オルガンです。左は私と同い年だ(笑。<br />ちょっと弾いてみましたが音に慣れているせいか電子オルガンの方がしっくり来たかなあ。でも大正時代のオルガンを弾ける経験ってあんまりないので感動しました。

    左が1985年の電子オルガン、右が大正時代の電子オルガンです。左は私と同い年だ(笑。
    ちょっと弾いてみましたが音に慣れているせいか電子オルガンの方がしっくり来たかなあ。でも大正時代のオルガンを弾ける経験ってあんまりないので感動しました。

    旧小田小学校本館 名所・史跡

  • マラカス、タンバリン、トライアングル、カスタネット、と合いアングルとカスタネットはよく小学校で使いましたね。僕ら世代でも懐かしかったです。今の子たちはやってるのかなあ。<br />ちなみに展示されている楽器は全て手に取って使えるそうです。

    マラカス、タンバリン、トライアングル、カスタネット、と合いアングルとカスタネットはよく小学校で使いましたね。僕ら世代でも懐かしかったです。今の子たちはやってるのかなあ。
    ちなみに展示されている楽器は全て手に取って使えるそうです。

    旧小田小学校本館 名所・史跡

  • 理科室にあった模型ですね。当時は怖かったです。<br />今では解剖学やらなんやら学び筋肉や内臓、骨格は相当勉強したのでそういう意味での怖さはないですが、夜にいきなり見たら越し抜かすだろうな。

    理科室にあった模型ですね。当時は怖かったです。
    今では解剖学やらなんやら学び筋肉や内臓、骨格は相当勉強したのでそういう意味での怖さはないですが、夜にいきなり見たら越し抜かすだろうな。

    旧小田小学校本館 名所・史跡

  • 2階には「蠟燭立て付ピアノ」が置いてありました。大変珍しい物と書かれていましたが、そんなものがあること自体初めて知りました。調律は出来ていないけどご自由にお弾きくださいという事でちょっと触ってみました。確かに調律は出来ていないけど音はしっかり出ていました。

    2階には「蠟燭立て付ピアノ」が置いてありました。大変珍しい物と書かれていましたが、そんなものがあること自体初めて知りました。調律は出来ていないけどご自由にお弾きくださいという事でちょっと触ってみました。確かに調律は出来ていないけど音はしっかり出ていました。

    旧小田小学校本館 名所・史跡

  • 2階は体験型の1階と異なり資料展示室という感じになっていました。3階があるのか屋根裏なのかはわからないですが、さらに上にある階段もありますが利用できなくなっていて入れるのは2階までです。この上は外からの写真を見ると恐らく3階というよりは屋根裏の様なスペースだとは思います。

    2階は体験型の1階と異なり資料展示室という感じになっていました。3階があるのか屋根裏なのかはわからないですが、さらに上にある階段もありますが利用できなくなっていて入れるのは2階までです。この上は外からの写真を見ると恐らく3階というよりは屋根裏の様なスペースだとは思います。

    旧小田小学校本館 名所・史跡

  • 展示されているのは明治期から昭和期の教科書です。様々な時代の教科書が展示されていて開いている部分は見える様になっているので時代を感じます。明治の最初期は教科書の選定が自由だったという事が書かれていたので驚きました。<br />また印刷機など無かった時代は木版刷りだったようで、木版も展示されていました。

    展示されているのは明治期から昭和期の教科書です。様々な時代の教科書が展示されていて開いている部分は見える様になっているので時代を感じます。明治の最初期は教科書の選定が自由だったという事が書かれていたので驚きました。
    また印刷機など無かった時代は木版刷りだったようで、木版も展示されていました。

    旧小田小学校本館 名所・史跡

  • 二階からバルコニーに出る事は出来ませんが、ガラス越しにバルコニーを見る事はできました。そしてこの窓ガラスが一部色ガラスになっていてステンドグラスというわけではないですが、お洒落に見えます。奥のバルコニーも洋風ですし当時としては最先端の校舎だったんでしょうね。

    二階からバルコニーに出る事は出来ませんが、ガラス越しにバルコニーを見る事はできました。そしてこの窓ガラスが一部色ガラスになっていてステンドグラスというわけではないですが、お洒落に見えます。奥のバルコニーも洋風ですし当時としては最先端の校舎だったんでしょうね。

    旧小田小学校本館 名所・史跡

  • 帰りは上野公園の中を突き進んで駐車場へ戻りました。上野公園は城郭として現在残っている所や俳聖殿以外の場所は航空写真で見ると森の様になっていて、さながら森林公園の様な様相でした。明るい時間だったので全然気になりませんでしたが城郭から離れたこの辺りは夜はちょっと怖いかもしれないですね。でも歩いていて雰囲気は良かったです。

    帰りは上野公園の中を突き進んで駐車場へ戻りました。上野公園は城郭として現在残っている所や俳聖殿以外の場所は航空写真で見ると森の様になっていて、さながら森林公園の様な様相でした。明るい時間だったので全然気になりませんでしたが城郭から離れたこの辺りは夜はちょっと怖いかもしれないですね。でも歩いていて雰囲気は良かったです。

    上野公園 紅葉

  • 伊賀市を出発して休憩しながら愛知へと戻ってきました。食事に関しては土地勘がしっかりある愛知、というか名古屋に来てからの方が良いと思ったので何回も来ているイオンモール大高に来ました。ここのレストラン街、好きな店が多いです。

    伊賀市を出発して休憩しながら愛知へと戻ってきました。食事に関しては土地勘がしっかりある愛知、というか名古屋に来てからの方が良いと思ったので何回も来ているイオンモール大高に来ました。ここのレストラン街、好きな店が多いです。

  • 悩みましたが過去に何回か来ている台湾小籠包イオンモール大高店に入りました。8時過ぎていたので空いていました。既に緊急事態宣言や蔓延防止とかの時期ではなかったですが、まだ2023年だと今の様に外出している人ばかりではなかったですね。それでも戻ってきたなあと実感するくらい人は増えていましたけど。

    悩みましたが過去に何回か来ている台湾小籠包イオンモール大高店に入りました。8時過ぎていたので空いていました。既に緊急事態宣言や蔓延防止とかの時期ではなかったですが、まだ2023年だと今の様に外出している人ばかりではなかったですね。それでも戻ってきたなあと実感するくらい人は増えていましたけど。

    台湾小籠包 イオンモール大高店 グルメ・レストラン

  • お店の名前にもある小籠包を頼んでみました。肉汁たっぷり、ホカホカというかアツアツの美味しい小籠包です。数年前に来たときも食べていて美味しかったので頼んでみましたがやっぱりとても美味しいですね。

    お店の名前にもある小籠包を頼んでみました。肉汁たっぷり、ホカホカというかアツアツの美味しい小籠包です。数年前に来たときも食べていて美味しかったので頼んでみましたがやっぱりとても美味しいですね。

    台湾小籠包 イオンモール大高店 グルメ・レストラン

  • メインで頼んだのは「鎌倉ベーコンと北海道ラクレットチーズの炒飯」の大盛です。何回かこのお店は来たことがあって気になっていたのですが今回食べる事が出来ました。半分イタリアンの様な創作チャーハンという感じですがこういうメニュー大好きです。石焼でアツアツでした。

    メインで頼んだのは「鎌倉ベーコンと北海道ラクレットチーズの炒飯」の大盛です。何回かこのお店は来たことがあって気になっていたのですが今回食べる事が出来ました。半分イタリアンの様な創作チャーハンという感じですがこういうメニュー大好きです。石焼でアツアツでした。

    台湾小籠包 イオンモール大高店 グルメ・レストラン

  • 大高からは割と近いですね、夜遅くなりましたが太田川まで戻ってきました。東海環状道のおかげで東海市あたりからだと三重北部は遠くないですね。あのまま名阪国道を進めば天理市にまで行けますし、車があると交通の便はめちゃくちゃ良いです。<br />名古屋近郊にはあと3日滞在するのですが旅行というわけではないので旅行記であげるのはここまでですね(翌日午前は小牧基地の開放に行きブルーインパルスを見てきたのでいずれあげるかもしれないですが・・・。)<br /><br />短い旅行記ですがどうもありがとうございました。

    大高からは割と近いですね、夜遅くなりましたが太田川まで戻ってきました。東海環状道のおかげで東海市あたりからだと三重北部は遠くないですね。あのまま名阪国道を進めば天理市にまで行けますし、車があると交通の便はめちゃくちゃ良いです。
    名古屋近郊にはあと3日滞在するのですが旅行というわけではないので旅行記であげるのはここまでですね(翌日午前は小牧基地の開放に行きブルーインパルスを見てきたのでいずれあげるかもしれないですが・・・。)

    短い旅行記ですがどうもありがとうございました。

    ABホテル東海太田川 宿・ホテル

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