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《2024.September》あみんちゅぶらり東海関東を歩く旅群馬Ⅱ~桐生風鈴まつり編~<br /><br />目覚ましの音で目が覚めた。外を見ると昨日とは打って変わって良い天気。京都から夜行バスで到着した静岡清水。そこそこの降りだった中、富士・伊豆を経て群馬にやって来た。夜行バス移動に加え360km走るとそれなりに疲れは溜まる。とはいえせっかく遠出をしているのだからと気持ちを切り替えて起き上がる。<br /><br />着替えて一階へと降りて行き朝食を頂く。1日分のパワーの源〝ガッツりバイキング〟を平らげて、今日のドライブ&amp;散策に備える。3日目の移動距離は100km強ではあるが、10ヶ所程の立ち寄りを予定しているので、出発を早めるに越したことはないのだが、そこまでは上手くいかないのが私流。結局9:00前にチェックアウトするいつもと変わらないスタートで始まることとなった。<br /><br />連休と言えばそうなのだが、群馬という場所柄あまり混雑もしていないだろうと読んでいたのが甘かった。ホテル敷地内の駐車場が満車で、第二駐車場を利用したために数分歩く羽目となった。まあ目覚ましには良いかも~と良いように解釈して車に乗り込み、ナビをセットして一路桐生に向けて出発する。<br /><br />一般道を桐生に向かって走って行く。途中ダイソーフォリオ赤堀店に立ち寄ってスマホ充電用のケーブルと持ってくるのを忘れたウェットティッシュを購入し、灰皿を見つけたので一服してから改めて出発する。走ること約30分で本日の第一目的地である宝徳寺に到着する。臨済宗建長寺派大光山宝徳寺、臨済宗大本山建長寺第73世仏印大光禅師を開山として、桐生地域の領主であった、桐生佐野正綱公の開基により室町時代の宝徳年間(1450年頃)に創建された禅寺である。当山の場所は桐生城(柄杓山城)の裏側に位置し、名久木の砦の入口を見渡す所にあり、城の裏口を護るための要害としてこの場所を選び建てられた。天正元年に桐生佐野家が太田の由良家に滅ぼされると、当山は保護者を失い荒廃するが、地域の人々の力により再び隆盛となり、江戸中期には当山17世の天渓和尚が大本山建長寺186代管長を務めることとなった。また明治6(1873)年には大間々第一分校(旧川内北小学校)が当山において開校されている。旧川内北小学校は平成22(2010)年3月末を以て閉校し、新設された川内小学校に統合された。旧川内北小学校は県東部の関東百名山でもある鳴神山を望む場所に位置する小規模校であり、各学年1クラスの少人数学級で、子どもたちは兄弟のように仲の良い関係を築いていた。また運動会では毎年恒例のソーラン節を踊り多くの観客を魅了していた。137年間に渡りこの地区を見守り続けてきた同校ではあったが少子化の流れを受け、独立校としての歴史に幕を下ろした。寺院としてだけではなく、学びの場でもあった宝徳寺。そんな歴史ある寺院は現在また別の〝観光名所〟としてSNSや旅行雑誌に取り上げられる場所となっている。特に近年では夏場の〝風鈴まつり〟が日本全国だけでなく海外にまで知られるものとなっており、その時期に合わせて行われている〝夏の床もみじ特別公開〟に加え、春と秋の床もみじ特別公開が開催されるというまさに〝一年中イベントを行う寺院〟となっている。庭園の木々の姿を磨き上げたテーブルに映し出す〝床もみじ〟自体は、我が街大津でも旧竹林院でも行われているものではあるが、その素晴らしさを〝魅せる〟には単独で行うことによって意味を為す様なところがある。春や秋の床もみじは確かにそうかもしれないが、夏の床もみじは風鈴まつりと同時進行で行われているところがまた素晴らしい。所狭しと飾られている風鈴とは被らない場所が庭園であり、エリア分けが完璧だという点に加え〝手入れ〟がしっかりと行われているからこそ出来るものなのだろうと考える。<br /><br />そんな〝風鈴オタク〟を黙らせるような素晴らしい場所だということは知っており、数年前から訪れるチャンスを狙ってはいたのだがなかなかチャンスが巡って来ず、台風の絡みで閉山した期間分のイベント期間延長を受けて、やっと訪問する機会を得たのが今年だったということである。<br /><br />前置きが長くなったが話を進めると、風鈴まつり開催期間は5つの駐車場に250台の車を停められる無料駐車場が完備している。今回はたまたま最も境内に近い第一駐車場に車を停められたのはラッキーであった。<br /><br />石標を横に見ながら参道を山手に進んで行くと数分で宝徳寺入口に辿り着く。今度は左手に進んで行くのだが、この辺りから既に多くの風鈴が吊り下げられており、イベント規模の大きさを知る。山門入口を潜った所の社務所で入山料を収める。夏の床もみじ特別拝観を含めた800円を収めて境内に入るのだが、まぁ見渡す限りの多くの風鈴の数に圧倒されつつも期待が膨らむ。総数3,000個という風鈴の数は半端ではなく、限られた敷地内に収められている風鈴・風鈴・風鈴の姿は、まさに日本最大級と称されるに値するものであった。またこの宝徳寺は“お地蔵様”があちらこちらにおられることでも知られている。“地蔵のこみち”とも呼ばれる参道にはいろいろなところに50体の“お地蔵さま”がいらっしゃる。なで地蔵・ほほえみ地蔵・よろこび地蔵・しあわせ地蔵他と名付けられたかわいい“お地蔵さま”が、訪れる参拝客を優しくお迎えするとの言葉通り、ほっこりとする気持ちにさせてくれる。また季節によっては、帽子をかぶったり、洋服をきたりと正に“季節”のアクセントも加えられているなどしておりとても癒される。風鈴まつりはまさに夏(訪れたのは9月だが)故に“帽子”を被っている地蔵様が多くいらっしゃる様子は、宝徳寺風鈴まつりに“地蔵様あり”の景色を訪れた我々に与えてくれるものであった。<br /><br />入口付近には“てるてる坊主”も壁一面に飾られていた。これも風鈴まつりの引き立てるアクセントのひとつとなっているようだ。そして順路通り進み、頭の上や左右に軽やかな音色を奏でる風鈴棚の下を進んで行く。因みに宝徳寺の風鈴まつりは当初令和6(2024)年度は9月16日迄の開催期間とされていた。しかし台風被害が多かった今夏、ガラス製の風鈴を飾るイベントに於いては風雨で破損し、危険が伴うというリスク管理の観点から、神社仏閣で開催しているほぼ全ての会場で閉門と風鈴棚の撤去という対策が取られている。私自身の旅中止の理由ともなった案件だが、8月末に日本列島と台風が縦断した。夏のイベントである“風鈴まつり”の多くは8月末、若しくは9月始め迄を開催期間としているものが多くあり、この時期の非常にゆっくりとした台風の通過は、事前に風鈴棚の撤去はしたものの、再開するにあたり台風一過の目途が立たなくなり、そのまま今年度の風鈴まつりは“終了”となってしまった施設が数多く存在した。私自身この時期に九州一周風鈴行脚を計画していたのだが、まさに台風に向かって行くことになる上に、開催状況を確認したところやはり台風の影響を受ける前に風鈴棚は撤去し、天候の回復を待って再開する旨がweb上で確認できる施設情報に記載されていた。日程だけのことを考えれば、確か宮崎から福岡に戻る行程に於いて“台風”に追いまくられるように、台風進路の“前”を逃げるように走って行ったのだろうという“仮定論”で終わることとなってしまったが、後日各施設に問い合わせをしたところやはり“台風前”の終了となってしまったことを知る。天候の問題故に仕方がないことではあるのだが、やはりやるせない気持ちにはなってしまう。そう言った8月が過ぎ、9月を迎えてシフトの“希望休”を入れるにあたり、一部の施設が台風で中止した日数を期間延長するとの情報を仕入れ、慌てて調整できる休みに行くことができる“風鈴まつり”の情報を検索し、富士市の“富知六所浅間神社”とこちら宝徳寺の風鈴まつりに辿り着いた訳である。因みに富知六所浅間神社は9月22日まで、宝徳寺は9月23日までだったこともあり、参拝する順序や時間も限定されたものとなり、年甲斐もなく往復夜行バス利用の2泊5日の旅となったのが今回の旅になる。そのよう経緯があったために、数年前から風鈴まつり開催を知っていた宝徳寺参拝にはかなりの期待をしていたのも事実である。<br /><br />話が脱線したがそのような思いで訪れた風鈴棚の下を歩いている。そして本堂へと入って行くのだが、この先は“夏の床もみじ特別公開”エリアとなり、別途拝観料が必要となる。とはいえほとんどの参拝客は共通拝観料を購入しているのでチケットもぎりだけで進んで行く。宝徳寺の本堂は雙龍殿(そうりゅうでん)と言うのだが、その扁額下の襖絵に“双龍”が描かれている。右側は海龍(かいりゅう)左側が雲龍であり、龍は仏法を守護する神として崇められていることからここに置かれているようだ。奥に進むと御本尊が祀られており、その前があの“床もみじ”拝観所となっている。この本堂の造りは禅宗方丈様式と呼ばれるもので、室町時代に京都の臨済宗寺院を中心に盛んに造られたものであるそうだ。 そんな経緯から関東には数ヶ寺しか見られない珍しいものとなっており、それ故珍しさからこちらを訪れる参拝客が絶えないと記されていた。禅宗である臨済宗は禅の精神から自己を見つめ華美なものを排するという教えから、この本堂も見ようによっては質素な造りとなっているという。本来“方丈”とは住職の居室のことをいい、住職のことを“方丈さん”というのはここから来ているとされている。現在では意味合いが異なり法要など多くの行事がここで行われている。全国的にはともかく関東では大変貴重な床もみじを見ることができる場所として知られており、28畳の床に映る自然美は心を落ち着かせてくれるものとなっている。春・夏・秋の床もみじ特別公開の時期にその景色を楽しむことができるために、個人団体問わず多くの人々がその景色を見るために宝徳寺を訪れており、群馬の名だたる観光名所のひとつとして現在に至っているそうだ。<br /><br />この“床もみじ”だが楽しむ方向としては三方向からとなる。先ず入口側からは正面に“和傘”が飾られ、それを斜め左に見るような方向で枯山水の石庭や青もみじを見て行くと言うものである。こちらはどちらかというとSNS映えする様な写真を撮りたい方には向いている。そして定番の石庭を正面に見た構図。これは“床もみじ”の写真の定番アングルであろう。また広角域のレンズを利用すれば、和傘を組み込むこともできる。また“床もみじ”を楽しむにあたり、最重要なのが磨き上げられた“床”である。先程他の“床もみじ”を売りにしている施設の多くで感じることがではあるのだが、あの“床”や“テーブル”に“手を触れる”不届き者が多い現実でおる。多分スマホやカメラ撮影に夢中になって、手や袖が触れてしまうのであろう。どこの施設でも手を触れないように=カメラをテーブルに乗せないようにと注意書きがなされているのだが、意味がわからないのだろうが?ガン無視で写真に没頭している輩を散見する。これは床もみじあるあるのひとつではあるのだが、ここ宝徳寺ではそのようなレベルの低い参拝客は居ないようで、鏡面化した床に映るもみじの景色を、思い存分堪能することが出来た私であった。<br /><br />先述したと思うが、風鈴まつりというイベントを行いつつも床もみじを楽しめるのは、宝徳寺の境内がしっかりとエリア分けされていることに他ならない。本堂出口付近に風鈴が飾られてはいるのだが、落ち着いた感があるものをチョイスされており、騒々しい風鈴まつりとは一線を敷いている。勿論そんな風鈴と石庭を切り取ることも出来はするが、敢えてその様子を切り取る必要があるのかどうかは疑問である。まぁ撮りたい方にはどうぞと言ったところであろう。<br /><br />本堂を出て靴袋返却口に梵鐘が吊り下げられていた。あたりには風鈴も吊り下げられていたが、ここは浮いている感もなく“風鈴まつり”を行っている“お寺さん”という雰囲気が漂っていた。少し歩くと石庭枯山水の景色を望む窓がある。白壁で隔てられているために“床もみじ”と“風鈴まつり”は一体化してはいない。一見すると有料エリアと無料エリアの境目の様にも見えてしまうのだが、まあコンセプトが混在しないことを考えれば良しとするべきものなのであろう。<br /><br />そして既視感のある石碑があった。黒御影石で作られた碑の中には一筋の“灯火”が光っていた。“原爆の火”、昭和20(1945)年8月6日午前8時15分米軍爆撃機B-29エノラ・ゲイが広島市の相生橋を目標として投下した劣化ウラン型原子爆弾リトルボーイが島病院上空600mで炸裂。同年中被爆死者数14万人と言われる犠牲者を出した。原爆投下後に陸軍暁部隊から広島警備本部の下で市内の救援活動や警備活動を行うために兵士が広島入りした。当時放射能汚染のことが知られておらず、結果として救助活動に従事した部隊員の中から二次被爆者が出ている。その中に福岡県星野村出身の山本達雄氏がいた。山本氏は原爆投下後に市内の惨状を目の当たりにし、親代わりとなって育ててくれた叔父を探すが、終戦を迎えた後復員命令が出されるまでついに見つけることはできなかった。復員前に叔父の遺骨代わりに職場の地下倉庫跡で燻っていた火を懐炉に移して故郷に帰った山本氏は、仏壇にその火を灯し、叔父の霊を弔い続けていた。採火当初は“恨みの火”“復讐の火”としてひそかに保存していたものの、完全に鎮火された“原爆の火”が残っていることがマスコミに取り上げられ話題になる。山本氏本人も“報復では永久に平和は来ない”と考えを改め、原爆投下23年後の昭和43(1968)年に星野村役場に提供することにした。以来同村は“平和の火“として役場に作られた“平和の塔”に灯されながら保存されることとなり、平成22(2010 )年に八女市に合併後は八女市がその保存を引き継ぎ現在に至っている。山本達雄氏は平成(2004)年5月11日に老衰で亡くなられている。享年88歳。広島には残っていなかった原爆の火の存在は、戦後何十年という節目の年にその“分火”の儀式が恒例化することとなる。我が街滋賀県平和記念館にもその火が灯されており、灯火の存在と分火のことをたまたま知っていたに過ぎない。宝徳寺も戦後70周年記念事業の一環として広島原爆忌の平成27(2015)年8月6日に八女市より宝徳寺に分火して貰ったと記されている。宝徳寺参拝の際は自分の幸せ・家族の幸せ・みんなの幸せ、そして世界の幸せをぜひお祈り下さいともあった。現在全国に文化されている平和の火は、広島“平和の灯”・長崎“ナガサキ誓いの火”、そして星野村“平和の火”の3つを集火することが慣例となっていることは周知の事実である。しかしこの星野村の原爆の火は管理が徹底されていなかった時期があり分火・孫分火が知らないところで行われており、由来がわからないものも少なくないことが新聞紙面に記載されていたことがある。宝徳寺は“出どころ”が記されているために確かなものであろうが、残念ながら“平和ビジネス”の曰くがあるものも存在することを記しておく。暫く広島にも行っていない・・・、そんな思いに駆られながら群馬桐生の地で手を合わせた私であった。<br /><br />風鈴棚に囲まれた石段を下り、右手の順路に沿って歩いて行く。しあわせ地蔵様を横目で見て進んだところに色とりどりのビニール傘が広がる広場に出る。アンブレラスカイ、風鈴まつりの“合せ技”によく使われる出し物だが、意外にも背景となる“空”の色が丁度良い濃さとなっており、透明の傘を通して目に映る太陽光がなんとも言えない“夏模様”を醸し出している。子供は大喜びなのは十分理解できる。いい年こいた大人でさえ“自撮り”を楽しみたいと思うのだから(笑)。<br /><br />更に進むと宝徳寺の観覧エリアはここ迄の様子を呈する広場に至る。この界隈にも風鈴は飾られているのだが、メインエリアの様な派手なガラス風鈴ではなく、陶器で出来たちょっとシックな物が直線的に飾られている。その背景となる石灯籠や竹製の風鈴、青モミジ等同じ風鈴まつりとは言っても雰囲気も印象もまるで違ったもののように感じられるから不思議である。ふと思い出したのだが、確か武雄の高野寺の風鈴まつりを訪れた時に、金属製や陶器製の風鈴が屋根に吊り下げられていたものが、風に揺らいでガラス製のものとは全く違う重厚な音色に感心したことを思い出す。一般的な風鈴まつりと言えばガラス製風鈴を思い出すが、確か高野寺でも“参詣の皆様の悪魔退散を祈念致しております”と記された文面に、妙に納得した記憶が蘇ってきた。ガラス風鈴は古来から“軽やかな音色”による夏の“涼けさ”を意図したものとして知られているが、音によっては悪霊退散的な雰囲気になることも然り。と勝手に風鈴に託つけて人の“行かない場所”を巡っている約1名は納得するのであった。<br /><br />この様な風鈴も展開されているんだ~と勝手に感動しながら、いま来た道を戻って行く。さすがに風鈴まつり最終日の祝日故に家族連れが目立つ。ただやはり渋い風鈴よりもカラフルな風鈴やアンブレラの方が子供受けは良いようで、奥のエリアで見た子供は、いかにも親が連れてきた感満載の兄弟一組だけであった。勿論順路を進むと通り過ぎるアンブレラスカイエリアには子供達の姿は多かった。やっぱり親も子供の写真を撮るならば、笑って楽しく遊んでいる姿が良いのだろうと勝手に思いながら、行きに人が屯していたために撮影を諦めた場所だけカメラに収めて歩いて行く。雙龍殿から下って来る石段以降の道は、完全な帰路専用の道となる。ここでひとつ思うことがあった。この宝徳寺風鈴まつりだが、イベント期間終盤にあたる時期にはペット同伴可となっている。勿論本堂は不可であるために、建物内を除く境内敷地ということにはなるのだが、抱くことを前提にしているのかリードを付けていない犬なんかも居たようだ。基本この様な人が集まる場所にペットを連れて行くならば、リードの装着は当たり前だと思うのだが違うのだろうか?また宝徳寺の場合撮影時の三脚・一脚の使用はトラブルになるために禁止されている。決してだだっ広い通路とは言えないために、三脚の足で躓く等事故の元になるためにやむを得ないことだと思うのだが、ペットの写真を撮ることもマニアックな者であれば座り込んでカメラを構える等通行の妨げになるような行為を平気で行っている様子を目の当たりにすることがあった。三脚の脚同様視界内にその存在が認知されず、躓く理由になってしまうことは今更言うまでもない。実際にその姿勢でシャッターチャンスを待つのであれば、三脚を構えて人が途切れる時を待つことと何ら変わりは無いように思えてならない。そしてなにより小さな子供も多数歩いている祝日であることを踏まえれば、やはり危険極まりないように思えてならない。近年ではペットを家族同様に可愛がる者も増えているために、敢えてペット同伴可を止めさせる気は毛頭ないが、それでも人が集まる週末や連休中は“除外日”として良いように考える。写真で切り取ったものでもわかるように、急に特定の区間での人の流れが悪くなったかと思いきや、このペット撮影のための場所独占が混雑の理由だったことを知れば、ため息しか出なかった。様々なカテゴリーに対して“撮影者”の“マナー低下”が叫ばれている今日、心無い一部の常識知らずのために“全て”が同じ様に思われてしまうことは心外以外何ものでもない。写真は譲り合っての精神が欠かせないものである。それが出来ない者にはカメラを使う資格はないと思うのだが、如何であろうか?<br /><br />思うところはあるいろいろあれど、施設側が認めている以上後はモラルの問題か?と思いながら、詰まる通路に距離を取りながら歩いて行く。出口に向かう風鈴通路の下部には風車が取り付けられており、確かにペットや乳幼児の写真を撮るには良いのかも、、、と思いながら歩き、社務所前に戻って来た。人が多いことを予想してはいたので、撮った写真に人が映り込むのは致し方ないが、出来れば画像加工なしの写真を利用したいと思い、一部雙龍殿前の風鈴棚を歩き直してカメラに収めて戻って来た。入口付近の階段はどうやら入山者専用となっているようなので、下山専用の通路を歩いて行くことにした。最後の下り坂を歩いていると、何やら右手にいらっしゃる地蔵様を発見する。最初から最後まで地蔵様がいらっしゃるのを見て、流石に地蔵のお寺と思いながらも、手にしている“一文字”が気を引いたのでゆっくりと歩いて行った。“バ““イ“”バ””イ”。またおいで!の意味を込めていることは伝わって来る。敢えて書かないことで伝わることの導線は境内の中で既に構築されていたのだ。いやいや~ホントに“魅せる”風鈴まつりを満喫できたことに大満足し、2時間弱を掛けて一周して来た。そして車へと戻るのだが、ここ宝徳寺は公共交通機関を利用しても参拝できる寺院となっている。確かに人口減少が問題となっている地域故に、バス・鉄道ともに三セクが運行していることは仕方がない。旧国鉄足尾線のわたらせ渓谷鉄道の桐生駅、若しくは相老駅で下車し、おりひめバスに乗り換えて宝徳寺前で下車しすぐではあるのたが、一日10便程のバス便に加え、相老駅利用時には常駐タクシーが居ない旨の注意書きがなされていた。基本不便になる相老駅の利用頻度は如何なものか?ということもあるが、両駅から歩くにしても6km程離れていることを踏まえれば、容易に利用できるルートとは言えないだろう。確かに駐車スペースもMax250台分用意されていれば車で、、、と自ずとなるのであろう。勿論コミュニティバスは、観光の足である以上に“地元の足”という要素を色濃く持っている。そんな流れで行うには、今の定時運行が良いのか?必要時に予約するオンデマンドが良いのか?ということも考えなければいけないのかも知れない。最後にそんな思いに駆られた宝徳寺風鈴まつりであった。<br /><br />車に戻り社内冷却とナビセットをしてから次の目的地を目指して出発する。途中みどり市のローソンみどり大間々店に立ち寄ら一息入れてから、前橋市の小坂子八幡神社へと向かう。地元在住でなければ“知らない”と言っても過言ではないこの場所は、ナビの設定を“名称”ではなく住所を入力しなければナビの目的地設定が出来ない場所でもある。何故ここ迄ローカルな場所を目的地としてピックアップしたかと言うと、単にインスタに風鈴まつり“開催施設”と記載されていたことに他ならない。しかし私以外に人影は見られないために、先程参拝した宝徳寺とのギャップにちょっと拍子抜けしてしまった。<br /><br />   《続く》

《2024.September》あみんちゅぶらり東海関東を歩く旅群馬Ⅱ~桐生風鈴まつり編~

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《2024.September》あみんちゅぶらり東海関東を歩く旅群馬Ⅱ~桐生風鈴まつり編~

目覚ましの音で目が覚めた。外を見ると昨日とは打って変わって良い天気。京都から夜行バスで到着した静岡清水。そこそこの降りだった中、富士・伊豆を経て群馬にやって来た。夜行バス移動に加え360km走るとそれなりに疲れは溜まる。とはいえせっかく遠出をしているのだからと気持ちを切り替えて起き上がる。

着替えて一階へと降りて行き朝食を頂く。1日分のパワーの源〝ガッツりバイキング〟を平らげて、今日のドライブ&散策に備える。3日目の移動距離は100km強ではあるが、10ヶ所程の立ち寄りを予定しているので、出発を早めるに越したことはないのだが、そこまでは上手くいかないのが私流。結局9:00前にチェックアウトするいつもと変わらないスタートで始まることとなった。

連休と言えばそうなのだが、群馬という場所柄あまり混雑もしていないだろうと読んでいたのが甘かった。ホテル敷地内の駐車場が満車で、第二駐車場を利用したために数分歩く羽目となった。まあ目覚ましには良いかも~と良いように解釈して車に乗り込み、ナビをセットして一路桐生に向けて出発する。

一般道を桐生に向かって走って行く。途中ダイソーフォリオ赤堀店に立ち寄ってスマホ充電用のケーブルと持ってくるのを忘れたウェットティッシュを購入し、灰皿を見つけたので一服してから改めて出発する。走ること約30分で本日の第一目的地である宝徳寺に到着する。臨済宗建長寺派大光山宝徳寺、臨済宗大本山建長寺第73世仏印大光禅師を開山として、桐生地域の領主であった、桐生佐野正綱公の開基により室町時代の宝徳年間(1450年頃)に創建された禅寺である。当山の場所は桐生城(柄杓山城)の裏側に位置し、名久木の砦の入口を見渡す所にあり、城の裏口を護るための要害としてこの場所を選び建てられた。天正元年に桐生佐野家が太田の由良家に滅ぼされると、当山は保護者を失い荒廃するが、地域の人々の力により再び隆盛となり、江戸中期には当山17世の天渓和尚が大本山建長寺186代管長を務めることとなった。また明治6(1873)年には大間々第一分校(旧川内北小学校)が当山において開校されている。旧川内北小学校は平成22(2010)年3月末を以て閉校し、新設された川内小学校に統合された。旧川内北小学校は県東部の関東百名山でもある鳴神山を望む場所に位置する小規模校であり、各学年1クラスの少人数学級で、子どもたちは兄弟のように仲の良い関係を築いていた。また運動会では毎年恒例のソーラン節を踊り多くの観客を魅了していた。137年間に渡りこの地区を見守り続けてきた同校ではあったが少子化の流れを受け、独立校としての歴史に幕を下ろした。寺院としてだけではなく、学びの場でもあった宝徳寺。そんな歴史ある寺院は現在また別の〝観光名所〟としてSNSや旅行雑誌に取り上げられる場所となっている。特に近年では夏場の〝風鈴まつり〟が日本全国だけでなく海外にまで知られるものとなっており、その時期に合わせて行われている〝夏の床もみじ特別公開〟に加え、春と秋の床もみじ特別公開が開催されるというまさに〝一年中イベントを行う寺院〟となっている。庭園の木々の姿を磨き上げたテーブルに映し出す〝床もみじ〟自体は、我が街大津でも旧竹林院でも行われているものではあるが、その素晴らしさを〝魅せる〟には単独で行うことによって意味を為す様なところがある。春や秋の床もみじは確かにそうかもしれないが、夏の床もみじは風鈴まつりと同時進行で行われているところがまた素晴らしい。所狭しと飾られている風鈴とは被らない場所が庭園であり、エリア分けが完璧だという点に加え〝手入れ〟がしっかりと行われているからこそ出来るものなのだろうと考える。

そんな〝風鈴オタク〟を黙らせるような素晴らしい場所だということは知っており、数年前から訪れるチャンスを狙ってはいたのだがなかなかチャンスが巡って来ず、台風の絡みで閉山した期間分のイベント期間延長を受けて、やっと訪問する機会を得たのが今年だったということである。

前置きが長くなったが話を進めると、風鈴まつり開催期間は5つの駐車場に250台の車を停められる無料駐車場が完備している。今回はたまたま最も境内に近い第一駐車場に車を停められたのはラッキーであった。

石標を横に見ながら参道を山手に進んで行くと数分で宝徳寺入口に辿り着く。今度は左手に進んで行くのだが、この辺りから既に多くの風鈴が吊り下げられており、イベント規模の大きさを知る。山門入口を潜った所の社務所で入山料を収める。夏の床もみじ特別拝観を含めた800円を収めて境内に入るのだが、まぁ見渡す限りの多くの風鈴の数に圧倒されつつも期待が膨らむ。総数3,000個という風鈴の数は半端ではなく、限られた敷地内に収められている風鈴・風鈴・風鈴の姿は、まさに日本最大級と称されるに値するものであった。またこの宝徳寺は“お地蔵様”があちらこちらにおられることでも知られている。“地蔵のこみち”とも呼ばれる参道にはいろいろなところに50体の“お地蔵さま”がいらっしゃる。なで地蔵・ほほえみ地蔵・よろこび地蔵・しあわせ地蔵他と名付けられたかわいい“お地蔵さま”が、訪れる参拝客を優しくお迎えするとの言葉通り、ほっこりとする気持ちにさせてくれる。また季節によっては、帽子をかぶったり、洋服をきたりと正に“季節”のアクセントも加えられているなどしておりとても癒される。風鈴まつりはまさに夏(訪れたのは9月だが)故に“帽子”を被っている地蔵様が多くいらっしゃる様子は、宝徳寺風鈴まつりに“地蔵様あり”の景色を訪れた我々に与えてくれるものであった。

入口付近には“てるてる坊主”も壁一面に飾られていた。これも風鈴まつりの引き立てるアクセントのひとつとなっているようだ。そして順路通り進み、頭の上や左右に軽やかな音色を奏でる風鈴棚の下を進んで行く。因みに宝徳寺の風鈴まつりは当初令和6(2024)年度は9月16日迄の開催期間とされていた。しかし台風被害が多かった今夏、ガラス製の風鈴を飾るイベントに於いては風雨で破損し、危険が伴うというリスク管理の観点から、神社仏閣で開催しているほぼ全ての会場で閉門と風鈴棚の撤去という対策が取られている。私自身の旅中止の理由ともなった案件だが、8月末に日本列島と台風が縦断した。夏のイベントである“風鈴まつり”の多くは8月末、若しくは9月始め迄を開催期間としているものが多くあり、この時期の非常にゆっくりとした台風の通過は、事前に風鈴棚の撤去はしたものの、再開するにあたり台風一過の目途が立たなくなり、そのまま今年度の風鈴まつりは“終了”となってしまった施設が数多く存在した。私自身この時期に九州一周風鈴行脚を計画していたのだが、まさに台風に向かって行くことになる上に、開催状況を確認したところやはり台風の影響を受ける前に風鈴棚は撤去し、天候の回復を待って再開する旨がweb上で確認できる施設情報に記載されていた。日程だけのことを考えれば、確か宮崎から福岡に戻る行程に於いて“台風”に追いまくられるように、台風進路の“前”を逃げるように走って行ったのだろうという“仮定論”で終わることとなってしまったが、後日各施設に問い合わせをしたところやはり“台風前”の終了となってしまったことを知る。天候の問題故に仕方がないことではあるのだが、やはりやるせない気持ちにはなってしまう。そう言った8月が過ぎ、9月を迎えてシフトの“希望休”を入れるにあたり、一部の施設が台風で中止した日数を期間延長するとの情報を仕入れ、慌てて調整できる休みに行くことができる“風鈴まつり”の情報を検索し、富士市の“富知六所浅間神社”とこちら宝徳寺の風鈴まつりに辿り着いた訳である。因みに富知六所浅間神社は9月22日まで、宝徳寺は9月23日までだったこともあり、参拝する順序や時間も限定されたものとなり、年甲斐もなく往復夜行バス利用の2泊5日の旅となったのが今回の旅になる。そのよう経緯があったために、数年前から風鈴まつり開催を知っていた宝徳寺参拝にはかなりの期待をしていたのも事実である。

話が脱線したがそのような思いで訪れた風鈴棚の下を歩いている。そして本堂へと入って行くのだが、この先は“夏の床もみじ特別公開”エリアとなり、別途拝観料が必要となる。とはいえほとんどの参拝客は共通拝観料を購入しているのでチケットもぎりだけで進んで行く。宝徳寺の本堂は雙龍殿(そうりゅうでん)と言うのだが、その扁額下の襖絵に“双龍”が描かれている。右側は海龍(かいりゅう)左側が雲龍であり、龍は仏法を守護する神として崇められていることからここに置かれているようだ。奥に進むと御本尊が祀られており、その前があの“床もみじ”拝観所となっている。この本堂の造りは禅宗方丈様式と呼ばれるもので、室町時代に京都の臨済宗寺院を中心に盛んに造られたものであるそうだ。 そんな経緯から関東には数ヶ寺しか見られない珍しいものとなっており、それ故珍しさからこちらを訪れる参拝客が絶えないと記されていた。禅宗である臨済宗は禅の精神から自己を見つめ華美なものを排するという教えから、この本堂も見ようによっては質素な造りとなっているという。本来“方丈”とは住職の居室のことをいい、住職のことを“方丈さん”というのはここから来ているとされている。現在では意味合いが異なり法要など多くの行事がここで行われている。全国的にはともかく関東では大変貴重な床もみじを見ることができる場所として知られており、28畳の床に映る自然美は心を落ち着かせてくれるものとなっている。春・夏・秋の床もみじ特別公開の時期にその景色を楽しむことができるために、個人団体問わず多くの人々がその景色を見るために宝徳寺を訪れており、群馬の名だたる観光名所のひとつとして現在に至っているそうだ。

この“床もみじ”だが楽しむ方向としては三方向からとなる。先ず入口側からは正面に“和傘”が飾られ、それを斜め左に見るような方向で枯山水の石庭や青もみじを見て行くと言うものである。こちらはどちらかというとSNS映えする様な写真を撮りたい方には向いている。そして定番の石庭を正面に見た構図。これは“床もみじ”の写真の定番アングルであろう。また広角域のレンズを利用すれば、和傘を組み込むこともできる。また“床もみじ”を楽しむにあたり、最重要なのが磨き上げられた“床”である。先程他の“床もみじ”を売りにしている施設の多くで感じることがではあるのだが、あの“床”や“テーブル”に“手を触れる”不届き者が多い現実でおる。多分スマホやカメラ撮影に夢中になって、手や袖が触れてしまうのであろう。どこの施設でも手を触れないように=カメラをテーブルに乗せないようにと注意書きがなされているのだが、意味がわからないのだろうが?ガン無視で写真に没頭している輩を散見する。これは床もみじあるあるのひとつではあるのだが、ここ宝徳寺ではそのようなレベルの低い参拝客は居ないようで、鏡面化した床に映るもみじの景色を、思い存分堪能することが出来た私であった。

先述したと思うが、風鈴まつりというイベントを行いつつも床もみじを楽しめるのは、宝徳寺の境内がしっかりとエリア分けされていることに他ならない。本堂出口付近に風鈴が飾られてはいるのだが、落ち着いた感があるものをチョイスされており、騒々しい風鈴まつりとは一線を敷いている。勿論そんな風鈴と石庭を切り取ることも出来はするが、敢えてその様子を切り取る必要があるのかどうかは疑問である。まぁ撮りたい方にはどうぞと言ったところであろう。

本堂を出て靴袋返却口に梵鐘が吊り下げられていた。あたりには風鈴も吊り下げられていたが、ここは浮いている感もなく“風鈴まつり”を行っている“お寺さん”という雰囲気が漂っていた。少し歩くと石庭枯山水の景色を望む窓がある。白壁で隔てられているために“床もみじ”と“風鈴まつり”は一体化してはいない。一見すると有料エリアと無料エリアの境目の様にも見えてしまうのだが、まあコンセプトが混在しないことを考えれば良しとするべきものなのであろう。

そして既視感のある石碑があった。黒御影石で作られた碑の中には一筋の“灯火”が光っていた。“原爆の火”、昭和20(1945)年8月6日午前8時15分米軍爆撃機B-29エノラ・ゲイが広島市の相生橋を目標として投下した劣化ウラン型原子爆弾リトルボーイが島病院上空600mで炸裂。同年中被爆死者数14万人と言われる犠牲者を出した。原爆投下後に陸軍暁部隊から広島警備本部の下で市内の救援活動や警備活動を行うために兵士が広島入りした。当時放射能汚染のことが知られておらず、結果として救助活動に従事した部隊員の中から二次被爆者が出ている。その中に福岡県星野村出身の山本達雄氏がいた。山本氏は原爆投下後に市内の惨状を目の当たりにし、親代わりとなって育ててくれた叔父を探すが、終戦を迎えた後復員命令が出されるまでついに見つけることはできなかった。復員前に叔父の遺骨代わりに職場の地下倉庫跡で燻っていた火を懐炉に移して故郷に帰った山本氏は、仏壇にその火を灯し、叔父の霊を弔い続けていた。採火当初は“恨みの火”“復讐の火”としてひそかに保存していたものの、完全に鎮火された“原爆の火”が残っていることがマスコミに取り上げられ話題になる。山本氏本人も“報復では永久に平和は来ない”と考えを改め、原爆投下23年後の昭和43(1968)年に星野村役場に提供することにした。以来同村は“平和の火“として役場に作られた“平和の塔”に灯されながら保存されることとなり、平成22(2010 )年に八女市に合併後は八女市がその保存を引き継ぎ現在に至っている。山本達雄氏は平成(2004)年5月11日に老衰で亡くなられている。享年88歳。広島には残っていなかった原爆の火の存在は、戦後何十年という節目の年にその“分火”の儀式が恒例化することとなる。我が街滋賀県平和記念館にもその火が灯されており、灯火の存在と分火のことをたまたま知っていたに過ぎない。宝徳寺も戦後70周年記念事業の一環として広島原爆忌の平成27(2015)年8月6日に八女市より宝徳寺に分火して貰ったと記されている。宝徳寺参拝の際は自分の幸せ・家族の幸せ・みんなの幸せ、そして世界の幸せをぜひお祈り下さいともあった。現在全国に文化されている平和の火は、広島“平和の灯”・長崎“ナガサキ誓いの火”、そして星野村“平和の火”の3つを集火することが慣例となっていることは周知の事実である。しかしこの星野村の原爆の火は管理が徹底されていなかった時期があり分火・孫分火が知らないところで行われており、由来がわからないものも少なくないことが新聞紙面に記載されていたことがある。宝徳寺は“出どころ”が記されているために確かなものであろうが、残念ながら“平和ビジネス”の曰くがあるものも存在することを記しておく。暫く広島にも行っていない・・・、そんな思いに駆られながら群馬桐生の地で手を合わせた私であった。

風鈴棚に囲まれた石段を下り、右手の順路に沿って歩いて行く。しあわせ地蔵様を横目で見て進んだところに色とりどりのビニール傘が広がる広場に出る。アンブレラスカイ、風鈴まつりの“合せ技”によく使われる出し物だが、意外にも背景となる“空”の色が丁度良い濃さとなっており、透明の傘を通して目に映る太陽光がなんとも言えない“夏模様”を醸し出している。子供は大喜びなのは十分理解できる。いい年こいた大人でさえ“自撮り”を楽しみたいと思うのだから(笑)。

更に進むと宝徳寺の観覧エリアはここ迄の様子を呈する広場に至る。この界隈にも風鈴は飾られているのだが、メインエリアの様な派手なガラス風鈴ではなく、陶器で出来たちょっとシックな物が直線的に飾られている。その背景となる石灯籠や竹製の風鈴、青モミジ等同じ風鈴まつりとは言っても雰囲気も印象もまるで違ったもののように感じられるから不思議である。ふと思い出したのだが、確か武雄の高野寺の風鈴まつりを訪れた時に、金属製や陶器製の風鈴が屋根に吊り下げられていたものが、風に揺らいでガラス製のものとは全く違う重厚な音色に感心したことを思い出す。一般的な風鈴まつりと言えばガラス製風鈴を思い出すが、確か高野寺でも“参詣の皆様の悪魔退散を祈念致しております”と記された文面に、妙に納得した記憶が蘇ってきた。ガラス風鈴は古来から“軽やかな音色”による夏の“涼けさ”を意図したものとして知られているが、音によっては悪霊退散的な雰囲気になることも然り。と勝手に風鈴に託つけて人の“行かない場所”を巡っている約1名は納得するのであった。

この様な風鈴も展開されているんだ~と勝手に感動しながら、いま来た道を戻って行く。さすがに風鈴まつり最終日の祝日故に家族連れが目立つ。ただやはり渋い風鈴よりもカラフルな風鈴やアンブレラの方が子供受けは良いようで、奥のエリアで見た子供は、いかにも親が連れてきた感満載の兄弟一組だけであった。勿論順路を進むと通り過ぎるアンブレラスカイエリアには子供達の姿は多かった。やっぱり親も子供の写真を撮るならば、笑って楽しく遊んでいる姿が良いのだろうと勝手に思いながら、行きに人が屯していたために撮影を諦めた場所だけカメラに収めて歩いて行く。雙龍殿から下って来る石段以降の道は、完全な帰路専用の道となる。ここでひとつ思うことがあった。この宝徳寺風鈴まつりだが、イベント期間終盤にあたる時期にはペット同伴可となっている。勿論本堂は不可であるために、建物内を除く境内敷地ということにはなるのだが、抱くことを前提にしているのかリードを付けていない犬なんかも居たようだ。基本この様な人が集まる場所にペットを連れて行くならば、リードの装着は当たり前だと思うのだが違うのだろうか?また宝徳寺の場合撮影時の三脚・一脚の使用はトラブルになるために禁止されている。決してだだっ広い通路とは言えないために、三脚の足で躓く等事故の元になるためにやむを得ないことだと思うのだが、ペットの写真を撮ることもマニアックな者であれば座り込んでカメラを構える等通行の妨げになるような行為を平気で行っている様子を目の当たりにすることがあった。三脚の脚同様視界内にその存在が認知されず、躓く理由になってしまうことは今更言うまでもない。実際にその姿勢でシャッターチャンスを待つのであれば、三脚を構えて人が途切れる時を待つことと何ら変わりは無いように思えてならない。そしてなにより小さな子供も多数歩いている祝日であることを踏まえれば、やはり危険極まりないように思えてならない。近年ではペットを家族同様に可愛がる者も増えているために、敢えてペット同伴可を止めさせる気は毛頭ないが、それでも人が集まる週末や連休中は“除外日”として良いように考える。写真で切り取ったものでもわかるように、急に特定の区間での人の流れが悪くなったかと思いきや、このペット撮影のための場所独占が混雑の理由だったことを知れば、ため息しか出なかった。様々なカテゴリーに対して“撮影者”の“マナー低下”が叫ばれている今日、心無い一部の常識知らずのために“全て”が同じ様に思われてしまうことは心外以外何ものでもない。写真は譲り合っての精神が欠かせないものである。それが出来ない者にはカメラを使う資格はないと思うのだが、如何であろうか?

思うところはあるいろいろあれど、施設側が認めている以上後はモラルの問題か?と思いながら、詰まる通路に距離を取りながら歩いて行く。出口に向かう風鈴通路の下部には風車が取り付けられており、確かにペットや乳幼児の写真を撮るには良いのかも、、、と思いながら歩き、社務所前に戻って来た。人が多いことを予想してはいたので、撮った写真に人が映り込むのは致し方ないが、出来れば画像加工なしの写真を利用したいと思い、一部雙龍殿前の風鈴棚を歩き直してカメラに収めて戻って来た。入口付近の階段はどうやら入山者専用となっているようなので、下山専用の通路を歩いて行くことにした。最後の下り坂を歩いていると、何やら右手にいらっしゃる地蔵様を発見する。最初から最後まで地蔵様がいらっしゃるのを見て、流石に地蔵のお寺と思いながらも、手にしている“一文字”が気を引いたのでゆっくりと歩いて行った。“バ““イ“”バ””イ”。またおいで!の意味を込めていることは伝わって来る。敢えて書かないことで伝わることの導線は境内の中で既に構築されていたのだ。いやいや~ホントに“魅せる”風鈴まつりを満喫できたことに大満足し、2時間弱を掛けて一周して来た。そして車へと戻るのだが、ここ宝徳寺は公共交通機関を利用しても参拝できる寺院となっている。確かに人口減少が問題となっている地域故に、バス・鉄道ともに三セクが運行していることは仕方がない。旧国鉄足尾線のわたらせ渓谷鉄道の桐生駅、若しくは相老駅で下車し、おりひめバスに乗り換えて宝徳寺前で下車しすぐではあるのたが、一日10便程のバス便に加え、相老駅利用時には常駐タクシーが居ない旨の注意書きがなされていた。基本不便になる相老駅の利用頻度は如何なものか?ということもあるが、両駅から歩くにしても6km程離れていることを踏まえれば、容易に利用できるルートとは言えないだろう。確かに駐車スペースもMax250台分用意されていれば車で、、、と自ずとなるのであろう。勿論コミュニティバスは、観光の足である以上に“地元の足”という要素を色濃く持っている。そんな流れで行うには、今の定時運行が良いのか?必要時に予約するオンデマンドが良いのか?ということも考えなければいけないのかも知れない。最後にそんな思いに駆られた宝徳寺風鈴まつりであった。

車に戻り社内冷却とナビセットをしてから次の目的地を目指して出発する。途中みどり市のローソンみどり大間々店に立ち寄ら一息入れてから、前橋市の小坂子八幡神社へと向かう。地元在住でなければ“知らない”と言っても過言ではないこの場所は、ナビの設定を“名称”ではなく住所を入力しなければナビの目的地設定が出来ない場所でもある。何故ここ迄ローカルな場所を目的地としてピックアップしたかと言うと、単にインスタに風鈴まつり“開催施設”と記載されていたことに他ならない。しかし私以外に人影は見られないために、先程参拝した宝徳寺とのギャップにちょっと拍子抜けしてしまった。

   《続く》

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
5.0
グルメ
5.0
ショッピング
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円 - 3万円
交通手段
高速・路線バス レンタカー JRローカル 自家用車 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
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