2024/09/23 - 2024/09/23
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《2024.September》あみんちゅぶらり東海関東を歩く旅群馬Ⅲ~前橋夏詣編~
宝徳寺を後にして前橋市の小坂子八幡神社に到着する。本日の第二目的地であるが先程の風鈴まつり開催中の宝徳寺の人混みが嘘のように人の姿が見られない。勿論“住所”でナビ入力をしなければ辿り着かない場所故に“知名度”のことはあるにしても、あまりにも静か過ぎることに戸惑いすら覚えてしまった。由来書き等読んでいると、それなりの歴史がある神社であることは理解できるのだが、目的とした“風鈴”らしきものは見当たらない。ガセネタだったか?と疑いつつ境内を歩いて行くと、“まえばし夏詣”のチラシが貼られており、まんざら間違いでもないのか?とも思ったが、どうやら“まえばし夏詣”参加神社ということが、盛られて“風鈴まつり”開催中とされていたようだ。最近インスタ掲載情報に虚偽の情報が載せられていることは噂には聞いていた。しかし実際にその情報に踊らされた立場になるとやるせない気持ちになる。勿論“勘違い”という要素もないとは言い切れないので“虚偽”の情報というには語弊があるかも知れないが、やはり“風鈴まつり”とハッシュタグを付けて検索かけるとヒットしてしまうならば問題になるのではないだろうか?地元イベントとしてならばいざ知らず、高速バスとレンタカーを利用して数百キロ移動して来た一観光客からすれば、この怒りをどこへぶつければ良いのか?という気持ちにもなるだろう。今更虚偽情報の記載が規約違反だとしてアカウント停止を求めるつもりも毛頭ないが、ただ“いいね”目的で不確かな情報を盛ることは止めて貰いたいと切に願う私であった。
まぁ勘違いついでにその内容を記しておくと、この〝小坂子八幡神社〟、“まえばし夏詣”のスタンプイベントには参加はしていた。しかし“風鈴まつり”イベントというものは行ってはいなかった。確かに勘違いがきっかけではあったが、本来ならば一生訪れることもなかったであろう神社に来ることができたことは、私の人生に於いてはプラスだったのかも知れないし、そう思わないとやってられない気持ちもある。無住なのかどうかは確認できなかったが、複雑な気持ちのまま車へと戻った私であった。
そんな経緯から本日予定していた訪問地に対して疑心暗鬼な気持ちになりつつも次の目的地である同じ前橋市に鎮座する産泰神社を目指して車を走らせる。桐生市から前橋迄30km以上の移動距離があったことを考えれば、所要時間15分強10kmの移動は楽なものである。そんなこんなで本日三箇所目の目的地である産泰神社に到着する。
結果としてインスタ掲載情報を勘違いしたことにより、予定の“行程消化”となりつつある前橋の神社巡り。行く先々の神社には大変失礼ではあるが小坂子八幡神社での“想い”を引き摺ってやって来たことになる。産泰神社の御祭神は木花佐久夜毘売命(このはなさくやびめのみこと)。“美”と“強さ”を兼ね備えた女神とされ、安産・子育て等女性守護の御神徳があり、それにあやかろうと多くの参拝者が訪れる。木花佐久夜毘売命に関しては10年前に南薩を訪れた際に道の駅に像が建立されていたことから話題にしたことがあった。姫は南九州を拠点としていた大山津見神(おおやまつみのかみ)の娘であり、ヤマトを国として統一した初代神武天皇は木花咲耶姫のひ孫に当たる人物と伝えられ、そのことから日本を創った母と言われている。墓(古墳)は宮崎県の西都市にあると記されていたために、主な活動拠点としては南九州だというイメージがあるが、木花佐久夜毘売命を勧請し、主祭神としている神社は日本全国に数多く存在することを今知った。神社名や由来書きからして“女性”向けのご利益がある神社だと言うことはわかるが、今の私にとっては“今すぐ”必要なものではないために、参拝を済ませて車に戻り、次の目的地を目指すことにする。
同じ前橋市二之宮町に鎮座する二宮赤城神社は式内社(名神大社)論社、上野国二宮論社であり、旧社格は郷社とされている。創建は不明だが十二代景行天皇の御時にヤマトタケル東征の折に二夜逗留したとの伝承からこの場所を社と崇め、二十代允恭天皇の勅宣により大国主命を当社の神体に祀られたことを創建説としているようだ。その後建久5(1194)年には鎌倉幕府初代将軍源頼朝が上野国守護職である安達盛長に社殿の修築を命じて社領100石を寄進するが、戦国時代の永禄年間(1558~1570年)に小田原北条氏の一門である南方氏の兵火により大きな被害を受け社殿・社宝・記録等が焼失したことで衰退を余儀なくされ、赤城山信仰の中心が三夜沢赤城神社に移る。因みに兵火にかかったのは当社境内周辺に空堀や土塁の跡が見られる事から、当時は武装化し北条氏と対立していたと考えられている。小田原北条氏が滅ぶと、大胡城に入った牧野康成・忠成父子が二宮赤城神社の再興に尽力し、元和元(1615)年には大胡藩二代藩主忠成が、大坂の陣の戦勝祈願の為に絵馬“神馬の図”を奉納している。大坂の陣の功により藩主忠成が元和2(1616)年に越後長峰藩5万石で転封が決まると大胡藩は廃藩となる。この忠成が寄進した“金地繁馬の大絵馬”は、現在も二宮赤城神社に現存しており、昭和50(1975)年に前橋市指定文化財に指定されている。牧野氏以降の前橋藩主酒井氏、松平氏や天領代官から篤く崇敬され、酒井雅楽頭が絵馬“飾馬の図”を奉納しており、これもまた前橋市指定の重要文化財となっている。
前橋藩庁が置かれた前橋城の北東の方角にある赤城山山頂付近に元宮(大洞)赤城神社が鎮座しており、鬼門の鎮護社として隆盛し本社を称するようになる。また同時期に三夜沢と元宮の間で本社争いが起こっており、その折衷案として“二番目”の“赤城神社”として争いを収めたとされており、その呼称が現在に引き継がれていると言われている。加えて二宮赤城神社は古くから神仏習合し、別当寺院として“玉蔵院”が祭祀を司ってきたが、明治時代の神仏分離令により玉蔵院とは分離し、神社として独立し形式的には仏教色を廃したものの、現在でも境内には仁王門(現随神門)や鐘楼、宝塔、土塁や空掘など神仏習合当時の遺構が随所に見ることができる。
実際に参拝するも決して規模が大きいものでもなく、参拝者も私一人と寂しいものであった。しかし“風鈴まつり”を勘違いした“夏詣”参加神社として初めて風鈴飾りを見ることができたのは収穫である。村の鎮守の神様としての立場があるならば、別に部外者が口出すことでもないな~と考えながら車へと戻り、参拝を終えた私であった。
次に目指したのはやはり前橋市の駒形神社である。両毛線・北関東を横切って辿り着いた場所は伊勢崎市との境に近い。旧利根川本流の西岸に位置しており、当時は広漠たる原野の中に駒形社一社のみ鎮座していたことから“駒形大明神”と称していた。御祭神は“保食命(うけもちのみこと)”で、食物農耕守護の神として信仰されていた。上野名跡考に於いて“駒形とは、野の神・山の神・水の神・土の神の他社より浄き土を採り駒形を造り、野馬守護のためこの四神を祀る”と誌されており、境内は馬蹄形をなし源頼朝の愛馬“磨墨(するすみ)”の蹄と伝えられるものが御神体の一部にあるとされている。社伝によると勧請は元亀元(1570)年と伝えられており、神仏混淆の時代は、天台宗泉蔵寺に属していたが、慶安年間(1648~1652年)に社殿を改築し、“別当山伏修験本明院”として駒形の氏神として祀られるようになったとされている。その後宝暦7(1752)年にも社殿を改築し、現在の社殿は明治38(1905)年に新築したものである。明治40(1907)年12月に境内末社三社である“八坂社”・“稲荷社”・“秋葉社”社”並びに町内字高島鎮座の“琴平神社”とその末社四社“八坂社”・“稲荷社”・“秋葉社”・“菅原社”及び町内字桃井鎮座の雷電神社とその境内末社三社“八坂社”・“三峰社”・“諏訪社”を駒形神社に合併してた。大正3(1914)年10月9日には群馬県より神饌幣帛共進神社に指定され村社となり、昭和27(1952 )年12月には宗教法人駒形神社として現在のものとなった。平成17(2005)年10月に社殿新築百年祭の記念事業が盛大に行われて現在に至っている。やはり“村の鎮守の神様”の神社としての役割を果たしており、境内が馬蹄形をしていることは確認はできないものの興味深い話である。馬に所縁のある神社ということは名前からもわかり、由来を聞いても納得してしまった。
参道左手にある手水舎はには馬の顔の像があり、 花や木の実など季節の植物や置物で綺麗に飾られている。勿論夏の時期の風物詩である“風鈴”も例外ではなく、決して数が多い訳ではないが、由来に沿った飾りとなっていることが“風鈴オタク”の私的には少し感動してしまった。
中央の拝殿は鮮やかな色が目を惹く建物となっており、亀や龍の彫刻もとても美しいものとなっている。また拝殿目の前には躍動感のある馬の像が鎮座している。神馬とひと言で片付けてしまうとそれまでだが、由来書き通りだと少し重みすら感じるものであった。
また本殿東側にある“由緒ある檜の木”は、昭和15(1940)年の皇紀2600年を祝い、当時の駒形神社の宮司等の方々が伊勢神宮を参拝された記念として植樹されたものである。樹齢85年と御神木となるにはまだまだだが、後世には是非ともその役割を担って貰いたいと感じる樹木であった。また本殿東側には境内社の駒形伏見稲荷神社が、そして本殿西側には八坂神社・天神様・三峰神社・大國神社の4社の境内末社がそれぞれ鎮座している。明治時代に多くの近隣の神社を合併した歴史は界隈の神社と同様であり、駒形神社にも多くの境内末社が鎮座している。中でも境内社の“駒形伏見稲荷神社”は名高いものらしく、大正9(1920)年に当時の神職が京都の伏見稲荷大社の御祭神である倉稲魂之神を勧請したのが始まりである。駒形神社の祭り以外にも駒形伏見稲荷神社の祭りというものもあることが記されていた。規模・敷地面積も然りだが、村の鎮守の神様+αとしての役割を果たしている様に感じた私であった。
16:00を過ぎ、風鈴まつりという“昼間の祭典”を巡るには時間が気になる頃なので移動を急ぐ。再び前橋市中心部方向に向かい、飯玉神社に到着した。因みに神社の鎮座地である広瀬町は住宅地であり、この界隈には東日本最古の前橋天神山大古墳群があり、飯玉神社はその中心に鎮座している。また群馬県屈指の格安ガソリンスタンドとして知られる“(株)第一石油広瀬団地SS”があることでも有名だ。その様な理由で団地内の通りを複数回通過するルートになっていたことも事前に行程を組んでいた際に気付いていた私であった。
前橋天神山古墳群は、4世紀前半~中頃の前方後円墳であり、群馬県指定史跡に指定され、出土品は国の重要文化財に指定されており、東京国立博物館に展示されている。同時期の創建とされる飯玉神社は、その古墳群の中心の一古墳上に鎮座している。古代この地方一帯は大豪族上野毛氏(かみつけぬし)の領地であり、豊かな田園が広がり、東国の一大文化圏であった。平安時代に朝廷により記録された“上野国神名帳”にある“毛野明神”が当社と考えられており、その当時は“後閑郷”と呼ばれる非公田の土地であった。“後閑”とは有力豪族が都に上り、朝廷に仕えて退官後に郷里に帰り先祖の墓所の近くの土地で、閑に暮らす地名と云われている。平安時代後期の源平の争乱以降各地の武士団に支配され、鎌倉時代には武蔵国出身の丹治氏の所領になっていたという記録が残されている。
豊城入彦命(とよきいりびこのみこと)は第10代崇神天皇の皇子で、日本書紀には“上毛野君・下毛野君の祖”と付記されている。崇神天皇48年、豊城入彦命に東国統治を命じたとされ、垂仁天皇5年豊城入彦命の子とされる八綱田(やつなた)は命を受け狭穂彦を討ち“倭日向武日向彦八綱田”の名を与えられた。景行天皇55年、豊城入彦命の孫の彦狭島王(ひこさしまおう)が東山道15国の都督に任じられるも、途中春日の穴咋邑にて没し上野国に葬られたという。代わって景行天皇56年、彦狭島王の子の御諸別王(みもろわけのおう)が彦狭島王に代わって東国を治め蝦夷を討ったことが伝えられている。一部ヤマトタケルの東征と被るところがあるが、このあたりの話が豪族上野毛氏のことと重なっている。しかしこの古墳群も大事にされてきた訳ではなく、付近の住宅地開発が行われる中で古墳群も崩されていく中、古墳の後円部中央の粘土槨から多くの副葬品が発見されたことで工事が中断したということが事実である。その後墳丘は削り取られ“粘土槨”の部分が保存されているに過ぎない。鎮座していた神社が温存されたのは、正しく“鎮座していたから”に他ならないのではなかろうか?そんな飯玉神社だが、変遷は数々あったように記されている。室町時代初期なは関東地方を襲った台風による大洪水及び、幾多の天候不順のため凶作が続いた。困窮の中藤原氏一門の所領地(利根庄)に祀まつられている五穀豊穣の神“保食命(うけもちのみこと)”即ち“宇気母智命(うけもちのみこと)”を新たに合祀して稲魂いなだまを語源とする“稲玉明神”と改称されている。その後江戸時代後期に社殿周辺の後閑山に“お白狐(おびゃっこ)”が出現でると広く伝わり以前より奉斎されていた稲荷大神が、養蚕の急速な普及に伴い、産業の守護として神祇官より“正一位”を賜り、こちらも“霧島稲荷大明神”と改称されそれまで以上に厚く信仰されることとなった。
本当に高層住宅の“隙間”の参道を進んで行くと神社がある。道路から進めば一ノ鳥居から潜るようになるのではあるが、ここは端折って駐車場に車を停めたため、二ノ鳥居からのさんぱいとなる。鬱蒼とした木々が茂り、時間以上に暗さを感じてしまうので急いで参拝より集めることとなり、境内社にしては本殿並みの“艶やかさ”が感じられた。そして本殿・幣殿・拝殿を回り込むように参道を進むと拝殿前の広場に出て来る。そして良縁成就・夫婦和合の御神木、双体道祖神に手を合わせ、最後に赤城大明神に手を合わせて車へと戻る。だいぶ慌ただしく参拝しているようだが、iPhoneのカメラは明るさを補正するので良くわからないが、デジカメならばストロボを焚かないと、ほぼ真っ暗である。時間の許す限り回れるところは回りたいと言う気持ちがそうさせている。そして車へと戻り、次の目的地を目指して走り出す。
ここでひとつやらかしてしまう。スマホナビに入力していたデータが間違っていたようだ。そのため“野中八幡宮”に行き着いてしまった。ここに来たのもなにかの縁ということで、参拝して社殿をカメラに収めて再出発する。辿り着いたのは前橋八幡宮。いきなり前橋市の中心部にある神社にやって来てしまった感じを持つ。
前橋八幡宮は前橋市本町に鎮座し、旧社格は県社であり、前橋の総鎮守とされる神社である。詳細な創建時期等は不明ではあるが、前橋風土記によると平安時代の貞観年間(859~877年)に在原業平の苗裔であり上野長野氏の先祖とされる長野業重が石清水八幡宮を勧請したことではないかと言われている。上野国府の在庁官人に在原氏の名が見られることと、国府の所在が元総社町であること、東山道が近隣を通ることに加え、社殿が古墳とされる小丘上に鎮座していることから上野国府八幡として勧請されたという説がその根拠と考えられているようだ。戦国時代の永禄10(1567)年には武田氏と後北条氏戦いの兵火に遭うが、その後この地を治めていた武将からの寄進等の記録が残されており繁栄を極めていたようだ。明治6(1873)年には県社に列せられるが、昭和20(1945)年8月5日の前橋空襲により社殿は全焼し、社殿脇のイチョウの御神木にも火が燃え移ったが、幸いにも枯死は免れた。その後社殿は新築されて今日に至っている。
そんな前橋八幡宮だが神社内に駐車場はなく、少し離れた場所に数台の参拝者向けの駐車場が用意されている。鳥居を潜ったところには風鈴棚が設置されており、それは私自身の目的は達成できた。
社殿の右手に戦火を潜り抜けた立派な銀杏の木と境内社の美保大國神社が鎮座している。その他摂社には諏訪神社があり、境内社には琴平神社・三峯神社・安倍神社・菅原神社・四柱神社・稲荷神社・大國神社・厳島神社・疱瘡神社の社名が列記されているのだが、その建物が見当たらないことから、どうやら現在では本殿に合祀されているようだ。また社殿石垣の前には“達磨御焚上発祥之地”と刻まれた石碑が建っている。これは毎年1月9日の初催行される古い達磨を供養する通称“だるま市”で知られていることの“発祥の地”であることを指し示している。石碑界隈は“八幡宮公園”として一般に解放されている遊び場となっており、信仰の場と遊び場が混在する“市民の憩いの場”となっているようだ。八幡宮そのものの立ち入りは24時間参拝可能となってはいるが、授与所は既に閉まっており、八幡宮全体の様子を窺い知ることは事実上不可能のようである。境内に建立された三保大國神社やお百度石は確認できたのだが、その隣にある石碑に刻まれている内容までは理解できなかった。スマホカメラで撮影したものは基本明るさの補正が自動的になされるためなあまり実感のわかない部分はあるのだが、デジカメ+ストロボ使用した写真に関しては、明らかに光量不足であることがわかるものとなっている。当初の予定では前橋八幡宮は翌日昼間の参拝予定であったのたが、先述したように“夏詣”≠“風鈴まつり”ではないことが既に分かっている状況下で、取り敢えず参拝予定をしていた神社等を“取り急ぎ”参拝して回ったことから、この時間の参拝となった次第である。そのため今回の前橋八幡宮参拝では“風鈴まつり”の開催を確認することが出来ただけで満足している。関西人に取って群馬県というのはあまり高い知名度を誇っている訳では無いが、私自身にとっては学生時代の友人の出身地でもあり、加えて昨年令和5(2023)年2月にも訪れている“不思議な縁”がある街でもある。それ故に今後訪れることもあるだろうと考えているので、時期だけ合わせれば昼間の参拝も当然計画に組み込むてあろうと考え、端折ってしまった部分は、次回への“課題”として取っておくことにし、今回のところはこれにて参拝を終えることにして、行きと同様風鈴棚を潜って、社務所隣りにある駐車場へと戻ることにする。
あたりも暗くなった18:00過ぎ、次に目指したのは前橋東照宮である。東照宮と言えば主祭神は東照大権現即ち徳川家康で、木花咲耶姫・菅原道真・長壁姫を合祀している。寛永元(1624)年に徳川家康の次男であり、越前松平家の祖結城秀康の五男である松平直基が最初の領地であった越前勝山に創建した。その後転封の度に八幡宮も移転を繰り返し、越前松平家五代である松平朝矩が寛述9(1749)年播磨姫路藩から上野前橋藩に国替えとなった際に前橋の地に鎮座したようだ。しかし水害により朝矩は前橋城を破棄し、明和4(1767)に川越藩に転封、その際に東照宮も移転している。因みに現在の社殿はこの時期に川越で造営されたものである。以後は代官に前橋を治めさせていたが、旧来の藩都である前橋領では前橋城再建と藩主の前橋復帰の要望が強かったこともあり、天保年間(1831~1845年)に利根川の改修が一段落したことを踏まえ、慶応3(1867)年に越前松平家十一代の松平直克が前橋に本拠を移し前橋藩が復活する。その折に東照宮も社殿を解体して前橋に移転をはかったが、幕末の混乱から再建は明治4(1871)年にずれ込むことになった。
江戸時代初期の前橋藩主酒井重忠は天満宮を創建し長く崇敬されていた。これを前橋東照宮の再建時期に合わせた明治4(1871)年に、明治31(1898)年には長壁神社を合祀し現在に至っている。前橋空襲では境内の茶店や社務所は焼失し、東照宮の社殿を囲う塀にも焼夷弾が落とされたが東照宮の社殿だけは火災を免れることが出来た。令和3(2021)年に“令和の大改修”が行われ、次代を担う神社として生まれ変わり現在に至っている。
そんな前橋東照宮であるが、境内に参拝者専用の駐車場があると書かれていたので言ってみたのたが、ナビを頼りに訪れた場所にはチェーンがかけられていて利用できないようであった。勿論“勘違い”であることも考えられるので断言はできないが、授与所は既に閉まっているためにそれ以上のことはわからない。やはりこちらも翌日昼間の参拝予定であったために、予定外の参拝をしようとした私が悪い訳である。結局こちらも改めて訪問と参拝をすることにして、現在地確認のために立ち寄った前橋グリーンドーム前駐車場で景色をカメラに収めて出発することにした。
そして次に訪れた総社神社は、境内の照明さえ点いていないように見えた。また工事もされているようで、駐車場に車を停めるだけでも迷惑になるような感じであった。そういう状況下では長居もできないので、訪れたことだけを証明すべく電光表示板をカメラに収めて、早々に出発することにした。
という過程を経て本日最後の目的地である小石神社を訪れる。やはり住宅地の中に鎮座する神社であるが、一見すると暗いようにも見えるのだがセンサーが取り付けられており、建物に近付くと照明が点灯するようになっていた。前橋駅の北西6km程の敷島公園近くの住宅地内に鎮座している小石神社。神明鳥居の扁額に“小石神社”とあり、 右脇の社号標には“宗教法人小石神社”と刻まれていた。鳥居をくぐると砂利の境内が広がっている。昭和四十六(一九七一)年七月に現在地に遷座されたらしくまだまだ新しく、 綺麗に整備された街中の神社という印象を受ける。境内の参道を進むとコンクリートの社殿があり、拝殿・本殿ともに神明造である。社殿の前に、 祭神“素盞鳴尊”が出雲で詠んだ“八雲立つ 出雲八重垣妻みに 八重垣作るその八重垣を”の石碑が建立されている。社殿の右手には、青色や黄色に塗られた祈願石の小石が積まれ、健康祈願の願い事が書かれているとのことであるが、夜間のため確認出来なかったが、その小石群の奥の“赤い石”が置かれているようで、これが当社の社号の元となった小石ではないかと言われている。創祀年代は不詳であるが、上野国神名帳に“正五位上 小石明神” とある古社である。社伝によると日本武尊東征のみぎり、 南橘村の橘山の山頂に一つの石を置いて素盞鳴尊を祀り戦勝を祈願したという。その霊石には疫病平癒の神徳があり、疫病の流行った村々を転々としていたのだが江戸時代後期に横山町の路傍にあったのを実相寺内の八坂神社に祀り天王石と称したとある。江戸時代に八坂神社に祀られるまでは、 村々を転々としていた霊石だったという社伝が正しければ、由緒にある上野国神名帳に記載された小石明神なのか疑問が出てくる。もしかすると他の場所に小石明神があり、御神体の霊石を村々に請われて貸し出していたが小石明神そのものが衰退してしまったのかもしれない。
明治三十一(一八九八)年に鷲宮神社より分霊勧請して酉の市が行われ“お酉様”と呼ばれるようになった。 明治四十(一九〇七)年琴平宮と白山神社を合祀して小石神社と改称。 昭和四十六(一九七一)年現在地に遷宮され、遷座され、現在に至る間敷島・緑が丘両町内の歴史とともに歩み地元の鎮守様として現在に至っているということが記されていた。
確かに見た感じかなり新しい建物群と石碑だったので、霊石に纏わる話は俄に信じがたいところはある。しかし前橋界隈の神社の多くは近隣の多くの神社を合祀して、境内社として“祠”だけが残っているところがあるので、見ただけで判断するのは確かではないように思えなくもない。しかし夏詣参加神社ではあれど風鈴は飾られてはいなかったので、私自身の今回の神社参拝の“要素”は少なくとも満たしてはいない。故に再訪はないかとは思うが、野中町の八幡宮同様“何らかの御縁”があったために参拝することになったことは事実であるので、失礼無き様参拝して旅の無事を祈り、本日の最後の目的地訪問を終えることにする。
19:00を過ぎ辺りは夜の帳が下りている。今夜は伊香保温泉に二食付で宿を取っているためにいつもよりもは早く到着したい。という訳で宿にナビをセットして車を走らせる。道中にあったセブンイレブン吉岡上野田店に立ち寄って、飲み物の購入と一服を入れてから宿に連絡を入れる。しか~しここで私ならではの“勘違い”が発覚してしまう。チェックインの時刻を一時間勘違いしており、20:00だと思っていたものが実は19:00だったことが判明。おまけに二食付プランの最終チェックイン時刻にしておいたので、気付いた時には既に遅し。慌てて連絡を入れると、“良いですよ~気を付けて来てくださいね~”とありがたいお言葉を頂く。すんません~とお言葉に甘え、違反しない程度に飛ばしながら夜の山道を走り、予定より遅れること48分で本日の宿である伊香保温泉徳田屋旅館に無事到着した。あ~またやらかした、、、。群馬という場所柄それ程混雑はしていないと読んだことが甘かったことは昨晩に分かっていることではあるが、やはり伊香保も例外ではなく、敷地内の駐車場が一杯で第二駐車場を案内される。これがまた辺りが真っ暗な場所に加えて、宿に向かうには上り坂を歩かねばならない。運動不足を痛感している私にはひーひーはーはー言いながら、休み休み歩いて行くしかないのだが、あまりにも時間がかかり過ぎたことを心配され電話を頂く。ありがたいと思う反面、喋るのも辛いと感じる自分が情けない。まぁ色々なことがあったが、無事に宿にチェックインし、本日の寝床である“桂の間”に案内された。
この徳田屋旅館だが伊香保温泉の旅館やホテル等は新築やリノベーションを終えているきれいな建物が乱立しているというイメージが強いが、昔ながらの建物をそのまま利用して営業を続けている宿のひとつがここ徳田屋旅館である。入口には懐かしいウェルカムボードが置かれていた。入口フロント前にはふかふかのソファーと灰皿が置かれているまさに“昭和の旅館”と言うものである。2階へは階段だけであるが、今は“昭和”である(笑)。10畳の和室である“桂の間”が今宵の寝床。眺望はシティービューで灰皿が置いてあった。トイレと洗面所は付いているので、最小限の装備は備え付けられている。まぁ到着が遅くなったので、夕食を頂くために一階へと下りる。広間を仕切った座敷で食べる群馬の味はちょっと塩っぱかったかなというものだったが当然完食。ごちそうさまでした。
温泉は24時間利用できるので、ちょっと遅めに入りに行った。家族風呂を少し大きくしたレベルの広さだが、一人で入るには十分である。確かに施設は古いため、多くを期待する方には不向きだとは思うのだが、格安で伊香保温泉に浸かり、群馬のお食事を頂ける私のような“考え方”の者には言うことない宿である。因みにまだ“暖房”を入れていないために、寒かったら隣の布団部屋から必要分持ってきて下さいと言われた。う~ん、、、こういう対応好きだな~等と思いながら、距離的には120kmと短いものの、場所が分かり辛いために気疲れした今日の旅、明日は夜行バスで帰る日になるのだが、参拝箇所は全て回ったのでノープランで行こうと思う。という訳で布団に潜り込んでいると眠気に襲われるzzz。そして群馬の最後の夜は過ぎて行った。
《続く》
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 5.0
- ショッピング
- 5.0
- 交通
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 高速・路線バス レンタカー JRローカル 私鉄 自家用車 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
前橋市の小坂子八幡神社にやって来た。
小坂子八幡神社 13:23(20.9km・55.1km・419.6km・33.0km/h) -
小坂子八幡神社、拝殿。
小坂子八幡神社(境内由来書きより)
村の氏神様です。明治四〇(一九〇七)年に、八幡宮に他の宮社を合併し、八幡神社としました。ここは戦国時代の西新井(小坂子)城跡です。
祭神の誉田別尊は八幡神で武運の神です。他に天照大神などが祀られています。社殿は、神明造りで、拝殿は切妻向拝付です。社殿と拝殿の屋根には千木と鰹木があります。千木は祭神が男神の社を示す外削ぎが特徴的です。大正二(一九一三)年に改築され、平成二二(二〇一〇)年には社殿屋根の修復が行われました。境内には八社の石宮が本殿裏側に移築されています。
祭の時は八幡大菩薩と大書された幡旗二本が鳥居前に掲げられます。また、近年は初詣が大々的に行われ、多くの参拝者が訪れます。境内にはキキョウ、ギボウシ、ユリなど、多くの山野草が繁茂していることでも知られています。 -
小坂子八幡神社、社殿。
八幡宮ご案内(境内由来書きより)
小坂子町字西新井に鎮座する。祭神は誉田別尊外十二神である。外に明治四十年六月村内の字岩の下から熊野神社、字諏訪前から諏訪神社、字中川の菅原神社、字霞皆戸から愛宕神社、字向原の神明宮をここに移して合併した。
戦後、スポーツ広場に利用するため、社前東南にあった神楽殿を社務所の隣に移動した。境内には樹齢三百年の赤松の外、黒松の大樹が多く繁茂していたが、台風や松食い虫によって、ここ十年ほどの間に消滅し、今は、根株を残すのみである。神社は、近郷住民の崇敬厚く近年住宅団地の増加により、新年の初詣など繁昌を極めている。神社の創建、由緒などは村に伝わる古文書類の戦災による消失によって不詳であるが、宝物の太刀二振と神鏡三面は残され別保管されている。例大祭は四月十五日と十月十五日である。
平成元年十月十五日 社務所 -
小坂子八幡神社、手水舎。
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小坂子八幡神社にて、まえばし夏詣神社クイズ。ちょっと勘違いをしていたようで、目的達成に至らず。
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これが勘違いの原点、まえばし夏詣パンフレット。
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小坂子八幡神社、記念碑や祠。合祀した熊野神社・諏訪神社・菅原神社・愛宕神社・神明宮なのであろうか…。
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小坂子八幡神社、境内社稲荷神社。それでは次の目的地へと出発するとしよう。
小坂子八幡神社 13:58(20.9km・55.1km・419.6km・33.0km/h) -
本日三箇所目の目的地は前橋の産泰神社である。産泰神社、石鳥居。
産泰神社 14:15(9.5km・64.4km・429.1km・33.5km/h) -
産泰神社、神門。
神門は、三間一戸八脚門、入母屋造、正面唐破風付の建物で、棟札によると 「奉新尓造上随神門成就上棟之所神主鯉登豊前守藤原富房天保四年(1833年)癸巳三月吉日」とあり、本殿より遅れることおよそ70年後に建立されました。他の三棟の建物が彩色が施されていたのに対し、神門は白木で建造されています。 -
産泰神社、神門。
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産泰神社、拝殿。
内部格天井には112枚の花鳥の絵が描かれており、江戸下谷の壽笑亭泉一重・増田村の久川恵水等の絵師の名があります。大工棟梁は、信州諏訪の大隅流矢崎久右衛門元形です。 -
産泰神社、安産抜けびしゃく。
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産泰神社、神楽殿。
4月18日の産泰神社例祭では、前橋市指定重要無形文化財である産泰神社太々神楽が奉納されます。 奉納額に明和元年(1764年)のものが現存することから、長い歴史があることが伺えます。 -
産泰神社、七五三の撮影スポット。
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産泰神社、安産・子育て戌。
戌は、たくさんの子供を産みながらも、安産でありお産が軽いため「安産の守り神」とされています。 安産・子育て戌の周囲には十二支の石玉が配されております。ご自身とお子さまの干支を撫でてお参りください。 -
産泰神社、幣殿。
幣殿は、正面一間切妻造、側面二間、妻入の建物です。建立年代は棟札等がなく不明ですが、内部格天井に描かれている源氏物語の絵師が拝殿と同じため、同年代の建立と言われています。両側には鯉の滝登りの彫刻があります。 -
産泰神社、本殿。
本殿は、一間社入母屋造、妻入り、向拝一間の建物で、棟札によると「宝暦十三年(1763年)癸未四月二十三日奉造立産泰大明神神主小糸豊前守藤原忠安年五十一才乃建立」とあります。 多くの彫刻により飾られており、二十四考の「老來子」や「唐婦人」、背面には「高砂」が彫られています。 -
産泰神社、末社。
日枝神社(産業発展)/絹笠神社(養蚕・穀物)/大山祇神社(木花佐久夜毘売命の祖神様)/秋葉神社(火防)/愛宕神社(火防)/稲荷神社(衣食住)/二柱神社(国生み)/厳島神社(芸術・音楽)/菅原神社(学問)/大国神社(縁結び) -
産泰神社、金刀比羅宮。
建立については棟札に「文化七年(1810年)大工棟梁矢崎久右衛門元形」と記載されています。大物主命をお祀りしており、家内安全・運気向上のご神徳があります。 「琴高」「黄安」「通玄」などの儒教の仙人の彫刻が社殿を飾っています。 -
産泰神社、金刀比羅宮から神門を望む。
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産泰神社、安産胎内くぐりと石山。
石山。
約13万年前、赤城山で発生した「石山土石なだれ」により出現したと言われており、古代より神々が鎮まる磐座として信仰されております。 -
産泰神社、七福神。
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産泰神社、本殿と幣殿。
産泰神社は由緒書きによると、御祭神は木花佐久夜毘売命(このはなさくやびめのみこと)は安産・子育て・女性守護の御神徳があり、それにあやかろうと多くの参拝者が訪れる神社である。御祭神である木花佐久夜毘売命は、美神として有名だが、ご懐妊の折に夫神に不貞を疑われ、疑いを晴らすために自ら火を放った産屋の中で出産されたという言い伝えがある女性の“美しさ”と“強さ”を兼ね備えた女神であると言われている。よって安産・子育ての神様として、また女性守護の神様として長きに渡り信仰されて現在に至っている。木花佐久夜毘売命に関しては10年前に南薩を訪れた際に道の駅に像が建立されていたことから話題にしたことがあった。ただ姫は南九州を拠点としていた大山津見神(おおやまつみのかみ)の娘であり、日向高千穂の霊峰に 降臨されたニニギノミコトの妃になられた人物であるとされている。ヤマトを国として統一した初代神武天皇は木花咲耶姫のひ孫に当たる人物と言われており、その伝承から日本を創った母と言われている。墓(古墳)は宮崎県の西都市にあると記されていたために、主な活動拠点としては南九州だというイメージがあるが、木花佐久夜毘売命を勧請し、主祭神としている神社は日本全国に数多く存在することを今知った。 -
産泰神社、末社諏訪神社と猿田彦神社。
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そろそろ産泰神社を出発する。
産泰神社 14:41(9.5km・64.4km・429.1km・33.5km/h) -
二宮赤城神社を訪れる。二宮赤城神社、神代橋と隋神門。
二宮赤城神社 14:53(5.2km・69.8km・434.3km・26.0km/h) -
二宮赤城神社、石灯籠。
二宮赤城神社由緒
人皇十二代景行天皇の御時、 日本尊東征の時、二夜逗留した此の処を社と崇め人皇二十代允恭天皇の勅宣により大国主命を当社の神体に祀られた。
大国主命に多く名が有り第一に八千戈神と神代より今に至る。
軍神の神に奉られ第二に国造大己貴命と申す時は医道耕作の守護神として奉られ、 この外大国主命等都合七神と神道家に伝えられて来ました。
右のご神体を三夜沢へ奉勧し五穀成就の守護神に崇め赤城大明神と申す。
二宮明神一体分身にて江戸牛込赤城明神の根元です。
もっとも、 牛込赤城明神は、 牛込忠左衛門殿の先祖が勧請されとの伝承あり。
源頼朝公・天下静謐の願いに社殿御造営下され、永禄年中国乱により焼失されたと伝へられる。
大胡城主常陸介殿元亀二年八月玄米七石余を寄付され以来代々の領主となられた。
牧野駿河守殿、 慶長一九年時武運長久を祈願し、帰陣の後金地繁馬の大絵馬、一枚ご奉納された。
神事、 毎年三月、 十一月午日萓千本以って悪気邪神を退治し、 四月十二月辰日を御旅と申し御幣御鉾を三夜沢の社まで行き天下安全五穀成就を祈願する。
明和五年 代官 前澤藤十郎へ宛てた書状より -
二宮赤城神社、手水舎。ここに風鈴が吊り下げられていた。
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イチオシ
二宮赤城神社、手水舎。
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二宮赤城神社、手水舎の風鈴飾り。
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二宮赤城神社、手水舎の風鈴飾り。
二宮赤城神社 寺・神社・教会
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二宮赤城神社、手水舎の風鈴飾り。
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イチオシ
二宮赤城神社、手水舎の風鈴飾り。
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二宮赤城神社、手水舎の風鈴飾り。
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二宮赤城神社。随神門下にはご祭神が書かれている石柱があった。
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二宮赤城神社、鐘楼。梵鐘は前橋市指定重要文化財となっている。
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二宮赤城神社、拝殿。
二宮赤城神社 寺・神社・教会
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二宮赤城神社、拝殿。
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二宮赤城神社、本殿。
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二宮赤城神社、左から拝殿・本殿・日枝神社。
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二宮赤城神社、御神楽奉納之碑・御神楽顕彰碑。
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二宮赤城神社の文化財一覧表。
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二宮赤城神社、道祖神と三十四社の末社群。
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二宮赤城神社、秋葉社。
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二宮赤城神社、宝塔と三十四社の末社群。
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二宮赤城神社、宝塔と三十四社の末社群。
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二宮赤城神社の宝塔は、前橋市指定重要文化財。
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二宮赤城神社、宝塔と三十四社の末社群。
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二宮赤城神社、天満宮。
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二宮赤城神社、神輿殿は神仏分離以前の十二天社。
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二宮赤城神社、境内の彼岸花。
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二宮赤城神社、平和祈念の碑。
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二宮赤城神社を出発する。
二宮赤城神社 15:24(5.2km・69.8km・434.3km・26.0km/h) -
駒形神社に到着した。
駒形神社 15:55(12.2km・82.0km・446.5km・23.6km/h)
16:15 -
駒形神社、拝殿。
駒形神社由来
当神社の鎮座するこの地は、古くは利根川本流の西岸に位置し、広漠たる原野の中に駒形社一社のみあり、駒形大明神(こまがただいみょうじん)と称していました。
ご祭神は「保食命(うけもちのみこと)」で、食物農耕守護の神として信仰されていました。上野名跡考では『駒形とは、野の神・山の神・水の神・土の神の他社より浄き土を採り駒形を造り、野馬守護のためこの四神を祀る』と誌されております。境内は馬蹄形をなし源頼朝の愛馬「磨墨(するすみ)」の蹄と伝えられるものが御神体の一部にあります。
「上野国群村誌(こうずけのくにぐんそんし)」によると、勧請年月は元亀元年(一五七〇年)と伝えられています。
神仏混淆(しんぶつこんこう)(神道と仏教が合体した信仰)の時代は、天台宗泉蔵寺に属していましたが、慶安年間(一六五〇年)頃、社殿を改築し「別当 山伏修験本明院(やまぶししゅげんほんみょういん)」として駒形の氏神として祀られるようになりました。
宝暦七年(一七五二年)にも社殿を改築し、現在の社殿は明治三十八年(一九〇五年)に新築したものです。
明治四十年十二月、本社境内末社三社(八坂社(やさかしゃ)・稲荷社(いなりしゃ)・秋葉社(あきはしゃ))並びに町内字高島鎮座 琴平神社(ことひらじんじゃ)とその末社四社(八坂社(やさかしゃ)・稲荷社(いなりしゃ)・秋葉社(あきはしゃ)・菅原社(すがわらしゃ))及び町内字桃井鎮座の雷電神社(らいでんじんじゃ)とその境内末社三社(八坂社(やさかしゃ)・三峰社(みつみねしゃ)・諏訪社(すわしゃ))を駒形神社に合併しました。
大正三年十月九日群馬県より神饌幣帛共進(しんせんへいはくきょうしん)神社に指定され村社となり、昭和二十七年十二月、宗教法人駒形神社となりました。その後、平成十七年十月、社殿新築百年祭の記念事業が盛大に行われました。 -
駒形神社、手水舎。ここに風鈴が吊り下げられていた。
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駒形神社、手水舎。
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駒形神社、手水舎の風鈴飾り。
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イチオシ
駒形神社、手水舎の風鈴飾り。
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駒形神社、手水舎の風鈴飾り。
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駒形神社、手水舎の風鈴飾り。
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駒形神社、手水舎の風鈴飾り。
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駒形神社、石鳥居と拝殿。
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駒形神社、拝殿。
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駒形神社、絵馬処。
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駒形神社、本殿。
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駒形神社、境内社。左から八坂神社・天神様・三峰神社・大國様。
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駒形神社、末社群。
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駒形神社、皇紀二千六百(昭和15・1940)年を奉祝して植えられたヒノキ。
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駒形神社、境内社駒形伏見稲荷神社。
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駒形神社、境内社駒形伏見稲荷神社。
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駒形神社、境内社駒形伏見稲荷神社前の手水舎に浮かぶ花飾り。
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それでは駒形神社を後にする。
駒形神社 16:15(12.2km・82.0km・446.5km・23.6km/h) -
飯玉神社に到着する。
飯玉神社 16:29(5.4km・87.4km・451.9km・23.1km/h)
17:05 -
飯玉神社、神楽殿。
東日本最古の前橋天神山大古墳群の中心に鎮座
当社は、四世紀頃の東日本最古の前橋天神山大古墳群の中心に位置し、その社自体も一古墳上に鎮座しております。古代、この地方一帯は大豪族一上野毛氏かみつけぬしの領地であり、豊かな田園が広がり、東国の一大文化圏でありました。平安時代、朝廷により記録された「上野国神名帳(こうずけのくにじんみょうちょう) 」にある「毛野明神(けぬみょうじん)」とは当社と思われます。
統治は、「後閑郷(ごかんごう)」と呼ばれて、非公田の土地でした。「後閑」とは有力豪族が都に上り朝廷に仕え退官後、郷里に帰り先祖の墓所の近くの土地で、閑に暮らす地名と云われています。源平の争乱以降、各地の武士団に支配されてきました。鎌倉時代には武蔵国むさしのくにの出身、丹治氏の所領になっていた記録が「鎌倉幕府関東下知状」にあります。 -
飯玉神社、北辰鎮宅霊符社。
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飯玉神社、金比羅宮。
上野國群馬郡後閑村周辺古墳群分布図には、当社の北には国の史跡である八幡山古墳、市の史跡である前橋天神山古墳、南にはいずれも市の史跡である亀塚山古墳と金冠塚古墳、そして文珠山古墳があると記されていた。 -
飯玉神社、金比羅宮脇の通路が参道となっている。
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飯玉神社、手水舎。
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飯玉神社、拝殿。
飯玉神社社殿
文献が残っておらず、詳細は不明。社殿の建築様式はおそらく権現造と思われる。 棟札を参考に明治18年に本殿が改築され、拝殿は昭和32年に改築されたと伝えられております。老朽化により平成29年に氏子崇敬者のご協賛のもと本殿の改修工事を行い、同年11月に竣功祭を執り行いました。併せて本殿まわりの透き塀工事も行い、石の玉垣へと改修を致しました。 -
飯玉神社、拝殿。
社殿は一古墳上に鎮座しているとある。6世紀に造営された径39mの円墳であった。 -
飯玉神社、絵馬祈願所。
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飯玉神社、上野延喜式内社群馬十二社(右手より)。
一之宮 貫前神社
二之宮 赤城神社
三之宮 伊香保神社
四之宮 甲波宿祢神社
五之宮 大国神社
六之宮 榛名神社
七之宮 小祝神社
八之宮 火雷神社
九之宮 倭文神社
十之宮 美和神社
十一之宮 賀茂神社
十二之宮 宇芸神社 -
飯玉神社、天満天神社。
通称は天神様。学問の神様である菅原道真公すがわらのみちざねこうがお祀りされており、また所説ありますが、道真公を刺客からお守りしたという神使のお牛様も一緒にお祀りされております。右大臣まで昇りつめた道真公は政治家であり、優秀な学者、文人として広く勇名を馳せられ、試験合格、学業成就、諸芸上達の御利益が得られると伝えられます。 -
飯玉神社、淡島神社。
安産、子育て、縁結びの信仰が深い女性の守護神である少彦名神がお祀りされております。また少彦名神は医療の神様としても知られおり、神話の中で国⺠や家畜の病気を治すための方法を定めたとされ、医療・医薬の御利益があるとも伝えられております。 -
飯玉神社、霧島稲荷社。
稲荷社は飯玉神社の御本殿を守り、また悪いものが外から入ってくるのを防ぐため北東(⻤門)の位置に鎮座しております。 古墳で使われていた岩の間に神の使いであるお狐様が住み着いていたことから、今現在の位置にお祀りしたと伝えられます。(稲荷社本殿の中に岩が当時のまま残っております。) お参りをして、稲荷の神様である宇迦之御魂大神の御神徳を頂きまして、お帰りください。 -
飯玉神社、霧島稲荷社。
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飯玉神社、霧島稲荷社前の〝お白狐様〟。
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飯玉神社、拝殿・幣殿・本殿。
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飯玉神社、霧島稲荷大明神社鳥居。
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飯玉神社、良縁成就・夫婦和合の御神木。
御神木について
古来より巨樹や古木には木霊(神様)が宿るとされており、飯玉神社の御神木である推定樹齢500年の二本のクスノキが力強く根を張り、空に向かって聳そびえ立つ様は人々にパワーを与えてくれます。 寄り添うように聳そびえ立つ木々であることから、夫婦和合、良縁成就の御利益があると言い伝えられ、その間を通れば御神木のパワーがお頒かちされ運が開けて大成するという御利益が得られるそうです。ご参拝の際は飯玉神社の御神木のパワーを頂きまして、お帰りください。
全長−三十メートル
種別−楠(クスノキ) -
飯玉神社、双体道祖神。
双体道祖神
祖神は厄災侵入防止、子孫繁栄などを願い村や集落の守り神としてお祀りされることが多いですが、双体道祖神は男女の仲睦まじい姿でお祀りされていることから、ご神木と同様に夫婦円満、縁結びの御利益が得られると伝えられます。 -
飯玉神社、赤城大神鳥居。因みに社殿はなく、遥拝所になっている。赤城山が見えるようだが、そろそろ暗くなってきたので出発しよう。
飯玉神社 17:05(5.4km・87.4km・451.9km・23.1km/h) -
野中八幡宮。ここはナビの表示が間違っていて訪れた場所であった。
野中八幡宮 由緒・沿革
勧請年月不詳。山城国男山八幡(現在の京都にある石清水八幡宮)より勧請する。
口伝によれば、明治22年1月大風下火災があり、これを伝えて、八万十六軒の火災という。この時、当社も煩罹災し、翌23年現在の社殿を復旧した。
大正6年 神饌幣帛料供進神社に指定される。
平成23年10月 東南地区総代会50年発足記念事業として、本殿を補修し、御神境と御祭神の掛け軸を奉納する。
旧村社 昭和27年12月13日 宗教法人設立登記
野中八幡宮 17:18(3.0km・90.4km・454.9km・13.8km/h)
17:27 -
改めて目標設定を変更し、訪れたのは前橋八幡宮だ。
前橋八幡宮 17:42(4.3km・94.7km・459.2km・17.2km/h)
18:05 -
前橋八幡宮、風鈴棚。
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前橋八幡宮、風鈴棚。
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前橋八幡宮、風鈴棚。
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イチオシ
前橋八幡宮、風鈴棚。
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前橋八幡宮、風鈴棚。
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前橋八幡宮、風鈴棚。
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前橋八幡宮、風鈴棚。
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イチオシ
前橋八幡宮、風鈴棚。
前橋八幡宮 寺・神社・教会
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前橋八幡宮、社殿。
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前橋八幡宮、境内の御神木“大イチョウの木”。
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前橋八幡宮、境内の御神木“大イチョウの木”。
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前橋八幡宮、境内の御神木“大イチョウの木”。
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前橋八幡宮、境内のお百度石と何かの石碑(碑文は読めず)。
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前橋八幡宮、社殿脇の三保大國神社。
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前橋八幡宮、風鈴棚と石鳥居。
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イチオシ
前橋八幡宮、風鈴棚。
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前橋八幡宮、風鈴棚。
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前橋八幡宮、風鈴棚。
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イチオシ
前橋八幡宮、風鈴棚。
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前橋八幡宮、風鈴棚。
前橋八幡宮 18:05(4.3km・94.7km・459.2km・17.2km/h) -
夏詣参加の前橋東照宮を目指したが、辺りは既に暗くなっており駐車場までで止めておく。写真は日本トータグリーンドーム前橋。
前橋東照宮 18:12(1.3km・96.0km・460.5km・11.1km/h)
18:20東照宮 名所・史跡
-
夏詣参加の上野総社神社に到着するが、こちらは既に照明が落ちていた…。
総社神社 18:30(3.4km・99.4km・463.9km・20.4km/h)
18:32上野総社神社 寺・神社・教会
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夏詣参加の小石神社に到着するが、こちらもほぼ照明が落ちていた…。
小石神社 18:46(5.0km・104.4km・468.9km・21.4km/h)
18:55 -
小石神社、拝殿。
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小石神社、拝殿。
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小石神社、手水舎。
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小石神社、石鳥居。それでは宿へと向かうことにしよう。
小石神社 18:55(5.0km・104.4km・468.9km・21.4km/h) -
セブンイレブン吉岡上野田店に立ち寄って、飲み物を購入&一服タイム。ここで宿のチェックイン時刻を1時間勘違いしたことに気付き、慌てて電話を入れる。
セブンイレブン吉岡上野田店 19:12(7.8km・112.2km・476.7km・27.5km/h)
19:32 -
そんなこんなで到着した伊香保温泉の徳田屋旅館。やはり混雑はしており、第二駐車場を案内される。
徳田屋旅館 19:48(9.0km・121.2km・485.7km・33.8km/h)
19:52
徳田屋旅館駐車場 19:54(0.2km・121.4km・485.9km・6.0km/h)徳田屋旅館 宿・ホテル
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