浜松町・竹芝旅行記(ブログ) 一覧に戻る
今回は、「都道409号線(日比谷通り)」を隔てた「増上寺」の反対側にある地域を散策しました。増上寺の子院や「芝公園8号地」にある「芝公園おもてなしの日本庭園」、「芝公園9号地」にある記念碑等を見て回りました。まず、寺社奉行などがくだした裁きは、喧嘩の時に鳴らされた「め組」の半鐘が島流しの刑という珍しいものであった「め組のけんか」の記念碑です。「め組のけんか」は東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ都営地下鉄浅草線・大江戸線「大門駅」のA6出口を出てすぐのところにあります。続いて向かったのが、江戸時代の人気浮世絵師である二代目「安藤広重」と三代目「歌川豊国」の夢のコラボレーションの合作のレリーフがある「東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ」です。「増上寺の大門」の手前の十字路のところにあります。次が、「増上寺」に子院に一つである「浄運院」です。「浄運院」は、境内は整然としていて、植栽等の手入れも行き届き、落ち着いた雰囲気のお寺で、奥にある素敵な茶室風の建物は、慶応義塾大学茶道部の稽古場にもなっているらしいとのことです。次が、「安養院」です。「安養院」は、最初の芝区役所が設けられた場所だそうです。幕末の志士「坂本龍馬」の意志を受け継ぎ、大政奉還建に貢献した「長岡謙吉の墓」もあります。次に訪れた「花岳院」は、山門から本堂に続く参道は植栽がきれいに手入れされ清々しい気分になりました。本堂は大きく、立派です。次が、細い路地の奥に人ごみがあったので行ってみると、晴らしい枝振りの枝垂れ桜が狭い境内にありました。何故か外国の観光客ばかりです。SNSで桜の開花の情報を共有しているのでしょうか。次にむかったのが「源流院」です。まるでマンションか公民館のような佇まいです。また、小学第一校はこの「源流院」内に創設されたそうです。次に行った「廣度院」は、築地塀のような印象的な煉塀が続き当時の「増上寺」の様子をうかがい知ることができます。「廣度院表門及び練塀」の国の登録有形文化財プレートも境内にありました。次が、「観智院」です。「観智院」は、浅野家ゆかりの寺だったので、歌舞伎「忠臣蔵」の舞台にも登場する由緒あるお寺だそうです。「観智院」を後にして「常行院」向かいます。「常行院」の納骨堂は、鉄筋コンクリート造りで、内部は一室で地下に納骨棚を備え、重厚な近代仏堂という感じでした。つぎが、「芝公園おもてなしの日本庭園」です。「芝公園おもてなしの日本庭園」は、和モダンな「はなやぎの庭」と、伝統の技を駆使した「逍遥の庭」という2つのゾーンに分かれています。「芝公園おもてなしの日本庭園」は、「東京2020オリンピック・パラリンピック」の開催にあわせ、東京を訪れる国内外の人々を花と緑でおもてなしをし、都民との交流の場となることを目的とすることをコンセプトに造られました。次が、「芝公園おもてなしの日本庭園」の中にある「松原の復元碑」です。ここで目をつぶると、「増上寺」の昔の美しい松並木が浮かんできます。この松原は色々な浮世絵に登場するそうです。かなりの名勝だったのでしょう。次が「増上寺」の参道両脇にある「首提灯」へ向かいます。残念ながら、この燈籠は昔からあるものではなく、江戸時代の風情を演出するためのオブジェだそうです。次が、「芝公園10号地」にある「遣米使節記念碑(日米修好通商条約)」の記念碑です。この記念碑の碑文を読んで、また一つ勉強しました。それは、遣米使節団は咸臨丸に乗船してアメリカに行ったとばかり思っていました。しかし、実際は、アメリカ軍艦「ポーハタン号」に乗船してアメリカに向かったそうです。最後に訪れたのが、「ペルリ提督の像」です。ペルリはオランダ語読みで、英語ではペリーと発音します。日本側の通訳がオランダ語専門だったことによるそうです。今回の散策巡路は、下記に取りまとめてあります。<br /><br />【今回の散策巡路】<br />①《め組のけんか》⇒②《東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ》⇒③《浄運院》⇒④《安養院》⇒⑤《花岳院》⇒⑥《常照院》⇒⑦《源流院》⇒⑧《源興院》⇒⑨《廣度院》⇒⑩《観智院》⇒⑪《常行院》⇒⑫《芝公園おもてなしの日本庭園》⇒⑬《松原の復元碑》⇒⑭《首提灯》⇒⑮《遣米使節記念碑(日米修好通商条約)》⇒⑯《ペルリ提督の像》⇒⑰<br /><br />それでは、これから訪れた場所を詳しくご案内します。最初に訪れたのが「め組のけんか」記念碑です。<br />01_「め組のけんか」<br />「め組のけんか」へのアクセスは、都営地下鉄浅草線・大江戸線「大門駅」のA6出口を出て、JR線・東京モノレール「浜松町駅」方面に徒歩1分42mほど進むとすぐ右手に「め組のけんか」の説明板があります。<br />文化2年(1805年)の相撲興業の際に鳶頭と力士の間で起こった乱闘騒ぎは「め組の喧嘩」として知られ、歌舞伎や講談の演目ともなりました。この「め組の喧嘩」には、喧嘩両成敗でなく、おもしろいというか粋な裁定が下されました。この当時、「芝大神宮」の境内には相撲や芝居小屋や見世物小屋などがあり賑わっていました。境内で開催中だった相撲のことで、町火消の「め組」と相撲力士とで乱闘事件になりました。この喧嘩の発端は、火消しの「辰五郎」が木戸銭を払わずに入ろうとすると、木戸番にとめられ、たまたまそこを通りかかった「九竜山」という力士が木戸番に加勢します。この場は引き下がった両者でしたが、境内の芝居小屋でたまたま鉢合わせしてしまいます。再び喧嘩に発展し、ついに「九竜山」が「辰五郎」を投げ飛ばしてしまいます。それを発端に大騒動に発展しました。「九竜山」の弟子たちが駆け付け、「辰五郎」のなかまを切りつける事態にまで発展しました。形勢が悪くなった「辰五郎」たちは屋根伝いに逃げます。仲間の一人が火の見やぐらに登り半鐘を鳴らしたため、さらに現場は大混乱に。多くの火消しが現場に駆け付け、大乱闘なりました。同心が駆け付け多数が捕縛されることとなりました。後日、寺社奉行や町奉行と勘定奉行が裁きを出しました。これを「三手捌き」と言います。その喧嘩の時に鳴らされた「め組」の半鐘が、島流しの刑という珍しいものでした。それが講談や芝居の題材にされて、「芝大神宮」の名が世間に広く知れ渡ることになったそうです。<br /><br />02_「東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ」<br />「め組のけんか」の次は「東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ」です。「め組のけんか」から「東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ」までは、徒歩2分130mほどの距離のところにあります。「め組のけんか」から100mほど進むと最初の信号(表示名「芝大門」)がありますので、横断歩道を渡ると「大門」前に「ファミリーマート芝大門店」があり、その前に「東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ」があります。<br />「東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ」は、横断歩道側の面には、「江戸自慢三十六興」の「芝神明生姜市」のレリーフが右にあり、左には「名所江戸百景」の「芝神明増上寺」のレリーフがあります。裏面かどうか分りませんが、「ファミリーマート芝大門店」には、初代「安藤廣重」が描いた「東都名所」の「芝神明と増上寺」のプレートが飾られています。「芝神明増上寺」と「芝神明生姜市」はどちらも二代目「安藤広重」ですが、「江戸自慢三十六興」の「芝神明生姜市」は、背景は「安藤広重」で、人物は三代目「歌川豊国」だそうです。当時の人気浮世絵師である二代目「安藤広重」と三代目「歌川豊国」の夢のコラボレーションというか珍しい作品ですね。<br />初代「安藤廣重」が描いた「東都名所」の「芝神明と増上寺」は説明文によると、「寛弘2年(1005年)に勧請という神明に対し増上寺は麹町に明徳4年(1393年)に開創し徳川家康江戸入りののち慶長3年(1589年)に移転してきた。ここには六人の将軍ほかの人たちが葬られている。この碑は画面中央の橋の欄干の右手に当る位置に建てられている。」と書かれていました。<br /><br />03_「浄運院」<br />「東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ」の次は「浄運院」です。「東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ」から「浄運院」までは、徒歩1分50mほどの距離にあります。「東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ」の前の横断歩道を渡り、右折し横断歩道を渡り「大門」をくぐると、20m先の左手に「浄運院」があります。<br />「浄運院」は、浄土宗の寺院で、創建年代は不詳です。また、「浄運院」は、「増上寺」の子院で、かつては、出羽国米沢藩の「上杉弾正大弼」、「上杉駿河守」、「真田弾正大弼」、「内藤主殿頭」の宿坊だったそうです。「山門」をくぐり境内に入るとよく手入れの行き届き落着いた感じの庭の先に方丈があり、眺めていると心が癒されました。茶道教室も定期的に開催され、奥にある素敵な茶室風の建物は、慶応義塾大学茶道部の稽古場にもなっているらしいとのことです。元宿坊があっただけに和風旅館のような佇まいのお寺でした。<br /><br />04_「安養院」<br />「浄運院」の次は50m先にある「安養院」です。ここまで来ると「増上寺」の「三解脱門」が、大きく、はっきりと見えてきます。<br />「安養院」は、浄土宗の寺院です。「安養院」は、承応2年(1653年)に「増上寺」に止まり居住した「山城国大原向坊恵隆師」の僧房を創始したものです。そして、「安養院」は、港区と大きなかかわりがあるお寺でもあります。明治11年(1878年)11月2日に、東京には15区6郡がおかれ、芝区が誕生しました。その時、この「安養院」に最初の「芝区役所」が設けられ、11月4日に開庁し、初代区長に「相原安次郎」が任命されました。当時の芝区は桜田、三田、白金、高輪の地域で、戸数14,757戸、人口58,861人だったそうです。また、幕末の志士「坂本龍馬」の意志を受け継ぎ、大政奉還建に貢献した「長岡謙吉の墓」もあります。<br /><br />05_「花岳院」<br />「安養院」の次は道路の反対側の斜め右方向にある「花岳院」です。「安養院」から「花岳院」までは、徒歩3分230mほどの距離にあります。「大門」の先の信号まで戻り、横断歩道を渡り左折します。70mほど進むと右手に「花岳院」の山門があります。<br />「花岳院」は、浄土宗の寺院で、「増上寺」の6世「知雲上人」が俗世間を逃れて静かに住むための隠棲の場として創建したといわれています。「花岳院」の「山門」は、「増上寺」の参道の右側に面していますが、「本堂」は奥まったビルの建物に囲まれています。「山門」脇にある桜が美しく花をつけるということでしたが、私が行ったときはまだつぼみの状態でした。「山門」から「本堂」までの境内の植栽はきれいに手入れされ清々しい気分になりました。<br /><br />06_「常照院」<br />「花岳院」の次は「常照院」です。「花岳院」から「常照院」までは、徒歩1分85mほどの距離にあります。「増上寺」方面へ向かい、27mほど進むと最初の角がありますので右折します。50mほどすすむと左手に「常照院」の「山門」があります。<br />当日、沢山の外国の観光客が「常照院」の前でなにやら写真撮影をしていました。よく見ると「山門」のバックに見事な枝垂れ桜が見事な花をつけているからです。意外と桜の隠れスポットかも知れません。<br />「常照院」は、浄土宗の寺院で、「増上寺」の子院です。創建年代は不詳ですが、「常照院」は、武蔵国浅茅原の「周公」が開祖となり創建したといわれています。開山の「周公上人」は、天正18年(1590年)に亡くなっており、それから推測すると400年以上の歴史があるということになります。3代の住職が肥前の出身であることから、肥前鍋島藩などの宿坊でもあったそうです。御本尊は「一光三尊阿弥陀如来」で、これにもエピソードがあります。永享元年(1429年)7月15日に、御本尊の「一光三尊阿弥陀如来」は、江戸芝金杉先の海に漁夫が網を入れたところ古木がかかったのである。漁夫が引き上げてみると、その古木のうつろ木の中に、「一光三尊仏」がありました。漁夫は家に安置し、丁重に供養していたましたが、文明2年(1470年)3月15日に「常照院」住職「周公」(信誉)が、漁夫の家から「常照院」に遷座しました。御本尊の「一光三尊阿弥陀如来」は、秘仏であり、「本堂」の内陣(「あかん堂」)に安置されたそうです。<br />そして「常照院」は江戸時代には、初代から「市川団十郎家」の菩提寺でした。境内には、7代目団十郎が寄進した「手水鉢」などが残っています。ただし、現在は、「市川団十郎家」の墓地は「青山霊園」へ移転改葬されたそうです。その他「常照院」には、「城木屋お駒」として名高い、「白子屋お熊」の墓があります。遺骨は、昭和9年(1934年)の墓地改葬に伴い、当院墓地の「無縁塔」に合祀されましたが、昭和61年(1986年)にお熊の二百六十回忌に伴い記念碑が建立されました。<br /><br />07_「源流院」<br />「常照院」の次は「源流院」です。「常照院」から「源流院」までは、徒歩1分95mほどの距離にあります。「増上寺」の参道までもどり、「増上寺」方面へ30mほど進むと右手に「源流院」の「山門」があります。<br />「源流院」は、浄土宗の寺院で、「増上寺」の子院です。実は、外観がマンション風で「山門」がなければ、気付かずに通り過ぎてしまうところでした。「源流院」は、観智國師の「法流林應」が、「青山播磨守忠成」と共に江戸に来て、「林應庵」と名づけた庵室を創建しました。「青山播磨守忠成」が「増上寺」の造営奉行となり、「増上寺」の芝への移転を終えた際に工事の余材を譲り受け「源流院」と号して建立したそうです。そして、「源流院」は「日本近代初等教育発祥の地」でもあります。明治政府は教育の重要性に着目して、国民全員に教育を施す最初の近代教育制度である学制を明治5年(1872年)に制定しました。それに先立ち東京府では、明治3年(1870年)6月に6つの小学校を、「源流院」以下6ケ所の寺院に開校しました。その第一校がこの地に造られました。まさに、教育の出発点ですね。「源流院」は江戸初期には、境内北辺の御成門東側(現在の芝公園1丁目1番)にあり、「小学第一校」はこの「源流院内」に創設されたそうです。<br /><br />08_「源興院」<br />「源流院」の次は「源興院」です。「源流院」から「源興院」までは、徒歩1分30mほどの距離にあります。「増上寺」の参道を「増上寺」方面へ30mほど進むと右手に「源興院」があります。<br />「源興院」は、かつては「増上寺」の子院群の一つですが、現在は単立寺院の寺院です。私見ですが、一見すると普通の民家にしか見えません。「源興院」は「秀白」を開山上人としています。創建年代は不詳ですが、「秀白」が死去したのが承応3年(1654年)ですので、それ以前と考えられています。<br /><br />09_「廣度院」<br />「源興院」の次はすぐ隣にあるのが「廣度院」です。<br />「廣度院」は、浄土宗の寺院です。「廣度院」は徳川将軍家の菩提寺となった「増上寺」の子院の1つで、「酉譽聖聰上人」が「増上寺」を開山したときに別に一院を建てた山内最古の子院です。そのことを後世に伝えようと「國師存應上人」が「圓融」に命じて開創させたといわれています。御本尊は「聖聰上人」の不動明王像です。<br />「広度院」の見どころは何と言っても、平成10年(1998年)12月11日に国の登録有形文化財(建造物)に指定された「表門」と「練塀」です。「表門」と「練塀」は、「増上寺」の参道の南面に建つ「表門」とその左右に延びる総延長41.6mの「練塀」です。「表門」は、一間一戸、本瓦葺で、柱間が2.8m、高さが4.6mの堂々とした構えを見せる「薬医門」です。「練塀」は、低部に間知石を置き、芯柱を用いずに、瓦と土を交互に積み重ねて壁体とする構造で、上に瓦を葺いた塀をいい、現在では用いられることがないそうです。土塀より強固にするために、間に瓦を挟み込んでいます。美観の観点から瓦の筋が見えるようにわざと瓦の縁を土より飛び出せている塀は、実に美しく、見応えがありました。「薬医門」から境内に入ると思った以上に狭く、門を入ったらすぐ正面が「本堂」でした。境内には、「廣度院表門及び練塀」の国の登録有形文化財プレート、花手水鉢そして仏像が数体ありました。「薬医門」を出て。「練塀」を右方向に回り込むと一番端に、「廣度院・練塀間知石」復元石積みとその説明板がありました。<br /><br />10_「観智院」<br />「廣度院」の次は「観智院」です。「廣度院」から「観智院」までは、徒歩3分190mほどの距離にあります。「天陽院」から大門方面へ50mほど戻ると一つ目の角があります。そこを右折し、道なりに140mほど進むと右手に「観智院」があります。<br />「観智院」は、浄土宗の寺院で、「増上寺」の子院の一つです。「観智院」は、戦国時代末期に開祖「徹公上人」が武蔵野国箕田の郷に一院を構え「誠諦院」と号して創建しました。そして、慶長3年(1598年)に「増上寺」の子院となりました。子院になった背景には、「徳川家康」が「増上寺」を建立し「観智国師」を迎え、その当時の庵主「吟察上人」が「観智国師」に深く帰依してその子院の一つに列しました。やがて「観智国師」が隠棲したことから、その院号を「普光院」さらに「観智院」と改称しました。江戸時代には大本山塔頭寺院、また、諸大名の宿坊、勅使接待所にも当てられた由緒格式あり寺院です。特に浅野家ゆかりの寺だったので、歌舞伎「忠臣蔵」の舞台にも登場する由緒あるお寺です。<br /><br />11_「常行院」<br />「観智院」の次は「常行院」です。「観智院」から「常行院」までは、徒歩1分110mほどの距離にあります。「天陽院」から「増上寺」方面へ40mほど進むと一つ目の角があります。そこを右折し、道なりに170mほど進むと右手手に「常行院」があります。<br />「常行院」は、浄土宗の寺院です。「遵譽大和尚」の招聘により下向してきた元天台僧の「戒順」が、当地に留錫して一院としたといわれています。また、「常行院」は、「増上寺」の法主が天台宗の僧侶をわざわざ招くにあたって創設された山内寺院だそうです。ちなみに、山内寺院というのは、大きなお寺の境内にある小さなお寺のことで、長老僧侶の居室である「方丈」、僧侶の学問寄宿所である「学寮」等など、それぞれが独自の役割と由来を持っています。また、「常行院」には向かって右手に「納骨堂」があり、令和4年(2022年)2月17日に国の登録有形文化財(建造物)に指定されています。「納骨堂」は、鉄筋コンクリート造りで、内部は一室で地下に納骨棚を備え、重厚な近代仏堂という感じでした。これ以外は、注目すべきものはありませんでした。<br /><br />12_「芝公園おもてなしの日本庭園」<br />「常行院」の次は「芝公園おもてなしの日本庭園」です。「常行院」から「芝公園おもてなしの日本庭園」までは、徒歩2分140mほどの距離にあります。「常行院」から右方向に50mほど進むと「増上寺」の参道になります。その角に「ファミリーマート 芝増上寺前店」がありますので、そこを左折し30mほど進むと信号(表示名「増上寺前」)があります。そこを右折し横断歩道を渡ると「芝公園8号地」で「芝公園おもてなしの日本庭園」になります。<br />「芝公園おもてなしの日本庭園」は、「港区区役所」の前の「芝公園6号地」と「芝公園8号地」にまたがってあります。「芝公園おもてなしの日本庭園」は、「東京2020オリンピック・パラリンピック」の開催にあわせ、東京を訪れる国内外の人々を花と緑でおもてなしをし、都民との交流の場となることを目的とすることをコンセプトに造られ、2021年5月24日(月)に完成記念式典が行われました。「芝公園おもてなしの日本庭園」は、和モダンな「はなやぎの庭」と、伝統の技を駆使した「逍遥の庭」という2つのゾーンに分かれています。いずれの庭も、「増上寺三解脱」、「東京タワー」という東京ならではの借景を生かしながら、どの角度から見ても美しい景観となるよう計算されているそうです。東京、長野、滋賀の3人の名工が親方となり、1級造園技能士、日本庭園士補など総勢50名以上が全国各地から集まって、庭づくりを行いました。「はなやぎの庭」と「逍遥の庭」には、8つの見どころがあります。「はなやぎの庭」(芝公園8号地側)には、長さ19mの「臥龍垣」、白い石を配して明るさを演出した「はなやぎの庭」、そして、古い家屋の瓦を再利用している「うろこ垣」です。「逍遥の庭」(芝公園6号地側)には、竹の表と裏を交互に並べることで色の違いを楽しめる庭門の「石積とよろい垣」、月のモニュメントの周りに、じゃかごを模したオブジェをあしらった「月の庭」、富士山を模した小さな築山の「富士の庭」、品川の海面を表現した「市松模様の敷石」と寄せる波を表現「金閣寺垣」、ハーブが植えられた香りの石山である「みな庭」です。コンパクトな日本庭園ですが、これなら外国の観光客の方にも十分楽しんでいただけると思います。ちなみに、「おもてなしの庭」は、「芝公園おもてなしの日本庭園」ほか4か所あります。中央区にある「京橋大根河岸おもてなしの庭」、千代田区にある「日比谷公園おもてなしのバラ園」、目黒区にある「東京音楽大学みどりの鎌倉街道」、台東区にある「江戸ルネサンス伝統と文化が薫るおもてなし」です。時間があれば、どのような工夫が凝らしてあるか見に行きたいと思います。<br /><br />13_「松原の復元碑」<br />「松原の復元碑」は「芝公園おもてなしの日本庭園」の中にあります。「石積とよろい垣」で装飾された「庭門」をくぐると左手にあります。<br />かつて江戸時代には、「増上寺三門」前に位置するあたりは美しい松並木で「松原」と呼ばれていました。このような松並木を造成したのは二つの説があります。一つは、寛永17年(1640年)に、「増上寺」の20世「大僧正南誉上人」のとき、幕命によって三門の左右に松を植えつけたことに始まったという説です。もう一方は、青山家藩士の植樹で百年松原と称したことによるものだそうです。しかしながら、戦争もあり、焼失や枯死などによって荒れ果てた状態になってしまったそうです。区は、この芝公園の遊歩道に松を植え、整備復元する事業を行いました。この整備事業を記念して、昭和62年(1987年) 2月に「松原の復元碑」が建立されました。<br /><br />14_「首提灯」<br />「芝公園おもてなしの日本庭園」の次は「首提灯」です。「芝公園おもてなしの日本庭園」の出入口まで戻ると、「増上寺」の「三解脱門」の手前の参道の両側に「常夜燈」があります。「芝公園おもてなしの日本庭園」から「首提灯」までは徒歩2分140mほどの距離のところにあります。<br />「増上寺」の「三解脱門」の手前の参道の両側(芝公園8号地と10号地の間)には、それぞれ「常夜灯」が一基ずつあります。「三解脱門」に向かって右手の「常夜燈」は、説明板にあの落語で有名な「首提灯」という説明板、そして、「三解脱門」に向かって左手の「常夜燈」は江戸風情を醸し出すための「常夜燈」で、その説明板がありました。ちなみに、落語の「首提灯」は、金が入って品川宿のなじみの女の所へ遊びに行く途中の芝山内の追いはぎの出るというさみしい所へさしかかった時に、酒に酔った町人が武士に道を聞かれます。酩酊している町人は相手を田舎侍とみてさんざん悪態をつき、侍を侮辱しました。挙句の果てに、男は図に乗って再度、痰を侍に浴びせました。これが侍の羽織にかかりました。殿様から拝領した大事な羽織を侮辱され、堪忍袋の緒が切れた侍は、腰をひねって抜き手も見せない居合腰で、男の首を斬って、そのまま立ち去りました。その切り方があまりにも見事であったので、酔っぱらいの町人は首を切られたことに気がつきませんでした。そこに近くで火事があり前方で半鐘の音が鳴り響きました。町人は自分の首をひょいと差し上げると提灯がわりして、人ごみを駆け抜けて行くというお話です。<br /><br />15_「遣米使節記念碑(日米修好通商条約)」<br />「首提灯」の次は「遣米使節記念碑(日米修好通商条約)」です。「首提灯」から「遣米使節記念碑(日米修好通商条約)」までは、徒歩1分60mほどの距離のところにあります。すぐそばに「芝公園10号地」の出入口がるので、公園の中の小道を50mほど進むと右手に、「遣米使節記念碑(日米修好通商条約)」があります。<br />「万延元年遣米使節記念碑」は、昭和35年(1960年)の「日米修好通商条約100周年」を記念して、「ペルリ提督像」とともに、昭和35(1960)年6月に「芝公園10号地」の一角に、「日米修好通商百年記念行事運営会」によって建立されました。江戸幕府は、万延元年(1860年) 2月13日に、「日米修好通商条約」の批准書交換のため,外国奉行「新見正興」を正使とする使節団をアメリカに派遣しました。この使節が「万延元年遣米使節」と呼ばれています。「万延元年遣米使節」は、アメリカ軍艦「ポーハタン号」に乗船してアメリカに向かい、ワシントンに到着したのは万延元年(1860年) 5月で、「新見正興」らはそこで「ブキャナン大統領」に謁見し,国務長官との間で批准書を交換しました。「万延元年遣米使節」は、役人17名、従者51名、賄方6名の総勢77名でした。そして、「万延元年遣米使節」一行の乗船したアメリカ軍艦「ポーハタン号」の警護を名目に、幕府海軍の操船技術を試すため、日本軍艦として初めて太平洋を横断したのが、「勝海舟」を艦長とする「咸臨丸」でした。ちなみに「咸臨丸」の咸臨は中国の古典から取った言葉で、「君臣互いに親しみ厚く、情をもって協力し合う」という意味だそうです。「勝海舟」はアメリカで砲台、ガス灯、病院、印刷、製鉄所、武器庫などを視察して最先端の文化や技術を見聞しただけでなく、大統領や政府高官・議員が選挙によって選ばれる政治制度にも強い感銘を受けたそうです。<br />また、「万延元年遣米使節記念碑」の右前には、令和2年(2020年)に「万延元年遣米使節子孫の会」から東京都へ「万延元年遣米使節記念碑」の英語訳説明板が寄贈され、設置されました。<br /><br />16_「ペルリ提督の像」<br />「ペルリ提督の像」は、相対するように「遣米使節記念碑(日米修好通商条約)」の反対側にあります。<br />「ペルリ提督の像」は、昭和28年(1953年)に、「開国百年祭」のときに、「ペリー提督」の出身地であるアメリカ合衆国のロードアイランド州ニューポート市に「石灯籠」を贈り、その返礼として東京都へ親善の印に贈られた像です。ちなみに、「ペルリ」はオランダ語読みで、英語では「ペリー」と発音します。ペリーが艦隊を率いて嘉永7年(1854年)に2度目となる浦賀に来航したときに、日本側の通訳がオランダ語で対応したため、オランダ語訳の「ペルリ」となったようです。「ペルリ提督の像」の制作者は、有名なアーリントン国立墓地にある「海兵隊戦争記念碑」で有名な彫刻家「フェリックス・ド・ウエルドン」です。「海兵隊戦争記念碑」は別名「硫黄島記念碑」ともいわれ、昭和20年(1945年)2月の硫黄島の戦いで、6人の海兵隊員が摺鉢山の頂上に星条旗を立てる様子を「ジョー・ローゼンタール」が撮影した写真を元にして、「フェリックス・ド・ウエルドン」が制作したものです。<br /><br />

外国の観光客の方が穴場や名所を知っているかもしれません。そのお陰で素晴らしい枝垂れ桜など思わぬ発見もしました。

13いいね!

2024/04/08 - 2024/04/08

328位(同エリア785件中)

0

134

Lily-junjunさん

この旅行記のスケジュール

2024/04/08

  • 千代田線北千住駅(9:06発)⇒大手町駅(三田線乗換)⇒御成門駅(9:33着)

  • 三田線御成門駅(13:06)⇒大手町(千代田線乗換)⇒千代田線北千住駅(13:35着)

この旅行記スケジュールを元に

今回は、「都道409号線(日比谷通り)」を隔てた「増上寺」の反対側にある地域を散策しました。増上寺の子院や「芝公園8号地」にある「芝公園おもてなしの日本庭園」、「芝公園9号地」にある記念碑等を見て回りました。まず、寺社奉行などがくだした裁きは、喧嘩の時に鳴らされた「め組」の半鐘が島流しの刑という珍しいものであった「め組のけんか」の記念碑です。「め組のけんか」は東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ都営地下鉄浅草線・大江戸線「大門駅」のA6出口を出てすぐのところにあります。続いて向かったのが、江戸時代の人気浮世絵師である二代目「安藤広重」と三代目「歌川豊国」の夢のコラボレーションの合作のレリーフがある「東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ」です。「増上寺の大門」の手前の十字路のところにあります。次が、「増上寺」に子院に一つである「浄運院」です。「浄運院」は、境内は整然としていて、植栽等の手入れも行き届き、落ち着いた雰囲気のお寺で、奥にある素敵な茶室風の建物は、慶応義塾大学茶道部の稽古場にもなっているらしいとのことです。次が、「安養院」です。「安養院」は、最初の芝区役所が設けられた場所だそうです。幕末の志士「坂本龍馬」の意志を受け継ぎ、大政奉還建に貢献した「長岡謙吉の墓」もあります。次に訪れた「花岳院」は、山門から本堂に続く参道は植栽がきれいに手入れされ清々しい気分になりました。本堂は大きく、立派です。次が、細い路地の奥に人ごみがあったので行ってみると、晴らしい枝振りの枝垂れ桜が狭い境内にありました。何故か外国の観光客ばかりです。SNSで桜の開花の情報を共有しているのでしょうか。次にむかったのが「源流院」です。まるでマンションか公民館のような佇まいです。また、小学第一校はこの「源流院」内に創設されたそうです。次に行った「廣度院」は、築地塀のような印象的な煉塀が続き当時の「増上寺」の様子をうかがい知ることができます。「廣度院表門及び練塀」の国の登録有形文化財プレートも境内にありました。次が、「観智院」です。「観智院」は、浅野家ゆかりの寺だったので、歌舞伎「忠臣蔵」の舞台にも登場する由緒あるお寺だそうです。「観智院」を後にして「常行院」向かいます。「常行院」の納骨堂は、鉄筋コンクリート造りで、内部は一室で地下に納骨棚を備え、重厚な近代仏堂という感じでした。つぎが、「芝公園おもてなしの日本庭園」です。「芝公園おもてなしの日本庭園」は、和モダンな「はなやぎの庭」と、伝統の技を駆使した「逍遥の庭」という2つのゾーンに分かれています。「芝公園おもてなしの日本庭園」は、「東京2020オリンピック・パラリンピック」の開催にあわせ、東京を訪れる国内外の人々を花と緑でおもてなしをし、都民との交流の場となることを目的とすることをコンセプトに造られました。次が、「芝公園おもてなしの日本庭園」の中にある「松原の復元碑」です。ここで目をつぶると、「増上寺」の昔の美しい松並木が浮かんできます。この松原は色々な浮世絵に登場するそうです。かなりの名勝だったのでしょう。次が「増上寺」の参道両脇にある「首提灯」へ向かいます。残念ながら、この燈籠は昔からあるものではなく、江戸時代の風情を演出するためのオブジェだそうです。次が、「芝公園10号地」にある「遣米使節記念碑(日米修好通商条約)」の記念碑です。この記念碑の碑文を読んで、また一つ勉強しました。それは、遣米使節団は咸臨丸に乗船してアメリカに行ったとばかり思っていました。しかし、実際は、アメリカ軍艦「ポーハタン号」に乗船してアメリカに向かったそうです。最後に訪れたのが、「ペルリ提督の像」です。ペルリはオランダ語読みで、英語ではペリーと発音します。日本側の通訳がオランダ語専門だったことによるそうです。今回の散策巡路は、下記に取りまとめてあります。

【今回の散策巡路】
①《め組のけんか》⇒②《東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ》⇒③《浄運院》⇒④《安養院》⇒⑤《花岳院》⇒⑥《常照院》⇒⑦《源流院》⇒⑧《源興院》⇒⑨《廣度院》⇒⑩《観智院》⇒⑪《常行院》⇒⑫《芝公園おもてなしの日本庭園》⇒⑬《松原の復元碑》⇒⑭《首提灯》⇒⑮《遣米使節記念碑(日米修好通商条約)》⇒⑯《ペルリ提督の像》⇒⑰

それでは、これから訪れた場所を詳しくご案内します。最初に訪れたのが「め組のけんか」記念碑です。
01_「め組のけんか」
「め組のけんか」へのアクセスは、都営地下鉄浅草線・大江戸線「大門駅」のA6出口を出て、JR線・東京モノレール「浜松町駅」方面に徒歩1分42mほど進むとすぐ右手に「め組のけんか」の説明板があります。
文化2年(1805年)の相撲興業の際に鳶頭と力士の間で起こった乱闘騒ぎは「め組の喧嘩」として知られ、歌舞伎や講談の演目ともなりました。この「め組の喧嘩」には、喧嘩両成敗でなく、おもしろいというか粋な裁定が下されました。この当時、「芝大神宮」の境内には相撲や芝居小屋や見世物小屋などがあり賑わっていました。境内で開催中だった相撲のことで、町火消の「め組」と相撲力士とで乱闘事件になりました。この喧嘩の発端は、火消しの「辰五郎」が木戸銭を払わずに入ろうとすると、木戸番にとめられ、たまたまそこを通りかかった「九竜山」という力士が木戸番に加勢します。この場は引き下がった両者でしたが、境内の芝居小屋でたまたま鉢合わせしてしまいます。再び喧嘩に発展し、ついに「九竜山」が「辰五郎」を投げ飛ばしてしまいます。それを発端に大騒動に発展しました。「九竜山」の弟子たちが駆け付け、「辰五郎」のなかまを切りつける事態にまで発展しました。形勢が悪くなった「辰五郎」たちは屋根伝いに逃げます。仲間の一人が火の見やぐらに登り半鐘を鳴らしたため、さらに現場は大混乱に。多くの火消しが現場に駆け付け、大乱闘なりました。同心が駆け付け多数が捕縛されることとなりました。後日、寺社奉行や町奉行と勘定奉行が裁きを出しました。これを「三手捌き」と言います。その喧嘩の時に鳴らされた「め組」の半鐘が、島流しの刑という珍しいものでした。それが講談や芝居の題材にされて、「芝大神宮」の名が世間に広く知れ渡ることになったそうです。

02_「東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ」
「め組のけんか」の次は「東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ」です。「め組のけんか」から「東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ」までは、徒歩2分130mほどの距離のところにあります。「め組のけんか」から100mほど進むと最初の信号(表示名「芝大門」)がありますので、横断歩道を渡ると「大門」前に「ファミリーマート芝大門店」があり、その前に「東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ」があります。
「東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ」は、横断歩道側の面には、「江戸自慢三十六興」の「芝神明生姜市」のレリーフが右にあり、左には「名所江戸百景」の「芝神明増上寺」のレリーフがあります。裏面かどうか分りませんが、「ファミリーマート芝大門店」には、初代「安藤廣重」が描いた「東都名所」の「芝神明と増上寺」のプレートが飾られています。「芝神明増上寺」と「芝神明生姜市」はどちらも二代目「安藤広重」ですが、「江戸自慢三十六興」の「芝神明生姜市」は、背景は「安藤広重」で、人物は三代目「歌川豊国」だそうです。当時の人気浮世絵師である二代目「安藤広重」と三代目「歌川豊国」の夢のコラボレーションというか珍しい作品ですね。
初代「安藤廣重」が描いた「東都名所」の「芝神明と増上寺」は説明文によると、「寛弘2年(1005年)に勧請という神明に対し増上寺は麹町に明徳4年(1393年)に開創し徳川家康江戸入りののち慶長3年(1589年)に移転してきた。ここには六人の将軍ほかの人たちが葬られている。この碑は画面中央の橋の欄干の右手に当る位置に建てられている。」と書かれていました。

03_「浄運院」
「東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ」の次は「浄運院」です。「東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ」から「浄運院」までは、徒歩1分50mほどの距離にあります。「東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ」の前の横断歩道を渡り、右折し横断歩道を渡り「大門」をくぐると、20m先の左手に「浄運院」があります。
「浄運院」は、浄土宗の寺院で、創建年代は不詳です。また、「浄運院」は、「増上寺」の子院で、かつては、出羽国米沢藩の「上杉弾正大弼」、「上杉駿河守」、「真田弾正大弼」、「内藤主殿頭」の宿坊だったそうです。「山門」をくぐり境内に入るとよく手入れの行き届き落着いた感じの庭の先に方丈があり、眺めていると心が癒されました。茶道教室も定期的に開催され、奥にある素敵な茶室風の建物は、慶応義塾大学茶道部の稽古場にもなっているらしいとのことです。元宿坊があっただけに和風旅館のような佇まいのお寺でした。

04_「安養院」
「浄運院」の次は50m先にある「安養院」です。ここまで来ると「増上寺」の「三解脱門」が、大きく、はっきりと見えてきます。
「安養院」は、浄土宗の寺院です。「安養院」は、承応2年(1653年)に「増上寺」に止まり居住した「山城国大原向坊恵隆師」の僧房を創始したものです。そして、「安養院」は、港区と大きなかかわりがあるお寺でもあります。明治11年(1878年)11月2日に、東京には15区6郡がおかれ、芝区が誕生しました。その時、この「安養院」に最初の「芝区役所」が設けられ、11月4日に開庁し、初代区長に「相原安次郎」が任命されました。当時の芝区は桜田、三田、白金、高輪の地域で、戸数14,757戸、人口58,861人だったそうです。また、幕末の志士「坂本龍馬」の意志を受け継ぎ、大政奉還建に貢献した「長岡謙吉の墓」もあります。

05_「花岳院」
「安養院」の次は道路の反対側の斜め右方向にある「花岳院」です。「安養院」から「花岳院」までは、徒歩3分230mほどの距離にあります。「大門」の先の信号まで戻り、横断歩道を渡り左折します。70mほど進むと右手に「花岳院」の山門があります。
「花岳院」は、浄土宗の寺院で、「増上寺」の6世「知雲上人」が俗世間を逃れて静かに住むための隠棲の場として創建したといわれています。「花岳院」の「山門」は、「増上寺」の参道の右側に面していますが、「本堂」は奥まったビルの建物に囲まれています。「山門」脇にある桜が美しく花をつけるということでしたが、私が行ったときはまだつぼみの状態でした。「山門」から「本堂」までの境内の植栽はきれいに手入れされ清々しい気分になりました。

06_「常照院」
「花岳院」の次は「常照院」です。「花岳院」から「常照院」までは、徒歩1分85mほどの距離にあります。「増上寺」方面へ向かい、27mほど進むと最初の角がありますので右折します。50mほどすすむと左手に「常照院」の「山門」があります。
当日、沢山の外国の観光客が「常照院」の前でなにやら写真撮影をしていました。よく見ると「山門」のバックに見事な枝垂れ桜が見事な花をつけているからです。意外と桜の隠れスポットかも知れません。
「常照院」は、浄土宗の寺院で、「増上寺」の子院です。創建年代は不詳ですが、「常照院」は、武蔵国浅茅原の「周公」が開祖となり創建したといわれています。開山の「周公上人」は、天正18年(1590年)に亡くなっており、それから推測すると400年以上の歴史があるということになります。3代の住職が肥前の出身であることから、肥前鍋島藩などの宿坊でもあったそうです。御本尊は「一光三尊阿弥陀如来」で、これにもエピソードがあります。永享元年(1429年)7月15日に、御本尊の「一光三尊阿弥陀如来」は、江戸芝金杉先の海に漁夫が網を入れたところ古木がかかったのである。漁夫が引き上げてみると、その古木のうつろ木の中に、「一光三尊仏」がありました。漁夫は家に安置し、丁重に供養していたましたが、文明2年(1470年)3月15日に「常照院」住職「周公」(信誉)が、漁夫の家から「常照院」に遷座しました。御本尊の「一光三尊阿弥陀如来」は、秘仏であり、「本堂」の内陣(「あかん堂」)に安置されたそうです。
そして「常照院」は江戸時代には、初代から「市川団十郎家」の菩提寺でした。境内には、7代目団十郎が寄進した「手水鉢」などが残っています。ただし、現在は、「市川団十郎家」の墓地は「青山霊園」へ移転改葬されたそうです。その他「常照院」には、「城木屋お駒」として名高い、「白子屋お熊」の墓があります。遺骨は、昭和9年(1934年)の墓地改葬に伴い、当院墓地の「無縁塔」に合祀されましたが、昭和61年(1986年)にお熊の二百六十回忌に伴い記念碑が建立されました。

07_「源流院」
「常照院」の次は「源流院」です。「常照院」から「源流院」までは、徒歩1分95mほどの距離にあります。「増上寺」の参道までもどり、「増上寺」方面へ30mほど進むと右手に「源流院」の「山門」があります。
「源流院」は、浄土宗の寺院で、「増上寺」の子院です。実は、外観がマンション風で「山門」がなければ、気付かずに通り過ぎてしまうところでした。「源流院」は、観智國師の「法流林應」が、「青山播磨守忠成」と共に江戸に来て、「林應庵」と名づけた庵室を創建しました。「青山播磨守忠成」が「増上寺」の造営奉行となり、「増上寺」の芝への移転を終えた際に工事の余材を譲り受け「源流院」と号して建立したそうです。そして、「源流院」は「日本近代初等教育発祥の地」でもあります。明治政府は教育の重要性に着目して、国民全員に教育を施す最初の近代教育制度である学制を明治5年(1872年)に制定しました。それに先立ち東京府では、明治3年(1870年)6月に6つの小学校を、「源流院」以下6ケ所の寺院に開校しました。その第一校がこの地に造られました。まさに、教育の出発点ですね。「源流院」は江戸初期には、境内北辺の御成門東側(現在の芝公園1丁目1番)にあり、「小学第一校」はこの「源流院内」に創設されたそうです。

08_「源興院」
「源流院」の次は「源興院」です。「源流院」から「源興院」までは、徒歩1分30mほどの距離にあります。「増上寺」の参道を「増上寺」方面へ30mほど進むと右手に「源興院」があります。
「源興院」は、かつては「増上寺」の子院群の一つですが、現在は単立寺院の寺院です。私見ですが、一見すると普通の民家にしか見えません。「源興院」は「秀白」を開山上人としています。創建年代は不詳ですが、「秀白」が死去したのが承応3年(1654年)ですので、それ以前と考えられています。

09_「廣度院」
「源興院」の次はすぐ隣にあるのが「廣度院」です。
「廣度院」は、浄土宗の寺院です。「廣度院」は徳川将軍家の菩提寺となった「増上寺」の子院の1つで、「酉譽聖聰上人」が「増上寺」を開山したときに別に一院を建てた山内最古の子院です。そのことを後世に伝えようと「國師存應上人」が「圓融」に命じて開創させたといわれています。御本尊は「聖聰上人」の不動明王像です。
「広度院」の見どころは何と言っても、平成10年(1998年)12月11日に国の登録有形文化財(建造物)に指定された「表門」と「練塀」です。「表門」と「練塀」は、「増上寺」の参道の南面に建つ「表門」とその左右に延びる総延長41.6mの「練塀」です。「表門」は、一間一戸、本瓦葺で、柱間が2.8m、高さが4.6mの堂々とした構えを見せる「薬医門」です。「練塀」は、低部に間知石を置き、芯柱を用いずに、瓦と土を交互に積み重ねて壁体とする構造で、上に瓦を葺いた塀をいい、現在では用いられることがないそうです。土塀より強固にするために、間に瓦を挟み込んでいます。美観の観点から瓦の筋が見えるようにわざと瓦の縁を土より飛び出せている塀は、実に美しく、見応えがありました。「薬医門」から境内に入ると思った以上に狭く、門を入ったらすぐ正面が「本堂」でした。境内には、「廣度院表門及び練塀」の国の登録有形文化財プレート、花手水鉢そして仏像が数体ありました。「薬医門」を出て。「練塀」を右方向に回り込むと一番端に、「廣度院・練塀間知石」復元石積みとその説明板がありました。

10_「観智院」
「廣度院」の次は「観智院」です。「廣度院」から「観智院」までは、徒歩3分190mほどの距離にあります。「天陽院」から大門方面へ50mほど戻ると一つ目の角があります。そこを右折し、道なりに140mほど進むと右手に「観智院」があります。
「観智院」は、浄土宗の寺院で、「増上寺」の子院の一つです。「観智院」は、戦国時代末期に開祖「徹公上人」が武蔵野国箕田の郷に一院を構え「誠諦院」と号して創建しました。そして、慶長3年(1598年)に「増上寺」の子院となりました。子院になった背景には、「徳川家康」が「増上寺」を建立し「観智国師」を迎え、その当時の庵主「吟察上人」が「観智国師」に深く帰依してその子院の一つに列しました。やがて「観智国師」が隠棲したことから、その院号を「普光院」さらに「観智院」と改称しました。江戸時代には大本山塔頭寺院、また、諸大名の宿坊、勅使接待所にも当てられた由緒格式あり寺院です。特に浅野家ゆかりの寺だったので、歌舞伎「忠臣蔵」の舞台にも登場する由緒あるお寺です。

11_「常行院」
「観智院」の次は「常行院」です。「観智院」から「常行院」までは、徒歩1分110mほどの距離にあります。「天陽院」から「増上寺」方面へ40mほど進むと一つ目の角があります。そこを右折し、道なりに170mほど進むと右手手に「常行院」があります。
「常行院」は、浄土宗の寺院です。「遵譽大和尚」の招聘により下向してきた元天台僧の「戒順」が、当地に留錫して一院としたといわれています。また、「常行院」は、「増上寺」の法主が天台宗の僧侶をわざわざ招くにあたって創設された山内寺院だそうです。ちなみに、山内寺院というのは、大きなお寺の境内にある小さなお寺のことで、長老僧侶の居室である「方丈」、僧侶の学問寄宿所である「学寮」等など、それぞれが独自の役割と由来を持っています。また、「常行院」には向かって右手に「納骨堂」があり、令和4年(2022年)2月17日に国の登録有形文化財(建造物)に指定されています。「納骨堂」は、鉄筋コンクリート造りで、内部は一室で地下に納骨棚を備え、重厚な近代仏堂という感じでした。これ以外は、注目すべきものはありませんでした。

12_「芝公園おもてなしの日本庭園」
「常行院」の次は「芝公園おもてなしの日本庭園」です。「常行院」から「芝公園おもてなしの日本庭園」までは、徒歩2分140mほどの距離にあります。「常行院」から右方向に50mほど進むと「増上寺」の参道になります。その角に「ファミリーマート 芝増上寺前店」がありますので、そこを左折し30mほど進むと信号(表示名「増上寺前」)があります。そこを右折し横断歩道を渡ると「芝公園8号地」で「芝公園おもてなしの日本庭園」になります。
「芝公園おもてなしの日本庭園」は、「港区区役所」の前の「芝公園6号地」と「芝公園8号地」にまたがってあります。「芝公園おもてなしの日本庭園」は、「東京2020オリンピック・パラリンピック」の開催にあわせ、東京を訪れる国内外の人々を花と緑でおもてなしをし、都民との交流の場となることを目的とすることをコンセプトに造られ、2021年5月24日(月)に完成記念式典が行われました。「芝公園おもてなしの日本庭園」は、和モダンな「はなやぎの庭」と、伝統の技を駆使した「逍遥の庭」という2つのゾーンに分かれています。いずれの庭も、「増上寺三解脱」、「東京タワー」という東京ならではの借景を生かしながら、どの角度から見ても美しい景観となるよう計算されているそうです。東京、長野、滋賀の3人の名工が親方となり、1級造園技能士、日本庭園士補など総勢50名以上が全国各地から集まって、庭づくりを行いました。「はなやぎの庭」と「逍遥の庭」には、8つの見どころがあります。「はなやぎの庭」(芝公園8号地側)には、長さ19mの「臥龍垣」、白い石を配して明るさを演出した「はなやぎの庭」、そして、古い家屋の瓦を再利用している「うろこ垣」です。「逍遥の庭」(芝公園6号地側)には、竹の表と裏を交互に並べることで色の違いを楽しめる庭門の「石積とよろい垣」、月のモニュメントの周りに、じゃかごを模したオブジェをあしらった「月の庭」、富士山を模した小さな築山の「富士の庭」、品川の海面を表現した「市松模様の敷石」と寄せる波を表現「金閣寺垣」、ハーブが植えられた香りの石山である「みな庭」です。コンパクトな日本庭園ですが、これなら外国の観光客の方にも十分楽しんでいただけると思います。ちなみに、「おもてなしの庭」は、「芝公園おもてなしの日本庭園」ほか4か所あります。中央区にある「京橋大根河岸おもてなしの庭」、千代田区にある「日比谷公園おもてなしのバラ園」、目黒区にある「東京音楽大学みどりの鎌倉街道」、台東区にある「江戸ルネサンス伝統と文化が薫るおもてなし」です。時間があれば、どのような工夫が凝らしてあるか見に行きたいと思います。

13_「松原の復元碑」
「松原の復元碑」は「芝公園おもてなしの日本庭園」の中にあります。「石積とよろい垣」で装飾された「庭門」をくぐると左手にあります。
かつて江戸時代には、「増上寺三門」前に位置するあたりは美しい松並木で「松原」と呼ばれていました。このような松並木を造成したのは二つの説があります。一つは、寛永17年(1640年)に、「増上寺」の20世「大僧正南誉上人」のとき、幕命によって三門の左右に松を植えつけたことに始まったという説です。もう一方は、青山家藩士の植樹で百年松原と称したことによるものだそうです。しかしながら、戦争もあり、焼失や枯死などによって荒れ果てた状態になってしまったそうです。区は、この芝公園の遊歩道に松を植え、整備復元する事業を行いました。この整備事業を記念して、昭和62年(1987年) 2月に「松原の復元碑」が建立されました。

14_「首提灯」
「芝公園おもてなしの日本庭園」の次は「首提灯」です。「芝公園おもてなしの日本庭園」の出入口まで戻ると、「増上寺」の「三解脱門」の手前の参道の両側に「常夜燈」があります。「芝公園おもてなしの日本庭園」から「首提灯」までは徒歩2分140mほどの距離のところにあります。
「増上寺」の「三解脱門」の手前の参道の両側(芝公園8号地と10号地の間)には、それぞれ「常夜灯」が一基ずつあります。「三解脱門」に向かって右手の「常夜燈」は、説明板にあの落語で有名な「首提灯」という説明板、そして、「三解脱門」に向かって左手の「常夜燈」は江戸風情を醸し出すための「常夜燈」で、その説明板がありました。ちなみに、落語の「首提灯」は、金が入って品川宿のなじみの女の所へ遊びに行く途中の芝山内の追いはぎの出るというさみしい所へさしかかった時に、酒に酔った町人が武士に道を聞かれます。酩酊している町人は相手を田舎侍とみてさんざん悪態をつき、侍を侮辱しました。挙句の果てに、男は図に乗って再度、痰を侍に浴びせました。これが侍の羽織にかかりました。殿様から拝領した大事な羽織を侮辱され、堪忍袋の緒が切れた侍は、腰をひねって抜き手も見せない居合腰で、男の首を斬って、そのまま立ち去りました。その切り方があまりにも見事であったので、酔っぱらいの町人は首を切られたことに気がつきませんでした。そこに近くで火事があり前方で半鐘の音が鳴り響きました。町人は自分の首をひょいと差し上げると提灯がわりして、人ごみを駆け抜けて行くというお話です。

15_「遣米使節記念碑(日米修好通商条約)」
「首提灯」の次は「遣米使節記念碑(日米修好通商条約)」です。「首提灯」から「遣米使節記念碑(日米修好通商条約)」までは、徒歩1分60mほどの距離のところにあります。すぐそばに「芝公園10号地」の出入口がるので、公園の中の小道を50mほど進むと右手に、「遣米使節記念碑(日米修好通商条約)」があります。
「万延元年遣米使節記念碑」は、昭和35年(1960年)の「日米修好通商条約100周年」を記念して、「ペルリ提督像」とともに、昭和35(1960)年6月に「芝公園10号地」の一角に、「日米修好通商百年記念行事運営会」によって建立されました。江戸幕府は、万延元年(1860年) 2月13日に、「日米修好通商条約」の批准書交換のため,外国奉行「新見正興」を正使とする使節団をアメリカに派遣しました。この使節が「万延元年遣米使節」と呼ばれています。「万延元年遣米使節」は、アメリカ軍艦「ポーハタン号」に乗船してアメリカに向かい、ワシントンに到着したのは万延元年(1860年) 5月で、「新見正興」らはそこで「ブキャナン大統領」に謁見し,国務長官との間で批准書を交換しました。「万延元年遣米使節」は、役人17名、従者51名、賄方6名の総勢77名でした。そして、「万延元年遣米使節」一行の乗船したアメリカ軍艦「ポーハタン号」の警護を名目に、幕府海軍の操船技術を試すため、日本軍艦として初めて太平洋を横断したのが、「勝海舟」を艦長とする「咸臨丸」でした。ちなみに「咸臨丸」の咸臨は中国の古典から取った言葉で、「君臣互いに親しみ厚く、情をもって協力し合う」という意味だそうです。「勝海舟」はアメリカで砲台、ガス灯、病院、印刷、製鉄所、武器庫などを視察して最先端の文化や技術を見聞しただけでなく、大統領や政府高官・議員が選挙によって選ばれる政治制度にも強い感銘を受けたそうです。
また、「万延元年遣米使節記念碑」の右前には、令和2年(2020年)に「万延元年遣米使節子孫の会」から東京都へ「万延元年遣米使節記念碑」の英語訳説明板が寄贈され、設置されました。

16_「ペルリ提督の像」
「ペルリ提督の像」は、相対するように「遣米使節記念碑(日米修好通商条約)」の反対側にあります。
「ペルリ提督の像」は、昭和28年(1953年)に、「開国百年祭」のときに、「ペリー提督」の出身地であるアメリカ合衆国のロードアイランド州ニューポート市に「石灯籠」を贈り、その返礼として東京都へ親善の印に贈られた像です。ちなみに、「ペルリ」はオランダ語読みで、英語では「ペリー」と発音します。ペリーが艦隊を率いて嘉永7年(1854年)に2度目となる浦賀に来航したときに、日本側の通訳がオランダ語で対応したため、オランダ語訳の「ペルリ」となったようです。「ペルリ提督の像」の制作者は、有名なアーリントン国立墓地にある「海兵隊戦争記念碑」で有名な彫刻家「フェリックス・ド・ウエルドン」です。「海兵隊戦争記念碑」は別名「硫黄島記念碑」ともいわれ、昭和20年(1945年)2月の硫黄島の戦いで、6人の海兵隊員が摺鉢山の頂上に星条旗を立てる様子を「ジョー・ローゼンタール」が撮影した写真を元にして、「フェリックス・ド・ウエルドン」が制作したものです。

旅行の満足度
3.5
観光
3.5
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
私鉄 徒歩
  • 《め組のけんか》「め組のけんか」へのアクセスは、都営地下鉄浅草線・大江戸線「大門駅」のA6出口を出て、JR線・東京モノレール「浜松町駅」方面に徒歩1分42mほど進むとすぐ右手に「め組のけんか」の説明板があります。

    《め組のけんか》「め組のけんか」へのアクセスは、都営地下鉄浅草線・大江戸線「大門駅」のA6出口を出て、JR線・東京モノレール「浜松町駅」方面に徒歩1分42mほど進むとすぐ右手に「め組のけんか」の説明板があります。

  • 《め組のけんか》文化2年(1805年)の相撲興業の際に鳶頭と力士の間で起こった乱闘騒ぎは「め組の喧嘩」として知られ、歌舞伎や講談の演目ともなりました。この当時、「芝大神宮」の境内には相撲や芝居小屋や見世物小屋などがあり賑わっていました。境内で開催中だった相撲のことで、町火消の「め組」と相撲力士とで乱闘事件になりました。

    《め組のけんか》文化2年(1805年)の相撲興業の際に鳶頭と力士の間で起こった乱闘騒ぎは「め組の喧嘩」として知られ、歌舞伎や講談の演目ともなりました。この当時、「芝大神宮」の境内には相撲や芝居小屋や見世物小屋などがあり賑わっていました。境内で開催中だった相撲のことで、町火消の「め組」と相撲力士とで乱闘事件になりました。

  • 《め組のけんか》この喧嘩の発端は、火消しの「辰五郎」が木戸銭を払わずに入ろうとすると、木戸番にとめられ、たまたまそこを通りかかった「九竜山」という力士が木戸番に加勢します。この場は引き下がった両者でしたが、境内の芝居小屋でたまたま鉢合わせしてしまいます。再び喧嘩に発展し、ついに「九竜山」が「辰五郎」を投げ飛ばしてしまいます。それを発端に大騒動に発展しました。

    《め組のけんか》この喧嘩の発端は、火消しの「辰五郎」が木戸銭を払わずに入ろうとすると、木戸番にとめられ、たまたまそこを通りかかった「九竜山」という力士が木戸番に加勢します。この場は引き下がった両者でしたが、境内の芝居小屋でたまたま鉢合わせしてしまいます。再び喧嘩に発展し、ついに「九竜山」が「辰五郎」を投げ飛ばしてしまいます。それを発端に大騒動に発展しました。

  • 《め組のけんか》「九竜山」の弟子たちが駆け付け、「辰五郎」のなかまを切りつける事態にまで発展しました。形勢が悪くなった「辰五郎」たちは屋根伝いに逃げます。仲間の一人が火の見やぐらに登り半鐘を鳴らしたため、さらに現場は大混乱に。多くの火消しが現場に駆け付け、大乱闘なりました。同心が駆け付け多数が捕縛されることとなりました。

    《め組のけんか》「九竜山」の弟子たちが駆け付け、「辰五郎」のなかまを切りつける事態にまで発展しました。形勢が悪くなった「辰五郎」たちは屋根伝いに逃げます。仲間の一人が火の見やぐらに登り半鐘を鳴らしたため、さらに現場は大混乱に。多くの火消しが現場に駆け付け、大乱闘なりました。同心が駆け付け多数が捕縛されることとなりました。

  • 《東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ》「め組のけんか」の次は「東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ」です。「め組のけんか」からは、徒歩2分130mほどの距離のところにあります。「め組のけんか」から100mほど進むと最初の信号(表示名「芝大門」)がありますので、横断歩道を渡ると「大門」前に「ファミリーマート芝大門店」があり、その前にあります。

    《東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ》「め組のけんか」の次は「東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ」です。「め組のけんか」からは、徒歩2分130mほどの距離のところにあります。「め組のけんか」から100mほど進むと最初の信号(表示名「芝大門」)がありますので、横断歩道を渡ると「大門」前に「ファミリーマート芝大門店」があり、その前にあります。

  • 《東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ》「東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ」は、横断歩道側の面には、「江戸自慢三十六興」の「芝神明生姜市」のレリーフが右にあり、左には「名所江戸百景」の「芝神明増上寺」のレリーフがあります。

    《東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ》「東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ」は、横断歩道側の面には、「江戸自慢三十六興」の「芝神明生姜市」のレリーフが右にあり、左には「名所江戸百景」の「芝神明増上寺」のレリーフがあります。

  • 《東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ》裏面かどうか分りませんが、「ファミリーマート芝大門店」には、初代「安藤廣重」が描いた「東都名所」の「芝神明と増上寺」のプレートが飾られています。

    《東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ》裏面かどうか分りませんが、「ファミリーマート芝大門店」には、初代「安藤廣重」が描いた「東都名所」の「芝神明と増上寺」のプレートが飾られています。

  • 《東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ》「芝神明増上寺」と「芝神明生姜市」はどちらも二代目「安藤広重」ですが、「江戸自慢三十六興」の「芝神明生姜市」は、背景は「安藤広重」で、人物は三代目「歌川豊国」だそうです。

    《東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ》「芝神明増上寺」と「芝神明生姜市」はどちらも二代目「安藤広重」ですが、「江戸自慢三十六興」の「芝神明生姜市」は、背景は「安藤広重」で、人物は三代目「歌川豊国」だそうです。

  • 《東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ》当時の人気浮世絵師である二代目「安藤広重」と三代目「歌川豊国」の夢のコラボレーションというか珍しい作品ですね。

    《東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ》当時の人気浮世絵師である二代目「安藤広重」と三代目「歌川豊国」の夢のコラボレーションというか珍しい作品ですね。

  • 《東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ》初代「安藤廣重」が描いた「東都名所」の「芝神明と増上寺」は説明文によると、「寛弘2年(1005年)に勧請という神明に対し増上寺は麹町に明徳4年(1393年)に開創し徳川家康江戸入りののち慶長3年(1589年)に移転してきた。

    《東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ》初代「安藤廣重」が描いた「東都名所」の「芝神明と増上寺」は説明文によると、「寛弘2年(1005年)に勧請という神明に対し増上寺は麹町に明徳4年(1393年)に開創し徳川家康江戸入りののち慶長3年(1589年)に移転してきた。

  • 《東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ》ここには六人の将軍ほかの人たちが葬られている。

    《東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ》ここには六人の将軍ほかの人たちが葬られている。

  • 《東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ》この碑は画面中央の橋の欄干の右手に当る位置に建てられている。」と書かれていました。

    《東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ》この碑は画面中央の橋の欄干の右手に当る位置に建てられている。」と書かれていました。

  • 《東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ》浮世絵師である二代目安藤広重と三代目歌川豊国の夢のコラボレーションという珍しいプレート

    《東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ》浮世絵師である二代目安藤広重と三代目歌川豊国の夢のコラボレーションという珍しいプレート

  • 《浄運院》正門付近…「東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ」の次は「浄運院」です。

    《浄運院》正門付近…「東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ」の次は「浄運院」です。

  • 《浄運院》正門付近…「東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ」から「浄運院」までは、徒歩1分50mほどの距離にあります。「東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ」の前の横断歩道を渡り、右折し横断歩道を渡り「大門」をくぐると、20m先の左手に「浄運院」があります。

    《浄運院》正門付近…「東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ」から「浄運院」までは、徒歩1分50mほどの距離にあります。「東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ」の前の横断歩道を渡り、右折し横断歩道を渡り「大門」をくぐると、20m先の左手に「浄運院」があります。

  • 《浄運院》境内…「浄運院」は、浄土宗の寺院で、創建年代は不詳です。

    《浄運院》境内…「浄運院」は、浄土宗の寺院で、創建年代は不詳です。

  • 《浄運院》境内…「浄運院」は、「増上寺」の子院で、かつては、出羽国米沢藩の「上杉弾正大弼」、「上杉駿河守」、「真田弾正大弼」、「内藤主殿頭」の宿坊だったそうです。

    《浄運院》境内…「浄運院」は、「増上寺」の子院で、かつては、出羽国米沢藩の「上杉弾正大弼」、「上杉駿河守」、「真田弾正大弼」、「内藤主殿頭」の宿坊だったそうです。

  • 《浄運院》境内…元宿坊があっただけに和風旅館のような佇まいのお寺でした。

    《浄運院》境内…元宿坊があっただけに和風旅館のような佇まいのお寺でした。

  • 《浄運院》境内…茶道教室も定期的に開催され、奥にある素敵な茶室風の建物は、慶応義塾大学茶道部の稽古場にもなっているらしいとのことです。

    《浄運院》境内…茶道教室も定期的に開催され、奥にある素敵な茶室風の建物は、慶応義塾大学茶道部の稽古場にもなっているらしいとのことです。

  • 《浄運院》境内…「山門」をくぐり境内に入るとよく手入れの行き届き落着いた感じの庭の先に方丈があり、眺めていると心が癒されました。

    《浄運院》境内…「山門」をくぐり境内に入るとよく手入れの行き届き落着いた感じの庭の先に方丈があり、眺めていると心が癒されました。

  • 《安養院》「浄運院」の次は50m先にある「安養院」です。ここまで来ると「増上寺」の「三解脱門」が、大きく、はっきりと見えてきます。

    《安養院》「浄運院」の次は50m先にある「安養院」です。ここまで来ると「増上寺」の「三解脱門」が、大きく、はっきりと見えてきます。

    最初の芝区役所跡 (安養院) 名所・史跡

  • 《安養院》「安養院」は、浄土宗の寺院です。「安養院」は、承応2年(1653年)に「増上寺」に止まり居住した「山城国大原向坊恵隆師」の僧房を創始したものです。

    《安養院》「安養院」は、浄土宗の寺院です。「安養院」は、承応2年(1653年)に「増上寺」に止まり居住した「山城国大原向坊恵隆師」の僧房を創始したものです。

    最初の芝区役所跡 (安養院) 名所・史跡

  • 《安養院》「安養院」は、港区と大きなかかわりがあるお寺でもあります。明治11年(1878年)11月2日に、東京には15区6郡がおかれ、芝区が誕生しました。その時、この「安養院」に最初の「芝区役所」が設けられ、11月4日に開庁し、初代区長に「相原安次郎」が任命されました。

    《安養院》「安養院」は、港区と大きなかかわりがあるお寺でもあります。明治11年(1878年)11月2日に、東京には15区6郡がおかれ、芝区が誕生しました。その時、この「安養院」に最初の「芝区役所」が設けられ、11月4日に開庁し、初代区長に「相原安次郎」が任命されました。

    最初の芝区役所跡 (安養院) 名所・史跡

  • 《安養院》当時の芝区は桜田、三田、白金、高輪の地域で、戸数14,757戸、人口58,861人だったそうです。また、幕末の志士「坂本龍馬」の意志を受け継ぎ、大政奉還建に貢献した「長岡謙吉の墓」もあります。

    《安養院》当時の芝区は桜田、三田、白金、高輪の地域で、戸数14,757戸、人口58,861人だったそうです。また、幕末の志士「坂本龍馬」の意志を受け継ぎ、大政奉還建に貢献した「長岡謙吉の墓」もあります。

    最初の芝区役所跡 (安養院) 名所・史跡

  • 《花岳院》正門付近…「安養院」の次は道路の反対側の斜め右方向にある「花岳院」です。

    《花岳院》正門付近…「安養院」の次は道路の反対側の斜め右方向にある「花岳院」です。

    花岳院 寺・神社・教会

  • 《花岳院》正門付近…「安養院」から「花岳院」までは、徒歩3分230mほどの距離にあります。

    《花岳院》正門付近…「安養院」から「花岳院」までは、徒歩3分230mほどの距離にあります。

    花岳院 寺・神社・教会

  • 《花岳院》正門付近…「大門」の先の信号まで戻り、横断歩道を渡り左折します。70mほど進むと右手に「花岳院」の山門があります。

    《花岳院》正門付近…「大門」の先の信号まで戻り、横断歩道を渡り左折します。70mほど進むと右手に「花岳院」の山門があります。

    花岳院 寺・神社・教会

  • 《花岳院》正門付近…「花岳院」は、浄土宗の寺院で、「増上寺」の6世「知雲上人」が俗世間を逃れて静かに住むための隠棲の場として創建したといわれています。

    《花岳院》正門付近…「花岳院」は、浄土宗の寺院で、「増上寺」の6世「知雲上人」が俗世間を逃れて静かに住むための隠棲の場として創建したといわれています。

    花岳院 寺・神社・教会

  • 《花岳院》本堂付近…「花岳院」の「山門」は、「増上寺」の参道の右側に面していますが、「本堂」は奥まったビルの建物に囲まれています。

    《花岳院》本堂付近…「花岳院」の「山門」は、「増上寺」の参道の右側に面していますが、「本堂」は奥まったビルの建物に囲まれています。

    花岳院 寺・神社・教会

  • 《花岳院》本堂付近…「山門」脇にある桜が美しく花をつけるということでしたが、私が行ったときはまだつぼみの状態でした。

    《花岳院》本堂付近…「山門」脇にある桜が美しく花をつけるということでしたが、私が行ったときはまだつぼみの状態でした。

    花岳院 寺・神社・教会

  • 《花岳院》本堂付近…扁額には寺号である花岳院と書かれていました。

    《花岳院》本堂付近…扁額には寺号である花岳院と書かれていました。

    花岳院 寺・神社・教会

  • 《花岳院》寺務所は超近代的な建物です。

    《花岳院》寺務所は超近代的な建物です。

    花岳院 寺・神社・教会

  • 《花岳院》「花岳院」の概要については、①山号…三縁山、②院号…花岳院、③寺号…花岳院です。

    《花岳院》「花岳院」の概要については、①山号…三縁山、②院号…花岳院、③寺号…花岳院です。

    花岳院 寺・神社・教会

  • 《花岳院》境内風景…山門から続く長い参道の植栽はよく手入れされています。清々しい気分になりました。

    《花岳院》境内風景…山門から続く長い参道の植栽はよく手入れされています。清々しい気分になりました。

    花岳院 寺・神社・教会

  • 《常照院》山門付近…「花岳院」から「常照院」までは、徒歩1分85mほどの距離にあります。「増上寺」方面へ向かい、27mほど進むと最初の角がありますので右折します。50mほどすすむと左手に「常照院」の「山門」があります。

    《常照院》山門付近…「花岳院」から「常照院」までは、徒歩1分85mほどの距離にあります。「増上寺」方面へ向かい、27mほど進むと最初の角がありますので右折します。50mほどすすむと左手に「常照院」の「山門」があります。

    常照院 寺・神社・教会

  • 《常照院》山門付近…当日、沢山の外国の観光客が「常照院」の前でなにやら写真撮影をしていました。よく見ると「山門」のバックに見事な枝垂れ桜が見事な花をつけているからです。意外と桜の隠れスポットかも知れません。

    《常照院》山門付近…当日、沢山の外国の観光客が「常照院」の前でなにやら写真撮影をしていました。よく見ると「山門」のバックに見事な枝垂れ桜が見事な花をつけているからです。意外と桜の隠れスポットかも知れません。

    常照院 寺・神社・教会

  • 《常照院》山門付近…「常照院」は、浄土宗の寺院で、「増上寺」の子院です。創建年代は不詳ですが、「常照院」は、武蔵国浅茅原の「周公」が開祖となり創建したといわれています。

    《常照院》山門付近…「常照院」は、浄土宗の寺院で、「増上寺」の子院です。創建年代は不詳ですが、「常照院」は、武蔵国浅茅原の「周公」が開祖となり創建したといわれています。

    常照院 寺・神社・教会

  • 《常照院》山門付近…開山の「周公上人」は、天正18年(1590年)に亡くなっており、それから推測すると400年以上の歴史があるということになります。3代の住職が肥前の出身であることから、肥前鍋島藩などの宿坊でもあったそうです。

    《常照院》山門付近…開山の「周公上人」は、天正18年(1590年)に亡くなっており、それから推測すると400年以上の歴史があるということになります。3代の住職が肥前の出身であることから、肥前鍋島藩などの宿坊でもあったそうです。

    常照院 寺・神社・教会

  • 《常照院》本堂付近…御本尊は「一光三尊阿弥陀如来」で、これにもエピソードがあります。

    《常照院》本堂付近…御本尊は「一光三尊阿弥陀如来」で、これにもエピソードがあります。

    常照院 寺・神社・教会

  • 《常照院》境内風景…永享元年(1429年)7月15日に、御本尊の「一光三尊阿弥陀如来」は、江戸芝金杉先の海に漁夫が網を入れたところ古木がかかったのである。漁夫が引き上げてみると、その古木のうつろ木の中に、「一光三尊仏」がありました。漁夫は家に安置し、丁重に供養していたました。

    《常照院》境内風景…永享元年(1429年)7月15日に、御本尊の「一光三尊阿弥陀如来」は、江戸芝金杉先の海に漁夫が網を入れたところ古木がかかったのである。漁夫が引き上げてみると、その古木のうつろ木の中に、「一光三尊仏」がありました。漁夫は家に安置し、丁重に供養していたました。

    常照院 寺・神社・教会

  • 《常照院》境内風景…文明2年(1470年)3月15日に「常照院」住職「周公」(信誉)が、漁夫の家から「常照院」に遷座しました。御本尊の「一光三尊阿弥陀如来」は、秘仏であり、「本堂」の内陣(「あかん堂」)に安置されたそうです。

    《常照院》境内風景…文明2年(1470年)3月15日に「常照院」住職「周公」(信誉)が、漁夫の家から「常照院」に遷座しました。御本尊の「一光三尊阿弥陀如来」は、秘仏であり、「本堂」の内陣(「あかん堂」)に安置されたそうです。

    常照院 寺・神社・教会

  • 《常照院》境内風景…「常照院」は江戸時代には、初代から「市川団十郎家」の菩提寺でした。境内には、7代目団十郎が寄進した「手水鉢」などが残っています。ただし、現在は、「市川団十郎家」の墓地は「青山霊園」へ移転改葬されたそうです。

    《常照院》境内風景…「常照院」は江戸時代には、初代から「市川団十郎家」の菩提寺でした。境内には、7代目団十郎が寄進した「手水鉢」などが残っています。ただし、現在は、「市川団十郎家」の墓地は「青山霊園」へ移転改葬されたそうです。

    常照院 寺・神社・教会

  • 《常照院》境内風景…その他「常照院」には、「城木屋お駒」として名高い、「白子屋お熊」の墓があります。

    《常照院》境内風景…その他「常照院」には、「城木屋お駒」として名高い、「白子屋お熊」の墓があります。

    常照院 寺・神社・教会

  • 《常照院》境内風景…遺骨は、昭和9年(1934年)の墓地改葬に伴い、当院墓地の「無縁塔」に合祀されましたが、昭和61年(1986年)にお熊の二百六十回忌に伴い記念碑が建立されました。

    《常照院》境内風景…遺骨は、昭和9年(1934年)の墓地改葬に伴い、当院墓地の「無縁塔」に合祀されましたが、昭和61年(1986年)にお熊の二百六十回忌に伴い記念碑が建立されました。

    常照院 寺・神社・教会

  • 《常照院》境内風景…文政元年(1818年)七代目「市川團十郎」が寄贈した石造りの手水鉢です。

    《常照院》境内風景…文政元年(1818年)七代目「市川團十郎」が寄贈した石造りの手水鉢です。

    常照院 寺・神社・教会

  • 《源流院》山門付近…「常照院」の次は「源流院」です。「常照院」から「源流院」までは、徒歩1分95mほどの距離にあります。「増上寺」の参道までもどり、「増上寺」方面へ30mほど進むと右手に「源流院」の「山門」があります。

    《源流院》山門付近…「常照院」の次は「源流院」です。「常照院」から「源流院」までは、徒歩1分95mほどの距離にあります。「増上寺」の参道までもどり、「増上寺」方面へ30mほど進むと右手に「源流院」の「山門」があります。

  • 《源流院》山門付近…「源流院」は、浄土宗の寺院で、「増上寺」の子院です。実は、外観がマンション風で「山門」がなければ、気付かずに通り過ぎてしまうところでした。

    《源流院》山門付近…「源流院」は、浄土宗の寺院で、「増上寺」の子院です。実は、外観がマンション風で「山門」がなければ、気付かずに通り過ぎてしまうところでした。

  • 源流院》山門付近…「源流院」は、観智國師の「法流林應」が、「青山播磨守忠成」と共に江戸に来て、「林應庵」と名づけた庵室を創建しました。

    源流院》山門付近…「源流院」は、観智國師の「法流林應」が、「青山播磨守忠成」と共に江戸に来て、「林應庵」と名づけた庵室を創建しました。

  • 《源流院》本堂付近…「青山播磨守忠成」が「増上寺」の造営奉行となり、「増上寺」の芝への移転を終えた際に工事の余材を譲り受け「源流院」と号して建立したそうです。

    《源流院》本堂付近…「青山播磨守忠成」が「増上寺」の造営奉行となり、「増上寺」の芝への移転を終えた際に工事の余材を譲り受け「源流院」と号して建立したそうです。

  • 《源流院》境内風景…「源流院」は「日本近代初等教育発祥の地」でもあります。明治政府は教育の重要性に着目して、国民全員に教育を施す最初の近代教育制度である学制を明治5年(1872年)に制定しました。それに先立ち東京府では、明治3年(1870年)6月に6つの小学校を、「源流院」以下6ケ所の寺院に開校しました。

    《源流院》境内風景…「源流院」は「日本近代初等教育発祥の地」でもあります。明治政府は教育の重要性に着目して、国民全員に教育を施す最初の近代教育制度である学制を明治5年(1872年)に制定しました。それに先立ち東京府では、明治3年(1870年)6月に6つの小学校を、「源流院」以下6ケ所の寺院に開校しました。

  • 《源流院》境内風景…その第一校がこの地に造られました。まさに、教育の出発点ですね。「源流院」は江戸初期には、境内北辺の御成門東側(現在の芝公園1丁目1番)にあり、「小学第一校」はこの「源流院内」に創設されたそうです。

    《源流院》境内風景…その第一校がこの地に造られました。まさに、教育の出発点ですね。「源流院」は江戸初期には、境内北辺の御成門東側(現在の芝公園1丁目1番)にあり、「小学第一校」はこの「源流院内」に創設されたそうです。

  • 《源興院》「源流院」の次は「源興院」です。「源流院」から「源興院」までは、徒歩1分30mほどの距離にあります。「増上寺」の参道を「増上寺」方面へ30mほど進むと右手に「源興院」があります。

    《源興院》「源流院」の次は「源興院」です。「源流院」から「源興院」までは、徒歩1分30mほどの距離にあります。「増上寺」の参道を「増上寺」方面へ30mほど進むと右手に「源興院」があります。

  • 《源興院》「源興院」は、かつては「増上寺」の子院群の一つですが、現在は単立寺院の寺院です。

    《源興院》「源興院」は、かつては「増上寺」の子院群の一つですが、現在は単立寺院の寺院です。

  • 《源興院》私見ですが、一見すると普通の民家にしか見えません。

    《源興院》私見ですが、一見すると普通の民家にしか見えません。

  • 《源興院》「源興院」は「秀白」を開山上人としています。

    《源興院》「源興院」は「秀白」を開山上人としています。

  • 《源興院》創建年代は不詳ですが、「秀白」が死去したのが承応3年(1654年)ですので、それ以前と考えられています。

    《源興院》創建年代は不詳ですが、「秀白」が死去したのが承応3年(1654年)ですので、それ以前と考えられています。

  • 《廣度院》山門付近…「源興院」の次はすぐ隣にあるのが「廣度院」です。

    《廣度院》山門付近…「源興院」の次はすぐ隣にあるのが「廣度院」です。

    廣度院 寺・神社・教会

  • 《廣度院》山門付近「練塀」…「廣度院」は、浄土宗の寺院です。「廣度院」は徳川将軍家の菩提寺となった「増上寺」の子院の1つで、「酉譽聖聰上人」が「増上寺」を開山したときに別に一院を建てた山内最古の子院です。

    《廣度院》山門付近「練塀」…「廣度院」は、浄土宗の寺院です。「廣度院」は徳川将軍家の菩提寺となった「増上寺」の子院の1つで、「酉譽聖聰上人」が「増上寺」を開山したときに別に一院を建てた山内最古の子院です。

    廣度院 寺・神社・教会

  • 《廣度院》山門付近「練塀」…そのことを後世に伝えようと「國師存應上人」が「圓融」に命じて開創させたといわれています。

    《廣度院》山門付近「練塀」…そのことを後世に伝えようと「國師存應上人」が「圓融」に命じて開創させたといわれています。

    廣度院 寺・神社・教会

  • 《廣度院》山門付近「練塀」…御本尊は「聖聰上人」の不動明王像です。

    《廣度院》山門付近「練塀」…御本尊は「聖聰上人」の不動明王像です。

    廣度院 寺・神社・教会

  • 《廣度院》山門付近「練塀」…「広度院」の見どころは何と言っても、平成10年(1998年)12月11日に国の登録有形文化財(建造物)に指定された「表門」と「練塀」です。

    《廣度院》山門付近「練塀」…「広度院」の見どころは何と言っても、平成10年(1998年)12月11日に国の登録有形文化財(建造物)に指定された「表門」と「練塀」です。

    廣度院 寺・神社・教会

  • 《廣度院》境内「国の登録有形文化財プレート」…「表門」と「練塀」は、「増上寺」の参道の南面に建つ「表門」とその左右に延びる総延長41.6mの「練塀」です。

    《廣度院》境内「国の登録有形文化財プレート」…「表門」と「練塀」は、「増上寺」の参道の南面に建つ「表門」とその左右に延びる総延長41.6mの「練塀」です。

    廣度院 寺・神社・教会

  • 《廣度院》境内…国の登録有形文化財プレートには、「練塀」ン」造りが詳しく記載されていました。

    《廣度院》境内…国の登録有形文化財プレートには、「練塀」ン」造りが詳しく記載されていました。

    廣度院 寺・神社・教会

  • 《廣度院》境内「国の登録有形文化財プレート」…「表門」は、一間一戸、本瓦葺で、柱間が2.8m、高さが4.6mの堂々とした構えを見せる「薬医門」です。「練塀」は、低部に間知石を置き、芯柱を用いずに、瓦と土を交互に積み重ねて壁体とする構造で、上に瓦を葺いた塀をいい、現在では用いられることがないそうです。

    《廣度院》境内「国の登録有形文化財プレート」…「表門」は、一間一戸、本瓦葺で、柱間が2.8m、高さが4.6mの堂々とした構えを見せる「薬医門」です。「練塀」は、低部に間知石を置き、芯柱を用いずに、瓦と土を交互に積み重ねて壁体とする構造で、上に瓦を葺いた塀をいい、現在では用いられることがないそうです。

    廣度院 寺・神社・教会

  • 《廣度院》境内風景「花手水鉢」…土塀より強固にするために、間に瓦を挟み込んでいます。美観の観点から瓦の筋が見えるようにわざと瓦の縁を土より飛び出せている塀は、実に美しく、見応えがありました。

    《廣度院》境内風景「花手水鉢」…土塀より強固にするために、間に瓦を挟み込んでいます。美観の観点から瓦の筋が見えるようにわざと瓦の縁を土より飛び出せている塀は、実に美しく、見応えがありました。

    廣度院 寺・神社・教会

  • 《廣度院》境内風景…「薬医門」から境内に入ると思った以上に狭く、門を入ったらすぐ正面が「本堂」でした。

    《廣度院》境内風景…「薬医門」から境内に入ると思った以上に狭く、門を入ったらすぐ正面が「本堂」でした。

    廣度院 寺・神社・教会

  • 《廣度院》境内風景…境内には、「廣度院表門及び練塀」の国の登録有形文化財プレート、花手水鉢そして仏像が数体ありました。

    《廣度院》境内風景…境内には、「廣度院表門及び練塀」の国の登録有形文化財プレート、花手水鉢そして仏像が数体ありました。

    廣度院 寺・神社・教会

  • 《廣度院》「廣度院・練塀間知石」復元石積み…薬医門」を出て。「練塀」を右方向に回り込むと一番端に、「廣度院・練塀間知石」復元石積みとその説明板がありました。

    《廣度院》「廣度院・練塀間知石」復元石積み…薬医門」を出て。「練塀」を右方向に回り込むと一番端に、「廣度院・練塀間知石」復元石積みとその説明板がありました。

    廣度院 寺・神社・教会

  • 《廣度院》「廣度院・練塀間知石」復元石積み…工法等が歴史と共に詳しく書かれいます。

    《廣度院》「廣度院・練塀間知石」復元石積み…工法等が歴史と共に詳しく書かれいます。

    廣度院 寺・神社・教会

  • 《廣度院》「廣度院・練塀間知石」復元石積み…「練塀」の総延長は41.6mあるそうです。

    《廣度院》「廣度院・練塀間知石」復元石積み…「練塀」の総延長は41.6mあるそうです。

    廣度院 寺・神社・教会

  • 《常行院》外観…「観智院」の次は「常行院」です。「観智院」から「常行院」までは、徒歩1分110mほどの距離にあります。「天陽院」から「増上寺」方面へ40mほど進むと一つ目の角があります。そこを右折し、道なりに170mほど進むと右手手に「常行院」があります。

    《常行院》外観…「観智院」の次は「常行院」です。「観智院」から「常行院」までは、徒歩1分110mほどの距離にあります。「天陽院」から「増上寺」方面へ40mほど進むと一つ目の角があります。そこを右折し、道なりに170mほど進むと右手手に「常行院」があります。

  • 《常行院》外観…「常行院」は、浄土宗の寺院です。「遵譽大和尚」の招聘により下向してきた元天台僧の「戒順」が、当地に留錫して一院としたといわれています。

    《常行院》外観…「常行院」は、浄土宗の寺院です。「遵譽大和尚」の招聘により下向してきた元天台僧の「戒順」が、当地に留錫して一院としたといわれています。

  • 《常行院》外観…常行院」は、「増上寺」の法主が天台宗の僧侶をわざわざ招くにあたって創設された山内寺院だそうです。

    《常行院》外観…常行院」は、「増上寺」の法主が天台宗の僧侶をわざわざ招くにあたって創設された山内寺院だそうです。

  • 《常行院》内観…ちなみに、山内寺院というのは、大きなお寺の境内にある小さなお寺のことで、長老僧侶の居室である「方丈」、僧侶の学問寄宿所である「学寮」等など、それぞれが独自の役割と由来を持っています。

    《常行院》内観…ちなみに、山内寺院というのは、大きなお寺の境内にある小さなお寺のことで、長老僧侶の居室である「方丈」、僧侶の学問寄宿所である「学寮」等など、それぞれが独自の役割と由来を持っています。

  • 《常行院》内観…「常行院」には向かって右手に「納骨堂」があり、令和4年(2022年)2月17日に国の登録有形文化財(建造物)に指定されています。

    《常行院》内観…「常行院」には向かって右手に「納骨堂」があり、令和4年(2022年)2月17日に国の登録有形文化財(建造物)に指定されています。

  • 《常行院》内観…「納骨堂」は、鉄筋コンクリート造りで、内部は一室で地下に納骨棚を備え、重厚な近代仏堂という感じでした。これ以外は、注目すべきものはありませんでした。

    《常行院》内観…「納骨堂」は、鉄筋コンクリート造りで、内部は一室で地下に納骨棚を備え、重厚な近代仏堂という感じでした。これ以外は、注目すべきものはありませんでした。

  • 《観智院》「廣度院」の次は「観智院」です。「廣度院」から「観智院」までは、徒歩3分190mほどの距離にあります。「天陽院」から大門方面へ50mほど戻ると一つ目の角があります。そこを右折し、道なりに140mほど進むと右手に「観智院」があります。

    《観智院》「廣度院」の次は「観智院」です。「廣度院」から「観智院」までは、徒歩3分190mほどの距離にあります。「天陽院」から大門方面へ50mほど戻ると一つ目の角があります。そこを右折し、道なりに140mほど進むと右手に「観智院」があります。

  • 《観智院》「観智院」は、浄土宗の寺院で、「増上寺」の子院の一つです。

    《観智院》「観智院」は、浄土宗の寺院で、「増上寺」の子院の一つです。

  • 《観智院》「観智院」は、戦国時代末期に開祖「徹公上人」が武蔵野国箕田の郷に一院を構え「誠諦院」と号して創建しました。

    《観智院》「観智院」は、戦国時代末期に開祖「徹公上人」が武蔵野国箕田の郷に一院を構え「誠諦院」と号して創建しました。

  • 《観智院》慶長3年(1598年)に「増上寺」の子院となりました。

    《観智院》慶長3年(1598年)に「増上寺」の子院となりました。

  • 《観智院》子院になった背景には、「徳川家康」が「増上寺」を建立し「観智国師」を迎え、その当時の庵主「吟察上人」が「観智国師」に深く帰依してその子院の一つに列しました。

    《観智院》子院になった背景には、「徳川家康」が「増上寺」を建立し「観智国師」を迎え、その当時の庵主「吟察上人」が「観智国師」に深く帰依してその子院の一つに列しました。

  • 《観智院》やがて「観智国師」が隠棲したことから、その院号を「普光院」さらに「観智院」と改称しました。

    《観智院》やがて「観智国師」が隠棲したことから、その院号を「普光院」さらに「観智院」と改称しました。

  • 《観智院》江戸時代には大本山塔頭寺院、また、諸大名の宿坊、勅使接待所にも当てられた由緒格式あり寺院です。特に浅野家ゆかりの寺だったので、歌舞伎「忠臣蔵」の舞台にも登場する由緒あるお寺です。

    《観智院》江戸時代には大本山塔頭寺院、また、諸大名の宿坊、勅使接待所にも当てられた由緒格式あり寺院です。特に浅野家ゆかりの寺だったので、歌舞伎「忠臣蔵」の舞台にも登場する由緒あるお寺です。

    観智院 寺・神社・教会

  • 《おもてなしの日本庭園》「常行院」から「芝公園おもてなしの日本庭園」までは、徒歩2分140mほどの距離にあります。「常行院」から右方向に50mほど進むと「増上寺」の参道になります。その角に「ファミリーマート 芝増上寺前店」がありますので、そこを左折し30mほど進むと信号(表示名「増上寺前」)があります。そこを右折し横断歩道を渡ると「芝公園おもてなしの日本庭園」

    《おもてなしの日本庭園》「常行院」から「芝公園おもてなしの日本庭園」までは、徒歩2分140mほどの距離にあります。「常行院」から右方向に50mほど進むと「増上寺」の参道になります。その角に「ファミリーマート 芝増上寺前店」がありますので、そこを左折し30mほど進むと信号(表示名「増上寺前」)があります。そこを右折し横断歩道を渡ると「芝公園おもてなしの日本庭園」

  • 《おもてなしの日本庭園》「芝公園おもてなしの日本庭園」は、「港区区役所」の前の「芝公園6号地」と「芝公園8号地」にまたがってあります。

    《おもてなしの日本庭園》「芝公園おもてなしの日本庭園」は、「港区区役所」の前の「芝公園6号地」と「芝公園8号地」にまたがってあります。

  • 《おもてなしの日本庭園》「芝公園おもてなしの日本庭園」は、「東京2020オリンピック・パラリンピック」の開催にあわせ、東京を訪れる国内外の人々を花と緑でおもてなしをし、都民との交流の場となることを目的とすることをコンセプトに造られ、2021年5月24日(月)に完成記念式典が行われました。

    《おもてなしの日本庭園》「芝公園おもてなしの日本庭園」は、「東京2020オリンピック・パラリンピック」の開催にあわせ、東京を訪れる国内外の人々を花と緑でおもてなしをし、都民との交流の場となることを目的とすることをコンセプトに造られ、2021年5月24日(月)に完成記念式典が行われました。

  • 《おもてなしの日本庭園》「芝公園おもてなしの日本庭園」は、和モダンな「はなやぎの庭」と、伝統の技を駆使した「逍遥の庭」という2つのゾーンに分かれています。

    《おもてなしの日本庭園》「芝公園おもてなしの日本庭園」は、和モダンな「はなやぎの庭」と、伝統の技を駆使した「逍遥の庭」という2つのゾーンに分かれています。

  • 《おもてなしの日本庭園》いずれの庭も、「増上寺三解脱」、「東京タワー」という東京ならではの借景を生かしながら、どの角度から見ても美しい景観となるよう計算されているそうです。

    《おもてなしの日本庭園》いずれの庭も、「増上寺三解脱」、「東京タワー」という東京ならではの借景を生かしながら、どの角度から見ても美しい景観となるよう計算されているそうです。

  • 《おもてなしの日本庭園》東京、長野、滋賀の3人の名工が親方となり、1級造園技能士、日本庭園士補など総勢50名以上が全国各地から集まって、庭づくりを行いました。「はなやぎの庭」と「逍遥の庭」には、8つの見どころがあります。

    《おもてなしの日本庭園》東京、長野、滋賀の3人の名工が親方となり、1級造園技能士、日本庭園士補など総勢50名以上が全国各地から集まって、庭づくりを行いました。「はなやぎの庭」と「逍遥の庭」には、8つの見どころがあります。

  • 《おもてなしの日本庭園》ちなみに、「おもてなしの庭」は、「芝公園おもてなしの日本庭園」ほか4か所あります。

    《おもてなしの日本庭園》ちなみに、「おもてなしの庭」は、「芝公園おもてなしの日本庭園」ほか4か所あります。

  • 《おもてなしの日本庭園》中央区にある「京橋大根河岸おもてなしの庭」、千代田区にある「日比谷公園おもてなしのバラ園」、目黒区にある「東京音楽大学みどりの鎌倉街道」、台東区にある「江戸ルネサンス伝統と文化が薫るおもてなし」です。時間があれば、どのような工夫が凝らしてあるか見に行きたいと思います。

    《おもてなしの日本庭園》中央区にある「京橋大根河岸おもてなしの庭」、千代田区にある「日比谷公園おもてなしのバラ園」、目黒区にある「東京音楽大学みどりの鎌倉街道」、台東区にある「江戸ルネサンス伝統と文化が薫るおもてなし」です。時間があれば、どのような工夫が凝らしてあるか見に行きたいと思います。

  • 《おもてなしの日本庭園》東京、長野、滋賀の3人の名工が親方となり、1級造園技能士、日本庭園士補など総勢50名以上が全国各地から集まって、庭づくりを行いました。

    《おもてなしの日本庭園》東京、長野、滋賀の3人の名工が親方となり、1級造園技能士、日本庭園士補など総勢50名以上が全国各地から集まって、庭づくりを行いました。

  • 《おもてなしの日本庭園》「はなやぎの庭」(芝公園8号地側)にある古い家屋の瓦を再利用している「うろこ垣」です。

    《おもてなしの日本庭園》「はなやぎの庭」(芝公園8号地側)にある古い家屋の瓦を再利用している「うろこ垣」です。

  • 《おもてなしの日本庭園》うろこ垣」の瓦は1枚ずつ反り方が異なるため、水平に積み上げるには高度な技術が必要です。

    《おもてなしの日本庭園》うろこ垣」の瓦は1枚ずつ反り方が異なるため、水平に積み上げるには高度な技術が必要です。

  • 《おもてなしの日本庭園》】芝公園8号地(臥龍垣)長さ19mの「臥龍垣」。雄大な龍の姿をイメージしています。

    《おもてなしの日本庭園》】芝公園8号地(臥龍垣)長さ19mの「臥龍垣」。雄大な龍の姿をイメージしています。

  • 《おもてなしの日本庭園「臥龍垣」は、雄大な龍の姿をイメージしています。

    《おもてなしの日本庭園「臥龍垣」は、雄大な龍の姿をイメージしています。

  • 《おもてなしの日本庭園》「臥龍垣」には、1本の竹を64等分し、また合わせるという熟練の技で、逆立つ龍のうろこを表現するため、あえて継ぎ目が見えるよう竹をつなだそうです。

    《おもてなしの日本庭園》「臥龍垣」には、1本の竹を64等分し、また合わせるという熟練の技で、逆立つ龍のうろこを表現するため、あえて継ぎ目が見えるよう竹をつなだそうです。

  • 《おもてなしの日本庭園》「臥龍垣」には、1本の竹を64等分し、また合わせるという熟練の技で、逆立つ龍のうろこを表現するため、あえて継ぎ目が見えるよう竹をつなだそうです。

    《おもてなしの日本庭園》「臥龍垣」には、1本の竹を64等分し、また合わせるという熟練の技で、逆立つ龍のうろこを表現するため、あえて継ぎ目が見えるよう竹をつなだそうです。

  • 《おもてなしの日本庭園》芝公園8号地日陰の多い「はなやぎの庭」には、白い石を配して明るさを演出しています。

    《おもてなしの日本庭園》芝公園8号地日陰の多い「はなやぎの庭」には、白い石を配して明るさを演出しています。

  • 《おもてなしの日本庭園》使われている石は、栃木県鹿沼市産の「深岩石」です。

    《おもてなしの日本庭園》使われている石は、栃木県鹿沼市産の「深岩石」です。

  • 《おもてなしの日本庭園》「逍遥の庭」(芝公園6号地側)にある富士山を模した小さな築山の「富士の庭」です。

    《おもてなしの日本庭園》「逍遥の庭」(芝公園6号地側)にある富士山を模した小さな築山の「富士の庭」です。

  • 《おもてなしの日本庭園》富士山を模した小さな築山の裾野には、黒ぼく石を使ってあります。

    《おもてなしの日本庭園》富士山を模した小さな築山の裾野には、黒ぼく石を使ってあります。

  • 《おもてなしの日本庭園》溶岩を表現した枯れ流れとなっています。

    《おもてなしの日本庭園》溶岩を表現した枯れ流れとなっています。

  • 《おもてなしの日本庭園》「逍遥の庭」(芝公園6号地側)にある品川の海面を表現した「市松模様の敷石」です。

    《おもてなしの日本庭園》「逍遥の庭」(芝公園6号地側)にある品川の海面を表現した「市松模様の敷石」です。

  • 《おもてなしの日本庭園》「逍遥の庭」(芝公園6号地側)にある「市松模様の敷石」と寄せる波を表現「金閣寺垣」(奥)です。

    《おもてなしの日本庭園》「逍遥の庭」(芝公園6号地側)にある「市松模様の敷石」と寄せる波を表現「金閣寺垣」(奥)です。

  • 《おもてなしの日本庭園》市松模様の敷石はキラキラと輝く品川の海面をだそうです。

    《おもてなしの日本庭園》市松模様の敷石はキラキラと輝く品川の海面をだそうです。

  • 《おもてなしの日本庭園》芝公園6号地には、小窓から庭を眺めるしかけあります。

    《おもてなしの日本庭園》芝公園6号地には、小窓から庭を眺めるしかけあります。

  • 《おもてなしの日本庭園》子どもや車いすの方も楽しめるよう、低い位置にも窓を設置してあります。

    《おもてなしの日本庭園》子どもや車いすの方も楽しめるよう、低い位置にも窓を設置してあります。

  • 《おもてなしの日本庭園》中央の窓からはかわいらしいカニの親子の姿が見えます。

    《おもてなしの日本庭園》中央の窓からはかわいらしいカニの親子の姿が見えます。

  • 《おもてなしの日本庭園》ハーブが植えられた香りの石山である「みな庭」です。

    《おもてなしの日本庭園》ハーブが植えられた香りの石山である「みな庭」です。

  • 《おもてなしの日本庭園》景観だけでなく香りも楽しめる工夫です。

    《おもてなしの日本庭園》景観だけでなく香りも楽しめる工夫です。

  • 《芝公園 松原の復元碑》「松原の復元碑」は「芝公園おもてなしの日本庭園」の中にあります。「石積とよろい垣」で装飾された「庭門」をくぐると左手にあります。

    《芝公園 松原の復元碑》「松原の復元碑」は「芝公園おもてなしの日本庭園」の中にあります。「石積とよろい垣」で装飾された「庭門」をくぐると左手にあります。

    芝公園 公園・植物園

  • 《芝公園 松原の復元碑》説明板…かつて江戸時代には、「増上寺三門」前に位置するあたりは美しい松並木で「松原」と呼ばれていました。

    《芝公園 松原の復元碑》説明板…かつて江戸時代には、「増上寺三門」前に位置するあたりは美しい松並木で「松原」と呼ばれていました。

    常夜燈 名所・史跡

  • 《芝公園 松原の復元碑》説明板…このような松並木を造成したのは二つの説があります。一つは、寛永17年(1640年)に、「増上寺」の20世「大僧正南誉上人」のとき、幕命によって三門の左右に松を植えつけたことに始まったという説です。

    《芝公園 松原の復元碑》説明板…このような松並木を造成したのは二つの説があります。一つは、寛永17年(1640年)に、「増上寺」の20世「大僧正南誉上人」のとき、幕命によって三門の左右に松を植えつけたことに始まったという説です。

    常夜燈 名所・史跡

  • 《芝公園 松原の復元碑》もう一方は、青山家藩士の植樹で百年松原と称したことによるものだそうです。

    《芝公園 松原の復元碑》もう一方は、青山家藩士の植樹で百年松原と称したことによるものだそうです。

    常夜燈 名所・史跡

  • 《常夜燈》「首提灯」増上寺に向かって右側…「芝公園おもてなしの日本庭園」の次は「首提灯」です。「芝公園おもてなしの日本庭園」の出入口まで戻ると、「増上寺」の「三解脱門」の手前の参道の両側に「常夜燈」があります。「芝公園おもてなしの日本庭園」から「首提灯」までは徒歩2分140mほどの距離のところにあります。

    《常夜燈》「首提灯」増上寺に向かって右側…「芝公園おもてなしの日本庭園」の次は「首提灯」です。「芝公園おもてなしの日本庭園」の出入口まで戻ると、「増上寺」の「三解脱門」の手前の参道の両側に「常夜燈」があります。「芝公園おもてなしの日本庭園」から「首提灯」までは徒歩2分140mほどの距離のところにあります。

    常夜燈 名所・史跡

  • 《常夜燈》「首提灯」説明板(増上寺に向かって右側)…「増上寺」の「三解脱門」の手前の参道の両側(芝公園8号地と10号地の間)には、それぞれ「常夜灯」が一基ずつあります。

    《常夜燈》「首提灯」説明板(増上寺に向かって右側)…「増上寺」の「三解脱門」の手前の参道の両側(芝公園8号地と10号地の間)には、それぞれ「常夜灯」が一基ずつあります。

    常夜燈 名所・史跡

  • 《常夜燈》「首提灯」増上寺に向かって右側…「三解脱門」に向かって右手の「常夜燈」は、説明板にあの落語で有名な「首提灯」という説明板です。

    《常夜燈》「首提灯」増上寺に向かって右側…「三解脱門」に向かって右手の「常夜燈」は、説明板にあの落語で有名な「首提灯」という説明板です。

    常夜燈 名所・史跡

  • 《常夜燈》「首提灯」増上寺に向かって右側…この燈籠は昔からあるものではなく、江戸時代の風情を演出するためのオブジェだそうです。

    《常夜燈》「首提灯」増上寺に向かって右側…この燈籠は昔からあるものではなく、江戸時代の風情を演出するためのオブジェだそうです。

    常夜燈 名所・史跡

  • 《常夜燈》「増上寺」に向かって左側…「三解脱門」に向かって左手の「常夜燈」は江戸風情を醸し出すための「常夜燈」で、その説明板がありました。

    《常夜燈》「増上寺」に向かって左側…「三解脱門」に向かって左手の「常夜燈」は江戸風情を醸し出すための「常夜燈」で、その説明板がありました。

    常夜燈 名所・史跡

  • 《常夜燈》「増上寺」に向かって左側…説明文…ちなみに、落語の「首提灯」は、金が入って品川宿のなじみの女の所へ遊びに行く途中の芝山内の追いはぎの出るというさみしい所へさしかかった時に、酒に酔った町人が武士に道を聞かれます。酩酊している町人は相手を田舎侍とみてさんざん悪態をつき、侍を侮辱しました。

    《常夜燈》「増上寺」に向かって左側…説明文…ちなみに、落語の「首提灯」は、金が入って品川宿のなじみの女の所へ遊びに行く途中の芝山内の追いはぎの出るというさみしい所へさしかかった時に、酒に酔った町人が武士に道を聞かれます。酩酊している町人は相手を田舎侍とみてさんざん悪態をつき、侍を侮辱しました。

    常夜燈 名所・史跡

  • 《常夜燈》「増上寺」に向かって左側…挙句の果てに、男は図に乗って再度、痰を侍に浴びせました。これが侍の羽織にかかりました。殿様から拝領した大事な羽織を侮辱され、堪忍袋の緒が切れた侍は、腰をひねって抜き手も見せない居合腰で、男の首を斬って、そのまま立ち去りました。

    《常夜燈》「増上寺」に向かって左側…挙句の果てに、男は図に乗って再度、痰を侍に浴びせました。これが侍の羽織にかかりました。殿様から拝領した大事な羽織を侮辱され、堪忍袋の緒が切れた侍は、腰をひねって抜き手も見せない居合腰で、男の首を斬って、そのまま立ち去りました。

    常夜燈 名所・史跡

  • 《常夜燈》「増上寺」に向かって左側…その切り方があまりにも見事であったので、酔っぱらいの町人は首を切られたことに気がつきませんでした。そこに近くで火事があり前方で半鐘の音が鳴り響きました。町人は自分の首をひょいと差し上げると提灯がわりして、人ごみを駆け抜けて行くというお話です。

    《常夜燈》「増上寺」に向かって左側…その切り方があまりにも見事であったので、酔っぱらいの町人は首を切られたことに気がつきませんでした。そこに近くで火事があり前方で半鐘の音が鳴り響きました。町人は自分の首をひょいと差し上げると提灯がわりして、人ごみを駆け抜けて行くというお話です。

    常夜燈 名所・史跡

  • 《芝公園10号地》「遣米使節記念碑(日米修好通商条約)」…「首提灯」の次は「遣米使節記念碑(日米修好通商条約)」です。「首提灯」から「遣米使節記念碑(日米修好通商条約)」までは、徒歩1分60mほどの距離のところにあります。すぐそばに「芝公園10号地」の出入口がるので、公園の中の小道を50mほど進むと右手に、「遣米使節記念碑(日米修好通商条約)」があります。

    《芝公園10号地》「遣米使節記念碑(日米修好通商条約)」…「首提灯」の次は「遣米使節記念碑(日米修好通商条約)」です。「首提灯」から「遣米使節記念碑(日米修好通商条約)」までは、徒歩1分60mほどの距離のところにあります。すぐそばに「芝公園10号地」の出入口がるので、公園の中の小道を50mほど進むと右手に、「遣米使節記念碑(日米修好通商条約)」があります。

    万延元年 遣米使節記念碑 名所・史跡

  • 《芝公園10号地》「遣米使節記念碑(日米修好通商条約)」…「万延元年遣米使節記念碑」は、昭和35年(1960年)の「日米修好通商条約100周年」を記念して、「ペルリ提督像」とともに、昭和35(1960)年6月に「芝公園10号地」の一角に、「日米修好通商百年記念行事運営会」によって建立されました。

    《芝公園10号地》「遣米使節記念碑(日米修好通商条約)」…「万延元年遣米使節記念碑」は、昭和35年(1960年)の「日米修好通商条約100周年」を記念して、「ペルリ提督像」とともに、昭和35(1960)年6月に「芝公園10号地」の一角に、「日米修好通商百年記念行事運営会」によって建立されました。

    万延元年 遣米使節記念碑 名所・史跡

  • 《芝公園10号地》「遣米使節記念碑(日米修好通商条約)」…江戸幕府は、万延元年(1860年) 2月13日に、「日米修好通商条約」の批准書交換のため,外国奉行「新見正興」を正使とする使節団をアメリカに派遣しました。この使節が「万延元年遣米使節」と呼ばれています。

    《芝公園10号地》「遣米使節記念碑(日米修好通商条約)」…江戸幕府は、万延元年(1860年) 2月13日に、「日米修好通商条約」の批准書交換のため,外国奉行「新見正興」を正使とする使節団をアメリカに派遣しました。この使節が「万延元年遣米使節」と呼ばれています。

    万延元年 遣米使節記念碑 名所・史跡

  • 《芝公園10号地》「万延元年遣米使節」は、アメリカ軍艦「ポーハタン号」に乗船してアメリカに向かい、ワシントンに到着したのは万延元年(1860年) 5月で、「新見正興」らはそこで「ブキャナン大統領」に謁見し,国務長官との間で批准書を交換しました。「万延元年遣米使節」は、役人17名、従者51名、賄方6名の総勢77名でした。

    《芝公園10号地》「万延元年遣米使節」は、アメリカ軍艦「ポーハタン号」に乗船してアメリカに向かい、ワシントンに到着したのは万延元年(1860年) 5月で、「新見正興」らはそこで「ブキャナン大統領」に謁見し,国務長官との間で批准書を交換しました。「万延元年遣米使節」は、役人17名、従者51名、賄方6名の総勢77名でした。

    万延元年 遣米使節記念碑 名所・史跡

  • 《芝公園10号地》「万延元年遣米使節」一行の乗船したアメリカ軍艦「ポーハタン号」の警護を名目に、幕府海軍の操船技術を試すため、日本軍艦として初めて太平洋を横断したのが、「勝海舟」を艦長とする「咸臨丸」でした。ちなみに「咸臨丸」の咸臨は中国の古典から取った言葉で、「君臣互いに親しみ厚く、情をもって協力し合う」という意味だそうです。

    《芝公園10号地》「万延元年遣米使節」一行の乗船したアメリカ軍艦「ポーハタン号」の警護を名目に、幕府海軍の操船技術を試すため、日本軍艦として初めて太平洋を横断したのが、「勝海舟」を艦長とする「咸臨丸」でした。ちなみに「咸臨丸」の咸臨は中国の古典から取った言葉で、「君臣互いに親しみ厚く、情をもって協力し合う」という意味だそうです。

    万延元年 遣米使節記念碑 名所・史跡

  • 《芝公園10号地》「遣米使節記念碑(日米修好通商条約)」…「勝海舟」はアメリカで砲台、ガス灯、病院、印刷、製鉄所、武器庫などを視察して最先端の文化や技術を見聞しただけでなく、大統領や政府高官・議員が選挙によって選ばれる政治制度にも強い感銘を受けたそうです。

    《芝公園10号地》「遣米使節記念碑(日米修好通商条約)」…「勝海舟」はアメリカで砲台、ガス灯、病院、印刷、製鉄所、武器庫などを視察して最先端の文化や技術を見聞しただけでなく、大統領や政府高官・議員が選挙によって選ばれる政治制度にも強い感銘を受けたそうです。

    万延元年 遣米使節記念碑 名所・史跡

  • 《芝公園10号地》「遣米使節記念碑(日米修好通商条約)」…「万延元年遣米使節記念碑」の右前には、令和2年(2020年)に「万延元年遣米使節子孫の会」から東京都へ「万延元年遣米使節記念碑」の英語訳説明板が寄贈され、設置されました。

    《芝公園10号地》「遣米使節記念碑(日米修好通商条約)」…「万延元年遣米使節記念碑」の右前には、令和2年(2020年)に「万延元年遣米使節子孫の会」から東京都へ「万延元年遣米使節記念碑」の英語訳説明板が寄贈され、設置されました。

    万延元年 遣米使節記念碑 名所・史跡

  • 《芝公園10号地》「ペルリ提督の像」…「ペルリ提督の像」は、相対するように「遣米使節記念碑(日米修好通商条約)」の反対側にあります。

    《芝公園10号地》「ペルリ提督の像」…「ペルリ提督の像」は、相対するように「遣米使節記念碑(日米修好通商条約)」の反対側にあります。

    ペルリ提督の像 名所・史跡

  • 《芝公園10号地》「ペルリ提督の像」…「ペルリ提督の像」は、昭和28年(1953年)に、「開国百年祭」のときに、「ペリー提督」の出身地であるアメリカ合衆国のロードアイランド州ニューポート市に「石灯籠」を贈り、その返礼として東京都へ親善の印に贈られた像です。

    《芝公園10号地》「ペルリ提督の像」…「ペルリ提督の像」は、昭和28年(1953年)に、「開国百年祭」のときに、「ペリー提督」の出身地であるアメリカ合衆国のロードアイランド州ニューポート市に「石灯籠」を贈り、その返礼として東京都へ親善の印に贈られた像です。

    ペルリ提督の像 名所・史跡

  • 《芝公園10号地》「ペルリ提督の像」…ちなみに、「ペルリ」はオランダ語読みで、英語では「ペリー」と発音します。ペリーが艦隊を率いて嘉永7年(1854年)に2度目となる浦賀に来航したときに、日本側の通訳がオランダ語で対応したため、オランダ語訳の「ペルリ」となったようです。

    《芝公園10号地》「ペルリ提督の像」…ちなみに、「ペルリ」はオランダ語読みで、英語では「ペリー」と発音します。ペリーが艦隊を率いて嘉永7年(1854年)に2度目となる浦賀に来航したときに、日本側の通訳がオランダ語で対応したため、オランダ語訳の「ペルリ」となったようです。

    ペルリ提督の像 名所・史跡

  • 《芝公園10号地》「ペルリ提督の像」…「ペルリ提督の像」の制作者は、有名なアーリントン国立墓地にある「海兵隊戦争記念碑」で有名な彫刻家「フェリックス・ド・ウエルドン」です。昭和20年(1945年)2月の硫黄島の戦いで、6人の海兵隊員が摺鉢山の頂上に星条旗を立てる様子を「ジョー・ローゼンタール」が撮影した写真を元にして、「フェリックス・ド・ウエルドン」が制作したものです。

    《芝公園10号地》「ペルリ提督の像」…「ペルリ提督の像」の制作者は、有名なアーリントン国立墓地にある「海兵隊戦争記念碑」で有名な彫刻家「フェリックス・ド・ウエルドン」です。昭和20年(1945年)2月の硫黄島の戦いで、6人の海兵隊員が摺鉢山の頂上に星条旗を立てる様子を「ジョー・ローゼンタール」が撮影した写真を元にして、「フェリックス・ド・ウエルドン」が制作したものです。

    ペルリ提督の像 名所・史跡

13いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

この旅行で行ったスポット

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

この旅行記の地図

拡大する

価格.com旅行・トラベルホテル・旅館を比較

PAGE TOP