2024/09/28 - 2024/09/28
698位(同エリア14594件中)
松本伸雄さん
将軍の日光参詣(日光社参という)の宿泊所
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昔どおりの位置、規模、構造を基本に土塁、堀、櫓、築地塀を復元しました
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川越城や忍城とともに「関東七名城」の一つ宇都宮城
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復元富士見櫓は木造二重で本瓦葺、壁は白漆喰塗、高さは約10m
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本丸土塁は45~50°の急斜面です
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赤線内を復元です。平安時代に築かれ、江戸末期まで900年に渡って重要な役割をはたした
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屏風折りの屈曲がつけられている。
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土塀の材料の土は栃木市、藁は宇都宮市、石灰は佐野市と地元産材料を使用
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小田原平定後の1590年(天正18)秀吉は宇都宮城にしばらく滞在している。秀吉はこの城で支配下においた関東・東北の大名配置を決めたのだ。これを宇都宮仕置と呼ぶ。徳川家康や伊達政宗など、東国の名だたる大名か宇都宮城を訪れ、秀吉に今後の領地を決められてる
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1616年(元和2)に家康が亡くなると日光山に家康廟として東照宮が造られることになった。このときの奉行が、本多正純であった。翌年には秀忠が日光社参のため宇都宮城に宿泊している。これ以降、将軍家の日光社参では主に宇都宮城が宿泊所として用いられるようになる。
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鉄砲狭間が54か所
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矢狭間が26か所有る
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1622年(元和8)、またしても宇都宮城主を不幸が襲う。日光社参の帰りに宇都宮城へと向かうはずだった秀忠が、急遽行程を変えてしまったのだ。その後、本多氏は取り潰され、正純は流罪になった。正純の失脚の理由は諸説あるが、正純が城に吊天井を仕掛け、天井を落として秀忠を暗殺しようとしたとの噂が流布したためともいう。吊天井はなかった、徳川家康の長女、亀姫・・・
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本丸の南西部にあった櫓で、遠く富士山が望めた
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富士見櫓の模型
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ニ階には上がれないです
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土塁にエレベーターが有るのにビックリ ポン
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清明台は本丸の北西部にあり、天守の代用となる櫓であった
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復元櫓は木造二重で本瓦葺、壁は白漆喰塗、高さは富士見櫓と同じく、約10mである
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鉄砲狭間
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窓から覗く。徳川吉宗の日光社参では、13万3千人の行列になったそうです。通過するのに10時間以上かかったそうです
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土塀の屋根は本瓦葺き
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柱は青森産のヒバだが、内装用木材の8割を栃木県産の檜・杉・松を使用
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幕末、新政府軍と旧幕府軍との間で戊辰戦争が起こる。その中でも主力部隊は日光を目指して北上した大鳥圭介が率いる旧幕府の軍勢だった。大鳥の軍に参謀として新選組副長の土方歳三も参加している。
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将軍が宿泊する御成御殿があった
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五城印の券売機は、初めてみました
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この戦いにより宇都宮城と2400もの家屋が焼失、300名の死傷者を出しただけでなく、一万人を超える被災者を出した
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桃太郎の山車
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宇都宮のお祭り
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厚さ30cmの土塀の内側 おわり
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