2019/11/07 - 2019/11/07
1760位(同エリア2512件中)
ぴよ太さん
2日目。脳内に貧乏性を飼っているのでスケジュールの余白が許せず、これまでの私の旅は常に予定みっちり、食事なんかそっちのけで観光しまくるガツガツ旅でした。
それなのに今回、何をとち狂ったのか「暮らすように旅をする」というのに憧れてしまい、これまでにないゆったり旅を計画しました。
朝はゆっくり目の出発で、気合を入れて見学するのは一日一ヶ所に絞り、目指すはカフェに寄ったりのんびり散策を楽しんだりするエレガントな大人旅。
初日の昨日は肉体を酷使する、ゆったりとは程遠い内容になってしまいましたが、今日以降は大人のオシャレ旅になるハズと思っていました…
が、朝起きる前から、ふくらはぎが強烈な筋肉痛。出発前に治ったハズだった鼻と喉もすごく乾燥していてちょっと痛い…筋肉痛と喉の痛み…全然エレガントじゃないよ~
この日はアイゼナハからベルリンへ移動して、プレンツラウアー・ベルク地区にある博物館「Alltag in der DDR(東ドイツの日常)」を見学、暗くなってからは、アレクサンダー広場で壁崩壊30周年イベントの一つであるプロジェクションマッピングを見ました。
表紙の写真は、プレンツラウアー・ベルク地区にあったオシャレなランプショップ。
今回の日程(☆印が旅行記の内容です)
11月 6日 羽田→フランクフルト→アイゼナハ
7日 アイゼナハ→ベルリン ☆
8日~11日 ベルリン
12日 ベルリン→ポツダム
13日 ポツダム
14日 ポツダム→ベルリン
15日 ベルリン→リューベック
16日 リューベック
17日 リューベック→ハンブルク
18日 ハンブルク→マールブルク
19日 マールブルク→フランクフルト→羽田
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
痛む体(←筋肉痛)とスーツケースを引きずりながら、ホテルからアイゼナハ駅へ向かいます。
昨日のプチ登山とバッハハウスでの肉体労働(?)が相当効いているようです。 -
今日は秋晴れのとってもいい天気!
空気も乾燥していて爽やか、だけど病み上がりの喉にはダメージ大なので、日本から持ってきたトローチとのど飴が手放せません。 -
この電車の後に来たICEでベルリンへ向かいました。
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街を離れるとすぐに長閑な風景が広がります。
-
で、到着したベルリン中央駅でさっそくサービス砂漠の洗礼を受けました。
ベルリン中央駅は、ICE(ドイツ版新幹線)のホームが地下にあるのですが、なんとこの時、ホームから地上に上がるエスカレーターが4ヶ所全て停止していました。
海外に行って、あまり日本と比べるのはちょっとと常々思ってはいますが、ベルリンの壁崩壊30周年のイベントで観光客が特に多い期間で、街を挙げてウェルカムな雰囲気を出しているのにこの対応。一ヶ所でいいから動かしておいておくれよ…日本では考えられな(自粛)…だからサービス砂漠って言われるんじゃ…(小声)
写真はお花屋さんの店頭です。荒んだ心を癒してくれました。 -
それ以外に地上階に行く手段としては、階段とエレベーターがありましたが、筋肉痛と重たい荷物があるので階段は速攻で却下。
エレベーターは定員が6~7名くらいのそんなに大きくないものが3基で、一応全て稼働してはいました。
ですが、これらを使用するような乗客は大体みんな大きな荷物を持っているので、頑張って詰め込んでも一度に3~4人しか乗ることができません。
そうは言っても他に方法もないので、そのうちの1基に並びました。
動いているエスカレーターを探して長いホームをウロウロしたので、列の最後尾に並ぶことになってしまいましたが、私はこのあと乗り換えがある訳でないし気長に待つか…と早々に諦め大人しく待っていました。
ところが、どうも様子がおかしいのです。
いくらなんでも列が進まな過ぎる。
不思議に思って列の前方をよくよく見ていると…
は?←気付き は??←観察 はああああ~~~???!!!←理解
その理由が分かった時は、怒るより前に驚愕しました。
アジア系観光客(たぶん)一家がアトラクション代わりにこのエレベーターを利用(シースルーのエレベーターなので外が見える)しているらしく、ひたすら上ったり下りたりを繰り返しており、エレベーターから全く降りる気配がないのです。
そのため他の乗客は多くて2人、荷物が大きかったりすると1人しか乗れていない状況だったのです。そりゃあ進まない訳だわ…
すぐにでもこの方々を引き摺り…じゃなくて穏便に降りていただきたい気持ちになりましたが、周囲の人々は彼らを咎めるでもなくひたすら従順に待っているし、私もゆったり旅を嗜む寛容な大人ですから……ここにはさっさと見切りをつけて他に並び直しました。 -
結局、エレベーターに乗れたのは、列車到着の30分ほど後のことでした。
唯一の救いは、その間、同じホームに到着する列車がなかったことでしょうか。
もし日本のようにガンガン後続列車が来ていたら、ホームの上はちょっとしたカオスになっていたと思います。 -
地上階に上がってからは、ベルリンカードを購入するために、観光案内所でこちらも長蛇の列に並んだり、DB(ドイツ鉄道)の窓口で後日訪問する「Little Big City Berlin」というミニチュアパークの割引チケットを購入したり(そして窓口のスタッフはそのチケットの存在を知らなかったので、ここでも説明に手間取る…結局、買えましたが)。
中央駅の建物を出たのは更に1時間ぐらい後…ぐったりしながらもホテルを目指します。
そんな時、私を慰めるかのように、サンスーシ宮殿ラッピングのLRTが!
フリードリヒ大王推しなので、フガフガと鼻息荒く写真を撮りました。
禍福は糾える縄の如し。推し万歳。お蔭で元気が出ました。 -
会いに行くので待っててね~
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今日のホテルはタイタニック・ショセ・ベルリンです。
チェックイン時間より早い到着でしたが、部屋に通してくれました。タイタニック シャウゼー ベルリン ホテル
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浴室はシャワーのみですが問題なし。
タイタニック シャウゼー ベルリン ホテル
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鍵の絵がなんだかスタイリッシュだったので…
タイタニック シャウゼー ベルリン ホテル
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ホテルでプチ休憩をした後は、路面電車に乗って、ドイツでは貴重な「オシャレ地区」と呼ばれているプレンツラウアー・ベルク地区へ行きました。
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Anna Blumeというカフェでエレガントにランチをとりました。キッシュプレートです。
写真では普通のカフェランチに見えますが、どれも量があります。
サラダが深い森のよう密に盛ってあり、食べても食べても何故か一向に減らない。キッシュも重金属のように体積重め。これに飲み物プラスでお腹いっぱいになりました。カフェ アンナ ブルーメ カフェ
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想定以上に満腹になったので、次の目的地まで散歩がてら歩きます。
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歩けども歩けども人の姿がありません。
私的には静かでいいのですが、「ここは本当に噂のオシャレ地区なんだろうか」と心配になるくらい人がいません。 -
ランプショップかな。オシャレ臭がします。人はいませんが。
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たぶん、レンタルキックボード。珍しくキレイに並んでました。
こういうのを借りれば時短、体力温存になるのは分かっていますが、ただでさえ己の体の首から下の操作が不如意なので、どうも試す気になれません。 -
冬季は日本より日が短いので暗くなってきました。ここまでほとんど人影はなく…
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迷子の達人なので、もしかしたら間違った道を歩いているのかも…と心配していましたが、無事にKulturbrauerei(文化醸造所)に着きました。
建物自体は19世紀に建てられた醸造所ですが、現在では映画館やイベントホールのある文化的複合施設となっています。
ここに入っている博物館を見学します。「Alltag in der DDR(東ドイツの日常)」がテーマです。入場料無料。アルターク イン デア デーデーアール 博物館・美術館・ギャラリー
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この博物館は「Haus der Geschichte」という財団が運営しており、ボンにある同名の歴史博物館や、ベルリンの「涙の宮殿(フリードリヒシュトラッセ駅にあった、かつての国境検問所)」も同じ財団に属する施設です。
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1961年8月13日:ベルリンの壁が建設された日。
SED(ドイツ社会主義統一党)政権は、東ドイツと西ベルリンの国境を封鎖しました。ベルリンの壁の建設によって、ドイツの分断は確実なものとなりました。アルターク イン デア デーデーアール 博物館・美術館・ギャラリー
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ベルリンの壁が点線で表示されています。壁はこんな風に西ベルリン(左側の白いエリア)をぐるっと囲むように建てられました。赤い部分は全て東ドイツです。西ベルリンは、東ドイツ内にぽつんとある西側の飛び地でした。
壁建設の建前は「西側の悪影響(ファシズム、資本主義)から東ドイツ国民を守る壁」でしたが、実際は増え続ける西側への国民の亡命を阻止するためのものでした。アルターク イン デア デーデーアール 博物館・美術館・ギャラリー
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訪問の時期は違いますが、こちらが実際のベルリンの壁周辺設備の写真です(一部、復元)。
ベルナウアー通りにあるベルリンの壁記念館から見ることができます。
鉄の棒が入ったコンクリートの壁が写真の手前側(西ベルリン側、高さ平均3.6m)と反対側(東ドイツ側)に建てられており、その間はTodesstreifen(トーデスシュトライフェン:死の地帯)と呼ばれる数十メートルの無人地帯。柔らかい土が敷いてある場合もあり、誰かがそこを通れば痕跡が残る仕組みでした。左側に建っているのは監視塔です。
これに加えて、場所によってはアラーム付きの金網や鉄条網、各種トラップなども設置されていました。
無人地帯には訓練された犬が放され、武装した国境警備兵が監視塔から常に監視していました。
侵入者には射殺許可が出ていて、少なくとも138人がこの壁で命を落としています。
そのうちの1人、ペーター・フェヒター(当時18歳)は、友人と二人でトーデスシュトライフェンに侵入することに成功し、西側の壁を越えようとしたところを国境警備兵に撃たれ重傷を負いました。
友人は何とか壁を越えることができましたが、フェヒターはそのままトーデスシュトライフェン上に倒れこんでしまいました。出血がひどく、動くことができない彼は大声で助けを求めました。
その声を聞きつけ東西の住民たちも壁に駆けつけましたが、東側の人々は警備隊によって追い払われ、西側の人々や警官たちは救急キットを壁越しに投げ入れるのが精一杯でした。
1時間後に東側の国境警備兵がフェヒターを運び出しましたが、彼は既に息絶えていました。
この事件は国際的に広く報道され、東ドイツの抑圧的な体制や、東西を分断する「ベルリンの壁」という存在について世界に訴えるきっかけとなりました。 -
これはDDR(ドイツ民主共和国=東ドイツ)の国章です。金色のハンマーとコンパスが麦のリースで飾られています。
ハンマー=労働者
コンパス=知識人
麦=農民
をそれぞれ象徴しています。
東ドイツの国旗は黒、赤、金の現在のドイツと同じカラーリングの中央にこの紋章が入ったものでした。アルターク イン デア デーデーアール 博物館・美術館・ギャラリー
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1989年11月9日:ベルリンの壁が崩壊した日。
度重なる市民によるデモ活動の結果、ついに東ドイツ政府は旅行条件緩和措置を発表しました。突然発表された耳を疑うニュースに、数万人がベルリンの壁に押し寄せました。出国を要求する民衆たちの圧により、ついに国境は開かれました。アルターク イン デア デーデーアール 博物館・美術館・ギャラリー
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西側への通行許可証とも言えるビザのあるパスポート。東ドイツの国章スタンプが押されています。
たかが旅行と言うなかれ。東ドイツ市民が旅行許可を取る際には、国家保安省や警察によって詳細な身辺調査がなされました。
政府に反するような政治思想を持っていないことや、家族構成に問題がないこと等、公私に渡って徹底的に調べられたようです。アルターク イン デア デーデーアール 博物館・美術館・ギャラリー
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なんか見た事あるロゴがついたテレビ。
アルターク イン デア デーデーアール 博物館・美術館・ギャラリー
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目の付け所が…のSHARP製カラーテレビでした。
テレビのトリセツと保証書。
当時、このテレビはIntershopという外国通貨専用の小売店でしか購入することができませんでした。
主に西側諸国の高級品を扱うこの店では、支払いは全て外国通貨。東ドイツの貨幣で買い物できなかったため、多くの人々にとっては高嶺の花だったようです。アルターク イン デア デーデーアール 博物館・美術館・ギャラリー
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トラバントの上に力業でテントを乗せたキャンピングカーもどきのテントカー。
トラビ(トラバントの愛称)は東ドイツの国民車です。
生産台数が国内の需要に全く追い付かず(そんな状態でも他の共産圏の国に輸出していた)、購入には長い待ち時間が必要でした。
注文してから納車まで10年以上かかることもザラで、「今は買う予定ないけど注文だけはしておく」という市民も多かったそうです。
因みに、他に大衆向けとなる車は存在しませんでした。
トラビのあだ名の一つが「走るダンボール」。なのでこの旅行記を書くまで、私は本当にボディの一部(あくまで一部)に紙が使われていると思っていました…トラビは水に浮くって某漫画で読んだし…
実際は強化プラスチック(プ、プラスチック…??)でできていて、軽量で錆にくい一方、衝撃には非常に弱く、事故の際に大きく破損することがあったため、こういったあだ名がついたそうです。
「この車、ダンボールでできてんじゃないの?!」っていうくらい脆いってこと…?
数ある呼び名のうちのもう一つが「プラスチック爆撃機」。壊れること前提のあだ名が怖い…
もうちょっと調べたところ、「走るダンボール」はレーシングカーとしてのトラビのあだ名で、乗用車のトラビはただの「ダンボール」だそうです。
プラスチックの車でレース???と不安になりましたが、もうこれ以上は深追いしないでおきます。アルターク イン デア デーデーアール 博物館・美術館・ギャラリー
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これは後日、街中で見たトラビたち。
実際にトラビを運転してみたい!という人のために、運転しながらベルリンの観光地を巡るツアーがあります。 -
壊された壁の向こうには、東ドイツの国境警備兵の人々とワンコ。
アルターク イン デア デーデーアール 博物館・美術館・ギャラリー
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博物館を出た後はアレクサンダー広場に移動して、壁崩壊イベントの一つであるプロジェクションマッピングを見ました。
「Sprechende Fassaden(語るファサード)」というタイトルがついたこのイベントは、壁崩壊と深く関係のある7つの場所で行われました。
そのうちの1か所がアレクサンダー広場です。
名前の通り建物のファサードに過去の映像を映し出し、当時の出来事を追体験するというものです。
1989年11月4日、ベルリンの壁崩壊の5日前に、この広場でDDR(ドイツ民主共和国)史上最大のデモが行われました。
芸術家、俳優、作家、政治家等の著名人を含む市民50万人以上が参加し、プラカードや横断幕を掲げて、自由選挙、旅行や思想・報道の自由、社会主義統一党以外の政党の結成等を訴えました。
彼らの多くは西側に亡命することではなく、東ドイツに留まり、この国を民主的国家にすることを望んでいました。
当時、民衆の不満を抑えることができなくなってきていた東ドイツ政府は、この時点で市民によるデモ活動を公的に認めていました。
そのためこれまでと異なり、市民たちは軍事力で排除されることなく声を上げることができたのです。
デモは「平和的」かつ「合法的」に行われたため、政府が介入する隙がなかったのも理由の一つだそうです。
https://youtu.be/o9KSoj_yQ68?si=koN12JEup3sv6Bjq 腕をプルプルさせながら頑張って動画を撮り、編集しました。
三脚なんて概念はそもそも持ち合わせていなかったため、手振れがちょっと酷い…ご容赦ください。アレクサンダー広場 広場・公園
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プロジェクションマッピングも十分堪能したし、さて、そろそろホテルに戻るかと歩き出したら、ショップのロゴ入りジャケットを着たお姉さんからヘリウムの入った風船をもらいました。
が、5分といかないうちに風船が持ち手から外れてしまい、夜空の彼方へさようなら~
まあ「私、これ持って電車乗るのか?」と思っていたので、良しとします。アレクサンダー広場 広場・公園
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ベルリンにはなんで熊の像が多いかというと、ベルリンの紋章が熊だからです。
どうして熊なのかについては、「Ber(lin)」が「Bär (熊)」に似ているからとか言われていますが、どうやら俗説らしいです。
Berlinという名前の由来については、上記の理由で「熊の土地」という意味だとする解釈もありますが、歴史的に正しいのは、
「初期にこの地に入植したスラブ人が自分たちの土地を『Brlo(スラブ語:湿地の中の乾いた場所)』と呼んだため」とLittle Big City Berlin(ミニチュアパーク)で購入したパンフレットに書いてありました。
「Brlo」がどのように変化して「Berlin」になったのかは聞かないでください。 -
ホテルの部屋に湯沸かしポットがあったので、夜ご飯は近くのスーパーで購入したカップヌードル。味は無難そうな鳥だし味にしました。
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当然ながら、食べ方は一緒です。
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裏面には、日清の創業者である安藤百福のカップヌードル開発エピソードが書かれていました。
日本の製品が世界で受け入れられてるのを見ると、ちょっと嬉しくなります。
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この旅行記へのコメント (2)
-
- sanaboさん 2024/12/14 01:07:23
- ドイツ愛溢れる旅行記
- フリードリヒ大王推しのぴよ太さんへ
捻りをきかせた旅行記のタイトルに、毎回「上手いなぁ」と唸っています。
ぴよ太さんにとっては容易いことなのでしょうけど、語彙力欠如の私は
毎回無味乾燥なタイトルしか思いつかず、情けない…
サービス砂漠とは何ぞやと思いながら拝見し始めましたが、
「痛む体(←筋肉痛)とスーツケースを引きずりながら」との表現に
たたら踏みの絵図が頭に浮かび、冒頭から笑ってしまいました。
「Alltag in der DDR」は東ドイツの日常がテーマだそうですけど
東西分断の歴史を知る上でも興味深い博物館ですね。
ぴよ太さんの解説で、壁が建設された経緯などを改めて知ることができ
今回も大変勉強になりました。(ぴよ太先生の世界史の授業が大好き~)
トラビを運転しながらベルリンの観光地を巡るツアーがあるそうですけど
海外旅行保険に入る時、トラビを運転予定と正直に申告したら
保険加入は却下されそうだわ(笑)
プロジェクションマッピングのところでは「彼らの多くは西側に
亡命することではなく、東ドイツに留まり、この国を民主的国家に
することを望んでいました」との記述を読み、胸が熱くなりました。
ウズベキスタン旅行の時にロシア人カップルと話をする機会があり
その時生まれて初めて(平和な国、ではなく)自由な国に生まれて
良かったと思ったので、その思いが蘇りました。
いつもながら、ぴよ太さんのドイツへの溢れる愛と理解を感じる
旅行記を楽しませていただきました。
続編も楽しみにお待ちしていますね♪
sanabo
- ぴよ太さん からの返信 2024/12/22 21:33:54
- RE: ドイツ愛溢れる旅行記
- sanaboさん、こんばんは。
あわわわわ 大汗
返信が遅くなって本当にごめんなさい!
いつもいつも本当にありがとうございます!
> 捻りをきかせた旅行記のタイトルに、毎回「上手いなぁ」と唸っています。
タイトルについては、限られた文字数でなるべくインパクトのある文言を…と毎回けっこう全力で悩んで決めています(その気力を本文に使えばいいのでは??)。
そんな苦労して付けたタイトルでも、誰モ気ニシナイケドナ…と悲しく思っていたので、sanaboさんに褒めてもらえて嬉しい限りです。
> 今回も大変勉強になりました。(ぴよ太先生の世界史の授業が大好き~)
いつもツボを押さえた褒め言葉をいただき、お礼の語彙もそろそろ尽きて参りました。
歴史と絵画について必要以上に詳しく書き過ぎる傾向にあるので(それ以外の情報が実質ゼロなのに!)、旅行記の趣旨から逸脱してきているんじゃないかとほんのり心配していましたが、sanaboさんのお蔭で勇気が出ました。このまま勇往邁進します!!
> トラビを運転しながらベルリンの観光地を巡るツアーがあるそうですけど
> 海外旅行保険に入る時、トラビを運転予定と正直に申告したら
> 保険加入は却下されそうだわ(笑)
保険屋さんの「車」の概念にはプラスチック製のダンボール車(ややこしいな)は含まれていないと思われるので、黙っていた方が良さそうですね 笑
> プロジェクションマッピングのところでは「彼らの多くは西側に
> 亡命することではなく、東ドイツに留まり、この国を民主的国家に
> することを望んでいました」との記述を読み、胸が熱くなりました。
> ウズベキスタン旅行の時にロシア人カップルと話をする機会があり
> その時生まれて初めて(平和な国、ではなく)自由な国に生まれて
> 良かったと思ったので、その思いが蘇りました。
おちゃらけた部分も、真面目に書いた部分もきちんと気付いて評価してくださるので、sanaboさんが大好きです。
昨今では日本も治安や経済に不安のある国となり、確かに「平和な国」と言い切ってしまうのには躊躇いを感じますね。
私たちが当たり前のように手にしている自由も、実はとても危ういもので、現在、戦火の中にある国の人たちのように突然奪われてしまう可能性もあるのだということ、月並みな言葉ですが、その大切さを忘れないようにしないといけないですよね…
今回は、ちょっと真面目に〆ました ( ´∀` )テヘ
後ほど、旅行記にお邪魔します。
ぴよ太
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