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2022年10月2日(日)朝の11時前、朝日放送のABCリバーデッキから玉江橋を渡って中之島に入る。玉江橋は浪速の名橋50選にも選ばれているなにわ筋の堂島川に架かるゲルバー桁橋。<br /><br />江戸中期の貞享・元禄年間に行われた堂島新地の開発に伴って架けられた橋だが、現在の橋は南行(上流側)と北行(下流側)の2本の橋で構成され(下の写真1)、南行が1929年(昭和4年)に架けられたもの。戦後になって1969年に高潮対策によるかさ上げ工事と幅員拡幅工事が行われた際に、北行が新たに追加された。その後、共に1991年に改装工事が行われ、アルミ製の高欄やタイル舗装、照明灯などが設置された。<br /><br />架橋当初は堀江橋と称され、大江橋、渡辺橋、 田蓑橋、船津橋と共に堂島五橋と総称された。堀江橋は奈良時代に行基が架けたと伝わる橋の名前で、その伝承にちなんで由緒ある名前として付けられた。<br /><br />しかし1698年に堀江新地の開発に伴って開削された堀江川に架橋された橋に堀江橋の名を譲り、玉江橋に改称した。その名の由来は定かではないが、一説では、堀江で見つかった美しい玉を堀川戎神社の御神霊としたことで、その地を玉江と呼ぶようになったという話に因むとされる。<br /><br />1885年(明治18年)の大洪水で流失した後、鉄柱木桁の橋に架け替えられたが、1909年(明治42年)の大火災「天満焼け」で焼失。現在の橋はその後に架けられた4代目。<br /><br />堂島川(下の写真2)は淀川の毛馬水門で南へ分岐する旧・淀川本流の一部。中州の中之島の北側部分で、南側は土佐堀川と呼ばれる。なお、中之島より上流は大川(天満川)、下流は安治川と呼ばれる。<br /><br />かつては大江橋の直前で堂島の北側へ曽根崎川(蜆川)を分岐し、現在の堂島大橋と船津橋の間で合流していた。前述したようにこの2つの川の間の中州が堂島で、川の名前はそこから来ている。曽根崎川は上流部が1909年(明治42年)に、下流部が1923年(大正14年)に埋め立てられ、消滅した。<br /><br />また、この他にも田蓑橋の上流側から大阪駅に向けて堂島掘割(梅田入堀川)が、堂島掘割分岐のやや上流側から土佐堀川まで中之島掘割が1878年(明治11年)に開削されたが、中之島掘割が1957年に、堂島掘割が1967年に埋め立てで消滅した。現在は阪神高速に利用されている。<br /><br />橋を渡ると中之島。上述のように堂島川と土佐堀川に挟まれた中洲で、名前もそのものとなっている。中之島はこの中州の島部分のみを指すが、中之島の対岸にあたる部分には、「中之島」と称する施設やビル、マンションが数多く存在している。<br /><br />島は東西に細長く、長さは3km、幅は最大で300m。田蓑橋から筑前橋の筑前橋筋辺りから西の幅が広く、東が細長い。北側の堂島、南側の北船場と共に伝統的な大阪のビジネス街・中心業務地区(CBD) で、大阪市役所や日本銀行大阪支店などの重要な公的機関も所在している。<br /><br />中之島の開発は大坂の陣後、大坂屈指の豪商である淀屋(淀屋常安)によって1615年に始まった。諸藩の蔵屋敷が集中し、全国各地の物資が集まる「天下の台所」大坂の中枢を担っていた。<br /><br />明治になると、諸藩の蔵屋敷は払い下げられ、大坂の商業やビジネスの中心と変貌していった。また、中之島図書館や中央公会堂等の文化施設や大阪帝国大学をはじめとする学校や病院が市民の寄付などで建設され、近代商都大阪における情報と文化の発信地となった。また、豊國神社や裁判所、旧陸軍関係施設が置かれたこともあった。<br /><br />中之島は大阪市北区となる。北区は大阪市を構成する24行政区のうちの一つ。大阪都心6区の一角であり、隣接する中央区と共に大阪市および大阪都市圏の中心業務地区を成している。大阪市役所所在地でもある。<br /><br />やって来た福島区の東側に接し、北の淀川、東の旧淀川(大川)、南の堂島川に囲まれた部分と中之島から構成される。面積10.4平方kmは24区の中で7番目と意外(?)に大きい。<br /><br />人口約15万人も6番目に多く、一時ドーナツ化現象で1995年に約8万5千人まで減ってからは都心型の超高層マンションの建設などで増加している。うちの息子も北区に住んで5年ほどになる。<br /><br />北区の辺りは戦国時代までは低湿地だったところがほとんどで、ほとんど歴史的な出来事には登場しない。発展したのは江戸時代に入ってから。蔵屋敷が並ぶ中之島、米取引の中心になるなど商家の多い堂島、青物市場が淀川沿いに並び商業が盛んな一方、大阪天満宮や寺町があるなど閑静な文化地区でもあった天満などが発展した。<br /><br />一方、曾根崎新地・西天満の北側は曾根崎村・北野村で、曾根崎村梅田は水田地帯。北野村茶屋町は菜の花畑を見るための茶屋が立ち並ぶところ、さらに北の中津中津川沿いの近郊農村だった。<br /><br />しかし明治維新後、天満に国の造幣局が建設され、中之島の蔵屋敷跡には市役所、学校、中央郵便局などが相次いで立ち並び、梅田に鉄道駅が建設され、大きな変貌を遂げる。中津川は淀川の放水路が建設され、次第に大阪市街地に取り込まれ住宅地・工業用地になっていった。<br /><br />昭和初期には中之島・堂島にオフィスビルが並び、梅田には阪急や阪神など電鉄会社のターミナルには百貨店が併設され、映画館や劇場も立ち並ぶ繁華街が形成される。1945年(昭和20年)の大阪大空襲でほとんどの地区は焼け野原となったが、戦後数十年をかけて区画整理された結果高層ビル街となる。<br /><br />近年は鉄道交通の利便性が高い梅田に本社・大阪支社などを置く企業が増加し、梅田は巨大化の一途を辿り、オフィス街・繁華街ともに旧東区の船場や旧南区の心斎橋など伝統的な中心地を次第に凌ぐようになっている。<br /><br />(旧)北区の発足は1879年(明治12年)。明治維新後の1869年(明治2年)に江戸時代の大坂城下における北組、南組、天満組の3組から成る大坂三郷を再編して北大組が発足。これが第4大区を経由して、郡区町村編制法施行により北区となった。区名は元々の北組、北大組を引き継いでいる。1889年(明治22年)には市制施行で大阪市の行政区へ移行した。<br /><br />一方、1925年(大正14年)の大阪市第二次市域拡張により西成郡から大阪市に編入され発足した東淀川区の淀川南岸の地域を分離して1943年(昭和18年)に大淀区が発足。1989年になってこの大淀区を北区に合区して、現在の北区が誕生した。<br /><br />北区に関連する著名人の何人かを挙げる。2021年に亡くなった「神田川」などの作詞家、喜多條忠(47年生れ)は西天満小学校、菅南中学(現在の天満中学)から茨木市の春日丘高校に進む。<br /><br />俳優の桐谷健太(80年早生れ)は豊崎本庄小学校から豊崎中学を卒業し、豊中市の桜塚高校に進む。同い年の漫才のNON STYLEの2人(石田明、井上裕介共に80年早生れ)は中津南小学校(2010年に中津小学校に統合され廃校)と大淀中学の同級生で、淀川区の東淀川高校に進む。1学年下のアインシュタインの河井ゆずる(80年生れ)は北稜中学から中央区の南高校に進んだ。<br /><br />この日は行かなかったが玉江橋から堂島川下流の中之島西部は、官公署が多い東部に比べて開発が遅れていたが、G8サミット開催のために2000年に大阪府立国際会議場(グランキューブ大阪)(下の写真3)が開業し、2008年に京阪中之島線が開通したことでアクセスも多少改善され、周辺の再開発も活発になっている。グランキューブ大阪はさださん、見に行ったなあ~<br /><br />グランキューブ大阪の手前には、「大阪の迎賓館」とも呼ばれるリーガロイヤルホテル本店があり、島の西端近くには関西経済連合会もある。また、今回は寄らなかったが、なにわ筋の土佐堀川沿いの東側には大阪市立科学館に国立国際美術館などがあり、大阪の文化・芸術拠点となりつつある。ここもどっちも行ったことある。<br /><br /><br />中之島の堂島川沿いを上流に向かうが、続く

大阪 北区 中之島(Nakanoshima,Kita wald,Osaka,Japan)

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2022/10/02 - 2022/10/02

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旅行記グループ 大阪 福島・中之島・天満橋

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ちふゆ

ちふゆさん

2022年10月2日(日)朝の11時前、朝日放送のABCリバーデッキから玉江橋を渡って中之島に入る。玉江橋は浪速の名橋50選にも選ばれているなにわ筋の堂島川に架かるゲルバー桁橋。

江戸中期の貞享・元禄年間に行われた堂島新地の開発に伴って架けられた橋だが、現在の橋は南行(上流側)と北行(下流側)の2本の橋で構成され(下の写真1)、南行が1929年(昭和4年)に架けられたもの。戦後になって1969年に高潮対策によるかさ上げ工事と幅員拡幅工事が行われた際に、北行が新たに追加された。その後、共に1991年に改装工事が行われ、アルミ製の高欄やタイル舗装、照明灯などが設置された。

架橋当初は堀江橋と称され、大江橋、渡辺橋、 田蓑橋、船津橋と共に堂島五橋と総称された。堀江橋は奈良時代に行基が架けたと伝わる橋の名前で、その伝承にちなんで由緒ある名前として付けられた。

しかし1698年に堀江新地の開発に伴って開削された堀江川に架橋された橋に堀江橋の名を譲り、玉江橋に改称した。その名の由来は定かではないが、一説では、堀江で見つかった美しい玉を堀川戎神社の御神霊としたことで、その地を玉江と呼ぶようになったという話に因むとされる。

1885年(明治18年)の大洪水で流失した後、鉄柱木桁の橋に架け替えられたが、1909年(明治42年)の大火災「天満焼け」で焼失。現在の橋はその後に架けられた4代目。

堂島川(下の写真2)は淀川の毛馬水門で南へ分岐する旧・淀川本流の一部。中州の中之島の北側部分で、南側は土佐堀川と呼ばれる。なお、中之島より上流は大川(天満川)、下流は安治川と呼ばれる。

かつては大江橋の直前で堂島の北側へ曽根崎川(蜆川)を分岐し、現在の堂島大橋と船津橋の間で合流していた。前述したようにこの2つの川の間の中州が堂島で、川の名前はそこから来ている。曽根崎川は上流部が1909年(明治42年)に、下流部が1923年(大正14年)に埋め立てられ、消滅した。

また、この他にも田蓑橋の上流側から大阪駅に向けて堂島掘割(梅田入堀川)が、堂島掘割分岐のやや上流側から土佐堀川まで中之島掘割が1878年(明治11年)に開削されたが、中之島掘割が1957年に、堂島掘割が1967年に埋め立てで消滅した。現在は阪神高速に利用されている。

橋を渡ると中之島。上述のように堂島川と土佐堀川に挟まれた中洲で、名前もそのものとなっている。中之島はこの中州の島部分のみを指すが、中之島の対岸にあたる部分には、「中之島」と称する施設やビル、マンションが数多く存在している。

島は東西に細長く、長さは3km、幅は最大で300m。田蓑橋から筑前橋の筑前橋筋辺りから西の幅が広く、東が細長い。北側の堂島、南側の北船場と共に伝統的な大阪のビジネス街・中心業務地区(CBD) で、大阪市役所や日本銀行大阪支店などの重要な公的機関も所在している。

中之島の開発は大坂の陣後、大坂屈指の豪商である淀屋(淀屋常安)によって1615年に始まった。諸藩の蔵屋敷が集中し、全国各地の物資が集まる「天下の台所」大坂の中枢を担っていた。

明治になると、諸藩の蔵屋敷は払い下げられ、大坂の商業やビジネスの中心と変貌していった。また、中之島図書館や中央公会堂等の文化施設や大阪帝国大学をはじめとする学校や病院が市民の寄付などで建設され、近代商都大阪における情報と文化の発信地となった。また、豊國神社や裁判所、旧陸軍関係施設が置かれたこともあった。

中之島は大阪市北区となる。北区は大阪市を構成する24行政区のうちの一つ。大阪都心6区の一角であり、隣接する中央区と共に大阪市および大阪都市圏の中心業務地区を成している。大阪市役所所在地でもある。

やって来た福島区の東側に接し、北の淀川、東の旧淀川(大川)、南の堂島川に囲まれた部分と中之島から構成される。面積10.4平方kmは24区の中で7番目と意外(?)に大きい。

人口約15万人も6番目に多く、一時ドーナツ化現象で1995年に約8万5千人まで減ってからは都心型の超高層マンションの建設などで増加している。うちの息子も北区に住んで5年ほどになる。

北区の辺りは戦国時代までは低湿地だったところがほとんどで、ほとんど歴史的な出来事には登場しない。発展したのは江戸時代に入ってから。蔵屋敷が並ぶ中之島、米取引の中心になるなど商家の多い堂島、青物市場が淀川沿いに並び商業が盛んな一方、大阪天満宮や寺町があるなど閑静な文化地区でもあった天満などが発展した。

一方、曾根崎新地・西天満の北側は曾根崎村・北野村で、曾根崎村梅田は水田地帯。北野村茶屋町は菜の花畑を見るための茶屋が立ち並ぶところ、さらに北の中津中津川沿いの近郊農村だった。

しかし明治維新後、天満に国の造幣局が建設され、中之島の蔵屋敷跡には市役所、学校、中央郵便局などが相次いで立ち並び、梅田に鉄道駅が建設され、大きな変貌を遂げる。中津川は淀川の放水路が建設され、次第に大阪市街地に取り込まれ住宅地・工業用地になっていった。

昭和初期には中之島・堂島にオフィスビルが並び、梅田には阪急や阪神など電鉄会社のターミナルには百貨店が併設され、映画館や劇場も立ち並ぶ繁華街が形成される。1945年(昭和20年)の大阪大空襲でほとんどの地区は焼け野原となったが、戦後数十年をかけて区画整理された結果高層ビル街となる。

近年は鉄道交通の利便性が高い梅田に本社・大阪支社などを置く企業が増加し、梅田は巨大化の一途を辿り、オフィス街・繁華街ともに旧東区の船場や旧南区の心斎橋など伝統的な中心地を次第に凌ぐようになっている。

(旧)北区の発足は1879年(明治12年)。明治維新後の1869年(明治2年)に江戸時代の大坂城下における北組、南組、天満組の3組から成る大坂三郷を再編して北大組が発足。これが第4大区を経由して、郡区町村編制法施行により北区となった。区名は元々の北組、北大組を引き継いでいる。1889年(明治22年)には市制施行で大阪市の行政区へ移行した。

一方、1925年(大正14年)の大阪市第二次市域拡張により西成郡から大阪市に編入され発足した東淀川区の淀川南岸の地域を分離して1943年(昭和18年)に大淀区が発足。1989年になってこの大淀区を北区に合区して、現在の北区が誕生した。

北区に関連する著名人の何人かを挙げる。2021年に亡くなった「神田川」などの作詞家、喜多條忠(47年生れ)は西天満小学校、菅南中学(現在の天満中学)から茨木市の春日丘高校に進む。

俳優の桐谷健太(80年早生れ)は豊崎本庄小学校から豊崎中学を卒業し、豊中市の桜塚高校に進む。同い年の漫才のNON STYLEの2人(石田明、井上裕介共に80年早生れ)は中津南小学校(2010年に中津小学校に統合され廃校)と大淀中学の同級生で、淀川区の東淀川高校に進む。1学年下のアインシュタインの河井ゆずる(80年生れ)は北稜中学から中央区の南高校に進んだ。

この日は行かなかったが玉江橋から堂島川下流の中之島西部は、官公署が多い東部に比べて開発が遅れていたが、G8サミット開催のために2000年に大阪府立国際会議場(グランキューブ大阪)(下の写真3)が開業し、2008年に京阪中之島線が開通したことでアクセスも多少改善され、周辺の再開発も活発になっている。グランキューブ大阪はさださん、見に行ったなあ~

グランキューブ大阪の手前には、「大阪の迎賓館」とも呼ばれるリーガロイヤルホテル本店があり、島の西端近くには関西経済連合会もある。また、今回は寄らなかったが、なにわ筋の土佐堀川沿いの東側には大阪市立科学館に国立国際美術館などがあり、大阪の文化・芸術拠点となりつつある。ここもどっちも行ったことある。


中之島の堂島川沿いを上流に向かうが、続く

  • 写真1 玉江橋

    写真1 玉江橋

  • 写真2 玉江橋から堂島川上流

    写真2 玉江橋から堂島川上流

  • 写真3 玉江橋から堂島川下流

    写真3 玉江橋から堂島川下流

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