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2022年9月18日(日)12時20分頃、御園橋を渡って上賀茂神社へ。正式には賀茂別雷(かもわけいかづち)神社。京都最古の歴史を有する一社で、かつてこの地を支配していた賀茂氏の氏神を祀る神社として、賀茂御祖神社(下鴨神社)と共に賀茂神社(賀茂社)と総称される。<br /><br />創建については諸説あるが、社伝では神武天皇の御代に神山(こうやま)の麓の御阿礼所に賀茂別雷命が降臨したと伝わる。天武天皇時代の677年に社殿が建てられた。奈良時代には既に強大な勢力を誇り、平安遷都後は皇城の鎮護社として京都という都市の形成に深く関わってきた。勅祭とされた賀茂祭(通称葵祭)は世界的に有名。810年以降約400年に渡って伊勢神宮の斎宮にならった斎院が置かれ、皇女が斎王として奉仕した。<br /><br />境内には明神川が流れ、境内の外の南側にはかつての社家町が残っている。境内の外の北側には、御阿礼祭の日に斎王が入ったという神館の跡とその周辺・御生野があり、敗戦後にGHQが造ったゴルフコースの中になんとか残っている。<br /><br />御園橋からの道の突き当りの宮前広場に大鳥居が建つ。宮前広場は2020年から21年に掛けて整備されたもので、その際に大鳥居が建立された。参拝者が御園橋を渡って来た際に「ひと目見て神社があると分かるように」という配慮のもとに設置された。<br /><br />宮前広場の北側に一の鳥居が建つ。1918年(大正7年)に建立されたもので、高さ7mある。一の鳥居から二の鳥居に続く表参道は、幅6m、長さ160mで、葵祭では斎王代はここで腰輿(たごし)から降り、徒歩で参進する。<br /><br />この日は翌日18日に開かれた、アニメーション作品で重要な役割を果たす劇伴音楽のフェスティバル「京伴祭 2022」の準備のため、表参道を通れなかったので左手の駐車場の側の道路を経由する。<br /><br />駐車場の側の道路に回ると、途中に神山の案内がある(下の写真1)。道の先に山頂が円く見える山で、上賀茂神社の御祭神の賀茂別雷命が降臨した山とされ、頂上に降臨石と名付けられた岩塊が残存している。かつては「かもやま」と呼ばれていたのが、後になまって「こうやま」になったと云う。標高は301.5mで、三角点が設置されている。<br /><br />回り込んで二の鳥居から境内に入る。1951年に建てられたもので、高さは6.7m。15°傾いて建てられている。二の鳥居の手前右手にある外幣殿(馬場殿)は行幸の際の天皇の到着殿で、江戸初期の1628年に建てられたもの。国の重文。京伴祭で使われるようだった。ええんかいな・・・<br /><br />二の鳥居を抜けてすぐ右手にあるのがやはり国の重文の楽屋。壁のない吹き放ちの小さい社殿で、楽人が雅楽を演奏したところ。神仏習合時代に神社で仏事に奉仕する供僧が使用し、一切経楽屋とも云われた。<br /><br />二の鳥居の正面には舞殿を挟んで右に土屋、左に拝殿。舞殿は橋殿とも云い、幕末の1863年建立で国の重文。御手洗川の上に建てられており、葵祭で勅使が天皇からの御祭文を奏上する所。神と人間の境界と云われる。<br /><br />土屋は神主以下の社司の著到殿(入御して装束等を整える御殿)。現在は、祓所として使用され、葵祭では斎王代が土屋前を流れる御手洗(みたらし)川で御禊の儀を行う。拝殿は細殿とも云い、天皇、斎王や上皇の参拝の際の著到殿だった。共に1628年建立で国の重文。細殿前の円錐状の2つの立砂は御神体である神山を模したもので、盛り塩や、鬼門にまく清めの砂の起源とされる。<br /><br />細殿の裏の手水舎の水は御神体の神山のくぐり水を汲み上げて使用している。由緒深い境内の井戸水と同じ水脈の名水で、飲料用水質基準にも適合している。正面に岩の前には八咫烏の置物が置かれていた。<br /><br />手水舎から橋殿の横で御手洗川を渡り、奥に進むと岩上(がんじょう)。葵祭で、宮司が宮司この岩の上に蹲踞して勅使と対面し、御祭文に対して神の意志を橋殿の勅使に伝える返祝詞(かえしののりと)を奏上する場所。「気」の集中するところで、いわばパワースポット。<br /><br />岩上の先、突き当りまで進むと摂社の須波神社と片山御子神社。須波神社は明治になるまでは諏訪社と呼ばれていた。上賀茂神社の前庭を守るとされる。片山御子神社は片岡社とも呼ばれ、上賀茂神社の第一摂社で、賀茂別雷大神の母、玉依比売命を祀る。本殿・拝殿は1628年建立で、須波神社本殿と共に国の重文。<br /><br />片山御子神社前の片岡橋で御物忌川を渡る。1868年(明治元年)に架けられた屋根が付いた橋で、桁・梁、共に1間の小さな建物で、屋根には桧の皮が丁寧に葺かれている。これも国の重文。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.26294269030216439&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />片岡橋の少し下流に架かる赤い橋が玉橋、玉橋は反りを持たせた高欄付きの橋で、神事で神官が渡る際のみ使われ、普段はしめ縄が張られて一般の人は通れない。で、その北側に立派な楼門。三間一戸で入母屋造の檜皮葺。左右の廻廊と共に1628年頃に建てられたもので、玉橋も含めて国の重文。<br /><br />楼門を入ると正面に中門で、左右に西局と東局。中門は本殿と権殿の入口に当たる門。西局(にしのつぼね)は直会殿(なおらいでん)と呼ばれ、祭典終了後に神職及び参拝者が直会(御神酒)を戴く所で、東局(ひがしのつぼね)は御籍屋(みふだのや)と呼ばれ、現在は神前結婚式場として使用されている。いずれも1628年建立で国の重文。<br /><br />中門の奥の本殿と権殿は幕末の1863年に造営されたもので、こちらは国宝。権殿は、本殿の非常時に神を遷す御殿。中門前右手の末社の棚尾神社は古くは経津主神を祭神としたが、現在は櫛石窓神と豊石窓神の二柱を祀っている。こちらの本殿は国の重文。中門手前右側の祈祷殿も1628年建立で国の重文。<br /><br />中門で参拝を終えて、祈祷殿の向かいの授与所(下の写真2)で旅行安全御守と孫たちに摂社新宮神社の天の御鈴を購入(下の写真3)。<br /><br />楼門を出て、御物忌川の上流に進むと川尾神社(川尾社)。罪穢れを流してくれる瀬織津姫の別名・罔象女神を祀っている。井戸や泉、灌漑用水などを守る神様で、御物忌川を守護し、水の流れで迷いを取り除いてくれるとも云われる。<br /><br />川尾神社の奥の石段を上ると門があって境内には入れないが、摂社の新宮神社があり、その左に末社の山尾神社がある。明治時代に独立するまで、貴船神社は上賀茂神社の第二摂社だったが、山深い地にあり冬場には参拝が出来なかった。そのためにここにその分霊が祀られるようになった。これが新宮神社の始まり。新宮神社の本殿と拝殿も1628年建立で国の重文。門の右手には伊勢神宮遥拝所もある(下の写真4)。<br /><br />折り返し、楼門前を過ぎて樟(くすのき)の化石で造られた樟橋で御手洗川を渡ったところに末社の橋本神社(橋本社)。和歌・芸能の守護神である衣通姫神(そとおりひめのかみ)を祀っており、光源氏のモデルとも云われ、清少納言と交際していたとも云う中古三十六歌仙の一人の藤原実方も合祀されている。西の鳥居を出て、宮前広場に戻る。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.26294291870214155&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />1時を過ぎたので昼食にする。この時期、まだコロナ禍の影響だろうと思うが、事前に調べた店が開いてなかったりしたが、上賀茂神社の宮前広場前から御園橋に向かう途中にあるお好み焼き屋へ。<br /><br />30年以上、ここで店を開いている「しんぶ」と云う店。京野菜で有名な九条ネギの「ねぎ焼き」が自慢だそうだが、知らなかったので、普通にお好み焼きと焼きそばを戴く。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.26294331093543566&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />30分ほどで昼食を終えて、回ってなかった御手洗川左岸の摂社、末社を回る。ここ区域で一番目立つのは北神饌所。これも江戸初期の1628年建立で、国の重文。神饌の調理などを行った建物で、上賀茂神社の神職たちが集まって会議をする庁屋でもあった。隣にある奈良神社の拝殿も兼ねている。また、校倉造りの倉庫もあり、こちらも年季が入っているように見えるが、詳細は不明。<br /><br />奈良神社は料理飲食守護の神の奈良刀自神(ならとじのかみ)を祀る摂社。奈良刀自神は神饌を司る女神で、古代、神饌は楢の葉を綴じ合わせた皿に盛り付けて配膳されており、その楢が奈良に転じたとも云う。ならの小川の「なら」は、近くにあった楢の木から来たと云うが、この神社に由来するとも云われる。近くにある鳥居は奈良の鳥居と呼ばれる。<br /><br />奈良神社の奥には第五摂社の御歳神を祀る賀茂山口神社がある。起源は明確ではないが、平安時代前期の859年に従五位下に叙されたとあり、それ以前から祀られていたようだ。その手前にある願い石は池の底から出土した陰陽石で、石の表面の質感が異なり、陰と陽が融合した石と云われる。また、その近くの睦(むつみ)の木は樹齢300年以上のスダジイで、一つの根から何本もの大樹が伸びている様子から、家族の結びつきを象徴していると云う。<br /><br />この辺りは御手洗川の水を引き込んだ渉渓園と云う庭園になっている。現在の天皇陛下の誕生を記念して1960年に造園家の中根金作によって造園されたもので、宮廷を中心とした芸術と、文化の繁栄が特徴の平和な時代だった平安時代に一般的だった貴族の庭園の形式に着想を得て、曲がりくねった小川を中心に設計されている。<br /><br />ならの小川を下ると、素盞嗚神(すさのおおかみ)・稲田姫命(くしなだひめのみこと)・田心姫命(たごりひめのみこと)を祀る山森神社と瀬織津姫(せおりつひめ)を祀る梶田神社と云う2つの末社がある。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.26294314910211851&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />神社東南部の社家町に進むが、続く

京都 北区 上賀茂神社(Kamigamo-jinja Shrine,Kita wald,Kyoto,Japan)

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2022/09/18 - 2022/09/18

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旅行記グループ 上賀茂

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ちふゆ

ちふゆさん

2022年9月18日(日)12時20分頃、御園橋を渡って上賀茂神社へ。正式には賀茂別雷(かもわけいかづち)神社。京都最古の歴史を有する一社で、かつてこの地を支配していた賀茂氏の氏神を祀る神社として、賀茂御祖神社(下鴨神社)と共に賀茂神社(賀茂社)と総称される。

創建については諸説あるが、社伝では神武天皇の御代に神山(こうやま)の麓の御阿礼所に賀茂別雷命が降臨したと伝わる。天武天皇時代の677年に社殿が建てられた。奈良時代には既に強大な勢力を誇り、平安遷都後は皇城の鎮護社として京都という都市の形成に深く関わってきた。勅祭とされた賀茂祭(通称葵祭)は世界的に有名。810年以降約400年に渡って伊勢神宮の斎宮にならった斎院が置かれ、皇女が斎王として奉仕した。

境内には明神川が流れ、境内の外の南側にはかつての社家町が残っている。境内の外の北側には、御阿礼祭の日に斎王が入ったという神館の跡とその周辺・御生野があり、敗戦後にGHQが造ったゴルフコースの中になんとか残っている。

御園橋からの道の突き当りの宮前広場に大鳥居が建つ。宮前広場は2020年から21年に掛けて整備されたもので、その際に大鳥居が建立された。参拝者が御園橋を渡って来た際に「ひと目見て神社があると分かるように」という配慮のもとに設置された。

宮前広場の北側に一の鳥居が建つ。1918年(大正7年)に建立されたもので、高さ7mある。一の鳥居から二の鳥居に続く表参道は、幅6m、長さ160mで、葵祭では斎王代はここで腰輿(たごし)から降り、徒歩で参進する。

この日は翌日18日に開かれた、アニメーション作品で重要な役割を果たす劇伴音楽のフェスティバル「京伴祭 2022」の準備のため、表参道を通れなかったので左手の駐車場の側の道路を経由する。

駐車場の側の道路に回ると、途中に神山の案内がある(下の写真1)。道の先に山頂が円く見える山で、上賀茂神社の御祭神の賀茂別雷命が降臨した山とされ、頂上に降臨石と名付けられた岩塊が残存している。かつては「かもやま」と呼ばれていたのが、後になまって「こうやま」になったと云う。標高は301.5mで、三角点が設置されている。

回り込んで二の鳥居から境内に入る。1951年に建てられたもので、高さは6.7m。15°傾いて建てられている。二の鳥居の手前右手にある外幣殿(馬場殿)は行幸の際の天皇の到着殿で、江戸初期の1628年に建てられたもの。国の重文。京伴祭で使われるようだった。ええんかいな・・・

二の鳥居を抜けてすぐ右手にあるのがやはり国の重文の楽屋。壁のない吹き放ちの小さい社殿で、楽人が雅楽を演奏したところ。神仏習合時代に神社で仏事に奉仕する供僧が使用し、一切経楽屋とも云われた。

二の鳥居の正面には舞殿を挟んで右に土屋、左に拝殿。舞殿は橋殿とも云い、幕末の1863年建立で国の重文。御手洗川の上に建てられており、葵祭で勅使が天皇からの御祭文を奏上する所。神と人間の境界と云われる。

土屋は神主以下の社司の著到殿(入御して装束等を整える御殿)。現在は、祓所として使用され、葵祭では斎王代が土屋前を流れる御手洗(みたらし)川で御禊の儀を行う。拝殿は細殿とも云い、天皇、斎王や上皇の参拝の際の著到殿だった。共に1628年建立で国の重文。細殿前の円錐状の2つの立砂は御神体である神山を模したもので、盛り塩や、鬼門にまく清めの砂の起源とされる。

細殿の裏の手水舎の水は御神体の神山のくぐり水を汲み上げて使用している。由緒深い境内の井戸水と同じ水脈の名水で、飲料用水質基準にも適合している。正面に岩の前には八咫烏の置物が置かれていた。

手水舎から橋殿の横で御手洗川を渡り、奥に進むと岩上(がんじょう)。葵祭で、宮司が宮司この岩の上に蹲踞して勅使と対面し、御祭文に対して神の意志を橋殿の勅使に伝える返祝詞(かえしののりと)を奏上する場所。「気」の集中するところで、いわばパワースポット。

岩上の先、突き当りまで進むと摂社の須波神社と片山御子神社。須波神社は明治になるまでは諏訪社と呼ばれていた。上賀茂神社の前庭を守るとされる。片山御子神社は片岡社とも呼ばれ、上賀茂神社の第一摂社で、賀茂別雷大神の母、玉依比売命を祀る。本殿・拝殿は1628年建立で、須波神社本殿と共に国の重文。

片山御子神社前の片岡橋で御物忌川を渡る。1868年(明治元年)に架けられた屋根が付いた橋で、桁・梁、共に1間の小さな建物で、屋根には桧の皮が丁寧に葺かれている。これも国の重文。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.26294269030216439&type=1&l=223fe1adec

片岡橋の少し下流に架かる赤い橋が玉橋、玉橋は反りを持たせた高欄付きの橋で、神事で神官が渡る際のみ使われ、普段はしめ縄が張られて一般の人は通れない。で、その北側に立派な楼門。三間一戸で入母屋造の檜皮葺。左右の廻廊と共に1628年頃に建てられたもので、玉橋も含めて国の重文。

楼門を入ると正面に中門で、左右に西局と東局。中門は本殿と権殿の入口に当たる門。西局(にしのつぼね)は直会殿(なおらいでん)と呼ばれ、祭典終了後に神職及び参拝者が直会(御神酒)を戴く所で、東局(ひがしのつぼね)は御籍屋(みふだのや)と呼ばれ、現在は神前結婚式場として使用されている。いずれも1628年建立で国の重文。

中門の奥の本殿と権殿は幕末の1863年に造営されたもので、こちらは国宝。権殿は、本殿の非常時に神を遷す御殿。中門前右手の末社の棚尾神社は古くは経津主神を祭神としたが、現在は櫛石窓神と豊石窓神の二柱を祀っている。こちらの本殿は国の重文。中門手前右側の祈祷殿も1628年建立で国の重文。

中門で参拝を終えて、祈祷殿の向かいの授与所(下の写真2)で旅行安全御守と孫たちに摂社新宮神社の天の御鈴を購入(下の写真3)。

楼門を出て、御物忌川の上流に進むと川尾神社(川尾社)。罪穢れを流してくれる瀬織津姫の別名・罔象女神を祀っている。井戸や泉、灌漑用水などを守る神様で、御物忌川を守護し、水の流れで迷いを取り除いてくれるとも云われる。

川尾神社の奥の石段を上ると門があって境内には入れないが、摂社の新宮神社があり、その左に末社の山尾神社がある。明治時代に独立するまで、貴船神社は上賀茂神社の第二摂社だったが、山深い地にあり冬場には参拝が出来なかった。そのためにここにその分霊が祀られるようになった。これが新宮神社の始まり。新宮神社の本殿と拝殿も1628年建立で国の重文。門の右手には伊勢神宮遥拝所もある(下の写真4)。

折り返し、楼門前を過ぎて樟(くすのき)の化石で造られた樟橋で御手洗川を渡ったところに末社の橋本神社(橋本社)。和歌・芸能の守護神である衣通姫神(そとおりひめのかみ)を祀っており、光源氏のモデルとも云われ、清少納言と交際していたとも云う中古三十六歌仙の一人の藤原実方も合祀されている。西の鳥居を出て、宮前広場に戻る。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.26294291870214155&type=1&l=223fe1adec

1時を過ぎたので昼食にする。この時期、まだコロナ禍の影響だろうと思うが、事前に調べた店が開いてなかったりしたが、上賀茂神社の宮前広場前から御園橋に向かう途中にあるお好み焼き屋へ。

30年以上、ここで店を開いている「しんぶ」と云う店。京野菜で有名な九条ネギの「ねぎ焼き」が自慢だそうだが、知らなかったので、普通にお好み焼きと焼きそばを戴く。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.26294331093543566&type=1&l=223fe1adec

30分ほどで昼食を終えて、回ってなかった御手洗川左岸の摂社、末社を回る。ここ区域で一番目立つのは北神饌所。これも江戸初期の1628年建立で、国の重文。神饌の調理などを行った建物で、上賀茂神社の神職たちが集まって会議をする庁屋でもあった。隣にある奈良神社の拝殿も兼ねている。また、校倉造りの倉庫もあり、こちらも年季が入っているように見えるが、詳細は不明。

奈良神社は料理飲食守護の神の奈良刀自神(ならとじのかみ)を祀る摂社。奈良刀自神は神饌を司る女神で、古代、神饌は楢の葉を綴じ合わせた皿に盛り付けて配膳されており、その楢が奈良に転じたとも云う。ならの小川の「なら」は、近くにあった楢の木から来たと云うが、この神社に由来するとも云われる。近くにある鳥居は奈良の鳥居と呼ばれる。

奈良神社の奥には第五摂社の御歳神を祀る賀茂山口神社がある。起源は明確ではないが、平安時代前期の859年に従五位下に叙されたとあり、それ以前から祀られていたようだ。その手前にある願い石は池の底から出土した陰陽石で、石の表面の質感が異なり、陰と陽が融合した石と云われる。また、その近くの睦(むつみ)の木は樹齢300年以上のスダジイで、一つの根から何本もの大樹が伸びている様子から、家族の結びつきを象徴していると云う。

この辺りは御手洗川の水を引き込んだ渉渓園と云う庭園になっている。現在の天皇陛下の誕生を記念して1960年に造園家の中根金作によって造園されたもので、宮廷を中心とした芸術と、文化の繁栄が特徴の平和な時代だった平安時代に一般的だった貴族の庭園の形式に着想を得て、曲がりくねった小川を中心に設計されている。

ならの小川を下ると、素盞嗚神(すさのおおかみ)・稲田姫命(くしなだひめのみこと)・田心姫命(たごりひめのみこと)を祀る山森神社と瀬織津姫(せおりつひめ)を祀る梶田神社と云う2つの末社がある。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.26294314910211851&type=1&l=223fe1adec


神社東南部の社家町に進むが、続く

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