2024/05/18 - 2024/05/18
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gianiさん
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人口11,000人。
市制が施行された1954年以来、合併と縁がない持たざる限界自治体の代表選手(市制では全国ワースト5)。市域に高速道路や鉄道も通らないのが現状です。
市街に4travel観光スポットが一つも登録されていない土地を、のんびりと回ります。目や舌を喜ばせるだけでなく、居心地よく、頭も喜ぶ魅力的な街でした。
併せて、ジョン万次郎の帰国後の人生も追いかけます。
前編は↓
https://4travel.jp/travelogue/11905613
- 旅行の満足度
- 5.0
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平安時代
現在の土佐清水市域は、古来より朝廷との結びつきが強い土地でした。
彼らは、観音浄土が南海道最南端の土佐清水沖に存在すると信じ、金剛福寺を庇護しました。開基の際は、822年に嵯峨天皇の勅額を賜ります。 -
土佐清水市域は、平安時代に「鯨野(いさの)」郷と記載されています。
転じて伊佐(いさ)となります。
足摺温泉郷は伊佐の地名が残り、清水七浦の一つとして港があります。
※古来より、鯨は「勇魚(いさな)」と呼ばれます。 -
鎌倉時代
土佐国幡多郡の中心から大きく南に外れた土地として「以南」という地名が定着します。13世紀には摂政を務めた九条道家が息子の一条実経に幡多荘を譲ることで、不在地主一条氏の支配下に入ります。
金剛福寺の所有する荘園は3000石に及び、室戸の金剛頂寺と並ぶ土佐の有力寺院でした。 -
南北朝時代(室町初期)
清水の名水は、遅くとも1335年の史料に登場します。当初はシ水と記載されましたが、志水→清水と変遷します。土佐清水市の名称は、ここに由来します。 -
室町時代後期(戦国時代)
応仁の乱の戦火を逃れるため、関白を務めた一条教房が自らの所領である幡多荘へ避難/定住し、配下の加久見(藤原)宗孝を土佐守にさせます(1468)。加久見氏は土佐清水市街北西の加久見城を本拠地とする地元勢力で、一条教房と後妻(加久見宗孝の娘:中納言局)の間に生まれた一条房家は、公家大名土佐一条氏として代々土佐に影響を及ぼします。
市街にある蓮光寺(写真 1207年開基)は、加久見氏の庇護を受けた古刹です。 -
国際貿易港
一条氏によって、大陸と京を結ぶ貿易が行われます。土佐清水の湊は、南海道(四国/淡路/紀伊国)を代表する港「南海之津」として海外にも知られます。船員は、有事には水軍として機能します。
清水港奥部の浦尻には、唐船島(写真)が往時を偲ばせます。 -
安土桃山時代
戦国大名の長宗我部元親は一条氏を滅ぼし、土佐を統一します。水運/水軍の町である清水を直轄統治します。次いで番匠(船大工)の土地が多く、水運拠点を造船業が支えていたことが分かります。現在も2軒の造船所が存在します。 -
江戸時代
山内氏治める土佐藩の下で、清水は漁村へと変化します。洗練された漁法(カツオ漁/捕鯨)を持ち込んだ紀州の漁民に活躍の場を奪われ、肩身の狭い生活を送ります。藩外へ逃亡する「走り者」も絶えませんでした。そんな社会で、ジョン万次郎は誕生します。 -
明治~現在
エンジンで動く船の登場で良港のメリットが活かされ、遠洋/沖合漁業基地として発展します。土地も不足し、埋立が進みます。オイルショック後は衰退へ転じ、人口は市制施行時の3.4万人をピークに現在は1.1万人まで落ち込み、五本の指に入る限界自治体(市制部門)として日本のブラックホールとなっています。
では、県道27号線沿いに現地を歩いてみます。 -
ジョン万次郎生家のある中ノ浜から中ノ浜峠を越えると、
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土佐清水港へ通じる深くて長い入り江が姿を現します。
波風が激しい湾の外側とは対照的に、こちらは穏やかな良港として発展しました。 -
清水の名水
土佐清水市の名称は、ここに由来します。桜の井戸(高知)/岩佐の清水(室戸)と並ぶ土佐の三名水の一つで、夏でも枯れない清水です。試飲しましたが、なかなかのお味です。 -
港へ通じる湾の入口は狭められています。外は波風の強い太平洋なので、波風からの良い隠れ場になっています。
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湾内の幅は300mまで狭まります。
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地名は渡船場/渡場
ズバリ渡し舟が戦後まで結んでいました。陸路で行くと、6km以上の行程です。清水渡船は、現在釣り船営業で生き残っています。 -
1950年に撮影された渡しの様子
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造船所前バス停に位置する某造船所。この二日前に、瓦礫に火が付いて火事騒動になりました。
中世以降は水軍/水運の拠点、明治以降は漁業船団の基地として造船業が盛んだった歴史の名残です。 -
厚生橋を渡ると、唐船島が。
1468年に朝廷で関白を務めた一条教房が土佐中村へ下向して以来、清水は遣明船の前線基地となりました。貿易は、瀬戸内海ルート一択から、新たに太平洋ルートが開拓されました。唐船島は船の係留に用いられました。1949年開通の厚生橋のお陰で、浦尻をショートカットできます。 -
1946年の南海地震で80cm隆起したことから、国の天然記念物に指定されています。こんな感じで隆起面が。そして鷺の営巣地として賑やかな場所です。
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ゴージャスな椅子のあるバス停
海上保安署があるところが、国防の要所という特殊な地域性をあらわします。 -
鹿島
昔は島でしたが、戦後の埋立で陸続きになりました。幕末には、砲台も築かれました。現在は水産物販売店になっています。土佐清水さかなセンター足摺黒潮市場 市場・商店街
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サニーマートを左に折れると、本清水集落です。市街で最も最初に開発された地区です。
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本清水
海と崖に挟まれた細長いエリアです。現住所は元町です。 -
元町(本清水)には、新鮮な魚介類を楽しめるお店があります。旅行記の最後に、料理を上げておきます。
御食事処 あしずり グルメ・レストラン
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蓮光寺
本清水集落に接する崖に建つ古刹。浄土宗の開祖法然の弟子が1207年に開基した、浄土宗でも草分け的存在。野外で一番古いのは、南無阿弥陀仏の念仏が彫られた写真の板碑。1494(明應3)年11月28日と彫られています。 -
本清水の先は、港に面した市街地。
かつては干潟で、明治7年まで塩田でした。
地域勢力の加久見氏は朝鮮出兵(文禄の役)で没し、領地を没収されます。
土佐藩で清水浦は、人口656名/屋敷105軒の中規模港でした。 -
写真は、江戸時代の地図。
中浜峠を越えると清水の名水/渡船場(④)が位置し、浦尻の唐船島、鹿島を経て本清水集落①に至ります。左横には大庄屋の濱田家屋敷が描かれます。現市街地の東②には、塩田があります。貝塚集落を経て戎浦③には、藩の分一役所が置かれています。右下には、山上の遠見番所が描かれます。 -
中浜寄りの鞍掛山に遠見番所が築かれました。島原の乱を受けて、異国船を監視する目的で藩内に10箇所設置されます。南風が吹く3-7月のみ任務に当たり、狼煙を上げる火立場もありました。一条氏の下で海外貿易が行われた頃とは対照的です。
土佐清水には1602-1856年までに、4回ほど異国船が漂着します。 -
土佐藩の政策
土佐藩は、旧勢力の排除に取り掛かります。長宗我部政権下で2000石を誇った金剛福寺の寺領を僅か100石まで減らします。寺を警護する寺侍を抱える軍事勢力だったからです。
海民は漁業に従事させ、足摺岬西側七浦の取りまとめを清水浦の大庄屋浜田家に課します。分一役所は浦奉行の配下で、港から出荷する商品に分一銀(関税)を掛けて徴収し、漁師から漁業税を徴収しました。清水/中浜/松尾に設置されました。 -
紀州海民の進出
漁場に所有権は無く、どの浦からも自由に操業できました。さらに漁業税や関税支払う限り、他藩の漁民も操業できました。黒潮で繋がる紀州印南浦(いなみ)の海民が、足摺岬沖の鰹漁場へ出稼ぎにやってきました(旅漁)。彼らは優れた造船/漁撈技術で利益を独占しました。カツオの一本釣も、紀州伝来です。地元海民は、貧困ゆえに陸路で伊予/海路で日向へ逃亡する「走り者」が増加します。
※磯は陸地の延長線なので、各浦の漁業権が及びます。 -
廻船業
鰹は足が速いので、流通には不向きです。印南浦の海民は、燻乾法で加工して問題を解決しました。得意の造船/航海術を活かして、鰹節は上方/江戸へ、傷節は下関へ、煮滓は肥料として日向へ輸送/販売しました。鰹を燻すための薪確保から始まって、材木/木炭も販売します。廻船業で得た利益を基に、付加価値の高い酒類を製造するようになります。船に積む商品には関税が掛けられるので、藩も財源と羅る廻船業を奨励します。参勤交代等、藩が船団を組む際に船団を供出する勤めが課されます。 -
角屋
角屋の祖である印南浦の久保田甚太郎は、日向への旅漁の帰りに足摺岬沖の臼碆(うすはえ)付近に鰹の漁場があることを発見します。松尾浦西側の明神浜を拠点に操業し、鰹漁/鰹節加工を行います。印南衆が出稼ぎ用に造った港を、据浦と呼びます。 -
袋屋
大浜(写真)の浦庄屋を務めた上原家は1668年に酒造業も始め、七浦一帯に販路を広げ蓄財します。養老浦の新田開発も請け負います。酒屋株は狭き門(幡多郡の割当は28株)なので、有力商人のステイタスでした。
他にも、松尾/大浜を拠点にした山崎屋(山崎家)、伊佐を拠点にした石橋屋(石橋家)などがあります。いずれも、紀州海民の出です。彼らは、七浦に据浦を築きます。 -
山城屋
中浜の浦庄屋山崎儀右衛門が18世紀に開業します。万次郎が中浜で育ったころは、山城屋の絶頂期でした。
廻船「春日丸」(500石船)で江戸へ運んだ鰹節は「春日節」と呼ばれ、最高級品の代名詞となりました。1822年に行われた鰹節番付では、清水節が優勝しています。
写真は、ドウショウ坂上の長崎台地。山城屋や袋屋の墓地があります。 -
資本主義社会
廻船業により、以南地域でも資本主義経済が浸透します。中浜浦は、山城屋の鰹節加工場と化します。わらべ歌では、音無川の谷間に拡がる中浜が山城屋の企業城下町だった様子が描かれます(写真)。
山城屋を頂点に本家当主/分家当主/浦方顔役/船頭/医者/船子/バラ抜き/奴/子守りまで階層が分化します。 -
複雑な支配構造
土地は、土佐本藩/中村支藩/藩士の知行地/寺領に分類され、村/浦内でも細分されます。例えば、伊佐村では耕作地は金剛福寺荘園、居住区は中村支藩、浦/漁獲物は土佐本藩の管轄でした。
平地の少ない以南地域では、居住/耕作は駄場と呼ばれる海岸段丘(小高い場所にある平坦地。写真は伊佐の駄場)で行われました。 -
黒潮
太平洋を北上する黒潮は、栄養分を多く含み、漁獲資源(回遊魚)の宝庫です。黒潮が初めて日本にぶつかるのが足摺岬沖です。続いて室戸岬、潮岬(紀伊半島)といった感じです。
太平洋から突き出した岬沖では、大陸棚付近で湧昇流が発生し、深海の栄養分を舞い上がらせます。さらに黒潮が岬にぶつかると、渦を巻くような反転流が生じ、辺りを潤します。足摺岬周辺は活発な地殻変動による複雑な海底地形ということもあり、これらの要素が重なって回遊魚が集まる好漁場となります。 -
捕鯨
黒潮の関係で、室戸岬沖と足摺岬沖は捕鯨スポットでした。網取法や操船術を武器に近世捕鯨を行えたのは、紀州海民だけでした。土佐藩の直営事業として、室戸を拠点にする紀州漁民が捕鯨を独占します。藩の保護政策と慣習法により、彼らが解散する1907年まで地元民は参入できませんでした。 -
戎浦
エビス信仰は大漁祈願と結び付き、ここが漁業基地だった名残です。渡船が対岸を結び、分一役所のある清水浦の官庁街でした。官報掲示板に相当する高札場もありました。江戸時代の地図では③に該当します。
清水浦は、漁獲/農産物は支藩、積荷の関税/事業税は本藩が管理していました。昔から行政は複雑です。役所的には、土地依拠の郡奉行所(庄屋に委託)と漁業/海運業を管轄する浦奉行(分一役所)の支配を受けます。 -
塩田開発
雨の多い土佐藩は製塩に向かず、塩を他藩から買っていました。1683年に小八木道治が浦尻で塩田開拓を試みるも失敗します。
土佐藩は1780年に、天神山と鍛冶屋駄場の間に80mの堰堤を築いて象潟の沼地を仕切り、塩田とします。年間700石(藩全体の生産高の1割)を生産しました。 -
船舶のエンジン化
20世紀に入って、和船から動力船へ変化し、製氷技術が進歩すると、鰹の回遊を待つ漁業から、鰹を追いかける漁業にスタイルが変わります。鹿児島沖/五島列島/伊豆諸島/三陸沖といった漁場へ出航し漁獲量は飛躍します。
捕鯨も、強力な銃で銛を撃ち込むノルウェー式近代法が導入されると、世界を股に掛けるようになります。水深も深く大型船も停泊可能な清水浦は、鯨/鰹漁の母港として繁栄します。 -
以南の中心都市へ
明治維新後、清水村は以南地域の中心となり、1888年の町村制公布によって清水村/松尾村等が合併して清松村が誕生します。村役場は、清水の貝塚に設置されます。1924年には清水町に昇格します。行政/経済の中心地として発展すると、隘狭な市街地が発展に支障を来たします。
上田亀之助は私財を投じて、鍛冶屋駄場を崩した土砂で塩田跡を埋め立て、1907-24年にかけて4.32haの土地を造成します(写真)。 -
本町公園には、上田亀之助の銅像が立っています。ここには、鍛冶屋駄場という小高い丘が存在しました。現住所の中央町/栄町/本町域が誕生し、劇場/銀行/商店などが建ち並びます。
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碁盤の目状に道路が通る旧市街において、塩田と鍛冶屋駄場の外周に沿った道路は曲線状で、明らかに不自然です。
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村役場/町役場のあった貝塚地区
現住所は市場町で、戎浦から漁港と魚市場が移転しました。本清水(現住所元町)と共に、旧来の市街地です。岸壁は、1928年に整備されました。
1941年に足摺半島東側の上灘村を合併した清水町は、1954年に3町と合併して土佐清水市になります。 -
写真は、1937年の清水港の様子。沖には氷を乗せた船が写り込み、対岸には造船系鉄工所の看板(2軒)や石油タンクが並びます。
船団の母港として、造船/修繕基地だった様子が分かります。 -
1937年の写真と同じ構図でもっと広範囲を写したもの(1962年)。団塊世代が中卒と同時に次々と漁師になり、漁船が増えました。
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1950年に撮影されたエゴの浚渫風景。
綿市川は市街の排水を集め込んでエゴに流れ込むので、ヘドロや土砂が溜まりやすく、絶えず浚渫する必要がありました。凹型の地形の上に、1946年の南海地震で地盤が隆起し、泣きっ面に蜂です。 -
プラザパル西側の市街地を流れる綿市川。国道321号線を横断する時点から暗渠となってエゴへ注ぎます。
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現在のエゴの光景
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宗田節
1955年頃から鰹の収穫量が減少します。メジカ(宗田鰹)漁にシフトして、宗田節作りが始まります。夏の笹メジカ/冬の寒メジカが最適です。鰹よりも血合いが多く、その結果濃厚で香りのよい出汁が取れます。傷が付かないよう、漁は一本釣り(曳き縄)で行います。土佐清水がシェアの7-8割を占めます。 -
土佐清水のソウルフードに、ペラがあります。
B級グルメのカテゴライズで、昭和20年代に「にしむら」が始めた料理です。塩田跡地にお店があります。にしむら グルメ・レストラン
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味のある店内
おかず/おやつに相当します。鰹等の身を煮たもの(端材)を細かく切って具にします。 -
注文すると鉄板で、お店の人が焼いてくれます。テイクアウトも可能。とにかくおいしいです。
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市制と市街地拡張
1941年に足摺半島東側の上灘村を合併した清水町は、1954年に3町と合併して土佐清水市になります。第一次都市計画事業(1954-65)/第二次都市計画事業(1966-75)が実行されます。主な内容は、山を崩して浜を埋め立てることで市街地域を増やすことです。 -
現在の市街地
清水浦と越浦は、連続する市街地として一体化しています。
市制施行時は、モリ山と荒神駄場の間を一本の道路を通すのがやっとの幅でした。まず天神山とモリ山を崩して、幅12mの幹線道路(上図:赤線)を建設します。山を崩す作業には、自衛隊が派遣されました。幹線道路に並行する道(上図:白線)までは平地で、それより北は段丘面として整備します。 -
天神山跡
極小さな丘で、電話局と横断歩道の間の小さな区画に存在しました。 -
電話局のある幹線道路の一筋南には、中央町商店街が伸びます。
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実は、古来から清水浦/越浦を結ぶ唯一のルートでした。
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写真は、1957年暮れの賑わいを撮影したもの。
現在は、寂しい道です。 -
幅12mの幹線道路は国道321号線に指定され、サニー(321)ロードと呼んでいます。写真は、電話局から旭町方面を写したもの。
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1958年に撮影された幹線道路。モータリゼーションに先駆けた投資です。
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プラザパル
メイン通りがクロスする市街の中心に位置。バスターミナルとして開発され、スーパー/書店等が入るショッピングセンターです。ショッピングセンター プラザ パル スーパー・コンビニ・量販店
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第二次都市計画では、荒神駄場(通称:水道山)を崩し、幅16mの産業道路(上図:黄色)を開通させました。写真の16m道路(商工観光会館前)から越浦方向へ眺めると、少し先を頂上とする緩い坂道になっています。切り崩した名残です。
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商工観光会館から南側を写すと、坂道になっていて南へ向かって標高が上がっています。
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越浦
清水七浦の一つで、鎌倉時代からの地域支配者加久見氏の本拠地加久見城沿いに位置します。当初は越浦が栄えていましたが、加久見川の堆積物で越浦の水深が浅くなっていき、清水浦へシフトした経緯があります。写真は、事業の総仕上げで誕生した小江漁港。漁港沿いには、旧海軍の特攻隊基地跡があります。 -
小江漁港の前には、お世話になった民宿が。
スキューバダイビング屋さんに併設され、素泊まり専科で、市内で最も低価格です。清潔さも魅力ですです。 -
越浜埋立
第一次/第二次事業で切り崩された土砂は、越浜の埋立に用いられます。写真は、海沿いを走るR321から分岐する埋立地の境界線の道路。90度の弧を描いて再びR321に交差します。ジョン万次郎生家 名所・史跡
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津波避難タワーの横を通って、山にぶつかります。
宝永の大地震(1707年)では、15m近くの津波が襲いました。清水浦は津波に強い地形ですが、外海に面した越浦側から津波が押し寄せました。 -
地図に乗せると、赤線よりも外側の汐見町/浜町/西町が埋立地です。
産業道路は、小江漁港と清水港を結びます。 -
加久見川の対岸は、県立清水高校。寮も完備しているところがローカルです。
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整備前の国道321号線
1950年に、清水高校から撮影。当時は、貨物を荷馬車で運びました。 -
加久見では、高知西南バスの営業所を通過し、
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宝山を越えると、あしずり港です。
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あしずり港
大型外洋高速フェリーに対応した設計です。1976年に建設を開始、33haを埋め立てて完成します。
貨客航路は、1899年に幡多汽船が旧三崎村~高知を結んだのが始まりで、1970年まであしずり汽船が運行していました。三崎は林業が栄え、廻船業時代から積出港として栄えました。 -
乗降用ブリッジもあります。1982年にフェリーが就航し、高知/神戸(阪神淡路大震災後は大阪南港)を結びます。
観光客誘致/生産物運搬が目的でしたが、高知まで6時間というのは時間がかかり過ぎました。2004年に終航します。 -
それ以降は、海の駅となります。
年に1,2回大型クルーズ船が寄港するだけのインフラです。海の駅あしずり 名所・史跡
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構内には、乙な食堂があります。
海風食堂 グルメ・レストラン
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ジョン万次郎資料館もあります。
前編では漂流とアメリカ生活を取り上げましたが、後編は帰国後の人生を追いかけます。ジョン万次郎資料館 美術館・博物館
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ドラマチックなモニュメントも。
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その向かいは、養老漁港。清水七浦の西端の港です。
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国道321号線は、絶景です。
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竜串海岸で奇岩を堪能しつつ、
竜串海岸 自然・景勝地
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宿毛を目指します。
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続いて、帰国後の万次郎の人生を追いかけます。
1851年2月3日、琉球沖で下船し、上陸用に準備したボート「冒険者」号に乗って10時間ほど漕いで上陸を果たします。半年に亘って琉球王国/薩摩藩の取り調べを受けた後、薩摩に移送されます。
新しい藩主島津斉彬も一行を丁重に扱い、48日間の滞在で西洋式造船技術を学びます。 -
長崎奉行所
その後、幕府の長崎奉行所へ移送され、9か月間の取り調べを受け無罪放免となります。1852年6月に土佐へ移送されます。長崎奉行所では、キリシタンでないことを確認するための踏み絵を経験します。真鍮板面と題したイラストには、万次郎の残念な画力が伝わります。 -
土佐入り
7月12日に高知入りした一行は、土佐藩主山内容堂に面会します。万次郎と同じ年(25歳)の容堂は、幕末四賢侯に数えられる人物でした。藩士が聴き取りを行った内容は公式記録として「漂客談奇」という書物にまとめられ、藩役人の必読書となりました。鎖国政策に忖度したとはいえ、薩摩/土佐でも客分扱いを受けます。 -
船役人にしてオランダ語を解する河田小龍は、世界地図等の翻訳のために召集されていました。彼は独自の取材を行い『漂巽紀畧(ひょうそんきりゃく)』を著します。挿絵や地図が挿入されているのが特徴で、多くの写本が日本中に出回り、各藩大名や幕末の志士にも影響を与えます。彼は絵師なので、画も信頼できます。
彼の上司で、藩政改革に取り組んだ吉田東洋も万次郎の見分から大きな影響を受けました。コテコテの攘夷派だった坂本龍馬は、万次郎から伝え聞いた小龍の話を訊いて現実を直視し、開国派へ転向しました。 -
帰郷
一行は10月1日に高知を発ち、それぞれの故郷を目指します。藩は生涯分の米を支給しつつも、幕府の顔色を窺い、彼らが今後は船に乗ることを一切禁じます。
5日に帰郷した万次郎は、11年ぶりに母との再会を果たします。母親の汐は、彼が死んだと思って、仮墓を建てていました(写真左下の円い小石)。 -
土佐藩士になる
陸上に軟禁される運命の万次郎は、僅か二日後の10月7日に藩主の命で高知城下へ呼び戻されます。藩校教授(こうじゅ)館で、英語や海外事情を教えることとなり、12月には藩士の身分を与えられ、出身地に因んで中浜姓を名乗ります。漁師が藩士になるのは、極めて異例のことでした。
15歳のひとりの少年があまりに熱心だったために、当時貴重だった世界地図を与えました。その人物こそ、明治維新で活躍する後藤象二郎です。 -
黒船到来:幕末のはじまり
1853年7月8日、浦賀沖に4隻の黒船船団があらわれ、ペリーはフィルモア大統領の親書を渡して開国を要求します。その背景はというと、、、 -
マンハッタン号事件(1845)
実は9年前の1845年2月に、浦賀にアメリカ船が既に上陸していました。捕鯨船マンハッタン号は日本近海で複数に亘り、合計22名の日本人漂流民を救助し、彼らを送り届けるために現れたのです。浦賀奉行所を通して幕府との交渉に成功し、漂流民は無事帰還できました。外国からすると、長崎奉行所を通さずに解決した画期的交渉でした。
1819年ハワイ到達以降、アメリカはアジア海域へ進出します。ニーズに沿った捕鯨船が日本近海で操業すると、漂流民の救助も増えます。万次郎はホノルルで、紀州の漂流民寅吉ら5名と会っています。日本を捕鯨船の寄港地(水/食料補給)とするために、黒船出向前にニューヘッドフォードで、日本に関する事前調査を行っています。 -
幕臣になる
ペリー帰国の8日後に万次郎は江戸へ召喚され、幕閣の顧問となります。そして旗本(幕臣)に取り立てられ、海防掛として江戸湾防備に当たっていた江川太郎左衛門英龍の配下となります。
翌1854年1月に再びペリーが訪れ、江川は万次郎を通訳として起用しようとしますが、老中阿部正弘や水戸藩主徳川斉昭らによって阻止され、表舞台にでることはありませんでした。アメリカ生活が長かったゆえに、先方に不利な内容の通訳をためらったりすることを危惧したためです。3月3日に日米和親条約が締結され、米国籍遭難者の保護、食料薪水補給のために立ち寄れる港が取り決められました。 -
江川の働きかけにより、帰国時に長崎奉行所で没収された私物も返還されました。写真は、当時最新かつ重要な航海術参考書です。万次郎は1856年に翻訳を命じられ『亜美理加合衆国航海学書』として初版20部が配布されます。
1858年には幕府軍艦操練所教授方に就任します。 -
日本初の英会話書『英米対話捷径』を発行し、バイブル的存在となります。中を覗くと、ネイティブの発音で表記され現地でも通じる内容で、現代人にとっても実用的です。学生時代にnumberをナンバーではなく、ナンブアと覚えていれば、、、
江川の紹介で17歳の鉄と結婚し一男二女を設けますが、25歳で麻疹で亡くなります。 -
咸臨丸で渡米(1860-)
日米修好通商条約の批准文書交換のために、遣米使節団を乗せたポーハタン号が帰国することになり、日本側代表は咸臨丸でサンフランシスコまで移動します。万次郎は通弁主務として乗船しましたが、航海術も大きく買われました。1860年2月10日に浦賀を出港します。
咸臨丸には日本人85名アメリカ人11名が乗船していましたが、勝海舟/福沢諭吉も船酔いで使い物になりません。日本人で平常だったのは万次郎他2名だけでした。
※交通が未発達なこの時代、締結から発効(双方の批准および文書交換)まで1年以上かかることはザラでした。条約の批准は大統領が行いますが、上院で出席者の2/3の承認を得る必要があります。 -
咸臨丸
1855年オランダ製。全長49m幅8.7m重量620tの帆機船。12門の大砲を備え、風のある時はパーク型の帆で、無風時や接岸時は100馬力蒸気機関によるスクリュー推進を行います。帆走時は抵抗を減らすため、船内にスクリューを格納します。米国は日本代表をポーハタン号に乗船することを申し出ますが、航海術をアピールするために自前で航海することにします。日本人クルーは冬の太平洋の荒波を前に散々の結果になりますが、太平洋を股にかけて捕鯨していた万次郎の孤軍奮闘で無事航海を成し遂げます。 -
ポーハタン号
1850年製。全長77m幅13.6m重量2425t、大砲を22門搭載し、風のある時は帆走し、それ以外は1500馬力の蒸気機関で外輪を回転させます。帆走時は、外輪の水掻きを取り外して抵抗を減らします。当時のスクリュー船は回転力が弱く、外輪船が主流でした。ポーハタン号は最期の大型外輪船です。 -
余談
万次郎がニューヘッドフォードに滞在していたころ、アメリカはメキシコとの戦争(米墨戦争/1846-48)の真っ最中でした。戦争の切り札としてポーハタン号を含む超大型戦艦が建造されましたが、完成は戦後にずれ込みます。メキシコ領土の2/3を奪ったアメリカは太平洋へ進出し、捕鯨基地確保が重要課題となります。ペリーの東インド艦隊来航はこの一環で、圧力を与えるために超大型戦艦による艦隊を組みます。翌年にはポーハタン号を含む7隻が浦賀へ現れます。 -
デーモン牧師との再会
3/17に咸臨丸は無事にサンフランシスコに到着し、5/8に帰路に就きます。この度は日本人船員が大活躍します。5/23にホノルルに入港し、万次郎はデーモン牧師との再会を果たします。1841年に万次郎以外の4名が下船した際に彼らの定住を支援し、1850年には帰国を支援するために新聞で寄付を募るなど、第二の恩人的な存在です。5/26に出港し、6/23に浦賀へ帰港します。 -
アメリカ土産
万次郎は写真機を購入し、自身も写真術を会得します。軍事/理数関係の書籍を大量に購入しますが、ウェブスター英語辞典を2部購入した点が特筆に値します。一部は、中浜家が所有しています。 -
小笠原での捕鯨
太平洋航海の前年に、万次郎は幕府の捕鯨御用の役職を兼任します。幕府西洋式造船所製の君沢型帆船を江戸石川島で改造(写真左)し、小笠原で調査捕鯨を行いました(スクナー型/全長24m重量90t)。
1861年には門弟かつ豪商の平野廉蔵と捕鯨計画を立案し、幕府の許可を得て翌62年に小笠原で操業し、鯨油も生産します。横浜で中古捕鯨船(写真右)を購入し、壱番丸と名付けました。全長36m重量200tで、自ら船長となって、外国人を含む乗組員を指揮しました。 -
小笠原回収(1856-76)
1856年にワシントンで出版された「ペリー提督日本遠征記」を入手した幕府は、そこに小笠原開発プランの記述を目にし、幕府の小笠原実効支配に取り掛かります。1593年に小笠原定頼が領地として安堵され各島を命名したこと、17世紀以降幕府が度々探検し祠等を建設したことが根拠です。
万次郎の小笠原での捕鯨も、上記の政策の一環でした。1862年に幕府は外国奉行水野忠徳/通訳中浜万次郎らを咸臨丸で派遣して小笠原を測量、外国人入植者に日本領であることを宣言します。その後のホートン事件では万次郎の交渉力が注目され、アメリカ外交陣に強い印象を残します。
最終的に明治9年に日本領有が確定し、小笠原回収は完了します。 -
時代の寵児
薩英戦争後の1864年、薩摩藩の要請で万次郎は開成所の教授として鹿児島城下へ招聘されます。蒸気船運用術をメインに、英語/測量/造船/航海術を教えます。翌年には長崎へ派遣され、薩摩藩の西洋船購入の交渉を手伝います。
1866年に帰郷し母子水入らずの時間を過ごした後、土佐藩が新設した開成館に招聘され、捕鯨/英語/測量/航海術を教えます。開成館トップの後藤象二郎と長崎/上海へ赴き、外国船購入に携わります。
1867年には薩摩へ戻り、教務を満了して江戸へ戻る頃には京で大政奉還がなされていました。土佐藩へ復帰し、上級武士に列せられます。 -
明治維新後
1869年に開成学校の徴士(後の東京大学教授)に任官し、翌年には普仏戦争で勢力が一変した欧米の視察団に加わります。ニューヨークに立ち寄った際に、ニューヘッドフォード立ち寄り、最大の恩人ホイットフィールド船長との再会を果たします。65歳と43歳になっていました。この出張が、最期の公務となりました。 -
晩年とプライベート
ロンドンで脳梗塞を起こし、万次郎は帰国。44歳で公務から身を引き、仕事一辺倒の生活から一転、家庭人となります。晩年は、東大を卒業して医師となった長男と同居しました。1898年に71歳で息を引き取ります。
万次郎は大のコーヒー好きで、琉球にボートで上陸した際に最初にしたことは、コーヒーブレイクでした。その後は、濃い抹茶に砂糖を入れた飲み物を好み、孫曰くコーヒーを偲んでいたのでは?とのことです。
酒を飲まない代わりに砂糖が大好きで、マグロのトロを少しの醤油と大量の砂糖で煮た「浜煮」が、中浜家に代々伝わります。鮪の代わりに牛肉も用いられました。 -
影響力
後藤象二郎/勝海舟/岩崎弥太郎/福沢諭吉を初め、直接面識のある人物のみならず、彼の著作等を通して、坂本龍馬等にも影響を与えます。土佐/薩摩で教壇に立ち、多くの倒幕派に影響を与えました。一方で、幕府役人にも影響を与え、幕末が破綻しないよう陰で支えた恩人でもあります。 -
ウツボのたたき
安定の調理法。皮のねっとり感と身の旨味が余すところなく堪能できます。
余談ですが、江戸時代に「鰹のたたき」は、鰹の塩辛を意味しました。生身を火で焙る調理法は、皮の面だけ焙る「焼き切り(県西部)」に端を発します。新鮮な鰹の皮は、堅くて生食に適さないことが背景にあります。皮を剥ぐと、脂など美味しい部分も剥がれるので焙りました。
※高知県東部では「鰹の焼き切り」は、カツオのたたきを指します。紛らわしいです。 -
ウツボの刺身
鮮度と包丁捌きがネックとなるゆえ、かなり稀な一皿。とはいえ、ウツボの身は加熱してこそ絶品になるということを勉強した料理でした。 -
ウツボの皮の湯引き
絶品です。コラーゲン由来の食感と深い味わいを堪能して、刺身の物足りなさを再認識させられます。ポン酢との相性も抜群です。酒のつまみにも向きます。 -
ウツボの天ぷら
たたきと並ぶベストな調理法。ここでは天つゆではなく塩が提供されます。コスパも最強です。 -
土佐ガツオ
鉄板です。これとは別に、プラザパル内のスーパーで鰹の刺身パック(前日加工のため半額商品/土佐清水産)をいただきましたが、口の中でネットリまとわりつく食感で、鮮度抜群の証です。
現在、土佐清水市は宗田節と清水サバ(ゴマサバ)をブランディングしています。宗田節は市のマスコットキャラクターです。ゴマサバは、新鮮でないと刺身にできません。この日は水揚げがありませんでした。 -
鰺フライとキビナゴのフライ
1888年時点で、現在の市域の人口が28000人、1955年頃がピークで34000人、2024年は、11000人。19世紀の1/3しか住んでいないというのは、かなりヘビーな統計結果です。漁獲量減少も、水資源枯渇よりも人材不足の方が深刻という状態です。
次は、宿毛市を訪れます↓
https://4travel.jp/travelogue/11910136
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この旅行記へのコメント (2)
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- gianiさん 2024/09/14 07:03:58
- 返信
- おたより有難うございます
「久々に土佐清水へ行ってみた」を拝見しました。
5月に観た懐かしい光景と、ローカルな話題が満載で楽しかったです。
清水の地名の由来の件ですが、中浜から市街までのバスの本数が少なく、歩いて向かう途中に偶然スポットを見つけたというのが事実です。現地に説明板があり、詳しい経緯を知りました。
ローカルネタは、図書館で市の刊行物を閲覧したり、現地で出会った方からの情報、現地を徘徊して見つけた内容がベースです。帰宅後にネット検索、グーグルマップのスポット情報も閲覧しました。ウォーキングは大事な要素で、たとえ移動のための歩行で目にした光景でも、帰宅後に知った多くの情報とリンクされるメリットがあります。
越の特攻隊基地や天狗山のレーダー基地等は、郷土の戦争の記憶を継承する目的で、多くの刊行物で取り上げられていたと記憶します。
-
- くわさん 2024/09/06 12:12:56
- 土佐清水旅行記を拝見しました
- gianiさん、はじめまして。
足摺岬、土佐清水旅行記を拝見しました。
地元の人も知らない内容で驚いています。
清水の地名の由来なぜご存じなのですか?
伊佐がクジラを意味することも初めて知りました。
地元の人が「防空壕、防空壕」と言っていた越の特攻基地のこと、なぜご存じなのですか?
あなた様は一体何者?
失礼しました、他の旅行記も拝見したいと思います。
https://4travel.jp/travelogue/11926767
くわ
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