2024/05/19 - 2024/05/19
20位(同エリア56件中)
gianiさん
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この旅行記スケジュールを元に
愛媛との国境に面した宿毛は、江戸時代に土居廊中と呼ばれる防衛都市が築かれ、藩主の一族が配置されました。そんな歴史詰まる町を学んで散策します。
併せてスルーされがちな平田も巡ります。
土佐成立以前に遡る波多国誕生の地、戦国時代に異質の公家大名土佐一条氏ゆかりのスポット、近世の民俗遺産である泊り屋めぐりと興味深い地区で、徒歩で回ることも可能です。
- 旅行の満足度
- 5.0
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土佐清水市街プラザパルから出発です。
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宿毛市に入ると道の駅が。
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ふしぎな建物が。浜田の番屋のレプリカです。
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細長い宿毛湾沿いを延々と走ると、
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松田川河口に形成された宿毛の新市街が見えます。
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100分ほどのドライブで、宿毛駅へ到着。
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構内の観光案内所で情報収集。
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駅前には、高知県名物の避難タワー。
とにかく津波と縁が切れない土地柄です。 -
遥か彼方の本州/高知と繋がる線路は、ここで終わりです。
1974年に着工、不採算路線として6年の中断を経て1997年に開通しました。 -
旧市街の歴史館で、学びます。
宿毛=やどげ/しゅくげ等と誤読されるとの自虐記述がありました。「すくも」と読みます。展示は要点に絞っているので、ストレスのないボリュームです。歴代の学芸員さんは熱心なので、半端なく詳細な歴史を公式ウェブに上げています↓
https://www.city.sukumo.kochi.jp/sisi/m003.html -
文化交流
旧石器時代より、九州との交流が盛んです。弥生時代には、稲作発祥の地(板付遺跡/福岡市 2300年前)から、いち早く稲作が伝わっています。高知市よりも、豊後水道を挟んだ大分の方が近いという地域性があります。 -
水系
宿毛湾に注ぐ松田川は、市内最大の河川です。東部には、四万十川支流の中筋川も流れます。
2-3世紀には、用水路建設で栽培範囲は広がり、生産量も増加します。 -
ヤマト政権下
中筋川上流の平田地区を拠点とする波多(はた)国が成立し、高知県西部を統治しました。東部の都佐(とさ)国よりも早い成立です。地元豪族が、国造が任命されました。 -
波多国の中心は、時代と共に平田から徐々に東側へ移動していきます。
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平田古墳群
5世紀前半のものと思われる曽我山古墳が代表格です。1948年の開発で、原型はとどめていませんが、県下唯一の前方後円墳です。出土物(写真)には鉄剣が含まれ、希少かつ高価、石剣と段違いの切れ味。権威と武力の象徴でした。 -
高岡2号墳の出土物(写真)は、4世紀前半のものです。
9世紀に編纂された『国造本記』によれば、波多国は第10代崇神天皇の治世に神詫で天韓襲命が国造に任命されます。都佐国は第13代成務天皇の治世になって国造が任命されています。一般に、曽我山古墳が天韓襲命のものだといわれます。 -
律令制
大化の改新の翌646年、波多国と都佐国を統合して土佐国が誕生します。7つの郡より構成され、旧波多国は幡多郡となります。
国司は中央政府から派遣され、郡司は地元の豪族を起用します。郡の下の行政単位は郷で、幡多郡は大方/鯨野/山田/枚田(ひらた)/宇和の5郷で構成されます。
※律令国は大/上/中/下にランクされ、土佐は中国ランクでした。 -
律令制では国土を五畿七道に区分し、土佐は南海道(紀伊/淡路/四国)に属します。都と国府を結ぶ官道(今でいう国道)が整備され、紀伊/淡路/阿波/讃岐/伊予を経由して土佐に通じます(図上)。南海道は宿毛から土佐に入り、東進して土佐国府まで通じました。当時旧波多国や宿毛は、土佐で都に一番近い土地でした。
※8世紀に室戸岬経由に変更され、都から一番遠い土地へ陥落します。 -
中世
南海道の果てということもあり、都からすると土佐は南の果てという認識でした(緯度上の南端は薩摩ですが、九州は西の果てと認識されました)。そんなこともあり、遠流の地に指定されます。平治の乱で頼朝の弟である源希義も、土佐へ流されます。頼朝挙兵に呼応した際に、平田村の平田太郎俊遠は希義を討っています(1182)。
幡多郡は幡多荘が大勢を占め、平重盛→源頼朝→(遅くとも1206年までには)九条家→一条実経へ相続されます。こうして五摂家とのつながりができます。 -
幡多荘は、宿毛市域では山田付近のみでしたが、平田村/宿毛村などにも及びます。
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先の関白が幡多へ下向!
応仁の乱で京は混乱し、貴族が畿内へ疎開するなか、一条教房は自らの所領の幡多荘への移住を決行します。多くの所領の中で幡多荘を選んだのは、海運/貿易を見据えてのことと思われます。自ら領地経営に乗り出し、幡多荘のみならず幡多郡を統一します。平田村/宿毛村には、荘官が配置されます。 -
土佐一条家
一条教房は幡多の豪族を後妻に迎え、生まれた一条房家は土佐一条家を擁立します。宿毛市には、土佐一条氏ゆかりのスポットがあります。
※先妻との間に生まれた冬良が京都で嫡流を維持しますが男子に恵まれず、房家の三男(房通)を養子に迎えます。 -
房家は平田周辺を気に入り、菩提寺として藤林寺を開きます(1513)。中央政界とのパイプも保って土佐国司も務め、名実ともに公家大名として土佐に君臨します。
房家は、勢力争いで裸一貫になった幼い長宗我部元親も庇護します。 -
幡多郡の総鎮守として、山田八幡宮も造営します。
八幡宮は、戦いの神です。
写真は兜の大鍬形で、武運長久を願い1444年に奉納されました。 -
同時期に奉納された神楽面。
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凋落
土佐一条氏4代目の兼定は平田でお雪を見染め、彼女のために平田御殿を建てて政務をおろそかにします。それを諫めた家老を手打ちにすると、家臣に追放されて豊後の大友宗麟(義父)の下へ逃れます(1574)。 -
一条房家に匿われて脈を繋いだ長曾我部元親は、地元へ戻り土佐中部を統一します。そして、土佐一条氏を倒して土佐/四国を統一します。豊臣政権下では土佐を安堵されます。
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一条兼定は大友宗麟の支援で土佐へ再上陸し、長宗我部元親と決戦に挑みますが敗北し、追放された土佐一条氏は滅亡します(四万十川合戦1575年)。
土佐を統一した長宗我部氏は、幡多郡で中村上に次ぐ拠点として宿毛城を位置付け、西の守りを固めます。 -
関ヶ原で西軍に組した長宗我部氏は改易され、山内一豊が土佐藩主になります。宿毛城には、甥の安東可氏(よしうじ)を封じます。可氏の母は一豊の姉で、名前を通(つう)といいます。血縁関係から山内姓を与えられ、宿毛山内氏として明治まで宿毛を治めます。現在は、原姓の伊賀を使用しています。
※嫡流は山内、傍系は安東を名乗ります。 -
宿毛城付(写真)
山内一豊のお墨付きで、宿毛6,000石を宿毛山内初代の可氏に与えています。中村3万石/佐川1万石に次ぐ石高です。
可氏は6000石の幾らかを家臣たちに与えますが、6割以上を直轄地として維持します。 -
可氏は宿毛の城下町を整備し、城の南に武家町、通りを挟んでさらに南に町人町を建設します。1615年の一国一城令で宿毛城は棄却され、山の麓に陣屋を築きます(土居)。
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17世紀の宿毛絵図。
右上に宿毛山内氏の屋敷、左側には寺院が並列します。その南には家臣たちの屋敷、その南には商人町、周囲は田畑です。街には3本の用水路が通っています。
宝永大地震(1707)では津波で山内氏居館以外が全て破壊され、再建されました。 -
通は一豊よりも12歳年上で、美濃国北方城で結婚生活を送りました。それゆえに北方様と呼ばれます。息子に同行して宿毛で1606年に生涯を終えています。写真は、末裔の伊賀家が所有する通の遺品。
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通の長女は、佐川1万石の筆頭家老深尾重良に嫁いでいます。
写真は、李朝初期作品の能川茶碗。 -
野中兼山と宿毛
宿毛山内家2代目の定氏は、野中兼山夫婦とまたいとこの関係でした。さらに、兼山妻の市は、定氏の姪にもあたります。こうした血縁関係で、宿毛は兼山と深い関係にあります。
山内一豊との血縁関係を武器に果断に藩政改革を行った野中兼山(1615-64)は、宿毛土居を松田川の氾濫から守るために総延長2.8kmの堤防を築きました。要衝である柏島にも築堤を築きます。柏島石堤 名所・史跡
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国境問題(1658-60)
隣接する宇和島藩との国境問題がこじれて、幕府に裁定を求めることになりました。兼山は能力を発揮し、土佐藩に有利な裁定を導き出します。老中たちも舌を巻く有能さでした。宿毛沖の沖ノ島は、島の南北で統治する藩が違うユニークな島です。
※現在は、島全体が宿毛市域になっています。実は沖の島は、横山やすし生誕の地です。沖の島 自然・景勝地
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兼山失脚
野中兼山は30年に渉って強力に藩政改革を行った一方で、儒教思想に基づく強引さも際立ち、支配層や領民の反感も強まり失脚、3か月後に病死します。死後に告発され、墓も暴かれます。写真は、長大な野中兼山の生前の「罪状」です。伝右衛門(兼山)の不届の所行は言語に絶する(6つの罪状)という内容です。 -
兼山の遺児8名は、罪人として高知から土佐山内家の宿毛へ移され、幽閉されます。息子たちが全員死亡して男系が途絶えた時点で、生き残った娘たちが解放されました。幽閉は40年におよび、娘たちも子孫を残すことは不可能でした。土佐人の執念深さにゾッとします。
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山内節氏(在職1646-98)
宿毛山内氏3代目の節氏は15歳で家督を継ぎ、兼山の影響を受けて、兼山失脚後も領内(図:クリーム色)各地を開発します。18か所で新田開発(緑)を行って1500石(150ha)の田畑を増やし、28か所の用水地(赤丸)、10か所の井関、6か所の堤防構築(総延長36km)を行います。 -
節氏の功績は、清文公一代記に詳述されています。
宿毛山内家の家臣は、高知城の山内家に直接仕えていないので(陪臣)、宿毛武士としてのアイデンティティが形成されます。武士の実務は戦士ではなく,役人ということで教育が重視されます。郷校が開設され、家臣の底上げが図られます。幕末以降、多くの有能な人材を輩出します。 -
独自の発展
宿毛山内家の家臣は、高知城の山内家に直接仕えているわけではないので(陪臣)、宿毛武士としてのアイデンティティが形成されます。武士の実務は戦士ではなく,役人ということで教育が重視されます。郷校が開設され、家臣の底上げが図られます。幕末以降、多くの有能な人材を輩出します。 -
宿毛機勢隊
宿毛でも尊王/倒幕の機運は盛んで、戊辰戦争では土佐藩とは別に二個小隊を結成して御所へ参じます。機勢隊の名称を賜り、北越戦争に参加します。写真は、官軍であることを表す錦の御旗。新政府では、多くの宿毛人が要職に就いて活躍します。岩村三兄弟、竹内綱等が有名どころです。 -
小野義真(1839-1905)
明治政府で要職を経た後、日本鉄道(現在のJR東日本の路線網)を創立。三菱の顧問となり、岩崎弥之助/井上勝と頭文字を採った小岩井農場を設立。 -
竹内明太郎(1860-1928)
明治維新等で活躍した竹内綱の長男。父親の竹内鉱業(高島炭坑等)を引き継ぎ、コマツ製作所等を創立。吉田茂の兄。 -
吉田茂(1878-1967)
言わずと知れた戦後の宰相。竹内綱の五男として生まれ、3歳で吉田家へ養子入り。英国大使時代に三国同盟に反対して罷免、開戦阻止/和平/終戦策と一貫した行動ゆえに投獄も経験、終戦後は外務大臣/首相として戦後処理に当たります。宿毛歴史館 美術館・博物館
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旧市街のうち、宿毛土居に該当する部分。
歴史が詰まったエリアから、実際に歩いてみます。まずは、マップ右上の石鎚山と領主館から。 -
宿毛城址
元々は、地元勢力の松田兵庫にちなんで松田城と呼ばれました。
1575年に長曾我部元親が攻略し、一族を配しました。
土佐藩制下では山内一豊の甥にあたる山内可氏が城主に。 -
伊賀邸跡
豊臣氏が滅びた1615年に一国一城令が出され、土佐国では高知城以外の城は取り壊されます。山内可氏は城の麓に居館(土居)を構えます。現在は、幼稚園/宿毛中)になっています。土佐山内氏は、佐川の深尾氏/安芸の五藤氏と共に代々藩の土居付家老を務めます。 -
県道4号線越しに、居館と城跡を捉えた構図。
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城の東側には、松田川が流れます。防衛の要です。
1654年に氾濫し、山内節氏は米俵を積んで洪水を防ぎます。節氏の傷みを伴う英断に藩主の山内忠豊は感心し、藩の事業として宿毛総曲輪(堤防)が建設されることになります。 -
宿毛総曲輪(1658-)
宿毛土居を囲むように逆L字型に曲がる松田川に沿って、土居の東西南面を囲みます。土居の北面は山が守ります。写真は、土居側から写した総曲輪。 -
荒瀬川が合流する東宿毛駅付近は、堤が二重になっています。
現在も旧市街の生命線となっています。
幡多郡7万石の領民を動員して建設。あまりにも過酷な賦役ゆえに、水が凍って工事が休みになることを願いました。 -
向こう岸(左岸)の堤防は、右岸よりも2,3m低く築かれ、増水時は土居対岸の和田/坂ノ下村の水田が犠牲(浸水)になることで守られました。
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左図の青線が宿毛総曲輪。総延長2.8km。
右図は、河戸堰。 -
河戸堰(1658-1997)跡
領主居館のすぐ下流で松田川を堰き止め、用水路の取水口を建設しました。全長145m幅23mで湾曲した石畳です。 -
現地には井堰横の取水口が残っています。水は高い所から低い所へ流れるため、(電動汲み上げポンプ登場前の)用水路は川面より標高の低い所を流れることになります。なので川を堰き止めて水位を上げて取水口から取り込むようにしました。
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井堰は増水時に洪水リスクが高まるために、1997年に可動堰へ変更されました。
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とはいえ、野中兼山の遺構は現在も残っています。船の往来のための井越です。
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宿毛土居内部に戻ります。
バス通りを挟んで北側(写真右側)が領主居館/田畑/奉公人宅で、南側(写真左側)が家臣の屋敷です。 -
宿毛小学校には、野中兼山の遺子8名が幽閉された小屋が建ちました。
米(18)は嫁いで子も成していましたが、離縁させられ悲しみに暮れて3年後に死亡します。跡取の清七(16)は31歳で死亡し、高知から検死のために役人が派遣されます。弟の欽六明継(15)は、兄の死後に発狂し34歳で死亡します。 -
17世紀の絵図では、幽閉地(赤色)が描かれています。小学校の用地は、用水路が横断し、対岸は水田になっています。
希四郎継業(8)は42歳で、貞四郎(2)は41歳で死亡し、男系は途絶えます(1703年)。生き残った三姉妹は釈放され、寛は46歳/婉は43歳/将は42歳になっていました。婉は高知市朝倉で医師になり、1725年に66歳で死亡します。
※8人とも数え年。貞四郎は生後5か月で幽閉。 -
旧電電公社/NTT庁舎の一角。
北方様(山内一豊姉の通、山内可氏の母)によって妙栄寺が開基され(1601)、1606年に亡くなると菩提寺になります。1961年に電報電話局建設のために移転します。 -
電話交換局は無人化され、テナントとして日本生命が入っています。
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妙栄寺跡地の裏山には、東福院があります。
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北方様の菩提寺の裏(東福院)には、山内可氏(息子)の墓が。現在も伊賀氏の菩提寺です。
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可氏の左には、妻の墓碑が。夫よりも立派です。
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更にその左には、可氏の娘で兼山の養母/兼山正妻市の母よめの墓が。
※兼山は野中家へ養子入りしています。 -
可氏の右には、野中兼山正妻の市の墓が。彼女は罪に問われませんでした。
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山内可氏墓の奥には、兼山遺児の墓があります。
※長女米の墓は不明、三女婉の墓は高知にあります。 -
手前の2つは、長男清七、次男の墓、奥がその他遺児の墓です。
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東福院山門付近には、河戸堰より採られた用水路が山内氏居館前を経て流れています。向こうには、市役所庁舎が写っています。当時は、奉公人の住居エリアでした。
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再び土居の前へ戻り、川沿い(県道4号線)の街並みを歩きます。
土佐山内家の家臣団の屋敷が並びます。土居を70軒ほが取り囲み、土居廊中という防衛機能を果たしました。 -
竹内綱/明太郎/吉田茂邸跡
17世紀の絵図でも、臼井家の次が竹内家になっています。重臣の屋敷のせいか、敷地が広いです。 -
講授館跡(1831-34)
その南には、郷校と呼ばれる宿毛山内氏家臣の子弟向けの教育機関が存在しました。第10代山内氏固(在1811-56)は、家臣の底上げを図りました。 -
講授館跡は、宿毛文教センターになっています。1階は図書館、歴史館は3階に入っています。安政大地震(1854)後の絵図では、会所(役所)になっています。
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広小路
講授館の南は広小路で、宿毛土居のメインストリートです。100mほどで道幅が急に狭くなっています。このエリアは有事に兵を集結させるスペースとして広くなっています。 -
文館跡(1863-65)
上の写真で広小路が狭まっている部分には、講授館の後釜である文館が設置されました。正確には物産方役所の一角に間借りしたという構図です。 -
余談ですが、野中兼山遺子が幽閉された現在の宿毛小学校は、文館の後釜である日新館が存在しました。
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野中兼山遺子が幽閉された区画には、安政大地震後岩村家が移転して、岩村3兄弟も生活しました。先述の文館では、岩村通俊が教務主任を務めました。
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広小路に戻って西進します。現在本町通り商店街として、旧市街の目抜き通りとなっています。郵便局から松田川方面を振り返った構図。
当時も町屋が並ぶ賑やかな通りでした。 -
土居の目抜き通りは、宿毛~高知を結ぶ藩随一の街道です。と同時に、宇和島に通じる道でもありました。町中にある宇和島自動車の営業所は、それをあらわしています。お遍路さんの姿が、いかにも四国的。
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小野梓生誕地
土佐の自由民権運動といえば板垣退助らの自由党が大勢ですが、小野梓は立憲改進党の大隈重信と共に歩みます。早稲田大学の設立にも尽力しましたが、33歳で夭折。安政大地震に伴い、生後2年間で移転。現在は四国電力になっています。
土佐の民権運動は草の根レベルで浸透し、強権を行使したい明治政府にとって頭痛の種でした。 -
宿毛大庄屋屋敷跡
複数の庄屋を取りまとめたのが大庄屋で、専ら小野家が務めます。機勢隊結成を促し、姫路城等の文化財保護を保護した中村重造は、大庄屋小野修一郎の弟です。
大庄屋宅は宿毛土居の入口に面し、ここより西(写真左枠外)は農村でした。
屋敷跡は、愛媛銀行になっています。 -
愛媛銀行(大庄屋宅)から宿毛土居へ入ろうとすると、極端に道幅が狭くなっています。防衛上、土居の入口で宿毛街道がクランクしていた名残です。現在は手前のクランク部分を取り払って道幅を広くしています。
※交通安全を鑑みて現在の辻は十字路に整備されていますが、当時はわざとクランク状にして敵の行軍を遅らせました。 -
宿毛一里塚跡
土佐藩は、阿波国境の甲浦から伊予国境の松尾峠間で一里毎に塚を築いて、目印/休憩所としました。 -
一里塚の先には、宿毛で一番有名な来々軒があります。昼営業のみの狭き門です。
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なんともいえない旨味があります。飽きの来ない味です。ライスとの相性も抜群です。
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向こうに見える山は松尾峠。宇和島藩との国境で、番所が置かれ厳しいチェックが行われました。土佐藩は厳格で、お遍路は松尾峠と甲浦以外の番所は通過が許されませんでした。
宿毛文教センターへ戻ります。 -
広小路を挟んで文教センターの南側は、林有造旧宅。
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1889年築の歴史ある建築を保存しています。
宿毛まちのえき林邸 美術館・博物館
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林有造
機勢隊結成に携わり、初代高知県知事(参事)を務め、膏取り一揆を武力行使せずに鎮圧します。立憲制下では、閣僚も経験します。岩村3兄弟の次男で、林家に養子入りしています。3代にわたって大臣を輩出します。 -
有造が着用した機勢隊の傘
宿毛山内家の家紋が入っています。 -
貴重な北海道産の古木が使用されています。
兄が初代北海道庁長官だった縁です。 -
見張り部屋があるのが、政治家らしいところ。玄関を見下ろして、刺客や不審者を見張りました。
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市民スペースとして開放するにあたり、建築基準法を遵守するために階段の段数を増やしています。オリジナルとの違いが、階段の箪笥の引き出しから分かります。
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雰囲気の良いカフェも併設しています。
林邸カフェ グルメ・レストラン
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林邸の南側には、水道通りが通ります。河戸堰の取水口から真っ直ぐ伸びる水路が通り沿いに現存しています。
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水道通りの一筋南は、真丁商店街。
安政の大地震後に区画整理されて誕生した地区です。
戦後は、宿毛街道と並ぶ商業エリアでした。 -
昭和30年代の真丁商店街。
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通り沿いには、箸拳発祥の地、向かいには町庄屋宅跡が。
町庄屋は商人町に置かれ、代々岡添家が務めました。現在はビジネス旅館吉の家および喫茶ラセーヌになっています。 -
宿毛モーニングというローカルなカルチャーを継承する老舗です。昼前には営業終了します。
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まっすぐ進むと
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少なくとも夕方まではゴースト化している名店街で、
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名店街で唯一営業していたお店。水道通り側にあります。
創業者がいまだ現役の有名店。中高生時代出会っていたかったお店。キリンハウス グルメ・レストラン
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値段を改定した痕跡がほぼない良心的なお店。
憧れの都会の風を感じさせる古き良きお店。
アメリカ西海岸を意識した店内とメニューです。 -
実家は精肉店で、マクドナルド1号店が銀座にオープンしたことに触発されたそうです。
特別おいしいわけではないですが、三世代にわたるユーザーがいることは納得のお店。会計時は、円の代わりに~万円ですとやりとりする楽しいおじいちゃんでした。 -
このエリアは唯一の飲み屋街。
土佐清水にはない光景で、宿毛は都会だと感じさせます。会員制ラウンジもあります。 -
真丁商店街の南側には、3本目の用水路が。江戸時代は田畑として描かれたエリアです。
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津波避難タワーもあります。
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県道4号と国道56号線を越えると、土佐くろしお鉄道東宿毛駅。
ホームから旧市街を望みます。左の山は東福院のある本城山。東宿毛駅 駅
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駅の向かいには、昭和6年竣工と刻まれた古い橋。
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一山越えると平田駅です。
平田駅 (高知県) 駅
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曽我山古墳
初代幡多国造天韓襲命の墓とされます。110mありましたが、殆どが削られました。
現在は、民有地です。 -
四万十川水系の中筋川を遡ると、
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高知坐神社
平田城跡の山に鎮座。境内からは古墳時代の発掘物が出土しています。
延喜式内社(勅撰神社)で、幡多三社の一つです。
主祭神は事代主神で、神武天皇の岳父です。
※県庁所在地の高知は河内を改称した地名なので、当地とは無関係です。高知坐神社 寺・神社・教会
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事代主神の末裔である天韓襲命が祀ったのが始まりとされます。事代主神は宣託の神であるので、天韓襲命が宣託で波多国造に任命された故事にマッチします。平氏/源氏/土佐一条氏/土佐山内氏等、時の権力者に庇護されました。
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藤林寺
対岸には郷の城等9つの城跡があります。小さな谷口に藤林寺があります。 -
土佐一条氏の初代房家が藤の花が咲き乱れる当地を気に入り、菩提寺にしました。土佐と京を行き来して、中央政界でもしっかりと官位/人脈/利権をキープした公家大名です。
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お墓の下は蔵。
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旧藤林寺蔵の誕生仏
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旧藤林寺蔵の明の花瓶
一条房家が大陸との貿易で栄えていたことの証左です。 -
お雪入水の地
土佐一条家4代目の兼定は、鷹狩の際に寺尾の百姓の雪という娘を見染めて平田に御殿を建てて雪を囲い、鷹狩と称して毎日通います。それを諫めた土居宗算は兼定に手討ちにされ、それを機に家臣団は兼定を隠居させ幽閉します。それ嘆いた雪は、平田の淵に身投げしました。 -
近所の田んぼのど真ん中、こんなロケーションです。当時は深い淵でしたが、区画整理で水田になっています。
平田駅/曽我山古墳/高知坐神社/お雪入水の地/東林寺はお互いの距離が近いので、徒歩で簡単に周遊できます。 -
兼定が雪に贈った衣
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平田駅を素通りして、国道56号線を2kmほど東進します。ちなみに国道沿いに1km西進すると、お雪の出身地の寺尾です。
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B級グルメの名店スワロー会館。
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県下では有名なお店。土曜休日。野菜炒め牛/豚の2種類しかない名店。
天下茶屋 グルメ・レストラン
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芳奈口で国道を分かれ、しばらくして左カーブする道を後に細い道を直進(写真)すると、浜田の泊り屋です。
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浜田の泊り屋(国の重文指定)
中世~近代の特に西日本に見られた風習“若衆組”の拠点となった建物です。
高床式で別名”櫓”、戦国時代に一村一域に建てられた見張櫓を起源とします。成人前の男性が共同で寝泊まりしながら、警備/村の運営を学ぶ村落経営システムの中核でした。娯楽/交流の場でもあり、結束を深めました。現在は、右の集会所が役割を担います。 -
幡多で180箇所を数えましたが、自由民権運動に端を発する若者の夜学浸透、風紀を乱す等の理由で次々に取り壊され、今では宿毛市山奈町の芳奈地区に、わずか4軒を残すのみとなっています。
※男女交際の場/夜這いの拠点でもあり、民法とそぐわない部分がありました。毎晩酒を飲んで騒ぐのも、否定的にとらえられます。 -
浜田の泊り屋は、床面積273cm四方と大型です。四隅は栗の木の姿が残る柱です。
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屋根は入母屋造で、改築も1882年と歴史があります。
ハシゴを掛けて中へ入ります。 -
さらに進むと、
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道の川の泊り屋
県の重要文化財です。 -
こちらは梯子が付いています。
これらが残ったのは、女子禁制の掟が存在したためです。 -
畳6枚敷
googlemapでヒットしない芳奈下組の泊り屋の位置情報が、市のサイトに上がっていました↓
https://www.google.com/maps/@32.9691701,132.7960096,17z?hl=ja&entry=ttu -
おまけ
宿毛で地魚をいただきました。
隣の大月町と愛南町(愛媛県)出身のご夫婦が営んでいます。 -
宿毛と言えば、キビナゴ。天ぷらでいただくと最高です。
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高知県でしか食べられないウツボをひたすら追い求めます。
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とんごろのから揚げ。食感が良く、ビールとの相性も抜群です。
次回は、中村(四万十市)を訪れます↓
https://4travel.jp/travelogue/11910284
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