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内宮<後編>は神楽殿や風日祈宮エリアを中心にレポいたします。<br />神楽殿は神に捧げる神楽を奉納する所で、ご朱印もこちらで授与していただけます。軒比翼唐破風の建物は、1978(昭和53)年に全面改築されたものでそれほど古くはありませんが、今まで参拝してきたモノトーンの神明造の社殿とのギャップがインパクト大です。また、前庭にある手水鉢「竜虎斑紋天然石水盤」は「石フェチ」には必見です。<br />風日祈宮御橋の南端にある擬宝珠は、宇治橋の外側から2基目のものに比べれば知名度は雲泥の差ですが、国内最古の擬宝珠であり、「太神宮 風宮 五十鈴川御橋 明応七年 戌午本願観阿弥 敬白」の銘が袋文字で陰刻されています。この擬宝珠については、神宮でももう少しアピールされても罰は当たらないと思いました。<br />また、宇治橋の近くにある大山祇神社と子安神社は神寂びた厳かな雰囲気が漂う聖地でした。「私幣禁断」が厳格な内宮の所管社でありながら、「子授かり」や「安産」、「子育て」を祈念するための半ば神宮公認の「奉納ミニ鳥居」が存在し、地元での篤い民間信仰が今でも連綿と息づいていることを再認識させられました。<br /><br /><br />

青嵐薫風 伊勢紀行⑨伊勢神宮 内宮(皇大神宮)後編

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2024/04/18 - 2024/04/19

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

内宮<後編>は神楽殿や風日祈宮エリアを中心にレポいたします。
神楽殿は神に捧げる神楽を奉納する所で、ご朱印もこちらで授与していただけます。軒比翼唐破風の建物は、1978(昭和53)年に全面改築されたものでそれほど古くはありませんが、今まで参拝してきたモノトーンの神明造の社殿とのギャップがインパクト大です。また、前庭にある手水鉢「竜虎斑紋天然石水盤」は「石フェチ」には必見です。
風日祈宮御橋の南端にある擬宝珠は、宇治橋の外側から2基目のものに比べれば知名度は雲泥の差ですが、国内最古の擬宝珠であり、「太神宮 風宮 五十鈴川御橋 明応七年 戌午本願観阿弥 敬白」の銘が袋文字で陰刻されています。この擬宝珠については、神宮でももう少しアピールされても罰は当たらないと思いました。
また、宇治橋の近くにある大山祇神社と子安神社は神寂びた厳かな雰囲気が漂う聖地でした。「私幣禁断」が厳格な内宮の所管社でありながら、「子授かり」や「安産」、「子育て」を祈念するための半ば神宮公認の「奉納ミニ鳥居」が存在し、地元での篤い民間信仰が今でも連綿と息づいていることを再認識させられました。


旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
高速・路線バス 私鉄

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  • 内宮の境内マップです。<br />今回のスタート地点は、荒祭宮からなだらかに下ってきた所に佇む忌火屋殿です。<br />https://www.isejingu.or.jp/download/pdf/map_naikugeku.pdf

    内宮の境内マップです。
    今回のスタート地点は、荒祭宮からなだらかに下ってきた所に佇む忌火屋殿です。
    https://www.isejingu.or.jp/download/pdf/map_naikugeku.pdf

  • 忌火屋殿(いみびやでん)<br />諸祭事の際、天照大御神の食事(神饌)を調理する場所、つまり台所に相当します。<br />外宮の忌火屋殿では毎日2回調理されていますが、内宮では祭事がある時のみ使われます。「忌火」とは「清浄な火」という意味があり、外宮同様に全ての火は御火鑽具(みひきりぐ)を用いて起こした忌火を使います。因みに屋敷内の煙は、屋根が重なっている所の隙間から排出される仕組みです。<br />手前の注連縄で囲まれた広場は祓所(はらえど)と呼ばれる祭祀のためのスペースです。用意された神饌とそれを捧げる役目を担った神職はここで清めの儀式を受けてから神前へと進みます。

    忌火屋殿(いみびやでん)
    諸祭事の際、天照大御神の食事(神饌)を調理する場所、つまり台所に相当します。
    外宮の忌火屋殿では毎日2回調理されていますが、内宮では祭事がある時のみ使われます。「忌火」とは「清浄な火」という意味があり、外宮同様に全ての火は御火鑽具(みひきりぐ)を用いて起こした忌火を使います。因みに屋敷内の煙は、屋根が重なっている所の隙間から排出される仕組みです。
    手前の注連縄で囲まれた広場は祓所(はらえど)と呼ばれる祭祀のためのスペースです。用意された神饌とそれを捧げる役目を担った神職はここで清めの儀式を受けてから神前へと進みます。

  • 御酒殿神・由貴御倉<br />神宮にある建物は「式年遷宮を繰り返し、創建時からその姿は不変」と思われる方も多いかもしれませんが、実はかなりの変化を経て現在に至っています。<br />大筋の変化の流れは「元の形から木材が太くなったりの成長」→「式年遷宮の停止(復興まで約120年)」→「復興(式年遷宮再開)」→「装飾などの過剰」→「修正(古代への復帰)」です。こうしたサイクルを経て、現在の姿になっているそうです。

    御酒殿神・由貴御倉
    神宮にある建物は「式年遷宮を繰り返し、創建時からその姿は不変」と思われる方も多いかもしれませんが、実はかなりの変化を経て現在に至っています。
    大筋の変化の流れは「元の形から木材が太くなったりの成長」→「式年遷宮の停止(復興まで約120年)」→「復興(式年遷宮再開)」→「装飾などの過剰」→「修正(古代への復帰)」です。こうしたサイクルを経て、現在の姿になっているそうです。

  • 由貴御倉(ゆきのみくら)<br />祭神には由貴御倉神を祀ります。他の所管社などの社殿とは様式が異なりますが、内宮の所管社のひとつです。「由貴」とは「清浄で穢れのない」という意味です。古くは由貴大御饌(神嘗祭などの際に供えられる神様の食事)に供える御料の御贄や果物などを納める食物庫でした。その用途が転じ、食物倉の守護神を祀るようになったそうです。<br />創建804(延暦23)年以前とされる社殿は、サイズこそ御酒殿よりひと回り小さいものの、板垣に囲まれて屋根には千木と鰹木が付けられています。

    由貴御倉(ゆきのみくら)
    祭神には由貴御倉神を祀ります。他の所管社などの社殿とは様式が異なりますが、内宮の所管社のひとつです。「由貴」とは「清浄で穢れのない」という意味です。古くは由貴大御饌(神嘗祭などの際に供えられる神様の食事)に供える御料の御贄や果物などを納める食物庫でした。その用途が転じ、食物倉の守護神を祀るようになったそうです。
    創建804(延暦23)年以前とされる社殿は、サイズこそ御酒殿よりひと回り小さいものの、板垣に囲まれて屋根には千木と鰹木が付けられています。

  • 御酒殿神(みさかどののかみ)<br />社殿らしきものと言えば、正面に立てられている蕃塀くらいです。蕃塀とは邪なるものの侵入をシャットアウトする霊的な防御壁です。<br />古くは倉や大炊屋などの建物も付属しており、諸神に供える神酒を醸造する場所でした。しかし次第に忌火屋殿で醸造するようになり、現在は三節祭に供える神酒(白酒・黒酒・醴酒・清酒)を一時的に納め、これを奉下して神前に供えるための酒造庫になっています。祭事の前には「御酒殿祭」が行われ、神前に供える神酒が美味しく醸造されるよう祈願し、併せて日本全国の酒造業の繁栄を祈願します。<br />因みに白酒や黒酒は古来の「どぶろく」であり、濁酒の製法によるものです。いわゆる甘酒に近い醴酒であり、アルコール度数は1%未満です。

    御酒殿神(みさかどののかみ)
    社殿らしきものと言えば、正面に立てられている蕃塀くらいです。蕃塀とは邪なるものの侵入をシャットアウトする霊的な防御壁です。
    古くは倉や大炊屋などの建物も付属しており、諸神に供える神酒を醸造する場所でした。しかし次第に忌火屋殿で醸造するようになり、現在は三節祭に供える神酒(白酒・黒酒・醴酒・清酒)を一時的に納め、これを奉下して神前に供えるための酒造庫になっています。祭事の前には「御酒殿祭」が行われ、神前に供える神酒が美味しく醸造されるよう祈願し、併せて日本全国の酒造業の繁栄を祈願します。
    因みに白酒や黒酒は古来の「どぶろく」であり、濁酒の製法によるものです。いわゆる甘酒に近い醴酒であり、アルコール度数は1%未満です。

  • 五丈殿<br />建物正面の長さ(一丈=約3m)から「五丈殿」と呼ばれます。<br />祭事は天候に関わらず挙行されるため、雨天の際には祓所に代わってここで神饌などを祓い清めます。その他、摂社以下の遙祀や式年遷宮諸祭における饗膳の儀(=儀式としての祝宴)が行われます。<br />毎年行われる「1月11日御饌」では、ここで古式ゆかしい歌舞「東遊」が奉行されます。尚、神宮の祭典の際には「黒と白」の鯨幕が用いられます。一般的に慶事は「紅と白」と思われますが、黒は格式高い色だそうです。そのため、皇室の儀式の際は「黒と白」の鯨幕が使われています。「鯨」の名が付いた由来は2つの説があります。1つ目は、鯨の体の背中側が黒く、腹側が白いことからの連想です。そして2つ目は、鯨を切り分けた際に黒い皮を剥ぐとその下に白い脂肪が付いていることからの連想です。

    五丈殿
    建物正面の長さ(一丈=約3m)から「五丈殿」と呼ばれます。
    祭事は天候に関わらず挙行されるため、雨天の際には祓所に代わってここで神饌などを祓い清めます。その他、摂社以下の遙祀や式年遷宮諸祭における饗膳の儀(=儀式としての祝宴)が行われます。
    毎年行われる「1月11日御饌」では、ここで古式ゆかしい歌舞「東遊」が奉行されます。尚、神宮の祭典の際には「黒と白」の鯨幕が用いられます。一般的に慶事は「紅と白」と思われますが、黒は格式高い色だそうです。そのため、皇室の儀式の際は「黒と白」の鯨幕が使われています。「鯨」の名が付いた由来は2つの説があります。1つ目は、鯨の体の背中側が黒く、腹側が白いことからの連想です。そして2つ目は、鯨を切り分けた際に黒い皮を剥ぐとその下に白い脂肪が付いていることからの連想です。

  • 神楽殿<br />神に捧げる神楽を奉納するのが神楽殿であり、神に供物を捧げる御饌殿の役割も担っています。また、祈祷の受付やお札、お守り、ご朱印などの授与をしていただけます。<br />江戸時代には御師の屋敷に神楽師が回ってきて太々(だいだい)神楽を奉納したそうですが、1871(明治4)年に御師の祈祷が禁止されたことから、神楽を奉納する新施設として建造されたのが神楽殿です。随所に配された「菊の紋章」が建造の時代背景を黙して語ります。<br />現在の銅板葺、入母屋造、軒比翼唐破風の建物は、元の御殿(神楽殿・御饌殿)の老朽化により1978(昭和53)年に全面改築されたもので、一部に鉄骨構造を採用しています。

    神楽殿
    神に捧げる神楽を奉納するのが神楽殿であり、神に供物を捧げる御饌殿の役割も担っています。また、祈祷の受付やお札、お守り、ご朱印などの授与をしていただけます。
    江戸時代には御師の屋敷に神楽師が回ってきて太々(だいだい)神楽を奉納したそうですが、1871(明治4)年に御師の祈祷が禁止されたことから、神楽を奉納する新施設として建造されたのが神楽殿です。随所に配された「菊の紋章」が建造の時代背景を黙して語ります。
    現在の銅板葺、入母屋造、軒比翼唐破風の建物は、元の御殿(神楽殿・御饌殿)の老朽化により1978(昭和53)年に全面改築されたもので、一部に鉄骨構造を採用しています。

  • 神楽殿<br />一般的には、伊勢神宮の神紋は「花菱」と「十六葉八重表菊花紋」とされています。花菱紋は別名「唐花菱紋」とも言い、割り菱の四隅の形を花弁のように美化した図象です。菱紋様は、日本最古のもののひとつとされ、正倉院御物などに見られ、奈良時代より使用されてきた古紋様です。<br />一方、丹羽基二著『神紋総覧』には「花菱を神紋とみるむきもあるが、やはり飾り模様である。お伊勢さまには神紋はない」との記述もあります。つまり、正式には伊勢神宮には神紋はないようです。飾りのなかった白木造の神殿に、後世に使われた飾り金具の花菱が神紋代わりになったと言うのが真相のようです。

    神楽殿
    一般的には、伊勢神宮の神紋は「花菱」と「十六葉八重表菊花紋」とされています。花菱紋は別名「唐花菱紋」とも言い、割り菱の四隅の形を花弁のように美化した図象です。菱紋様は、日本最古のもののひとつとされ、正倉院御物などに見られ、奈良時代より使用されてきた古紋様です。
    一方、丹羽基二著『神紋総覧』には「花菱を神紋とみるむきもあるが、やはり飾り模様である。お伊勢さまには神紋はない」との記述もあります。つまり、正式には伊勢神宮には神紋はないようです。飾りのなかった白木造の神殿に、後世に使われた飾り金具の花菱が神紋代わりになったと言うのが真相のようです。

  • 神楽殿<br />古代天皇で伊勢参宮したのが持統天皇に限られるのも大いなる謎です。では何故、持統天皇はタブーを犯してまで参宮を強行したのでしょうか?<br />持統天皇が伊勢行幸を発案したのは692年。勿論、家臣 三輪朝臣高市麻呂などは猛反対。高市麻呂は大神神社の神主の家柄であり、「もし伊勢神宮に天皇が行けば、農作物に影響し甚大な不作になる」と諫めました。因みに大神神社の祭神は大物主命、つまり「国つ神」であり、崇神天皇の代まで大殿に天照大御神の八咫鏡と共に祀られていた倭大国魂です。<br />しかし持統天皇は、「国つ神」を奉ずる三輪氏の忠告を振り切り、「天つ神」を祀る神宮に参宮しました。これには往時の勢力抗争が絡んでいたようです。持統天皇は「国つ神」一族の権力を牽制する目的で行幸したとも考えられます。持統王権が定着し、名実共に天皇中心の世とした功績を内外にアピールする絶好の機会だったと考えるのは早計でしょうか?

    神楽殿
    古代天皇で伊勢参宮したのが持統天皇に限られるのも大いなる謎です。では何故、持統天皇はタブーを犯してまで参宮を強行したのでしょうか?
    持統天皇が伊勢行幸を発案したのは692年。勿論、家臣 三輪朝臣高市麻呂などは猛反対。高市麻呂は大神神社の神主の家柄であり、「もし伊勢神宮に天皇が行けば、農作物に影響し甚大な不作になる」と諫めました。因みに大神神社の祭神は大物主命、つまり「国つ神」であり、崇神天皇の代まで大殿に天照大御神の八咫鏡と共に祀られていた倭大国魂です。
    しかし持統天皇は、「国つ神」を奉ずる三輪氏の忠告を振り切り、「天つ神」を祀る神宮に参宮しました。これには往時の勢力抗争が絡んでいたようです。持統天皇は「国つ神」一族の権力を牽制する目的で行幸したとも考えられます。持統王権が定着し、名実共に天皇中心の世とした功績を内外にアピールする絶好の機会だったと考えるのは早計でしょうか?

  • 神楽殿<br />ともあれ持統天皇の参宮後、約1200年間は天皇の参宮は皆無でした。天皇が参宮しなかった理由は、天皇の代わりに斎宮が神宮に奉仕する制度があったからであり、各地に遥拝所もあったからです。<br />崇神天皇の命により八咫鏡を宮外へ遷す場所を探した豊鍬入姫命やその後継の倭姫命も一種の斎宮ですが、斎宮として史実にあるのは天武天皇の内親王 大伯皇女(おおくのひめみこ)です。『日本書紀』によると、天武天皇は壬申の乱の際、天照大御神(内宮)を望拝して戦勝を祈願し、即位直後に大伯皇女を斎王として遣わしました。<br />一方、八咫鏡を宮外へ遷したことの祟りを畏れ、歴代天皇は直接伊勢参宮をしなかったとも伝わります。しかし1869(明治2)年、明治天皇が参宮しました。何故、それまでタブー視されていた参宮を行ったのでしょうか?<br />そこには明治政府の思惑があったようです。王政復古を掲げた新政府にとり、明治天皇が皇祖神を祀る神宮を参拝することには大きな意味があったのです。

    神楽殿
    ともあれ持統天皇の参宮後、約1200年間は天皇の参宮は皆無でした。天皇が参宮しなかった理由は、天皇の代わりに斎宮が神宮に奉仕する制度があったからであり、各地に遥拝所もあったからです。
    崇神天皇の命により八咫鏡を宮外へ遷す場所を探した豊鍬入姫命やその後継の倭姫命も一種の斎宮ですが、斎宮として史実にあるのは天武天皇の内親王 大伯皇女(おおくのひめみこ)です。『日本書紀』によると、天武天皇は壬申の乱の際、天照大御神(内宮)を望拝して戦勝を祈願し、即位直後に大伯皇女を斎王として遣わしました。
    一方、八咫鏡を宮外へ遷したことの祟りを畏れ、歴代天皇は直接伊勢参宮をしなかったとも伝わります。しかし1869(明治2)年、明治天皇が参宮しました。何故、それまでタブー視されていた参宮を行ったのでしょうか?
    そこには明治政府の思惑があったようです。王政復古を掲げた新政府にとり、明治天皇が皇祖神を祀る神宮を参拝することには大きな意味があったのです。

  • 神楽殿<br />余談ですが、大伯皇女が斎王の時に詠んだ和歌が『万葉集』にあります。<br />「二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を いかにか君が 独り越ゆらむ」<br />自らの運命を悟って大伯皇女に会いに来た弟 大津皇子を見送る歌で、幼くして母を亡くした姉弟の親愛の情が窺えます。その後、大津皇子は、天武天皇逝去後の皇位継承を巡って謀反を疑われるに至り、自害を強いられました。そして大伯皇女は弟の無実の罪に連座し、斎宮の任を解かれ都に帰されたのでした。

    神楽殿
    余談ですが、大伯皇女が斎王の時に詠んだ和歌が『万葉集』にあります。
    「二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を いかにか君が 独り越ゆらむ」
    自らの運命を悟って大伯皇女に会いに来た弟 大津皇子を見送る歌で、幼くして母を亡くした姉弟の親愛の情が窺えます。その後、大津皇子は、天武天皇逝去後の皇位継承を巡って謀反を疑われるに至り、自害を強いられました。そして大伯皇女は弟の無実の罪に連座し、斎宮の任を解かれ都に帰されたのでした。

  • 神楽殿 竜虎斑紋天然石水盤<br />前庭には手水鉢があり、「竜虎石」と呼ばれています。<br />高さ88cm程ある円筒状の青色の岩だそうですが、水に濡れると水鉢の表面と裏面に虎と龍の姿が黄金色に浮き出てきます。

    神楽殿 竜虎斑紋天然石水盤
    前庭には手水鉢があり、「竜虎石」と呼ばれています。
    高さ88cm程ある円筒状の青色の岩だそうですが、水に濡れると水鉢の表面と裏面に虎と龍の姿が黄金色に浮き出てきます。

  • 神楽殿 竜虎斑紋天然石水盤<br />この方向から見える紋様が「虎」です。<br />上方が尻尾になるのですが、多くの方は尻尾を「龍」と勘違いされ、期待を裏切られたのか、がっかりされているようです。<br />この手水鉢は1893(明治26)年に兵庫県在住の篤志家が献納されたものだそうです。兵庫県と言えば「甲子園球場!」。まさかそのご利益として、昨年の阪神タイガースの日本一を導いた訳ではないと思いますが…。

    神楽殿 竜虎斑紋天然石水盤
    この方向から見える紋様が「虎」です。
    上方が尻尾になるのですが、多くの方は尻尾を「龍」と勘違いされ、期待を裏切られたのか、がっかりされているようです。
    この手水鉢は1893(明治26)年に兵庫県在住の篤志家が献納されたものだそうです。兵庫県と言えば「甲子園球場!」。まさかそのご利益として、昨年の阪神タイガースの日本一を導いた訳ではないと思いますが…。

  • 神楽殿 竜虎斑紋天然石水盤<br />「龍」の方はこうして見ると、ひょろ長く「蛇」にしか見えません。<br />

    神楽殿 竜虎斑紋天然石水盤
    「龍」の方はこうして見ると、ひょろ長く「蛇」にしか見えません。

  • 神楽殿 竜虎斑紋天然石水盤<br />水盤の中を覗き込むと、アラ不思議!<br />「龍」が水を呑んでおられるではありませんか!?<br />これは人為的に描かれたものではなく、天然石の紋様だそうですから、魔訶不思議としか言いようがありません。

    神楽殿 竜虎斑紋天然石水盤
    水盤の中を覗き込むと、アラ不思議!
    「龍」が水を呑んでおられるではありませんか!?
    これは人為的に描かれたものではなく、天然石の紋様だそうですから、魔訶不思議としか言いようがありません。

  • 神楽殿でご朱印を授与していただいた後は、もうひとつの別宮である風日祈宮へ向かいます。<br />木漏れ日の参道も情緒を掻き立てます。

    神楽殿でご朱印を授与していただいた後は、もうひとつの別宮である風日祈宮へ向かいます。
    木漏れ日の参道も情緒を掻き立てます。

  • 風日祈宮(かざひのみのみや)御橋<br />風日祈宮御橋は長さ45.6m、幅4.6mあり、昔は「五十鈴川橋」と呼ばれました。橋下を流れるのは島路川ですが、この先で五十鈴川へと合流します。<br />また元来、五十鈴川の本流はこの島路川だったそうです。

    風日祈宮(かざひのみのみや)御橋
    風日祈宮御橋は長さ45.6m、幅4.6mあり、昔は「五十鈴川橋」と呼ばれました。橋下を流れるのは島路川ですが、この先で五十鈴川へと合流します。
    また元来、五十鈴川の本流はこの島路川だったそうです。

  • 風日祈宮御橋<br />この橋が最初に架けられたのが室町時代の明応7年(1498)です。創建時の擬宝珠が1基だけ今に遺されており、その銘文から「明鏡院の観阿弥(勧進聖:全国を旅する僧侶)」の力で制作されたものと窺えます。室町時代の戦乱により将軍の権威は失墜し、神宮も遷宮を行うための浄財が集まらず、勧進聖に頼らざるを得ない状況だったことが窺えます。

    風日祈宮御橋
    この橋が最初に架けられたのが室町時代の明応7年(1498)です。創建時の擬宝珠が1基だけ今に遺されており、その銘文から「明鏡院の観阿弥(勧進聖:全国を旅する僧侶)」の力で制作されたものと窺えます。室町時代の戦乱により将軍の権威は失墜し、神宮も遷宮を行うための浄財が集まらず、勧進聖に頼らざるを得ない状況だったことが窺えます。

  • 風日祈宮御橋<br />かつてはこの島路川の左岸を登った所に「僧尼拝所」がありました。明治維新まで神前に近付けなかった僧侶や医師、頭を丸めた人々が、島路川の対岸から正宮を遥かに伏し拝み、空間を隔てて感銘を受けた場所です。こうしたことから仏教関係者を如何に差別するかに汲々としていた往時の神宮の姿勢が窺えます。頭を丸めていた西行や芭蕉もそこからの遥拝に甘んじたことでしょう。<br />ただし、例外もあったのがせめてもの救いです。後深草院に寵愛されながらも煩悶の末に出家した二条が書いた『とはずがたり』には、伊勢参詣の様子が記されています。外宮では、僧尼拝所となる二の鳥居で礼拝を済ませようとしたところ、神官の計らいで正殿まで案内され礼拝できたようです。内宮については不明ですが、二見浦の見学を望んだ二条に荒木田禰宜が案内人を付けた好意から推して知るべしでしょう。

    風日祈宮御橋
    かつてはこの島路川の左岸を登った所に「僧尼拝所」がありました。明治維新まで神前に近付けなかった僧侶や医師、頭を丸めた人々が、島路川の対岸から正宮を遥かに伏し拝み、空間を隔てて感銘を受けた場所です。こうしたことから仏教関係者を如何に差別するかに汲々としていた往時の神宮の姿勢が窺えます。頭を丸めていた西行や芭蕉もそこからの遥拝に甘んじたことでしょう。
    ただし、例外もあったのがせめてもの救いです。後深草院に寵愛されながらも煩悶の末に出家した二条が書いた『とはずがたり』には、伊勢参詣の様子が記されています。外宮では、僧尼拝所となる二の鳥居で礼拝を済ませようとしたところ、神官の計らいで正殿まで案内され礼拝できたようです。内宮については不明ですが、二見浦の見学を望んだ二条に荒木田禰宜が案内人を付けた好意から推して知るべしでしょう。

  • 風日祈宮御橋<br />橋の南端(右手奥)の擬宝珠は国内最古とされ、「太神宮 風宮 五十鈴川御橋 明応七年 戌午本願観阿弥 敬白」の銘が陰刻されています。ただし、五行の金石文は球面の上方に刻まれており、また袋文字のため擬宝珠の表から裏まで文字が回り込んでいます。<br />因みに、次に古いのが厳島神社 高欄の擬宝珠(1546年)、3番目が京都 宇治橋 (1636年)です。

    風日祈宮御橋
    橋の南端(右手奥)の擬宝珠は国内最古とされ、「太神宮 風宮 五十鈴川御橋 明応七年 戌午本願観阿弥 敬白」の銘が陰刻されています。ただし、五行の金石文は球面の上方に刻まれており、また袋文字のため擬宝珠の表から裏まで文字が回り込んでいます。
    因みに、次に古いのが厳島神社 高欄の擬宝珠(1546年)、3番目が京都 宇治橋 (1636年)です。

  • 風日祈宮御橋<br />この画像では「太神宮 風宮 五十鈴川御橋 明応七年」と読めます。

    風日祈宮御橋
    この画像では「太神宮 風宮 五十鈴川御橋 明応七年」と読めます。

  • 風日祈宮<br />南山と呼ばれる杜の中に佇み、この辺りは約5百年間、自然のままを保つ貴重な森林地帯です。<br />祭神は、伊弉諾尊の子神であり、風雨を司る神 級長津彦命(しなつひこのみこと)と級長戸辺命(しなとべのみこと)を祀ります。雨風は農作物に多大な影響を及ぼすため、古来神宮では正宮に準じて丁重に祀っており、社殿も荒祭宮に準じています。

    風日祈宮
    南山と呼ばれる杜の中に佇み、この辺りは約5百年間、自然のままを保つ貴重な森林地帯です。
    祭神は、伊弉諾尊の子神であり、風雨を司る神 級長津彦命(しなつひこのみこと)と級長戸辺命(しなとべのみこと)を祀ります。雨風は農作物に多大な影響を及ぼすため、古来神宮では正宮に準じて丁重に祀っており、社殿も荒祭宮に準じています。

  • 風日祈宮<br />古くは「風神社」と呼ばれた末社でしたが、蒙古襲来時の神風の恩賞により1293(正応6)年に別宮に2階級特進しています。1281(弘安4)年の蒙古襲来の文永・弘安の役の際、本来は農耕に適した風雨をもたらす神とされる2柱が神風を吹かせて国難を救ったとも伝えます。<br />伊勢にある他の末社の祭神が「土地の神」であるのを鑑みると、風神社の祭神に級長津彦命と級長戸辺命は不釣り合いです。故に、末社から別宮への昇格時に祭神や神事もランクアップした可能性があります。もしそうならば、末社での祭神は土地の風神、即ち「伊勢津彦」だったかもしれません。

    風日祈宮
    古くは「風神社」と呼ばれた末社でしたが、蒙古襲来時の神風の恩賞により1293(正応6)年に別宮に2階級特進しています。1281(弘安4)年の蒙古襲来の文永・弘安の役の際、本来は農耕に適した風雨をもたらす神とされる2柱が神風を吹かせて国難を救ったとも伝えます。
    伊勢にある他の末社の祭神が「土地の神」であるのを鑑みると、風神社の祭神に級長津彦命と級長戸辺命は不釣り合いです。故に、末社から別宮への昇格時に祭神や神事もランクアップした可能性があります。もしそうならば、末社での祭神は土地の風神、即ち「伊勢津彦」だったかもしれません。

  • 風日祈宮<br />『伊勢国風土記』の逸文では、次のように風神として「伊勢津彦」が記されています。 <br />神武東征に際し、天日別命は国土を渡すよう要求した。それに対し伊勢津彦は「吾は今夜、八風を起こして海の水を吹き、波に乗りて東にゆく、これすなわち我が去る由なり」と言い、「夜中に至るころ大風四方に起こりて波を打ち、揚げ日のごとく光り耀きて陸も海もともに明らかになり、遂に波に乗りて東に去りき」と発した後、鈴鹿山脈の釈迦ヶ岳と竜ヶ岳の間にある八風峠から風を巻いて飛び去った。<br />これが「神風の伊勢国」「常世の浪寄せる国」の起源です。天照大御神はこれをもって伊勢を聖地と認め、鎮座する決意を新たにしたのでしょう。

    風日祈宮
    『伊勢国風土記』の逸文では、次のように風神として「伊勢津彦」が記されています。
    神武東征に際し、天日別命は国土を渡すよう要求した。それに対し伊勢津彦は「吾は今夜、八風を起こして海の水を吹き、波に乗りて東にゆく、これすなわち我が去る由なり」と言い、「夜中に至るころ大風四方に起こりて波を打ち、揚げ日のごとく光り耀きて陸も海もともに明らかになり、遂に波に乗りて東に去りき」と発した後、鈴鹿山脈の釈迦ヶ岳と竜ヶ岳の間にある八風峠から風を巻いて飛び去った。
    これが「神風の伊勢国」「常世の浪寄せる国」の起源です。天照大御神はこれをもって伊勢を聖地と認め、鎮座する決意を新たにしたのでしょう。

  • 風日祈宮<br />804(延暦23)年の『皇太神宮儀式帳(四月例十四日の条)』に「以御笠縫内人造奉御蓑廿二領、御笠廿二蓋、即散奉、太神宮三具(中略)風神社一具」とあり、古くは「風神社」と称されていたことが判ります。<br />『万葉集』の時代から伊勢の枕詞は「風神の」でした。 例えば、天武天皇の子の高市皇子が亡くなった際に柿本人麻呂が詠んだ長歌には「…渡会の斎の宮ゆ神風にい吹き惑わし天雲を日の目も見せず常闇に…」とあります。これは大海皇子と大友皇子が戦った壬申の乱において伊勢神宮が起こした神風のことを指し、これにより大友皇子側の軍勢が惑わされたことを詠んだものです。<br />因みに「御笠縫内人(みかさぬいうちんど) 」とは、927(延長5)年の『延喜太神宮式』に「是日(旧暦4月10日)笠縫内人等供進蓑笠」とあり、4月10日に風雨の平らにかなることを祈願し、蓑や笠を奉るために設けられた特別な職掌でした。

    風日祈宮
    804(延暦23)年の『皇太神宮儀式帳(四月例十四日の条)』に「以御笠縫内人造奉御蓑廿二領、御笠廿二蓋、即散奉、太神宮三具(中略)風神社一具」とあり、古くは「風神社」と称されていたことが判ります。
    『万葉集』の時代から伊勢の枕詞は「風神の」でした。 例えば、天武天皇の子の高市皇子が亡くなった際に柿本人麻呂が詠んだ長歌には「…渡会の斎の宮ゆ神風にい吹き惑わし天雲を日の目も見せず常闇に…」とあります。これは大海皇子と大友皇子が戦った壬申の乱において伊勢神宮が起こした神風のことを指し、これにより大友皇子側の軍勢が惑わされたことを詠んだものです。
    因みに「御笠縫内人(みかさぬいうちんど) 」とは、927(延長5)年の『延喜太神宮式』に「是日(旧暦4月10日)笠縫内人等供進蓑笠」とあり、4月10日に風雨の平らにかなることを祈願し、蓑や笠を奉るために設けられた特別な職掌でした。

  • 風日祈宮御橋を渡り、神楽殿の所まで戻ります。

    風日祈宮御橋を渡り、神楽殿の所まで戻ります。

  • 御厩(みうまや)皇大神宮御料御馬「本勇(もといさむ)号」<br />2024年2月に皇室から贈られた神馬(9歳)です。人の年齢に喩えると40歳ほどです。昨年6月に神馬の国春(くにはる)号が亡くなったため、後継として奉納されました。栃木県高根沢町の宮内庁御料牧場で生まれたアングロアラブ種で栗毛の去勢馬です。皇居内の厩舎で天皇ご一家がニンジンを食べさせ、内宮へと贈り出された馬です。因みに内宮は2頭の神馬を飼っており、もう1頭は草新(くさしん)号と言います。<br />「神馬に会えると幸運がやってくる」と言われますが、原則、神馬は1日に1度、御厩に交互に牽き立てられます。ただし、その時間は不定、かつ天候や神馬の体調によっては中止になります。2024年3月26日に敬宮愛子内親王が伊勢神宮を参拝された際、立派に神馬となった本勇号とは再会を果たされたのでしょうか?本勇号と心和む触れ合いを愉しまれていたのなら幸いです。<br />伊勢神宮では奈良時代から朝廷による馬の奉納が行われています。中断時期もありましたが、1869(明治2)年以後、神馬が天寿を全うする毎に皇室から馬が贈られ、本勇号は内宮で35頭目の神馬となりました。

    御厩(みうまや)皇大神宮御料御馬「本勇(もといさむ)号」
    2024年2月に皇室から贈られた神馬(9歳)です。人の年齢に喩えると40歳ほどです。昨年6月に神馬の国春(くにはる)号が亡くなったため、後継として奉納されました。栃木県高根沢町の宮内庁御料牧場で生まれたアングロアラブ種で栗毛の去勢馬です。皇居内の厩舎で天皇ご一家がニンジンを食べさせ、内宮へと贈り出された馬です。因みに内宮は2頭の神馬を飼っており、もう1頭は草新(くさしん)号と言います。
    「神馬に会えると幸運がやってくる」と言われますが、原則、神馬は1日に1度、御厩に交互に牽き立てられます。ただし、その時間は不定、かつ天候や神馬の体調によっては中止になります。2024年3月26日に敬宮愛子内親王が伊勢神宮を参拝された際、立派に神馬となった本勇号とは再会を果たされたのでしょうか?本勇号と心和む触れ合いを愉しまれていたのなら幸いです。
    伊勢神宮では奈良時代から朝廷による馬の奉納が行われています。中断時期もありましたが、1869(明治2)年以後、神馬が天寿を全うする毎に皇室から馬が贈られ、本勇号は内宮で35頭目の神馬となりました。

  • 次は宇治橋の近くにある大山祇神社・子安神社へと向かいます。<br />神宮司庁の大きな石碑が目印です。

    次は宇治橋の近くにある大山祇神社・子安神社へと向かいます。
    神宮司庁の大きな石碑が目印です。

  • 大山祇(おおやまつみ)神社・子安神社<br />宇治橋の東詰所から約50m、神宮司庁の南側にあります。<br />宇治橋の手前右に参道が続いており、神寂びた厳かな雰囲気が漂う凛然とした空間です。<br />手前が子安神社、その奥が大山祇神社です。

    大山祇(おおやまつみ)神社・子安神社
    宇治橋の東詰所から約50m、神宮司庁の南側にあります。
    宇治橋の手前右に参道が続いており、神寂びた厳かな雰囲気が漂う凛然とした空間です。
    手前が子安神社、その奥が大山祇神社です。

  • 大山祇神社・子安神社<br />鳥居の手前には立派な手水鉢があります。<br />聖水を汲む柄杓がペアというのが「ラブラブ」で頬が緩みます。

    大山祇神社・子安神社
    鳥居の手前には立派な手水鉢があります。
    聖水を汲む柄杓がペアというのが「ラブラブ」で頬が緩みます。

  • 大山祇神社・子安神社<br />覗き込んでみると、花の形に彫られたお洒落な手水鉢です。<br />通常なら梅の花なのでしょうが、子安神社の祭神 木華開耶姫命にあやかり、桜の花と言うことなのでしょう。

    大山祇神社・子安神社
    覗き込んでみると、花の形に彫られたお洒落な手水鉢です。
    通常なら梅の花なのでしょうが、子安神社の祭神 木華開耶姫命にあやかり、桜の花と言うことなのでしょう。

  • 大山祇神社<br />祭神は神路山の守護神である大山祇神を祀ります。神名の「つ」は「の」、「み」は「神霊」の意であり、「おおやまつみ」は「大いなる山の神」という意味です。また大山祇神は、伊弉諾命と伊弉冉命の子であり、木華開耶姫命や磐長姫命の父神様です。古くは遷宮の御杣山であった神路山の入口にあり、この社の前で神宮式年遷宮の最初の祭儀「山口祭」が奉仕されていました。内宮の所管社であり、古くは山神社と呼ばれました。<br />因みに大山祇神を祀る神社は、小規模社や境内社、配神等を含めると全国に1万318社も存在し、この数は日本神話に登場するの神様の中で5番目にランクインします。

    大山祇神社
    祭神は神路山の守護神である大山祇神を祀ります。神名の「つ」は「の」、「み」は「神霊」の意であり、「おおやまつみ」は「大いなる山の神」という意味です。また大山祇神は、伊弉諾命と伊弉冉命の子であり、木華開耶姫命や磐長姫命の父神様です。古くは遷宮の御杣山であった神路山の入口にあり、この社の前で神宮式年遷宮の最初の祭儀「山口祭」が奉仕されていました。内宮の所管社であり、古くは山神社と呼ばれました。
    因みに大山祇神を祀る神社は、小規模社や境内社、配神等を含めると全国に1万318社も存在し、この数は日本神話に登場するの神様の中で5番目にランクインします。

  • 大山祇神社<br />社殿は御垣に囲まれており、通常は伊勢神宮の所管社には置かれていないお賽銭箱があります。<br />創建は不詳であり、『延喜式神名帳』や『延暦儀式帳』にも記載がないことから、古代には存在しなかったと推察されています。尚、現在の社殿は2019年に再建されたものです。<br />山は数々の恵みをもたらし、「恵みの神」として金運や商売に繋げられることから「金運招福」のご利益があるとされます。また、娘の木華開耶姫命が結婚をした際に宴で酒を振る舞ったため「酒造の神」という側面もあります。更には、雄大なイメージがあり「軍神」としても崇められています。

    大山祇神社
    社殿は御垣に囲まれており、通常は伊勢神宮の所管社には置かれていないお賽銭箱があります。
    創建は不詳であり、『延喜式神名帳』や『延暦儀式帳』にも記載がないことから、古代には存在しなかったと推察されています。尚、現在の社殿は2019年に再建されたものです。
    山は数々の恵みをもたらし、「恵みの神」として金運や商売に繋げられることから「金運招福」のご利益があるとされます。また、娘の木華開耶姫命が結婚をした際に宴で酒を振る舞ったため「酒造の神」という側面もあります。更には、雄大なイメージがあり「軍神」としても崇められています。

  • 子安神社<br />手前の子安神社は大山祇神の娘神 木華開耶姫命を祀り、こちらも内宮の所管社です。江戸時代までは宇治館町の産土神として「縁結び」や「子授け」、「安産」の神として崇敬されており、125社の中では珍しい存在です。創建は不詳ですが、現在の社殿は2019年に再建されたものです。<br />民間信仰の神が神宮に取り込まれてしまった事例のひとつと言えます。<br />因みに木華開耶姫命のご神体は、山の神と称される父神 大山祇神から譲り受けた「富士山」だそうです。

    子安神社
    手前の子安神社は大山祇神の娘神 木華開耶姫命を祀り、こちらも内宮の所管社です。江戸時代までは宇治館町の産土神として「縁結び」や「子授け」、「安産」の神として崇敬されており、125社の中では珍しい存在です。創建は不詳ですが、現在の社殿は2019年に再建されたものです。
    民間信仰の神が神宮に取り込まれてしまった事例のひとつと言えます。
    因みに木華開耶姫命のご神体は、山の神と称される父神 大山祇神から譲り受けた「富士山」だそうです。

  • 子安神社<br />神宮に取り込まれた理由のひとつは、木華開耶姫命が皇統に連なる故と窺えます。『古事記』の神話では、天孫 瓊瓊杵尊が木華開耶姫命に一目惚れして求婚し、その子が神武天皇へと繋がります。木華開耶姫命は猛火のうちに御身無事に火照命・火須勢理命・火遠理命の3柱の子を産み、そのうちの火遠理命の孫が神武天皇になります。こうした霊異を仰いで、子授けや安産、厄除けの神として知られています。

    子安神社
    神宮に取り込まれた理由のひとつは、木華開耶姫命が皇統に連なる故と窺えます。『古事記』の神話では、天孫 瓊瓊杵尊が木華開耶姫命に一目惚れして求婚し、その子が神武天皇へと繋がります。木華開耶姫命は猛火のうちに御身無事に火照命・火須勢理命・火遠理命の3柱の子を産み、そのうちの火遠理命の孫が神武天皇になります。こうした霊異を仰いで、子授けや安産、厄除けの神として知られています。

  • 子安神社<br />社には「子授け」や「安産」「子育て」を祈願するため、小さな鳥居が奉納されています。子授け、安産、子育てを願い3回奉納するそうです。手前の真新しいミニ鳥居の日付は令和6年4月19日、つまり今日です。因みに「縁結び」の祈願には鳥居は不要です。何といっても「縁結び」~「子育て」まで一気通貫で面倒を見ていただけるのは重宝します。人気取りに近い「子ども家庭庁」の支援策ではこれほど手厚くはありません。ましてや「縁結び」に関してはマイナス政策です。<br />神宮では結婚式を挙げることは叶わないし、絵馬奉納も無ければ、おみくじも狛犬もありません。明治時代に改革されたものの古の神社の形式に固執している中、ミニ鳥居の奉納ができるのは、地元の民間信仰への篤さが神宮のそれに勝っている証左です。尚、このミニ鳥居は参集殿の売店やせんぐう館前(前宮忠本店)とおかげ横丁にある「宮忠」という神具屋さんでのみ授与されます。これらは伊勢神宮の関係組織「神宮崇敬会」に委託されたものです。<br />また、子安神社には地元で行われている次のような風習があります。<br />子どもが産まれる前に参拝し、回りに敷いてある石をひとつ持ち帰り、無事に産まれたらお礼詣りの際に石を返す。因みに、意識せずとも、自然と産まれてくる子どもに似た石を選んでいるそうです。

    子安神社
    社には「子授け」や「安産」「子育て」を祈願するため、小さな鳥居が奉納されています。子授け、安産、子育てを願い3回奉納するそうです。手前の真新しいミニ鳥居の日付は令和6年4月19日、つまり今日です。因みに「縁結び」の祈願には鳥居は不要です。何といっても「縁結び」~「子育て」まで一気通貫で面倒を見ていただけるのは重宝します。人気取りに近い「子ども家庭庁」の支援策ではこれほど手厚くはありません。ましてや「縁結び」に関してはマイナス政策です。
    神宮では結婚式を挙げることは叶わないし、絵馬奉納も無ければ、おみくじも狛犬もありません。明治時代に改革されたものの古の神社の形式に固執している中、ミニ鳥居の奉納ができるのは、地元の民間信仰への篤さが神宮のそれに勝っている証左です。尚、このミニ鳥居は参集殿の売店やせんぐう館前(前宮忠本店)とおかげ横丁にある「宮忠」という神具屋さんでのみ授与されます。これらは伊勢神宮の関係組織「神宮崇敬会」に委託されたものです。
    また、子安神社には地元で行われている次のような風習があります。
    子どもが産まれる前に参拝し、回りに敷いてある石をひとつ持ち帰り、無事に産まれたらお礼詣りの際に石を返す。因みに、意識せずとも、自然と産まれてくる子どもに似た石を選んでいるそうです。

  • 宇治橋<br />こちらが内宮の旧正殿の棟持柱をリサイクルした鳥居です。<br />余談ですが、外宮と内宮を結ぶ参道沿いに石燈籠があり、そこに「六芒星」が刻まれていることが話題になったことがあります。しかし現在、石燈籠は全て強制撤去されています。それは、2018年に石燈籠に路線バスが接触し、落下した燈籠の一部が歩行者に当たって死亡事故に至った経緯からです。<br />「六芒星」とは、イスラエルの国旗にあしらわれるシンボルであり、青色の六芒星は「ダビデの星」と呼ばれ、17世紀以降、ユダヤ人を表わす記号として知られています。しかしそれ以前から存在したシンボルでもあり、西洋では「ヘキサグラム」と呼んで「魔除けのシンボル」として扱われたり、錬金術においては「賢者の石」を象徴したものでした。<br />また、日本でも古墳時代から存在した「籠目紋」と呼ばれる籠の目を象徴したシンボルであり、呪術的な意味を持ちます。平安時代以降、陰陽道の影響で五芒星や六芒星そのものが邪を払う霊力があるとされ、魔除けとして使われました。後に家紋にも採用され、江戸時代には小宮氏や曲淵氏が用いました。因みにケチャップで有名な「カゴメ」も、この「籠目」に因むそうです。これを知った時は、カメラの「キャノン」が「観音」に由来すると知った時と同じほど吃驚しました。<br />このように「六芒星」には多数の呼称や意味合いがありますが、本来は「『能動的原理』を表す正三角形(△)」と「『受動的原理』を表わす逆三角形(▽)」を組み合わせた図象であり、それは「男と女」、「光と影」、「陰と陽水」などの相反する要素の調和(陰陽和合)を象徴するもののようです。伊勢神宮で言えば「内宮と外宮」の和合を祈願したものかもしれません。フリーメイソンのシンボル「コンパスと定規」もこれに相当するそうです。

    宇治橋
    こちらが内宮の旧正殿の棟持柱をリサイクルした鳥居です。
    余談ですが、外宮と内宮を結ぶ参道沿いに石燈籠があり、そこに「六芒星」が刻まれていることが話題になったことがあります。しかし現在、石燈籠は全て強制撤去されています。それは、2018年に石燈籠に路線バスが接触し、落下した燈籠の一部が歩行者に当たって死亡事故に至った経緯からです。
    「六芒星」とは、イスラエルの国旗にあしらわれるシンボルであり、青色の六芒星は「ダビデの星」と呼ばれ、17世紀以降、ユダヤ人を表わす記号として知られています。しかしそれ以前から存在したシンボルでもあり、西洋では「ヘキサグラム」と呼んで「魔除けのシンボル」として扱われたり、錬金術においては「賢者の石」を象徴したものでした。
    また、日本でも古墳時代から存在した「籠目紋」と呼ばれる籠の目を象徴したシンボルであり、呪術的な意味を持ちます。平安時代以降、陰陽道の影響で五芒星や六芒星そのものが邪を払う霊力があるとされ、魔除けとして使われました。後に家紋にも採用され、江戸時代には小宮氏や曲淵氏が用いました。因みにケチャップで有名な「カゴメ」も、この「籠目」に因むそうです。これを知った時は、カメラの「キャノン」が「観音」に由来すると知った時と同じほど吃驚しました。
    このように「六芒星」には多数の呼称や意味合いがありますが、本来は「『能動的原理』を表す正三角形(△)」と「『受動的原理』を表わす逆三角形(▽)」を組み合わせた図象であり、それは「男と女」、「光と影」、「陰と陽水」などの相反する要素の調和(陰陽和合)を象徴するもののようです。伊勢神宮で言えば「内宮と外宮」の和合を祈願したものかもしれません。フリーメイソンのシンボル「コンパスと定規」もこれに相当するそうです。

  • 宇治橋<br />この五十鈴川の流れの終着が二見浦になります。<br />江戸時代、宇治橋の上から参拝者が「投げ銭」をし、川の中で網を持った人々がそれを受け取る「網受け」と呼ばれる風習がありました。<br />網受けの起源は、織田信長の没落後、その家臣 鳥屋尾左京亮が浪人となりこの地に流れ住み、渡世のために毎日宇治橋の下に立ち、竹竿に編み笠を付けて参宮人に銭を投げさせたことに始まるそうです。左京亮は槍の名手だったため、投げられた銭を一銭も受け損じること無く喝采を博したそうです。

    宇治橋
    この五十鈴川の流れの終着が二見浦になります。
    江戸時代、宇治橋の上から参拝者が「投げ銭」をし、川の中で網を持った人々がそれを受け取る「網受け」と呼ばれる風習がありました。
    網受けの起源は、織田信長の没落後、その家臣 鳥屋尾左京亮が浪人となりこの地に流れ住み、渡世のために毎日宇治橋の下に立ち、竹竿に編み笠を付けて参宮人に銭を投げさせたことに始まるそうです。左京亮は槍の名手だったため、投げられた銭を一銭も受け損じること無く喝采を博したそうです。

  • 宇治橋<br />内宮参拝を終えて宇治橋を渡り終える時、橋の外側から2基目の擬宝珠だけが磨いたようにピカピカです。実はこの中には、100m程先にある宇治橋の神様を祀る「饗土橋姫神社(あえどはしひめじんじゃ)」で祈祷された萬度麻(まんどぬさ)という1万回祈祷されたご神札が奉納されています。<br />この擬宝珠に触れることで、「再び伊勢神宮を参拝できる」や「帰宅の厄災から守ってくれる」と伝わります。神宮ではむやみに物に触れないのが不文律ですが、ここだけは例外と言えます。

    宇治橋
    内宮参拝を終えて宇治橋を渡り終える時、橋の外側から2基目の擬宝珠だけが磨いたようにピカピカです。実はこの中には、100m程先にある宇治橋の神様を祀る「饗土橋姫神社(あえどはしひめじんじゃ)」で祈祷された萬度麻(まんどぬさ)という1万回祈祷されたご神札が奉納されています。
    この擬宝珠に触れることで、「再び伊勢神宮を参拝できる」や「帰宅の厄災から守ってくれる」と伝わります。神宮ではむやみに物に触れないのが不文律ですが、ここだけは例外と言えます。

  • 宇治橋<br />この擬宝珠には「天照皇太神宮 御裳濯川 御橋 元和五年(1619年)己未三月」と銘が刻まれており、徳川秀忠が宇治橋を奉納した際のものです。それ以外のほとんどは1853(嘉永6)年のものです。<br />因みに神宮では仏教用語を嫌って「擬宝珠」とは呼ばず、「葱花型金物(そうかがたかなもの)」と称します。架け替えの際も、松坂 上蛸路の鋳物師が手掛けた擬宝珠だけは磨き上げられるのみで、擦り切れるまで繰り返し使用されるそうです。

    宇治橋
    この擬宝珠には「天照皇太神宮 御裳濯川 御橋 元和五年(1619年)己未三月」と銘が刻まれており、徳川秀忠が宇治橋を奉納した際のものです。それ以外のほとんどは1853(嘉永6)年のものです。
    因みに神宮では仏教用語を嫌って「擬宝珠」とは呼ばず、「葱花型金物(そうかがたかなもの)」と称します。架け替えの際も、松坂 上蛸路の鋳物師が手掛けた擬宝珠だけは磨き上げられるのみで、擦り切れるまで繰り返し使用されるそうです。

  • ご当地マンホールの蓋<br />お伊勢参りデザインの汚水管小型マンホールの蓋です。幟には「おかげまいり」と文字が入れられています。<br />江戸時代、ほぼ60年に1度の周期で、民衆が参宮に熱狂する現象が起きました。その要因は定かでありませんが、「皇大神宮のお札が降ってきた」などの伊勢神宮の噂が流れるだけで、それを聞きつけた民衆が白衣に菅笠を身に付けて杓を持ち、集団で伊勢神宮を目指したそうです。沿道の人々もその旅人たちを支援し、おかげで無一文でも参宮が叶えられたことから、神様のおかげという意味で「おかげ参り」と呼ばれるようになったそうです。

    ご当地マンホールの蓋
    お伊勢参りデザインの汚水管小型マンホールの蓋です。幟には「おかげまいり」と文字が入れられています。
    江戸時代、ほぼ60年に1度の周期で、民衆が参宮に熱狂する現象が起きました。その要因は定かでありませんが、「皇大神宮のお札が降ってきた」などの伊勢神宮の噂が流れるだけで、それを聞きつけた民衆が白衣に菅笠を身に付けて杓を持ち、集団で伊勢神宮を目指したそうです。沿道の人々もその旅人たちを支援し、おかげで無一文でも参宮が叶えられたことから、神様のおかげという意味で「おかげ参り」と呼ばれるようになったそうです。

  • 饗土橋姫神社(あえどはしひめじんじゃ)<br />宇治橋から広場や道路ロータリーを挟んでタクシー用駐車場の奥にある杜に鎮座するのが饗土橋姫神社です。直線距離で言えば100m程です。<br />ここは宇治橋の守り神とされ、宇治橋を見守るようなやや小高い場所にひっそりと佇みます。

    饗土橋姫神社(あえどはしひめじんじゃ)
    宇治橋から広場や道路ロータリーを挟んでタクシー用駐車場の奥にある杜に鎮座するのが饗土橋姫神社です。直線距離で言えば100m程です。
    ここは宇治橋の守り神とされ、宇治橋を見守るようなやや小高い場所にひっそりと佇みます。

  • 饗土橋姫神社<br />宇治橋と対面するように鎮座し、宇治橋の守り神を祀る内宮の所管社です。<br />内宮の喧噪をよそに静寂な杜の中に佇み、四方は大粒の白石と御垣で囲まれています。社名にある「饗土」とは内宮の宮域四方の境へ邪気などが侵入しないように守護する場所を指します。<br />尚、帰り際に触れるとまた伊勢参拝に訪れることができると伝わる宇治橋の「擬宝珠」に収められている「萬度麻」は当社のものです。擬宝珠にタッチするだけでなく、ここにも参拝すればご利益は確実なものとなることでしょう。

    饗土橋姫神社
    宇治橋と対面するように鎮座し、宇治橋の守り神を祀る内宮の所管社です。
    内宮の喧噪をよそに静寂な杜の中に佇み、四方は大粒の白石と御垣で囲まれています。社名にある「饗土」とは内宮の宮域四方の境へ邪気などが侵入しないように守護する場所を指します。
    尚、帰り際に触れるとまた伊勢参拝に訪れることができると伝わる宇治橋の「擬宝珠」に収められている「萬度麻」は当社のものです。擬宝珠にタッチするだけでなく、ここにも参拝すればご利益は確実なものとなることでしょう。

  • 饗土橋姫神社<br />現在の社殿は神明造ですが、神明造になったのは明治時代以降であり、それ以前は春日造だったそうです。つまり、昔は「妻入り」だったと言うことです。<br />宇治橋が完成した際、この社で祭事を行い、宇治橋渡始式が行われます。また式年遷宮においては、125社のうちで最も早く建て替えられる神社です。

    饗土橋姫神社
    現在の社殿は神明造ですが、神明造になったのは明治時代以降であり、それ以前は春日造だったそうです。つまり、昔は「妻入り」だったと言うことです。
    宇治橋が完成した際、この社で祭事を行い、宇治橋渡始式が行われます。また式年遷宮においては、125社のうちで最も早く建て替えられる神社です。

  • 饗土橋姫神社<br />創建年代は不明ですが、荒木田守良著『神宮典略』は「京都 宇治橋の橋姫明神(祭神:瀬織津姫命)に倣い、1467(寛正7)年の将軍 足利義教の参宮に併せて饗土に橋姫神社が創建された」と伝えます。<br />因みに義教は1441(嘉吉元)年の「嘉吉の乱」で暗殺されおり、年号あるいは将軍名のいずれかに乖離があるように思われます。<br /><br />この続きは、青嵐薫風 伊勢紀行⑩おはらい町・おかげ横丁でお届けします。

    饗土橋姫神社
    創建年代は不明ですが、荒木田守良著『神宮典略』は「京都 宇治橋の橋姫明神(祭神:瀬織津姫命)に倣い、1467(寛正7)年の将軍 足利義教の参宮に併せて饗土に橋姫神社が創建された」と伝えます。
    因みに義教は1441(嘉吉元)年の「嘉吉の乱」で暗殺されおり、年号あるいは将軍名のいずれかに乖離があるように思われます。

    この続きは、青嵐薫風 伊勢紀行⑩おはらい町・おかげ横丁でお届けします。

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