2024/05/02 - 2024/05/02
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たびたびさん
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この旅行記スケジュールを元に
今回の旅のメインは富山の城端祭なのですが、それだけではもったいない。久しぶりの金沢とついでに下鴨神社の流鏑馬を加えて。もうひとつ何かを入れたいと思って考えたのが、一日目の甲賀三大仏ほか甲賀あちこちと日野祭。前回の安土の旅で日野祭の情報を目にして気になっていましたからね。これでトータル四日間。なかなか立派な旅に仕上がりました。
滋賀県は、2023年3月「関西春の花旅」のリベンジ三井寺、石山寺から、その後の草津、比叡山坂本、安土といくつか穴を埋めてきてはいるんですが、まだまだ全然足りない。しばらくは、機会があればどこかを入れていくというのを続けていく必要があります。ただ、滋賀の穴を埋めるつもりだったとはいえ、甲賀は交通の便も極端に悪いし別格。ここまで穴を埋める対象とは考えていませんでした。しかし、日野祭を訪ねることにしてしまうとその周辺で手付かずなのは甲賀しかないし。。まあ、湖南市、信楽は訪ねていますが、あんまり甲賀って感じでもなかったですからね。ちょっと渋々ですが調べ始めると甲賀三大仏とか忍者屋敷とか東海道の宿場町だった水口宿とか土山宿とか。やっぱり、甲賀の本流は甲賀市かな。レンタカーで回れる範囲にまあまあ収まっていて、思ったほどハードルは高くないみたいだし。それに冷静に考えると甲賀は滋賀云々ではなくちゃんと全国的な知名度もありますから、どんなところか一度は確認しておくのも悪くないでしょう。そんなことで甲賀市を回れる範囲で回ってみることにしたという次第です。
その中でいくつか印象に残ったことをピックアップすると。。
①甲賀忍者のこと
甲賀流忍者甲賀五十三家の筆頭格、望月出雲守の住居だったという甲賀流忍術屋敷。甲賀流忍者甲賀五十三家は、佐々木六角氏の傘下にあった独立性の高い武装集団。室町時代後期、将軍足利義尚と六角義尚の合戦、鈎の陣では、幕府軍をゲリラ戦法で散々に苦しめ、幕府軍は撤退。六角氏は生き延びるという大功績をあげました。ただ、対信長では、観音寺城から撤退した六角氏を助け浅井・朝倉とも連携してスキを突く戦いを仕掛けますが、連戦連敗。主の六角氏が没落したことで、結局は信長の傘下に入ることに。本能寺の変後の徳川家康の伊賀越えでは家康一行の道中を警固するという活躍も見せますが、一方で、秀吉の時代になると甲賀五十三家ほか甲賀の侍衆は改易処分。徳川幕府の下で一部伊賀越えを助けた甲賀の武士が重用されることはありましたが、その後も基本は武士の身分が回復されることはありませんでした。甲賀古士と呼ばれる人々で、望月家もその範疇。忍者という陰のイメージは、この辺りの背景も絡んでいるように思います。
②東海道の宿場町のこと
甲賀には東海道50番目の水口宿と東海道49番目の土山宿の二つの宿場がありました。甲賀市の市役所は、長束正家の水口城や江戸期の水口藩の歴史もある水口にありますが、やっぱり水口は水口宿の伝統が基本だし、水口曳山祭がしっかり継承されているのもそうした街の力だと思います。もちろん、中山道との分岐点だった草津宿や東海道でもトップクラスだった大津宿の賑やかさとは比べ物にはならないでしょうが、甲賀においては二つの宿が経済を支えていたような気がします。土山の方も東海道伝馬館ができて、ちょっとした観光地としての体裁が整ったような感じ。東海道伝馬館の展示内容はなかなかの力作だし、旧東海道の緩やかにカーブした通り沿いには、土山家本陣跡や問屋宅跡など当時の雰囲気を感じさせる建物もあって、意外や意外。近江の茶どころ、土山茶の伝統も面白いと思います。
③古社古刹のこと
甲賀の神社は、矢川神社、大鳥神社、油日神社、田村神社など甲賀古士に尊崇されてきた立派な構えの神社が多くて印象的。甲賀三大仏の檪野寺、十楽寺、大池寺もそれぞれに古刹の構え。甲賀市の北隣りの湖南市には湖南三山というのがありますが、甲賀三大仏もそれに準ずるラインナップ。特に、檪野寺は甲賀三大仏だけでなく、日本最大の十一面観音坐像があって、それを上回る大迫力。最澄や坂上田村麻呂との関りもとても興味深いですね。
結果、琵琶湖の東半分だと長浜、彦根、近江八幡、八日市、日野、草津とかまあそれぞれにそれぞれではあるのですが、しかし、甲賀が異質な印象なのは否めないですね。他地域は濃淡はあっても近江商人や日野商人といった商人優位の気風がありますが、甲賀の精神の基本は甲賀古士。そういう意味だと隣接している伊賀の方が似た雰囲気があるし、十津川郷士の十津川なんかも似たイメージがありますね。当たっているかどうかは分かりませんが、感想としてはそんな感じです。
そして、最後は日野祭。日野の市街に宿を取って、5月2日の宵祭を見物しました。日野祭は、馬見岡綿向神社の春の例祭。800年以上の歴史を持つ祭りです。主役の曳山は16基。夕暮れから各町内の曳山が引き出され、提灯に明かりを灯すととたんに雰囲気が出てきていい感じ。始めはしっぽり静かな宵祭かなと思ったのですが、夜が更けてくると祭ばやしが賑やかになってきて、やっぱりそれだけでもないですね。本祭りを明日に控えたところでだんだん熱を帯びてくると、接近した曳山同士でお互いにお囃子の競い合い。ぶつけ合ったりはしませんが、それなりの激しさは感じられるものでした。日野は蒲生氏郷や日野商人の歴史を持つ町。祭りの活気や賑やかさは、今もその伝統を引き継いでいるということなのかなと思います。
いずれにしても、一日目はこれで終了。じんわり新たな境地が開拓できた感じです。
そして、二日目は、京都に戻って下鴨神社の流鏑馬です。
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甲賀のレンタカー屋さんを調べて、何とか見つけたのが滋賀レンタリース本社。けっこう立派な事務所だし、三雲駅まで送迎をしてくれるので、これなら十分ですね。
では、レンタカーで出発です。 -
矢川神社は、天平年間の745年、聖武天皇が紫香楽宮を造営した時の創建と伝えられる式内社。
ちなみに、紫香楽宮は、5年の間に平城京→恭仁京→難波京→紫香楽宮→平城京と遷都を繰り返した”平城還都”の一環。太宰府で起きた藤原広嗣の乱が発端という説が有力ですが、このちょっと精神不安定のような行動は、その後、東大寺を建立したりして奈良時代の最盛期を迎える聖武天皇のイメージとはかなり異なるもの。それだけ鎮護国家への思いも強くなったと理解したいと思います。
寛文11年( 1671年)の築という大きな石造反橋と入り口辺りの構えはちょっとインパクトあり by たびたびさん矢川神社 寺・神社・教会
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イチオシ
その先の石垣の上には、
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文明14年(1482年)に建てられた茅葺の楼門。入り口辺りの構えはちょっとインパクトありかなと思います。
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境内には、5月3日の例祭の神輿が準備されていました。
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拝殿、
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本殿もなにげに立派。
こういうのを見ても、滋賀の神社はレベルが高いですよね~ -
続いては、甲賀流忍術屋敷です。
冒頭にも触れたましたが、これは甲賀流忍者甲賀五十三家の筆頭格、望月出雲守の住居だったもの。不思議なものを見たような妙な気持ちになってきます by たびたびさん甲賀流忍術屋敷 名所・史跡
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元禄年間に建てられた建物は、中に入るといわゆる古民家という風。
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奥の方の部屋が
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忍者の関係の展示室です。
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手裏剣、
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撒菱(まきびし)はお馴染み。
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錣(しころ)は、のこぎり。
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脇差鉄砲、仕込み杖も意表を突く武器ですね。
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そして、萬川集海は、江戸時代に書かれたすべての忍術の流儀をまとめ上げたもの。
かなり貴重なもののようです。 -
一方で、建物の方も、当時のままのどんでん返し、落とし穴、隠し梯子と隠し部屋などの仕掛けが残っている本物の忍者屋敷。
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イチオシ
日本遺産「忍びの里伊賀・甲賀-リアル忍者を求めて-」の構成文化財のひとつにもなっているようですが、
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忍者はテレビの世界にある架空のものではなくて、
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現実の世界にあったもの。
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ただ、それが徳川期の平和な世の中で役に立つものだったかどうかは疑問ですけど、
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しかしそれでも、六角氏の時代から続く意地かプライドか。伝統の技術や精神を大切に守り通したというのが凄いことなんでしょう。
ここを拝見すると不思議なものを見たような妙な気持ちになってきます。 -
ここからは、またしばらく神社とお寺です。
大鳥神社は、平安時代の元慶6年(882年)の創建で、明治期には郷社の格付け。素戔嗚尊を祀り、「てんのうさん」とも。ちょっと意表を突かれるような赤い楼門 by たびたびさん大鳥神社 (滋賀県) 寺・神社・教会
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駐車場のところから参道がしっかりあって、橋、石段を抜けると
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イチオシ
鳥居の先には
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ちょっと意表を突かれるような赤い楼門。
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拝殿、祝詞殿から
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本殿も見事な構えですね。
大鳥神社の祇園祭は、甲賀市で最大規模の祇園花行事として知られるようです。 -
次の神社も立派です。
油日神社は、創建が用明天皇または天武天皇の時代と言われる甲賀地域随一の名社。甲賀地域随一の名社 by たびたびさん油日神社 寺・神社・教会
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永禄9年(1566年)建立の檜皮葺の楼門から廻廊、
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イチオシ
拝殿、
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本殿はちょっと荒々しくて豪華ではないにしても豪快な意匠。
石垣の参道とかを含めて、厳めしい感じも漂っています。 -
そして、甲賀三大仏の檪野寺です。
本尊、木造十一面観音坐像の公開中 by たびたびさん檪野寺 寺・神社・教会
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檪野寺は、桓武天皇の延暦11年(792年)、延暦寺根本中堂の用材を求めてこの地を訪れた最澄が十一面観音を安置したのが始まりと伝わる寺。延暦21年(802年)、征夷大将軍の坂上田村麻呂は蝦夷征討に赴く際にその十一面観音を参詣したとも。
延暦寺の有力な末寺となっています。 -
イチオシ
甲賀三大仏の薬師如来像が目当てではあったのですが、
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ちょうど春と秋に公開される本尊、木造十一面観音坐像の公開中だとか。
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さっそくに拝見しましたが、厨子の中に安置された平安時代後期の作で十一面観音の坐像としては日本最大と言う高さ312cmの巨像は、これ(写真)。比べるものではないのでしょうが、この宝冠をいただいた像の静かな迫力を見てしまうと甲賀三大仏の薬師如来像の存在はさすがに霞んでしまうよう。檪野寺はやはりこれを見ないと話にならないように思います。
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続いての十楽寺も甲賀三大仏の寺。こちらは、木造阿弥陀如来坐像です。
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平安時代後期の作で、本来は他の浄土宗寺院に置かれる目的で制作されたものであったようですが、縁あってこちらに安置されたというもの。穏やかでどっしりとした仏像は、言葉は適切ではないかもしれませんが、阿弥陀如来像としては見慣れたお顔。その分、仏像の大きさがそのまま素直に伝わるような気がします。
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ここでポスターを紹介すると
左から、大池寺の釈迦如来坐像、檪野寺の薬師如来坐像、十楽寺の阿弥陀如来坐像。並んでいるとそれぞれがそれぞれに甲乙つけがたいオーラがあって、甲賀三大仏というのはぴったりのネーミングのような気がします。 -
十楽寺から戻ってくるような形で、道の駅 あいの土山へ。ここは、道の駅としてはほどほどの規模かな。産直やお土産コーナーとかは少し寂しいですが、エコロはるちゃんの大津百福煎餅や土山茶の関係の商品は要チェック。元祖莚寿堂本舗の糸切餅もありました。
道の駅としてはほどほどの規模 by たびたびさん道の駅 あいの土山 道の駅
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食堂の方も地味ですが、素朴な感じは悪くない。
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簡単なものが多いですが、普通においしく食べれます。
近江牛の牛丼とうどんのセットをいただきました。 -
道の駅 あいの土山の向かい側には田村神社。
弘仁3年(812年)の創建と伝わる旧県社です。 -
嵯峨天皇の勅によって坂上田村麻呂をまつる祭壇が鈴鹿峠に設けられたのが始まりとか。
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交通安全の祈祷所から、奥の方に参道が長く続いていて、
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いったん坂を下ってまた石段を上がるという念の入った構造。
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確かに社格に相応しい構えなんだろうと思います。
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イチオシ
平成万人灯は、国道1号線から旧土山宿場町の街並に入る入り口のところ。
岐阜県恵那郡産の白御影石を使った自然石の灯篭。高さは9.33mで、自然石の灯篭としては日本一の大きさだとか。滑らかな石は美しさもありますね。夜には灯も点るようです。 -
イチオシ
平成万人灯から土山の市街地に入って、これは東海道伝馬館。
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江戸後期に造られた土山の民家を活用した施設です。
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離れの建物には、大名行列の人形展示。
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陣容を忠実に再現していて、
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なかなかよくできています。
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主屋の方に入ると落ち着いたゆったり空間。
おもてなしのお茶を一杯いただきましたが、このお茶も土山の特産品ですね。 -
そして、二階の展示室がまたすごい。
東海道49番目の宿場町だった土山を紹介するだけでなく、 -
東海道のすべての宿の浮世絵と
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各宿の名物の紹介もあって
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面白いですね。
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宿の名物は旅の大きな楽しみのひとつですからね。
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こちらの部屋では
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浮世絵をモデルにした箱庭のシリーズ。
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これもかなりのエネルギーをつぎ込んだ作品だと思いますが、なかなかたいしたもの。
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建物の悠々とした気持ちの良い空間とこうした作品群の両方が合わさっているのがこの施設のポイント。けっこう楽しめます。
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旧東海道の方では、問屋に
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イチオシ
三代将軍家光も泊まったという土山家の本陣跡は、黒づくめの建物の傍らに「土山宿本陣跡」の石柱と「明治天皇聖蹟」の石柱。建物の方は予約制で内部を見ることもできるようですが、この日はここまで。
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少しカーブしたかつての東海道沿いに残るそれらしい町並みの一角の先には、
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もうひとつの本陣、大黒屋本陣跡も。
ちなみに、土山家の本陣は1634(寛永11)年、徳川家光が上洛するに際し設けられたものですが、大黒屋本陣は江戸時代中後期。交通量が増えたことで、豪商大黒屋立岡が経営する旅籠が控え本陣に指定されたというもの。今は公園となっています。 -
土山歴史民俗資料館は、土山の市街から少し外れの高台にあるけっこう立派な施設。
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入り口を入ってまず目にするのは、瀧樹神社のケンケト踊り。風流踊として、ユネスコ無形文化遺産に登録されたもののようです。
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土山宿の関係では、歌川広重の「東海道五拾三次之内 土山 春之雨」。「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨がふる」と鈴鹿馬子唄に詠われた土山の詩情溢れる浮世絵や斎王群行の宿泊所であった垂水斎王頓宮の屏風絵とか。あれこれ文化の香りが意外にあって、期待以上に楽しめました。ここも土山では必見の施設かなと思います。
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今度は水口に向かいます。
その途中、ロードサイドのお菓子屋さん近江茶丸吉は奥に喫茶があって、それが茶房焙楽。ここも楽しみにしていたお店です。 -
いただいたのは、焙じ茶糖蜜クリームソーダ。まずは、バニラアイスの素直な味わいにパンチの効いたソーダが素晴らしいですね。ただ、それ以上に素晴らしいのは、底の方に溜まったほうじ茶のシロップをかき混ぜながらいただくと、砂糖かハチミツかよく分かりませんが、これは口にしたことがないような甘さと香り。めちゃくちゃおいしいじゃないですか。お茶は土山の昔からの名物のようですが、こんな素敵なアレンジを加えて、また新たな境地を開いている。なかなかのセンスかなと思います。
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ここからは、水口市街です。
大岡寺は、その水口市街の端っこ。古城山の麓に建つ天台宗の寺で、「岡観音」とも。 -
けっこうな古寺で、傾きかけた本堂とかにはちょっと引きましたが、なかなかの由緒のよう。
鴨長明や一条兼良が宿泊したといわれ、松尾芭蕉が「野ざらし紀行」の中で水口で旧友と再会した際に詠んだといわれる句「いのちふたつ中に活たるさくらかな」の句碑もあったり。意外な名所だと思います。 -
甲賀市ひと・まち街道交流館は、水口石橋駅から石橋駅の方に向かってすぐ。石橋市街の中心部です。
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観光案内所というか水口のあれこれの情報発信をしている施設。
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隣りに、水口曳山まつりの曳山を保管している水口中部コミュニティセンターがあって、
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イチオシ
そこの曳山も見せてもらいました。かつての東海道の宿場町であり、水口城の城下町でもある水口のイメージが少し広がったような気がしました。
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水口城跡は、お堀や立派な石垣はありますが、水口市街の中心部にひょっこりありまして、なんか唐突な感じもしなくはないですね。つまり、この水口城は、徳川氏の直轄地となった水口に、3代将軍徳川家光が寛永11年(1634年)上洛の際の宿館として建てさせた水口御茶屋が始まりなのですね。便利のいい場所なのは、そう言うことなのかなとも思います。
その後、しばらくは、城主がおらず城番が管理する番城でしたが、天和2年(1682年)、加藤明友が2万石で入城して水口藩が成立。水口藩は幕末まで続いています。 -
水口城跡には水口城資料館があるのですが、堀を渡る御成橋が工事中で、閉館?
ただ、看板が出ていて橋は渡れないが、別の道があるという説明もあるし、橋の交通止めと資料館の閉館がどういう関係なのか。ちょっと分かりにくいなあと思います。 -
そして、甲賀三大仏の最後は大池寺。天平年間(729-784年)に行基がこの地を訪れ、灌漑のための池を掘り、釈迦如来坐像を安置したというのが始まり。寺の名前もその辺りから来ているのでしょうね。
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見どころは、その木造釈迦如来坐像と枯山水の蓬莱庭園。
山門に入る手前にも立派なお庭。ここも見応えがありますが、 -
境内へ。
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仏殿から
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玄関の方に回って、
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表側の庭についてもビデオで案内がありましたが、
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蓬莱庭園は、その奥の方。
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水口城の作事奉行だった小堀遠州が完成を祝って、ここに作庭をしたのだとか。
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大刈込が力強くて、いかにも小堀遠州といったお庭。お見事です。
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木造釈迦如来坐像は、平安時代末期作。丈六坐像でやっぱり素晴らしい存在感。凛々しい顔立ちもとってもいいと思います。
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そろそろ日野祭の方が気になってきましたが、
水口の最後は、柏木神社。 -
白鳳元年(673年)の創建。日吉宮と称し大己貴命を祀ったのが始まり。
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江戸時代は、歴代水口城主の祈願所とも。境内はそれなりに凛とした雰囲気があって、しっかり威厳も感じられる。さすが、昭和になって県社となった神社かなと思います。
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姫塚は、柏木神社のすぐ東。まあまあ立派な塚ですが、これは関が原の合戦に敗れた水口岡山城主で豊臣氏5奉行の一人でもあった長束正家と妻栄子姫の慰霊碑。自刃した正家に対し、栄子姫は身重の身で城を脱出しますが、男子を出産してまもなく亡くなります。ただ、遺児は仏道に入り、水口大徳寺の三世還誉上人となったとか。ちょっと救われるような逸話です。
これで、レンタカーの旅は終了。日野祭に向かいます。 -
日野に到着。夕暮れになってきて、各町内の曳山が引き出されるところでした。
16.法天地
岡本町曳山
天明年間(1781~1788)頃建造 -
黒光りしていて、いい感じ。正面の小さな人形の彫刻とかも渋いです。
提灯には火が入っていますが、まだよく分からないですね。 -
15.舞鶴社
今井町曳山
文久元年(1861)建造 明治33年(1900)大修理 -
龍虎の幕。祇園祭とは比較になりませんが、錦糸の刺繍がすっきりしていてこれはこれで成り立っています。
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13.観舞車
仕出町曳山
創建宝暦年間(1751~1763)以前 嘉永5年(1852)修理 -
こちらの幕は雅楽の刺繍。三手先斗栱とかよく見ると贅を尽くした構えです。
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11.蘭香閣
河原田町曳山
創建宝暦年間(1751~1763)以前 再建元治元年(1864) -
通りに曳山が集まってきました。
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8.芳菊車
金英町曳山 -
あちこちからお囃子が聞こえてきて、こちらに向かっているのが分かります。
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10.瓊象社
上大窪町曳山
文久3年(1863)建造 -
4.萬延社
上鍛冶町曳山
万延元年(1860)建造。 -
5.六徳
清水町曳山
文政8年(1825)建造 -
7.歓心
杉野神町曳山
寛政3年(1791)頃建造 -
6.翔鶴
越川町曳山
文化3年(1806)建造 -
3.八景閣
新町曳山
文化4年(1807)頃建造
集まってきたのを確認したので、晩飯にしましょうか。 -
守貞は、日野のメインストリート沿い。古民家を活用した料亭みたいな構えのお蕎麦屋さん。
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店内の雰囲気は抜群だし、夜もしっかり営業していて、なかなか貴重なお店です。
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そばとセットのお料理もリーズナブルな値段で気になりましたが、あまりお腹が空いていなかったので、とろろそばをいただきました。細めのそばで悪くなかったんですが、山芋には卵の黄身が入っていて、これではそばの香りを味わうには少し邪魔なような。まろやかさを取るか香りを取るかということなんでしょうが、私の好みだと後者かなあ。そこは少し気になりました。
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10.瓊象社
上大窪町曳山
文久3年(1863)建造 -
手前は、8.芳菊車。
向こうが14.南壮社です。
南大窪町曳山
天明5年(1785)以前の建造 -
芳菊車の方は
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イチオシ
態勢を整えます。
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方向を転換して
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二つの曳山が向かい合わせになりました。
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迎える形になった14.南壮社。
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お囃子が激しくなって、熱気を帯びてきたような。
互いに競いあっているようなお囃子で夜が更けていく。これが日野祭の宵山ですね~ -
この日の宿は、ビジネスグリーンホテル日野。建物はしっかりしているし、スタッフの対応も落ち着いたもの。地元ではやっぱり老舗のホテルなんだと思います。
ただ、日野の街の中心部にあるということは日野駅からはそれなりに遠いということ。基本はバスになりますが、次の日は日曜日だったので、早朝の時間のバスがなくて、日野駅までは歩き。やっぱり、歩くと大変でした。 -
翌朝、ビジネスグリーンホテル日野から日野駅へ帰る途中。五社神社にも立ち寄ります。
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ここは、日野祭をとりしきる上野田の氏神で、日野祭の三人の稚児はこの社で選ばれます。稚児さんが出発の準備中。日野祭がここから始まるといった緊張感も感じました。なお、日野の火ふり祭りでもここで松明に火がつけられるという重要な場所になります。
今日が本祭りですが、私はこれで退散。下鴨神社の流鏑馬に向かいます。
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