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《2024.January》あみんちゅなにげに東海街歩きの旅三重そのⅠ~田丸城ライトアップと伊勢・津イルミネーション編~<br /><br />年が明けて令和6(2024)年を迎えたが、年明け早々能登地震が起こり。翌2日には海保機とJAL機の事故。羽田空港は昨年2月に利用し、能登は10月に訪れたばかりである。特に能登は観光地であり、観光地である白米千枚田、そして旅行貯金で訪れた穴水郵便局等被害の大きかった施設の姿を見てなんとも言えない気持ちになった。<br /><br />こういった出来事があると、出掛けることを躊躇ってしまう気持ちになる者も少なくないとは思うが、必要以上に気にされることを被災された方々から心苦しいと感じる意見が多いのもまた事実である。被災地に入り復興の手助けをしたいと考える者も居るが、勢いだけで出向くと足枷にしかならないことも言うまでもない。<br /><br />仕事中は必要以上に情報を仕入れない。気を揉んだからといってなにかが良い方向に向かうこともない。そういった割り切りはできるのだが、休みの日にはやはり否が応でもにでも情報が入ってくる。何もできないがためにもどかしく思えることもまた人間の性である。それから少しでも逃れたいという思いから、少しの非日常体験へと舵を切る。無責任だと思われても仕方がないが、メンタル弱者にとっては致し方ないことでもある。今日も中途半端な一日で、昼間はまた別の用事で潰れたのだが、夜のイベントであれば行くことは可能という判断から17:00過ぎの出発で間に合う場所を探してみる。行きたい場所は候補リストから探した結果、三重県渡会郡玉城町の田丸城跡ライトアップを発見。迷うことなく行動を移し、一路三重県を目指すことにした。<br /><br />出発後は新名神高速道路利用時の定番コースで草津田上ICを利用する。いつもならばサービスエリアに立ち寄りつつ進むのだが、時間の関係から走ることに専念し、最初で最後の休憩を伊勢自動車道嬉野PAで取り、一息ついてすぐに出発する。そして玉城ICで一般道へと下りた後、ナビの示すまま玉丸城へと向かって行く。最初到着したのは玉城町役場前駐車場であったが、お目当ての田丸城跡天守閣までは少し離れているために、より近い駐車場を探し、田丸城虎口前駐車場に車を停めることにした。<br /><br />車から降りカメラをスタンバイして城内へと進んで行く。続・日本100名城、三重県指定文化財・史跡として登録されており、玉城町のシンボルとなっている田丸城跡の歴史は南北朝時代に遡る。南朝方の拠点として北畠親房・北畠顕信親子によって築かれたといわれる平山城であるとされ、伊勢神宮を抑える戦略的要衝として争奪戦が繰り広げられた。南北朝の戦乱の中南朝の戦略的拠点として利用され、顕信の兄で数え14歳で史上最年少で参議になった北畠顕家も度々入城をしていたという記録が残っている。延元元・建武3(1336)年に伊勢国において挙兵した顕信は後醍醐天皇の遷幸を援助した功により伊勢国司に任官される。延元3・暦応元(1338)年には、石津の戦いに於いて兄顕家が討ち取られると鎮守府将軍に任命され、後醍醐天皇皇子の義良親王、宗良親王に供奉して父親房と共に陸奥国に赴こうとするが、途中で暴風にあって頓挫し吉野に戻る。翌年、再び陸奥に向かい、国府多賀城の攻略を試みた結果、一時占領するが最後は北朝方の反撃を受け失敗する。その後は福島県の伊達市・相馬市にまたがる場所に兄顕家の手によって築かれていた霊山城を拠点に、周辺豪族を糾合して活動することとなる。しかしその感防御が手薄となっていた田丸城は、北朝方の足利尊氏によって攻められ落城する。その後霊山城も落城し、顕信の足跡もその後は不明となっている。<br /><br />その一方で顕信の弟で北畠親房の三男北畠顕能は伊勢国司となり、以後の北畠家宗家は伊勢に定着した。室町時代に入っても伊勢で独自の勢力を保ちその支配形態は国司体制を維持するいわば公家大名というべきものであったと言われている。室町幕府の伊勢守護の勢力圏が北伊勢に限られたのに対し、雲出川以南の南伊勢エリアは北畠家が掌握しており、歴代の当主は一志郡の多芸城(霧山城)を居城とし、多芸御所と呼ばれていた。南北朝合一後に明徳の和約が守られず北朝系によって天皇位が独占されるようになったことに反発し、応永22(1415)年に北畠満雅が室町幕府に対して挙兵する。一度は和睦するものの正長元(1428)年には嗣子のなかった称光天皇が崩御した際も北朝傍流の後花園天皇が後継に選ばれたため、小倉宮聖承を担いで再び反乱を起こしたが、幕府の大軍に攻められ、同年12月に岩田川の戦いにて討ち死にしている。この戦いで北畠家は一志郡・飯高郡を失い、それぞれ長野満藤と土岐持頼に与えられたが、のちに幕府から返還されている。その後嘉吉元(1441)年に足利義教が暗殺された嘉吉の乱が起きると、首謀者の1人で縁戚関係にある赤松教康が国司北畠教具を頼ってきたが、保護を拒否して自害させ幕府への恭順を示している。応仁元(1467)年の応仁の乱では、戦火を逃れて伊勢にやってきた足利義視を保護している。北畠家は東軍方に付いたが洛中の戦闘には参加していない。他方で敵対する北伊勢の長野工藤氏は西軍に付いている。室町時代後期、教具・北畠政郷・北畠材親の三代に関しては、断続的に幕府から伊勢守護に任命され、伊勢国司と守護を兼任している。焼失した田丸城は伊勢国司を父から引き継いだ北畠顕泰の手によると伝わっている。その後北畠家の庶流で第5代北畠政郷の四男顕晴が度会郡田丸城に入って田丸氏を名乗り居城とした。永禄年間に前伊勢国司であった北畠具教が、織田信長の伊勢侵攻に対し嫡子・具房と共に多気の霧山城(北畠神社)より大河内城に本拠地を移し、大河内城の戦いで籠城戦に挑むも和睦、信長の次男信雄に北畠の家督を譲る条件で和睦して大河内城を退去した。この戦いの際に田丸城主であった田丸直昌も和睦条件をのむことで城を明け渡し織田信雄に仕えることとなる。天正2(1574)年には信雄配下の武者大将として水軍を率いて第三次伊勢長島攻めに参戦、天正4(1576)年には信長の意向を受けた信雄の命により、北畠一門の主であった長野具藤・北畠親成ら等を田丸城に招き寄せて殺害した三瀬の変を起こす。この一連の出来事の後信雄は居城を田丸城に移したとされている。天正8(1580)年には失火により天守を始めとする多くの建物が焼失した。信雄は田丸城を再建することはせず、松阪に松ヶ島城を築いて移って行った。これにより一旦廃城となったものと思われるが詳細は不明である。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでの戦功によって、岩出城主稲葉道通が田丸城45,000石余へ加増転封された。稲葉一鉄良通の庶長子重通の四男である道通は、現在          目にする田丸城の縄張りは、この道通の時代に完成されたものとされている。元和2(1616)年には道通の子紀通が摂津中島へ転封となった。そのため田丸城は津藩藤堂領を経て、元和5(1619)年に徳川御三家のひとつである紀州藩領となる。田丸城はもともと紀州藩領となる予定ではなかったのだが、紀州藩主となった徳川頼宣が和歌山へ赴くことを嫌がっていることを伝え聞いた藤堂高虎が、狩り好きの頼宣のために鶴が多く飛来する田丸領を進呈して、頼宣を懐柔したという逸話が伝えられている。そして頼宣の付家老のひとりである久野宗成が田丸城代となり田丸領6万石の支配を任されることとなる。その後久野氏は8代を数えて明治維新を迎えた。<br /><br />しかしながら劣化が酷かった田丸城は、明治維新に伴って建造物はほとんど取り壊された。しかし天守台や石垣、外堀、内堀、堀切、空堀などの遺構は今も整備されて残されている。加えて他所へ移築されていた富士見門や三の丸の奥書院なども再度移築され、往時の面影を偲ばせる姿で今日に至っている。また城をぐるりと囲う水濠がほぼ完全に残っているため、webマップなどでもはっきりと〝城跡〟ということがわかるものとなっている。その〝外城田川〟は信雄の時代に城を整備した際に、城を包むように流路を変える工事がなされたと伝わっている。田丸城はその成り立ちから南北朝時代の中世城郭と戦国・安土桃山時代の近世城郭のふたつを併せ持つ城郭として興味深い城であるとされている。また田丸城跡の公園整備は、玉城町出身である朝日新聞創始者の村山龍平の         篤志によるものであり、その記念館が城跡近くに残っている。また近年学術的調査を伴った石垣の積み直しなどの史跡整備が行われているようである。そんな〝田丸城跡〟を様々な時期に於いて〝名所化〟する動きが玉城町をはじめとする〝機関〟の手によって行われているのである。<br /><br />春の桜・秋の紅葉はまた別の機会に述べるとして今回訪れた目的である〝ライトアップ〟について今回は見たことを書いてみようと思う。城内の石垣や樹木その他は細かく手入れがなされており、それに当てられている強めの照明がまた何とも言えない雰囲気を醸し出している。ただ忘れてはならないことがひとつある。それは〝天守〟が残っていないということである。今まで田丸城跡のライトアップに関する〝写真〟は色々と見てきたのだが、いつも天守らしいものが写っていたと記憶している。それは間違いだったのか~と思っていたところ実は間違ってはいないことがすぐに分かる。実はライトアップされた天守と思っていたものは、足場に布がかかっている〝張りぼて〟だったのである。一瞬???となったものの、このアイディアには脱帽である。言い方はあまり良くないが、急仕立てで組み上げることができるため、時間も費用も節約することができる。それ=目玉にできることなので着眼点が素晴らしいと思う。復元天守閣でも構築するのに多額の費用が掛かるために、多くの城跡ではごく一部の著名な城郭以外はなされていないのが現実である。勿論城跡を公園としてイベント会場とするなどやり方は多々あるかとは思うのだが、当たり前過ぎる展開にコロンブスの卵状態になったことは未だ忘れることはない。また交通の要所であれど決して都会ではない場所に位置する城跡からは、ライトアップの照明から目を離すだけで星空が広がっていることを見ることができる。そういった意味では魅力満載の場所で行われている〝城跡のライトアップイベント〟であることに間違いはない。高速代と燃料と時間をかけて、訪れるだけの価値はあったな~と改めて思う。ただライトアップの照明以外に城跡エリアは照明がないために、足元には注意が必要である。1時間強で一周をしてきたが、大きな違いはないようにも思えるが、時期を変えて来ればまた新たな発見ができる場所のひとつであると思いながら、車へと戻り出発することにした。<br /><br />田丸城跡の成り立ちで堀の役目を果たしている〝外城田川〟の流路を変える工事を行ったことを述べた。これは田丸城跡を懲り巻くように堀が巡らされていることになる訳だが、車で走っているとその様子が良くわかる。多分昼間ではわかり辛いと思うのだが、夜だとライトアップされた城跡が良くわかるためにそう思えるのであろう。ただある程度城跡との対比を考えると〝望遠レンズ〟を使う必要がある。iPhone15Proのナイトモードを用いても、望遠域を使用すれば解像度が落ちるためにボヤけてしか写せない。またアナログカメラに300mmの望遠レンズを装着したとしても〝光量不足〟で真っ黒になるか、露出オーバーで真っ白になるかどちらかであった。まぁこのご時世画像補正はできるので、それ程大きな問題でもないのかも知れないが…。<br /><br />ちょっと残念な結果になってしまったが次の目的地を目指す前にmovoクンの食事タイムを済まそうと思う。Quickpit伊勢SS、地元のホワイトブランドのGSであるが、このガソリンスタンドは色々なメディアにも取り上げられる有名店舗である。本日の価格はレギュラーガソリン154円/Lであった。つまり安いのであるが、このQuickpit伊勢SSは全国で20本の指に必ず入る〝格安ガソリンスタンド〟である。未だ昭和のような〝安いガソリンスタンドでは水が入っている〟などという戯言を動画にしている者もいるようだが、これだけ車のエンジン形式が多様化している時期に品質の安定しない燃料を売っていると信じていることがすごいと思う。まあ高いガソリン=確かな品質と思っている者につける薬はないのであるが…。<br /><br />ということでmoveクンの食事を済ませ再び走り出し、向かった先は伊勢市駅である。参宮線と近鉄山田線が乗り入れる駅は、文字通り伊勢参りの〝鉄道〟に於ける参拝の玄関口となる駅である。お伊勢さんには数回来たことがある筈だが、伊勢市駅の利用は記憶がない。というよりもこんなきれいな駅舎ではなかっただろう。駅前は綺麗に整備されているようだが、やはり商業施設を設けても流行らないのは田舎の駅前ならではのことであろう。そんな伊勢市駅の駅前に於いてイルネーション&ライトアップイベントが行われることを知ったのは昨年のことであったと記憶している。その際は日取りの関係で来られなかったのだが、田丸城跡イルミネーション訪問の折には…という候補リストには加えていた。この辺りはやはりお伊勢参り関係のデコも多く、鳥居等も設けられている。そこに駅前広場に植えられている木々にLEDを絡ませて彩を付けている。加えて駅前にある一部の施設も協賛という形で参加しており、プロジェクションマッピングも含めて〝伊勢市駅前イルミネーション&ライトアップ〟を盛り立てているという感じであった。ただ残念なことに駅前広場でありながら、やはり夜には弱い様で観光客や大人でイルミネーションイベントを倒しむような年齢層は少なかったようだ。それ以外にはどこでもそうなのかも知れないが、中高生が屯しているといった風景は広がってはいたが…。<br /><br />そして車に戻って出発する。向かった先は伊勢銀座新道商店街、通称〝しんみち商店街〟である。しんみちイルミネーションプロムナードと銘を打ったイルミネーションイベントが行われていることから訪れた次第である。このしんみち商店街は門前町の寂れた商店街というイメージがあるが、商店街としての取り組み等がweb上でも掲載されており、世代を跨いでの取り組みをしているようだ。伊勢参宮街道沿いの歓楽街を後ろに控えているため、歓楽街相手の呉服や化粧品を扱う店が多く、明治以降に順次拡大して行ったしんみち商店街、現在では服飾品や呉服雑貨を扱う店が中心となっている。平成26(2014)年に執り行われた伊勢神宮の第62回式年遷宮を契機に伊勢市駅周辺に多くのホテルや飲食店が開業し、さらには伊勢市の総合福祉センターを核とした大型ビルの開業が迫るなど、これまでの各店の顧客さま以外の観光客や新しいお客さまに足を運んでいだだくようになった。<br /><br />勿論各個店は専門的な知識をもった店主たちでプロフェッショナルな集団であり、店主が選んだ安心・安全な商品を提供していきます。平成2(1990)年に松尾芭蕉の句碑を商店街の入り口に移転し、それを記念して、芭蕉が伊勢に因んで詠んだ22句のプレートを商店街の中に設置しました。厚生まちづくりの会と協力して買い物弱者の支援も行っている。以上その〝取り組み〟を掲載する。ただ服飾品や呉服雑貨を扱う店が中心であれば、やはり〝夜に対しては強さ〟はないように思える。飲食店や夜のお店というのが、ナイトライフを盛り上げていることは現在では疑うことのできない事実であり、夜間人口の少なさはやはり〝寂れ感〟強めてしまうように感じる。勿論商店街にも開いていたお店もあったのだが、場所柄か〝やかましい〟と思える営業ではなく、静かな商店街に馴染んでしまっている。せっかく商店街の取り組みとして行われている〝しんみちイルミネーションプロムナード〟をカメラに収めてその様子を記録する。どうにかいじれば受ける印象も変わるかも…とやっては見たが…やっぱり無理であった、残念。<br /><br />という訳で伊勢市を後にして暫く走る前に近くのコンビニに立ち寄った。ローソン伊勢一之木店、街中の普通のローソンであるが、myタバコの購入に成功。気分を良くして飲み物と共に購入、一服するのであった(笑)。<br /><br />国道23号線バイパスを走り津市へと向かう。ナビに振り回されながら辿り着いた場所は津栄町公園。津駅の東口にある都市公園である。なんでこの溶暗場所へ…というのはイルミネーションイベントの記載があったから。基本観光地で中の施設が行っているような大規模イルミネーションイベント以外は、情報検索が非常に難しくかつあてにならないこともある。今年はやっていない位ならば諦めもつくが、数年前に偶々行われたイベントがさも〝毎年〟行われているかの如く書かれているものも少なくはない。つまり数年前に架かれたブログが更新されずに残ったままとなり、広告のようにへばり付かれて〝過去〟を晒している。この辺りは私も注意はしているが、日にちを〝〇年〇月〇日〟と明記している。それでも情報が少ない場合検索ワードとして知っかかってしまうこともあるが、情報の共有化がサイト間で行われている以上、全てを管理することはできないのが事実である。そんな中でこの津駅近くの栄町公園で行われているイルミネーションイベントについては、周辺のホテルなんかのブログに日にち掲載で載せられていることで存在を昨年知り、未訪問リストに挙げていたことがきっかけとなる。一応津市の観光協会のページにも記述があり、令和5(2023)年度で12回目を迎えるという。津駅前の経営者や商店主らで作る〝津駅前ストリート倶楽部〟が津駅前を明るく照らし防犯に繋げることも目的に毎年この時期に実施。株式会社アルファ@栄町公園エコイルミネーション~2023.12.14 THU~という記事が載っていた。<br />規模として取り上げるものではないが、以外にも津駅東口というのが建物の〝谷間〟を感じさせるロケーションであり、そこにある公園も、街灯が点いているという部分はあるものの、このイベントがなければかなりの殺風景感があるようにも見える場所であった。公園一帯の木々に取り付けられたLED電球、そして飾りつけのデコレーション、加えて近隣の店舗では独自のイルミネーションを店舗看板の隣につけてイベントを盛り立てていた。日が変わる少し前の到着だったため飲食する方々以外には、仕事帰りのサラリーマンがぽつりぽつりいた程度の場所である。相変わらず若者はいるがイルミネーションイベントの〝目的〟を知ってか、過剰に五月蠅いレベルまではいなかったように思う。確かに三重県の中では都会のエリアであることを踏まえれば、防犯の意味でイルミネーションを活用するのも不思議ではない。年齢層尾は違えど反発することなく歩み寄れる…そんな〝易しさ〟を感じた津市栄町公園の入見ネーションであった。Webには0:00迄とあったので途中で消えると思いきや、栄町公園を出発する0:14迄は照明はついていたようだ。<br /><br />という訳で本日の三重県ライトアップ&イルミネーションイベント参加はすべて終了し、帰路に就くことにする。日付は変わったが出発が遅かったのでまだ余裕はある。なのでいつもと同じく一般道で帰る選択をした。津市からは三重県道10号線を走って名阪国道関を目指す。関で名阪国道へと入り大阪方面へと走る。壬生野ICで県道に下りると後は山道をショートカットするかの如く走って行く。そのうち滋賀県に入り信楽町神山付近で国道422号線に合流する。立石橋より先は国道307号線との供用区間となる。このエリアは〝動物飛出注意〟区間なので、それなりに飛ばしながらも、要所要所は減速して走って行く。そして相変わらず分岐がわかり辛い下朝宮の交差点を右折し、国道422号線を走って行く。大石エリアに入ると私の時代には同じ中学校の〝校区〟だった場所となる。その後分離して学区も別れた後、この界隈の集落を結ぶように曲がりながら走っていた旧国道は、バイパス化されたことにより廃道に近いものになった。そんな時代の流れを感じながら走ると、新名神大石工区の現場へと差し掛かる。同じような工事現場が宇治田原にもあるが、現在では違う道を走らねばならない場所が一本の道で繋がってしまうことにいつも違和感を感じてしまう。そんな場所からまたバイパス区間を走行し瀬田川令和大橋を通過すると間もなく石山。途中より行きと同じ道を辿りド田舎の自宅に到着する。津からの走行距離は81.0kmを1時間25分で走り切った。まあ出発時間が遅かったので尻切れトンボの様相を呈した部分はあれど、それなりに満足が出来た三重のイルミネーション&ライトアップイベント~2024最初旅~はこれにて終了する。<br /><br />  《終わり》

《2024.January》あみんちゅなにげに東海街歩きの旅三重そのⅠ~田丸城ライトアップと伊勢・津イルミネーション編~

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《2024.January》あみんちゅなにげに東海街歩きの旅三重そのⅠ~田丸城ライトアップと伊勢・津イルミネーション編~

年が明けて令和6(2024)年を迎えたが、年明け早々能登地震が起こり。翌2日には海保機とJAL機の事故。羽田空港は昨年2月に利用し、能登は10月に訪れたばかりである。特に能登は観光地であり、観光地である白米千枚田、そして旅行貯金で訪れた穴水郵便局等被害の大きかった施設の姿を見てなんとも言えない気持ちになった。

こういった出来事があると、出掛けることを躊躇ってしまう気持ちになる者も少なくないとは思うが、必要以上に気にされることを被災された方々から心苦しいと感じる意見が多いのもまた事実である。被災地に入り復興の手助けをしたいと考える者も居るが、勢いだけで出向くと足枷にしかならないことも言うまでもない。

仕事中は必要以上に情報を仕入れない。気を揉んだからといってなにかが良い方向に向かうこともない。そういった割り切りはできるのだが、休みの日にはやはり否が応でもにでも情報が入ってくる。何もできないがためにもどかしく思えることもまた人間の性である。それから少しでも逃れたいという思いから、少しの非日常体験へと舵を切る。無責任だと思われても仕方がないが、メンタル弱者にとっては致し方ないことでもある。今日も中途半端な一日で、昼間はまた別の用事で潰れたのだが、夜のイベントであれば行くことは可能という判断から17:00過ぎの出発で間に合う場所を探してみる。行きたい場所は候補リストから探した結果、三重県渡会郡玉城町の田丸城跡ライトアップを発見。迷うことなく行動を移し、一路三重県を目指すことにした。

出発後は新名神高速道路利用時の定番コースで草津田上ICを利用する。いつもならばサービスエリアに立ち寄りつつ進むのだが、時間の関係から走ることに専念し、最初で最後の休憩を伊勢自動車道嬉野PAで取り、一息ついてすぐに出発する。そして玉城ICで一般道へと下りた後、ナビの示すまま玉丸城へと向かって行く。最初到着したのは玉城町役場前駐車場であったが、お目当ての田丸城跡天守閣までは少し離れているために、より近い駐車場を探し、田丸城虎口前駐車場に車を停めることにした。

車から降りカメラをスタンバイして城内へと進んで行く。続・日本100名城、三重県指定文化財・史跡として登録されており、玉城町のシンボルとなっている田丸城跡の歴史は南北朝時代に遡る。南朝方の拠点として北畠親房・北畠顕信親子によって築かれたといわれる平山城であるとされ、伊勢神宮を抑える戦略的要衝として争奪戦が繰り広げられた。南北朝の戦乱の中南朝の戦略的拠点として利用され、顕信の兄で数え14歳で史上最年少で参議になった北畠顕家も度々入城をしていたという記録が残っている。延元元・建武3(1336)年に伊勢国において挙兵した顕信は後醍醐天皇の遷幸を援助した功により伊勢国司に任官される。延元3・暦応元(1338)年には、石津の戦いに於いて兄顕家が討ち取られると鎮守府将軍に任命され、後醍醐天皇皇子の義良親王、宗良親王に供奉して父親房と共に陸奥国に赴こうとするが、途中で暴風にあって頓挫し吉野に戻る。翌年、再び陸奥に向かい、国府多賀城の攻略を試みた結果、一時占領するが最後は北朝方の反撃を受け失敗する。その後は福島県の伊達市・相馬市にまたがる場所に兄顕家の手によって築かれていた霊山城を拠点に、周辺豪族を糾合して活動することとなる。しかしその感防御が手薄となっていた田丸城は、北朝方の足利尊氏によって攻められ落城する。その後霊山城も落城し、顕信の足跡もその後は不明となっている。

その一方で顕信の弟で北畠親房の三男北畠顕能は伊勢国司となり、以後の北畠家宗家は伊勢に定着した。室町時代に入っても伊勢で独自の勢力を保ちその支配形態は国司体制を維持するいわば公家大名というべきものであったと言われている。室町幕府の伊勢守護の勢力圏が北伊勢に限られたのに対し、雲出川以南の南伊勢エリアは北畠家が掌握しており、歴代の当主は一志郡の多芸城(霧山城)を居城とし、多芸御所と呼ばれていた。南北朝合一後に明徳の和約が守られず北朝系によって天皇位が独占されるようになったことに反発し、応永22(1415)年に北畠満雅が室町幕府に対して挙兵する。一度は和睦するものの正長元(1428)年には嗣子のなかった称光天皇が崩御した際も北朝傍流の後花園天皇が後継に選ばれたため、小倉宮聖承を担いで再び反乱を起こしたが、幕府の大軍に攻められ、同年12月に岩田川の戦いにて討ち死にしている。この戦いで北畠家は一志郡・飯高郡を失い、それぞれ長野満藤と土岐持頼に与えられたが、のちに幕府から返還されている。その後嘉吉元(1441)年に足利義教が暗殺された嘉吉の乱が起きると、首謀者の1人で縁戚関係にある赤松教康が国司北畠教具を頼ってきたが、保護を拒否して自害させ幕府への恭順を示している。応仁元(1467)年の応仁の乱では、戦火を逃れて伊勢にやってきた足利義視を保護している。北畠家は東軍方に付いたが洛中の戦闘には参加していない。他方で敵対する北伊勢の長野工藤氏は西軍に付いている。室町時代後期、教具・北畠政郷・北畠材親の三代に関しては、断続的に幕府から伊勢守護に任命され、伊勢国司と守護を兼任している。焼失した田丸城は伊勢国司を父から引き継いだ北畠顕泰の手によると伝わっている。その後北畠家の庶流で第5代北畠政郷の四男顕晴が度会郡田丸城に入って田丸氏を名乗り居城とした。永禄年間に前伊勢国司であった北畠具教が、織田信長の伊勢侵攻に対し嫡子・具房と共に多気の霧山城(北畠神社)より大河内城に本拠地を移し、大河内城の戦いで籠城戦に挑むも和睦、信長の次男信雄に北畠の家督を譲る条件で和睦して大河内城を退去した。この戦いの際に田丸城主であった田丸直昌も和睦条件をのむことで城を明け渡し織田信雄に仕えることとなる。天正2(1574)年には信雄配下の武者大将として水軍を率いて第三次伊勢長島攻めに参戦、天正4(1576)年には信長の意向を受けた信雄の命により、北畠一門の主であった長野具藤・北畠親成ら等を田丸城に招き寄せて殺害した三瀬の変を起こす。この一連の出来事の後信雄は居城を田丸城に移したとされている。天正8(1580)年には失火により天守を始めとする多くの建物が焼失した。信雄は田丸城を再建することはせず、松阪に松ヶ島城を築いて移って行った。これにより一旦廃城となったものと思われるが詳細は不明である。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでの戦功によって、岩出城主稲葉道通が田丸城45,000石余へ加増転封された。稲葉一鉄良通の庶長子重通の四男である道通は、現在          目にする田丸城の縄張りは、この道通の時代に完成されたものとされている。元和2(1616)年には道通の子紀通が摂津中島へ転封となった。そのため田丸城は津藩藤堂領を経て、元和5(1619)年に徳川御三家のひとつである紀州藩領となる。田丸城はもともと紀州藩領となる予定ではなかったのだが、紀州藩主となった徳川頼宣が和歌山へ赴くことを嫌がっていることを伝え聞いた藤堂高虎が、狩り好きの頼宣のために鶴が多く飛来する田丸領を進呈して、頼宣を懐柔したという逸話が伝えられている。そして頼宣の付家老のひとりである久野宗成が田丸城代となり田丸領6万石の支配を任されることとなる。その後久野氏は8代を数えて明治維新を迎えた。

しかしながら劣化が酷かった田丸城は、明治維新に伴って建造物はほとんど取り壊された。しかし天守台や石垣、外堀、内堀、堀切、空堀などの遺構は今も整備されて残されている。加えて他所へ移築されていた富士見門や三の丸の奥書院なども再度移築され、往時の面影を偲ばせる姿で今日に至っている。また城をぐるりと囲う水濠がほぼ完全に残っているため、webマップなどでもはっきりと〝城跡〟ということがわかるものとなっている。その〝外城田川〟は信雄の時代に城を整備した際に、城を包むように流路を変える工事がなされたと伝わっている。田丸城はその成り立ちから南北朝時代の中世城郭と戦国・安土桃山時代の近世城郭のふたつを併せ持つ城郭として興味深い城であるとされている。また田丸城跡の公園整備は、玉城町出身である朝日新聞創始者の村山龍平の         篤志によるものであり、その記念館が城跡近くに残っている。また近年学術的調査を伴った石垣の積み直しなどの史跡整備が行われているようである。そんな〝田丸城跡〟を様々な時期に於いて〝名所化〟する動きが玉城町をはじめとする〝機関〟の手によって行われているのである。

春の桜・秋の紅葉はまた別の機会に述べるとして今回訪れた目的である〝ライトアップ〟について今回は見たことを書いてみようと思う。城内の石垣や樹木その他は細かく手入れがなされており、それに当てられている強めの照明がまた何とも言えない雰囲気を醸し出している。ただ忘れてはならないことがひとつある。それは〝天守〟が残っていないということである。今まで田丸城跡のライトアップに関する〝写真〟は色々と見てきたのだが、いつも天守らしいものが写っていたと記憶している。それは間違いだったのか~と思っていたところ実は間違ってはいないことがすぐに分かる。実はライトアップされた天守と思っていたものは、足場に布がかかっている〝張りぼて〟だったのである。一瞬???となったものの、このアイディアには脱帽である。言い方はあまり良くないが、急仕立てで組み上げることができるため、時間も費用も節約することができる。それ=目玉にできることなので着眼点が素晴らしいと思う。復元天守閣でも構築するのに多額の費用が掛かるために、多くの城跡ではごく一部の著名な城郭以外はなされていないのが現実である。勿論城跡を公園としてイベント会場とするなどやり方は多々あるかとは思うのだが、当たり前過ぎる展開にコロンブスの卵状態になったことは未だ忘れることはない。また交通の要所であれど決して都会ではない場所に位置する城跡からは、ライトアップの照明から目を離すだけで星空が広がっていることを見ることができる。そういった意味では魅力満載の場所で行われている〝城跡のライトアップイベント〟であることに間違いはない。高速代と燃料と時間をかけて、訪れるだけの価値はあったな~と改めて思う。ただライトアップの照明以外に城跡エリアは照明がないために、足元には注意が必要である。1時間強で一周をしてきたが、大きな違いはないようにも思えるが、時期を変えて来ればまた新たな発見ができる場所のひとつであると思いながら、車へと戻り出発することにした。

田丸城跡の成り立ちで堀の役目を果たしている〝外城田川〟の流路を変える工事を行ったことを述べた。これは田丸城跡を懲り巻くように堀が巡らされていることになる訳だが、車で走っているとその様子が良くわかる。多分昼間ではわかり辛いと思うのだが、夜だとライトアップされた城跡が良くわかるためにそう思えるのであろう。ただある程度城跡との対比を考えると〝望遠レンズ〟を使う必要がある。iPhone15Proのナイトモードを用いても、望遠域を使用すれば解像度が落ちるためにボヤけてしか写せない。またアナログカメラに300mmの望遠レンズを装着したとしても〝光量不足〟で真っ黒になるか、露出オーバーで真っ白になるかどちらかであった。まぁこのご時世画像補正はできるので、それ程大きな問題でもないのかも知れないが…。

ちょっと残念な結果になってしまったが次の目的地を目指す前にmovoクンの食事タイムを済まそうと思う。Quickpit伊勢SS、地元のホワイトブランドのGSであるが、このガソリンスタンドは色々なメディアにも取り上げられる有名店舗である。本日の価格はレギュラーガソリン154円/Lであった。つまり安いのであるが、このQuickpit伊勢SSは全国で20本の指に必ず入る〝格安ガソリンスタンド〟である。未だ昭和のような〝安いガソリンスタンドでは水が入っている〟などという戯言を動画にしている者もいるようだが、これだけ車のエンジン形式が多様化している時期に品質の安定しない燃料を売っていると信じていることがすごいと思う。まあ高いガソリン=確かな品質と思っている者につける薬はないのであるが…。

ということでmoveクンの食事を済ませ再び走り出し、向かった先は伊勢市駅である。参宮線と近鉄山田線が乗り入れる駅は、文字通り伊勢参りの〝鉄道〟に於ける参拝の玄関口となる駅である。お伊勢さんには数回来たことがある筈だが、伊勢市駅の利用は記憶がない。というよりもこんなきれいな駅舎ではなかっただろう。駅前は綺麗に整備されているようだが、やはり商業施設を設けても流行らないのは田舎の駅前ならではのことであろう。そんな伊勢市駅の駅前に於いてイルネーション&ライトアップイベントが行われることを知ったのは昨年のことであったと記憶している。その際は日取りの関係で来られなかったのだが、田丸城跡イルミネーション訪問の折には…という候補リストには加えていた。この辺りはやはりお伊勢参り関係のデコも多く、鳥居等も設けられている。そこに駅前広場に植えられている木々にLEDを絡ませて彩を付けている。加えて駅前にある一部の施設も協賛という形で参加しており、プロジェクションマッピングも含めて〝伊勢市駅前イルミネーション&ライトアップ〟を盛り立てているという感じであった。ただ残念なことに駅前広場でありながら、やはり夜には弱い様で観光客や大人でイルミネーションイベントを倒しむような年齢層は少なかったようだ。それ以外にはどこでもそうなのかも知れないが、中高生が屯しているといった風景は広がってはいたが…。

そして車に戻って出発する。向かった先は伊勢銀座新道商店街、通称〝しんみち商店街〟である。しんみちイルミネーションプロムナードと銘を打ったイルミネーションイベントが行われていることから訪れた次第である。このしんみち商店街は門前町の寂れた商店街というイメージがあるが、商店街としての取り組み等がweb上でも掲載されており、世代を跨いでの取り組みをしているようだ。伊勢参宮街道沿いの歓楽街を後ろに控えているため、歓楽街相手の呉服や化粧品を扱う店が多く、明治以降に順次拡大して行ったしんみち商店街、現在では服飾品や呉服雑貨を扱う店が中心となっている。平成26(2014)年に執り行われた伊勢神宮の第62回式年遷宮を契機に伊勢市駅周辺に多くのホテルや飲食店が開業し、さらには伊勢市の総合福祉センターを核とした大型ビルの開業が迫るなど、これまでの各店の顧客さま以外の観光客や新しいお客さまに足を運んでいだだくようになった。

勿論各個店は専門的な知識をもった店主たちでプロフェッショナルな集団であり、店主が選んだ安心・安全な商品を提供していきます。平成2(1990)年に松尾芭蕉の句碑を商店街の入り口に移転し、それを記念して、芭蕉が伊勢に因んで詠んだ22句のプレートを商店街の中に設置しました。厚生まちづくりの会と協力して買い物弱者の支援も行っている。以上その〝取り組み〟を掲載する。ただ服飾品や呉服雑貨を扱う店が中心であれば、やはり〝夜に対しては強さ〟はないように思える。飲食店や夜のお店というのが、ナイトライフを盛り上げていることは現在では疑うことのできない事実であり、夜間人口の少なさはやはり〝寂れ感〟強めてしまうように感じる。勿論商店街にも開いていたお店もあったのだが、場所柄か〝やかましい〟と思える営業ではなく、静かな商店街に馴染んでしまっている。せっかく商店街の取り組みとして行われている〝しんみちイルミネーションプロムナード〟をカメラに収めてその様子を記録する。どうにかいじれば受ける印象も変わるかも…とやっては見たが…やっぱり無理であった、残念。

という訳で伊勢市を後にして暫く走る前に近くのコンビニに立ち寄った。ローソン伊勢一之木店、街中の普通のローソンであるが、myタバコの購入に成功。気分を良くして飲み物と共に購入、一服するのであった(笑)。

国道23号線バイパスを走り津市へと向かう。ナビに振り回されながら辿り着いた場所は津栄町公園。津駅の東口にある都市公園である。なんでこの溶暗場所へ…というのはイルミネーションイベントの記載があったから。基本観光地で中の施設が行っているような大規模イルミネーションイベント以外は、情報検索が非常に難しくかつあてにならないこともある。今年はやっていない位ならば諦めもつくが、数年前に偶々行われたイベントがさも〝毎年〟行われているかの如く書かれているものも少なくはない。つまり数年前に架かれたブログが更新されずに残ったままとなり、広告のようにへばり付かれて〝過去〟を晒している。この辺りは私も注意はしているが、日にちを〝〇年〇月〇日〟と明記している。それでも情報が少ない場合検索ワードとして知っかかってしまうこともあるが、情報の共有化がサイト間で行われている以上、全てを管理することはできないのが事実である。そんな中でこの津駅近くの栄町公園で行われているイルミネーションイベントについては、周辺のホテルなんかのブログに日にち掲載で載せられていることで存在を昨年知り、未訪問リストに挙げていたことがきっかけとなる。一応津市の観光協会のページにも記述があり、令和5(2023)年度で12回目を迎えるという。津駅前の経営者や商店主らで作る〝津駅前ストリート倶楽部〟が津駅前を明るく照らし防犯に繋げることも目的に毎年この時期に実施。株式会社アルファ@栄町公園エコイルミネーション~2023.12.14 THU~という記事が載っていた。
規模として取り上げるものではないが、以外にも津駅東口というのが建物の〝谷間〟を感じさせるロケーションであり、そこにある公園も、街灯が点いているという部分はあるものの、このイベントがなければかなりの殺風景感があるようにも見える場所であった。公園一帯の木々に取り付けられたLED電球、そして飾りつけのデコレーション、加えて近隣の店舗では独自のイルミネーションを店舗看板の隣につけてイベントを盛り立てていた。日が変わる少し前の到着だったため飲食する方々以外には、仕事帰りのサラリーマンがぽつりぽつりいた程度の場所である。相変わらず若者はいるがイルミネーションイベントの〝目的〟を知ってか、過剰に五月蠅いレベルまではいなかったように思う。確かに三重県の中では都会のエリアであることを踏まえれば、防犯の意味でイルミネーションを活用するのも不思議ではない。年齢層尾は違えど反発することなく歩み寄れる…そんな〝易しさ〟を感じた津市栄町公園の入見ネーションであった。Webには0:00迄とあったので途中で消えると思いきや、栄町公園を出発する0:14迄は照明はついていたようだ。

という訳で本日の三重県ライトアップ&イルミネーションイベント参加はすべて終了し、帰路に就くことにする。日付は変わったが出発が遅かったのでまだ余裕はある。なのでいつもと同じく一般道で帰る選択をした。津市からは三重県道10号線を走って名阪国道関を目指す。関で名阪国道へと入り大阪方面へと走る。壬生野ICで県道に下りると後は山道をショートカットするかの如く走って行く。そのうち滋賀県に入り信楽町神山付近で国道422号線に合流する。立石橋より先は国道307号線との供用区間となる。このエリアは〝動物飛出注意〟区間なので、それなりに飛ばしながらも、要所要所は減速して走って行く。そして相変わらず分岐がわかり辛い下朝宮の交差点を右折し、国道422号線を走って行く。大石エリアに入ると私の時代には同じ中学校の〝校区〟だった場所となる。その後分離して学区も別れた後、この界隈の集落を結ぶように曲がりながら走っていた旧国道は、バイパス化されたことにより廃道に近いものになった。そんな時代の流れを感じながら走ると、新名神大石工区の現場へと差し掛かる。同じような工事現場が宇治田原にもあるが、現在では違う道を走らねばならない場所が一本の道で繋がってしまうことにいつも違和感を感じてしまう。そんな場所からまたバイパス区間を走行し瀬田川令和大橋を通過すると間もなく石山。途中より行きと同じ道を辿りド田舎の自宅に到着する。津からの走行距離は81.0kmを1時間25分で走り切った。まあ出発時間が遅かったので尻切れトンボの様相を呈した部分はあれど、それなりに満足が出来た三重のイルミネーション&ライトアップイベント~2024最初旅~はこれにて終了する。

  《終わり》

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
5.0
グルメ
5.0
ショッピング
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
自家用車 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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