2023/11/30 - 2023/11/30
4259位(同エリア6002件中)
wabisabi2さん
- wabisabi2さんTOP
- 旅行記102冊
- クチコミ3件
- Q&A回答0件
- 21,644アクセス
- フォロワー0人
11月30日、奈良市春日野の春日大社境内で江戸時代から続く、春日荷茶屋の月替わりの万葉粥を食べるため早朝に名古屋を発つ。
今回はその際に訪問した御霊神社と雨寳山十輪院を紹介します。
- 旅行の満足度
- 3.0
- 観光
- 3.0
- グルメ
- 2.5
- 交通
- 2.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
-
11月30日、奈良市春日野の春日大社境内で江戸時代から続く、春日荷茶屋の月替わりの万葉粥を食べるため早朝にひのとりで名古屋を発つ。
-
大和八木で乗り換え西大寺駅から奈良駅へ向かう。
通勤時間と重なり奈良までは生憎立ったままだった。 -
約3時間ほどで近鉄奈良駅に到着。
春日大社に向かい参拝を済ませ、かみさん待望の万葉粥(きのこ)を目指し春日荷茶屋へ。 -
冒頭書いたように春日荷茶屋の万葉粥は月替わりのため、11月のきのこ粥はこの日が最後。
やさしい味わいで温かい粥を頂き今回最大の目的を果たした。
この後は奈良市内の寺社を巡り散策、今回は御霊神社と雨寳山十輪院を掲載します。 -
猿沢の池から南に10分程、春日大社では海外からの旅行客や修学旅行生で溢れていたが、ならまちに入るとそれまでの人波は嘘のように消え、風情ある街並みを感じることができる。
ならまちを進み薬師堂町の史跡元興寺の南に接して御霊神社が鎮座する。
古い町割の町並みに溶け込む様に社頭を構えている。 -
社頭全景。
このあたり一帯は元興寺の元寺領で、嘗ては南大門もあったという。
朱の鳥居の先の表門の門前に狛犬の姿がある、外観は見慣れた狛犬の姿とは少し違うようだ。 -
少しやせた体格で、凛々しいと云うより愛嬌のある顔つきの狛犬で、足には無数の赤い紐が結ばれている。
「狛犬の足止め祈願」と呼ばれ、江戸時代から伝わる願掛けの方法で、家出人や悪所通いの足が止まりますようにとの願いや、ならまちでは子どもたちが神隠しにあわないように狛犬の足に紐を結んで願掛けをしたものだといいまいす。
近頃では「恋人とこれからも一緒にいられますように」「客足が遠のきませんように」などの願いを込めて紐を結ぶようになったという。 -
その狛犬の足元に御霊神社の解説プレートが置かれている。
「御霊神社は、社伝によると井上皇后・他戸親王ら八神を、お祀りします。
このあたりは、奈良時代には元興寺の寺領であり、御霊神社付近には南大門があったと推定されます。
古くはその門前に御霊神社の社地があり、御霊をなぐさめる御霊会が催されたと言い、十五世紀には猿楽などの芸能も行われました。
今も奈良町を中心に、広範囲な信仰を集めています」
その昔、都で疫病流行の際には、中街道に井上皇后、上街道に早良親王、下街道に他戸親王の神輿を据え、疫魔の侵入を防ぐという信仰があり、現在も70ヶ町5000軒を超える氏子層を持ち、健康長寿、家運繁盛、平和の神として広く崇敬され、例祭では神輿が2年かけて70ヶ町全てを巡る行事が今も受け継がれている。 -
上は寛政3年(1791)に纏められた大和名所図会から当時の元興寺と御霊神社を描いた挿絵、この年代では南大門の姿は見られないが、現在の元興寺には見られない五重の塔や鳥居のない御霊神社の姿が描かれており、「御霊前町にあり。洛陽御霊八所に同じ。勧請の年季詳らかにならず。例祭9月13日。」と短く語られていた。
平城京から新都に遷った平安京では疫病が流行し、その原因は怨霊であるとした桓武天皇は、旧都である平城京に入る大和三道の3つの入り口の、上つ道には早良親王を祀る崇道天皇社、下つ道には他戸親王を祀る他戸御霊社、ここ中つ道の現在の井上町に井上皇后を祀る井上御霊社が造営された。
延暦19年(800)、創建されたばかりの大和国宇智郡(五條市霊安寺町)に嘗てあった霊安寺の御霊神社から井上皇后の御霊を勧請し当社が創建されましたが、宝徳3年(1451)におこった土一揆により元興寺は焼き討ちされ神社も消失し、当時の鎮座地から北の現在の地に遷宮されたという。
以後は挿絵にあるように元興寺の鎮守社として明治を迎え、村社に列せられた。 -
表門をくぐった境内の眺め。
提灯櫓の先の拝殿は入母屋妻入りのもので、しっとりとした佇まいを漂わせている。
境内は拝殿・本殿を中心に右に社務所、左に境内社、本殿右にも境内社が祀られています。
手入れの行き届いた境内は、海外から訪れる観光客もなく、古都らしい静かで落ち着いた趣がある。 -
境内左の境内社。
左は瀬織津比咩神、速開都比咩神、気吹戸主神、速佐須良比咩神、市杵島比売神を祀る祓戸社。
右が倉稲魂大神、猿田彦命、大己貴命、天鈿女命、保食命を祀る出世稲荷社で昭和27年(1952)に京都の出世稲荷神社から勧請されたものという。 -
出世稲荷社には「えんむすびの神」の提灯が架けられ、そうした御利益もあるようです。
曇天の空の下で鮮やかな朱色と白の春日造りの社が印象に残る。 -
境内社や社殿は近年改修を受けているようですが修復履歴は分からなかった。
-
本殿域西側の眺め。
春日造りの本殿には井上皇后、他戸親王の二柱が祀られ、本殿左右には東神殿、西神殿がある。 -
西側から本殿、西神殿の眺め。
西神殿には伊豫親王、橘逸勢、文屋宮田麿の三柱が祀られています。 -
東側から本殿、東神殿の眺め。
東神殿には早良親王、藤原広嗣、藤原大夫人の三柱が祀られています。
八所御霊大神と呼ばれるのは、祀られる八柱からそのように呼ばれるようです。 -
拝殿左の由緒。
「御霊(りょう)神社
御祭神 井上皇后、他戸親王、事代主命、早良親王、藤原広嗣、藤原大夫人、伊予親王、橘逸勢、文屋宮田麿。
由緒
当神社は延暦十九年(800)人皇第五十代 桓武天皇の勅命により御創祀された社。
御祭神の井上内親王は人皇第四十九代光仁天皇の皇后で聖武天皇の皇女にて称徳天皇の異母姉であります。
宝亀元年(770)白壁王が即位され光仁天皇と同時に井上内親王は皇后となり、翌年には御子他戸親王も皇太子となりました。
しかし宝亀三年(772)天皇を呪詛した疑いをかけられ皇后位は剥奪、他戸親王も皇太子を廃され、大和国宇智郡(五條市)に幽閉、され宝亀六年(775)四月二十七日、母子ともに薨去されました。
薨去後、都や桓武天皇東宮に天変地異や疫病が流行したことから、母子の祟りと恐れた天皇は諸国の国分寺の僧侶六百人に金剛般若経の読経をさせ、墳墓を改葬して山陵とし、吉野皇太后の追号を贈り、手篤く慰霊された。
平安時代の人々は、無実の罪を着せられ非業の死を遂げた人の怨みの心が怨霊となって災いを起こすと恐れました。
しかしその怨霊を丁重にお祀りすれば御霊となり守護してくれる神になるという風に考えるようになりました、これが御霊信仰の始まりです。
奈良時代の混乱と政権争いの中で、光仁天皇の第一皇子で渡来氏族の高野新笠を母とする山部親王(後の桓武天皇)を擁立する藤原百川の策謀によるものと伝えられています。
薨去後、都に天変地異が相次ぎ疫病が流行した為、母子の祟りと恐れた天皇は諸国の国分寺の僧侶六百人に金剛般若経の読経をさせ、墳墓を改葬して山陵とし、吉野皇太后の追号を贈り、手篤く慰霊されました。
奈良時代、平安時代の人々は無実の罪を着せられて非業の死を遂げた人の怨みの心が怨霊となって災いを起こすと恐れました。
しかしその怨霊は丁重にお祀りすれば御霊となり守護してくれる神になるという風に考えるようになりました、これが御霊信仰の始まりです。
本殿に井上皇后、他戸親王の神霊三座、東側社殿に早良親王、藤原広嗣、藤原大夫人の神霊三座、西側社殿に伊予親王、橘逸勢、文屋宮田麿の神霊三座をお祀りし、あわせて八所御霊大神と申し上げます。
奈良町の中心に位置し、県下唯一の広範囲である氏子地域七十余町を守護する氏神さまです」 -
拝殿から右奥に進んだ本殿脇に祀られる二社。
右が水蛭子社。
海上安全、豊漁守護、商売繁盛の御神徳が得られる蛭子命が祀られています。
中央が若宮社。
学問の神として知られる菅原道真が祀られています。
道真もその才能を妬まれ無実の罪を着せられ大宰府へ左遷され、大宰府で非業の死を遂げた道真の怨霊が陥れた者に復讐する伝承は良く知られ、後に神格化され彼の才能を授かれる馴染みのある神社です。
しっとりとした古都奈良。
ならまちの町並みに鎮座する御霊神社は、古都らしい佇まいと静けさが残る神社です。
御霊神社
創建 / 延暦19年(800)
本殿祭神 / 井上皇后、他戸親王、事代主神
西神殿 / 伊予親王、橘逸勢、文屋宮田麿
東神殿 / 早良親王、藤原広嗣、藤原大夫人
境内社 / 祓戸社、出世稲荷社、水蛭子社、若宮社
所在地 / 奈良県奈良市薬師堂町24
名古屋から近鉄利用 / 約2.5H
近鉄奈良駅より御霊神社 / 徒歩15分 -
奈良市薬師堂町の御霊神社社頭から、東へ5分も進むと左側に築地塀が続く趣のある山門に至ります。
雨寳山(ウホウザン)十輪院の山門(南門)。
十輪院は薬師堂町の御霊社にも現れた元興寺旧境内の南東隅の十輪院町に鎮座します。
門前を通りかかり、門の先に見えた本堂の落ち着いた佇まいに足を止める。
写真の山門は鎌倉時代前期に建てられたものとされ、普通この位置から軒を見れば、玉縁式瓦葺きの屋根を支える垂木があるが、垂木の替りに厚板が軒を支えているためスッキリした印象を受けます。
本堂も同様の造りになっています。
これ見よがしに人目を引き付ける意匠のない、簡素な四脚門で、現在の門は道路沿いの築地塀から境内側に引いて建っていますが、以前は築地塀から突き出るように建てられていたそうです。 -
山門右の十輪院解説プレート。
「南都 十輪院
優曇華や石龕きよく立つ佛 秋桜子
十輪院は元興寺旧境内の南東隅に位置します。
奈良時代の僧で書道の大家、朝野魚養の開基と云われます。
本堂(国宝・鎌倉時代)は軒や床が低く、当時の住宅を偲ばせる建物です。
本堂の中には本尊の地蔵菩薩を中心にした石仏龕(重文・同時代)を祀ります。
そこには釈迦如来、弥勒菩薩の諸仏のほか、十王、仁王、四天王や北斗曼荼羅の諸尊などが刻まれ、珍しい構成を見せています。
境内には魚養塚、十三重石塔、興福寺曼荼羅石など多数の石仏が点在しています。」
十輪院は元正天皇(715~724)の勅願寺で、元興寺の一子院とされ、当時の右大臣吉備真備の長男だった朝野宿禰魚養(あさのすくね なかい)の開基と伝えられる真言宗醍醐派の寺院で本尊は地蔵菩薩。
沿革の詳細は詳らかではないようですが、鎌倉時代に無住法師が編纂した仏教説話集「沙石集」(1283)では本尊の石造地蔵菩薩を「霊験あらたなる地蔵」として取り上げられています。
室町時代の末期まで寺領三百石、境内1万坪の広さを誇るも兵乱等により、多くの寺宝が失われたと云う。
江戸時代初期に徳川家の庇護を受け、寺領五拾石を賜り、伽藍も整備されたと云う。
その後の明治政府による廃仏毀釈でも大きく影響を受けました。
現在の伽藍で初期の様子を伝えるものは本尊の石仏龕(がん)、本堂、南門、十三重石塔、不動明王二童子立像、校倉造りの経蔵(国所有)などが残っています。
現在の寺観は昭和28年(1953)に本堂解体修理以降のもの。 -
山門から眺める本堂(国宝)。
鎌倉時代前期の建造物とされ、近世には灌頂堂とも呼ばれる。
内部にある石仏龕(厨子)を拝むための礼堂として建立されたもので、正面の間口は広縁で蔀戸が施された住宅のような佇まいをしています。
軒まわりは山門同様に垂木のない厚板で軒を支えています。
玉縁式瓦葺きの寄棟造りで、棟は低く、そこから緩やかに軒に続く傾斜は安定感があり綺麗な線を描く。 -
山門をくぐり境内左の護摩堂。
重要文化財に指定されている平安時代の智証大師の作とされる不動明王・二童子立像が祀られています。
実際に像容を拝んではいませんが、?HP?によれば「髪を巻髪にし、左肩に弁髪を垂らし、左目を細め、左の上牙と右の下牙を見せて唇を噛む忿怒相を示しています。
右手に剣、左手に羂索を執り、二童子を従えて岩座上に立っています。
向かって右方の矜羯羅(こんがら)童子は合掌し不動明王を見上げ、左方の制多迦(せいたか)童子はやや腰を曲げ振り向きながら不動明王を見上げています。
平安時代後期には、恐ろしさの中に優美さを求め、ふっくらとして、装飾性豊かな不動明王が現れますが、この像もその系譜を引いています。
古くより、「一願不動尊」として信仰を集めています」
とある。 -
山門右から境内の眺め。
手水の先の庭園は奥に広がりを持ち、鎌倉時代のものとされる興福寺曼荼羅石、不動明王像、十三重塔などがあり、森鴎外や水原秋桜子など十輪院の四季の移ろいを詠んでいるようです。
予定外のため、ゆっくりできなかったので次回ゆっくりと訪れたい。 -
人波から外れた静かな奈良町を歩いていると、長い歴史を持つ寺院がさり気無く鎮座しており、奈良らしい趣が感じられます。
雨寳山十輪院
山号 / 雨寶山
宗旨・宗派 / 古義真言宗・真言宗醍醐派
開基 / 伝・朝野魚養、元正天皇(勅願)
本尊 / 地蔵菩薩(重要文化財)
創建 / 伝・弘安6年(1283)
所在地 / 奈良県奈良市十輪院町27
御霊神社から十輪院 / 東へ徒歩5分
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
この旅行で行ったスポット
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ 奈良県奈良市
0
24