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岐阜公園は岐阜市の金華山山麓にある都市公園です。小学4年生の時の遠足で訪れて以来、半世紀以上ぶりの再訪となりました。小川のような所で一生懸命に「蛭」を捕まえたことは覚えていますが、その他は記憶にありません。<br />斎藤道三や織田信長の山麓居館があったとされるのが現在の岐阜公園です。今も発掘調査が進められており、公園一帯では巨大な庭園や天守台石垣、金箔を施した飾り瓦などが発見されています。<br />園内には、岐阜市歴史博物館や加藤栄三・東一記念美術館、名和昆虫博物館などの施設も立ち並びます。また、「板垣死すとも、自由は死せず」の言葉が生まれたとされる「板垣退助 遭難の地」を示す板垣退助の銅像もあり、歴史や文化に触れることができます。<br />1992年に「都市景観100選」、2006年には「日本の歴史公園100選」にも選ばれました。<br />岐阜市が公開している岐阜公園マップです。<br />https://www.city.gifu.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/008/007/gifukouen-annai-map.pdf

桐葉知秋 美濃紀行④岐阜公園(エピローグ)

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2023/10/21 - 2023/10/22

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

岐阜公園は岐阜市の金華山山麓にある都市公園です。小学4年生の時の遠足で訪れて以来、半世紀以上ぶりの再訪となりました。小川のような所で一生懸命に「蛭」を捕まえたことは覚えていますが、その他は記憶にありません。
斎藤道三や織田信長の山麓居館があったとされるのが現在の岐阜公園です。今も発掘調査が進められており、公園一帯では巨大な庭園や天守台石垣、金箔を施した飾り瓦などが発見されています。
園内には、岐阜市歴史博物館や加藤栄三・東一記念美術館、名和昆虫博物館などの施設も立ち並びます。また、「板垣死すとも、自由は死せず」の言葉が生まれたとされる「板垣退助 遭難の地」を示す板垣退助の銅像もあり、歴史や文化に触れることができます。
1992年に「都市景観100選」、2006年には「日本の歴史公園100選」にも選ばれました。
岐阜市が公開している岐阜公園マップです。
https://www.city.gifu.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/008/007/gifukouen-annai-map.pdf

旅行の満足度
5.0
観光
5.0

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  • 岐阜公園マップ<br />「ぎふ金華山ロープウェー」のリーフレットにあるマップを添付しておきます。<br /><br />岐阜公園の歴史を振り返ってみましょう。<br />1877(明治10)年、現在の岐阜公園がある地に中教院(神仏習合の布教施設)が建立されました。そして1882(明治15)年に岐阜県管轄の「丸山公園」として開園しましたが、この年に起きたのが「板垣退助暗殺未遂事件」であり、その舞台となったのが中教院でした。<br />やがて1889(明治22)年7月1日に岐阜市が誕生し、「丸山公園」は1893(明治26)年8月に岐阜県から岐阜市へ移管され、「岐阜公園」と改称されました。かつては公園内に動物園や水族館、岐阜県図書館、岐阜市科学館などがありました。

    岐阜公園マップ
    「ぎふ金華山ロープウェー」のリーフレットにあるマップを添付しておきます。

    岐阜公園の歴史を振り返ってみましょう。
    1877(明治10)年、現在の岐阜公園がある地に中教院(神仏習合の布教施設)が建立されました。そして1882(明治15)年に岐阜県管轄の「丸山公園」として開園しましたが、この年に起きたのが「板垣退助暗殺未遂事件」であり、その舞台となったのが中教院でした。
    やがて1889(明治22)年7月1日に岐阜市が誕生し、「丸山公園」は1893(明治26)年8月に岐阜県から岐阜市へ移管され、「岐阜公園」と改称されました。かつては公園内に動物園や水族館、岐阜県図書館、岐阜市科学館などがありました。

  • 若き日の織田信長像<br />岐阜公園の北正門(模擬門)の手前には「若き日の織田信長像」と題された信長の銅像があります。「うつけ」と言われた頃、山野を駆け回り、乗馬に鉄砲、水練で鍛錬したという躍動感溢れる佇まいを表しており、肩脱ぎ騎乗で弓を引く勇ましい姿を切り取っています。<br />全長は3mを超え、高さも4.8mあります。作者は彫刻家 北村西望氏です。長崎平和祈念像などの制作者であり、日本を代表する美術家のひとりです。<br />1988年(昭和63)年に岐阜市制100周年を記念して建てられ、かつては金華山の麓にありましたが、市制120周年の大還暦を迎えた2009年に国道沿いの交差点でもある現在地に移設されました。

    若き日の織田信長像
    岐阜公園の北正門(模擬門)の手前には「若き日の織田信長像」と題された信長の銅像があります。「うつけ」と言われた頃、山野を駆け回り、乗馬に鉄砲、水練で鍛錬したという躍動感溢れる佇まいを表しており、肩脱ぎ騎乗で弓を引く勇ましい姿を切り取っています。
    全長は3mを超え、高さも4.8mあります。作者は彫刻家 北村西望氏です。長崎平和祈念像などの制作者であり、日本を代表する美術家のひとりです。
    1988年(昭和63)年に岐阜市制100周年を記念して建てられ、かつては金華山の麓にありましたが、市制120周年の大還暦を迎えた2009年に国道沿いの交差点でもある現在地に移設されました。

  • 若き日の織田信長像<br />標高329m、金華山の山頂に位置する岐阜城はここからもはっきりと見えます。<br />また、右下には三重塔も見られます。<br />北の正門を潜るとそこは「信長公の鼓動が聞こえる歴史公園」となり、武家屋敷を彷彿とさせる岐阜公園総合案内所があります。<br />公園内は「信長エリア」「道三エリア」「光秀エリア」からなる稲葉山城ゾーンとなっています。

    若き日の織田信長像
    標高329m、金華山の山頂に位置する岐阜城はここからもはっきりと見えます。
    また、右下には三重塔も見られます。
    北の正門を潜るとそこは「信長公の鼓動が聞こえる歴史公園」となり、武家屋敷を彷彿とさせる岐阜公園総合案内所があります。
    公園内は「信長エリア」「道三エリア」「光秀エリア」からなる稲葉山城ゾーンとなっています。

  • 噴水の女神の像<br />岐阜公園のシンボルと言えば「噴水の女神の像」です。<br />1936(昭和11)年3月25日~5月15日に開催された「躍進日本大博覧会」は、戦前最後の大博覧会であり、岐阜公園及び長良川畔一帯で行われました。この時、会場入口に初代「噴水の女神の像」が建立されました。<br />現在岐阜市歴史博物館前にある女神像は2代目です。1942(昭和17)年、太平洋戦争における金属回収令により初代の像は姿を消しました。そして終戦の6年後に再建されたのが現在の女神像です。

    噴水の女神の像
    岐阜公園のシンボルと言えば「噴水の女神の像」です。
    1936(昭和11)年3月25日~5月15日に開催された「躍進日本大博覧会」は、戦前最後の大博覧会であり、岐阜公園及び長良川畔一帯で行われました。この時、会場入口に初代「噴水の女神の像」が建立されました。
    現在岐阜市歴史博物館前にある女神像は2代目です。1942(昭和17)年、太平洋戦争における金属回収令により初代の像は姿を消しました。そして終戦の6年後に再建されたのが現在の女神像です。

  • 板垣退助遭難の地<br />板垣退助遭難事件とは、1882(明治15)年4月6日に、この場所で自由党党首 板垣退助が暴漢に襲われた事件です。<br />時の自由党総理 板垣退助は「中教院」にて演説を行いました。その夕刻、板垣が玄関から数歩出るや否や、「将来ノ賊」と叫ぶ刺客に短刀で襲撃されました。刺客は愛知県で小学校教員を務めていた元士族の相原尚褧。犯行理由は、平民が政治を動かすことを目的とした自由民権運動により、武士の権利が完全に失われてしまうのを恐れたためとされます。板垣の命に別状は無かったのですが、左胸など計7ヶ所に傷を負いました。<br />「板垣死すとも自由は死せず」という有名な言葉を残したことで知られる事件です。しかし、板垣が襲撃を受けた際に叫んだ言葉と思われていますが、実際は犯人が取り押えられた後、犯人を睨んで発した言葉だそうです。しかも板垣が口走った言葉を周りの者が「吾死スルトモ自由ハ死セン」と解釈したと言うのです。実際は「自由ハ永世不滅ナルベキ」と発したそうですが、自由民権運動を扱った芝居が各地で上演され、その台詞が世間に定着したようです。<br />晩年の板垣退助は、社会事業家の道を歩み、1919(大正8)年に82歳でその生涯を終えました。

    板垣退助遭難の地
    板垣退助遭難事件とは、1882(明治15)年4月6日に、この場所で自由党党首 板垣退助が暴漢に襲われた事件です。
    時の自由党総理 板垣退助は「中教院」にて演説を行いました。その夕刻、板垣が玄関から数歩出るや否や、「将来ノ賊」と叫ぶ刺客に短刀で襲撃されました。刺客は愛知県で小学校教員を務めていた元士族の相原尚褧。犯行理由は、平民が政治を動かすことを目的とした自由民権運動により、武士の権利が完全に失われてしまうのを恐れたためとされます。板垣の命に別状は無かったのですが、左胸など計7ヶ所に傷を負いました。
    「板垣死すとも自由は死せず」という有名な言葉を残したことで知られる事件です。しかし、板垣が襲撃を受けた際に叫んだ言葉と思われていますが、実際は犯人が取り押えられた後、犯人を睨んで発した言葉だそうです。しかも板垣が口走った言葉を周りの者が「吾死スルトモ自由ハ死セン」と解釈したと言うのです。実際は「自由ハ永世不滅ナルベキ」と発したそうですが、自由民権運動を扱った芝居が各地で上演され、その台詞が世間に定着したようです。
    晩年の板垣退助は、社会事業家の道を歩み、1919(大正8)年に82歳でその生涯を終えました。

  • 板垣退助遭難の地<br />実は、この銅像も2代目です。初代は1919(大正8)年に有志により建てられ、除幕式には板垣退助夫妻も臨席したそうです。しかし、太平洋戦争の金属供出で撤去されました。<br />2代目は1950(昭和25)年に除幕され、制作者は柴田佳石です。因みに、慶應義塾大学 三田キャンパスにある福澤諭吉胸像(1953年制作)も佳石の作品です。

    板垣退助遭難の地
    実は、この銅像も2代目です。初代は1919(大正8)年に有志により建てられ、除幕式には板垣退助夫妻も臨席したそうです。しかし、太平洋戦争の金属供出で撤去されました。
    2代目は1950(昭和25)年に除幕され、制作者は柴田佳石です。因みに、慶應義塾大学 三田キャンパスにある福澤諭吉胸像(1953年制作)も佳石の作品です。

  • 信長公居館跡 冠木門<br />大きな冠木門の奥には階段が続き、その先に信長居館跡があります。<br />2本の門柱の上の方に冠木と呼ぶ横木を貫いて渡した形式の門です。千畳敷の発掘調査では門跡の発見はないのですが、信長居館跡の整備に当たり、岐阜城主の居館が建てられていた頃の雰囲気を伝えるため、往時の姿を想定した門を設置して史跡への入口としたものです。

    信長公居館跡 冠木門
    大きな冠木門の奥には階段が続き、その先に信長居館跡があります。
    2本の門柱の上の方に冠木と呼ぶ横木を貫いて渡した形式の門です。千畳敷の発掘調査では門跡の発見はないのですが、信長居館跡の整備に当たり、岐阜城主の居館が建てられていた頃の雰囲気を伝えるため、往時の姿を想定した門を設置して史跡への入口としたものです。

  • 信長公居館跡 巨石列と虎口<br />元々は斎藤道三以来の斎藤氏3代当主の住居地でしたが、信長が岐阜へ移り住んだ際に大々的に改修工事を行い、1600(慶長5)年の岐阜城落城まで使用されたと考えられています。<br />1984(昭和59)年から4回の発掘調査が行われ、御殿へ通じる道の両側には2m程の巨石を立て並べた塀が巡らされ、その先にある千畳敷に御殿が鎮座していました。この巨石列は見る者を威圧し、権力を誇示する役割を果たしたと推測されています。因みに所々に色が異なる石が見られます。これは岐阜城が廃城になって加納城築城に使うために持って行かれ、その後ここを整備する時に改めて石を入れたためです。

    信長公居館跡 巨石列と虎口
    元々は斎藤道三以来の斎藤氏3代当主の住居地でしたが、信長が岐阜へ移り住んだ際に大々的に改修工事を行い、1600(慶長5)年の岐阜城落城まで使用されたと考えられています。
    1984(昭和59)年から4回の発掘調査が行われ、御殿へ通じる道の両側には2m程の巨石を立て並べた塀が巡らされ、その先にある千畳敷に御殿が鎮座していました。この巨石列は見る者を威圧し、権力を誇示する役割を果たしたと推測されています。因みに所々に色が異なる石が見られます。これは岐阜城が廃城になって加納城築城に使うために持って行かれ、その後ここを整備する時に改めて石を入れたためです。

  • 信長公居館跡 千畳敷下<br />岐阜城は複合的な城であり、山上の城郭と山麓の居館を核とし、それらの間を結ぶ登城路、更には山中の要所に砦も配し、何よりも山そのものが天然の要害として機能した難攻不落の城でした。<br />居館跡は金華山の西麓にある槻谷を流れる谷川の両側にある段々地形に建ちます。人工的な2~3段のテラス状地形は、最上段を千畳敷、中段以下を千畳敷下と呼びます。信長・信忠時代には「天主」と呼ばれる御殿がありました。イエズス会のポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは、建物を「宮殿」と称し「地上の楽園」のようだと記述しています。また美濃の人々は「信長の極楽」と讃えたそうです。<br />信長は山頂に居住していたため、山麓にあった御殿は政庁あるいはもてなしの間としての性質が強かったと思われます。来賓を招き、迎賓館のように用いたのは、信長の権勢を印象付け、それによって和睦を進める狙いがあったものと窺えます。大きな池の南北に建物が2棟あり、大きな庭園があったことが発掘調査で判明しており、関ヶ原合戦の前哨戦の頃まで使われていたそうです。楽市楽座で城下町も繁栄させ、その様子をフロイスが「まるでバビロンの様な混雑なり」と伝えています。

    信長公居館跡 千畳敷下
    岐阜城は複合的な城であり、山上の城郭と山麓の居館を核とし、それらの間を結ぶ登城路、更には山中の要所に砦も配し、何よりも山そのものが天然の要害として機能した難攻不落の城でした。
    居館跡は金華山の西麓にある槻谷を流れる谷川の両側にある段々地形に建ちます。人工的な2~3段のテラス状地形は、最上段を千畳敷、中段以下を千畳敷下と呼びます。信長・信忠時代には「天主」と呼ばれる御殿がありました。イエズス会のポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは、建物を「宮殿」と称し「地上の楽園」のようだと記述しています。また美濃の人々は「信長の極楽」と讃えたそうです。
    信長は山頂に居住していたため、山麓にあった御殿は政庁あるいはもてなしの間としての性質が強かったと思われます。来賓を招き、迎賓館のように用いたのは、信長の権勢を印象付け、それによって和睦を進める狙いがあったものと窺えます。大きな池の南北に建物が2棟あり、大きな庭園があったことが発掘調査で判明しており、関ヶ原合戦の前哨戦の頃まで使われていたそうです。楽市楽座で城下町も繁栄させ、その様子をフロイスが「まるでバビロンの様な混雑なり」と伝えています。

  • 信長公居館跡 千畳敷下<br />巨石列通路の下層から発見された石積みの穴と階段です。<br />これらは1567(永禄10)年の信長入城以前の斎藤氏時代の遺構だそうです。階段は斎藤道三・義龍・龍興時代のものとされ、その上には火災によると思われる炭の地層が発見されており、信長が稲葉山城を攻略した際に火災が起こったと推察されるそうです。

    信長公居館跡 千畳敷下
    巨石列通路の下層から発見された石積みの穴と階段です。
    これらは1567(永禄10)年の信長入城以前の斎藤氏時代の遺構だそうです。階段は斎藤道三・義龍・龍興時代のものとされ、その上には火災によると思われる炭の地層が発見されており、信長が稲葉山城を攻略した際に火災が起こったと推察されるそうです。

  • 信長公居館跡 千畳敷下<br />三重塔とロープウェーのツーショットです。<br />信長公居館跡があるのはロープウェー直下になります。

    信長公居館跡 千畳敷下
    三重塔とロープウェーのツーショットです。
    信長公居館跡があるのはロープウェー直下になります。

  • 信長公居館跡 全体像<br />この居館が如何に想像を絶する壮麗な建造物であったかは、フロイスがゴアのサバヨ宮殿(インドのゴアにあった宮殿で、往時はポルトガルのインド総督部)と比較し、その華麗さも広大さ(1.5倍)も遥かに凌駕すると絶賛したことからも窺えます。往時のゴアは「東方一の貴婦人」と賛美された都として評判でしたから、異国人が見ても驚嘆するような御殿だったと思われます。<br />またフロイスは、『日本史』に「入口に劇場のような家屋があり、長い石段を登ると宮殿の広間に入る」とも記しています。<br />この画像は日本遺産・信長居館発掘調査案内所のCG画像から引用させていただきました。「掲載許可承諾済」<br />https://sites.google.com/view/nobunaga-kyokan

    信長公居館跡 全体像
    この居館が如何に想像を絶する壮麗な建造物であったかは、フロイスがゴアのサバヨ宮殿(インドのゴアにあった宮殿で、往時はポルトガルのインド総督部)と比較し、その華麗さも広大さ(1.5倍)も遥かに凌駕すると絶賛したことからも窺えます。往時のゴアは「東方一の貴婦人」と賛美された都として評判でしたから、異国人が見ても驚嘆するような御殿だったと思われます。
    またフロイスは、『日本史』に「入口に劇場のような家屋があり、長い石段を登ると宮殿の広間に入る」とも記しています。
    この画像は日本遺産・信長居館発掘調査案内所のCG画像から引用させていただきました。「掲載許可承諾済」
    https://sites.google.com/view/nobunaga-kyokan

  • 信長公居館跡 <br />「日本遺産・信長居館発掘調査案内所」に展示されていた信長居館(イメージ)のジオラマです。<br />全体像が把握でき、重宝します。<br />

    信長公居館跡
    「日本遺産・信長居館発掘調査案内所」に展示されていた信長居館(イメージ)のジオラマです。
    全体像が把握でき、重宝します。

  • 信長公居館跡 <br />こちらが濃姫の居館の全景です。信長の居館はこの左隣になります。<br />往時では珍しい南蛮様式を取り入れた4層の豪壮なものであり、金箔瓦が出土したことからも壮麗な建物だったと窺えます。金箔瓦の御殿は西側斜面にあり、西日が当たるとどう映えるかまで計算し尽くして設計されたと考えられています。<br />故に、信長は「魅せる城」という独創的な城革命を起こし、城下一帯を最高のおもてなし空間としてまとめあげました。フロイス著『日本史』には「宮殿の2階に信長の奥方や侍女達の部屋があり、町の側にも山の側にも緑と見晴台があった」と記されています。<br />この画像は日本遺産・信長居館発掘調査案内所のCG画像から引用させていただきました。「掲載許可承諾済」<br />https://sites.google.com/view/nobunaga-kyokan

    信長公居館跡
    こちらが濃姫の居館の全景です。信長の居館はこの左隣になります。
    往時では珍しい南蛮様式を取り入れた4層の豪壮なものであり、金箔瓦が出土したことからも壮麗な建物だったと窺えます。金箔瓦の御殿は西側斜面にあり、西日が当たるとどう映えるかまで計算し尽くして設計されたと考えられています。
    故に、信長は「魅せる城」という独創的な城革命を起こし、城下一帯を最高のおもてなし空間としてまとめあげました。フロイス著『日本史』には「宮殿の2階に信長の奥方や侍女達の部屋があり、町の側にも山の側にも緑と見晴台があった」と記されています。
    この画像は日本遺産・信長居館発掘調査案内所のCG画像から引用させていただきました。「掲載許可承諾済」
    https://sites.google.com/view/nobunaga-kyokan

  • 信長公居館跡 千畳敷<br />谷川の南にある最も広い平坦地は居館の中心的建物があったと推定される場所です。発掘調査では、火災によって焼けた大量の壁土や釘、建築に使用された部材、金箔の痕跡のある瓦、陶磁器が出土しました。また、東端では巨大な石を背景とした庭園も見つかりました。<br />池の底から金箔を施した牡丹文瓦の破片が出土し、過去の文献の記述と照合すると、池畔には金箔瓦を載せた「濃姫御殿」があった可能性が高いとされています。居館を訪れて信長に面会したフロイスは『日本史』に「1階に広間、2階に『婦人部屋』がある館を訪れ、池のある庭園を見た」と記しており、この場所がフロイスの記述と整合するそうです。

    信長公居館跡 千畳敷
    谷川の南にある最も広い平坦地は居館の中心的建物があったと推定される場所です。発掘調査では、火災によって焼けた大量の壁土や釘、建築に使用された部材、金箔の痕跡のある瓦、陶磁器が出土しました。また、東端では巨大な石を背景とした庭園も見つかりました。
    池の底から金箔を施した牡丹文瓦の破片が出土し、過去の文献の記述と照合すると、池畔には金箔瓦を載せた「濃姫御殿」があった可能性が高いとされています。居館を訪れて信長に面会したフロイスは『日本史』に「1階に広間、2階に『婦人部屋』がある館を訪れ、池のある庭園を見た」と記しており、この場所がフロイスの記述と整合するそうです。

  • 信長公居館跡 千畳敷<br />信長居館の中枢である「千畳敷」と北隣にある「滝のある大庭園」とは谷川を挟んで橋で結ばれていたようです。橋の上からは、谷川の涼し気な水音を聞きながら山水画のような風景を鑑賞したようです。千畳敷の奥にあったのが「奥座敷」です。居館の3階から山手の奥座敷へ繋がっていました。<br />現在、かつての谷川に架けられているのは次の画像に写っているような「しょぼい橋」です。

    信長公居館跡 千畳敷
    信長居館の中枢である「千畳敷」と北隣にある「滝のある大庭園」とは谷川を挟んで橋で結ばれていたようです。橋の上からは、谷川の涼し気な水音を聞きながら山水画のような風景を鑑賞したようです。千畳敷の奥にあったのが「奥座敷」です。居館の3階から山手の奥座敷へ繋がっていました。
    現在、かつての谷川に架けられているのは次の画像に写っているような「しょぼい橋」です。

  • 信長公居館跡 千畳敷<br />武田信玄の使者「秋山伯耆守」や京都の公家「山科言継」、堺の茶人・商人「津田宗及」、そして「フロイス」や日本布教長「フランシスコ・カブラル」など多くの有力者が信長に会いに岐阜を訪れ、冷徹なイメージを覆すおもてなしを受けています。<br />そのもてなしの拠点である山麓居館は訪問者が最初に招かれる場所であり、そこでは建物や庭の鑑賞、踊りや歌、おやつや食事、贈り物の贈呈等が行われました。カブラル来訪の際、信長は歓迎の晩餐会を開き、食事の待ち時間には自ら果物を運ぶ一方、庭にいる鳥を捕まえて料理するよう命じたそうです。また名物の茶器拝見のために訪れた津田宗及に対しては、彼のためだけの茶会を開き、美濃特産の干柿をはじめ豪華な料理を振る舞ったそうです。堺の代表的な町衆であった宗及の扱いは破格で、食事の給仕は信長の息子 信雄が行った上、飯のおかわりは信長自らがよそうなどのおもてなしぶりだったそうです。

    信長公居館跡 千畳敷
    武田信玄の使者「秋山伯耆守」や京都の公家「山科言継」、堺の茶人・商人「津田宗及」、そして「フロイス」や日本布教長「フランシスコ・カブラル」など多くの有力者が信長に会いに岐阜を訪れ、冷徹なイメージを覆すおもてなしを受けています。
    そのもてなしの拠点である山麓居館は訪問者が最初に招かれる場所であり、そこでは建物や庭の鑑賞、踊りや歌、おやつや食事、贈り物の贈呈等が行われました。カブラル来訪の際、信長は歓迎の晩餐会を開き、食事の待ち時間には自ら果物を運ぶ一方、庭にいる鳥を捕まえて料理するよう命じたそうです。また名物の茶器拝見のために訪れた津田宗及に対しては、彼のためだけの茶会を開き、美濃特産の干柿をはじめ豪華な料理を振る舞ったそうです。堺の代表的な町衆であった宗及の扱いは破格で、食事の給仕は信長の息子 信雄が行った上、飯のおかわりは信長自らがよそうなどのおもてなしぶりだったそうです。

  • 信長公居館跡 滝のある大庭園<br />谷川の北側にある平坦地で、巨大な岩盤を背景にした庭園が見つかりました。<br />平坦地の中央には20m四方の大池があり、池の北と南側には景観を愉しむための四阿のような建物が設けられていたそうです。<br />この画像は日本遺産・信長居館発掘調査案内所のCG画像から引用させていただきました。「掲載許可承諾済」<br />https://sites.google.com/view/nobunaga-kyokan

    信長公居館跡 滝のある大庭園
    谷川の北側にある平坦地で、巨大な岩盤を背景にした庭園が見つかりました。
    平坦地の中央には20m四方の大池があり、池の北と南側には景観を愉しむための四阿のような建物が設けられていたそうです。
    この画像は日本遺産・信長居館発掘調査案内所のCG画像から引用させていただきました。「掲載許可承諾済」
    https://sites.google.com/view/nobunaga-kyokan

  • 信長公居館跡 滝のある大庭園<br />この壮大な庭園は巨大な岩盤を背景にして中央に大きな池が広がるのが特徴です。<br />加えて岩肌に水を流し、高さ約35mの巨大な岩盤の上からは2本の滝が流れ下っていたのも明らかになっています。

    信長公居館跡 滝のある大庭園
    この壮大な庭園は巨大な岩盤を背景にして中央に大きな池が広がるのが特徴です。
    加えて岩肌に水を流し、高さ約35mの巨大な岩盤の上からは2本の滝が流れ下っていたのも明らかになっています。

  • 信長公居館跡 滝のある大庭園<br />居館は、京都へ進出するために公家や商人をもてなす豪華絢爛な建物だったとされ、巨石を用いた石垣や高石垣、多数の庭や池が発掘調査で発見されています。また、この周辺ではチャートが奇麗にV字に褶曲した地層が見られます。チャートは放散虫という珪酸質の硬い殻をもったプランクトンの殻が海底に堆積してできた岩石です。2億年以上前に赤道付近の南半球でできたものがプレートの移動によって運ばれたものです。地層が大きく褶曲しているのは、プレートが運んだチャートが大陸とドッキングする際に強い力を受けたためです。<br />驚くことに、高さ35mもあるこの地層は人の手で削って露出させたものだそうです。何故、露出させる必要があったかと言えば、織田信長が庭園の借景として岩肌を見せることに執着したからだそうです。開いた口が塞がりません。<br />一方、庭の景石として緑色片岩が発見されたことから、巨石を遠くから運ぶだけの力量があるのを誇示する狙いも窺えます。来客向けの料理も海の無い美濃では入手困難な海の幸が給仕されたと伝わります。

    信長公居館跡 滝のある大庭園
    居館は、京都へ進出するために公家や商人をもてなす豪華絢爛な建物だったとされ、巨石を用いた石垣や高石垣、多数の庭や池が発掘調査で発見されています。また、この周辺ではチャートが奇麗にV字に褶曲した地層が見られます。チャートは放散虫という珪酸質の硬い殻をもったプランクトンの殻が海底に堆積してできた岩石です。2億年以上前に赤道付近の南半球でできたものがプレートの移動によって運ばれたものです。地層が大きく褶曲しているのは、プレートが運んだチャートが大陸とドッキングする際に強い力を受けたためです。
    驚くことに、高さ35mもあるこの地層は人の手で削って露出させたものだそうです。何故、露出させる必要があったかと言えば、織田信長が庭園の借景として岩肌を見せることに執着したからだそうです。開いた口が塞がりません。
    一方、庭の景石として緑色片岩が発見されたことから、巨石を遠くから運ぶだけの力量があるのを誇示する狙いも窺えます。来客向けの料理も海の無い美濃では入手困難な海の幸が給仕されたと伝わります。

  • 信長公居館跡 滝のある大庭園<br />NHK「ブラタモリ(岐阜編)」でタモリさんが食いついた金華山のチャートのV字褶曲がこれに当たります。<br />また、近くで観ると滝が流れたような痕跡が認められます。

    信長公居館跡 滝のある大庭園
    NHK「ブラタモリ(岐阜編)」でタモリさんが食いついた金華山のチャートのV字褶曲がこれに当たります。
    また、近くで観ると滝が流れたような痕跡が認められます。

  • 三重塔<br />大正天皇即位の御大典事業として、また五穀豊穣と岐阜市の繁栄を祈念する塔として、岐阜市が1917(大正6)年に建立したものです。建設費は5500円。資材の8割は1891(明治24)年10月28日に発生した濃尾大地震で倒壊した長良橋の古材が使われました。内部には弘法大師などが祀られており、2005年に有形文化財に登録されています。

    三重塔
    大正天皇即位の御大典事業として、また五穀豊穣と岐阜市の繁栄を祈念する塔として、岐阜市が1917(大正6)年に建立したものです。建設費は5500円。資材の8割は1891(明治24)年10月28日に発生した濃尾大地震で倒壊した長良橋の古材が使われました。内部には弘法大師などが祀られており、2005年に有形文化財に登録されています。

  • 三重塔<br />装飾を用いない古風な意匠であり、塔の考案は日本建築史学の創始者と言われ、明治神宮や築地本願寺などを設計して建築界初の文化勲章を受章した伊東忠太氏です。技師である蔦山鉄造の指導の下、河島岩吉が33人の職人と共に施工しました。場所の選定は岐阜で幼少期を過ごした日本画家 川合玉堂氏が風水により決めたと伝わります。<br />櫓工法は上部の重みで下部の建物を押さえる工法のため、相輪は装飾だけではなく下の建物の錘の役割も担うため、これほどもの長さ(重さ)が必要になるそうです。また、櫓工法は少しの風でも心柱が動くそうです。

    三重塔
    装飾を用いない古風な意匠であり、塔の考案は日本建築史学の創始者と言われ、明治神宮や築地本願寺などを設計して建築界初の文化勲章を受章した伊東忠太氏です。技師である蔦山鉄造の指導の下、河島岩吉が33人の職人と共に施工しました。場所の選定は岐阜で幼少期を過ごした日本画家 川合玉堂氏が風水により決めたと伝わります。
    櫓工法は上部の重みで下部の建物を押さえる工法のため、相輪は装飾だけではなく下の建物の錘の役割も担うため、これほどもの長さ(重さ)が必要になるそうです。また、櫓工法は少しの風でも心柱が動くそうです。

  • 三重塔<br />石造二重基壇上に建つ、総高22.2mの木造三重塔です。各層とも3間四方の造りとし、円柱を立てて尾垂木付の三手先組物を配し、上層には刎高欄を巡らしています。軒は二軒繁垂木とし、本瓦葺屋根を架けています。<br />心柱は、鎖で吊り下げて礎石から浮かせた懸垂式と呼ぶもので、江戸時代後期から明治時代初期にかけて全国でも僅かな例しかない珍しい方式です。類例には日光東照宮 五重塔があります。現存する文化財指定の三重塔で懸垂式を採用しているのは岐阜公園のみだそうです。<br />構造的な特徴は四天柱と敷梁で櫓を3層に組み上げる「櫓工法」が採用されていることです。尾垂木や地垂木は軒桁より内側には延ばさず、丸桁は吊鉄棒で四天柱から吊り下げられています。<br />扁額には「忍鎧」とあり、「高野山 本海書」と添え書きがあります。「忍鎧」をググると、「江戸時代中期の天台宗の僧。字惠南、号は空華子。香を嗅ぐに妙を得て、又画をよくし和歌をも好む。風早実積門。宝暦2年(1752)歿、83才」とありますが、天台宗の僧ですので真言宗の高野山とは関係なさそうです。つまるところ「造語」ということでしょうか?

    三重塔
    石造二重基壇上に建つ、総高22.2mの木造三重塔です。各層とも3間四方の造りとし、円柱を立てて尾垂木付の三手先組物を配し、上層には刎高欄を巡らしています。軒は二軒繁垂木とし、本瓦葺屋根を架けています。
    心柱は、鎖で吊り下げて礎石から浮かせた懸垂式と呼ぶもので、江戸時代後期から明治時代初期にかけて全国でも僅かな例しかない珍しい方式です。類例には日光東照宮 五重塔があります。現存する文化財指定の三重塔で懸垂式を採用しているのは岐阜公園のみだそうです。
    構造的な特徴は四天柱と敷梁で櫓を3層に組み上げる「櫓工法」が採用されていることです。尾垂木や地垂木は軒桁より内側には延ばさず、丸桁は吊鉄棒で四天柱から吊り下げられています。
    扁額には「忍鎧」とあり、「高野山 本海書」と添え書きがあります。「忍鎧」をググると、「江戸時代中期の天台宗の僧。字惠南、号は空華子。香を嗅ぐに妙を得て、又画をよくし和歌をも好む。風早実積門。宝暦2年(1752)歿、83才」とありますが、天台宗の僧ですので真言宗の高野山とは関係なさそうです。つまるところ「造語」ということでしょうか?

  • 松尾芭蕉の句碑<br />三重塔の下に松尾芭蕉の句碑があります。<br />「城跡や 古井の清水 先とはむ」<br />興亡の歴史を秘めた城跡に登ると、昔のことが走馬灯のように偲ばれるが、折りからの炎暑に今も清く湧くこの古井の清水をまず汲んで昔を偲ぼう。<br />出典は『泊船集』。1688(貞亨5)年の夏、『笈の小文』の旅の帰路に稲葉山で詠んだ句です。芭蕉が納涼に招いてくれた地元の庄屋 松橋喜三郎に贈った句とされます。喜三郎邸には、織田信長の城下町時代の古井戸があり、芭蕉はそこで草深い信長の城跡を偲び、遥かなる時の移り変わりを体感して詠んだと伝わります。

    松尾芭蕉の句碑
    三重塔の下に松尾芭蕉の句碑があります。
    「城跡や 古井の清水 先とはむ」
    興亡の歴史を秘めた城跡に登ると、昔のことが走馬灯のように偲ばれるが、折りからの炎暑に今も清く湧くこの古井の清水をまず汲んで昔を偲ぼう。
    出典は『泊船集』。1688(貞亨5)年の夏、『笈の小文』の旅の帰路に稲葉山で詠んだ句です。芭蕉が納涼に招いてくれた地元の庄屋 松橋喜三郎に贈った句とされます。喜三郎邸には、織田信長の城下町時代の古井戸があり、芭蕉はそこで草深い信長の城跡を偲び、遥かなる時の移り変わりを体感して詠んだと伝わります。

  • 「山内一豊と千代婚礼の地」碑<br />1996(平成8)年のNHK大河ドラマ『功名が辻』の放映に因み、尾張岩倉出身の山内一豊と妻 千代が信長の家来として岐阜へ移って婚儀を挙げた事を顕彰した石碑です。しかしこの碑は一豊よりも千代を讃えています。嫁ぐ時に鏡箱に入れてきた金10枚で一豊が市場で一目惚れした名馬を買わせ、そこから信長の目に留まって大出世した一豊。内助の功の代名詞であり、夫婦でこの碑に触れると末永く円満になれるそうです。<br />1567(永禄10)年、信長が岐阜に本拠を移した際、下級武士の山内一豊も岐阜に移りました。美濃国に居を構えた一豊は、時を置かず千代を迎え、新婚生活を始めました。婚礼の日「一国の主になる夢を2人で叶えましょう」「生涯私だけを愛してください」と誓いを交わし、その後一豊は長浜・掛川・土佐の国主へと出世していきました。<br />尚、千代の出身には諸説ありますが、長良川上流にある美濃国 郡上八幡を領国に活躍した初代郡上八幡城主 遠藤氏の娘との説が有力です。水のまち郡上で育った千代は、幼少時に父親を亡くし、母親と共に各地を流転しました。やがて一豊との縁が結ばれ、岐阜長良川の地に嫁いできました。ひと雫から渓流へ、滔々たる流れから大海へ。千代の足跡を辿れば、まさに長良川そのものと言えます。

    「山内一豊と千代婚礼の地」碑
    1996(平成8)年のNHK大河ドラマ『功名が辻』の放映に因み、尾張岩倉出身の山内一豊と妻 千代が信長の家来として岐阜へ移って婚儀を挙げた事を顕彰した石碑です。しかしこの碑は一豊よりも千代を讃えています。嫁ぐ時に鏡箱に入れてきた金10枚で一豊が市場で一目惚れした名馬を買わせ、そこから信長の目に留まって大出世した一豊。内助の功の代名詞であり、夫婦でこの碑に触れると末永く円満になれるそうです。
    1567(永禄10)年、信長が岐阜に本拠を移した際、下級武士の山内一豊も岐阜に移りました。美濃国に居を構えた一豊は、時を置かず千代を迎え、新婚生活を始めました。婚礼の日「一国の主になる夢を2人で叶えましょう」「生涯私だけを愛してください」と誓いを交わし、その後一豊は長浜・掛川・土佐の国主へと出世していきました。
    尚、千代の出身には諸説ありますが、長良川上流にある美濃国 郡上八幡を領国に活躍した初代郡上八幡城主 遠藤氏の娘との説が有力です。水のまち郡上で育った千代は、幼少時に父親を亡くし、母親と共に各地を流転しました。やがて一豊との縁が結ばれ、岐阜長良川の地に嫁いできました。ひと雫から渓流へ、滔々たる流れから大海へ。千代の足跡を辿れば、まさに長良川そのものと言えます。

  • 「山内一豊と千代婚礼の地」碑<br />碑の足元にも注目です。<br />『藩翰譜』にある逸話「両親から託された『鏡箱』の中にあった10両を一豊に差し出し、名馬『鏡栗毛』を買わせた。」に基づき、鏡と鏡箱のレプリカを石碑に埋め込んでいます。<br />鏡箱には鶴亀の縁起物が浮き彫りされています。しかしこれが実寸だとすれば、流石に10両が入るスペースはないように窺えます。<br />千代(見性院)が鏡の箱から金子を出す話については、『藩翰譜』編者の新井白石でさえ疑問視しているとされ、真偽は不明です。個人的には、「鏡箱」にあった金子で名馬「鏡栗毛」を買うという、駄洒落っぽい「鏡」繋がりには閉口しますが…。

    「山内一豊と千代婚礼の地」碑
    碑の足元にも注目です。
    『藩翰譜』にある逸話「両親から託された『鏡箱』の中にあった10両を一豊に差し出し、名馬『鏡栗毛』を買わせた。」に基づき、鏡と鏡箱のレプリカを石碑に埋め込んでいます。
    鏡箱には鶴亀の縁起物が浮き彫りされています。しかしこれが実寸だとすれば、流石に10両が入るスペースはないように窺えます。
    千代(見性院)が鏡の箱から金子を出す話については、『藩翰譜』編者の新井白石でさえ疑問視しているとされ、真偽は不明です。個人的には、「鏡箱」にあった金子で名馬「鏡栗毛」を買うという、駄洒落っぽい「鏡」繋がりには閉口しますが…。

  • 信長の庭<br />岐阜を天下統一の拠点とした武将 織田信長がが駆け抜けた戦国時代の荒々しさをイメージして2001年に作庭された庭園です。<br />公園の再整備に伴い、岐阜公園の歴史を見つめてきた樹木を活かし、長良川流域から調達した1000トンもの巨石を用いた石庭として、往時の石組み技法を用いた「剛」「静」「雅」の3滝と池からなる日本庭園です。「侘・寂」を感じさせる静の造形美ではなく、武骨さの中にも諸行無常を感じさせる佇まいです。<br />この庭園のある場所は元々は動物園だったそうで、ライオンやフンボルトペンギンなどが飼育されていたそうです。

    信長の庭
    岐阜を天下統一の拠点とした武将 織田信長がが駆け抜けた戦国時代の荒々しさをイメージして2001年に作庭された庭園です。
    公園の再整備に伴い、岐阜公園の歴史を見つめてきた樹木を活かし、長良川流域から調達した1000トンもの巨石を用いた石庭として、往時の石組み技法を用いた「剛」「静」「雅」の3滝と池からなる日本庭園です。「侘・寂」を感じさせる静の造形美ではなく、武骨さの中にも諸行無常を感じさせる佇まいです。
    この庭園のある場所は元々は動物園だったそうで、ライオンやフンボルトペンギンなどが飼育されていたそうです。

  • 名和昆虫研究所記念昆虫館(岐阜市指定文化財)<br />岐阜公園の一角には昆虫に関連する施設が2棟並んでいます。<br />ギフチョウの発見で知られ、「日本のファーブル」と呼ばれた昆虫学者 名和靖氏により、1896(明治29)年に害虫駆除や益虫保護の研究のために開設された名和昆虫研究所の付属施設です。この記念昆虫館は1904(明治37)年に建立され、世界各国の昆虫約1万8000種類、30万点以上の標本を所有し、標本以外にも様々な昆虫の飼育や研究を行っています。

    名和昆虫研究所記念昆虫館(岐阜市指定文化財)
    岐阜公園の一角には昆虫に関連する施設が2棟並んでいます。
    ギフチョウの発見で知られ、「日本のファーブル」と呼ばれた昆虫学者 名和靖氏により、1896(明治29)年に害虫駆除や益虫保護の研究のために開設された名和昆虫研究所の付属施設です。この記念昆虫館は1904(明治37)年に建立され、世界各国の昆虫約1万8000種類、30万点以上の標本を所有し、標本以外にも様々な昆虫の飼育や研究を行っています。

  • 名和昆虫研究所記念昆虫館<br />この地には記念昆虫館と昆虫博物館の2棟が小径を挟んで建っています。名和氏の志に絆された大阪朝日新聞(現 朝日新聞)土屋大夢の計らいで、紙上で建設寄付金を募り、それを基に特別昆虫標本室(現 記念昆虫館)が建てられました。<br />いずれの建物も設計は欧州から帰国した新進気鋭の 近代建築家 武田五一氏です。往時は名古屋高等工業学校(現 名工大)教授という肩書でした。武田氏の初期作品として貴重であり、岐阜市指定文化財になっています。<br />実は少年時代に岐阜市に1年間暮らした武田氏は、華陽学校(高等中学校)に通って名和氏の教えを受け、一緒に昆虫採集に出掛けたこともあったそうです。往時、武田氏は生物学者志望だったそうで、少年時代の夢を「かたち」にする建物としてワクワクしながら設計に取り組んだことでしょう。

    名和昆虫研究所記念昆虫館
    この地には記念昆虫館と昆虫博物館の2棟が小径を挟んで建っています。名和氏の志に絆された大阪朝日新聞(現 朝日新聞)土屋大夢の計らいで、紙上で建設寄付金を募り、それを基に特別昆虫標本室(現 記念昆虫館)が建てられました。
    いずれの建物も設計は欧州から帰国した新進気鋭の 近代建築家 武田五一氏です。往時は名古屋高等工業学校(現 名工大)教授という肩書でした。武田氏の初期作品として貴重であり、岐阜市指定文化財になっています。
    実は少年時代に岐阜市に1年間暮らした武田氏は、華陽学校(高等中学校)に通って名和氏の教えを受け、一緒に昆虫採集に出掛けたこともあったそうです。往時、武田氏は生物学者志望だったそうで、少年時代の夢を「かたち」にする建物としてワクワクしながら設計に取り組んだことでしょう。

  • 名和昆虫研究所記念昆虫館<br />この建物は、往時オーストリアで興ったセセッションと呼ばれる建築様式の流れを汲み、実用性や理論的な建築構造を重んじた新しい思想のものです。赤いトタン葺の切妻屋根に採光用ドーマ窓が1階の窓の上方に4ヶ所並ぶ姿が開放的な印象を与える欧風建築です。またドーマ窓のガラス面を外壁と同一平面で納める手法は現在にあっても斬新です。<br />1階壁は煉瓦組み、その上に屋根を支える三角形の木造トラス組みを設けて2階部分を構成しています。外観はギリシア神殿風の往時では珍しい黄色い煉瓦造、妻面はハーフティンバー風に凝ったデザインです。最大の特徴は内部の床が標本の保存のために木造の高床式になっていることです。

    名和昆虫研究所記念昆虫館
    この建物は、往時オーストリアで興ったセセッションと呼ばれる建築様式の流れを汲み、実用性や理論的な建築構造を重んじた新しい思想のものです。赤いトタン葺の切妻屋根に採光用ドーマ窓が1階の窓の上方に4ヶ所並ぶ姿が開放的な印象を与える欧風建築です。またドーマ窓のガラス面を外壁と同一平面で納める手法は現在にあっても斬新です。
    1階壁は煉瓦組み、その上に屋根を支える三角形の木造トラス組みを設けて2階部分を構成しています。外観はギリシア神殿風の往時では珍しい黄色い煉瓦造、妻面はハーフティンバー風に凝ったデザインです。最大の特徴は内部の床が標本の保存のために木造の高床式になっていることです。

  • 名和昆虫研究所記念昆虫館<br />小さな出入口のペディメントには和風の鬼瓦を載せています。モチーフは「昆虫の触角」でしょうか!?武田氏が和風様式を好んで用いた遊び心と言えます。<br />また、煉瓦は武田氏が注目していた常滑の陶工 久田吉之助氏が焼いた黄色い煉瓦を使用しています。久田氏は1918(大正7)年に41歳の若さで病没されましたから、最晩年の作品だったのかもしれません。

    名和昆虫研究所記念昆虫館
    小さな出入口のペディメントには和風の鬼瓦を載せています。モチーフは「昆虫の触角」でしょうか!?武田氏が和風様式を好んで用いた遊び心と言えます。
    また、煉瓦は武田氏が注目していた常滑の陶工 久田吉之助氏が焼いた黄色い煉瓦を使用しています。久田氏は1918(大正7)年に41歳の若さで病没されましたから、最晩年の作品だったのかもしれません。

  • 名和昆虫研究所記念昆虫館<br />久田氏は、20世紀の巨匠建築家フランク・ロイド・ライトが設計した帝国ホテル旧本館にも関わりがあります。久田氏の焼いた黄色い煉瓦が採用される予定でしたが、病没のため、新設された帝国ホテル煉瓦製作所に引き継がれ、INAX創業者の伊奈初之烝氏が技術顧問を務めて納品したそうです。そのため、牧口銀司郎著『帝国ホテルのスダレ煉瓦』では久田氏を「有名なる詐欺師(ライトを騙した男)」と記しています。牧口氏は帝国ホテルから派遣されたランドリー部門の責任者であり、職人気質の久田氏とは反りが合わなかったようです。色々なトラブルがあったようですが、一介のサラリーマン故、町工場の職人気質を理解する器ではなかったように思えます。天才肌の芸術家は時として破天荒でもありますから…。<br />一方、久田氏は常滑タイルの始祖として今でも崇敬されているだけでなく、かの「泰山タイル」の生みの親 池田泰山も久田工場で学んだほどです。結果だけで人、特に職人を批判するのは如何なものでしょうか?

    名和昆虫研究所記念昆虫館
    久田氏は、20世紀の巨匠建築家フランク・ロイド・ライトが設計した帝国ホテル旧本館にも関わりがあります。久田氏の焼いた黄色い煉瓦が採用される予定でしたが、病没のため、新設された帝国ホテル煉瓦製作所に引き継がれ、INAX創業者の伊奈初之烝氏が技術顧問を務めて納品したそうです。そのため、牧口銀司郎著『帝国ホテルのスダレ煉瓦』では久田氏を「有名なる詐欺師(ライトを騙した男)」と記しています。牧口氏は帝国ホテルから派遣されたランドリー部門の責任者であり、職人気質の久田氏とは反りが合わなかったようです。色々なトラブルがあったようですが、一介のサラリーマン故、町工場の職人気質を理解する器ではなかったように思えます。天才肌の芸術家は時として破天荒でもありますから…。
    一方、久田氏は常滑タイルの始祖として今でも崇敬されているだけでなく、かの「泰山タイル」の生みの親 池田泰山も久田工場で学んだほどです。結果だけで人、特に職人を批判するのは如何なものでしょうか?

  • 名和昆虫研究所記念昆虫館<br />往時の面影を今に残すのが、屋根の巴にある「蝶」を彫った棟飾りです。現在のものはレプリカだそうですが、完成当時には入口の庇の上にもトンボのテラコッタが飾られていたそうです。また、当初瓦葺だった屋根は耐久性の面から大正時代初めにはトタンに葺き替えられましたが、屋根瓦や鬼瓦に相当する部分にはこうした「蝶」の刻印が施されていたようです。細部にも趣向を凝らしていたことが窺えます。

    名和昆虫研究所記念昆虫館
    往時の面影を今に残すのが、屋根の巴にある「蝶」を彫った棟飾りです。現在のものはレプリカだそうですが、完成当時には入口の庇の上にもトンボのテラコッタが飾られていたそうです。また、当初瓦葺だった屋根は耐久性の面から大正時代初めにはトタンに葺き替えられましたが、屋根瓦や鬼瓦に相当する部分にはこうした「蝶」の刻印が施されていたようです。細部にも趣向を凝らしていたことが窺えます。

  • 名和昆虫研究所記念昆虫館<br />名和靖氏は1867(安政4)年に生まれた、どこにでもいる昆虫好き少年でした。しかし庄屋だった祖父を訪ねる農家の人々が害虫被害で困窮しているのを聞き及び、好きな虫も時に人に害をなすことに心を痛めました。やがて、農家の役に立ちたいとの思いを抱き、虫の研究をするため岐阜県農事講習所(現 岐阜県農林高校)に入学。卒業後も学校に留まり、博物学助手の道を進みました。

    名和昆虫研究所記念昆虫館
    名和靖氏は1867(安政4)年に生まれた、どこにでもいる昆虫好き少年でした。しかし庄屋だった祖父を訪ねる農家の人々が害虫被害で困窮しているのを聞き及び、好きな虫も時に人に害をなすことに心を痛めました。やがて、農家の役に立ちたいとの思いを抱き、虫の研究をするため岐阜県農事講習所(現 岐阜県農林高校)に入学。卒業後も学校に留まり、博物学助手の道を進みました。

  • 名和昆虫研究所記念昆虫館<br />名和氏がギフチョウを発見したのは、助手になった翌年の1883(明治16)年でした。そして教師稼業のかたわら、幻灯器を用いて害虫と益虫についての啓蒙活動で全国を巡りました。往時の害虫に対する農家の対応は、「お札を買う。お祓いをする」など迷信にすがるしかなかったようです。<br />38歳で岐阜県尋常師範学校の教諭になるも、「二足の草鞋は履けぬ」と辞職。私財を投じて岐阜市京町にあった岐阜県農会の施設を間借りし、「名和昆蟲研究所」を開設しました。その翌年に稲の大敵「ウンカ」が大発生し、全国の稲が被害に遭いました。その折に研究所への問合わせが殺到し、東奔西走。幸か不幸か研究所の存在は全国区で知られることになりました。

    名和昆虫研究所記念昆虫館
    名和氏がギフチョウを発見したのは、助手になった翌年の1883(明治16)年でした。そして教師稼業のかたわら、幻灯器を用いて害虫と益虫についての啓蒙活動で全国を巡りました。往時の害虫に対する農家の対応は、「お札を買う。お祓いをする」など迷信にすがるしかなかったようです。
    38歳で岐阜県尋常師範学校の教諭になるも、「二足の草鞋は履けぬ」と辞職。私財を投じて岐阜市京町にあった岐阜県農会の施設を間借りし、「名和昆蟲研究所」を開設しました。その翌年に稲の大敵「ウンカ」が大発生し、全国の稲が被害に遭いました。その折に研究所への問合わせが殺到し、東奔西走。幸か不幸か研究所の存在は全国区で知られることになりました。

  • 名和昆虫博物館 (国の登録有形文化財)<br />昆虫記念館の南側に軒を連ねるのが名和昆虫博物館です。記念館落成の12年後、名和氏の活動に共鳴した地元の実業家 林武平氏の寄付を資金にして1919(大正8)年に建てられました。日本に現存する昆虫博物館としては最も長い歴史を持ちます。

    名和昆虫博物館 (国の登録有形文化財)
    昆虫記念館の南側に軒を連ねるのが名和昆虫博物館です。記念館落成の12年後、名和氏の活動に共鳴した地元の実業家 林武平氏の寄付を資金にして1919(大正8)年に建てられました。日本に現存する昆虫博物館としては最も長い歴史を持ちます。

  • 名和昆虫博物館<br />一見鉄筋コンクリート造、タイル貼りの近代的な建物に見えますが、実はこちらも煉瓦造です。

    名和昆虫博物館
    一見鉄筋コンクリート造、タイル貼りの近代的な建物に見えますが、実はこちらも煉瓦造です。

  • 名和昆虫博物館<br />桟瓦葺、切妻屋根、白色タイル貼り建築で、煉瓦壁の外装に幾何学的なデザインと規則的に配置した両開き窓が斬新です。更には、ギリシア神殿を彷彿とさせる古典的意匠のペディメントが施された玄関ポーチがよいアクセントになっています。重厚感はあるものの、比較的シンプルで大人しい印象を受けます。<br />因みに、外壁の白色タイルは備前焼です。このように目地を山型にするのは高い技術が求められるそうです。

    名和昆虫博物館
    桟瓦葺、切妻屋根、白色タイル貼り建築で、煉瓦壁の外装に幾何学的なデザインと規則的に配置した両開き窓が斬新です。更には、ギリシア神殿を彷彿とさせる古典的意匠のペディメントが施された玄関ポーチがよいアクセントになっています。重厚感はあるものの、比較的シンプルで大人しい印象を受けます。
    因みに、外壁の白色タイルは備前焼です。このように目地を山型にするのは高い技術が求められるそうです。

  • 名和昆虫博物館<br />アール・デコのように全ての要素が直線と直方体に収斂する感があり、1910年代のドイツの建築家 ピーター・ペーレンスの作品を彷彿とさせるものがあります。<br />尚、実施設計については、武田五一氏の京都工芸高等学校時代における教え子である吉武東里氏が担っています。因みに、吉武東里氏は大熊喜邦氏と共に国会議事堂の実質的デザイナーを担った方です。

    名和昆虫博物館
    アール・デコのように全ての要素が直線と直方体に収斂する感があり、1910年代のドイツの建築家 ピーター・ペーレンスの作品を彷彿とさせるものがあります。
    尚、実施設計については、武田五一氏の京都工芸高等学校時代における教え子である吉武東里氏が担っています。因みに、吉武東里氏は大熊喜邦氏と共に国会議事堂の実質的デザイナーを担った方です。

  • 名和昆虫博物館<br />内部にはシロアリ被害を受けた奈良 唐招提寺の古材3本が主柱に用いられています。解体修理の際に取り換えられたものを入手したそうです。そのうちの1本はこのように玄関先の右手に見られます。<br />往時、名和氏は余生のライフワークとしてシロアリ被害の調査を行っており、約1200年前の檜材は、シロアリ研究の一環として保存も兼ね、建設が決まっていた博物館に利用されました。<br />因みに、文化財指定の理由のひとつが「奈良唐招提寺の解体修理時に貰い受けた3本の丸柱が意匠上の特徴である」になっています。

    名和昆虫博物館
    内部にはシロアリ被害を受けた奈良 唐招提寺の古材3本が主柱に用いられています。解体修理の際に取り換えられたものを入手したそうです。そのうちの1本はこのように玄関先の右手に見られます。
    往時、名和氏は余生のライフワークとしてシロアリ被害の調査を行っており、約1200年前の檜材は、シロアリ研究の一環として保存も兼ね、建設が決まっていた博物館に利用されました。
    因みに、文化財指定の理由のひとつが「奈良唐招提寺の解体修理時に貰い受けた3本の丸柱が意匠上の特徴である」になっています。

  • 名和昆虫博物館<br />玄関の上方に掲げられた扁額「昆蟲博物館」の文字も独特で味わいがあります。<br />特に「蟲」の文字は昆虫たちが群がって飛んでいる様子を彷彿とさせます。<br />

    名和昆虫博物館
    玄関の上方に掲げられた扁額「昆蟲博物館」の文字も独特で味わいがあります。
    特に「蟲」の文字は昆虫たちが群がって飛んでいる様子を彷彿とさせます。

  • 昆蟲碑<br />「昆蟲翁」と称した名和靖氏の還暦を記念し、1917(大正6)年に建てられました。害虫として駆除してきた虫たちの供養塔です。江戸時代に各地で駆除した虫を供養する「虫塚」が建てられたことはご存じでしたでしょうから、還暦を契機に供養碑を建立して鎮魂することを思い立たれたのかもしれません。<br />この昆蟲碑も武田五一氏の設計です。

    昆蟲碑
    「昆蟲翁」と称した名和靖氏の還暦を記念し、1917(大正6)年に建てられました。害虫として駆除してきた虫たちの供養塔です。江戸時代に各地で駆除した虫を供養する「虫塚」が建てられたことはご存じでしたでしょうから、還暦を契機に供養碑を建立して鎮魂することを思い立たれたのかもしれません。
    この昆蟲碑も武田五一氏の設計です。

  • 昆蟲碑<br />背面には「揮毫 真宗本願寺派管長事務取扱六雄澤慶、意匠 正五位勲四等工學博士 武田五一」と刻んであります。<br />名和氏の人柄を語るエピソードを紹介しておきましょう。<br />名和氏は研究者としての才能もさることながら、教育者や農学技術指導者としての適性にも恵まれていました。ある時、長良川で遊んでいた子供たちの数人が昆虫を弄び始めました。すると別の子供が「それは益虫だから虐めるな。名和先生が益虫だと言ってい た」と叫ぶと、子供らは昆虫虐めを止めたとの逸話があります。<br />たかが子供相手と言えども、名和氏は熱心に昆虫学の普及に努めていたことが窺えます。

    昆蟲碑
    背面には「揮毫 真宗本願寺派管長事務取扱六雄澤慶、意匠 正五位勲四等工學博士 武田五一」と刻んであります。
    名和氏の人柄を語るエピソードを紹介しておきましょう。
    名和氏は研究者としての才能もさることながら、教育者や農学技術指導者としての適性にも恵まれていました。ある時、長良川で遊んでいた子供たちの数人が昆虫を弄び始めました。すると別の子供が「それは益虫だから虐めるな。名和先生が益虫だと言ってい た」と叫ぶと、子供らは昆虫虐めを止めたとの逸話があります。
    たかが子供相手と言えども、名和氏は熱心に昆虫学の普及に努めていたことが窺えます。

  • 御手洗池 塩谷鵜平の句碑<br />「正史には さありとも 雁の涙落つ」塩谷鵜平<br />正史によるとこの池で岐阜城落城にまつわる悲劇があった。それは事実であり動かせないが、露が落ちるのをみるにつけても、それを思うと涙が流れて止まない。<br />(「雁の涙=露を雁が流した涙に見立てた言葉」として現在文にしてみました。)<br />塩谷鵜平は河東碧梧桐と同様に自由律俳句を詠む明治時代~昭和時代前期に活躍した在家の俳人です。中学時代から作句を始め、最初は子規庵の句会に参加するなど正岡子規の門下であり、『ホトトギス』にも投稿していました。その後、新傾向俳句に魅力を感じ、河東碧梧桐に師事する。後に『鵜川』『壬子集』『土』などを創刊し、また「岐阜日日新聞」の俳壇を担当しました。

    御手洗池 塩谷鵜平の句碑
    「正史には さありとも 雁の涙落つ」塩谷鵜平
    正史によるとこの池で岐阜城落城にまつわる悲劇があった。それは事実であり動かせないが、露が落ちるのをみるにつけても、それを思うと涙が流れて止まない。
    (「雁の涙=露を雁が流した涙に見立てた言葉」として現在文にしてみました。)
    塩谷鵜平は河東碧梧桐と同様に自由律俳句を詠む明治時代~昭和時代前期に活躍した在家の俳人です。中学時代から作句を始め、最初は子規庵の句会に参加するなど正岡子規の門下であり、『ホトトギス』にも投稿していました。その後、新傾向俳句に魅力を感じ、河東碧梧桐に師事する。後に『鵜川』『壬子集』『土』などを創刊し、また「岐阜日日新聞」の俳壇を担当しました。

  • 御手洗池<br />池の背後にある金華山丸山にあった伊奈波神社への参拝の際、この池で手を洗って清めたことから「御手洗池」の名が付けられました。<br />斎藤道三が稲葉山城を居城とするに当たり、足元に神社があるのは失礼だからと伊奈波神社は現在地に遷されています。

    御手洗池
    池の背後にある金華山丸山にあった伊奈波神社への参拝の際、この池で手を洗って清めたことから「御手洗池」の名が付けられました。
    斎藤道三が稲葉山城を居城とするに当たり、足元に神社があるのは失礼だからと伊奈波神社は現在地に遷されています。

  • 御手洗池<br />1600(慶長5)年、岐阜城主 織田秀信は石田三成を中心とする西軍に与し、関ヶ原合戦の前哨戦で岐阜城に籠城しましたが、徳川家康を中心とする東軍の福島正則や池田輝政らに攻められて落城しました。その折、東軍は逃げ惑う館の女たちを断崖絶壁に追い詰めました。逃げ場を断たれた女たちは、刺し違えたり、断崖から長良川の淵であった御手洗池に身を投げて露と消えたと伝わります。<br />因みに、子供がこの池で釣りをしていたら、釣り針に女性の長い髪の毛が引っかかったとか、付近のカジカカエルは投身自殺を図った女中たちの生まれ変わりとの伝話もあります。このカエルは小田の蛙として民謡『お婆』の中で謡われている他、池畔にある句碑にも謡われています。<br />「…岐阜はよいとこ 金華山の麓 小田の蛙が 寝て聞ける…」

    御手洗池
    1600(慶長5)年、岐阜城主 織田秀信は石田三成を中心とする西軍に与し、関ヶ原合戦の前哨戦で岐阜城に籠城しましたが、徳川家康を中心とする東軍の福島正則や池田輝政らに攻められて落城しました。その折、東軍は逃げ惑う館の女たちを断崖絶壁に追い詰めました。逃げ場を断たれた女たちは、刺し違えたり、断崖から長良川の淵であった御手洗池に身を投げて露と消えたと伝わります。
    因みに、子供がこの池で釣りをしていたら、釣り針に女性の長い髪の毛が引っかかったとか、付近のカジカカエルは投身自殺を図った女中たちの生まれ変わりとの伝話もあります。このカエルは小田の蛙として民謡『お婆』の中で謡われている他、池畔にある句碑にも謡われています。
    「…岐阜はよいとこ 金華山の麓 小田の蛙が 寝て聞ける…」

  • 御手洗の滝<br />落差10mある滝です。<br />昔は天然滝でしたが、水量が少なくなったため現在はポンプを用いて水を流す人工滝となっています。<br />岐阜市に住んでいる方でもこの滝が未だに天然滝だと思っている人が多いのだとか…。それにしても人工滝とは思えないほどの水量です。<br />日暮れ近くになってしまいましたが、仲間が待つ「ホテルパーク」へ足を運びました。卒業以来40数年ぶりに会った輩もいましたが、ものの5分も経たないうちに懐かしい学生時代の笑顔に戻っていました。<br />翌日は、多数決によりロープウェーで岐阜城へ登城することになりました。鵜飼ミュージアムなども堪能してまいりました。(例によってオフレコですが…。)<br /><br />最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

    御手洗の滝
    落差10mある滝です。
    昔は天然滝でしたが、水量が少なくなったため現在はポンプを用いて水を流す人工滝となっています。
    岐阜市に住んでいる方でもこの滝が未だに天然滝だと思っている人が多いのだとか…。それにしても人工滝とは思えないほどの水量です。
    日暮れ近くになってしまいましたが、仲間が待つ「ホテルパーク」へ足を運びました。卒業以来40数年ぶりに会った輩もいましたが、ものの5分も経たないうちに懐かしい学生時代の笑顔に戻っていました。
    翌日は、多数決によりロープウェーで岐阜城へ登城することになりました。鵜飼ミュージアムなども堪能してまいりました。(例によってオフレコですが…。)

    最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

  • おまけ1<br />夏の終わりに我が家のベランダに迷い込んだ「タマムシ(♂)」です。これだけ間近で見たのは小学生の時以来です。<br />マンションの11階ですから地上30mもの高さまで飛んできたかと思うと愛おしくさえ思えます。触覚や脚の一部がなかったので、鳥にでも追われたのかもしれません。見つけた時にはすでに息絶えていたのですが…。

    おまけ1
    夏の終わりに我が家のベランダに迷い込んだ「タマムシ(♂)」です。これだけ間近で見たのは小学生の時以来です。
    マンションの11階ですから地上30mもの高さまで飛んできたかと思うと愛おしくさえ思えます。触覚や脚の一部がなかったので、鳥にでも追われたのかもしれません。見つけた時にはすでに息絶えていたのですが…。

  • おまけ2<br />甲虫目タマムシ科の昆虫で、体長約3.5cm。<br />メタリックな光沢は、構造色と言われます。光沢の秘密は、色素ではなく、体を覆う多層膜構造によるものです。タマムシの外皮は透明な薄い膜が何枚も重なる構造です。薄い膜が重ったところに光が当たると、表面と下地で反射した光が干渉して様々に発色し、メタリックな光沢に見えます。そして、このような発色の仕方を「構造色」と呼びます。同じ現象は、CD面の反射光沢やシャボン玉などでも見られます。<br />一方、タマムシの羽を用いた工芸品と言えば「玉虫厨子」です。作り易さから考えると夜光貝などを用いた螺鈿細工の方が簡単です。それを敢えてタマムシとしたのにはそれなりの理由がありそうです。<br />調べてみると、玉虫厨子の制作には途方もない時間、労力、費用がかかり、国家事業に匹敵するほどのものだったようです。それ故、権力や国威を国内外に誇示する意図があったと考えられるとのことです。おそらく世界でも稀にみる特異な意匠ですから、「神秘の魔力」が遺憾なく発揮されたのでは!?

    おまけ2
    甲虫目タマムシ科の昆虫で、体長約3.5cm。
    メタリックな光沢は、構造色と言われます。光沢の秘密は、色素ではなく、体を覆う多層膜構造によるものです。タマムシの外皮は透明な薄い膜が何枚も重なる構造です。薄い膜が重ったところに光が当たると、表面と下地で反射した光が干渉して様々に発色し、メタリックな光沢に見えます。そして、このような発色の仕方を「構造色」と呼びます。同じ現象は、CD面の反射光沢やシャボン玉などでも見られます。
    一方、タマムシの羽を用いた工芸品と言えば「玉虫厨子」です。作り易さから考えると夜光貝などを用いた螺鈿細工の方が簡単です。それを敢えてタマムシとしたのにはそれなりの理由がありそうです。
    調べてみると、玉虫厨子の制作には途方もない時間、労力、費用がかかり、国家事業に匹敵するほどのものだったようです。それ故、権力や国威を国内外に誇示する意図があったと考えられるとのことです。おそらく世界でも稀にみる特異な意匠ですから、「神秘の魔力」が遺憾なく発揮されたのでは!?

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