2023/10/21 - 2023/10/22
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montsaintmichelさん
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長良橋南詰の鵜飼観覧船乗場から南西へ続く情緒ある街並みは通称「川原町(かわらまち)」と呼ばれます。川原町自体は存在しませんが、湊町、玉井町、元浜町の3町を総称して「川原町」と呼んでいます。
かつては長良川の中州にあった川湊であり、多くの商家や船宿が密集して賑わっていました。戦火を免れて奇跡的に江戸時代からの街並みが今に残されており、狭い間口に長い奥行きという昔ながらの町屋が軒を連ねる姿はノスタルジーを誘います。
参考用の川原町散策マップです。
https://www.ukai-gifucity.jp/Ukai/wp-content/themes/blankslate/pdf/aroundmap_kinka.pdf
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
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川原町界隈をクローズアップした散策マップです。
この画像は次のサイトから引用させていただきました。「掲載許可承諾済」
https://www.ukai-gifucity.jp/Ukai/wp-content/themes/blankslate/pdf/aroundmap_tanken.pdf -
鵜飼乗船場
ここが川原町の最北の地になります。
ここからスタートして南西方向へ歩を進めます。
鵜飼乗船場の手前には常夜燈が建ち、斎藤道三や織田信長時代に繫栄した川湊の雰囲気を湛えています。 -
川湊の灯台
この灯台は、かつて川を往来する筏や舟の目安となった川灯台を再現したものです。石積みの台座に鎮座する灯台は、薄暮にやわらかなガス灯の明かりを灯します。
手前の石碑は「五木ひろし『長良川艶歌』記念碑」です。
1984年4月に歌手 五木ひろしさんが長良川を舞台に「ご当地ソング」として発表した『長良川艶歌』が、ご当地ソングのシングル曲では最大のヒット曲となりました。五木ひろしさんがTBS系「ザ・ベストテン」で12年間ベストテン第1位を獲得したのを記念して歌碑が建立されました。
因みに第26回日本レコード大賞の大賞を『長良川艶歌』で受賞されています。 -
鵜匠の像
鵜飼乗船場近くには鵜を労わる「鵜匠の像」(館野弘青氏 作)が安置されています。この優しげな鵜匠の表情には心が和みます。また、土台は鵜舟を象っています。因みに現在岐阜市に居る6名の鵜匠は、いずれも「宮内庁式部職鵜匠」という職名を持ち、代々その家の男子が継ぐしきたりです。
鵜飼は鵜を飼い慣らして鮎を狩る伝統漁法です。その歴史は古く『日本書記』や『古事記』、『万葉集』にも登場します。中国でも古くから行われており、日本の鵜飼は中国に起源を発するとも言われます。
因みに長良川鵜飼で鵜匠が操る鵜は、全て茨城県日立市の鵜の岬で捕獲された海鵜だそうです。長良川の鵜は基本的に放し飼いですが、逃げることはないそうです。羽根切りすることもなく、逃げる能力があるにも拘わらず逃げないのは、鵜匠と鵜の間に特別な信頼関係があるからだそうです。 -
鵜匠の像
長良川鵜飼の文献での初見は、702(大宝2)年の各務原郡中里の戸籍に記された「鵜養部目都良売(うかいべめづらめ)」とされます。1300年以上も継承され続けた理由のひとつは、時の権力者に庇護されてきたことにあります。平治の乱(1159年)に敗れた源頼朝は、敗走の際に長良川河畔で彷徨い、鵜飼の長に宿を借りました。頼朝はその恩に報いるため、その時に食した鮎鮨を毎年幕府へ献上させたそうです。また戦国時代には、鵜飼を見学し感動した織田信長が、鵜匠の名称を授けて鷹匠(たかじょう)と同様の待遇である禄米10俵を給しました。鵜飼で客人を「おもてなし」したのは信長が最初とされます。更に大坂夏の陣(1615年)で勝利した徳川家康も、その帰途に岐阜へ立ち寄り、鵜飼を見学し魅せられたそうです。家康もまた鮎鮨を気に入り、幕府への献上させたと伝えます。明治時代(1880年)には宮内省直轄となり、日本で唯一の皇室御用達の鵜飼となりました。 -
湊町秋葉神社
「秋葉神社」と名の付く神社は全国で千社を超えますが、ご祭神は神仏習合の火防・火伏せの神として広く信仰された秋葉大権現だそうです。しかし湊町秋葉神社は、その名の通り「川の安全祈願」にもご利益があるようです。つまり、川の恵みに感謝し、水難・水害の無事を祈る安全祈願もセットになっています。
毎年7月16日に催される「長良川の川まつり」の際、新長良橋が架けられる以前は伊奈波神社と長良神明神社の神輿を秋葉神社に集め、「川原町 川祭り」も同時に行って川の安全祈願を祈ったそうですが、現在は川を挟んだ鵜飼屋と川原町の2地区で個別の祭りとして行われています。
因みに「川まつり」前に川に入ると、ドチに吸い付かれる(河童にしりこ玉を抜かれる)などといった言い伝えもあります。 -
和菓子処 緑水庵 川原町店
川原町通りは長良川に沿って500m程続きます。南西方向へ向かって左手に登場する一番手が「緑水庵」です。
みたらし団子は川原町店限定の和菓子です。岐阜県産「美濃ハツシモ」の米粉を100%使用し、米粉を店内のセイロで蒸し、餅つき機で搗いたものです。特製タレは山川醸造がこの団子のために作ったオリジナルのたまり醤油です。
因みに「美濃ハツシモ」は、岐阜県南部の美濃地方で作られています。岐阜県を流れる木曽川、長良川、揖斐川の豊かで清らかな水と濃尾平野の肥沃な土壌でできた優良な水田が「美濃ハツシモ」の美味しさを生み出しています。その名の由来は10月下旬~11月上旬の「初霜が降りる頃」に収穫されることから「ハツシモ」と名付けられました。 -
住井冨次郎商店
左手の3軒目です。
元々は材木問屋だった住井工房は築100年以上の歴史を持つ商家造の建物です。こじんまりと朴訥とした佇まいは『日本昔話』にでも出てきそうな雰囲気を湛えています。
岐阜の手作りうちわ業者は明治30年代には20軒以上あったそうですが、専業は現在この住井冨次郎商店だけになりました。
良質な和紙の流通が盛んだった川原町界隈には和紙を使用した伝統工芸が残されており、そのひとつが「岐阜うちわ」です。延享年間(1744~47年)成立の地誌『岐阜志略』(松平秀雲著)には「岐阜にて仕出す商物」の一つに「 うちわ 」が挙げられています。また、天保初年から万延年間(1830~60年)にかけて尾張藩士 岡田啓が編纂した『新撰美濃志』には「岐阜うちは」の名称が初めて用いられると共に産地としての位置付けがなされています。 -
住井冨次郎商店
目印は2階の右隅にある「ぎふ うち○=ぎふ うちわ」の看板です。
ここでは美濃和紙と良質の竹を材料に柿渋を塗って仕上げる「岐阜渋うちわ」を専業で作っています。4代目のご主人とお母さんが実際に作業をされているのを見学することができます。岐阜うちわは、長良川の鵜飼見物に来る観光客用の土産品として考案されたもので、水うちわ、渋うちわ、塗りうちわの3種類あり、全て職人による手作りです。
水うちわは、雁皮紙(がんぴし)という非常に薄い和紙を貼り、専用のニスを塗って仕上げるのが特徴で、見た目が透けて涼しげなため、水うちわと名前が付いたそうです。 -
旅館「十八楼」
川原町通りの右手に陣取るのは巨大旅館「十八楼」です。
俳聖 松尾芭蕉翁が岐阜逗留中、この界隈の風情に感銘を受けて記した『十八楼ノ記』から命名されたという創業 万延元年(1800年)の老舗です。
近年ではTVアニメ『名探偵コナン』の舞台にもなりました。(第871話「ノブナガ四五〇(よんごうまる)事件」) -
旅館「十八楼」
傍の説明文によると、芭蕉が1688(貞享5)年の岐阜逗留中、長良川を望む水楼に招かれ、美しい自然と幽玄な鵜飼、そして街の風情に感銘して「十八楼」と名付け『十八楼ノ記』に記しました。
「かの瀟湘の八のながめ、西湖の十のさかひも、涼風一味のうちにおもひこめたり、若し此楼に名をいはんとならば、十八楼ともいはまほしや」
(訳:中国の名勝洞庭湖周辺の八景と西湖十景も、清々しいこの景色の中にあるように思われる。この水楼に名前を付けるなら十八楼とでも言いたいものだ。)
そして「この辺り 目に見ゆるものは 皆涼し」の句で結びました。
その後の江戸時代末期、芭蕉ゆかりのこの逸話が忘れ去られているのを不憫に思ったこの旅館の先祖が、万延元年に「山本屋」から「十八楼」に改名したそうです。 -
旅館「十八楼」
十八楼は温泉自慢の宿として知られ、玄関脇に「手湯」が置かれています。
手湯はその名の通り手をお湯に浸けるもので、気軽に温泉が愉しめます。手を浸けるだけでもじんわりと体の芯から温まります。手は第2の脳とも呼ばれ、沢山のツボがあり、手を温めることで肩や首のコリ、頭痛を和らげてリラックスすることができるそうです。 -
旅館「十八楼」
「にっぽんの温泉100選」に4年連続で選出された長良川温泉の泉質は空気に触れると赤褐色に変化する単純鉄冷鉱泉です。
鉄分やラドンを豊富に含む泉質でもあり、浸かった後はお肌がスベスベになります。 -
長良川デパート湊町店
住井冨次郎商店の右隣、この画像では一番手前の家屋です。
2022年3月に岐阜の逸品を揃えるセレクトショップとしてリニューアルオープンし、岐阜和傘や美濃和紙の雑貨など、美しい手仕事の品々が並んでいます。それらは全て長良川流域で作られた伝統工芸品です。
ショップの運営はNPO法人「ORGAN」。岐阜和傘の伝統を継承する「和傘CASA」や、東海地方のまち歩きツアーが体験できる「まいまい東海」なども共同運営し、岐阜の魅力を発信しています。 -
玉井屋本舗
1908(明治41)年創業の老舗和菓子店であり、岐阜銘菓「登り鮎」発祥の店です。求肥をカステラ生地で包んだ鮎の形をしたお菓子です。
その他にも鮎を模した「登り鮎」をはじめ、「焼き鮎」や宣教師ルイス・フロイスが織田信長に献上した奥美濃古地鶏の卵を潤沢に使用した「献上かすていら」など多彩です。長良川を泳ぐ鮎を模した「登り鮎」は岐阜の定番土産です。 -
玉井屋本舗
お土産に人気なのが鵜飼から発想を得た「下剋上鮎」です。
通常鵜飼では鵜が鮎を呑み込みますが、この焼き菓子は鮎が鵜を呑み込んでいます。「下剋上=逆転勝ち」の縁起を担いだお土産として重宝されているとか…。 -
土蔵レストラン「時季の蔵」
入口の傍らにある竹筒に耳を近づけてみると、宇宙空間にでもワープしたかのような神秘的な音が漏れ聞こえ、心洗われます!
これは「水琴窟」と言い、地中に埋められた甕に水滴の音を共鳴させて楽器のような音色を奏でさせるものです。
古い町並みに視線が集中してしまうのですが、こうした小さな発見も川原町散策の醍醐味のひとつです。 -
土蔵レストラン「時季の蔵」
老舗旅館「十八楼」が運営する、はなれレストランです。
建物は、約130年前の明治時代に材木商の倉庫として使われていた土蔵を、曳家という伝統工法で80mほど曳いてこの地に移築したものです。 -
土蔵レストラン「時季の蔵」
グラデーション風に脱色した杉皮張りの外壁が雰囲気を醸します。 -
土蔵レストラン「時季の蔵」
芭蕉は、岐阜逗留中に葉山(金華山)の麓である長良川河畔に席を設け、落梧や荷兮と待望の鵜飼見物をしました。鵜飼を待つ間、木陰で鮎膾を肴に酒盛した折、詩趣が盛りあがり、芭蕉は次の句を詠みました。
「またやたぐひ ながらの川の 鮎なます」
この長良川の鮎膾は何と類ない美味しいものだとの思いを表現したもので、「またやたぐひ」と「や」を加えて意図的に字余りとし、「珍味だ!」という感嘆を伝えています。 -
芭蕉の句碑(ポケットパーク名水)
鵜飼見物で詠まれたのが次の有名な一句です。
「おもしろうて やがてかなしき 鵜舟哉」
華やかだった鵜飼だが、鵜舟が去ると辺りは深い闇の世界に還る悲しさに芭蕉は心を打たれました。その静寂の中に芭蕉は、鵜の哀れ、生きるために魚を捕らねばならない鵜匠の宿命を感じ取ったのでしょう。以後、芭蕉は魚類をいっさい口にしなかったと伝えます。
この句碑は国道256号線を挟んだ北側「ポケットパーク名水」内に建てられています。
因みに句碑は、年季が入っているせいか文字が解読できないほどです。 -
土蔵レストラン「時季の蔵」
右手の白壁の建物は玉井屋本舗のはなれになります。 -
川原町通り
普段見慣れた景観と異なるのはレトロな街並みだけではありません、このように遥か遠くまでスッキリと見渡せるのは視界を遮る電柱や電線がないからです。2000年から電柱や電線の地中化がなされた成果です。願わくは、街灯の支柱をもう少しスリムにしていただきたいものですが…。
現在、伝統工芸品「岐阜うちわ」を製造販売する店や、岐阜銘菓「鮎菓子」で知られる和菓子店などがノスタルジックな雰囲気を今に引き継ぎながら営業されています。更には、ここ数年町屋をリノベーションしたモダンなカフェなどがオープンし、新しい魅力がプラスされています。
因みに、左側に見える白壁のビルは旧篠田薬局です。 -
川原町通り
岐阜市内には卯建(うだつ)のある家屋は数軒しか残されていません。川原町のものは卯建のルーツとも言える「袖壁」タイプです。
元々は隣家からの類焼を防ぐ防火壁でしたが、いつしか富の象徴に変わり、「うだつが上がらない」の語源となりました。 -
「長良川てしごと町家 CASA」
伝統工芸品「和傘」を製作・販売するショップです。築約100年の町家をリノベーションし、ギャラリーのような雰囲気があります。
普段はなかなかお目にかかれない蛇の目傘や番傘ですが、それを手に取って見ることができる貴重なショップです。和傘には普段使いのイメージがありませんが、お客さんの大半が雨傘や日傘として日常的に使うために購入するそうです。
尚、時期限定ですが、「岐阜和傘糸かがり体験」や「美濃和紙名刺づくり」、「ぎふ提灯の絵付け体験」などの体験型イベントも随時開催されています。 -
川原町通り
16世紀中頃の斉藤道三・織田信長の時代には、この道筋は中川原と呼ばれ、市場が開かれるなど商業の拠点として繁栄していました。道三が城下町を築くに当たり川湊を設けたのは、長良川の上流域で産する和紙の原料である楮(こうぞ)や木材、茶などを、ここを中継地にして全国各地に販売するためでした。 -
青木家住宅主屋(左側)
青木家住宅主屋の辻を左へ折れると、こうした光景が広がっています。
こうした古い町並みでは、思い切って路地に入ってみると新しい発見があります。 -
青木家住宅主屋
黒壁に囲まれた小粋な路地で、川原町通りから川原町広場へ抜ける道です。
右側の建物が青木家住宅主屋、左側が後藤養蜂園です。 -
青木家住宅土蔵
「うなぎの寝床」とも称される日本伝統の町屋を左右に見ながら奥まで抜けると、土蔵の妻面が見られます。
この土蔵の外壁は珍しい茶褐色の杉皮張り仕様となっており、軒を連ねる他の家屋の黒壁とは趣を異にします。 -
湊コミュニティ水路
路地を真直ぐに南方向へ進むと川原町広場に出ます。
その先にある湊コミュニティ水路は、長良川の清流を引き込んだ忠節用水放水路沿いに整備された、緑の回廊を彷彿とさせる藤棚下の散策道や木覧デッキ・八ツ橋・滝組前の沢飛石、及び親水階段と玉石河床などを配した水辺の施設です。魚の棲める深みや四季折々に咲く植栽など、散策道をそぞろ歩けば自然に水と緑に触れられる趣向です。 -
川原町通り
江戸時代には尾張藩がこの地を治めて長良川役所を置き、荷船から船役銀(通行税)を徴収しました。荷の種類は酒・炭・紙・木・竹・茶・米など多岐に亘り、それらを取り扱う紙問屋や材木問屋などが軒を連ね、今でも往時の商家を偲ばせる切妻造、平入り、窓に連子格子を配し、壁を真壁造漆喰仕上げにした伝統的な町家が並んでいます。
寛政年間(1789~1800年)に樋口好古が編述した『濃州徇行記』には、「長良の渡場より岐阜への入口故諸商ひ物繁盛の地にて…町並み茶屋なども軒をつらね賑はしき所也」とあり、 往時の中河原町の賑わいの様子を綴っています。 -
旧紙問屋 松井邸
軒先には「半鐘」が吊り下げられています。「昭和三十四年九月二十六日 伊勢湾台風」の文字が刻印されています。伊勢湾台風の時には、この辺りも被害を受けたようです。現代にあっても、半鐘が役に立つというのが感動ものです。
また屋根の上の小さな細い煙突や連子格子戸に嵌め込まれた町内掲示板など、見所が満載です。 -
川原町屋(製紙原料商 大野家の旧宅)
軒先にあるレトロな赤いダルマポストが目印のギャラリー&和カフェです。
黒い連子格子戸と赤いポストのコントラストがとても印象的です。
庇には「軒行燈」が置かれ、西洋建築の鐘楼を彷彿とさせる中真飾りが目を引きます。「燈籠看板」とも呼ばれ、商売繁盛と吉祥を願う縁起物として大切にされています。
お店のHPです。
https://kawaramachiya.jp/ -
川原町屋(製紙原料商 大野家の旧宅)
明治時代は紙の原料を扱う問屋だったという建物の建築年代は不詳ですが、川原町地区は1891(明治24)年の濃尾大地震による延焼がなかったこともあり、130年以上前に建てられた可能性も否定できない古民家です。
木造2階建、切妻造、平入りの主屋、外壁は真壁、建具は連子格子戸、軒裏は化粧垂木。1階の軒にがん木(霧除け)を設けています。 -
川原町屋(製紙原料商 大野家の旧宅)
連子格子戸を透かした風景は懐かしくもあり、何かしら旅人の琴線に触れるものがあるように思えます。
かつての帳場には和紙問屋らしい紙製の雑貨が並べられ、往時の姿を偲ばせます。 -
川原町屋(製紙原料商 大野家の旧宅)
土間は一般的な三和土ではなく、コンクリートで舗装され細長く奥まで続いています。
かつては紙の原料を扱う問屋であり、運搬用トロッコで土蔵まで運搬するために土間にレールが敷かれていたそうですから、その名残かもしれません。
入口側から先が見えないように目隠しする役目の暖簾もいい仕事をしています。 -
川原町屋(製紙原料商 大野家の旧宅)
座敷には民芸小物や和雑貨などが所狭しと並べられています。
階上へは階段箪笥(箱箪笥)を利用します。名の通り、階段と箪笥が一体化しており、階段の下の空間を有効利用するために抽斗や戸棚を取り付けた超合理的な調度となっています。狭い町屋ならではの先人達の知恵が偲ばれます。
因みに、踏面250mm、けあげ290mm、角度は60度程あるハードコアな階段です。 -
川原町屋(製紙原料商 大野家の旧宅)
土間空間に設けられた吹き抜けは開放感に満ちています。
採光用のトップライトがなければ暗がりになってしまうかもしれません。 -
川原町屋(製紙原料商 大野家の旧宅)
土間から一段上がった所に畳敷きの部屋が設けられています。
その天井高は2050mm、欄間の下は1750mmしかないそうですが、意外にも窮屈感はありません。
床の間の設えも素敵ですし、廊下の先のアイストップも味わい深いものがあります。 -
川原町屋(製紙原料商 大野家の旧宅)
ガラス引き戸の外側には優雅な坪庭を構えています。
温かみのある歪み具合から、恐らくギヤマン・ガラスを嵌め込んでいると思われます。
因みに蹲の後に生えている木は、見事に庇を貫いています。 -
川原町屋(製紙原料商 大野家の旧宅)
土間を突き抜けると、燦燦と陽光が降り注ぐ中庭に出ます。そこには赤い大きな和傘が設えてあり、ここまでが町屋領域で、その先が土蔵になります。
奥に続く蔵は妻入りの土蔵造です。土蔵をリノベーションしたカフェでは不定期にピアノコンサートなども開催されています。 -
川原町屋(製紙原料商 大野家の旧宅)
こうして50mもの奥行きのある長~い土間を改めて見返すと、表の間口の幅に比べて奥行きが深い、いわゆる日本伝統の「うなぎの寝床」とはかくあるものかとの実感が湧いてきます。
昔は賦課金(税金)が間口の広さで決まっていたため、税金対策の知恵からこうした細長い町屋が生まれたそうです。また、湊町に住む庶民の多くは商人や職人であり、通りに面した家に住みたいとの希望も多く、できるだけ多くの戸数に配慮すべく、間口の広さを狭く制約して対処したのかもしれません。
一方、京都の町屋においては税金説は俗説とされます。それは、京都では1864年の蛤御門の変後に発生した元治の大火(どんどん焼け)で3万戸程の建築物が焼け落ち、それ以降に建てられた町屋だからです。 -
川原町屋(製紙原料商 大野家の旧宅)
中庭の先にあるのが2階建ての「蔵カフェ」です。
土蔵を火災から守る頑丈な扉にも注目です!
ここで靴を脱いで土蔵へ上がります。 -
川原町屋(製紙原料商 大野家の旧宅)
温もりが溢れる木造りの店内は天井が高く開放感満点です。
元々は土蔵のはずですが、粋な調度品が置かれ、左奥にはグランドピアノまであり、異国情緒すら感じられるノスタルジックな空間に仕上がっています。 -
川原町屋(製紙原料商 大野家の旧宅)
2階へ上がる階段も勾配が急ですが、味わい深いものがあります。
因みに2階は山小屋風のソファー席だそうです。 -
川原町屋(製紙原料商 大野家の旧宅)
壁には竹久夢二を彷彿とさせる絵画や岐阜県出身 熊谷守一氏の版画などが掛けられており、大正ロマンの雰囲気を放っています。
ゆったり寛ぎつつも、自然と感性が研ぎ澄まされていく快感を味わうことができます。 -
川原町屋(製紙原料商 大野家の旧宅)
川原町屋ブレンド珈琲:550円(税込)
名古屋のようなピーナツではなく、ビスケットが添えられます。
尚、注文を受けてから豆を挽くため、給仕されるまでに少し時間がかかります。 -
川原町屋(製紙原料商 大野家の旧宅)
赤い和傘のある中庭の脇から、連なる土蔵の隙間をすり抜けて裏手に出られます。 -
川原町屋(製紙原料商 大野家の旧宅)
こちらが裏門になります。 -
川原町屋(製紙原料商 大野家の旧宅)
土蔵の裏手には月見台と呼ばれるテラス席が設けられており、そこから金華山山頂に聳える岐阜城の雄姿が望めます。
また、土蔵の黒壁と赤い和傘のコントラストは絶好の被写体になります。
因みに夏場の暑い時期はテラス席は閉まっています。その理由は「岐阜の夏は暑い」からだそうです。 -
川原町屋(製紙原料商 大野家の旧宅)
テラス席から望める岐阜城です。 -
蔵のある散策道
風情ある木戸に黒い下見板張りの蔵、玉石垣を積んだ佇まいが連なり、映画の撮影セットにでも迷い込んだような錯覚に陥るシックな路地です。川原町界隈には舟橋聖一著『白い魔魚』の舞台となった旧いとう旅館もあり、ここも映画の現地ロケに用いられました。
メインストリートの日本家屋が軒を連ねる印象とはまた別の雰囲気を醸す味わい深い小径です。 -
蔵のある散策道
かつて和紙問屋だった川原町屋の土蔵の隣にも黒壁の土蔵が競い合うように並びます。 -
蔵のある散策道
かつては長良川の中州だったことから、増水時に備えて玉石垣が高く積まれています。
玉石垣が連なる細い路地も趣のある小径です。 -
蔵のある散策道
途中にある玉石垣は苔生しています。
川原町広場一帯は、かつては長良川の遊水地であり、木材や鵜飼観覧船なども入り込んでいたそうです。
このように商家の裏手には玉石垣の上に黒壁の土蔵が整然と並び、川と共に生きてきた営みを今に伝える場所と言えます。 -
蔵のある散策道
情緒をそそる雰囲気を醸します。
観光客が往来する表通りの賑やかさとは裏腹に、落ち着いた風情が愉しめる散策路です。 -
折戸橋
橋から望める岐阜城と三重塔のコラボ。
ここから仰ぎ見る金華山は今も昔も変わらぬ姿で聳えています。また、緑の山麓の合間に望む朱色の三重塔は大正天皇のご即位を記念して建立されたものです。風光明媚な金華山において、町家から最も美しく見えるポイントに三重塔の建立地を選定したのは、川原町の商家に逗留していた日本画家 川合玉堂画伯でした。 -
野々垣家住宅土蔵
切妻屋根、日本瓦葺、土台は玉石積み、黒い下見板が映えます。 -
野々垣家住宅主屋
左から主屋、離れ、土蔵と連なります。
土蔵を含めて町屋の全体像が見通せるのは川原町でもここだけです。 -
野々垣家住宅主屋
かつては松井家の別家の和紙問屋だったそうです。
切妻屋根、日本瓦葺、平入り、外壁は真壁、建具は連子格子戸、土台は玉石積み。 -
旧カワボシカワボシ松井家主屋(丁子屋 深尾商店)
川原町界隈で明治時代から和紙問屋として現役なのは唯一ここだけです。 お茶席で用いられる利休懐紙の5割は丁子屋(深尾吉左衛門家)の卸だそうです。
切妻屋根、日本瓦葺、平入り、外壁は真壁、建具は連子格子戸、軒裏は化粧垂木、
1階の軒にがん木(霧除け)を設けています。 -
十六銀行出張所
この辺りは明治時代には富茂登村と呼ばれ、日本最古のナンバー銀行である十六銀行の最初の支店として1897(明治30)年に出店した富茂登(ふもと)出張所が設けられました。今ある場所は「富茂登出張所」の隣地になるそうです。
古民家を改装し、2階が漆喰、1階が連子格子戸と土蔵風にし、典型的な商家造で川原町の景観に馴染んだ外観の銀行です。
(ATMしかないようですが…。) -
屋根神様
古民家の屋根の上に祀られているのは火災や水難から家屋などを守る秋葉神です。 -
屋根神様
庇屋根や軒下など地面より高い所に祀ることから「屋根神」とも呼ばれ、通説では、庶民では社を設置する土地の入手が困難だったため、空間的に余裕のある屋根に上げたとされます。
しかし個人的には、この川原町においては洪水時に社が水害に遭わないように高所で祀っているものと窺えます。水難の神が水難に遭っては洒落になりませんから…。
社の屋根は軽くウェーブを付けた「むくり屋根」としており、崇敬の篤さが窺えます。 -
桑原家住宅
玉井町はかつての中河原 三ヶ町の中心街であり、その庄屋を務めることが多かった桑原善吉の旧住居です。雛屋だった桑原家は、家伝によると、先祖は江戸時代に京都から移った人形商人だったそうです。江戸時代中期には筏乗り46人前のうち7人前の株を持ち、その総代だったようです。また江戸時代後期には木材問屋を営んでいました。10代目 桑原善吉は、十六銀行頭取、岐車商工会議所会頭、貴族院議員を歴任したようです。
通りに面しており、手前から事務所、煉瓦蔵、主屋と連なります。
事務所は1階が大壁板張り、2階の壁は大壁漆喰塗り、丸格子を付けています。
土蔵の1階は下見板張りとし、平入りが多い川原町通りの中で唯一妻面を見せています。
煉瓦は日本で最初に輸入されたものと伝えられます。
主屋は間口が広く県下有数の豪商の面影を残しています。 -
川原町通り
川原町は、NHKブラタモリ#92岐阜「岐阜は 信長が夢見た『平和の都』!?」(2017年12月2日放送)で紹介され、「織田信長は岐阜産のきらびやかな上質和紙で書状を書き、平和外交に活用した」という説明でした。
岐阜では和紙を用いた産業が今も栄え、岐阜提灯や岐阜和傘はよく知られています。 -
川原町通り
川原町界隈ではあちこちの町家の軒先に風情漂う岐阜提灯が吊されています。岐阜提灯の始まりには諸説あり、最古の説では慶長年間(1596~1611年)創製と伝えます。また1824(文政7) 年の 随筆『宮川舎漫筆』(宮川政運著)によると、「最近はやりの盆提灯で薄き紙にて美しき細画を用いたもの」を岐阜提灯と比定しています。
明治維新前後には世情の混乱などにより岐阜提灯は衰退したそうですが、1878(明治11) 年の明治天皇の岐阜行幸の際、地元素封家出身の勅使河原直次郎が提灯を献上したのを契機に再び製造が盛んになりました。直次郎は熟練の職人を集め、下絵を一流の絵師に依頼するなど、手工芸美術品としての岐阜提灯の価値を向上させると共に新聞広告の掲載や品評会の開催など宣伝活動にも尽力しました。そのため、次第に岐阜提灯は土産品として国内外で好評を博すようになり、販路を順調に拡大していったそうです。 -
六庚申堂
川原町通りを歩いていると、狛犬代わりのキュートな阿吽の狛猿にド肝を抜かれます。 -
六庚申堂
1560年(永禄3)年に斎藤道三の息子 義龍が京都 妙心寺から僧 別伝を招いてこの地に建立した伝燈護国寺があった場所にあります。伝燈護国寺建立の目的は、勢力を増しつつあった禅宗寺院を抑えるため、禅宗の中心的寺院だった瑞龍寺から伝燈護国寺へ統制権を移すことにありました。しかしそれに反発する禅僧 快川紹喜らによる別伝の乱が起き、その翌年義龍が亡くなり乱も治まると伝燈護国寺は廃寺となりました。その跡地に延宝年間(1673~1681年)に再建されたのが井口山東伝寺でしたが、その頃に庚申信仰が普及したことから、美濃庚申堂と呼ばれるようになりました。 -
六庚申堂
マスクを着けているからでしょうか、どことなく愛嬌を感じさせる狛猿たちです。 -
六庚申堂
60日に一度巡ってくる庚申の日に眠ると、三尸の虫が人間の体内から抜け出して天帝にその宿主の罪悪を告げ、その人の寿命を縮めると言われています。
そのため庚申の夜は皆で眠らずに過ごす「庚申待」という風習があります。 -
六庚申堂
屋根の上にも猿が居ます。
庚申の夜に織田信長が明智光秀を「金柑頭」と馬鹿にして恨みを買ったとか、夏目漱石が庚申の夜に生まれたことから、泥棒になることを案じた親がお金に困らないよう「金之助」と名付けたなどの逸話が残される庚申の夜ですが、どうやら昔の人にとっては仲間と集まって飲んで騒いで遊ぶという愉しみな夜でもあったようです。 -
六庚申堂
何かをお願いしているようなポーズがユーモラスでもあります。 -
六庚申堂
堂宇には「井口山」の山号が掲げられ、これが唯一の伝燈護国寺の遺物だそうです。「岐阜」と改名する前の地名「井ノ口」から採られた山号です。 -
六庚申堂
木鼻には獏を起用しています。実はこの「獏」も庚申信仰に少し関係があります。
古代中国には「寝ている間に魂が抜け出る」とされており、獏はその抜け出た魂が悪霊に盗まれてるのを防いでくれるとされました。中国では「魂」、庚申信仰では「三尸の虫」が体から抜け出すと言う点が共通です。
この伝承により、中国における獏は「悪夢を払う霊獣」となりました。そして、この伝承は日本にも伝来し、獏は「悪夢を食べる=夢を食べる」と変化したのです。 -
六庚申堂
出迎えてくれるのは木彫りの三猿「見ざる、言わざる、聞かざる」です。
三猿は庚申さん(青面(しょうめん)金剛)の使いとされます。
青面金剛の身体は青色で、六臂または二臂、四臂、目は赤くて三眼で、怒りの形相を呈します。病魔を退散させる威力があるとされます。 -
六庚申堂
本尊には青面金剛像を守護神 帝釈天の使者である金剛童子として祀っています。
その配下に三猿が控え、「申」と「猿」が結び付いたものとされます。
因みに庚申信仰では帝釈天を本尊とすることもあり、その場合は三猿神も本尊とされるそうです。 -
六庚申堂
京都の庚申堂には「くくり猿」が奉納されており、奈良は「身代わり猿」です。「くくり猿」は人の欲望をコントロールして願いを叶えるお守りとされ、「くくり猿 → 猿結び = えん結び = 縁結び」とする縁起から、恋愛成就が叶うお堂として知られます。 -
六庚申堂
堂宇の手前左には雨水を屋根から伝え流して貯めておく手水鉢があります。 -
六庚申堂
その手水鉢自体は結構年季もののような趣きもありますが、石の形に合わせて受け枠をくり抜いています。その形がなんとハート型!
屋根から下げられた鎖樋が、まるでキューピットが放った矢がハートに突き刺さる姿を彷彿とさせます。
浮草の葉もハート型!
この手水鉢も恋愛成就のパワーアップに一役買っているかもしれません。 -
六庚申堂
庚申講が庶民の間に広まった時代にハートマークという概念は存在しなかったと思いますが、ハートマークと同じ形のものが「猪の目」文様です。イノシシの目を指し、古来災いを除いて福を招くという意味が込められています。
また、ハートマークを逆さに見ると「桃」です。古くから猿と桃は一緒に描かれることが多く、猿は山の賢者や山神の使いとされ、庚申信仰の対象としては馴染みのある動物です。また、古来中国では桃は桃源郷の不老不死の「仙果」とされ、邪気を払い不老長寿を与える植物として親しまれています。 -
六庚申堂
手水鉢の傍らに安置されている可愛らしい「縁結び地蔵」は宮城県川崎町にある石神彫刻工房の彫刻家 平泉正司氏の作品です。子宝にも恵まれたようです。
平泉氏は長野県出身。東京で彫刻を学んだ後、宮城県に移住した彫刻家で、二科展への出展をスタートに様々なコンクールに入選、現在は主に個展を通じた作家活動をされています。心洗われるような表情が優しい「石んこ地蔵」などで知られています。 -
霞橋
湊コミュニティ水路には、川原町から旧城下町へ抜ける橋が3本架けられています。その中で1930(昭和5)年に架橋された最古の橋がこの霞橋で、燈籠を象った和風デザインの親柱にはレトロな風情が漂います。 -
霞橋
岐阜城は川原町界隈のどこからもよく望めますが、三重塔と岐阜城が共に見通せる場所は案外限られています。 -
霞橋
川原町通りの東にあるこの霞橋は、金華山山頂に岐阜城、その山麓に朱色が映える三重塔がツーショットで収まる絶好の撮影スポットです。 -
川原町泉屋
かの北大路魯山人は「鮎はハラワタ」と語りました。匂い立つその独特の風味を味わい尽くそうと食通が訪れるのが、1887(明治20)年創業の川原町泉屋です。 -
川原町泉屋
1階が物販、2階が食事処となっており、鮎料理をメインに提供する料亭です。
鮎の塩漬けと米で1年以上発酵させた「熟れ寿し」は室町時代の文献にも記される岐阜の郷土食で、徳川家康にも献上されました。ここでは試行錯誤の末に完成させた「子持ち鮎の熟れ寿し」も食せます。清流長良川で獲れた天然の鮎を多様な調理方法で味わえることから、ミシュランガイド「愛知・岐阜・三重 2019特別版」でミシュランプレートに選ばれています。
因みに、天然鮎は育った川で「ハラワタ」の味が違うそうです。スイカや抹茶の香りがしたり、甘味や苦味が強かったりするのは、鮎が食べる苔の違いからだそうです。 -
旧櫻井銘木店店舗兼主屋
手前から3軒目が旧櫻井銘木店です。右隣は日本料理「かわらまち 花ざくろ」です。
主屋は、間口7.9mの切妻造、桟瓦葺、木造2階建、その背面には居室や台所などの2階屋土蔵を付設しています。正面は下屋が引違い戸の開口を設け、東寄りを連子格子窓としています。上屋は連子格子窓に黒漆喰壁とし、袖壁うだつを付けた伝統的な町家の表構えです。
因みに手前の家屋の角に置かれた石は、京都で言う「いけず石」のようなものかもしれません。京言葉「いけず」は「意地悪」という意味です。こう呼ばれ始めたキッカケには諸説ありますが、大八車や自動車が角を曲がる際に家屋との接触を防ぐため、「気を付けて通っておくれやす」という意味で置かれたものとされます。
正直な所、ドライバーにとっては邪魔物でしかないと思われますが、こうしたもののお陰で現在の景観が保たれているのかもしれません。 -
(株)櫻井銘木店
旧櫻井銘木店の向い側に佇みます。
創業130年以上の経験と実績を誇る銘木店です。
岐阜は国内有数の銘木取引量で知られており、ここは国産材を中心に銘木を扱う老舗店舗です。 -
文化屋
川原町通りからい一筋入った所にあります。
戦後すぐに建てられた日本家屋をリノベーションした、フレンチをベースにした創作会席を提供される隠れ家的なレストランです。 -
文化屋
落ち着いた雰囲気と窓から見える長良川の景色や料理が大好評で、いつも予約でいっぱいのお店です。 -
文化屋
黒塀に設けられた丸いディスプレイも半端ではありません。 -
いとう旅館
旧いとう旅館は1946(昭和21)年に建立され、その後増築された木造2階建の建物です。庭園から長良川鵜飼が見物できることから皇族の高松宮ご夫妻や政治家なども利用されたそうです。また岐阜を舞台にした小説『白い魔魚』を舟橋聖一氏が執筆した「桜の間」が知られており、小説の舞台ともなった由緒ある旅館でした。
しかし旅館は2代目女将の遺書により岐阜市に寄贈され、活用方法の公募により1棟貸しの宿泊施設になってリニューアルオープンしました。リニューアルした施設は木造2階建の2棟(東棟:燕。、西棟:鶯)です。最大5人と最大7人が宿泊できます。旧いとう旅館の柱や梁、塀の他、板をスライドして室内に風や光を取り入れる「無双窓」や美しい木目の天板を並べた「竿縁天井」などはリユースし、歴史の面影が息づいています。しかしかつての旧いとう旅館の写真と見比べると、その変貌ぶりには思わずため息が漏れます。
この辺りは眺めがよく閑静だったため、戦後この道沿いに大竹や芭蕉園、いとうなどの料理旅館ができたそうです 。 -
ロボット水門
1932(昭和7)年、鏡岩から元浜町に至る新しい導水路が忠節用水に直結された際、水防・放水量調節のために造られた、高さ9.5m、幅5.7mのユニークな形をした水門です。1992年の改修時に頂部に白い円錐(角)が加えられ、元々あった丸い窓や(目)四角い窓(口)と共にロボットを彷彿とさせる愛嬌のある外観となり、「ロボット水門」と呼ばれるようになりました。
岐阜県近代化遺産の指定も受けています。 -
ロボット水門
ベースは鉄筋コンクリート構造物ですが、上部は外壁煉瓦造でロボットの顔を彷彿とさせます。正式名称は「忠節用水分水樋門」と言い、長良川から岐阜市内へ送水する役割の忠節用水の水量調整するものです。尚、頂部にある円錐は屋根から突き出しているシャフトを覆うカバーです。従来のワイヤ吊り下げ方式から上下に貫通するシャフトを用いてゲートを開閉する構造に変更したため、このカバーの設置でロボットに角があるような外観になりました。
この続きは美濃国 岐阜紀行③岐阜城登城でお届けいたします。
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