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岐阜城は、織田信長が「天下布武」の朱印を用いるようになり、天下統一を目指すようになった難攻不落の城として知られています。山容の峻険さにより、守り易く攻め難いことから「美濃を制するものは天下を制す」という言葉ができたほどです。<br />元々は美濃国 井の口の稲葉山(現 金華山)にあった山城であり、信長が城主になるまでは稲葉山城と呼ばれ、その歴史は鎌倉時代にまで遡ります。戦国武将 斎藤道三により本格的に整備され、信長が1567年の稲葉山城の戦いで斎藤龍興から奪取し、本拠地を小牧城から移し、かつての道三の縄張りを破却して新たに造営して岐阜城と命名しました。<br />尚、近年の調査により岐阜城の価値が見直され、2011年に山頂の城跡および山麓の信長居館跡を含めた金華山一帯の約209haが国の史跡に指定されています。

桐葉知秋 美濃紀行③岐阜城登城

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2023/10/21 - 2023/10/22

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

岐阜城は、織田信長が「天下布武」の朱印を用いるようになり、天下統一を目指すようになった難攻不落の城として知られています。山容の峻険さにより、守り易く攻め難いことから「美濃を制するものは天下を制す」という言葉ができたほどです。
元々は美濃国 井の口の稲葉山(現 金華山)にあった山城であり、信長が城主になるまでは稲葉山城と呼ばれ、その歴史は鎌倉時代にまで遡ります。戦国武将 斎藤道三により本格的に整備され、信長が1567年の稲葉山城の戦いで斎藤龍興から奪取し、本拠地を小牧城から移し、かつての道三の縄張りを破却して新たに造営して岐阜城と命名しました。
尚、近年の調査により岐阜城の価値が見直され、2011年に山頂の城跡および山麓の信長居館跡を含めた金華山一帯の約209haが国の史跡に指定されています。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
  • 岐阜城周辺マップ<br />翌日利用した「ぎふ金華山ロープウェー」でいただいたリーフレットに判り易いマップがありましたのでスキャン画像を貼り付けておきます。<br />「百曲がり登山コース」の登山口はマップの番号では⑩周辺になり、名和昆虫博物館の近くです。

    岐阜城周辺マップ
    翌日利用した「ぎふ金華山ロープウェー」でいただいたリーフレットに判り易いマップがありましたのでスキャン画像を貼り付けておきます。
    「百曲がり登山コース」の登山口はマップの番号では⑩周辺になり、名和昆虫博物館の近くです。

  • 金華山 百曲がり登山コース(搦手道)<br />岐阜城は、金華山(標高329m)の頂に建立されているため、ロープウェイを利用するか、登山ルートを登って登城します。時間的に余裕があったので、久々に苦行を強いてみようと思い立った次第です。<br />金華山登山コースには代表的なものとして「七曲がりコース」や「百曲がりコース」、「馬の背コース」、「めい想の小径コース」などがありますが、往路は中級向けの「百曲がりコース」をチョイスしました。<br />名和昆虫博物館の近隣にあるトイレの所から表通りに入ると直ぐにこうした道標があります。ここを道標に従って左折します。

    金華山 百曲がり登山コース(搦手道)
    岐阜城は、金華山(標高329m)の頂に建立されているため、ロープウェイを利用するか、登山ルートを登って登城します。時間的に余裕があったので、久々に苦行を強いてみようと思い立った次第です。
    金華山登山コースには代表的なものとして「七曲がりコース」や「百曲がりコース」、「馬の背コース」、「めい想の小径コース」などがありますが、往路は中級向けの「百曲がりコース」をチョイスしました。
    名和昆虫博物館の近隣にあるトイレの所から表通りに入ると直ぐにこうした道標があります。ここを道標に従って左折します。

  • 金華山 百曲がり登山コース<br />舗装された坂道の途中に「百曲がりコース」の登山口があります。<br />禅林寺裏手から金華山の西尾根を登って山頂へ至る登山道で、尾根を登るため比較的険しいルートです。<br />距離が1100mと短く、海抜18mの登り口から標高329mの山頂まで一気に登るため、急勾配が連続する中級者向けです。性質的には「七曲がりコース」が「大手道」に対し、「搦手道」と言えます。<br />ロープウェイ山上駅まで25分ほどの登りです。

    金華山 百曲がり登山コース
    舗装された坂道の途中に「百曲がりコース」の登山口があります。
    禅林寺裏手から金華山の西尾根を登って山頂へ至る登山道で、尾根を登るため比較的険しいルートです。
    距離が1100mと短く、海抜18mの登り口から標高329mの山頂まで一気に登るため、急勾配が連続する中級者向けです。性質的には「七曲がりコース」が「大手道」に対し、「搦手道」と言えます。
    ロープウェイ山上駅まで25分ほどの登りです。

  • 金華山 百曲がり登山コース<br />暫くはこうした比較的整備された階段状の道を登ります。<br />この辺りはアラカシの低木が多く生息し、秋になるとパラパラとドングリが落ちてきます。<br />静謐な空間にドングリが落ちると、その音が異常に大きく反響し、熊でも出没したのかと思いびくつくほどです。因みに金華山にはツキノワグマはいません。途中、「イノシシに注意!」の立札はありましたが…。

    金華山 百曲がり登山コース
    暫くはこうした比較的整備された階段状の道を登ります。
    この辺りはアラカシの低木が多く生息し、秋になるとパラパラとドングリが落ちてきます。
    静謐な空間にドングリが落ちると、その音が異常に大きく反響し、熊でも出没したのかと思いびくつくほどです。因みに金華山にはツキノワグマはいません。途中、「イノシシに注意!」の立札はありましたが…。

  • 金華山 百曲がり登山コース<br />中腹からは細かい九十九折の道が連続し、登山道にもチャート岩盤の露出が顕著になります。<br />「金華山は一石山」と言われるように、巨大なチャートという固い岩塊で形成されているため表層面の土壌層が薄く、雨が降ると直ぐに洗い流されてしまうそうです。

    金華山 百曲がり登山コース
    中腹からは細かい九十九折の道が連続し、登山道にもチャート岩盤の露出が顕著になります。
    「金華山は一石山」と言われるように、巨大なチャートという固い岩塊で形成されているため表層面の土壌層が薄く、雨が降ると直ぐに洗い流されてしまうそうです。

  • 金華山 百曲がり登山コース<br />岩盤をトラバースするコース中最大の難所に差し掛かりますが、現在はこのように木製階段が設けられており、難なくスルーできます。

    金華山 百曲がり登山コース
    岩盤をトラバースするコース中最大の難所に差し掛かりますが、現在はこのように木製階段が設けられており、難なくスルーできます。

  • 金華山 百曲がり登山コース<br />雨が振ると表層の土が洗い流されてしまうため、樹木は根を張ることができません。それ故、このように根で岩を抱えたり、岩に張り付いたりして逞しく生息しています。<br />

    金華山 百曲がり登山コース
    雨が振ると表層の土が洗い流されてしまうため、樹木は根を張ることができません。それ故、このように根で岩を抱えたり、岩に張り付いたりして逞しく生息しています。

  • 金華山 百曲がり登山コース<br />岩盤にはうまい具合にスタンスができており、四つん這いになることはありません。しかし浅いフットホールドも多々あり、途中、足の指がつってしまいました。靴底の厚いトレッキングシューズではなく、ウォーキングシューズを履いてきたのを後悔しましたが、後の祭りです。

    金華山 百曲がり登山コース
    岩盤にはうまい具合にスタンスができており、四つん這いになることはありません。しかし浅いフットホールドも多々あり、途中、足の指がつってしまいました。靴底の厚いトレッキングシューズではなく、ウォーキングシューズを履いてきたのを後悔しましたが、後の祭りです。

  • 金華山リス村<br />登山道最後の木製階段を昇り詰めると、ロープウェイ山上駅の前に出ます。<br />そのお隣にあるのが「リス村」です。<br />かつて煙硝蔵が建っていた曲輪に設けられています。ロープウェー山頂駅の横手にあり、直接リスたちと触れ合える人気観光スポットです。<br />実は金華山にはリスが数多く生息しています。1936(昭和11)年に岐阜公園で開催された「躍進日本大博覧会」の見せ物として持ち込まれたタイワンリスが集団で脱走し、野生化したためです。野生化したリスを捕獲して調教し、1965(昭和40)年に日本初のリス園として開村しました。

    金華山リス村
    登山道最後の木製階段を昇り詰めると、ロープウェイ山上駅の前に出ます。
    そのお隣にあるのが「リス村」です。
    かつて煙硝蔵が建っていた曲輪に設けられています。ロープウェー山頂駅の横手にあり、直接リスたちと触れ合える人気観光スポットです。
    実は金華山にはリスが数多く生息しています。1936(昭和11)年に岐阜公園で開催された「躍進日本大博覧会」の見せ物として持ち込まれたタイワンリスが集団で脱走し、野生化したためです。野生化したリスを捕獲して調教し、1965(昭和40)年に日本初のリス園として開村しました。

  • 天下第一の門(モニュメント)<br />ロープウェイ山頂駅のすぐ先にあるのが冠木門です。<br />「天下第一の門」と呼ばれ、説明書によると「信長の大志を讃えてここに冠木門を建て偉業を伝える」とあります。ここは三の丸に当たり、かつては巨石を道沿いに立て並べて石壁としてた所です。<br />左手に見える急勾配の階段は復路に降りてきます。階上は今は展望レストラン『ポンシェル』になっていますが、往時は太鼓櫓がありました。門で敵の前進を食い止め、頭上にある太鼓櫓から総攻撃を仕掛けるという連携プレーは重要な防御ポイントのひとつです。

    天下第一の門(モニュメント)
    ロープウェイ山頂駅のすぐ先にあるのが冠木門です。
    「天下第一の門」と呼ばれ、説明書によると「信長の大志を讃えてここに冠木門を建て偉業を伝える」とあります。ここは三の丸に当たり、かつては巨石を道沿いに立て並べて石壁としてた所です。
    左手に見える急勾配の階段は復路に降りてきます。階上は今は展望レストラン『ポンシェル』になっていますが、往時は太鼓櫓がありました。門で敵の前進を食い止め、頭上にある太鼓櫓から総攻撃を仕掛けるという連携プレーは重要な防御ポイントのひとつです。

  • 天下第一の門<br />ここでの見所はこの風変わりな縦縞紋様が入った岩盤です。<br />日本に地震を数多く引き起こしている要因のひとつである断層跡です。地下深くにあったものが地殻変動で隆起して表層に押し出されてきたチャートで、昔は火打石に使われた硬い岩石です。<br />金華山のチャートは放散虫化石の種類から古生代のペルム紀後期から中生代の三畳紀中期にかけての時期 (約2億6千万~約2億3千万年前) にできたことが判っています。

    天下第一の門
    ここでの見所はこの風変わりな縦縞紋様が入った岩盤です。
    日本に地震を数多く引き起こしている要因のひとつである断層跡です。地下深くにあったものが地殻変動で隆起して表層に押し出されてきたチャートで、昔は火打石に使われた硬い岩石です。
    金華山のチャートは放散虫化石の種類から古生代のペルム紀後期から中生代の三畳紀中期にかけての時期 (約2億6千万~約2億3千万年前) にできたことが判っています。

  • 一ノ門跡<br />3つ並ぶ巨岩の真ん中の岩の辺りに一ノ門が建っていたそうです。<br />以前は信長が造立した門とされていましたが、2021年の発掘調査により構造が美濃守護 土岐氏の居城 大桑(おおが)城の岩門と酷似しているのが判明し、かつて土岐氏に仕えていた斎藤道三が稲葉山城を改修する際、大桑城の岩門を参考にして造立した門と考えられています。<br />関ヶ原の合戦の際、この先にある上格子門との間で西軍 織田信秀と東軍 福島正則らとの激しい銃撃戦が繰り広げられたと伝わります。

    一ノ門跡
    3つ並ぶ巨岩の真ん中の岩の辺りに一ノ門が建っていたそうです。
    以前は信長が造立した門とされていましたが、2021年の発掘調査により構造が美濃守護 土岐氏の居城 大桑(おおが)城の岩門と酷似しているのが判明し、かつて土岐氏に仕えていた斎藤道三が稲葉山城を改修する際、大桑城の岩門を参考にして造立した門と考えられています。
    関ヶ原の合戦の際、この先にある上格子門との間で西軍 織田信秀と東軍 福島正則らとの激しい銃撃戦が繰り広げられたと伝わります。

  • 馬場跡<br />城に詰めていた将兵が馬を繋いでいた場所、あるいは乗馬の訓練をした場所とされます。しかし一説には、「馬場」ではなく「矢場」とする説もあるようです。こんな山の上までどうやって馬を連れて来たのかと思うと、後者が正しいような…。<br />岐阜城の郭内では唯一の平坦な土地であり、上格子門から幅3間(約5.4m)、長さ30間(約54m)ほどのスペースがあったそうです。<br />脇には掲示板があり、歴代城主に関する解説がなされています。

    馬場跡
    城に詰めていた将兵が馬を繋いでいた場所、あるいは乗馬の訓練をした場所とされます。しかし一説には、「馬場」ではなく「矢場」とする説もあるようです。こんな山の上までどうやって馬を連れて来たのかと思うと、後者が正しいような…。
    岐阜城の郭内では唯一の平坦な土地であり、上格子門から幅3間(約5.4m)、長さ30間(約54m)ほどのスペースがあったそうです。
    脇には掲示板があり、歴代城主に関する解説がなされています。

  • 堀切(切通)<br />馬場跡を過ぎると左手に堀切が見えてきます。<br />朱色の松風橋が架かっている場所が堀切跡です。七間櫓(左)と二の丸(右)の間は堀切が尾根を遮断しており、そこに松風橋を架けています。<br />堀切の一部はコンクリートで補強されていますが、高さは2~3m程あります。<br />堀切は岩盤を掘削した竪堀のようなもので、普段は両端に橋を架け、有事には橋を破壊して敵の侵入を食い止める防衛手段のひとつです。彦根城にも同様の思想の橋が架けられています。

    堀切(切通)
    馬場跡を過ぎると左手に堀切が見えてきます。
    朱色の松風橋が架かっている場所が堀切跡です。七間櫓(左)と二の丸(右)の間は堀切が尾根を遮断しており、そこに松風橋を架けています。
    堀切の一部はコンクリートで補強されていますが、高さは2~3m程あります。
    堀切は岩盤を掘削した竪堀のようなもので、普段は両端に橋を架け、有事には橋を破壊して敵の侵入を食い止める防衛手段のひとつです。彦根城にも同様の思想の橋が架けられています。

  • 千成瓢箪発祥の地(刀利天狗の祠)<br />一ノ門と二ノ門の間にある高台には「千成瓢箪発祥の地」とされる場所があります。石段が崩れ易いのか、現在は立ち入り禁止になっています。<br />ここは織田信長が稲葉山城を攻め落とした際、尖兵を務めた木下藤吉郎が潜入に成功した場所とされ、後に秀吉の馬印として使われることになる「千成瓢箪」が生まれた場所です。<br />1567(永禄10)年、藤吉郎は蜂須賀小六や山麓の猟師堀尾茂助など僅か7名を従え、岩戸口から稲葉山城のここまで潜入し、薪小屋に火を放って手柄をたてたと伝えます。この時、藤吉郎は城兵を倒した鎗先に腰から下げていた瓢箪を結び付け、天狗岩にて鎗を振り回しながら勝鬨を上げたそうです。現在は刀利天狗の祠が佇みます。<br />尚、このエピソードは墨俣一夜城と同様に江戸時代以降の創作とされ、信憑性は低いとされます。因みに秀吉が稲葉山城に潜入する様子は、幕末から明治時代前期にかけて活動した浮世絵師 月岡芳年による浮世絵連作『月百姿』の一枚に描かれています。

    千成瓢箪発祥の地(刀利天狗の祠)
    一ノ門と二ノ門の間にある高台には「千成瓢箪発祥の地」とされる場所があります。石段が崩れ易いのか、現在は立ち入り禁止になっています。
    ここは織田信長が稲葉山城を攻め落とした際、尖兵を務めた木下藤吉郎が潜入に成功した場所とされ、後に秀吉の馬印として使われることになる「千成瓢箪」が生まれた場所です。
    1567(永禄10)年、藤吉郎は蜂須賀小六や山麓の猟師堀尾茂助など僅か7名を従え、岩戸口から稲葉山城のここまで潜入し、薪小屋に火を放って手柄をたてたと伝えます。この時、藤吉郎は城兵を倒した鎗先に腰から下げていた瓢箪を結び付け、天狗岩にて鎗を振り回しながら勝鬨を上げたそうです。現在は刀利天狗の祠が佇みます。
    尚、このエピソードは墨俣一夜城と同様に江戸時代以降の創作とされ、信憑性は低いとされます。因みに秀吉が稲葉山城に潜入する様子は、幕末から明治時代前期にかけて活動した浮世絵師 月岡芳年による浮世絵連作『月百姿』の一枚に描かれています。

  • 千成瓢箪発祥の地(刀利天狗の祠)<br />戦国時代には難攻不落の砦としての軍事拠点であり、木下藤吉郎が織田信長の命令で無血クーデターで手に入れるだけの価値がある場所でした。<br />それをネタに岐阜の観光拠点へと変貌させた現代人にとり、ここはどのような価値のある場所なのでしょうか?

    千成瓢箪発祥の地(刀利天狗の祠)
    戦国時代には難攻不落の砦としての軍事拠点であり、木下藤吉郎が織田信長の命令で無血クーデターで手に入れるだけの価値がある場所でした。
    それをネタに岐阜の観光拠点へと変貌させた現代人にとり、ここはどのような価値のある場所なのでしょうか?

  • 二ノ門跡<br />岐阜城二の丸の入口に建っていたとされる門の遺構です。<br />周囲を石垣で高く積み上げて守りを固め、一ノ門と同じく折れ曲がった枡形虎口としており、門の左右には巨石による石垣があります。説明書によると、門の左右に残る石垣は往時のものだそうです。また、門の先は二の丸となり、下台所と呼ばれていました。<br />冠木門と白壁は1975(昭和50)年に設けられました。白塀には鉄砲狭間が見られます。1600(慶長5)年の関ヶ原合戦の前哨戦となる岐阜城攻防戦ではここが激戦地となりました。その時、門内にあった煙硝蔵に火が着いて大爆発し、夜空を焦がした火災が美濃や尾張国内に岐阜城の落城を知らしめるところとなりました。

    二ノ門跡
    岐阜城二の丸の入口に建っていたとされる門の遺構です。
    周囲を石垣で高く積み上げて守りを固め、一ノ門と同じく折れ曲がった枡形虎口としており、門の左右には巨石による石垣があります。説明書によると、門の左右に残る石垣は往時のものだそうです。また、門の先は二の丸となり、下台所と呼ばれていました。
    冠木門と白壁は1975(昭和50)年に設けられました。白塀には鉄砲狭間が見られます。1600(慶長5)年の関ヶ原合戦の前哨戦となる岐阜城攻防戦ではここが激戦地となりました。その時、門内にあった煙硝蔵に火が着いて大爆発し、夜空を焦がした火災が美濃や尾張国内に岐阜城の落城を知らしめるところとなりました。

  • 金華山 閻魔堂<br />かつては下台所と呼ばれていた地に、木造 閻魔王坐像が納められた閻魔堂が佇みます。<br />閻魔王坐像は、元々は1358(延文3)年に土岐頼康が4代目守護として土岐郡から美濃へ進出し、革手城を築いた際に「居城の鬼門封じ」と「美濃の繁栄」を祈願して川手村の閻魔堂に納めたものと伝えます。<br />土岐家はこの閻魔王に守られて11代も続きました。1600(慶長5)年9月の関ヶ原合戦を機に、この像は土岐家と縁のあった下川手近くの領下に居住した僧職 沢田家によって代々保管されてきました。<br />岐阜城が土岐家の執権 斎藤家を相続した道三の居城であったことから、1976(昭和51)年に沢田家から道三ゆかりの金華山山頂に奉安して岐阜市の守護にと寄進の申し出があり、岐阜市の「鬼門封じ」としてこの地に安置されました。<br />新しい閻魔堂は、建立された室町時代の建築様式に倣い、屋根は金閣寺を模し、正面の火灯窓は竜安寺本堂の裏窓を雛形にしています。<br />因みに閻魔堂のお祭りの1月17日と7月17日以外は開帳されませんが、閻魔王像は福閻魔とも呼ばれ、極彩色で笑みを湛えているそうです。

    金華山 閻魔堂
    かつては下台所と呼ばれていた地に、木造 閻魔王坐像が納められた閻魔堂が佇みます。
    閻魔王坐像は、元々は1358(延文3)年に土岐頼康が4代目守護として土岐郡から美濃へ進出し、革手城を築いた際に「居城の鬼門封じ」と「美濃の繁栄」を祈願して川手村の閻魔堂に納めたものと伝えます。
    土岐家はこの閻魔王に守られて11代も続きました。1600(慶長5)年9月の関ヶ原合戦を機に、この像は土岐家と縁のあった下川手近くの領下に居住した僧職 沢田家によって代々保管されてきました。
    岐阜城が土岐家の執権 斎藤家を相続した道三の居城であったことから、1976(昭和51)年に沢田家から道三ゆかりの金華山山頂に奉安して岐阜市の守護にと寄進の申し出があり、岐阜市の「鬼門封じ」としてこの地に安置されました。
    新しい閻魔堂は、建立された室町時代の建築様式に倣い、屋根は金閣寺を模し、正面の火灯窓は竜安寺本堂の裏窓を雛形にしています。
    因みに閻魔堂のお祭りの1月17日と7月17日以外は開帳されませんが、閻魔王像は福閻魔とも呼ばれ、極彩色で笑みを湛えているそうです。

  • 岐阜城題目塚<br />閻魔堂の対面にあります。<br />この地は、斎藤道三以来、織田信長等の興亡の地として多数の戦没者を出しています。これらの霊を慰めるため、何時の頃か日蓮宗の信徒により、「南無妙法蓮華経」のお題目碑が建てられたそうです。後に大東亜戦争の戦没者を合祀しています。<br />因みに下台所とは、城の兵士などの食事を作っていた場所です。城主など身分の高い人の食事を作る場所は上台所でした。

    岐阜城題目塚
    閻魔堂の対面にあります。
    この地は、斎藤道三以来、織田信長等の興亡の地として多数の戦没者を出しています。これらの霊を慰めるため、何時の頃か日蓮宗の信徒により、「南無妙法蓮華経」のお題目碑が建てられたそうです。後に大東亜戦争の戦没者を合祀しています。
    因みに下台所とは、城の兵士などの食事を作っていた場所です。城主など身分の高い人の食事を作る場所は上台所でした。

  • 下台所<br />馬場跡から二ノ門までの登山道路周辺2箇所で信長時代の石垣が確認され、二ノ門下の二段石垣と呼ばれています。山麓居館の石垣と共通する80cm前後のサイズの石や間詰石を多用した構造から、岐阜市教育委員会信長時代のものと比定しています。<br />この石垣は基底部から4段分が残されており、高さ1.5m、長さ4.8m、西端で北側に曲がるL字状の石垣で、東側は岩盤に貼り付いています。江戸時代前期に書かれた絵図『稲葉城趾之図』にある石垣と合致しており、絵図に描かれた他の石垣がまだ埋まっている可能性があるようです。

    下台所
    馬場跡から二ノ門までの登山道路周辺2箇所で信長時代の石垣が確認され、二ノ門下の二段石垣と呼ばれています。山麓居館の石垣と共通する80cm前後のサイズの石や間詰石を多用した構造から、岐阜市教育委員会信長時代のものと比定しています。
    この石垣は基底部から4段分が残されており、高さ1.5m、長さ4.8m、西端で北側に曲がるL字状の石垣で、東側は岩盤に貼り付いています。江戸時代前期に書かれた絵図『稲葉城趾之図』にある石垣と合致しており、絵図に描かれた他の石垣がまだ埋まっている可能性があるようです。

  • 下台所<br />天守付近でも信長時代の天守台の石垣が発見されています。岐阜城は信長が後に築城した安土城で完成したとされる天守の原形とも考えられており、もし信長時代のものであれば天守台としては最古となり、その上の建物も最古の天守となります。<br />岐阜城に移る前の信長の居城は小牧山城でしたが、石垣は発見されていますが瓦は見つかっておらず、天守的な建物の存在は認められていません。現在は安土城から「城(天守)」が始まったとするのが定説ですが、歴史が覆るかもしれません。

    下台所
    天守付近でも信長時代の天守台の石垣が発見されています。岐阜城は信長が後に築城した安土城で完成したとされる天守の原形とも考えられており、もし信長時代のものであれば天守台としては最古となり、その上の建物も最古の天守となります。
    岐阜城に移る前の信長の居城は小牧山城でしたが、石垣は発見されていますが瓦は見つかっておらず、天守的な建物の存在は認められていません。現在は安土城から「城(天守)」が始まったとするのが定説ですが、歴史が覆るかもしれません。

  • 金銘水(軍用井戸)<br />天守の手前にある脇道を左へ少し降りた二の丸に「金銘水」と呼ばれる岩盤を四角形にくり抜いた軍用井戸があります。水が湧いている井戸ではなく、雨水を貯める貯水器のような役割を果たしていたものです。<br />濃尾平野の北端に独立して聳える金華山は、かつて「一石山」と呼ばれ、全山がひとつのチャート岩盤で成り立っています。山頂に天守をはじめ多くの櫓や蔵、郭を構え、番兵を配した要害堅固な岐阜城でしたが、籠城に備えた飲料水の確保は困難を極めました。固いチャート岩盤ゆえ湧水は一滴もないため、雨水と岩の間から僅かに滲み出てくる水を溜める井戸を岩盤に掘削したものです。<br />二の丸を挟んで西側に3ヶ所、東側に1ヶ所の同様の井戸が確認されています。

    金銘水(軍用井戸)
    天守の手前にある脇道を左へ少し降りた二の丸に「金銘水」と呼ばれる岩盤を四角形にくり抜いた軍用井戸があります。水が湧いている井戸ではなく、雨水を貯める貯水器のような役割を果たしていたものです。
    濃尾平野の北端に独立して聳える金華山は、かつて「一石山」と呼ばれ、全山がひとつのチャート岩盤で成り立っています。山頂に天守をはじめ多くの櫓や蔵、郭を構え、番兵を配した要害堅固な岐阜城でしたが、籠城に備えた飲料水の確保は困難を極めました。固いチャート岩盤ゆえ湧水は一滴もないため、雨水と岩の間から僅かに滲み出てくる水を溜める井戸を岩盤に掘削したものです。
    二の丸を挟んで西側に3ヶ所、東側に1ヶ所の同様の井戸が確認されています。

  • 天守<br />岐阜城の原型となる砦が築かれたのは鎌倉時代の1201(建仁元)年。幕府の文官 二階堂行政が築きました。その後、佐藤(藤原)朝光が入城し、次に朝光の次男 伊賀光宗→三男 稲葉光資と入り、この稲葉の氏から「稲葉山城」と命名されました。<br />その後、稲葉山城は廃城と築城を繰り返し、1538(天文7)年に「美濃の蝮」の異名を持つ斎藤道三が美濃守護を追い払い、稲葉山城を大改修して城下町を繁栄させ、美濃を統治して一大勢力を築き上げました。<br />1567(永禄10)年、斎藤龍興の代に往時33歳だった織田信長に攻められて落城。1576(天正4)年に信長が安土城を築くまで、名称を「岐阜城」と改めて天下布武の本拠地となりました。<br />「岐」は「周の文王が岐山より起こり、天下を定む」という中国の故事に因み、「阜」は孔子の生誕地「曲阜」から太平と学問の地となるようにという願いに由来するという説などがあります。

    天守
    岐阜城の原型となる砦が築かれたのは鎌倉時代の1201(建仁元)年。幕府の文官 二階堂行政が築きました。その後、佐藤(藤原)朝光が入城し、次に朝光の次男 伊賀光宗→三男 稲葉光資と入り、この稲葉の氏から「稲葉山城」と命名されました。
    その後、稲葉山城は廃城と築城を繰り返し、1538(天文7)年に「美濃の蝮」の異名を持つ斎藤道三が美濃守護を追い払い、稲葉山城を大改修して城下町を繁栄させ、美濃を統治して一大勢力を築き上げました。
    1567(永禄10)年、斎藤龍興の代に往時33歳だった織田信長に攻められて落城。1576(天正4)年に信長が安土城を築くまで、名称を「岐阜城」と改めて天下布武の本拠地となりました。
    「岐」は「周の文王が岐山より起こり、天下を定む」という中国の故事に因み、「阜」は孔子の生誕地「曲阜」から太平と学問の地となるようにという願いに由来するという説などがあります。

  • 天守<br />『信長公記』には「尾張国小真木山より濃州稲葉山へ御越しなり。井口と申すを今度改めて、岐阜と名付けさせられ」と記され、ここから天下統一を目指すという意味を込め、信長が山頂にある城や麓にある城下町の名を「井口」から「岐阜」へと改名したことにより「岐阜城」と呼ばれるようになりました。また、「稲葉山」は「金華山」に改められました。一説には、尾張政秀寺(小牧市)の沢彦宗恩(たくげんそうおん)に案を作らせたもので、古代中国の周王朝が「岐山」より天下を平定した故事に因むとしています。天下統一の野望を抱いた信長は、城下町の繫栄にも注力し、現在の岐阜市の基盤を造り上げました。<br />城主は、織田信長→信忠→信孝→池田元助→輝政→豊臣秀勝→織田秀信と変遷し、秀信は石田三成の挙兵に呼応して西軍に与し、関ヶ原合戦の前哨戦の岐阜城の戦い(1600年)で東軍の池田輝政や福島正則らに攻められ落城。翌年徳川家康によって岐阜城は廃城の憂き目に遭いました。岐阜城の資材の多くは加納城に転用されています。信長時代には3~5層の天守があったとされ、これも加納城の隅櫓に転用されたようです。

    天守
    『信長公記』には「尾張国小真木山より濃州稲葉山へ御越しなり。井口と申すを今度改めて、岐阜と名付けさせられ」と記され、ここから天下統一を目指すという意味を込め、信長が山頂にある城や麓にある城下町の名を「井口」から「岐阜」へと改名したことにより「岐阜城」と呼ばれるようになりました。また、「稲葉山」は「金華山」に改められました。一説には、尾張政秀寺(小牧市)の沢彦宗恩(たくげんそうおん)に案を作らせたもので、古代中国の周王朝が「岐山」より天下を平定した故事に因むとしています。天下統一の野望を抱いた信長は、城下町の繫栄にも注力し、現在の岐阜市の基盤を造り上げました。
    城主は、織田信長→信忠→信孝→池田元助→輝政→豊臣秀勝→織田秀信と変遷し、秀信は石田三成の挙兵に呼応して西軍に与し、関ヶ原合戦の前哨戦の岐阜城の戦い(1600年)で東軍の池田輝政や福島正則らに攻められ落城。翌年徳川家康によって岐阜城は廃城の憂き目に遭いました。岐阜城の資材の多くは加納城に転用されています。信長時代には3~5層の天守があったとされ、これも加納城の隅櫓に転用されたようです。

  • 天守<br />天守の石垣は、算木積みを彷彿とさせる積み方が見られることから、信長期よりも後に積まれたものとされています。<br />岐阜城は急峻な山容の金華山からして「難攻不落の名城」と謳われますが、実は内部からの裏切り行為(竹中半兵衛重治)や籠城時に兵力が不足した(賤ヶ岳、関ヶ原合戦の前哨戦)などの理由で歴史上5回も落城するという憂き目に遭っています。<br />山頂部は痩せ尾根を切り開いて石垣で郭を造成していますが、平坦部は猫の額ほどしかありません。また地盤が固いチャート岩盤ゆえ、井戸を掘っても水は湧かず、雨水を貯める方式で賄ったようです。狭い曲輪、かつ水の確保が難しいことから籠城には不向きであるのは自明です。<br />しかし岐阜城の価値は、要害という側面ではなく、濃尾平野を一望、また長良川を管制できる点にあります。岐阜城は小牧城や安土城と同様に城下町を見下ろす景観に優れます。道三時代までは戦国時代の典型的な詰城でしたが、信長入城からは城主の居住空間となり、威厳や権威を誇示する「魅せる城」に変わったと言われます。信長時代、山頂部には信長の家族や人質が暮らしていたことが1569(永禄12)年に訪れた宣教師ルイス・フロイスの書簡からも窺えます。

    天守
    天守の石垣は、算木積みを彷彿とさせる積み方が見られることから、信長期よりも後に積まれたものとされています。
    岐阜城は急峻な山容の金華山からして「難攻不落の名城」と謳われますが、実は内部からの裏切り行為(竹中半兵衛重治)や籠城時に兵力が不足した(賤ヶ岳、関ヶ原合戦の前哨戦)などの理由で歴史上5回も落城するという憂き目に遭っています。
    山頂部は痩せ尾根を切り開いて石垣で郭を造成していますが、平坦部は猫の額ほどしかありません。また地盤が固いチャート岩盤ゆえ、井戸を掘っても水は湧かず、雨水を貯める方式で賄ったようです。狭い曲輪、かつ水の確保が難しいことから籠城には不向きであるのは自明です。
    しかし岐阜城の価値は、要害という側面ではなく、濃尾平野を一望、また長良川を管制できる点にあります。岐阜城は小牧城や安土城と同様に城下町を見下ろす景観に優れます。道三時代までは戦国時代の典型的な詰城でしたが、信長入城からは城主の居住空間となり、威厳や権威を誇示する「魅せる城」に変わったと言われます。信長時代、山頂部には信長の家族や人質が暮らしていたことが1569(永禄12)年に訪れた宣教師ルイス・フロイスの書簡からも窺えます。

  • 天守1階<br />それでは城内に潜入しましょう。<br />3階までが史料展示室コーナーとなっています。<br />左側の「打掛」は、NHK大河ドラマ『信長 KING OF ZIPANGU』(1992年)で、濃姫役の菊池桃子さんが着用した衣装です。<br />右側はJR岐阜駅 北口に建立された「黄金の信長像」のミニチュア版です。

    天守1階
    それでは城内に潜入しましょう。
    3階までが史料展示室コーナーとなっています。
    左側の「打掛」は、NHK大河ドラマ『信長 KING OF ZIPANGU』(1992年)で、濃姫役の菊池桃子さんが着用した衣装です。
    右側はJR岐阜駅 北口に建立された「黄金の信長像」のミニチュア版です。

  • 天守1階<br />天目茶碗(レプリカ):説明はありませんが、信長が斎藤氏の居城 稲葉山城を攻略した際に火災が発生しており、その時に焼けたと思しき陶磁器などが出土しています。陶磁器には中国製の天目茶碗や花瓶などがあり、斎藤氏の権力の高さが窺えます。<br />安土桃山時代の青貝入黒漆塗鞍:螺鈿細工を施した鞍のようです。<br />武田信玄の使者 秋山伯耆守や京都の公家 山科言継、堺の茶人・商人 津田宗及、フロイスなどは山上にも招かれ、軍事施設である城内の見学をしたようです。豪華な座敷では音楽を聴き、お茶や食事を味わったそうですが、その際も信長が膳を運んだり、給仕を行ったと記しています。これぞ「信長流のおもてなし」です。<br />そして濃尾平野を一望する山上からの絶景は昔も今も大きな見所です。言継は「険難の風景、言語に説くべからず」とその感想を記したほどです。

    天守1階
    天目茶碗(レプリカ):説明はありませんが、信長が斎藤氏の居城 稲葉山城を攻略した際に火災が発生しており、その時に焼けたと思しき陶磁器などが出土しています。陶磁器には中国製の天目茶碗や花瓶などがあり、斎藤氏の権力の高さが窺えます。
    安土桃山時代の青貝入黒漆塗鞍:螺鈿細工を施した鞍のようです。
    武田信玄の使者 秋山伯耆守や京都の公家 山科言継、堺の茶人・商人 津田宗及、フロイスなどは山上にも招かれ、軍事施設である城内の見学をしたようです。豪華な座敷では音楽を聴き、お茶や食事を味わったそうですが、その際も信長が膳を運んだり、給仕を行ったと記しています。これぞ「信長流のおもてなし」です。
    そして濃尾平野を一望する山上からの絶景は昔も今も大きな見所です。言継は「険難の風景、言語に説くべからず」とその感想を記したほどです。

  • 天守2階<br />山麓にあったとされる信長居館跡の復元CGのパネルです。<br />巨大な石垣の上に華麗な建築物が並び、宣教師ルイス・フロイスは「京都の金閣寺を凌ぐ」と絶賛したそうです。

    天守2階
    山麓にあったとされる信長居館跡の復元CGのパネルです。
    巨大な石垣の上に華麗な建築物が並び、宣教師ルイス・フロイスは「京都の金閣寺を凌ぐ」と絶賛したそうです。

  • 天守2階 金箔の飾瓦(レプリカ)<br />上段は、2012年に信長居館跡地から発掘された、菊と牡丹を象った金箔飾瓦です。この発見は今までの歴史を覆しました。それまでは金箔飾瓦を最初に使用したのは安土城と考えられていましたが、岐阜城が先駆けだったことが判明したのです。また、信長は濃姫のために金箔瓦の御殿を建てたと伝えられており、その裏付けとなる可能性があるそうです。因みに牡丹瓦は、花びらを一枚づつ作ってそれを貼り付けています。<br />下段の左は戦国時代にポルトガルから伝来した遠眼鏡(望遠鏡)です。<br />それまでは城の物見台から肉眼を凝らして敵を監視していた時代でしたから、この遠眼鏡を始めて使った人はいたく感激したことでしょう。<br />右下は「天下布武」の朱印です。

    天守2階 金箔の飾瓦(レプリカ)
    上段は、2012年に信長居館跡地から発掘された、菊と牡丹を象った金箔飾瓦です。この発見は今までの歴史を覆しました。それまでは金箔飾瓦を最初に使用したのは安土城と考えられていましたが、岐阜城が先駆けだったことが判明したのです。また、信長は濃姫のために金箔瓦の御殿を建てたと伝えられており、その裏付けとなる可能性があるそうです。因みに牡丹瓦は、花びらを一枚づつ作ってそれを貼り付けています。
    下段の左は戦国時代にポルトガルから伝来した遠眼鏡(望遠鏡)です。
    それまでは城の物見台から肉眼を凝らして敵を監視していた時代でしたから、この遠眼鏡を始めて使った人はいたく感激したことでしょう。
    右下は「天下布武」の朱印です。

  • 天守3階 織田信長坐像(複製)<br />京都 総見院に安置されている信長像のレプリカです。総見院の特別な厚意により、複製が許されたそうです。この「織田信長坐像」は2体作られており、うち1体は遺骸の代わりに火葬されたそうです。信長の一周忌法要のために秀吉の命で制作されたものですから、容姿は実物にかなり忠実だと思われます。<br />因みに総見院の坐像は、檜材を用いて頭体を別材から造り、頭部は前後2材、躰部は正・背面各3材を中心に数材を寄せて箱状に組んだものです。玉眼嵌入の彩色像で、袍は黒、表袴には白と黒で石畳文の地に五葉の木瓜紋が描かれています。

    天守3階 織田信長坐像(複製)
    京都 総見院に安置されている信長像のレプリカです。総見院の特別な厚意により、複製が許されたそうです。この「織田信長坐像」は2体作られており、うち1体は遺骸の代わりに火葬されたそうです。信長の一周忌法要のために秀吉の命で制作されたものですから、容姿は実物にかなり忠実だと思われます。
    因みに総見院の坐像は、檜材を用いて頭体を別材から造り、頭部は前後2材、躰部は正・背面各3材を中心に数材を寄せて箱状に組んだものです。玉眼嵌入の彩色像で、袍は黒、表袴には白と黒で石畳文の地に五葉の木瓜紋が描かれています。

  • 天守3階 織田信長坐像(複製)<br />束帯に威儀を正した等身大の像です。<br />歴史の教科書で見た覚えがありますが、実物はこんなに大きなものだったことを知りました。

    天守3階 織田信長坐像(複製)
    束帯に威儀を正した等身大の像です。
    歴史の教科書で見た覚えがありますが、実物はこんなに大きなものだったことを知りました。

  • 天守3階 銀箔押南蛮胴具足<br />信長が使用していた鎧兜をイメージして2017年に岐阜城命名450年を記念して、甲冑師 熱田伸道氏が制作されたものです。マントが印象的で、如何にも「南蛮」といった雰囲気を湛えています。<br />怪しく佇む姿はどことなくダース・ベイダーを彷彿とさせるものがあります。<br /><br />教科書に載せられている信長像の原典とされる狩野元秀筆(天正11(1583)年 寄進銘)長興寺(豊田市)所蔵の重文『紙本著色織田信長像』のレプリカも展示されていますが、何故か撮影禁止になっています。

    天守3階 銀箔押南蛮胴具足
    信長が使用していた鎧兜をイメージして2017年に岐阜城命名450年を記念して、甲冑師 熱田伸道氏が制作されたものです。マントが印象的で、如何にも「南蛮」といった雰囲気を湛えています。
    怪しく佇む姿はどことなくダース・ベイダーを彷彿とさせるものがあります。

    教科書に載せられている信長像の原典とされる狩野元秀筆(天正11(1583)年 寄進銘)長興寺(豊田市)所蔵の重文『紙本著色織田信長像』のレプリカも展示されていますが、何故か撮影禁止になっています。

  • 天守3階 京都南蛮礼拝堂の織田信長像(レプリカ)<br />南蛮寺礼拝堂内に描かれていたと考えられている信長の肖像画です。<br />地球儀や絨毯などの渡来品と共に描かれており、背後には聖母マリアの姿も見られます。<br />南蛮寺とは安土桃山時代に建設されたキリスト教教会です。1561(永禄4)年に京都で最初の礼拝堂が建立されましたが、相次ぐ戦乱の中で荒廃しました。<br />その後、入京した信長やキリシタン大名の寄進、更にオルガンティーノやルイス・フロイスを中心とした在京信者らの尽力により1576(天正4)年に新聖堂が落成しました。この聖堂は、往時の教会にしては珍しい和風3階建て(1階は礼拝堂・3階は住居)であり、その特異な外見は伝狩野元秀筆『洛中洛外名所扇面図』に描かれるほどでした。

    天守3階 京都南蛮礼拝堂の織田信長像(レプリカ)
    南蛮寺礼拝堂内に描かれていたと考えられている信長の肖像画です。
    地球儀や絨毯などの渡来品と共に描かれており、背後には聖母マリアの姿も見られます。
    南蛮寺とは安土桃山時代に建設されたキリスト教教会です。1561(永禄4)年に京都で最初の礼拝堂が建立されましたが、相次ぐ戦乱の中で荒廃しました。
    その後、入京した信長やキリシタン大名の寄進、更にオルガンティーノやルイス・フロイスを中心とした在京信者らの尽力により1576(天正4)年に新聖堂が落成しました。この聖堂は、往時の教会にしては珍しい和風3階建て(1階は礼拝堂・3階は住居)であり、その特異な外見は伝狩野元秀筆『洛中洛外名所扇面図』に描かれるほどでした。

  • 望楼の間<br />望楼の間(最上階)の天井には「麒麟」や「龍」がいます。<br />2020年のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』の放映に合わせ、麒麟と龍の絵が描かれた格天井に改修したようです。<br />また、天井中央には十二支の方位盤が施されています 。

    望楼の間
    望楼の間(最上階)の天井には「麒麟」や「龍」がいます。
    2020年のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』の放映に合わせ、麒麟と龍の絵が描かれた格天井に改修したようです。
    また、天井中央には十二支の方位盤が施されています 。

  • 望楼の間<br />一番の贅沢は、最上階の廻縁から眺める360度のパノラマです。<br />岐阜市市街や長良川はもちろん、真っ平の濃尾平野の先には名古屋の高層ビル群まで望めます。<br />また、信長の本拠地だった岐阜攻略の拠点とした小牧山なども見渡せ、まさに天下統一を胸に見下ろした雄大な景色を追体験できます。

    望楼の間
    一番の贅沢は、最上階の廻縁から眺める360度のパノラマです。
    岐阜市市街や長良川はもちろん、真っ平の濃尾平野の先には名古屋の高層ビル群まで望めます。
    また、信長の本拠地だった岐阜攻略の拠点とした小牧山なども見渡せ、まさに天下統一を胸に見下ろした雄大な景色を追体験できます。

  • 望楼の間<br />天守自体の高さは15.15mですが、金華山山頂に建つためその眺めは抜群です。数ある山城の中でも、見られる景色の美しさはかなり上位にランクするのではないでしょうか?<br />まさしく『国盗り物語』気分が満喫でき、天下統一を夢見た道三や信長になったつもりで絶景が愉めます。

    望楼の間
    天守自体の高さは15.15mですが、金華山山頂に建つためその眺めは抜群です。数ある山城の中でも、見られる景色の美しさはかなり上位にランクするのではないでしょうか?
    まさしく『国盗り物語』気分が満喫でき、天下統一を夢見た道三や信長になったつもりで絶景が愉めます。

  • 望楼の間<br />天気の良い日には、日本アルプスや乗鞍岳、木曽御嶽山、伊吹山、養老山脈、鈴鹿山脈などの名高い峰々が望めるはずなのですが…。<br /><br />

    望楼の間
    天気の良い日には、日本アルプスや乗鞍岳、木曽御嶽山、伊吹山、養老山脈、鈴鹿山脈などの名高い峰々が望めるはずなのですが…。

  • 望楼の間<br />中央にあるピラミッド状の山頂に小さく犬山城が見えている気がしますが、気のせいでしょうか?<br />犬山城から岐阜城が見えますから、その逆もありのはずです。

    望楼の間
    中央にあるピラミッド状の山頂に小さく犬山城が見えている気がしますが、気のせいでしょうか?
    犬山城から岐阜城が見えますから、その逆もありのはずです。

  • 望楼の間<br />翌日の登城でリベンジした画像です。<br />軟弱にも多数決によりロープウェイで登城することになりました。<br />左から、木曽御嶽山、乗鞍岳、北アルプスと連なる景色は壮観です。

    望楼の間
    翌日の登城でリベンジした画像です。
    軟弱にも多数決によりロープウェイで登城することになりました。
    左から、木曽御嶽山、乗鞍岳、北アルプスと連なる景色は壮観です。

  • 望楼の間<br />木曽御嶽山は標高3067mの霊峰です。<br />日本の山では14番目に標高が高く、独立峰としては富士山に次ぐ高山です。<br />名の由来は、古くは坐す神を王嶽蔵王権現とし、修験者がこの山に対する尊称として「王御嶽(おうのみたけ)」と称し、「王嶽(おうたけ)」となり、その後「御嶽」に変わったとされています。室町時代の祝詞の記録に「王御嶽」が見られるそうです。

    望楼の間
    木曽御嶽山は標高3067mの霊峰です。
    日本の山では14番目に標高が高く、独立峰としては富士山に次ぐ高山です。
    名の由来は、古くは坐す神を王嶽蔵王権現とし、修験者がこの山に対する尊称として「王御嶽(おうのみたけ)」と称し、「王嶽(おうたけ)」となり、その後「御嶽」に変わったとされています。室町時代の祝詞の記録に「王御嶽」が見られるそうです。

  • 望楼の間<br />望楼の間<br />手前は百々(どど)ヶ峰です。岐阜市の最高峰であり、標高418mあります。金華山とは長良川を挟んで対峙しています。平野高弘著『百々ヶ峰伝説―呪われた岐阜市の最高峰』が上梓されていますが、これは全くのフィクションです。<br />この岐阜城には天守起源説があります。1569(永禄12)年に岐阜城を訪れたルイス・フロイス著『日本史』や公家の山科言継著『言継卿記』に記されるように、2つの天守建築が造営されていたようです。1つは山麓の千畳敷に造られた「天主」と呼ばれる壮大な御殿であり、大入母屋の上に望楼を載せたと想定される4階建の建物です。もう1つは金華山の山頂に造られた高欄廻縁の望楼を伴う建物です。<br />信長が築いた天守は、池田輝政時代に改修された後、岐阜城廃城及び加納城築城のため他の建物と共に加納城 二の丸北東隅櫓「御三階櫓」として移築され、1728(享保13)年の落雷で焼失したと伝承されています。尚、「由緒ある建物ゆえ失念しないうちに」と加納藩大工棟梁家により描かれた古絵図『加納城御三階の図』によると、元々は4層だったものを3層に改修した跡が窺えます。この事から、元々は4層4階、あるいは4層5階だったと推定できます。<br />一方、信長時代の山頂には天守とは呼べない平屋の建物しかなく、信忠時代に天守に匹敵する高層建築が建てられたとの説もあります。しかし、最近の発掘調査で信長時代の物とされる天守台の根石が天守の北西部や南西部で発見され、俄かに騒々しくなってきています。

    望楼の間
    望楼の間
    手前は百々(どど)ヶ峰です。岐阜市の最高峰であり、標高418mあります。金華山とは長良川を挟んで対峙しています。平野高弘著『百々ヶ峰伝説―呪われた岐阜市の最高峰』が上梓されていますが、これは全くのフィクションです。
    この岐阜城には天守起源説があります。1569(永禄12)年に岐阜城を訪れたルイス・フロイス著『日本史』や公家の山科言継著『言継卿記』に記されるように、2つの天守建築が造営されていたようです。1つは山麓の千畳敷に造られた「天主」と呼ばれる壮大な御殿であり、大入母屋の上に望楼を載せたと想定される4階建の建物です。もう1つは金華山の山頂に造られた高欄廻縁の望楼を伴う建物です。
    信長が築いた天守は、池田輝政時代に改修された後、岐阜城廃城及び加納城築城のため他の建物と共に加納城 二の丸北東隅櫓「御三階櫓」として移築され、1728(享保13)年の落雷で焼失したと伝承されています。尚、「由緒ある建物ゆえ失念しないうちに」と加納藩大工棟梁家により描かれた古絵図『加納城御三階の図』によると、元々は4層だったものを3層に改修した跡が窺えます。この事から、元々は4層4階、あるいは4層5階だったと推定できます。
    一方、信長時代の山頂には天守とは呼べない平屋の建物しかなく、信忠時代に天守に匹敵する高層建築が建てられたとの説もあります。しかし、最近の発掘調査で信長時代の物とされる天守台の根石が天守の北西部や南西部で発見され、俄かに騒々しくなってきています。

  • お城時計<br />大名時計や和時計とも呼ばれます。<br />西洋の機械式時計が日本に渡来したのは、フランシスコ・ザビエルが周防国(現 山口県)の大内氏に献上したのが最初とされます。往時の時計は壁掛け式であり、操作も複雑でした。そのため日本の時計師は工夫と改良を重ね、日本独自の十二支を目盛りとする櫓時計を作り上げ、その精密さは世界一を誇ったそうです。<br />しかし1872(明治5)年11月、太陰暦が太陽暦に改められ、和時計は制作されなくなくなりました。<br />因みに十二支の文字盤の内側に数字もあるため、時計自体は後世に取り換えられたものと思われます。<br />時計の下にある掲示板は、時計の説明ではなく、岐阜城の耐震性に問題があることと、改修には相当の時間を要するため見学上の注意点として認識しておいてくださいとの案内です。

    お城時計
    大名時計や和時計とも呼ばれます。
    西洋の機械式時計が日本に渡来したのは、フランシスコ・ザビエルが周防国(現 山口県)の大内氏に献上したのが最初とされます。往時の時計は壁掛け式であり、操作も複雑でした。そのため日本の時計師は工夫と改良を重ね、日本独自の十二支を目盛りとする櫓時計を作り上げ、その精密さは世界一を誇ったそうです。
    しかし1872(明治5)年11月、太陰暦が太陽暦に改められ、和時計は制作されなくなくなりました。
    因みに十二支の文字盤の内側に数字もあるため、時計自体は後世に取り換えられたものと思われます。
    時計の下にある掲示板は、時計の説明ではなく、岐阜城の耐震性に問題があることと、改修には相当の時間を要するため見学上の注意点として認識しておいてくださいとの案内です。

  • 金華山御嶽(みたけ)神社<br />天守から一段下にある岐阜城資料館へ向かう途中にあります。<br />蔵王権現を祀る神社で金峰神社とも呼ばれ、総本山は空海由来の吉野金峰山寺の蔵王権現堂になります。<br />

    金華山御嶽(みたけ)神社
    天守から一段下にある岐阜城資料館へ向かう途中にあります。
    蔵王権現を祀る神社で金峰神社とも呼ばれ、総本山は空海由来の吉野金峰山寺の蔵王権現堂になります。

  • 金華山御嶽神社<br />元々は金華山の麓にあった中教院に金毘羅神社と御嶽神社があり、中教院の廃棄に伴い御嶽神社はこの地に移されたそうです。<br />晴れた日には神社の背後に木曽御嶽山が望めることから、神社遷移の経緯を知らずに「御嶽」を「おんたけ」と読んでしまうと、金華山御嶽神社は御嶽山信仰の遙拝所だと思い込んでも不思議ではありません。

    金華山御嶽神社
    元々は金華山の麓にあった中教院に金毘羅神社と御嶽神社があり、中教院の廃棄に伴い御嶽神社はこの地に移されたそうです。
    晴れた日には神社の背後に木曽御嶽山が望めることから、神社遷移の経緯を知らずに「御嶽」を「おんたけ」と読んでしまうと、金華山御嶽神社は御嶽山信仰の遙拝所だと思い込んでも不思議ではありません。

  • 金華山御嶽神社<br />蟇股には龍の彫刻が施されています。

    金華山御嶽神社
    蟇股には龍の彫刻が施されています。

  • 天守<br />岐阜城は岐阜市内のどこからでも望める金華山(標高329m)の頂上に聳えます。周囲に視界を遮るものがないため天守からの眺めが素晴らしく、季節を問わず多くの観光客で賑わいます。<br />現在山頂にある天守は岐阜市民の寄付金によって再建されたものです。1956(昭和31)年7月25日に池田輝政時代の独立式望楼型3層4階建の天守を模して落成した鉄筋コンクリート造の復興天守です。城内には斎藤氏や信長に関する貴重な資料、鎧などが展示され歴史博物館を彷彿とさせる空間になっています。尚、「日本百名城」に選ばれています。

    天守
    岐阜城は岐阜市内のどこからでも望める金華山(標高329m)の頂上に聳えます。周囲に視界を遮るものがないため天守からの眺めが素晴らしく、季節を問わず多くの観光客で賑わいます。
    現在山頂にある天守は岐阜市民の寄付金によって再建されたものです。1956(昭和31)年7月25日に池田輝政時代の独立式望楼型3層4階建の天守を模して落成した鉄筋コンクリート造の復興天守です。城内には斎藤氏や信長に関する貴重な資料、鎧などが展示され歴史博物館を彷彿とさせる空間になっています。尚、「日本百名城」に選ばれています。

  • 天守<br />『加納城御三階の図』や稲葉山城の古絵図、ルイス・フロイスの書簡、丸岡城などを参考に、池田輝政による改修後の天守を推定復元しています。城戸久氏(名古屋工業大学名誉教授)が設計を担い、大日本土木が施工しました。尚、建築に当たり土台部分の石垣内部に大掛かりな補強が加えられたため、礎石等の遺構は失われています。<br />因みに再建時の『岐阜城天守閣再建設計図』の複製が岐阜県立図書館に所蔵されていますが、実際に建てられた天守は設計図とは大きく異なります。

    天守
    『加納城御三階の図』や稲葉山城の古絵図、ルイス・フロイスの書簡、丸岡城などを参考に、池田輝政による改修後の天守を推定復元しています。城戸久氏(名古屋工業大学名誉教授)が設計を担い、大日本土木が施工しました。尚、建築に当たり土台部分の石垣内部に大掛かりな補強が加えられたため、礎石等の遺構は失われています。
    因みに再建時の『岐阜城天守閣再建設計図』の複製が岐阜県立図書館に所蔵されていますが、実際に建てられた天守は設計図とは大きく異なります。

  • 隅櫓(岐阜城資料館)<br />隅櫓は岐阜城天守のすぐ東隣りにある建物です。天守から一段下がった高台に佇みます。岐阜を舞台にしたNHK大河ドラマ『国盗り物語』の放映を機に復元工事が行われ、1975(昭和50)年に落成しました。<br />元々は武器庫や米や塩、味噌などの兵糧庫として使われていた蔵を、創業30年を迎えた川島紡績の全額寄付(6000万円)により、瓦葺、白壁造、2階建の隅櫓城郭造りに復元したものです。尚、復元の際は彦根城にある隅櫓を参考にしたそうです。<br />内部は撮影不可ですが、古文書や武具、刀剣など岐阜城関係の資料が展示されています。

    隅櫓(岐阜城資料館)
    隅櫓は岐阜城天守のすぐ東隣りにある建物です。天守から一段下がった高台に佇みます。岐阜を舞台にしたNHK大河ドラマ『国盗り物語』の放映を機に復元工事が行われ、1975(昭和50)年に落成しました。
    元々は武器庫や米や塩、味噌などの兵糧庫として使われていた蔵を、創業30年を迎えた川島紡績の全額寄付(6000万円)により、瓦葺、白壁造、2階建の隅櫓城郭造りに復元したものです。尚、復元の際は彦根城にある隅櫓を参考にしたそうです。
    内部は撮影不可ですが、古文書や武具、刀剣など岐阜城関係の資料が展示されています。

  • 二の丸東側の石垣<br />二の丸東側の崖下通路から見上げると、天然の断崖を補強するが如く石垣が聳え立つ姿は勇壮です。もし城に攻め入る敵方の立場ならば、尻込みしそうな気分になります。<br />野面積みにしてはかなりの上下幅が見られ、石積みに必要とされる技量が高いことから推測し、信長期以降に築かれた石垣と考えられています。

    二の丸東側の石垣
    二の丸東側の崖下通路から見上げると、天然の断崖を補強するが如く石垣が聳え立つ姿は勇壮です。もし城に攻め入る敵方の立場ならば、尻込みしそうな気分になります。
    野面積みにしてはかなりの上下幅が見られ、石積みに必要とされる技量が高いことから推測し、信長期以降に築かれた石垣と考えられています。

  • 二の丸東側の石垣<br />石垣の左端と右端は岩盤であり、まさに谷を埋め尽くすが如く石垣で護岸しています。<br />写真では少し判り難いのですが、石垣は大きく2段に別れており、高さは最大で7m程あります。

    二の丸東側の石垣
    石垣の左端と右端は岩盤であり、まさに谷を埋め尽くすが如く石垣で護岸しています。
    写真では少し判り難いのですが、石垣は大きく2段に別れており、高さは最大で7m程あります。

  • 本丸井戸<br />崖下の道を進むと、ほぼ垂直の断崖直下に本丸井戸がひっそりと佇みます。<br />岐阜城には3ヶ所の井戸があり、山麓の信長居館近くにある井戸と山頂の城郭内にある2つの井戸です。居館近くの井戸は普段の生活用、城郭内の井戸は籠城した時に雨水や岩の間から滲み出す水を貯めておくための井戸でした。<br />「水の手を制するもの、城を制す」と言われるように、長期籠城を想定すると極めて不利であることが窺えます。<br />岐阜城は山城で難攻不落のイメージがありますが、5回も落城しています。これは、各郭が狭くて大勢が詰められない点と、固い岩盤で地下水が湧き出さないため、水の補給を絶たれると降伏せざるを得ないというのが要因です。

    本丸井戸
    崖下の道を進むと、ほぼ垂直の断崖直下に本丸井戸がひっそりと佇みます。
    岐阜城には3ヶ所の井戸があり、山麓の信長居館近くにある井戸と山頂の城郭内にある2つの井戸です。居館近くの井戸は普段の生活用、城郭内の井戸は籠城した時に雨水や岩の間から滲み出す水を貯めておくための井戸でした。
    「水の手を制するもの、城を制す」と言われるように、長期籠城を想定すると極めて不利であることが窺えます。
    岐阜城は山城で難攻不落のイメージがありますが、5回も落城しています。これは、各郭が狭くて大勢が詰められない点と、固い岩盤で地下水が湧き出さないため、水の補給を絶たれると降伏せざるを得ないというのが要因です。

  • 二の丸東側の石垣<br />明治時代には観光用に初代天守が復興されていました。<br />復興天守は1910(明治43)年5月15日に落成し、日本初の城跡に常設された観光用模擬天守とされました。木造、トタン葺、3層3階建、高さ15.15m。長良橋の古材を利用して岐阜市保勝会の手によって建てられました。内部は吹き抜け、常駐する職員が配備されていたそうです。しかし1943(昭和18)年2月17日の深夜、失火により焼失しました。「寒かったので焚火をしたら城に燃え移った」との供述があるそうです。

    二の丸東側の石垣
    明治時代には観光用に初代天守が復興されていました。
    復興天守は1910(明治43)年5月15日に落成し、日本初の城跡に常設された観光用模擬天守とされました。木造、トタン葺、3層3階建、高さ15.15m。長良橋の古材を利用して岐阜市保勝会の手によって建てられました。内部は吹き抜け、常駐する職員が配備されていたそうです。しかし1943(昭和18)年2月17日の深夜、失火により焼失しました。「寒かったので焚火をしたら城に燃え移った」との供述があるそうです。

  • 天守<br />昭和時代にはロープウェイや金華山リス村、展望レストランなど集客目的の開発が進みましたが、それらにより歴史的に貴重な石垣の一部は取り壊されています。<br />今後は、回廊の復元など、歴史遺産としての価値をより高めることが期待されています。

    天守
    昭和時代にはロープウェイや金華山リス村、展望レストランなど集客目的の開発が進みましたが、それらにより歴史的に貴重な石垣の一部は取り壊されています。
    今後は、回廊の復元など、歴史遺産としての価値をより高めることが期待されています。

  • 二の丸橋<br />朱色の欄干の二の丸橋がよいアクセントになります。

    二の丸橋
    朱色の欄干の二の丸橋がよいアクセントになります。

  • 七間土塀<br />復元土塀のようです。<br />展望レストランのある場所には、かつて七間櫓がありました。<br />

    七間土塀
    復元土塀のようです。
    展望レストランのある場所には、かつて七間櫓がありました。

  • 七曲り登山道(大手道)<br />復路は金華山リス村の左手にある「百曲がりコース」を下ります。<br />斎藤道三が造った大手道とされ、稲葉山城への通勤路となりましたが、現在は金華山では最も整備された登山道となり、道幅も広くファミリー向けコースです。<br />道三の時代から現在まで金華山登山道で最もなだらかなルートですが、京都の公家 山科言継著『言継卿記』には「信長の許可をうけ、武井夕庵の案内で七曲道から登城した。山上の城中で音曲・囃子などの後、信長のもてなしで食事をご馳走になった。その後、城内を信長の案内で見物したが、道があまりにも険しく大変であったので、風景どころではなかった」との感想を述べています。日頃山道とは縁のないお公家さんの記述ですから、大袈裟な表現になっているのはご愛嬌かもしれません。

    七曲り登山道(大手道)
    復路は金華山リス村の左手にある「百曲がりコース」を下ります。
    斎藤道三が造った大手道とされ、稲葉山城への通勤路となりましたが、現在は金華山では最も整備された登山道となり、道幅も広くファミリー向けコースです。
    道三の時代から現在まで金華山登山道で最もなだらかなルートですが、京都の公家 山科言継著『言継卿記』には「信長の許可をうけ、武井夕庵の案内で七曲道から登城した。山上の城中で音曲・囃子などの後、信長のもてなしで食事をご馳走になった。その後、城内を信長の案内で見物したが、道があまりにも険しく大変であったので、風景どころではなかった」との感想を述べています。日頃山道とは縁のないお公家さんの記述ですから、大袈裟な表現になっているのはご愛嬌かもしれません。

  • 七曲り登山道<br />織田信長や岐阜城を訪れたポルトガルの宣教師ルイス・フロイス、山科言継などもこの道を通ったと言われています。<br />尚、「城へ○丁」の丁石の道標は、富士山などの「○合目」表記とは逆になっており、山麓に向けて数字が大きくなります。その理由は、金華山では山城を基準に道標を設けているからです。勘違いなされないようにしてください。

    七曲り登山道
    織田信長や岐阜城を訪れたポルトガルの宣教師ルイス・フロイス、山科言継などもこの道を通ったと言われています。
    尚、「城へ○丁」の丁石の道標は、富士山などの「○合目」表記とは逆になっており、山麓に向けて数字が大きくなります。その理由は、金華山では山城を基準に道標を設けているからです。勘違いなされないようにしてください。

  • 七曲り登山道<br />道端には往時の道の縁に積まれていた石垣が今も残されている箇所があります。<br />下り始めはヒノキの植林やアベマキの林、中腹辺りからはツブラジイやアラカシなど金華山の特徴的な森が広がり、植物の移り変わりも愉しめます。<br />ツブラジイは5月上旬に黄色い花を咲かせ、1972(昭和467)年に市の木の選ばれています。西日に照らされたツブラジイの花が山を黄金に染め上げる様子から、かつての名称「稲葉山」から「金華山」に変わったという説もあります。

    七曲り登山道
    道端には往時の道の縁に積まれていた石垣が今も残されている箇所があります。
    下り始めはヒノキの植林やアベマキの林、中腹辺りからはツブラジイやアラカシなど金華山の特徴的な森が広がり、植物の移り変わりも愉しめます。
    ツブラジイは5月上旬に黄色い花を咲かせ、1972(昭和467)年に市の木の選ばれています。西日に照らされたツブラジイの花が山を黄金に染め上げる様子から、かつての名称「稲葉山」から「金華山」に変わったという説もあります。

  • 七曲り登山道<br />金華山の名の由来については「ツブラジイ」説の他、諸説紛々です。<br />① 在原行平が、勅命により奥州金華山から運んで来た金石を美濃国へ置いていったことから金華山と呼ばれるようになった。<br />(1801年の序を持つ『 尾濃葉栗見聞集 』)。<br />② 奥州金華山に山容が似ているため。<br />(1805年出版『木曽路名所図 会 』)<br />③「雄総の放蕩息子が流浪先の奥州金華山で改心した 。金華山の小石を拾って帰郷したところ、父親はその話を信じずに小石を投げ捨てた。これが一夜で成長して山となった」という伝説。<br />(大正4年『美濃国稲葉郡誌 』)

    七曲り登山道
    金華山の名の由来については「ツブラジイ」説の他、諸説紛々です。
    ① 在原行平が、勅命により奥州金華山から運んで来た金石を美濃国へ置いていったことから金華山と呼ばれるようになった。
    (1801年の序を持つ『 尾濃葉栗見聞集 』)。
    ② 奥州金華山に山容が似ているため。
    (1805年出版『木曽路名所図 会 』)
    ③「雄総の放蕩息子が流浪先の奥州金華山で改心した 。金華山の小石を拾って帰郷したところ、父親はその話を信じずに小石を投げ捨てた。これが一夜で成長して山となった」という伝説。
    (大正4年『美濃国稲葉郡誌 』)

  • 七曲り登山道 正法寺<br />山麓まで降りてくると、街並みの中にひと際背丈の高い、異様な建物が見えてきます。<br />かの「岐阜大仏」が鎮座する金鳳山正法寺大仏殿であり、黄檗宗らしい中国風の特徴ある構造をした大仏殿です。大仏殿は何度か建替えられているそうですが、美濃を襲った濃尾大地震にも耐えた堅牢な造りとなっています。

    七曲り登山道 正法寺
    山麓まで降りてくると、街並みの中にひと際背丈の高い、異様な建物が見えてきます。
    かの「岐阜大仏」が鎮座する金鳳山正法寺大仏殿であり、黄檗宗らしい中国風の特徴ある構造をした大仏殿です。大仏殿は何度か建替えられているそうですが、美濃を襲った濃尾大地震にも耐えた堅牢な造りとなっています。

  • 三光山 妙照寺<br />ヒマワリとケイトウのコラボです!<br />如何にも今年の超異常気象を伝えるのに申し分ない画像ではありませんか!?<br />武家屋敷を彷彿とさせる塀に囲まれた妙照寺も岐阜城に深く関係するお寺です。<br />ここの山門は数少ない岐阜城の移築現存門のひとつだからです。

    三光山 妙照寺
    ヒマワリとケイトウのコラボです!
    如何にも今年の超異常気象を伝えるのに申し分ない画像ではありませんか!?
    武家屋敷を彷彿とさせる塀に囲まれた妙照寺も岐阜城に深く関係するお寺です。
    ここの山門は数少ない岐阜城の移築現存門のひとつだからです。

  • 三光山 妙照寺<br />1534(開創天文3)年、京都 大本山妙顕寺第8世 日広聖人の弟子 五千院日舜聖人が開山しました。当初、厚見群今泉村(現 岐阜市柳町周辺)に創建されましたが、1600(慶長5)年に時の中納言 織田秀信が現在地の竹中半兵衛屋敷跡に移転しました。本尊には十界曼陀羅を祀ります。<br />2015(平成27)年に「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜 」の構成文化財として日本遺産に認定されています。

    三光山 妙照寺
    1534(開創天文3)年、京都 大本山妙顕寺第8世 日広聖人の弟子 五千院日舜聖人が開山しました。当初、厚見群今泉村(現 岐阜市柳町周辺)に創建されましたが、1600(慶長5)年に時の中納言 織田秀信が現在地の竹中半兵衛屋敷跡に移転しました。本尊には十界曼陀羅を祀ります。
    2015(平成27)年に「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜 」の構成文化財として日本遺産に認定されています。

  • 三光山 妙照寺 山門<br />山寄り(西側)にある山門が岐阜城の移築現存門のひとつです。<br />関ヶ原合戦の翌年、徳川家康が岐阜城を廃城とし、娘婿 奥平信昌に築城させた加納城などに天守や櫓、門、石垣などを移しています。<br />2つ前の画像にも道路沿いに山門のようなものが写っていますが、そちらは裏門のような存在です。

    三光山 妙照寺 山門
    山寄り(西側)にある山門が岐阜城の移築現存門のひとつです。
    関ヶ原合戦の翌年、徳川家康が岐阜城を廃城とし、娘婿 奥平信昌に築城させた加納城などに天守や櫓、門、石垣などを移しています。
    2つ前の画像にも道路沿いに山門のようなものが写っていますが、そちらは裏門のような存在です。

  • 三光山 妙照寺 山門 <br />往時45歳だった松尾芭蕉が逗留した寺としても知られています。<br />芭蕉は、岐阜屈指の豪商かつ岐阜俳壇の大御所でもあった安川落梧の鵜飼見物への招きに応じ、1688(貞享5)年6月来岐し約1ヶ月逗留しています。その間、当地の有力者や風流人に招かれて多くの句を詠んでいます。<br />往時の妙照寺住職は第5世 日応上人でしたが、その弟子 日賢上人(第7世)は俳人号を己白と言い、芭蕉とは俳諧を通じて親交が深かったようです。<br />己白が「しるべして 見せばやみのの 田植え歌」の句を芭蕉に贈り、<br />これに対し芭蕉が<br />「笠あらためん 不破のさみだれ」と脇を付けました。<br />また芭蕉は妙照寺の庭の奇岩絶壁に一つ葉の叢生するのを見て、<br />「夏来ても たたひとつ 葉の一葉哉」と吟じたと伝えます。

    三光山 妙照寺 山門
    往時45歳だった松尾芭蕉が逗留した寺としても知られています。
    芭蕉は、岐阜屈指の豪商かつ岐阜俳壇の大御所でもあった安川落梧の鵜飼見物への招きに応じ、1688(貞享5)年6月来岐し約1ヶ月逗留しています。その間、当地の有力者や風流人に招かれて多くの句を詠んでいます。
    往時の妙照寺住職は第5世 日応上人でしたが、その弟子 日賢上人(第7世)は俳人号を己白と言い、芭蕉とは俳諧を通じて親交が深かったようです。
    己白が「しるべして 見せばやみのの 田植え歌」の句を芭蕉に贈り、
    これに対し芭蕉が
    「笠あらためん 不破のさみだれ」と脇を付けました。
    また芭蕉は妙照寺の庭の奇岩絶壁に一つ葉の叢生するのを見て、
    「夏来ても たたひとつ 葉の一葉哉」と吟じたと伝えます。

  • 三光山 妙照寺 山門 <br />鬼瓦には「十六葉菊紋」が躍ります。時の関白 豊臣秀吉から賜ったのでしょうか?<br />岐阜城の落城時点では織田秀信(三法師)の居城でしたから、本能寺の変の跡の清須会議までは秀吉は秀信の臣下のはずです。因みに三法師は9歳で元服し、秀吉から「秀」の字を与えられて秀信を名乗っています。<br />1585年に秀吉は関白になり、官位で他の武将を引き離して完全に逆転しました。恐らく、この山門は、秀吉が関白に昇進後、岐阜城が落城(1600年)するまでの間に建てられたものと窺えます。

    三光山 妙照寺 山門
    鬼瓦には「十六葉菊紋」が躍ります。時の関白 豊臣秀吉から賜ったのでしょうか?
    岐阜城の落城時点では織田秀信(三法師)の居城でしたから、本能寺の変の跡の清須会議までは秀吉は秀信の臣下のはずです。因みに三法師は9歳で元服し、秀吉から「秀」の字を与えられて秀信を名乗っています。
    1585年に秀吉は関白になり、官位で他の武将を引き離して完全に逆転しました。恐らく、この山門は、秀吉が関白に昇進後、岐阜城が落城(1600年)するまでの間に建てられたものと窺えます。

  • 三光山 妙照寺 山門 <br />飾り瓦は菊のような可憐な花を象っています。<br />1600(慶長5)年の関ヶ原合戦では、石田三成の誘いを受けて西軍に与した秀信。岐阜城に籠城したものの、東軍の福島正則や池田輝政らの猛攻を受けて落城。秀信は自刃を図りましたが、正則らに止められ、その後関ヶ原合戦は東軍の勝利で幕を閉じました。

    三光山 妙照寺 山門
    飾り瓦は菊のような可憐な花を象っています。
    1600(慶長5)年の関ヶ原合戦では、石田三成の誘いを受けて西軍に与した秀信。岐阜城に籠城したものの、東軍の福島正則や池田輝政らの猛攻を受けて落城。秀信は自刃を図りましたが、正則らに止められ、その後関ヶ原合戦は東軍の勝利で幕を閉じました。

  • 三光山 妙照寺 山門 <br />一命を取り留めた秀信は加納にある円徳寺に入って剃髪。その後、高野山に入山しようとしますが、入山を許されるまで相当の時間を要したようです。理由としては、かつて信長が高野山攻めを行ったことが考えられます。<br />入山後、秀信は同地に幽居し、26年という短い生涯の幕を静かに閉じています。

    三光山 妙照寺 山門
    一命を取り留めた秀信は加納にある円徳寺に入って剃髪。その後、高野山に入山しようとしますが、入山を許されるまで相当の時間を要したようです。理由としては、かつて信長が高野山攻めを行ったことが考えられます。
    入山後、秀信は同地に幽居し、26年という短い生涯の幕を静かに閉じています。

  • 三光山 妙照寺 山門 <br />僅か3歳にして秀吉から織田家の後継者に推薦された三法師(秀信)。かの信長の孫ということもあり、一時は相当優遇されていたことが窺えます。信長や秀吉に翻弄され続けた人生を三法師がどのように思っていたのか、岐阜城からの移築門が問いかけてきます。

    三光山 妙照寺 山門
    僅か3歳にして秀吉から織田家の後継者に推薦された三法師(秀信)。かの信長の孫ということもあり、一時は相当優遇されていたことが窺えます。信長や秀吉に翻弄され続けた人生を三法師がどのように思っていたのか、岐阜城からの移築門が問いかけてきます。

  • 三光山 妙照寺 庫裡<br />庫裡は江戸時代前期の創建と比定されており、県下に現存する神社仏閣の中で最古の建造物とされます。と言うのも、濃尾地震や岐阜空襲で古い建物がほぼ無くなってしまっているからです。<br />尚、芭蕉が逗留した庫裏奥にある12畳座敷「芭蕉の間」は現在も往時のまま残されているそうです。<br />この心安らぐ雰囲気を尾張徳川家のお殿様もこよなく愛されたそうです。お殿様が領地の見回りで岐阜城へ登城する際、御休憩処として立ち寄った記録があり、その履歴は数十度に及びます。<br />登城前にお寺で中食を摂りながら、お殿様も芭蕉にあやかって一句ひねったのかも知れません。

    三光山 妙照寺 庫裡
    庫裡は江戸時代前期の創建と比定されており、県下に現存する神社仏閣の中で最古の建造物とされます。と言うのも、濃尾地震や岐阜空襲で古い建物がほぼ無くなってしまっているからです。
    尚、芭蕉が逗留した庫裏奥にある12畳座敷「芭蕉の間」は現在も往時のまま残されているそうです。
    この心安らぐ雰囲気を尾張徳川家のお殿様もこよなく愛されたそうです。お殿様が領地の見回りで岐阜城へ登城する際、御休憩処として立ち寄った記録があり、その履歴は数十度に及びます。
    登城前にお寺で中食を摂りながら、お殿様も芭蕉にあやかって一句ひねったのかも知れません。

  • 三光山 妙照寺 大方玄関<br />妙照寺が建つ場所は、豊臣秀吉の名軍師 竹中半兵衛の屋敷跡とされ、境内奥には妙照寺移転前からこの地に鎮座していた三光稲荷社が健在です。竹中家が守護神として祀り信仰していたと伝わります。<br />この地に半兵衛屋敷があったことは地元でもあまり知られていないそうですが、稲荷社は檀信徒以外からも「さんこうさん」と親しまれ崇敬を集めていたそうです。これが妙照寺の山号が「三光山」となった由縁です。

    三光山 妙照寺 大方玄関
    妙照寺が建つ場所は、豊臣秀吉の名軍師 竹中半兵衛の屋敷跡とされ、境内奥には妙照寺移転前からこの地に鎮座していた三光稲荷社が健在です。竹中家が守護神として祀り信仰していたと伝わります。
    この地に半兵衛屋敷があったことは地元でもあまり知られていないそうですが、稲荷社は檀信徒以外からも「さんこうさん」と親しまれ崇敬を集めていたそうです。これが妙照寺の山号が「三光山」となった由縁です。

  • 三光山 妙照寺 芭蕉の句碑<br />「やどりせむ あかざの杖に なる日まて」<br />この句は芭蕉が到着した時、出迎えた僧らへ芭蕉が挨拶代わりに詠んだ句です。<br />1年草の「あかざ」は秋に枯れると茎が老人にも扱いやすい軽い杖になったことから、「秋まで」もしくは「老いて杖が必要な歳になるまで」ここに居たくなったよ、という心情を表しています。<br />句碑の背後には芭蕉が手植えしたと伝わる老梅も残されています。

    三光山 妙照寺 芭蕉の句碑
    「やどりせむ あかざの杖に なる日まて」
    この句は芭蕉が到着した時、出迎えた僧らへ芭蕉が挨拶代わりに詠んだ句です。
    1年草の「あかざ」は秋に枯れると茎が老人にも扱いやすい軽い杖になったことから、「秋まで」もしくは「老いて杖が必要な歳になるまで」ここに居たくなったよ、という心情を表しています。
    句碑の背後には芭蕉が手植えしたと伝わる老梅も残されています。

  • 三光山 妙照寺 本堂<br />本堂の創建は1662(寛文2)年とされ、当初は向拝も含めて杮葺だったそうですが、1719(享保4)年に瓦葺に改修されました。全国的にも珍しい江戸時代前期の日蓮宗寺院建築です。内部の須弥檀回りは当初のまま残されており、意匠や色彩など江戸時代初期の雰囲気をよく残しています。本堂の戸や屋根棟には日蓮宗橘紋が躍ります。<br />因みに橘紋の由来は、橘氏一族が使用したことに始まります。井伊氏の祖である共保は、井戸から生まれたと伝わる人物で、生まれた時に手に橘を持っていたことから井桁に橘を紋とするようになったと伝わります。<br />また日蓮宗に橘紋が使用されているのは、日蓮が井伊氏の一族(分家の貫名家)だからだとも伝えられます。 

    三光山 妙照寺 本堂
    本堂の創建は1662(寛文2)年とされ、当初は向拝も含めて杮葺だったそうですが、1719(享保4)年に瓦葺に改修されました。全国的にも珍しい江戸時代前期の日蓮宗寺院建築です。内部の須弥檀回りは当初のまま残されており、意匠や色彩など江戸時代初期の雰囲気をよく残しています。本堂の戸や屋根棟には日蓮宗橘紋が躍ります。
    因みに橘紋の由来は、橘氏一族が使用したことに始まります。井伊氏の祖である共保は、井戸から生まれたと伝わる人物で、生まれた時に手に橘を持っていたことから井桁に橘を紋とするようになったと伝わります。
    また日蓮宗に橘紋が使用されているのは、日蓮が井伊氏の一族(分家の貫名家)だからだとも伝えられます。 

  • 三光山 妙照寺 <br />手前が鐘楼、手水舎の左が本堂、右にあるのは妙見宮です。<br />本堂前には巨大な鬼瓦が2体置かれています。平成の大改修の際に屋根を葺替えており、それまで屋根に載っていたものを安置したそうです。<br />妙見宮とは聞き慣れませんが、堂宇には妙見菩薩でも祀られているのでしょうか?<br />因みに妙見菩薩は、北極星を仏格化した「星の仏さま」です。宇宙の中心・根源とされ、星々の中で最高位にあり、五穀豊穣・天下泰平・一族繁栄・病気平癒・息災延命・商売繁盛・交通安全・学業成就・縁結びなど、諸願成就の仏さまです。<br />平安時代には現世利益を願う妙見信仰が広まり、中世には武士の軍神として、近世には諸願成就の仏として民衆の信仰を集めたそうです。

    三光山 妙照寺
    手前が鐘楼、手水舎の左が本堂、右にあるのは妙見宮です。
    本堂前には巨大な鬼瓦が2体置かれています。平成の大改修の際に屋根を葺替えており、それまで屋根に載っていたものを安置したそうです。
    妙見宮とは聞き慣れませんが、堂宇には妙見菩薩でも祀られているのでしょうか?
    因みに妙見菩薩は、北極星を仏格化した「星の仏さま」です。宇宙の中心・根源とされ、星々の中で最高位にあり、五穀豊穣・天下泰平・一族繁栄・病気平癒・息災延命・商売繁盛・交通安全・学業成就・縁結びなど、諸願成就の仏さまです。
    平安時代には現世利益を願う妙見信仰が広まり、中世には武士の軍神として、近世には諸願成就の仏として民衆の信仰を集めたそうです。

  • 三光山 妙照寺 三光稲荷社<br />新しい朱の鳥居は木製にしては少し違和感があります。<br />叩いてみると、樹脂製(おそらく塩ビ製)の稲荷でした。木を伐採することを考えると環境に配慮した鳥居と言えるかもしれません。<br />本当は「知らぬが仏」なのでしょうが…。

    三光山 妙照寺 三光稲荷社
    新しい朱の鳥居は木製にしては少し違和感があります。
    叩いてみると、樹脂製(おそらく塩ビ製)の稲荷でした。木を伐採することを考えると環境に配慮した鳥居と言えるかもしれません。
    本当は「知らぬが仏」なのでしょうが…。

  • 三光山 妙照寺 三光稲荷社<br />鋭い睨みを利かす狛狐です。<br />稲荷大神の神使は狐です。しかし野山に居る狐ではなく、神使も大神同様に目には見えない存在です。そのため「白(透明)狐=びゃっこさん」と称して崇めます。<br />稲荷神社の祭神である宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)の別名を御饌津神(みけつかみ)と言い、これが漢字で「三狐神」と書けることから神使が狐となったとされます。

    三光山 妙照寺 三光稲荷社
    鋭い睨みを利かす狛狐です。
    稲荷大神の神使は狐です。しかし野山に居る狐ではなく、神使も大神同様に目には見えない存在です。そのため「白(透明)狐=びゃっこさん」と称して崇めます。
    稲荷神社の祭神である宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)の別名を御饌津神(みけつかみ)と言い、これが漢字で「三狐神」と書けることから神使が狐となったとされます。

  • 三光山 妙照寺 三光稲荷社<br />このお稲荷さんも妙照寺の管轄になり、開山以来どちらも信仰を集めています。<br />妙照寺移転前からこの地に鎮座し、竹中家が代々守護神として祀り信仰していたと伝わります。<br />

    三光山 妙照寺 三光稲荷社
    このお稲荷さんも妙照寺の管轄になり、開山以来どちらも信仰を集めています。
    妙照寺移転前からこの地に鎮座し、竹中家が代々守護神として祀り信仰していたと伝わります。

  • 三光山 妙照寺 三光稲荷社<br />竹中半兵衛(重治)は秀吉の天才軍師として知られますが、元々は斎藤家の家臣でした。義龍から家督を継いだ龍興の時代、主君を諫めるため、たった1日、僅か16人(17人説あり)で稲葉山城を乗っ取り、半年ほど占拠したという武勇伝があります。

    三光山 妙照寺 三光稲荷社
    竹中半兵衛(重治)は秀吉の天才軍師として知られますが、元々は斎藤家の家臣でした。義龍から家督を継いだ龍興の時代、主君を諫めるため、たった1日、僅か16人(17人説あり)で稲葉山城を乗っ取り、半年ほど占拠したという武勇伝があります。

  • 三光山 妙照寺 三光稲荷社<br />鬼瓦には「抱き稲の紋」の変形バージョン「稲の丸の紋」に近い神紋が躍ります。<br />『山城国風土記』の逸文には「イネが生った」ところから「稲荷」の社名としたとありますが、他にも諸説あります。<br />兎の毛通しの彫刻にも「稲束」を彷彿とさせるデザインが付されています。

    三光山 妙照寺 三光稲荷社
    鬼瓦には「抱き稲の紋」の変形バージョン「稲の丸の紋」に近い神紋が躍ります。
    『山城国風土記』の逸文には「イネが生った」ところから「稲荷」の社名としたとありますが、他にも諸説あります。
    兎の毛通しの彫刻にも「稲束」を彷彿とさせるデザインが付されています。

  • 三光山 妙照寺 三光稲荷社<br />格天井には絵画の形跡も窺えます。

    三光山 妙照寺 三光稲荷社
    格天井には絵画の形跡も窺えます。

  • 三光山 妙照寺 三光稲荷社<br />蟇股には「狐」の彫刻が施され、その上方にある大瓶束には両脇に定番の水を模した笈形が付けられ、水瓶から勢いよく水が溢れ出す様をデザインしています。

    三光山 妙照寺 三光稲荷社
    蟇股には「狐」の彫刻が施され、その上方にある大瓶束には両脇に定番の水を模した笈形が付けられ、水瓶から勢いよく水が溢れ出す様をデザインしています。

  • 三光山 妙照寺 三光稲荷社<br />お稲荷さんのご利益については、古くは朝廷が雨乞いや止雨と共に五穀豊穣を願われたり、国の安穏を願われるなど公の願い事が多く記録されています。<br />平安時代には良縁を願ったり、秀吉は母親の病気平癒を真剣に願っておかげを受けています。<br />時代が下り、商売繁昌・産業興隆・家内安全・交通安全・芸能上達の守護神として信仰を集めるようになりました。

    三光山 妙照寺 三光稲荷社
    お稲荷さんのご利益については、古くは朝廷が雨乞いや止雨と共に五穀豊穣を願われたり、国の安穏を願われるなど公の願い事が多く記録されています。
    平安時代には良縁を願ったり、秀吉は母親の病気平癒を真剣に願っておかげを受けています。
    時代が下り、商売繁昌・産業興隆・家内安全・交通安全・芸能上達の守護神として信仰を集めるようになりました。

  • 鷲林山 常在寺<br />道路を挟んで三光山 妙照寺の真向かいにあるお寺です。ここは稲葉城を中興した斎藤道三所縁のお寺です。<br />室町時代の1450(宝徳2)年、美濃国守護代 斎藤宗円の子で、土岐家守護代として権力を持ち、事実上美濃国を支配していた斎藤妙椿が、京都妙覚寺から世尊院日範を招き建立しました。<br />日蓮宗 妙覚寺の末寺で、別名「七曲之寺」と言い、本尊には文殊菩薩を祀ります。また、重文指定の『絹本著色斎藤道三像』と『絹本著色斎藤義龍像』が所蔵されていることで知られます。<br />かつて大手道の稲葉山城総門は常在寺の前に築かれていたそうです。稲葉山城の戦いではその総門から西美濃3人衆が攻め上がり、岐阜城の戦いでは総門口を津田藤三郎、七曲口を木造具康父子が守る中、福島正則が攻め上がりました。

    鷲林山 常在寺
    道路を挟んで三光山 妙照寺の真向かいにあるお寺です。ここは稲葉城を中興した斎藤道三所縁のお寺です。
    室町時代の1450(宝徳2)年、美濃国守護代 斎藤宗円の子で、土岐家守護代として権力を持ち、事実上美濃国を支配していた斎藤妙椿が、京都妙覚寺から世尊院日範を招き建立しました。
    日蓮宗 妙覚寺の末寺で、別名「七曲之寺」と言い、本尊には文殊菩薩を祀ります。また、重文指定の『絹本著色斎藤道三像』と『絹本著色斎藤義龍像』が所蔵されていることで知られます。
    かつて大手道の稲葉山城総門は常在寺の前に築かれていたそうです。稲葉山城の戦いではその総門から西美濃3人衆が攻め上がり、岐阜城の戦いでは総門口を津田藤三郎、七曲口を木造具康父子が守る中、福島正則が攻め上がりました。

  • 鷲林山 常在寺 本堂<br />本堂は木造平屋建、入母屋、桟瓦葺、平入、正面1間向拝付、外壁は真壁造白漆喰仕上です。<br />戦国時代、斎藤道三は妙覚寺の僧だった父 長井新左衛門尉が美濃国に築いた地位を基盤とし斎藤氏を名乗るまで勢力を付け、父子2代に亘り美濃国を制する拠点としたお寺でした。更には守護職 土岐氏をも滅ぼして美濃国主となり、常在寺に寺領を与えて菩提寺としました。<br />道三は家督を子 義龍に譲ってこのお寺で剃髪入道しましたが、その義龍との不和から争いとなり、長良川の戦いで戦死するに至ります。親子間の下剋上というか、まさに骨肉の争いと言えます。

    鷲林山 常在寺 本堂
    本堂は木造平屋建、入母屋、桟瓦葺、平入、正面1間向拝付、外壁は真壁造白漆喰仕上です。
    戦国時代、斎藤道三は妙覚寺の僧だった父 長井新左衛門尉が美濃国に築いた地位を基盤とし斎藤氏を名乗るまで勢力を付け、父子2代に亘り美濃国を制する拠点としたお寺でした。更には守護職 土岐氏をも滅ぼして美濃国主となり、常在寺に寺領を与えて菩提寺としました。
    道三は家督を子 義龍に譲ってこのお寺で剃髪入道しましたが、その義龍との不和から争いとなり、長良川の戦いで戦死するに至ります。親子間の下剋上というか、まさに骨肉の争いと言えます。

  • 鷲林山 常在寺 本堂<br />屋根棟には「五三桐紋」と日蓮宗「法輪」が躍り、鬼瓦には「二頭立浪紋」と言われる斎藤家の家紋が輝きます。「二頭立浪紋」は、道三が考案した紋と伝わり、立つ波は(寄せては返す)合戦の駆け引きを、水はどのような形にでも変化して柔軟に対応できる旨を表しています。波の両側に飛沫が左に2つ、右に3つあり、これらは「世の中は割り切れることもあるが、割り切れないこともある」の意味だそうです。<br />海に面しない美濃国にありながら波をモチーフにした家紋には、道三の海に面する尾張国への強い執着が見て取れます。

    鷲林山 常在寺 本堂
    屋根棟には「五三桐紋」と日蓮宗「法輪」が躍り、鬼瓦には「二頭立浪紋」と言われる斎藤家の家紋が輝きます。「二頭立浪紋」は、道三が考案した紋と伝わり、立つ波は(寄せては返す)合戦の駆け引きを、水はどのような形にでも変化して柔軟に対応できる旨を表しています。波の両側に飛沫が左に2つ、右に3つあり、これらは「世の中は割り切れることもあるが、割り切れないこともある」の意味だそうです。
    海に面しない美濃国にありながら波をモチーフにした家紋には、道三の海に面する尾張国への強い執着が見て取れます。

  • 鷲林山 常在寺 本堂<br />初代扁額は関白 一条兼良を1465(寛政6)年8月に寺に迎えた際に山号「鷲林山」を揮毫したものでしたが、それは岐阜城落城時に焼失したそうです。<br />現在の額はその後制作されたもので、「甘露殿」と記されています。「甘露」は、仏典などにもあり、如来の説法を「甘露の法雨」と称したり、涅槃に至る門を「甘露門」と称したりします。一方、漢語の世界で言う「甘露」は、為政者が善政を敷き、天下泰平になった時、天が降らせる露のことを指します。<br />生憎、本堂内部は撮影禁止です。<br />『絹本著色斎藤道三像』と『絹本著色斎藤義龍像』を所蔵していますが、本堂に掛けられているのは複製画でした。因みに「像」とありますが「肖像画」です。<br />「道三像」は道三の娘 濃姫が寄進したものとされ、精悍な性格が感じられる鋭い眼光を放っています。道三の死は、濃姫21歳の時のことでした。「義龍像」は息子 龍興が寄進したものとされ、道三とは真逆に穏やかな表情を湛えています。<br />義龍が父 道三を討ち、義龍の子 龍興は信長により美濃を追われ朝倉家に身を寄せますが、朝倉軍の武将とし1573(元亀元)年に信長軍によって討ち取られました。<br />義龍も自らの意思で父 道三と同じく常在寺を菩提寺に選んだそうです。例え政治的に対立しても、親子の絆はそれ以上に深く複雑なものだったのでしょう。<br />本堂に仲良く並ぶ道三と義龍の肖像画をぼんやりと眺めていると、法華経の読経が響く中、穏やかな時を共に過ごす父子の姿がそこに息づいているような気がしてきます。

    鷲林山 常在寺 本堂
    初代扁額は関白 一条兼良を1465(寛政6)年8月に寺に迎えた際に山号「鷲林山」を揮毫したものでしたが、それは岐阜城落城時に焼失したそうです。
    現在の額はその後制作されたもので、「甘露殿」と記されています。「甘露」は、仏典などにもあり、如来の説法を「甘露の法雨」と称したり、涅槃に至る門を「甘露門」と称したりします。一方、漢語の世界で言う「甘露」は、為政者が善政を敷き、天下泰平になった時、天が降らせる露のことを指します。
    生憎、本堂内部は撮影禁止です。
    『絹本著色斎藤道三像』と『絹本著色斎藤義龍像』を所蔵していますが、本堂に掛けられているのは複製画でした。因みに「像」とありますが「肖像画」です。
    「道三像」は道三の娘 濃姫が寄進したものとされ、精悍な性格が感じられる鋭い眼光を放っています。道三の死は、濃姫21歳の時のことでした。「義龍像」は息子 龍興が寄進したものとされ、道三とは真逆に穏やかな表情を湛えています。
    義龍が父 道三を討ち、義龍の子 龍興は信長により美濃を追われ朝倉家に身を寄せますが、朝倉軍の武将とし1573(元亀元)年に信長軍によって討ち取られました。
    義龍も自らの意思で父 道三と同じく常在寺を菩提寺に選んだそうです。例え政治的に対立しても、親子の絆はそれ以上に深く複雑なものだったのでしょう。
    本堂に仲良く並ぶ道三と義龍の肖像画をぼんやりと眺めていると、法華経の読経が響く中、穏やかな時を共に過ごす父子の姿がそこに息づいているような気がしてきます。

  • 鷲林山 常在寺 大方玄関<br />NHK大河ドラマ『麒麟がくる』で斎藤道三役を演じられた本木雅弘さんも参詣に訪れたようで、本堂には超達筆なサイン色紙が展示されています。

    鷲林山 常在寺 大方玄関
    NHK大河ドラマ『麒麟がくる』で斎藤道三役を演じられた本木雅弘さんも参詣に訪れたようで、本堂には超達筆なサイン色紙が展示されています。

  • 鷲林山 常在寺 庫裡<br />庫裏は木造平屋建(一部2階建)、切妻、妻入、外壁は真壁造白漆喰仕上、花頭窓付です。<br />江戸時代の記録には「庫裡方丈鐘楼堂塔に至るまで金銀珠玉をちりばめ造立しぬ。」とあり、6500坪もの境内に豪奢な堂塔を有した寺院だったことが窺えます。<br />しかし1600(慶長5)年8月、岐阜城落城と共に当山の状態は大きく変貌し、幾多の変遷を辿って今日に至りました。

    鷲林山 常在寺 庫裡
    庫裏は木造平屋建(一部2階建)、切妻、妻入、外壁は真壁造白漆喰仕上、花頭窓付です。
    江戸時代の記録には「庫裡方丈鐘楼堂塔に至るまで金銀珠玉をちりばめ造立しぬ。」とあり、6500坪もの境内に豪奢な堂塔を有した寺院だったことが窺えます。
    しかし1600(慶長5)年8月、岐阜城落城と共に当山の状態は大きく変貌し、幾多の変遷を辿って今日に至りました。

  • 鷲林山 常在寺 庫裡<br />切妻の妻面にある二重虹梁よりもゴージャスな意匠が格式の高さを示します。<br />中央の蟇股や鬼瓦には「五三桐紋」が躍っています。<br />妙心寺庫裏の二重虹梁によく似た意匠です。2つの虹梁を大瓶束が支え、その上にさらに1つの大瓶束が棟木を支えています。国内最大の禅寺 臨済宗妙心寺と繋がりがあるか否かは不詳です。

    鷲林山 常在寺 庫裡
    切妻の妻面にある二重虹梁よりもゴージャスな意匠が格式の高さを示します。
    中央の蟇股や鬼瓦には「五三桐紋」が躍っています。
    妙心寺庫裏の二重虹梁によく似た意匠です。2つの虹梁を大瓶束が支え、その上にさらに1つの大瓶束が棟木を支えています。国内最大の禅寺 臨済宗妙心寺と繋がりがあるか否かは不詳です。

  • 鷲林山 常在寺 開運殿<br />詳細は不明ですが、「開運殿」の名称から推測すると、法華経の守護神 北辰妙見大菩薩を祀る堂宇と窺えます。<br />関西随一の日蓮宗霊場「能勢妙見山」では 開運北辰妙見大菩薩を祀っています。

    鷲林山 常在寺 開運殿
    詳細は不明ですが、「開運殿」の名称から推測すると、法華経の守護神 北辰妙見大菩薩を祀る堂宇と窺えます。
    関西随一の日蓮宗霊場「能勢妙見山」では 開運北辰妙見大菩薩を祀っています。

  • 鷲林山 常在寺 開運殿<br />太古の中国では、太陽・月・星の運行を神秘的なものとして崇め、星を見て政事を行いました。そして北天に輝く北極星を中心に運行しているのを見て、この星を王として尊崇しました。これが妙見信仰の起源であり、北極星を中心に北斗七星とその周りの星々を北辰と称し、北辰妙見信仰の一部をなしています。

    鷲林山 常在寺 開運殿
    太古の中国では、太陽・月・星の運行を神秘的なものとして崇め、星を見て政事を行いました。そして北天に輝く北極星を中心に運行しているのを見て、この星を王として尊崇しました。これが妙見信仰の起源であり、北極星を中心に北斗七星とその周りの星々を北辰と称し、北辰妙見信仰の一部をなしています。

  • 鷲林山 常在寺 開運殿<br />唐破風の兎の毛通しには鳳凰の彫刻、鬼瓦や軒丸瓦には九曜紋が躍ります。九曜紋は千葉氏の紋として知られ、中央の丸が北極星(妙見菩薩)を表します。中世には鷲頭氏や大内氏、千葉氏、九戸氏が妙見菩薩を一族の守り神として崇めました。千葉氏の氏神 千葉妙見宮(現 千葉神社)は源頼朝から崇拝を受けた他、日蓮も重んじました。また千葉氏が日蓮宗 中山門流の檀越であった関係から、妙見菩薩は日蓮宗寺院に祀られることが多いようです。<br />一方、「北辰妙見大菩薩」は宗教宗派によって様々な尊名で呼ばれます。道教では、「鎮宅霊符神」や道教の最高神「元始天尊」の化身である「玄天上帝」、 また「太一」や「北極紫微大帝」など時代や教義によって多彩に変化しながら北辰に纏わる神々として篤く信仰されています。更には、神道では「天之御中主 神」(あめのみなかぬしのかみ)、陰陽道に於いては道教に準じ崇められており、仏教においても「北辰妙見大菩薩」や「北辰尊星」など呼ばれます。いずれにせよ、日本に伝来し神仏習合して民間へ広まり、様々な立場において重要な地位にあって篤く信仰されています。

    鷲林山 常在寺 開運殿
    唐破風の兎の毛通しには鳳凰の彫刻、鬼瓦や軒丸瓦には九曜紋が躍ります。九曜紋は千葉氏の紋として知られ、中央の丸が北極星(妙見菩薩)を表します。中世には鷲頭氏や大内氏、千葉氏、九戸氏が妙見菩薩を一族の守り神として崇めました。千葉氏の氏神 千葉妙見宮(現 千葉神社)は源頼朝から崇拝を受けた他、日蓮も重んじました。また千葉氏が日蓮宗 中山門流の檀越であった関係から、妙見菩薩は日蓮宗寺院に祀られることが多いようです。
    一方、「北辰妙見大菩薩」は宗教宗派によって様々な尊名で呼ばれます。道教では、「鎮宅霊符神」や道教の最高神「元始天尊」の化身である「玄天上帝」、 また「太一」や「北極紫微大帝」など時代や教義によって多彩に変化しながら北辰に纏わる神々として篤く信仰されています。更には、神道では「天之御中主 神」(あめのみなかぬしのかみ)、陰陽道に於いては道教に準じ崇められており、仏教においても「北辰妙見大菩薩」や「北辰尊星」など呼ばれます。いずれにせよ、日本に伝来し神仏習合して民間へ広まり、様々な立場において重要な地位にあって篤く信仰されています。

  • 鷲林山 常在寺 開運殿<br />日蓮宗における「北辰妙見大菩薩」の姿は、亀の甲羅の上に立って剣を地に立てる立像と、受け太刀の能勢型と言われる座像の2形態あります。<br />亀に立つ立像は「玄天上帝」の逸話に因みます。「殷の紂王の時、魔王が民衆を傷付ける事件が起こった。それを知った元始天尊は、玉皇上帝に向かって玄天上帝に魔王を討たせるよう命じた。上帝はざんばら髪に裸足のまま兜を被り、六丁六甲の神将たちを従えて魔王と戦った。魔王が青亀と巨大な蛇に変身すると、神力で足下に踏み付けて地獄へ送り、天上に凱旋した。そして元始天尊は玄天上帝の尊号を与えた」。 この故事に基づき、岩上の青亀の上に立ち、白蛇を体に巻きつけ、2本の手で剣を地に立て、睨みを利かす姿をしています。また、亀と蛇が絡み合っている姿を「玄武」と称し、北の守護神として祀られています。

    鷲林山 常在寺 開運殿
    日蓮宗における「北辰妙見大菩薩」の姿は、亀の甲羅の上に立って剣を地に立てる立像と、受け太刀の能勢型と言われる座像の2形態あります。
    亀に立つ立像は「玄天上帝」の逸話に因みます。「殷の紂王の時、魔王が民衆を傷付ける事件が起こった。それを知った元始天尊は、玉皇上帝に向かって玄天上帝に魔王を討たせるよう命じた。上帝はざんばら髪に裸足のまま兜を被り、六丁六甲の神将たちを従えて魔王と戦った。魔王が青亀と巨大な蛇に変身すると、神力で足下に踏み付けて地獄へ送り、天上に凱旋した。そして元始天尊は玄天上帝の尊号を与えた」。 この故事に基づき、岩上の青亀の上に立ち、白蛇を体に巻きつけ、2本の手で剣を地に立て、睨みを利かす姿をしています。また、亀と蛇が絡み合っている姿を「玄武」と称し、北の守護神として祀られています。

  • 鷲林山 常在寺 開運殿<br />ご利益は、国土を守り、様々な悩みや災いを消し去り、敵を退け、寿命を増すと言います。災いを除き、福を招き、家を鎮め繁栄をもたらす「鎮宅霊符神」の要素と、北極星が航海の目印となることから海上安全の神、また海上貿易で利益を得ていた大商人が帰依したことから商業の神、そして「妙見」の字面から眼病平癒の神として民間に信仰が広まりました。また僧侶の教育機関「檀林」の守護神として、知恵の神とりわけ受験の神として信仰されるようになりました。

    鷲林山 常在寺 開運殿
    ご利益は、国土を守り、様々な悩みや災いを消し去り、敵を退け、寿命を増すと言います。災いを除き、福を招き、家を鎮め繁栄をもたらす「鎮宅霊符神」の要素と、北極星が航海の目印となることから海上安全の神、また海上貿易で利益を得ていた大商人が帰依したことから商業の神、そして「妙見」の字面から眼病平癒の神として民間に信仰が広まりました。また僧侶の教育機関「檀林」の守護神として、知恵の神とりわけ受験の神として信仰されるようになりました。

  • 鷲林山 常在寺 斎藤道三の供養碑<br />供養碑には「妙法蓮華経」の左に法号「圓覺院殿道三大居士」、右に命日「弘治第二歳四月廿日」が刻まれています。また供養碑の右脇にある標柱には、「稲葉山古城主齋藤道三公塚」と刻みます。<br />「悪名高き道三」として知られますが、晩年は決してそうではなかったようです。長良川の戦いにおける敗戦を予期し、戦死の前日に妙覚寺第19世 観照院日饒(道三の4男)に宛てた遺言状を認めており、妙覚寺(かつては当山の本山)に所蔵されています。尚、常在寺本堂のガラスケース内にもレプリカがあります。<br />1.娘婿の信長に美濃国を譲る。<br />2.2人の子息(4男・5男)には武士を捨てて寺に入ることを勧める。<br />これについては、当山第5世、第6世の上人がそれに当たり、旧過去帳にも明記されています。<br />3.自身のことを記し、今すべてのものを失うに当たり、信ずべきものは「この世の中」であると認め、辞世の句を挿入しています。<br />「一筆、涙ばかり。よしそれも夢。…<br />捨ててだに この世のほかは なき物を いづくかつい(終)の すみかなりけん」と「児まいる」の宛名で筆を締め括っています。<br />道三の人間像の一端を窺い知ることができます。合掌

    鷲林山 常在寺 斎藤道三の供養碑
    供養碑には「妙法蓮華経」の左に法号「圓覺院殿道三大居士」、右に命日「弘治第二歳四月廿日」が刻まれています。また供養碑の右脇にある標柱には、「稲葉山古城主齋藤道三公塚」と刻みます。
    「悪名高き道三」として知られますが、晩年は決してそうではなかったようです。長良川の戦いにおける敗戦を予期し、戦死の前日に妙覚寺第19世 観照院日饒(道三の4男)に宛てた遺言状を認めており、妙覚寺(かつては当山の本山)に所蔵されています。尚、常在寺本堂のガラスケース内にもレプリカがあります。
    1.娘婿の信長に美濃国を譲る。
    2.2人の子息(4男・5男)には武士を捨てて寺に入ることを勧める。
    これについては、当山第5世、第6世の上人がそれに当たり、旧過去帳にも明記されています。
    3.自身のことを記し、今すべてのものを失うに当たり、信ずべきものは「この世の中」であると認め、辞世の句を挿入しています。
    「一筆、涙ばかり。よしそれも夢。…
    捨ててだに この世のほかは なき物を いづくかつい(終)の すみかなりけん」と「児まいる」の宛名で筆を締め括っています。
    道三の人間像の一端を窺い知ることができます。合掌

  • 金鳳山 正法寺<br />黄檗山萬福寺の末寺であり、1683(天和3)年に廣音和尚が草庵を結んだのが始まりです。木造3層の大仏殿は明朝様式と和様を融合した江戸時代後期の建物です。大仏の収容スペースを確保するため、柱や梁、桁で構成されるフレームを貫とコーナー部分の火打ち梁を用いて結合して水平力を受け、内陣天井は吊天井構造としています。大仏を造立する初期段階から風雨を凌ぐ覆屋が不可欠であることから、大仏造立と並行して造営されたと考えられています。<br />大仏殿には岐阜大仏と呼ばれる巨大な釈迦如来像があり、日本三大仏のひとつとされます。因みに「三大」の3つ目には諸説あり、東大寺 奈良の大仏、鎌倉の高徳院 鎌倉大仏に続く3つ目は、「岐阜大仏、兵庫大仏、高岡大仏」でその座を争っています。<br />第11代 惟中和尚が相次ぐ大地震や飢饉に心痛め、これらのために亡くなった人々の菩提を弔うため、大釈迦如来の建立を発願しました。しかし大仏に使用する経本が集まらず、各地を托鉢したそうです。大仏の頭部だけが完成した頃、惟中和尚は志半ばで世を去り、その後を継いだ第12代 貞宗和尚により、1832(天保3)年に発願から38年の歳月を経て開眼供養が行われました。<br />https://www.gifu-daibutsu.com/

    金鳳山 正法寺
    黄檗山萬福寺の末寺であり、1683(天和3)年に廣音和尚が草庵を結んだのが始まりです。木造3層の大仏殿は明朝様式と和様を融合した江戸時代後期の建物です。大仏の収容スペースを確保するため、柱や梁、桁で構成されるフレームを貫とコーナー部分の火打ち梁を用いて結合して水平力を受け、内陣天井は吊天井構造としています。大仏を造立する初期段階から風雨を凌ぐ覆屋が不可欠であることから、大仏造立と並行して造営されたと考えられています。
    大仏殿には岐阜大仏と呼ばれる巨大な釈迦如来像があり、日本三大仏のひとつとされます。因みに「三大」の3つ目には諸説あり、東大寺 奈良の大仏、鎌倉の高徳院 鎌倉大仏に続く3つ目は、「岐阜大仏、兵庫大仏、高岡大仏」でその座を争っています。
    第11代 惟中和尚が相次ぐ大地震や飢饉に心痛め、これらのために亡くなった人々の菩提を弔うため、大釈迦如来の建立を発願しました。しかし大仏に使用する経本が集まらず、各地を托鉢したそうです。大仏の頭部だけが完成した頃、惟中和尚は志半ばで世を去り、その後を継いだ第12代 貞宗和尚により、1832(天保3)年に発願から38年の歳月を経て開眼供養が行われました。
    https://www.gifu-daibutsu.com/

  • 金鳳山 正法寺<br />岐阜大仏の像高は、奈良の大仏より1m程低い13.7mあり、乾漆仏としては日本一の大きさです。また素晴らしい福耳を持つ釈迦像であり、耳の長さは2mもあります。うっすらと開けた半眼の眼、その優しい眼差しは人の心の中を見透かしているようです。<br />岐阜大仏は岐阜城の城下町で生まれた伝統工芸の技術で造られています。信長が始めた楽市楽座で城下町が発展し、そこで生まれた技術の賜物とされます。<br />乾漆工法を用い、周囲1.8mのイチョウの木を真柱とし、骨格は木材、外部は竹で編み、その上に粘土を塗り、一切経・阿弥陀経・観音経などの経文を貼り付け、その上から漆を塗って「金箔」を貼り付けています。それ故、別名「籠大仏(かごだいぶつ)」とも呼ばれます。因みに胎内は空洞になっており、一刀彫りの木造阿弥陀如来様(秘仏)が鎮座されています。<br /><br />この続きは美濃国 岐阜紀行④岐阜公園(エピローグ)でお届けいたします。

    金鳳山 正法寺
    岐阜大仏の像高は、奈良の大仏より1m程低い13.7mあり、乾漆仏としては日本一の大きさです。また素晴らしい福耳を持つ釈迦像であり、耳の長さは2mもあります。うっすらと開けた半眼の眼、その優しい眼差しは人の心の中を見透かしているようです。
    岐阜大仏は岐阜城の城下町で生まれた伝統工芸の技術で造られています。信長が始めた楽市楽座で城下町が発展し、そこで生まれた技術の賜物とされます。
    乾漆工法を用い、周囲1.8mのイチョウの木を真柱とし、骨格は木材、外部は竹で編み、その上に粘土を塗り、一切経・阿弥陀経・観音経などの経文を貼り付け、その上から漆を塗って「金箔」を貼り付けています。それ故、別名「籠大仏(かごだいぶつ)」とも呼ばれます。因みに胎内は空洞になっており、一刀彫りの木造阿弥陀如来様(秘仏)が鎮座されています。

    この続きは美濃国 岐阜紀行④岐阜公園(エピローグ)でお届けいたします。

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