2023/10/21 - 2023/10/22
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montsaintmichelさん
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- 旅行記389冊
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- フォロワー169人
大学時代のサークル「ワンダーフォーゲル部15回生」の同期会「いちご会」が岐阜市であり、2018年以来の出席となりました。今回は記念すべき第10回の節目でもあり、同期12名中10名が出席。因みに初回開催は25年程前のことで、伊勢志摩に集いました。
初日は集合時間に間に合わないため、ホテルで合流することにして自由散策を愉しみました。
最初に向かったのは、NHK大河ドラマ『麒麟がくる』で帰蝶役を演じられた川口春奈さんも訪れた「濃姫遺髪塚」です。少し判り難い場所にポツンとありますが、西野不動が目印です。本能寺の変の際、濃姫は織田信長と共に亡くなり、家臣のひとりが逃げ延びて濃姫の故郷である岐阜に遺髪を持ち帰り、西野不動に埋葬したとの風聞があります。
信長繋がりで次に向かったのは信長父子廟のある崇福寺です。ここには豊臣秀吉がプロデュースし、大徳寺 総見院で執り行われた葬儀の際に使われた位牌が安置されています。どのような経緯で崇福寺に安置されたのか、その謎解きに挑んでみました。
最後は濃姫繋がりで「道三塚」を訪ねました。斎藤道三は濃姫の父親です。次々と主君を謀殺して国盗りを果たしたことから「美濃の蝮」の異名を持ちます。しかし「道三塚」のある場所は今は住宅密集地となっていますが、塚は移転されるどころか、崇敬の対象となっています。その理由を探ってみました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
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JR岐阜駅 北口(ペデストリアン・デッキより撮影)
駅舎外壁には透明の板を張るなど、「杜の中の駅」をコンセプトに設計されています。北口駅前広場の設計はテイコク、日建設計シビル(デッキ、大屋根)、建設技術研究所のコラボです。
中央北口と繋がるウッドデッキの上方には伝統の岐阜和傘を彷彿とさせる意匠を纏った「大屋根」がその存在感を顕わにしています。 -
JR岐阜駅 北口 黄金の信長像
JR岐阜駅北口の「信長ゆめ広場」には織田信長の黄金像があります。
この黄金像は岐阜市制120周年(大還暦)を記念して2009年に「信長公の銅像を贈る会」が設置したものです。市民からの寄付により制作費3千万円を集めて岐阜市に寄贈したそうです。 -
JR岐阜駅 北口 黄金の信長像
「新しいもの好き」と言われた性格を表すようにマントを羽織り、右手に火縄銃、左手に西洋兜を持って真っすぐ前方を凝視する雄姿は、常に時代の最先端を駆け抜け、変革を目指した信長を象徴しています。 -
JR岐阜駅 北口 黄金の信長像
金箔3層張りで像高は約3mあり、台座を含め総高は約11mにもなります。制作者は富山県高岡市で(有)田畑功 彫刻研究所を営む田畑功氏です。長岡京市にある「細川忠興とガラシヤの像」や 長野市松代象山神社にある「佐久間象山公馬上像」、上越市 新潟県立謙信公武道館広場の「上杉謙信公騎馬像」などを手掛けられています。
尚、信長像が向いている方角は「信長のおもてなし」の気持ちを反映させています。来訪者を迎え入れる意味合いを込め、JR岐阜駅北口の中央出入口に向けて設置されています。北口を出た途端、信長と目線が合うコンセプトです。 -
JR岐阜駅 北口 大屋根
岐阜バスのターミナルはデッキの下にあります。
「濃姫遺髪塚」へは11番乗り場から市内ループ線「左回り」に乗車し、市役所・メディアコスモスバス停で降車します。
バスは7分ほどで到着します。 -
濃姫遺髪塚
メディアコスモスから少し入り組んだ道を進みます。Googleマップなら「濃姫遺髪塚」でルート検索できます。バス停から徒歩7分ほどの距離です。
「美濃の蝮」として恐れられた斎藤道三の娘であり、織田信長に嫁いで正室となった「お濃」の遺髪塚と伝わります。
因みに「濃姫遺髪塚」以外にも1992年に大徳寺総見院で濃姫(養華院)を供養する五輪塔が発見されています。総見院は豊臣秀吉が信長の一周忌に菩提を弔うために創建したもので、信長をはじめとする織田家一族7基の五輪塔が並んでいます。濃姫の没年は1612(慶長17)年とされ、信長の死後30年間も生き延びた計算になります。
一方、他の記述では養華院は信長の寵妾とされています。「妾」の意味合いが微妙なのですが、語源を調べると「わらわ」とも読まれ、女性が自らを謙遜する語として近世の武家の女性が用いたようです。この解釈であれば、「養華院=寵妾=濃姫」が成立します。
因みに、NHK大河ドラマ『麒麟がくる』で帰蝶役を演じられた川口春奈さんも2020年12月22日に遺髪塚を訪れたそうです。 -
濃姫遺髪塚
濃姫は本能寺の変の際、信長と共に亡くなり、家臣のひとりが逃げ延びて濃姫の故郷である岐阜に遺髪を持ち帰り、岐阜城下を守る四天王のひとつである西野不動に埋葬したとの風聞があります。
濃姫といえば、本能寺の変で勇ましく薙刀を振るい、信長と共に戦って亡くなるシーンを思い浮かべられる方も多いと思いますが、これは小説やドラマなどの創作による描写とされ、濃姫が本能寺で戦死したとする史料は確認されていないようです。
また、信長の京入りは毛利氏と対峙している秀吉軍の援助が目的ですから、戦場に赴く大将が女性を同伴するのは往時ではあり得ない事実背景であり、殆どの専門家が否定しています。
因みに、生前に髪の毛を奉納することもあります。髪は女性の命とも言われますが、出家して髪を切ったとも推測できます。分身である髪を信長の供養のために納めたとも考えられるのでは!?
例えば、江戸幕府のブレーンとなった天海和尚の「毛塚」も上野公園にありますが、これは天海が生前に自らの髪塚を江戸城の鬼門に当たる場所に造り、江戸の地を守ろうとしたものです。 -
濃姫遺髪塚
西野不動と墓石は太平洋戦争の空襲で焼失したそうです。戦後、不動が再建されることはなく、かつての境内は住宅街に姿を変えました。しかし1975(昭和50)年に濃姫のお墓の碑文が発見されるに至り、氏子有志がかつての境内の一角に残されたムクノキの下に遺髪塚を再建したそうです。
さて濃姫ですが、信長の正室ながら輿入れ後の記録が殆どなく、謎多き女性とされます。しかしこの時代、子を産まなかった女性の名前もしくは呼称、来歴などが残される方が珍しいと言えます。秀吉の正室 北政所や秀吉の妹で後に家康の正室となる朝日姫などの方が特例と言えます。
美濃国史書『美濃国諸旧記』によると、1535(天文4)年に斎藤道三と才色兼備と謳われた側室 小見の方との間に生まれた長女が「お濃」です。別名「帰蝶」、「濃姫」「鷺山殿」とも書き、史料『武功夜話』には「胡蝶」の記述も見られます。小見の方は、明智一族の出自で、明智光秀とも縁者だったようです。 -
濃姫遺髪塚
碑文には「寛文5年乙巳(1665年)」と記されており、濃姫没後かなり後世の建立と言えます。その理由は、濃姫の母親が謀反を起こした明智光秀の縁者だったことから、没後すぐに墓を建てることが憚られ、徳川時代に入って家康が光秀を尊敬し、春日局など明智ゆかりの者が台頭した後に縁者が建てたと考えれば腑に落ちます。
『美濃国諸旧記』には、信長との結婚に関する記述はありますが、それ以降、「お濃」に関する記録は途絶えます。側室 お鍋の方が産んだ奇妙丸(後の信忠)を養子としたことから、「お濃」は子宝に恵まれなかったとするのが通説ですが、仮に女児を産んでいてもその生母は不明の場合が多く、本当に子がいなかったかどうかは確かではないようです。
因みに公家 山科言継(ときつぐ)の『言継卿記』には、「信長本妻が女児を産んだ」と記されています。本妻の子なのに、その女児の名やその後も不明であり、もしかすると生後間もなく亡くなったとも考えられます。そもそも、その本妻が「お濃」だと断定することもできません。 -
濃姫遺髪塚
石碑には「髭題目(ひげだいもく)」と呼ばれる日蓮宗独特の髭文字で「南無妙法蓮華経」と刻まれており、斎藤家が日蓮宗と深い関わりがあったことを窺わせます。「髭題目」とは「法」の字以外の文字の筆端を髭のように四方に延ばして書かれたものです。「法」の光に照らされ、万物が真理を体得し活動する様子を表わすとされます。
調べてみると、斎藤道三の菩提寺 常在寺の往時の住職は日運上人でした。また、道三の4男 日饒(にちじょう)と5男 日覚(にっかく)は常在寺の住職を務めています。 -
西野不動
岐阜市不動町にある西野不動の由来は、織田信長が岐阜城下町の守護として四方に伊奈波の善光寺「善光寺如来」、西野「不動」、小熊「地蔵」(慈恩寺)、美江寺「観音」という四天王を祀ったことに始まります。
祀られている西野不動尊像は、弘法大師が41歳の時に彫ったものとされ、かつては旧海津郡蜂須賀村に堂宇を建立して安置されていました。その数百年後、岐阜を本拠地にした信長がこの地に移し、岐阜城の守護仏のひとつとしたと伝えます。 -
西野不動
「お濃」に関する史料は少ないのですが、その人柄を知らしめる逸話が幾つかあります。
代表的なものは、織田家輿入れの際の短刀エピソードです。往時の信長は「大うつけ」と噂されており、道三は「もしその噂が本当ならば、信長を亡き者にしろ」と短刀を渡しました。それを受け「お濃」は「この短刀で父上を刺すことになるかもしれません」と答えました。この逸話が今日に伝わる「強い濃姫像」を形成したと言えます。
また、「本能寺の変」を画題とした浮世絵『本能寺焼討之図』には、薙刀を持って勇ましく戦う女性の姿があり、それが濃姫と考えられています。もしこれが事実ならば濃姫は信長と共に本能寺で亡くなったと考えられます。
その一方、信長の次男 信雄が1587(天正15)年頃の家族や家臣団の構成をまとめた『織田信雄分限帳』には、「お濃」を指すと思われる「あつち殿(安土殿)」という女性が登場します。600貫文の知行を与えられた地位の高い女性との記述があり、これが事実ならば本能寺の変で亡くなることなく、生存していたことになります。 -
西野不動 鯖大師
独鈷の代わりに鯖を右手に提げた弘法大師「鯖大師」が堂宇の右側に安置されています。民間信仰でかつては路傍に石像が置かれ、漁業や陸運業の安全や繁栄、牛馬の加護を願う対象だったそうです。しかし岐阜県は海に面していないので、場違いな像とも言えます。長良川鵜飼に因んで「鮎大師」なら腑に落ちるのですが…。
ここで「鯖大師」の伝説を紹介しておきましょう。
急な坂道で旅の僧が休んでいると、馬に塩鯖を積んだ馬子が通りかかりました。僧は馬を休ませてやろうと鯖を乞いましたが、馬子は僧を嘲りそれを拒みました。馬子の去り際、僧が呪歌を唱えると急に馬が苦しみだして動かなくなりました。
やがて馬子が僧に塩鯖を差し出して許しを請い、僧からもらった加持水を飲ませると馬は元気になりました。僧が再び呪歌を唱えながら塩鯖を海へ浸けると、塩鯖は生き返って泳いで行ったとさ。
因みに江戸時代以前に阿波国に伝わっていた伝説では、この僧は行基とされていました。明治時代以後には、僧を空海とする伝説が敷衍し、鯖大師伝説は弘法大師伝説のひとつへと変容していきました。 -
西野不動
大正時代に奉納されたという賽銭箱の鋲飾りやいかつい錠前が粋です!
信長の正室として知られる「お濃」ですが、最新の研究では信長は3人目の夫とされています。
岐阜県史編纂の過程で発見された近江の戦国大名 六角承禎が家臣 蒲生定秀らに宛てた書状『六角承禎条書写』によると、「お濃」は最初に美濃国守護 土岐頼芸(よりのり)の甥 土岐頼純の正室となりました。これについては、1546(天文15)年に斎藤道三が朝倉孝景と和睦し、土岐頼芸が守護職を頼純に譲る際、和睦の証(人質)として12歳の娘を頼純へ嫁がせたと記しています。しかし大桑城に入った頼純は、その翌年に突然急死します。往時、尾張から勢力を伸ばしてきた織田信秀との合戦も繰り返されており、頼純は道三を討つため信秀に援護を頼みました。それが道三の知るところとなり、逆に暗殺されたと考えられています。
2人目の夫は頼純の弟 頼香(よりたか)です。その頼香の死にも道三が関与していたとの説があります。『信長公記』は、「(道三は頼香を)籠の鳥のように扱った。それで、八郎(頼香)は雨夜にまぎれて逃げ出し、尾張を目指して馬で出奔した。道三はこれを追いかけ、つかまえて切腹させた」と語ります。つまり、「お濃」は幼くして夫の命を二度も実父に奪われたのです。 -
西野不動
その頃、尾張 清洲城の織田信秀は稲葉山城を攻撃していました。織田勢の侵攻が執拗に続き、1549年に道三は政略結婚として「お濃」(14歳前後)を信秀の子 信長に嫁がせて婚姻同盟を結びました。
1556年、道三は子 義龍から攻撃を受け、長良川の戦いにて討死。この時、信長は濃姫の父 道三を援助するため出陣するも、途上で道三敗死の知らせを受けて退却しています。その後、「お濃」は岐阜城下の常在寺に道三の肖像画(重文)を寄進しました。その時期は不詳ですが、信長が稲葉山城を攻略し美濃を治めて本拠として移転したのが1567年です。正室「お濃」も恐らく改築した岐阜城に入ったはずですから、それを察すると1568年頃に肖像画を奉納して供養したものと思われます。 -
西野不動「濃姫の肖像画」
西野不動尊の堂宇の中には昭和時代に描かれた「濃姫の肖像画」が奉納されています。犬の狆(チン)を右手に抱き、色白でとても美人に描かれており、作者と思しき署名には「嘉子」とだけ書かれています。
以上が「お濃」に関して判っていることで、これ以降の動向は不明です。没年や菩提寺、戒名も不明のため、その死に関しても諸説紛々です。
①離縁説:嫡子が産まれなかったことから、早い時期に信長が離縁したとも考えられています。道三の死去で婚姻同盟も意味が失われており、手切れと同時に「お濃」を小見の方の実家である明智光安の明智城に返したのではないかと推測されています。
②早世説:信長と離縁した5ヶ月後、斎藤義龍は明智城を攻撃し、落城させています。その際、明智城に居た「お濃」(22歳)も明智一族と運命を共にしたとされます。
③上記②説の否定説:『言継卿記』には、足利義昭を擁した上洛の際、斎藤家の後家をかばう「信長の御台所」の記述があります。
また、『妙心寺史』には、「1583(天正11)年6月2日、信長公夫人主催で清見寺住持の月航玄津が一周忌を執り行った」との記録もあります。これらが「お濃」であれば、離縁も早世もしていないと考えられます。 -
西野不動「濃姫の肖像画」
④「本能寺の変」死亡説:本能寺の変の際、「お濃」は本能寺に居り、信長と運命を共にしたとする説です。
尚、真逆の生存説として、本能寺の変の際、「お濃」は安土城にいたとも考えられています。変の直後、蒲生賢秀が安土城から日野城へ信長公御台君達などを避難させたとの寛永年間の史料『氏郷記』が存在し、定説では「御台=正室」とされるからです。ただし、それが「お濃」であったとは明記されていません。更に、江戸時代中期に書かれた軍記物『明智軍記』には、48歳だった「お濃」は信長を裏切って明智家に味方したともあります。
⑤長寿説:1587年に信長の次男 信雄が家臣の家格や役割などに応じて所領や扶持高などを記した『織田信雄分限張』には「安土殿」や「大方殿様」という記述があり、600貫文の化粧料が与えられています。これが「お濃」であれば、本能寺の変以降も生存していたと考えられます。
尚、この頃、織田家の奥を取り仕切っていたのは側室 お鍋の方であり、安土城では実質的な正室のような存在でした。そのためお鍋の方だった可能性も否めません。
また、総見寺所蔵『泰巌相公縁会名簿』には、安土殿の戒名として「養華院殿要津妙玄大姉 慶弔十七年壬子七月九日 信長公御台」と記されており、この「信長公御台」が「お濃」のことであれば78歳まで生きたことになります。 -
長良川 金華橋より
橋の下にはシーズンを終えた鵜飼観覧船が並んでいます。
ルート上は「濃姫遺髪塚」の次は「川原町」になりますが、濃姫絡みで信長父子の位牌が安置されている崇福寺のレポを先にいたします。
因みに「濃姫」という通称は「美濃国出身の高貴な女性」という意味であり、信長と婚姻後の名とされているようです。
一方、岐阜の名産イチゴにこの姫の名を冠した銘柄「濃姫」があります。2019年のデータによると、岐阜県下で36%のシェアを誇る主力品種のひとつだそうです。それであれば、父親や夫に次いで「濃姫の国盗り物語」が成立したと言えるのでは…。 -
長良川 金華橋より
こうして見ると、岐阜城が聳える金華山の山裾を長良川が流れ、「天然の要害」という言葉がよく実感できます。
画像中央には今回お世話になった「ぎふ長良川温泉ホテルパーク」が写っています。1894(明治27)年に「明治館」として開業した歴史あるホテルであり、川端康成ゆかりの宿です。
ホテルのHPです。
https://hotelpark.jp/index.html -
神護山 崇福寺
岐阜市長良福光に佇む崇福寺は山号を神護山とする臨済宗 妙心寺派の寺院です。寺伝によると、その前身は大寿山崇福寺とされ、1390(明徳元)年に土岐満康が創建した一山派(五山)の寺とされます。また、一説には1469(文明元)年に守護 土岐成頼と美濃国守護代 斎籐長弘(利安)により開山されたとも伝わります。
その後、戦国時代の1511(永正8)年に斎藤氏の一族である斎藤利匡(としまさ)が寺を移して再興し、1517(永正14)年に独秀乾才禅師(悟渓宗頓の法嗣)を招いて中興開山し、寺号も大寿山崇福寺から神護山崇福弘済禅寺に改称し臨済宗 妙心寺派に転派しています。利匡は白樫城から文殊城(祐向山城)に移り、後に長井新左衛門尉(斎藤道三の父)に殺害された長井長弘と同一人物とも見られています。
織田信長及び有栖川宮家ゆかりの寺院となっており、本尊には鉊珪(しょうけい)作の延命地蔵菩薩と慈覚大師作の聖観世音菩薩を祀ります。また、美濃三十三観音霊場第十五札所でもあります。更には、境内に「織田信長父子廟」があることで知られます。信長の廟所は全国に20箇所ほどありますが崇福寺もそのひとつです。
http://www.sofukuji.net/index.html -
神護山 崇福寺 山門
1567(永禄10)年、織田信長が斎藤道三の孫 斎藤龍興を滅ぼし、美濃に本拠を移して岐阜城を改修すると共に崇福寺を織田家の菩提所と定めました。しかし1582(天正10)年、本能寺の変で信長と子 信忠が明智光秀に討たれました。
この時、信長の側室 お鍋の方は、変の4日後には崇福寺を信長の位牌所と定め、「いかなる者の違乱を許さない」と自筆で寺に命じています。こうして、信長の遺品などが崇福寺に持ち込まれて埋められ、位牌も安置されました。
因みに、武田氏滅亡の折に甲斐国 恵林寺で織田信忠に山門上で焼き殺され、「安禅不必須山水(安禅は必ずしも山水をもちいず)、滅却心頭火自涼(心頭を滅却すれば 火も自ずから涼し)」の辞世で知られる快川紹喜(かいせんじょうき)は崇福寺3世住職でした。実はこの言葉は快川国師が作ったものではなく、宋時代の仏書『碧巌録』に収められた詩の一部です。「心頭」とは「煩悩」の意ですから、煩悩に惑わされずに無念無想の境地に入れば、現実世界の様々な雑音が消えるという意味です。快川国師が最期に言いたかったのは、「坐禅をするのに必ずしも静かな山中や水辺にいる必要はない。『無』の境地になれば、業火の恐ろしさも感じず、火さえも涼しく感じられる」ということのようです。
自ら殺害した快川紹喜ゆかりの寺院に位牌を安置されるとは、信忠の心中はいかばかりでしょう。肩身が狭く、居心地が悪いのでは!? -
神護山 崇福寺 山門
軒丸瓦には「三つ葉葵の紋」が燦然と輝いています。
江戸時代に入ると、3代将軍 徳川家光の乳母 春日局の外祖父 稲葉一鉄が幼少時に崇福寺で小僧として修行していたという縁、あるいは春日局とこの寺院の7世住職 慶甫玄賀が姻戚関係(甥)だった縁などから、徳川家の手厚い庇護を受けて寺領32石が安堵され、朱印状が発給されています。 -
神護山 崇福寺 山門内石庭
真直ぐに伸びる石畳を挟んで左右に禅宗寺を象徴する山門内石庭が続きます。
信長が崇福寺を織田家の菩提所に定めたのは、この地が天下統一へのスタート地点だったこともありますが、それ以外にも理由があります。
1567(永禄10)年に信長が岐阜に移った際、若くして亡くなった側室 吉乃(きつの:久庵桂昌(久庵慶珠):信忠の母))を岐阜でも弔うため、崇福寺を吉乃の菩提所とし、その位牌を江南 久昌寺から移したという縁もありました。また、1577(天正5)年の崇福寺宛信忠書状には「亡母久庵慶珠の位牌所とする」と記されています。 -
神護山 崇福寺 大方玄関
唐破風を構えた大方玄関には式台が設けられ、格式高い寺院であることが窺えます。当方は凡人ゆえ玄関の右側にある別の入口へ回ります。大方玄の右関脇にあるインターホンを押し、拝観料200円を支払って本堂内部と信長父子廟などを拝観させて頂きます。 -
神護山 崇福寺 大方玄関
鬼瓦と蟇股には「三つ葉葵紋」が躍ります。
兎の毛通しには、何故か加賀 前田家の「加賀梅鉢(幼剣梅鉢)紋」が見られます。 -
神護山 崇福寺 本堂
本堂は1644(正保元)年に建立されたものだそうですが、全くその年季を感じさせません。拝観料200円で本堂内部と本堂裏手にある織田信長父子廟などが拝観できます。本堂では拝観者のために寺院の歴史や寺宝について音声アナウンスのテープが流がされ、それに傾聴しながら展示品を鑑賞できます。尚、本堂内部や展示物も全て撮影可です。
左:有栖川宮熾仁親王 染筆「寄松祝」
達筆過ぎて解読できませんが、和歌と思しき掛け軸です。
中央:独秀乾才禅師頂相(国重要美術品)
右:独秀乾才禅師の200年遠諱を記念し、桜町天皇より勅諡法智普光(ししはちぶこう)禅師の禅師号を賜った時の「禅師号直筆」があります。写り込みがひどいので崇福寺HPを参照してください。http://www.sofukuji.net/bijutsu.html
有栖川宮家初代の好仁親王が、京都にいた崇福寺6世住職 一宙東黙から教えを受けたのが縁です。1638(寛永15)年に親王が他界すると、崇福寺に位牌が安置されました。
その後の8代 熾仁親王の代に再び有栖川宮家の祈願所となりました。尚、一宙東黙は稲葉一鉄の甥に当たり、崇福寺7世住職 慶甫玄賀は春日局の甥に当たります。 -
神護山 崇福寺 織田信長公教訓の絵
「へらすてて すぐにきをもち かせぎなば おのずからみを もちあぐるなり」
草を取る竹べらのようなものを捨て、まっすぐな気を持って努力すれば出世するという意味です。信長が教訓にしていたと伝わります。
強烈な上昇志向の持ち主だった信長。それ故、下剋上の世を制し、天下統一へと一気に駆け抜けられたのでしょう。しかし上だけを見ていた訳ではなく、自分を頼ってすがる者にはきちんと手を差し伸べました。
側室 お鍋の方も信長に救いを求めたうちのひとりです。彼女は山上城主の小倉賢治(かたはる)に嫁ぎました。しかし信長の朝倉氏攻めの際、賢治は敵である信長を清須城へ撤退させる援護をし、その件で観音寺城主 六角氏に攻め込まれ自刃(諸説あり)。息子2人も人質となりました。この悲劇に彼女は果敢に立ち向かい、息子たちを取り戻すために信長を頼りました。これが縁でやがて信長の側室となり、息子たちも無事救出されました。「殿のご恩を決して忘れてはなりません」と、息子たちは、常々、母から言い聞かせられていたそうです。やがて息子の「甚五郎」と「松千代」は信長の家臣となり、松千代は本能寺の変の際、信長のもとへ駆け付けて殉死しています。また甚五郎は、本能寺の変の翌年に羽柴秀吉から加賀 松任城主に任じられるも、気鬱のため亡くなっています。
その後、お鍋の方には羽柴秀吉から近江国神埼郡に500石の化粧領を与えられましたが、関ヶ原の戦いで子 信吉が西軍に与したことから没収されて困窮。淀殿と北政所から計80石の知行を与えられ、1612(慶長17)年6月25日、京都で死去。 -
神護山 崇福寺 本堂
左:住職駕籠
中央;櫓時計
織田信長がポルトガルの宣教師から寄贈され愛用したとされる櫓時計(一説には江戸時代に作成されたものとも)。
右:徳川御朱印櫃(32石)
江戸時代には、徳川家より32石をいただき、朱印地に指定されました。 -
神護山 崇福寺 清洲城「鯱瓦」
かつての信長の居城 清須城の鯱瓦です。
因みに、清洲城の模擬天守の鯱瓦はこれを参考に造られたそうです。
今川義元を破った桶狭間への出陣や徳川家康との清洲同盟を見守ってきた歴史の生き証人です。 -
神護山 崇福寺 藤原土佐守光貞筆「六曲一双屏風」
土佐光貞は江戸時代中期から後期に活躍した土佐派の絵師です。
絵師としての才能は兄である土佐光淳よりも優れており、以後の土佐家は本家より光貞の分家の方が繁栄したそうです。 -
神護山 崇福寺 本堂
ご本尊は鉊珪(しょうけい)作の延命地蔵菩薩と慈覚大師作の聖観世音菩薩です。
中央に祀られているのが地蔵菩薩像。その両脇に織田信長と開山 独秀乾才禅師の絵姿があります。
因みに聖観世音菩薩像は信長の肖像画の下の垂れ幕で隠されています。
まずは正座して合掌! -
神護山 崇福寺 本堂
左脇には位牌が安置されたスペースがあります。
織田家「木瓜紋」が入れられた威厳ある位牌堂です。 -
神護山 崇福寺 本堂
本堂に安置されている信長(中央右)と信忠(中央左)の位牌は葬儀の際に使われたものとは異なるようです。
また、ここには一条兼良の娘 細姫(利貞尼)の位牌(信忠の左)も同居しています。夫 斎藤利国が戦死した後、悟渓宗頓禅師の弟子となって利貞尼と称して仏門に入り、大本山妙心寺のために奔走した女性です。
左端にあるのは稲葉一鉄の位牌です。
右端のキラキラは「贈歴住妙心玄宗達禅師大和尚」と書かれた位牌です。 -
神護山 崇福寺 血天井
血天井で有名なのは京都の養源院 正伝寺ですが、京都の血天井も崇福寺同様に関ヶ原の戦いの前哨戦のものであり、東軍の鳥居元忠以下の家臣が伏見城で自刃した際のものです。 -
神護山 崇福寺 血天井
崇福寺の「血天井」は本堂前の廊下にあります。
1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いの前哨戦にて、羽柴秀吉の庇護を受けた信長の孫 三法師秀信が守る岐阜城は徳川家康に与した福島正則や池田輝政らに攻撃され落城の憂き目に遭いました。秀信は池田輝政らに説得され自刃を断念して高野山へ送られましたが、入山を拒まれて山麓の橋本にて短い一生を終えています。享年26。
因みに秀信が高野山への入山を拒絶された理由は、秀信がキリシタン大名だったことも一因ですが、それよりもかつて信長が高野山を攻めたことがあり、その恨みから信長の孫が入山するのは許せなかったようです。 -
神護山 崇福寺 血天井
岐阜城天守が落城した時の床板を譲り受けて天井に張っており、今でも「鎖かたびら」や「鎧ひだたれ」、「手の跡」の黒ずんだ血痕が生々しく滲む様にはおどろおどろしいものがあります。
自刃した38名の武将や将兵の菩提を弔うため、敢えて天井板に血染めの床板を張ったそうです。それは「もう二度と踏まれないように=凄絶な死に方をした人々が再び蹂躙され、屈辱を与えられないように」という意味合いからだそうです。現在の供養の感覚とは乖離した感覚ですが、自然と手を合わさずにはいられない心持になります。合掌! -
神護山 崇福寺 本堂
本堂左端には崇福寺の寺宝が所狭しと展示されています。 -
神護山 崇福寺 信長直筆の書『雪月花(せつげっか)』
これも見逃せません。
「雪月花」とは、四季折々の雅趣ある自然の移ろい、その儚さ、美しさの象徴としての冬の雪、秋の月、春の花を総称した言葉だそうです。出典は白居易の詩『寄殷協律』の一句「雪月花時最憶君(雪月花の時 最も君を憶ふ)」です。
因みに日本の宮廷文化においては、しばしば珍しい取り合わせとして、また「最憶君」との連想が好まれたようです。しかし「君=友」の意であり、白居易の「最憶君」は中国文人の伝統である交友を念頭に置いています。それ故、女性への思いが入る余地は微塵もないそうです。
信長の名言に「だいたい人は、心と気を働かすことをもって良しとするなり」があります。信長は神経質な怖い上司であり、小姓は戦々恐々としていました。「誰か参れ」と信長が呼ぶと小姓が飛んできます。それを何度も繰り返すも、誰も信長の意を汲み取れませんでした。
しかし、最後の小姓が座の横に塵が落ちているのに気づき、それを拾いました。人は心と気を働かせて初めて物事を成し遂げられる。畳に落ちた小さな塵に気づいてこそ、きちんとしたことができるのだと信長は云います。
さて、その信長がどのような心境でこの書を筆にしたのか興味深いところです。 -
神護山 崇福寺 信長禁制書
信長が崇福寺を菩提所とし、特別保護をした際の禁制書です。花押は「麒麟」を用いています。
「當寺並門前、可為如前々、猥伐採竹木、於致陣取・放火・濫妨狼藉輩者、可加成敗之状如件
永禄10年9月 信長(花押)
崇福寺」
(当寺ならびに門前では、前々からの規定を守れ、みだりに竹木を伐採したり、陣取ったり、 火を放ったり乱暴狼藉したりするものがあれば成敗を加える。) -
神護山 崇福寺 お鍋の方からの黒印状(書状:崇福寺宛)
信長の最後の側室 お鍋の方(興雲院)が崇福寺に宛てた折り紙の書状です。
本能寺の変の4日後、「小倉おなべ」の名で信長と信忠の位牌を崇福寺に安置するという重要な内容を認めたものです。
「かくべつに折紙に書いて申します。この崇福寺は信長様の位牌所でありますので、何人といえども寺地を違乱しようとする者が居れば、お断りするがよろしい。そのために一筆申しあげます」。「かくべつに…」から始まる書状にはその緊急性と秘匿性が垣間見られます。
このように最愛の夫の死の悲しみすら後回しにして奔走したお鍋の方。信長に献身的だった彼女は、その後も京都で没するまでひっそりと弔い続け、今は大徳寺 総見院の織田一族の墓で安らかに永遠の眠りに就いています。 -
神護山 崇福寺 お鍋の方からの黒印状(書状:信長の家臣・丹羽長秀宛)
そしてもう一通、日付はありませんが、信長の家臣 丹羽長秀に宛てた書状です。「こちらへ来られたとのこと、うれしく思います。長良に陣取るよし、その内の崇福寺は信長様、信忠様親子の忌中ですから、寺、大門に放火や乱暴狼籍を禁じる制札をかかげ、一人として寺内に入れぬよう取り締まって下さい」。 -
神護山 崇福寺 お鍋の方使用の古鏡
織田信長が最後に愛したのが「お鍋の方」とされます。
お鍋の方は、本能寺の変後は即座に陣頭指揮を執り、女性と子供を待避させた上、嫡子 信忠の居城 岐阜城へ出向き、信長の遺品を整理しました。
そして崇福寺を信長と信忠の位牌所と定めました。 -
神護山 崇福寺 徳川家光使用「道中煙草盆」
崇福寺は江戸時代になると徳川家より32石を頂き、朱印地に指定されました。
3代将軍 家光の乳母 春日局と当山7世 慶甫和尚は姻戚関係(甥)にあり、家光の色紙や道中煙草盆等が残されています。 -
神護山 崇福寺 徳川家光 直筆の色紙
寄風恋「きくやいかに うはの空なる 風たにも 松におとする ならひありとは」
『新古今和歌集』にある後鳥羽院宮内卿(後鳥羽院女房)が詠んだ和歌です。
1202(建仁2)年9月13日、後鳥羽院主催の水無瀬殿恋十五首歌合に出された詠です。
あなたには聞こえますか?どのように聞こえますか? 空高くに吹く風ですら松に音を立てる(待っている人を訪れる)習性があるということを…。(それなのに、あなたは待っている私を訪れてくれないのですね。) -
神護山 崇福寺 豊臣秀吉禁制書
信長に負けじと、秀吉も禁制書を出しています。 -
神護山 崇福寺 鳥羽僧正『非情成仏絵巻』
日本最古のものとされる通称「付喪神(つくもがみ)絵巻」は室町時代後期の作で東寺より譲り受けた絵巻です。粗末にされた古道具が恨みを晴らすために妖怪(付喪神)になって人を襲い享楽を尽くしますが、密教の法力により護法童子に調伏されて悪行への反省から出家して真言宗を学び、深山で修行した後に成仏するという日本古来のアニミズムが描かれています。 -
神護山 崇福寺 鳥羽僧正『非情成仏絵巻』
「非情成仏」とは天台宗や真言宗で言う「草木非情 発心修行成仏」の思想であり、「命あるものが自ら発心修行して成仏できるのであれば、どうして草木や非情(石や瓦や生活道具)など命のない物にそれができないといえるだろうか」という意味であり、「あらゆるものには仏心がある」ことを伝えるものです。 -
神護山 崇福寺 鳥羽僧正『非情成仏絵巻』
展示されている『非情成仏絵巻』(部分)は、煤払いで器物が捨てられる場面を描写しており、物語のイントロ部に当たります。 -
神護山 崇福寺 土岐頼高 筆『土岐の鷹』
土岐頼芸は多くの鷹の絵を残し、その絵は『土岐の鷹』と称されました。
この絵の作者は頼芸の孫に当たる頼高ですが、土岐氏は代々鷹の絵を得意としたことが窺えます。 -
神護山 崇福寺 玉礀 筆の掛幅
中国南宋の画僧 若芬玉礀(じゃくふんぎょっかん)が描いた2羽の雁の墨絵です。
玉礀の画風は、雪舟『破墨山水図』以下、室町時代以降の日本の水墨画家に影響を与えたそうです。
破墨山水を得意とし、代表作に『廬山図』や『瀟湘八景図』があります。 -
神護山 崇福寺 襖の引手
引手の中央には五三桐紋が躍ります。
通常、皇室から直接「五七桐」を下賜された家から家臣などに家紋を与える場合に「五三桐」となります。
戦国武将では織田信長や細川藤孝、細川忠興などが用いました。 -
神護山 崇福寺 土塀
本堂の拝観を終え、拝観順路に従って本堂の土塀に設けられた木戸を潜り抜けると、
よく手入れされた枯山水の石庭があります。
木戸の手前には大きな龍舌蘭が存在感を顕わにしています。
また、土塀の線の数からも格式の高さが窺えます。 -
神護山 崇福寺 本堂前の石庭
左手奥にはドルメン(巨石墳墓)を彷彿とさせる立石が並び、枯山水の趣きを醸します。 -
神護山 崇福寺 中門(勅使門)
関白 一条兼良(かねら)が寄贈した大本山妙心寺の中門です。
一条兼良は室町時代随一の知の巨人とされるも、不幸にも関白就任直後に応仁の乱が勃発。無益な争いが続く都に嫌気を指して奈良に移りましたが、1473(文明5)年に美濃の実力者 斎藤妙椿(みょうちん)の招きで美濃へ下向して「連歌百韻」に参加しました。美濃下向について紀行文に記したのが『藤河の記』です。因みに斎藤道三にお家が乗っ取られるのは、妙椿から3代ほど後の話です。
斎藤長弘(利安)の兄 利藤は一条兼良が美濃に下向する度に歓待し、その嗣子 利国は兼良の娘 細姫を室としました。夫 利国が戦死した後、室は、悟渓宗頓禅師の弟子となって利貞尼と称して仏門に入り、仁和寺領の土地を買い求めて大本山妙心寺に寄進しました。やがて妙心寺の境内に七堂伽藍や塔頭が創建されていったのです。 -
神護山 崇福寺
本堂沿いに石庭を横切り、小さな野趣ある門を潜って本堂裏手へ進みます。 -
神護山 崇福寺
ほんの少しだけ秋の気配が感じられます。 -
神護山 崇福寺 織田信長・信忠父子の墓石
行の延段の先に、高さ139cm、巾39cm、厚さ30cmの墓石がひっそりと佇みます。 -
神護山 崇福寺 織田信長・信忠父子の墓石
位牌の形をした石碑を左右に分け、それぞれ信長(右:摠見院殿贈一品大相刻圀泰岩大居士 覚霊)と信忠(左:大雲院殿三品羽林高岩大禅定門 神儀)の法名を刻んでいます。
信長の「贈一品大相圀」は死後に従一位太政大臣を贈位増官されたことを表しています。また信忠の「三品羽林」は従三位左近衛中将の位官を示しています。 -
神護山 崇福寺 織田信長・信忠父子の墓石
信長の法名は羽柴秀吉の尽力の賜物とされます。突然の信長の死に有力家臣らの次期ポスト争いが激化する中、有力候補の一員である秀吉は知恵を絞ります。かつての信長の権力を引き継ぐには、単に明智光秀を討つだけではなく、絢爛豪華な信長の葬儀を営んで周囲に認知されることが不可欠である。こうして、大徳寺で行う法要に少しでも箔を付けるため、信長が官位を得られるよう自ら動いたそうです。 -
神護山 崇福寺 織田信長・信忠父子の墓石
本能寺の変の4日後に信長の側室 お鍋の方は崇福寺へ手紙を送り、崇福寺ではその書面通りに信長の遺品を埋葬し、位牌を安置して信長父子を弔いました。
つまり崇福寺はどこよりも早く信長父子が弔われた寺であり、それ故にもうひとつの言い伝えにも信憑性があります。それは、お鍋の方が密かに信長の首級を持ち帰り、埋葬したというものです。つまり、信長の遺品には首級も含まれていたと言うのです。真偽のほどは不明ですが、さもありなんの話と思われます。
因みにお寺の過去のリーフレットには次のように記されていたそうです。
「天正10年(1582年)6月、信長・信忠親子が本能寺の変において明智光秀に討たれ、側室 小倉氏(お鍋の方)が密かに信長公の首級を岐阜の当寺に葬ったとのことである」。
信長の首級が埋葬されたと伝わる地は京都 阿弥陀寺や静岡県 西山本門寺など諸説あります。そうした伝承があるのは、信長の遺骸は本能寺と共に灰燼に帰した訳ではなく、首級だけが密かに持ち出されたとする方が腑に落ちるからです。 -
神護山 崇福寺 本堂
裏庭から望む本堂です。
ドウダンツツジの紅葉は圧巻だそうです。 -
神護山 崇福寺 織田信長父子廟(位牌堂)
墓石の右手には織田信長父子廟が佇みます。 -
神護山 崇福寺 織田信長父子廟(位牌堂)
信長没後300年の法事を催す際に建立された堂宇です。
土壇の上を4m四方の格子塀で囲み、宝形胴葺屋根木造彩色の小堂に父子の位牌が安置されています。 -
神護山 崇福寺 織田信長父子廟(位牌堂)
織田木瓜紋をはじめ様々な紋様や装飾で彩られ、「日光東照宮」を彷彿とさせる極彩色の色遣いが艶やかです。
先ほどの墓所とは対照的な佇まいです。 -
神護山 崇福寺 織田信長父子廟(位牌堂)
安置されている位牌は豊臣秀吉がプロデュースして1582年10月15日に京都紫野 大徳寺 総見院で執り行われた葬儀(百ヶ日法要)の際に使われたものと伝わります。喪主は信長の4男 羽柴秀勝、位牌を持ったのは8男 御長丸でした。一説には「御長丸=信吉」ともされ、信吉はお鍋の方との間に生まれた子であり、位牌を持ったのも腑に落ちます。
因みに「総(摠)見院」は信長の法名の一部であり、つまり信長を指す言葉です。 -
神護山 崇福寺 織田信長父子廟(位牌堂)
葬儀は絢爛豪華だったそうですが、位牌自体は法名を書いた紙を白木に張り付けただけの「野辺位牌」と呼ばれる粗末なものだったと伝わります。
因みにWEB情報によると、『大日本史料』にその位牌の写真が掲載されているとのことですが、地元の図書館には蔵書がありませんでした。尚、信忠の位牌は一部読めない個所があるそうです。 -
神護山 崇福寺 織田信長父子廟(位牌堂)
1612(慶長17)年、お鍋の方は失意のうちに死去しました。彼女の故郷 小田村の人々は実家の屋敷跡に彼女の墓を建て一本の松を植えて「お鍋松」と命名して弔いました。
しかしいつしか「お鍋松」に白蛇が棲み着き、松を害する者が病気になるなど、祟りをなすとの伝承が伝わり始めました。彼女は家族の不幸、そして自身の不遇を呪っていました。それらの妄念が伝承として宿ったのかもしれません。
因みに「お鍋松」は、残念ながら松食い虫が枯らしてしまい、現在では「お鍋の塚」のみ残されています。 -
神護山 崇福寺 読経堂
位牌堂の対面には、巾2.5m、奥行2.9mの入母屋造、銅葺の読経堂が佇みます。 -
神護山 崇福寺 読経堂
読経堂から見る位牌堂です。 -
神護山 崇福寺 斉藤利匡一族の墓
更に奥にあるのが斉藤利匡一族の墓です。
当山開基 斎藤利匡(利安の子)一族の宝篋印塔群があり、これらの塔は文明・永正年間に建てられたものです。 -
神護山 崇福寺 斉藤利匡一族の墓
元々この地には利安の長良館がありましたが、守護 土岐成頼とその家臣 利安が同じ夜、夢の中で「この地に寺を建てよ」との神託を聞き、利安が開基したと伝えられてきました。しかし現在では利安の子 利匡が開基との説が定着しています。 -
神護山 崇福寺 庫裡の裏庭
立ち入ることはできませんが、斉藤利匡一族の墓の脇から一部をチラ見することができます。
一見に値する石庭です。 -
神護山 崇福寺 読経堂
本堂裏手から見る読経堂です。
その先には位牌堂が佇みます。 -
神護山 崇福寺 庫裡
庫裡の前には十一面観世音菩薩が佇みます。
美濃西国三十三観音霊場 第十五札所でもあります。 -
神護山 崇福寺 中門
扉に施された金色の十六葉菊紋が威厳を見せ付けます。 -
神護山 崇福寺 中門
蟇股は「波」でしょうか? -
神護山 崇福寺 中門
妙心寺から移設された中門ですが、軒丸瓦の紋は妙心寺の「八つ藤紋」ではありません。 -
神護山 崇福寺 中門
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神護山 崇福寺 鐘楼
境内には稲葉一鉄が寄贈した梵鐘があります。
現在の梵鐘は3代目に当たり、1615(元和元)年に改鋳され、太平洋戦争時に金属供出した後、戦後に再々製されたものです。 -
神護山 崇福寺 鐘楼
一鉄は小僧時代にこの寺に預けられて快川紹喜の下で修業しました。また一鉄の娘は明智光秀の右腕だった斎藤利三の継室、その娘が後の春日局です。お福という名で、利三の斬首後は外祖父の一鉄の下で育てられました。しかし「本能寺の変」という天下の謀叛人の子が徳川将軍の乳母になったとは摩訶不思議な巡り合わせです。
一鉄は西美濃三人衆のひとりに数えられた豪族で、他の2人は氏家卜全と安藤守就になります。稲葉山城主の斎藤道三→斎藤義龍→斎藤龍興に仕えましたが、後に信長に帰属。氏家卜全は信長の伊勢長島攻めで戦死し、安藤守就は叛意ありとして信長に追放され、やがて本能寺の変が起こると挙兵して旧領を取り戻そうとしたところを同僚の一鉄に討たれました。一鉄はその後秀吉にも仕え、家臣として大往生しました。 -
神護山 崇福寺 本堂
本堂の屋根には2つの異なる御紋が金色に輝きます。
両端にあるのが徳川家「三つ葉葵紋」。これは崇福寺が徳川幕府により守られた朱印地だったことに因みます。真ん中にあるのが皇族の証である有栖川宮家「菊花紋」。こちらは有栖川宮家 初代 好仁親王の時から祈願所として位牌を納めていることに因みます。 -
道三塚
当初、道三の遺体は織田信長父子廟所のある祟福寺の西南(現 岐阜メモリアルセンター内)に埋葬されましたが、その塚は度々長良川の氾濫で流される憂き目に遭い、1836(天保8)年に斎藤家の菩提寺である常在寺27世住職 日椿上人によって現在地に移され、その際に道三塚が建立されました。因みに「岐阜メモリアルセンター」が建つ地は「長良川の戦い」があった場所です。
その後周辺は住宅密集地となりましたが、塚は移転されるどころか、崇敬の対象となっています。道三塚の建つ場所の住所は岐阜市道三町となっており、道三は道三塚ともども今でも住民に敬愛されているようです。 -
道三塚
斎藤道三は一介の油売り商人から身を起こして美濃一国の太守となった(最近の研究では父と2代に亘る覇業とされます。)戦国下剋上の世を代表する武将で、「美濃の蝮」の異名を持ちます。「道三」は出家後の名ですが、油聖人、僧侶、武士の3つの道を究めたとの意味があります。
稲葉山城主 長井長弘の家臣に取り立てられるも、美濃国守護 土岐盛頼・頼芸兄弟の相続争いに便乗して1542(天文11)年に頼芸を追放し、美濃国の「国盗り」を完結させました。 -
道三塚
道三は主家を謀殺して一国の城主に這い上がりましたが、その最期は意外にもあっけないものでした。1554(天文23)年、強引な国盗りを行ってきた道三への家臣の不信感もあり、道三は家督を嫡男 義龍(よしたつ)に譲り隠居しました。しかしその直後から父子の仲は険悪となり、義絶するに至りました。その理由は、義龍は実は実子ではないために道三が廃嫡を考えたからとも、長年に亘る強引な国盗りにより家臣が強制的に道三を引退させたからとも伝わります。
1556(弘治2)年4月19日、道三と義龍は長良川を挟み対峙しました。美濃の国人領主の支持を得た義龍軍17500に対し、道三軍は譜代の2700。4月20日、多勢に無勢の中、道三は義龍の戦い方の非凡さに驚き、「おいぼれ者=無能」と罵ったのを後悔しながら壮絶な最期を遂げました。かつての太守は、長井中左衛門、小牧源太、林主人らにより脛を薙ぎ払われた後に斬首されました。その際、複数の者が同時に襲いかかったために一番槍争いが起こり、証拠として鼻を削ぎ落とされたとも伝わります。享年63。 -
道三塚
元々は墓碑だけでしたが、NHK大河ドラマ『麒麟がくる』の放送に合わせ、2019年7月に広告会社「中広」が風雨から保護するために銅板の屋根を備えた覆屋を寄贈したそうです。
墓碑正面には「弘治二年 四月廿日 斎藤道三公塚」、右側面には「天保八年酉十一月造立 岐阜山下常在寺廿七世 日椿代」、左側面には「宗福寺 村名主 井上仙蔵 敬白」と刻んでいます。
尚、1955(昭和30)年に岐阜市指定史跡に指定されています。 -
道三塚
義龍は道三と戦う直前に「新九郎范可(はんか)」と改名しました。「范可」はやむにやまれぬ理由で父親の首を切った唐人です。ところが「范可」の場合は結果的に斬首が親孝行となったと言います。一方、長良川の戦いについて桑田忠親著『斎藤道三』では「それにひきかえ、この新九郎范可は、父親の首を斬ったことが、不孝で、しかも重罪で、身の恥辱とさえなった」と記しています。
しかしこの戦の直前の改名にはそれなりの意図があったはずです。つまり、最期に道三が「『おいぼれ者』も吾輩の首を取れるまで成長した」と認めれば、それは親孝行にも通じたと思えるからです。
義龍は父を殺害したことで自責の念を深めたのか、父の菩提を弔うために出家して僅か5年で病没しています。一説にはハンセン病とされますが、真偽は定かではありません。その後、義龍の長男 龍興、つまり道三の孫が僅か14歳で家督相続するも、やがて織田信長に稲葉山城を奪われる結末となりました。 -
道三塚
道三は「美濃の蝮」の異名を持ちますが、蝮は毒蛇であり、親の体を食い破って生まれてくると信じられていたことから、次々と主君を謀殺した道三の国盗りの姿がまるで蝮のようだと形容されたと言います。
しかしその形容は、道三が健在の頃からあったものではなく、近現代の坂口安吾著『信長』や山岡荘八著『織田信長』といった小説の影響により生まれたとされます。
因みに、道三には1532(天文元)年に迎えた小見(おみ)の方という正室がいました。この小見の方が、明智光秀の父 光綱の妹、つまり光秀の叔母に当たります。そして、道三と小見の方との間に生まれた娘が後の濃姫、別名 帰蝶であり、織田信長の正室となりました。戦国時代の宿命なのか、政治の道具として政略結婚をさせられたことは確かなようです。 -
長良川 鵜飼観覧船
この続きは美濃国 岐阜紀行②川原町界隈でお届けいたします。
今回の「いちご会」での最大の収穫はパクさんに関する情報が得られたことでした。Bさんが仕事を通じて偶然知り合ったパクさんの弟さんから聞いた話ですが、パクさんは3年前に癌で亡くなられたそうです。享年63。悔しい思いでいっぱいです。
大学1年生の時に東海地区学生合同ワンデリングで同じパーティーになったうちのひとりがパクさんでした。最も印象深かったのは、パクさんが登山リーダーの素養を身に着けるため、北アルプスの難所 槍ヶ岳への単独山行を決行したことです。それも単独行については親にも内緒で…。手紙をもらった当方は名古屋駅で見送りましたが、夜行列車の改札が始まるまでの3時間半、二人でリーダー論を熱く語らいました。
山行に限らず職場など人生における理想のリーダー像を言動で教えてくれたパクさんには尊敬の念しかありません。当方も刺激を受けて翌年に立山~剣岳単独行を敢行し、リーダーになるための自覚と自信を培うことができました。
佳きロールモデルであり、良きライバルでもあったパクさん。当方の就職により遠距離になるなどでいつしか疎遠になってしまいましたが、もし何時か会えることができたら感謝の気持ちを伝えようと思っていました。
人生100年時代ですから、まだまだやりたいことが山ほどあっただろうと察します。蓼科高原に張ったテントから顔だけを出し、アルプ・サブリーダーさんから就寝を促されるまで飽きることなく満天の綺羅星を見上げていたパクさん。今はそこへ仲間入りされてしまわれたのですね。
Have good lucks in your next journey !! 合掌
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