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この日は、金曜日でナショナルギャラリーの夜間開館日で<br />21:00迄オープン。<br />閉館時間、間近まで英国の至宝の作品を見つめていました。<br /><br />この旅行記では、制作年順に観てゆき、やがてフェルメール<br />レンブラント、ホガース、ターナーと進みスーラ、シスレー<br />後半では数作品まとまりのある画家のコーナーへ。<br />ルノアール、モネ、ゴッホそして、「アッシジの聖フランチ<br />ェスコ展」で招聘されていたカラヴァッジョ〈ワズワース・<br />アテネウム美術館所蔵〉の『聖フランチェスコの法悦』を<br />観ることができました。この旅行記のラストを〆てもらった<br />のも、やはりカラヴァッジョの展示コーナーです。<br /><br />たくさんの展示作品の中から、西洋美術史で重要な位置づけ<br />の作品ばかりではなく、〈あの街から〉の気に入りの作品や<br />現場で初めて意識して鑑賞した作品など取り混ぜて時間の許す<br />限り楽しんできました。<br /><br />それでは、そろそろと始めます。<br />ロンドンに到着したその日は、Hotelにチェックインの後<br />休憩 をして15:00予約のアフタヌーンティーを済ま<br />せナショナルギャラリーへ向かうも、その前にナショナル<br />ポートレートギャラリーに寄り道。<br />ここ迄が、「ロンドン初日前編・ポールが写したビートルズ<br />写真展」でした。今回は、その後いよいよこの日メインと<br />して予定してきたナショナルギャラリーへ。

『定番・ナショナルギャラリー』 ヨーロッパ旅 2023夏〈ロンドン初日・後編〉

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2023/06/30 - 2023/06/30

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あの街から

あの街からさん

この日は、金曜日でナショナルギャラリーの夜間開館日で
21:00迄オープン。
閉館時間、間近まで英国の至宝の作品を見つめていました。

この旅行記では、制作年順に観てゆき、やがてフェルメール
レンブラント、ホガース、ターナーと進みスーラ、シスレー
後半では数作品まとまりのある画家のコーナーへ。
ルノアール、モネ、ゴッホそして、「アッシジの聖フランチ
ェスコ展」で招聘されていたカラヴァッジョ〈ワズワース・
アテネウム美術館所蔵〉の『聖フランチェスコの法悦』を
観ることができました。この旅行記のラストを〆てもらった
のも、やはりカラヴァッジョの展示コーナーです。

たくさんの展示作品の中から、西洋美術史で重要な位置づけ
の作品ばかりではなく、〈あの街から〉の気に入りの作品や
現場で初めて意識して鑑賞した作品など取り混ぜて時間の許す
限り楽しんできました。

それでは、そろそろと始めます。
ロンドンに到着したその日は、Hotelにチェックインの後
休憩 をして15:00予約のアフタヌーンティーを済ま
せナショナルギャラリーへ向かうも、その前にナショナル
ポートレートギャラリーに寄り道。
ここ迄が、「ロンドン初日前編・ポールが写したビートルズ
写真展」でした。今回は、その後いよいよこの日メインと
して予定してきたナショナルギャラリーへ。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
交通
4.5
交通手段
鉄道 高速・路線バス 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • ナショナルギャラリーは、ヨーロッパの大美術館の中では<br />珍しく、王宮のコレクションを集めた美術館ではなく、美<br />術館自らが収集。初代館長チャールズ・ロック・イースト<br />レイクは「西洋絵画史を網羅するコレクションをつくる」<br />との目標を掲げ、特に14世紀~16世紀初頭のイタリア<br />絵画を収集。<br />また、ロイヤルアカデミーの重鎮でもあったイギリスを代表<br />する画家ターナーは、心酔していたクロード・ロラン164<br />8年『海港、シバの女王の船出』などオールド・マスターの<br />作品の傍らに展示することを条件に、自らの膨大なコレクシ<br />ションを遺贈。20世紀に入ってからも寄贈や遺贈が相次ぎ<br />印象派やポスト印象派の名作の数々が集められました。<br /><br />2020年現在、美術館の所蔵作品はおおよそ2,300点と世界<br />的な美術館としては驚くほど少ない。<br />しかし、そのコレクション内容は、世界最高峰文字通り英国の<br />至宝が揃っています。<br />

    ナショナルギャラリーは、ヨーロッパの大美術館の中では
    珍しく、王宮のコレクションを集めた美術館ではなく、美
    術館自らが収集。初代館長チャールズ・ロック・イースト
    レイクは「西洋絵画史を網羅するコレクションをつくる」
    との目標を掲げ、特に14世紀~16世紀初頭のイタリア
    絵画を収集。
    また、ロイヤルアカデミーの重鎮でもあったイギリスを代表
    する画家ターナーは、心酔していたクロード・ロラン164
    8年『海港、シバの女王の船出』などオールド・マスターの
    作品の傍らに展示することを条件に、自らの膨大なコレクシ
    ションを遺贈。20世紀に入ってからも寄贈や遺贈が相次ぎ
    印象派やポスト印象派の名作の数々が集められました。

    2020年現在、美術館の所蔵作品はおおよそ2,300点と世界
    的な美術館としては驚くほど少ない。
    しかし、そのコレクション内容は、世界最高峰文字通り英国の
    至宝が揃っています。

  • 『サン・ユベールの発掘』<br /> 1430年代後半 <br />ロヒール・ファン・デル・ウェイデン<br />   とワークショップ

    『サン・ユベールの発掘』
     1430年代後半 
    ロヒール・ファン・デル・ウェイデン
       とワークショップ

  • 『アルノルフィニ夫妻の肖像』<br /> 1434年  <br />ヤン・ファン・エイク<br /><br />ヤン・ファン・エイクといえば〈油彩画を完成させた人〉<br />という見方をされていますが、彼は、北フランドルで<br />1390年頃の生まれといいますから、レオナルド・<br />ダヴィンチより60年前の生まれです。死去した時には、<br />ダヴィンチはまだ生まれておらず、2人の交流はありませ<br />んが時代も国も違うこの2人は、油絵〈油彩画〉という<br />絵画技法で繋がっています。<br /><br />今から600年近く前、東方貿易で栄えたフィレンツェや<br />ヴェネツィアとフランドル(現在のベルギー、オランダ)<br />では、大西洋と水路でつながる立地にあり、イギリス、<br />スペイン、ポルトガルへの交通が盛んでした。<br />15世紀といえば、大航海時代の始まりですが、西洋絵画<br />では、ヤンを筆頭とする北方ルネサンスは、油彩の先進国<br />であり、それがイタリアに入って、イタリアルネサンスに<br />大きな影響を与えたのでした。<br /><br />油彩という技法が開発されるまでの絵画は、主としてフレ<br />スコかテンペラと呼ばれる手法で描かれていました。<br />フレスコは、漆喰の上に描くもので漆喰が乾くまでの<br />7,8時間以内に描きあげなければなりません。<br />そのうえ、保存も難しく現在においても、各美術館や教会<br />は、見学時間を制限したりして苦労しているのです。<br />テンペラは顔料に卵黄を混ぜて水で薄めた絵の具を使います。<br />よく乾くし丈夫で長持ちしますが、油彩具より伸びがない<br />ので、大きな絵を描くのは大変です。<br />ダヴィンチの「最後の晩餐」はテンペラですが、壁に直接<br />描いてしまったので、劣化が酷い。やはりテンペラは、板絵<br />の技法として主流なのでした。<br /><br />おそらく、15世紀のこの地方で顔料を植物油で溶いて絵具<br />とする方法が開発され次第に普及したと思われています。<br />そして、現存する作品から評価するとヤン・ファン・エイク<br />が、油彩画で最高の技法を示しており、彼が、油彩画を完成<br />させた人という見方をされているのです。<br />ダヴィンチもラファエロも生まれていなかった時代にこの様な<br />油彩画を描いていたのです。テンペラやフレスコと違って、絵<br />具を何層にも薄く塗り重ねられる油彩でしかできない細密描写<br />には驚かされます。<br />この他にも、その時代と地域が必要とした美的追求や経済原理<br />によって画布など油彩技法など、様々ありますが。<br /><br />また、この作品には技法を観る楽しみの他にも<br />窓際の林檎は原罪を意味し、机の下のオレンジは、温暖な地域で<br />しか収穫できないことから豊穣のシンボルで子孫繁栄を願う多産<br />の意味があり、右手に脱いだサンダルは神に誓いを立てているこ<br />とを表し、2人の間にいる犬は、毛一本一本まで描かれています<br />が、犬は忠節の象徴であることから「夫婦はお互い忠節であれ」<br />と諭しています。また、鏡の両側の石英のロザリオとブラシは、<br />キリスト教でいう「祈りと労働」を意味し、この言い伝えも、<br />時代ととに変化し、15世紀では富の象徴だった凸面鏡が、<br />16世紀になると「虚栄心の表れ」を意味するようになりました。<br />鏡の中には、夫婦の他に2人の人物が描かれていますが、<br />そのうちの1人はヤン・ファン・エイク自身とされています。<br />壁には、「ヤン・ファン・エイクここにありき。1434年」<br />と書かれていますが、彼の作品へのサインであり、結婚の証人<br />のサインも兼ねている。と考えられています。<br /><br />などなど象徴〈約束事〉が登場しますが<br />楽しみながら鑑賞することができました。<br /><br /><br /><br /><br />

    イチオシ

    『アルノルフィニ夫妻の肖像』
     1434年  
    ヤン・ファン・エイク

    ヤン・ファン・エイクといえば〈油彩画を完成させた人〉
    という見方をされていますが、彼は、北フランドルで
    1390年頃の生まれといいますから、レオナルド・
    ダヴィンチより60年前の生まれです。死去した時には、
    ダヴィンチはまだ生まれておらず、2人の交流はありませ
    んが時代も国も違うこの2人は、油絵〈油彩画〉という
    絵画技法で繋がっています。

    今から600年近く前、東方貿易で栄えたフィレンツェや
    ヴェネツィアとフランドル(現在のベルギー、オランダ)
    では、大西洋と水路でつながる立地にあり、イギリス、
    スペイン、ポルトガルへの交通が盛んでした。
    15世紀といえば、大航海時代の始まりですが、西洋絵画
    では、ヤンを筆頭とする北方ルネサンスは、油彩の先進国
    であり、それがイタリアに入って、イタリアルネサンスに
    大きな影響を与えたのでした。

    油彩という技法が開発されるまでの絵画は、主としてフレ
    スコかテンペラと呼ばれる手法で描かれていました。
    フレスコは、漆喰の上に描くもので漆喰が乾くまでの
    7,8時間以内に描きあげなければなりません。
    そのうえ、保存も難しく現在においても、各美術館や教会
    は、見学時間を制限したりして苦労しているのです。
    テンペラは顔料に卵黄を混ぜて水で薄めた絵の具を使います。
    よく乾くし丈夫で長持ちしますが、油彩具より伸びがない
    ので、大きな絵を描くのは大変です。
    ダヴィンチの「最後の晩餐」はテンペラですが、壁に直接
    描いてしまったので、劣化が酷い。やはりテンペラは、板絵
    の技法として主流なのでした。

    おそらく、15世紀のこの地方で顔料を植物油で溶いて絵具
    とする方法が開発され次第に普及したと思われています。
    そして、現存する作品から評価するとヤン・ファン・エイク
    が、油彩画で最高の技法を示しており、彼が、油彩画を完成
    させた人という見方をされているのです。
    ダヴィンチもラファエロも生まれていなかった時代にこの様な
    油彩画を描いていたのです。テンペラやフレスコと違って、絵
    具を何層にも薄く塗り重ねられる油彩でしかできない細密描写
    には驚かされます。
    この他にも、その時代と地域が必要とした美的追求や経済原理
    によって画布など油彩技法など、様々ありますが。

    また、この作品には技法を観る楽しみの他にも
    窓際の林檎は原罪を意味し、机の下のオレンジは、温暖な地域で
    しか収穫できないことから豊穣のシンボルで子孫繁栄を願う多産
    の意味があり、右手に脱いだサンダルは神に誓いを立てているこ
    とを表し、2人の間にいる犬は、毛一本一本まで描かれています
    が、犬は忠節の象徴であることから「夫婦はお互い忠節であれ」
    と諭しています。また、鏡の両側の石英のロザリオとブラシは、
    キリスト教でいう「祈りと労働」を意味し、この言い伝えも、
    時代ととに変化し、15世紀では富の象徴だった凸面鏡が、
    16世紀になると「虚栄心の表れ」を意味するようになりました。
    鏡の中には、夫婦の他に2人の人物が描かれていますが、
    そのうちの1人はヤン・ファン・エイク自身とされています。
    壁には、「ヤン・ファン・エイクここにありき。1434年」
    と書かれていますが、彼の作品へのサインであり、結婚の証人
    のサインも兼ねている。と考えられています。

    などなど象徴〈約束事〉が登場しますが
    楽しみながら鑑賞することができました。




  • 『読書するマグダラのマリア』<br /> 1438年 <br />ロヒール・ファン・デル・ウェイデン<br />

    『読書するマグダラのマリア』
     1438年 
    ロヒール・ファン・デル・ウェイデン

  • 『ヴィーナスとマルス』<br /> 1485年頃 <br />サンドロ・ボッティチェリ<br /><br />正確な制作年は不明だが、ナショナル・ギャラリーの<br /> 2017年の見解は「1485年頃」とされている。<br />        サンドロ・ボッティチェリ<br /><br />中世の宗教画に人間としての感情を吹き込んだルネサンス。<br />ルネサンスの盛期次々と傑作を制作したボッティチェリ。<br /><br />ボッティチェリといえば、「春」や「ヴィーナスの誕生」を<br />思い浮かべますが、それぞれの制作年を見てみると、「春」<br />1482年で、「ヴィーナスの誕生」が1485年であり<br />「ヴィーナスの誕生」とほぼ同年にこの作品は制作されたと<br />思われます。<br /><br />ヴィーナスが見つめる先には、愛を交わした後に眠りに落ち<br />た恋人の軍神マウス。イタズラなサテュロスが耳元でホラ貝<br />を吹こうがスズメバチが唸ろうが、一向に目覚める気配はあ<br />りません。モチーフは古代神話でボッティチェリは、テンペラ<br />画独特の細かいハッチングを重ねて、薄もののドレスや身体<br />の肉付けなど質感と艶っぽさを表現しまさに円熟期の作品を<br />思わせてくれます。<br /><br />ボッティチェリは、一時代前の〈テンペラ画法〉を貫き伝統<br />的な線画で通した画家でしたから、陰影画法のダヴィンチの<br />それに比較してみると古風に見えます。けれど、その比類な<br />き美しさは、世界中の絵画ファンから愛されています。<br /><br />この天才的画才を持ったボッティチェリは、陽気で浪費家<br />だったといいます。気前がよく、稼いだ金はアトリエに放<br />置して困っている画家仲間が持っていくのを容認していた<br />という逸話も残っています。<br />そんなボッティチェリと教会の強権から独立して自治を目指<br />したロレンツォ・メディチは、いかにも相性ピッタリだった<br />のでしよう。<br />「春」「ヴィーナスの誕生」そして「ヴィーナスとマルス」<br />と傑作が生み出されました。<br /><br />

    『ヴィーナスとマルス』
     1485年頃 
    サンドロ・ボッティチェリ

    正確な制作年は不明だが、ナショナル・ギャラリーの
     2017年の見解は「1485年頃」とされている。
            サンドロ・ボッティチェリ

    中世の宗教画に人間としての感情を吹き込んだルネサンス。
    ルネサンスの盛期次々と傑作を制作したボッティチェリ。

    ボッティチェリといえば、「春」や「ヴィーナスの誕生」を
    思い浮かべますが、それぞれの制作年を見てみると、「春」
    1482年で、「ヴィーナスの誕生」が1485年であり
    「ヴィーナスの誕生」とほぼ同年にこの作品は制作されたと
    思われます。

    ヴィーナスが見つめる先には、愛を交わした後に眠りに落ち
    た恋人の軍神マウス。イタズラなサテュロスが耳元でホラ貝
    を吹こうがスズメバチが唸ろうが、一向に目覚める気配はあ
    りません。モチーフは古代神話でボッティチェリは、テンペラ
    画独特の細かいハッチングを重ねて、薄もののドレスや身体
    の肉付けなど質感と艶っぽさを表現しまさに円熟期の作品を
    思わせてくれます。

    ボッティチェリは、一時代前の〈テンペラ画法〉を貫き伝統
    的な線画で通した画家でしたから、陰影画法のダヴィンチの
    それに比較してみると古風に見えます。けれど、その比類な
    き美しさは、世界中の絵画ファンから愛されています。

    この天才的画才を持ったボッティチェリは、陽気で浪費家
    だったといいます。気前がよく、稼いだ金はアトリエに放
    置して困っている画家仲間が持っていくのを容認していた
    という逸話も残っています。
    そんなボッティチェリと教会の強権から独立して自治を目指
    したロレンツォ・メディチは、いかにも相性ピッタリだった
    のでしよう。
    「春」「ヴィーナスの誕生」そして「ヴィーナスとマルス」
    と傑作が生み出されました。

  • 『聖エミディウスを伴う受胎告知』 <br /> 1486年 <br />カルロ・クリヴェッリ <br /><br />この作品も、美術書を開くとほぼ90%くらいの本に記載<br />されていますから、展示室でも人気のほどがうかがえました。<br /><br />〈遠近法〉と〈精密描写〉の特殊技法によって写実的に<br />美しく描かれた聖母へのお告げ受胎告知です。<br /><br />受胎告知は、大天使とマリアだけを描くのが通例ですが<br />アスコリ・ピチェーノの教会の祭壇画として制作された<br />この作品は、<br />この街の守護聖人 聖エミディウスばかりか住民もいる中で<br />神聖な場面が繰り広げられているのです。<br />この街では、受胎告知の日は祝祭日である一方、ローマ<br />教皇から自治権を与えられた記念日でもあるため、二つの<br />祝いが結びつけられて描かれているのです。<br /><br />画面には、明晰な遠近法が用いられまるで絵の中に入って<br />いけると錯覚してしまいそうなくらい広大な空間が描かれ<br />ています。随所に当時の商人たちの豊かさを示す貴重で<br />豪華絢爛な品々が描きこまれそのどれもが、聖母の部屋の<br />板や壁、街並みとともに見事な細密描写なのです。<br />この作品でも、象徴や見所がたくさん登場しますが、<br />一つ載せてみます。鑑賞の折には楽しめると思います。<br />〈孔雀〉は、不死の象徴で、キリストの誕生や復活の際に<br />    登場します。<br />建物の浮き彫り装飾から、布の紋様の細部を徹底して描写。<br />祝いの日の習慣でバルコニーから掛けられているビザンチン風<br />の布の重なりあいや毛先までの驚く精密描写などなど。<br />

    イチオシ

    『聖エミディウスを伴う受胎告知』 
     1486年 
    カルロ・クリヴェッリ 

    この作品も、美術書を開くとほぼ90%くらいの本に記載
    されていますから、展示室でも人気のほどがうかがえました。

    〈遠近法〉と〈精密描写〉の特殊技法によって写実的に
    美しく描かれた聖母へのお告げ受胎告知です。

    受胎告知は、大天使とマリアだけを描くのが通例ですが
    アスコリ・ピチェーノの教会の祭壇画として制作された
    この作品は、
    この街の守護聖人 聖エミディウスばかりか住民もいる中で
    神聖な場面が繰り広げられているのです。
    この街では、受胎告知の日は祝祭日である一方、ローマ
    教皇から自治権を与えられた記念日でもあるため、二つの
    祝いが結びつけられて描かれているのです。

    画面には、明晰な遠近法が用いられまるで絵の中に入って
    いけると錯覚してしまいそうなくらい広大な空間が描かれ
    ています。随所に当時の商人たちの豊かさを示す貴重で
    豪華絢爛な品々が描きこまれそのどれもが、聖母の部屋の
    板や壁、街並みとともに見事な細密描写なのです。
    この作品でも、象徴や見所がたくさん登場しますが、
    一つ載せてみます。鑑賞の折には楽しめると思います。
    〈孔雀〉は、不死の象徴で、キリストの誕生や復活の際に
        登場します。
    建物の浮き彫り装飾から、布の紋様の細部を徹底して描写。
    祝いの日の習慣でバルコニーから掛けられているビザンチン風
    の布の重なりあいや毛先までの驚く精密描写などなど。

  • 『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』<br /> 1499年-1500あるいは1506年-1508年    <br />レオナルド・ダ・ヴィンチ<br />

    『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』
     1499年-1500あるいは1506年-1508年    
    レオナルド・ダ・ヴィンチ

  • 『ヴェネツィア総督レオナルド・ロレダン』 <br /> 1501年ー2 <br />ジョヴァンニ・ベリーニ<br /><br />ヴェネツィア共和国総督に選出されたばかりのレオナルド・<br />ロレダンを描いたもので、伝統的な横顔にせずに、<br />レオナルド・ダ・ヴィンチ、アントネッロ・ダ・メッシーナ<br />が確立した4分の3正面観で描かれています。<br />角型の帽子とケープは総督の礼服で金糸を使ったダマスク織<br />は当時の最高級品で、これらを描くために、ベリーニがとった<br />技法は、「本物の金を絵画に用いるのではなく金を模倣すべき」<br />であるという、ルネサンス後期の理論家ルドヴコ・ドルチェの<br />言葉で、神の創造物たる自然を忠実に模倣するこを究極の目標<br />としていた従来の芸術からのルネサンスの逸脱を示す。<br />ベリーニは、この考えをそのまま実行するようにロレダンの<br />衣装の金糸を金を使うことなく描き、<br />写真を凌駕するほどの写実性を誇る作品で<br />写真と見間違えるほどの写実性は観るものを惹きつけています。<br />

    『ヴェネツィア総督レオナルド・ロレダン』 
     1501年ー2 
    ジョヴァンニ・ベリーニ

    ヴェネツィア共和国総督に選出されたばかりのレオナルド・
    ロレダンを描いたもので、伝統的な横顔にせずに、
    レオナルド・ダ・ヴィンチ、アントネッロ・ダ・メッシーナ
    が確立した4分の3正面観で描かれています。
    角型の帽子とケープは総督の礼服で金糸を使ったダマスク織
    は当時の最高級品で、これらを描くために、ベリーニがとった
    技法は、「本物の金を絵画に用いるのではなく金を模倣すべき」
    であるという、ルネサンス後期の理論家ルドヴコ・ドルチェの
    言葉で、神の創造物たる自然を忠実に模倣するこを究極の目標
    としていた従来の芸術からのルネサンスの逸脱を示す。
    ベリーニは、この考えをそのまま実行するようにロレダンの
    衣装の金糸を金を使うことなく描き、
    写真を凌駕するほどの写実性を誇る作品で
    写真と見間違えるほどの写実性は観るものを惹きつけています。

  • 『ファラオと執事とパン屋』<br /> 1515年頃 <br />ポントルモ

    『ファラオと執事とパン屋』
     1515年頃 
    ポントルモ

  • 『大使たち』<br /> 1533年 <br />ハンス・ホルバイン<br /><br />向かって左が<br />フランス貴族の使節、ジャン・ド・ダントヴィルで、<br />右は、友人で古典学者・司教のジョルジュ・ド・セルヴです。<br />豪奢な衣装や飾り棚に載せられた品々は、教養を示し一方<br />儚さを示す品も散見。<br />横長の白い物体はアナモルフォーズ(歪曲画)で、描かれて<br />いる骸骨は、「死はあなたの身近にある」というヴァニタス<br />の主題が織り込まれています。<br />この他にも、切れたリュートの弦が、儚さを。<br />帽子の徽章にも、歪んだ頭蓋骨。<br />カーテンからのぞく救いの磔刑像では、死から救いと解放を<br />意味する希望を表しています。<br /><br />この時期、北方ルネサンス初期を代表する画家ハンス・<br />ホルバインもまた宗教改革の影響を受けた一人です。<br />移住したスイスのバーベルではプロテスタントが偶像<br />崇拝を禁止していたため、君主や力を持った市民を讃え<br />その姿を永遠に留めるため肖像画〈ポートレート〉が<br />重要視されました。<br />そこで、肖像画家へと転身し写実的で気品溢れる肖像を<br />描いて人気を得た彼は、エラスムスやトマス・モアなど<br />同時代の知識人たちの推薦状を手にロンドンへ渡りました。<br />そして、渡英から3年後には、国王ヘンリー8世の宮廷<br />画家として召し抱えられました。

    イチオシ

    『大使たち』
     1533年 
    ハンス・ホルバイン

    向かって左が
    フランス貴族の使節、ジャン・ド・ダントヴィルで、
    右は、友人で古典学者・司教のジョルジュ・ド・セルヴです。
    豪奢な衣装や飾り棚に載せられた品々は、教養を示し一方
    儚さを示す品も散見。
    横長の白い物体はアナモルフォーズ(歪曲画)で、描かれて
    いる骸骨は、「死はあなたの身近にある」というヴァニタス
    の主題が織り込まれています。
    この他にも、切れたリュートの弦が、儚さを。
    帽子の徽章にも、歪んだ頭蓋骨。
    カーテンからのぞく救いの磔刑像では、死から救いと解放を
    意味する希望を表しています。

    この時期、北方ルネサンス初期を代表する画家ハンス・
    ホルバインもまた宗教改革の影響を受けた一人です。
    移住したスイスのバーベルではプロテスタントが偶像
    崇拝を禁止していたため、君主や力を持った市民を讃え
    その姿を永遠に留めるため肖像画〈ポートレート〉が
    重要視されました。
    そこで、肖像画家へと転身し写実的で気品溢れる肖像を
    描いて人気を得た彼は、エラスムスやトマス・モアなど
    同時代の知識人たちの推薦状を手にロンドンへ渡りました。
    そして、渡英から3年後には、国王ヘンリー8世の宮廷
    画家として召し抱えられました。

  • 『アレクサンドロス大王の前に出た<br />           ダレイオスの家族』<br /> 1565年-67 <br />    パオロ・ヴェロネーゼ

    『アレクサンドロス大王の前に出た
               ダレイオスの家族』
     1565年-67 
        パオロ・ヴェロネーゼ

  • 『パリスの審判』 <br /> 1597年-9  <br />ピーター・パウル・ルーベンス<br />

    『パリスの審判』 
     1597年-9  
    ピーター・パウル・ルーベンス

  • 『王たちの礼拝』(The Adoration of Kings)<br />    1598年<br />     ピーテル・ブリューゲルの息子<br />   <br />当時の大巨匠たちは、まさに現代のショービジネスの大<br />スターと同じような存在でした。美術史のページをめく<br />ると、父親も子供も画家や彫刻家といった同業者である<br />ことが多いのは、この時代の北ヨーロッパでは、芸術家<br />という社会的地位がイタリアのように確立していなかっ<br />たことから、職人階級出身者が多いからで、同業者の家<br />族が多いのはそれが一族の家業であり、日本風にいえば<br />歌舞伎界の御曹司や2世スター同様に人的ネットワーク<br />や幼い頃からの教育などスタート時点から恵まれた環境<br />にありました。<br />

    『王たちの礼拝』(The Adoration of Kings)
        1598年
         ピーテル・ブリューゲルの息子
       
    当時の大巨匠たちは、まさに現代のショービジネスの大
    スターと同じような存在でした。美術史のページをめく
    ると、父親も子供も画家や彫刻家といった同業者である
    ことが多いのは、この時代の北ヨーロッパでは、芸術家
    という社会的地位がイタリアのように確立していなかっ
    たことから、職人階級出身者が多いからで、同業者の家
    族が多いのはそれが一族の家業であり、日本風にいえば
    歌舞伎界の御曹司や2世スター同様に人的ネットワーク
    や幼い頃からの教育などスタート時点から恵まれた環境
    にありました。

  • 『城の近くのスケーターと冬景色』<br /> 1608年-9年<br />ヘンドリック・アーフェルカンプ<br /><br />見渡す限りの氷原、いかにも冬らしい雰囲気の中<br />たくさんの人々。〈冬の氷上に集う人々だけ〉を<br />描き続けた画家アーフェルカンプ作品の重要な構成<br />要素となっています。<br /><br />アーフェルカンプは、ペンとインクとチョークと<br />黒鉛と数種類の水彩画絵具を一緒に使い、凍てつく<br />氷原や冷たい空気、冷たい空の雰囲気を表す手段と<br />して、先ず板にチョークとニカワを何層にも塗り重ね<br />その上から牝馬の尾っぽの小さなブラシで表面をなら<br />し、最後に鉛白をブラシで塗りコーティングするという<br />巧みの技で仕上げをしていました。<br />

    『城の近くのスケーターと冬景色』
     1608年-9年
    ヘンドリック・アーフェルカンプ

    見渡す限りの氷原、いかにも冬らしい雰囲気の中
    たくさんの人々。〈冬の氷上に集う人々だけ〉を
    描き続けた画家アーフェルカンプ作品の重要な構成
    要素となっています。

    アーフェルカンプは、ペンとインクとチョークと
    黒鉛と数種類の水彩画絵具を一緒に使い、凍てつく
    氷原や冷たい空気、冷たい空の雰囲気を表す手段と
    して、先ず板にチョークとニカワを何層にも塗り重ね
    その上から牝馬の尾っぽの小さなブラシで表面をなら
    し、最後に鉛白をブラシで塗りコーティングするという
    巧みの技で仕上げをしていました。

  • 『ソドムを去るロトと娘たち』 <br /> 1614年-15  <br />    グイド・レーニ

    『ソドムを去るロトと娘たち』 
     1614年-15  
        グイド・レーニ

  • 『町の近くの氷の上の風景』<br /> 1615年頃 <br />ヘンドリック・アーフェルカンプ<br /><br />見渡す限りの氷原、いかにも冬らしい雰囲気の中<br />たくさんの人々。〈冬の氷上に集う人々だけ〉を<br />描き続けた画家アーフェルカンプ作品の重要な構成<br />要素となっています。<br />

    『町の近くの氷の上の風景』
     1615年頃 
    ヘンドリック・アーフェルカンプ

    見渡す限りの氷原、いかにも冬らしい雰囲気の中
    たくさんの人々。〈冬の氷上に集う人々だけ〉を
    描き続けた画家アーフェルカンプ作品の重要な構成
    要素となっています。

  • 『イザベラ女王の肖像』 <br /> 1615年頃 <br />ピーター・パウル・ルーベンスの<br />         スタジオ

    『イザベラ女王の肖像』 
     1615年頃 
    ピーター・パウル・ルーベンスの
             スタジオ

  • 『大祭司前のキリスト』<br /> 1617年頃  <br />ヘラルト・ファン・ホントホルスト<br />

    『大祭司前のキリスト』
     1617年頃  
    ヘラルト・ファン・ホントホルスト

  • 『写真が飾られた部屋のコグノセンテイ』<br /> 1620年頃 <br /> フレミッシュ

    『写真が飾られた部屋のコグノセンテイ』
     1620年頃 
     フレミッシュ

  • 『セント・セバスティアン』<br /> 1623年頃 <br />ゲリット・ファン・ホンホルスト<br />

    『セント・セバスティアン』
     1623年頃 
    ゲリット・ファン・ホンホルスト

  • 『リュートを演奏する男性』<br />1624年<br />ヘンドリック・テル・ブリッヘン<br /><br />17世紀はオランダ人が自ら黄金時代と呼び、オランダ<br />絵画にとっても黄金時代でした。7つ州で構成された<br />連邦共和国では各州の統治も一様ではなかったように<br />絵画も、一言で(オランダ絵画)と括れないほど多様性が<br />あり、広くない国土でもあるにも関わらず地域性が顕著<br />に表れている点が特徴的です。<br />市民社会が確立され経済が発展したこの時代、絵画の<br />標準価格が格安だったこともあり他国ではあり得ない程<br />人々は絵画を求めました。<br />購買力の最も盛んな市民階級の彼らが求める絵画は王侯<br />貴族の好みと違い、日常生活を描いた風俗画や、目の前に<br />広がっているオランダの風景を描いた風景画や身の回りの<br />暮らしを写実的に描いた作品が人気でした。

    『リュートを演奏する男性』
    1624年
    ヘンドリック・テル・ブリッヘン

    17世紀はオランダ人が自ら黄金時代と呼び、オランダ
    絵画にとっても黄金時代でした。7つ州で構成された
    連邦共和国では各州の統治も一様ではなかったように
    絵画も、一言で(オランダ絵画)と括れないほど多様性が
    あり、広くない国土でもあるにも関わらず地域性が顕著
    に表れている点が特徴的です。
    市民社会が確立され経済が発展したこの時代、絵画の
    標準価格が格安だったこともあり他国ではあり得ない程
    人々は絵画を求めました。
    購買力の最も盛んな市民階級の彼らが求める絵画は王侯
    貴族の好みと違い、日常生活を描いた風俗画や、目の前に
    広がっているオランダの風景を描いた風景画や身の回りの
    暮らしを写実的に描いた作品が人気でした。

  • 『合奏』<br /> 1626年頃 <br />ヘンドリック・テル・ブリッヘン<br /><br />ブリッヘンは、オランダでのカトリックの本拠地ユトレヒト<br />の画家ですが、カトリックの聖地ローマに赴きカラヴァッチョ<br />の影響を受けた、〈カラヴァッジェスキ〉といわれる画家の<br />一人で、作品には明暗法や主題性にその影響が表れています。<br /><br />楽器の演奏を描いたものは楽器の音が一瞬で消えるため儚い<br />快楽の象徴とみなされます。楽器を演奏中に描いた場面の<br />ほとんどが、売春宿か居酒屋(当時のオランダの居酒屋は<br />売春宿も兼ねていたようなものでした)が舞台となってい<br />ます。この作品でも、右手の男がこれみよがしに吹くフル<br />ートが強調されていて性的なニュアンスが顕著に表れてい<br />ます。

    『合奏』
     1626年頃 
    ヘンドリック・テル・ブリッヘン

    ブリッヘンは、オランダでのカトリックの本拠地ユトレヒト
    の画家ですが、カトリックの聖地ローマに赴きカラヴァッチョ
    の影響を受けた、〈カラヴァッジェスキ〉といわれる画家の
    一人で、作品には明暗法や主題性にその影響が表れています。

    楽器の演奏を描いたものは楽器の音が一瞬で消えるため儚い
    快楽の象徴とみなされます。楽器を演奏中に描いた場面の
    ほとんどが、売春宿か居酒屋(当時のオランダの居酒屋は
    売春宿も兼ねていたようなものでした)が舞台となってい
    ます。この作品でも、右手の男がこれみよがしに吹くフル
    ートが強調されていて性的なニュアンスが顕著に表れてい
    ます。

  • 『一杯の水と薔薇』<br /> 1630年頃 <br /> フランシスコ・デ・スルバラン<br /><br />スルバランの描いた、この作品は<br />スペイン語〈Bodegon〉ボデコンと呼ばれる<br />静物画です。<br />画家の精神世界が漂っていました。<br /><br />

    『一杯の水と薔薇』
     1630年頃 
     フランシスコ・デ・スルバラン

    スルバランの描いた、この作品は
    スペイン語〈Bodegon〉ボデコンと呼ばれる
    静物画です。
    画家の精神世界が漂っていました。

  • 『音楽を作る若い男性と女性』 <br /> 1630年ー2 <br />ヤン・ミエンセ・モレナール

    『音楽を作る若い男性と女性』 
     1630年ー2 
    ヤン・ミエンセ・モレナール

  • 『静物画:<br />    ピューターと銀の器とカニ』<br /> 1633年-7 <br />ウィレム・クラースゾーン・へーダ<br /><br />ヴァニタス。 ラテン語で虚しさを表す言葉で、この世で得られる<br />幸せはとても脆くはかない存在であるということを意味している<br />そうですが、この〈ヴァニタス〉を表すモチーフは数多くあります。<br />どくろ、砂時計、懐中時計、などは時間の虚しさを。<br />覆された杯、水差し、椀などは虚ろさを。<br />冠、笏杖などは権力の虚しさを。まだあります。<br />宝石、財布、硬貨は富の虚しさを。地球儀は現世の虚しさを。<br />煙やシャボン玉は儚いものの虚しさを。<br />書物は知識の虚しさを、さらに花は美しいものの儚さを表し<br />剣などは武力が死に対する防御を果たさない事を示します。<br />このように数多くのモチーフから、現世の財産や知識は全て<br />虚しいものであり、時は全てを奪い、死には現世のどんなも<br />のも逆らえない、という象徴として描かれています。<br /><br />

    『静物画:
        ピューターと銀の器とカニ』
     1633年-7 
    ウィレム・クラースゾーン・へーダ

    ヴァニタス。 ラテン語で虚しさを表す言葉で、この世で得られる
    幸せはとても脆くはかない存在であるということを意味している
    そうですが、この〈ヴァニタス〉を表すモチーフは数多くあります。
    どくろ、砂時計、懐中時計、などは時間の虚しさを。
    覆された杯、水差し、椀などは虚ろさを。
    冠、笏杖などは権力の虚しさを。まだあります。
    宝石、財布、硬貨は富の虚しさを。地球儀は現世の虚しさを。
    煙やシャボン玉は儚いものの虚しさを。
    書物は知識の虚しさを、さらに花は美しいものの儚さを表し
    剣などは武力が死に対する防御を果たさない事を示します。
    このように数多くのモチーフから、現世の財産や知識は全て
    虚しいものであり、時は全てを奪い、死には現世のどんなも
    のも逆らえない、という象徴として描かれています。

  • 『べルシャザルの饗宴』<br /> 1636年-38 <br />     レンブラント<br /><br />「旧約聖書」の〈ダニエル書 第5章〉を主題にした作品。<br />バビロニアの王ベルシャザルは、父王がエルサレムの神殿<br />から掠奪した金銀の器でワインを飲む盛大な宴を開催中、<br />壁に人の手が出現し、神秘的な文字を書き始めた。それは<br />神をも畏れ敬おうとしなかったベルシャザルがその夜打ち<br />負かされ、バビロニア王国が分割される予告でした。<br />レンブラントは、極端にクローズアップした王の構図や劇的<br />な明暗でドラマティックに描きました。<br />また、この作品ではカラヴァッジョの『エオマの晩餐』から<br />大きな影響を受けたといわれています。<br />それは、テーブルのまわりを囲む上半身の人物たちに強烈<br />な光をあて明暗の対比と芝居がかった動きなど。<br />そこに、レンブラントならではの技法を加えたものといわ<br />れています。<br />この旅行記の最後にカラヴァッジョの『エオマの晩餐』が<br />登場します。ぜひ、あなたの目で確かめてみてください。<br />後の世の評論家諸氏目と比べてみ、そうかなぁ。とか<br />なる程とか感じることも、これまた楽しい鑑賞のひとつ<br />ではないでしようか。<br />

    『べルシャザルの饗宴』
     1636年-38 
         レンブラント

    「旧約聖書」の〈ダニエル書 第5章〉を主題にした作品。
    バビロニアの王ベルシャザルは、父王がエルサレムの神殿
    から掠奪した金銀の器でワインを飲む盛大な宴を開催中、
    壁に人の手が出現し、神秘的な文字を書き始めた。それは
    神をも畏れ敬おうとしなかったベルシャザルがその夜打ち
    負かされ、バビロニア王国が分割される予告でした。
    レンブラントは、極端にクローズアップした王の構図や劇的
    な明暗でドラマティックに描きました。
    また、この作品ではカラヴァッジョの『エオマの晩餐』から
    大きな影響を受けたといわれています。
    それは、テーブルのまわりを囲む上半身の人物たちに強烈
    な光をあて明暗の対比と芝居がかった動きなど。
    そこに、レンブラントならではの技法を加えたものといわ
    れています。
    この旅行記の最後にカラヴァッジョの『エオマの晩餐』が
    登場します。ぜひ、あなたの目で確かめてみてください。
    後の世の評論家諸氏目と比べてみ、そうかなぁ。とか
    なる程とか感じることも、これまた楽しい鑑賞のひとつ
    ではないでしようか。

  • 『34歳の自画像』 <br /> 1640年 <br />レンブラント・ファン・レイン<br /><br />ルーベンスと並ぶバロックの代表的な巨匠レンブラント。<br />1606年アムステルダムから南西へ40Kmほどにある<br />町ライデンで製粉業を営む家に生まれました。<br />「34歳の自画像」は、故郷を離れアムステルダムでの<br />作品です。1630年代ネーデルランドは、空前の好景気<br />で、彼はそのキャリアの絶頂期を迎え、代表作品を次々と<br />描き人気画家となりました。美人で良家の娘サスキアと結婚<br />豪邸で贅沢な暮らしを続けました。浪費家で特に美術や骨董<br />品の収集に散財重ねました。<br />1640年代に入ると彼の人生は下降線をたどりはじめました。<br />妻のサスキアが死去すると、今度は4人の子供のうち3人が<br />夭折し、子供の乳母に手を出し別に乳母を雇って前任者に婚約<br />不履行で訴えられました。世間の評判が落ちても相変わらずの<br />浪費を続け1656年破産宣告を受けました。<br />豪邸を処分して2人目の乳母と息子と借家に移りました。<br /><br />レンブラントは、おそらく油絵だけで40枚以上の自画像を<br />描きましたが、これは史上群を抜いています。<br />しかも、20代から死の年までに渡っていて、本作品「34歳<br />の自画像」は、チョピリ気取っている姿が収まっていますし、<br />サスキアと結婚した年の自画像は人生の絶頂期を謳歌したようす<br />が描かれています。破産の2年後に描いた自画像〈NYフリック<br />コレクション蔵〉は、唇をキリッと結んで耐えているところを<br />描き、究極の自画像は、死の年に描いた3枚の自画像で穏やか<br />な微笑みを浮かべている。<br />その時代その時代自画像には、人生が投影していて興味深い<br />ものがあります。<br />

    『34歳の自画像』 
     1640年 
    レンブラント・ファン・レイン

    ルーベンスと並ぶバロックの代表的な巨匠レンブラント。
    1606年アムステルダムから南西へ40Kmほどにある
    町ライデンで製粉業を営む家に生まれました。
    「34歳の自画像」は、故郷を離れアムステルダムでの
    作品です。1630年代ネーデルランドは、空前の好景気
    で、彼はそのキャリアの絶頂期を迎え、代表作品を次々と
    描き人気画家となりました。美人で良家の娘サスキアと結婚
    豪邸で贅沢な暮らしを続けました。浪費家で特に美術や骨董
    品の収集に散財重ねました。
    1640年代に入ると彼の人生は下降線をたどりはじめました。
    妻のサスキアが死去すると、今度は4人の子供のうち3人が
    夭折し、子供の乳母に手を出し別に乳母を雇って前任者に婚約
    不履行で訴えられました。世間の評判が落ちても相変わらずの
    浪費を続け1656年破産宣告を受けました。
    豪邸を処分して2人目の乳母と息子と借家に移りました。

    レンブラントは、おそらく油絵だけで40枚以上の自画像を
    描きましたが、これは史上群を抜いています。
    しかも、20代から死の年までに渡っていて、本作品「34歳
    の自画像」は、チョピリ気取っている姿が収まっていますし、
    サスキアと結婚した年の自画像は人生の絶頂期を謳歌したようす
    が描かれています。破産の2年後に描いた自画像〈NYフリック
    コレクション蔵〉は、唇をキリッと結んで耐えているところを
    描き、究極の自画像は、死の年に描いた3枚の自画像で穏やか
    な微笑みを浮かべている。
    その時代その時代自画像には、人生が投影していて興味深い
    ものがあります。

  • 『静物画:人間の人生の虚しさの寓話』    <br /> 1640年頃 <br />    ハーメン・スティーンウィック<br /><br />ヴァニタス。 ラテン語で虚しさを表す言葉で、この世で得られる<br />幸せはとても脆くはかない存在であるということを意味している<br />そうですが、この〈ヴァニタス〉を表すモチーフは数多くあります。<br />どくろ、砂時計、懐中時計、などは時間の虚しさを。<br />覆された杯、水差し、椀などは虚ろさを。<br />冠、笏杖などは権力の虚しさを。まだあります。<br />宝石、財布、硬貨は富の虚しさを。地球儀は現世の虚しさを。<br />煙やシャボン玉は儚いものの虚しさを。<br />書物は知識の虚しさを、さらに花は美しいものの儚さを表し<br />剣などは武力が死に対する防御を果たさない事を示します。<br />このように数多くのモチーフから、現世の財産や知識は全て<br />虚しいものであり、時は全てを奪い、死には現世のどんなも<br />のも逆らえない、という象徴として描かれています。<br />

    『静物画:人間の人生の虚しさの寓話』    
     1640年頃 
        ハーメン・スティーンウィック

    ヴァニタス。 ラテン語で虚しさを表す言葉で、この世で得られる
    幸せはとても脆くはかない存在であるということを意味している
    そうですが、この〈ヴァニタス〉を表すモチーフは数多くあります。
    どくろ、砂時計、懐中時計、などは時間の虚しさを。
    覆された杯、水差し、椀などは虚ろさを。
    冠、笏杖などは権力の虚しさを。まだあります。
    宝石、財布、硬貨は富の虚しさを。地球儀は現世の虚しさを。
    煙やシャボン玉は儚いものの虚しさを。
    書物は知識の虚しさを、さらに花は美しいものの儚さを表し
    剣などは武力が死に対する防御を果たさない事を示します。
    このように数多くのモチーフから、現世の財産や知識は全て
    虚しいものであり、時は全てを奪い、死には現世のどんなも
    のも逆らえない、という象徴として描かれています。

  • 『枝編み細工品バスケットのレモンのある静物』<br /> 1643年ー49 <br />ファン・デ・スルバラン<br />(フランシスコ・スルバランの息子)<br />    <br />スルバランは、17世紀前半のスペインのバロック画家で<br />モチーフは、伝統的な宗教画や静物画にほぼ限定して描い<br />ていますが、注文主の意向を忠実に描いた画家と<br />いわれています。<br />静物画は、ごくごく少数が現存するのみということですが<br />ナショナルギャラリーで現存する彼の少数<br />静物画のうちの2作品が目に留まりました。<br />作品の前に立つと静かな独特の世界観に引き込まれました。<br />

    『枝編み細工品バスケットのレモンのある静物』
     1643年ー49 
    ファン・デ・スルバラン
    (フランシスコ・スルバランの息子)
        
    スルバランは、17世紀前半のスペインのバロック画家で
    モチーフは、伝統的な宗教画や静物画にほぼ限定して描い
    ていますが、注文主の意向を忠実に描いた画家と
    いわれています。
    静物画は、ごくごく少数が現存するのみということですが
    ナショナルギャラリーで現存する彼の少数
    静物画のうちの2作品が目に留まりました。
    作品の前に立つと静かな独特の世界観に引き込まれました。

  • 『ヴァニタスの静物画』<br /> 1648年 <br />ヤン・ヤンズ・トレック<br /><br />トレックは、アムステルダムで活躍した静物画家の作品。<br /><br />ヴァニタス。 ラテン語で虚しさを表す言葉で、この世で得られる<br />幸せはとても脆くはかない存在であるということを意味している<br />そうですが、この〈ヴァニタス〉を表すモチーフは数多くあります。<br />どくろ、砂時計、懐中時計、などは時間の虚しさを。<br />覆された杯、水差し、椀などは虚ろさを。<br />冠、笏杖などは権力の虚しさを。まだあります。<br />宝石、財布、硬貨は富の虚しさを。地球儀は現世の虚しさを。<br />煙やシャボン玉は儚いものの虚しさを。<br />書物は知識の虚しさを、さらに花は美しいものの儚さを表し<br />剣などは武力が死に対する防御を果たさない事を示します。<br />このように数多くのモチーフから、現世の財産や知識は全て<br />虚しいものであり、時は全てを奪い、死には現世のどんなも<br />のも逆らえない、という象徴として描かれています。<br />

    『ヴァニタスの静物画』
     1648年 
    ヤン・ヤンズ・トレック

    トレックは、アムステルダムで活躍した静物画家の作品。

    ヴァニタス。 ラテン語で虚しさを表す言葉で、この世で得られる
    幸せはとても脆くはかない存在であるということを意味している
    そうですが、この〈ヴァニタス〉を表すモチーフは数多くあります。
    どくろ、砂時計、懐中時計、などは時間の虚しさを。
    覆された杯、水差し、椀などは虚ろさを。
    冠、笏杖などは権力の虚しさを。まだあります。
    宝石、財布、硬貨は富の虚しさを。地球儀は現世の虚しさを。
    煙やシャボン玉は儚いものの虚しさを。
    書物は知識の虚しさを、さらに花は美しいものの儚さを表し
    剣などは武力が死に対する防御を果たさない事を示します。
    このように数多くのモチーフから、現世の財産や知識は全て
    虚しいものであり、時は全てを奪い、死には現世のどんなも
    のも逆らえない、という象徴として描かれています。

  • 『海港、シバの女王の船出』 <br /> 1648年 <br /> クロード・ロラン<br /><br />17世紀は絵画の主題によるジャンルが確立しその格付けも<br />存在していた時代でした。<br />その頂点に君臨したのが神話や聖書、古代史などを主題にし<br />た歴史画でその下に肖像画、風俗画、風景画、静物画と続き <br />ました。<br />そのころ、フランスのみならず、西洋絵画における風景画の<br />規範となったのが、ローマで活動していたクロードでした。<br />彼が描いた風景はローマ郊外の遺跡や港など美しい風景を<br />スケッチして歩き、日の出や日没それらをコラージュのよう<br />に描きました。<br />それは、〈理想的〉〈古典的〉〈牧歌的〉と呼ばれ古代から<br />の神々と人間が混在していた楽園アルカディアとみなされま<br />した。<br />当時のイタリアでは、風景を描く際も見たままの風景画では<br />なく高貴とされた歴史画的主題を組み合わせることが求めら<br />れたのでした。その為、風景自体を絵画の主役にするため神<br />話や聖書の神々や人物は通常の歴史画と比較して小さく描か<br />れました。<br />イタリアで誕生したこのような歴史画的な風景画を発展させ、<br />理想的風景画・古典的風景画・歴史的風景画と呼ばれるジャ<br />ンルを確立したのがクロード・ロランでした。<br /><br />後年、かのターナーは、クロード・ロランを尊敬し自身の<br />作品を本作品「海港 シバの女王の船出」とともに展示する<br />よう遺言に記載しました。<br /><br />シバの女王は、旧約聖書に登場する伝説上の人物で、ユダヤ<br />の王ソロモンの名声を耳にした女王が難問でその知恵を試そ<br />うとエルサレムに王を訪ねた。旧約聖書では、陸路の旅で<br />あったが、この作品では海路の旅となっています。<br />絵画右に小さく描かれた階段を降りてくる赤い衣装の<br />女性がシバの女王です。<br />

    イチオシ

    『海港、シバの女王の船出』 
     1648年 
     クロード・ロラン

    17世紀は絵画の主題によるジャンルが確立しその格付けも
    存在していた時代でした。
    その頂点に君臨したのが神話や聖書、古代史などを主題にし
    た歴史画でその下に肖像画、風俗画、風景画、静物画と続き 
    ました。
    そのころ、フランスのみならず、西洋絵画における風景画の
    規範となったのが、ローマで活動していたクロードでした。
    彼が描いた風景はローマ郊外の遺跡や港など美しい風景を
    スケッチして歩き、日の出や日没それらをコラージュのよう
    に描きました。
    それは、〈理想的〉〈古典的〉〈牧歌的〉と呼ばれ古代から
    の神々と人間が混在していた楽園アルカディアとみなされま
    した。
    当時のイタリアでは、風景を描く際も見たままの風景画では
    なく高貴とされた歴史画的主題を組み合わせることが求めら
    れたのでした。その為、風景自体を絵画の主役にするため神
    話や聖書の神々や人物は通常の歴史画と比較して小さく描か
    れました。
    イタリアで誕生したこのような歴史画的な風景画を発展させ、
    理想的風景画・古典的風景画・歴史的風景画と呼ばれるジャ
    ンルを確立したのがクロード・ロランでした。

    後年、かのターナーは、クロード・ロランを尊敬し自身の
    作品を本作品「海港 シバの女王の船出」とともに展示する
    よう遺言に記載しました。

    シバの女王は、旧約聖書に登場する伝説上の人物で、ユダヤ
    の王ソロモンの名声を耳にした女王が難問でその知恵を試そ
    うとエルサレムに王を訪ねた。旧約聖書では、陸路の旅で
    あったが、この作品では海路の旅となっています。
    絵画右に小さく描かれた階段を降りてくる赤い衣装の
    女性がシバの女王です。

  • 『ピューターフラゴンと<br />    2つのミンボウルのある静物』<br /> 1651年  <br />ヤン・ヤンズ・トレック<br /><br />アムステルダムで活躍した静物画家の作品。<br /><br />17世紀のオランダでは、教会や王侯貴族の注文ではなく<br />一般市民の依頼で絵画を描くようになっていました。<br />そして、市民の絵画収集熱は高揚し〈市場〉さえ生まれました。<br />それまでは、主として肖像画を描いていましたが、相手が<br />市場となると特定のモデルを描いてばかりでは仕事にならない。<br />そこで、主題を見つけては、不特定多数のために制作するよう<br />になっていきました。<br />一般市民のための絵画といえば、やはり人気のあるテーマが<br />好まれました。当時の厳格なプロテスタントのオランダでは、<br />ヌードなどのテーマは歓迎されませんでした。そこで、画家<br />たちは、苦心して、いろいろな象徴を散りばめたり、教訓を<br />暗示したりしました。<br />

    『ピューターフラゴンと
        2つのミンボウルのある静物』
     1651年  
    ヤン・ヤンズ・トレック

    アムステルダムで活躍した静物画家の作品。

    17世紀のオランダでは、教会や王侯貴族の注文ではなく
    一般市民の依頼で絵画を描くようになっていました。
    そして、市民の絵画収集熱は高揚し〈市場〉さえ生まれました。
    それまでは、主として肖像画を描いていましたが、相手が
    市場となると特定のモデルを描いてばかりでは仕事にならない。
    そこで、主題を見つけては、不特定多数のために制作するよう
    になっていきました。
    一般市民のための絵画といえば、やはり人気のあるテーマが
    好まれました。当時の厳格なプロテスタントのオランダでは、
    ヌードなどのテーマは歓迎されませんでした。そこで、画家
    たちは、苦心して、いろいろな象徴を散りばめたり、教訓を
    暗示したりしました。

  • 『聖セバスティアヌス射手組合の角製の杯と<br />        ロブスターとグラスのある静物』<br /> 1653年頃 <br />         ウィレム・カルフ <br /><br />ロッテルダム出身のカルフは、アムステルダムで活躍した<br />静物画家で、フランドル絵画に影響を受け豪華な工芸品や<br />異国の食べ物を見事な写実力で描き賞賛を得ていました。<br />こうした異国からもたらされた特産品は海運国オランダの<br />富を象徴するモチーフでした。この作品でも、テーブルに<br />掛る東洋風の布やイタリア産レモンそして、銀の装飾が施<br />されたバッファローの角盃は、市民自警団のものなどが描<br />かれています。<br />

    『聖セバスティアヌス射手組合の角製の杯と
            ロブスターとグラスのある静物』
     1653年頃 
             ウィレム・カルフ 

    ロッテルダム出身のカルフは、アムステルダムで活躍した
    静物画家で、フランドル絵画に影響を受け豪華な工芸品や
    異国の食べ物を見事な写実力で描き賞賛を得ていました。
    こうした異国からもたらされた特産品は海運国オランダの
    富を象徴するモチーフでした。この作品でも、テーブルに
    掛る東洋風の布やイタリア産レモンそして、銀の装飾が施
    されたバッファローの角盃は、市民自警団のものなどが描
    かれています。

  • 『ヴァージナルの傍らに座る男性と女性』 <br /> 1655年頃 <br />ガブリエル・メツ

    『ヴァージナルの傍らに座る男性と女性』 
     1655年頃 
    ガブリエル・メツ

  • 『ペルセウスがフィニアスと<br />      その追随者たちを石に変える』<br /> 1660年頃 <br />       ルカ・ジョルダーノ

    『ペルセウスがフィニアスと
          その追随者たちを石に変える』
     1660年頃 
           ルカ・ジョルダーノ

  • 『ヴァージナルの前に立つ若い女』<br /> 1670年-72 <br />    ヨハネス・フェルメール

    『ヴァージナルの前に立つ若い女』
     1670年-72 
        ヨハネス・フェルメール

  • 『ヴァージナルの前に座る若い女』<br /> 1670年-72 <br />    ヨハネス・フェルメール<br />

    『ヴァージナルの前に座る若い女』
     1670年-72 
        ヨハネス・フェルメール

  • 金曜日の夜間オープンの日<br />事前の情報で、予約はせずとも並ぶことは<br />ない。とのことでしたが、夕方行ってみる<br />と、列は2列になっていました。<br />予約者と予約をせずに来た人とのたて分でした。<br />予約者の方は、15名前後くらいの人が集まると<br />直ぐに入館でき、もう一方の列は、予約者が<br />切れた合間合間にやはり、数名ずつグループにして<br />入館する。というものでした。<br />私たちは、予約せずに行きましたので、階段で<br />待つこと30分ほどでなんとか入館することが<br />できました。<br />30分でも、予約をしておけば良かった。(⌒-⌒; )と<br />反省。<br />けれど、入館してみれば広い館内。<br />ほとんどの展示室はご覧のように<br />ゆったりと鑑賞することができました。

    金曜日の夜間オープンの日
    事前の情報で、予約はせずとも並ぶことは
    ない。とのことでしたが、夕方行ってみる
    と、列は2列になっていました。
    予約者と予約をせずに来た人とのたて分でした。
    予約者の方は、15名前後くらいの人が集まると
    直ぐに入館でき、もう一方の列は、予約者が
    切れた合間合間にやはり、数名ずつグループにして
    入館する。というものでした。
    私たちは、予約せずに行きましたので、階段で
    待つこと30分ほどでなんとか入館することが
    できました。
    30分でも、予約をしておけば良かった。(⌒-⌒; )と
    反省。
    けれど、入館してみれば広い館内。
    ほとんどの展示室はご覧のように
    ゆったりと鑑賞することができました。

  • 『大運河のレガッタ』 <br /> 1733年-4  <br />    カナレット<br /><br />18世紀のイギリスでは上流階級の師弟が教育の<br />仕上としてヨーロッパ大陸へ長期間の旅行へ出かける<br />グランドツアーが流行しました。<br />まるで修学旅行セレブ版とでも言えそうです。<br />ヨーロッパ各地を旅した彼らの最終目的地は決まって<br />イタリアでした。<br />古代の遺跡やルネサンスが花開いた所で、見聞を深めると<br />いうのは、教育の仕上げとするにはまさに、ピッタリでした。<br />そして、そのグランドツアーに出かけたイギリス人の間で<br />人気を博したのが、ヴェネツィア出身の画家カナレットの<br />風景画でした。現代の私たちが観光地の土産物として絵葉<br />書を買い求めるように、当時の旅人もまた旅の記念として<br />絵画を求めたのでした。

    『大運河のレガッタ』 
     1733年-4  
        カナレット

    18世紀のイギリスでは上流階級の師弟が教育の
    仕上としてヨーロッパ大陸へ長期間の旅行へ出かける
    グランドツアーが流行しました。
    まるで修学旅行セレブ版とでも言えそうです。
    ヨーロッパ各地を旅した彼らの最終目的地は決まって
    イタリアでした。
    古代の遺跡やルネサンスが花開いた所で、見聞を深めると
    いうのは、教育の仕上げとするにはまさに、ピッタリでした。
    そして、そのグランドツアーに出かけたイギリス人の間で
    人気を博したのが、ヴェネツィア出身の画家カナレットの
    風景画でした。現代の私たちが観光地の土産物として絵葉
    書を買い求めるように、当時の旅人もまた旅の記念として
    絵画を求めたのでした。

  • 『ヴェネツィア:ドゥカレ宮殿とリーヴァ・デリ・スキアヴォーニ』 <br /> 1730年代後半  <br />                                 カナレット<br /><br />グランドツアーの中でも、風光明媚なヴェネツィアは<br />人気を集め、最終訪問地となることが多かったといい<br />ます。<br />そこでの様々なドラマを描き〈Veduta〉と呼ばれる<br />都市景観図は特に人気をよびました。<br />

    『ヴェネツィア:ドゥカレ宮殿とリーヴァ・デリ・スキアヴォーニ』 
     1730年代後半  
    カナレット

    グランドツアーの中でも、風光明媚なヴェネツィアは
    人気を集め、最終訪問地となることが多かったといい
    ます。
    そこでの様々なドラマを描き〈Veduta〉と呼ばれる
    都市景観図は特に人気をよびました。

  • 『ヴェネツィア:Sシメネオ・ピッコラのいるのいる大運河』 <br /> 1740年頃 <br />                  カナレット<br /><br />ヴェネツィアの光や水、空気感までもとらえたカナレット<br />の作品は、正確な地理に基づいた都市景観図は、旅の思い<br />出にと人気だったのでしよう。<br />このように17世紀まで歴史画の中の一部だった風景は、<br />18世紀になると一つのジャンルとして独立して描かれる<br />ようになりました。さらに、19世紀になると、画家たち<br />は、様々なスタイルで風景画を描き始めました。<br />

    『ヴェネツィア:Sシメネオ・ピッコラのいるのいる大運河』 
     1740年頃 
    カナレット

    ヴェネツィアの光や水、空気感までもとらえたカナレット
    の作品は、正確な地理に基づいた都市景観図は、旅の思い
    出にと人気だったのでしよう。
    このように17世紀まで歴史画の中の一部だった風景は、
    18世紀になると一つのジャンルとして独立して描かれる
    ようになりました。さらに、19世紀になると、画家たち
    は、様々なスタイルで風景画を描き始めました。

  • 『ヴェネツィア:昇天祭のサンマルコ盆地』      <br />      1740年頃 <br />                         カナレット<br /><br />ヴェネツィアの舞台背景画家として<br />修行を積み、正確な地誌で描いた〈Veduta〉と呼ば<br />れる都市景観図で人気を博したカナレットでしたが<br />オーストラリア継続戦争(1740年~48年)が<br />勃発すると、イギリス人の旅行者は激減します。<br />そのこともありカナレットは自らロンドンのソーホー<br />で9年間暮らし、その間ロンドンの風景画も描きました。<br />彼が、イギリスの地誌水彩画派に大きな影響を与えたこと<br />も記しておきます。

    『ヴェネツィア:昇天祭のサンマルコ盆地』      
      1740年頃 
    カナレット

    ヴェネツィアの舞台背景画家として
    修行を積み、正確な地誌で描いた〈Veduta〉と呼ば
    れる都市景観図で人気を博したカナレットでしたが
    オーストラリア継続戦争(1740年~48年)が
    勃発すると、イギリス人の旅行者は激減します。
    そのこともありカナレットは自らロンドンのソーホー
    で9年間暮らし、その間ロンドンの風景画も描きました。
    彼が、イギリスの地誌水彩画派に大きな影響を与えたこと
    も記しておきます。

  • 『モンテチトリオ広場の宝くじ』 <br /> 1743年-4 <br />ジョバンニ・パオロ・パニーニ<br /><br />ピアチェンツァ出身で、ローマで活躍した画家で〈カプ<br />リッチョ(奇想画・想像画)〉を得意としました。<br />

    『モンテチトリオ広場の宝くじ』 
     1743年-4 
    ジョバンニ・パオロ・パニーニ

    ピアチェンツァ出身で、ローマで活躍した画家で〈カプ
    リッチョ(奇想画・想像画)〉を得意としました。

  • 『当世結婚アラモード』~6連作<br />1743年<br />ウィリアム・ホガース<br /><br />後に覇権国となっな大英帝国も、絵画的にはまだまだ後進国<br />で、イギリスが世界の絵画史上に登場するのは18世紀に入<br />ってからのこと。<br />〈イギリスの絵画の父〉ウィリアム・ホガースが1743年<br />に描いたこの作品は、西洋絵画の様式(時代区分)では、<br />ロココに分類されています。<br />彼は、西洋絵画史上、初めて風刺画家といわれていますが<br />代表作「当世結婚アラモード」によく表れています。<br />ホガース46歳で描いた6枚の連作品。<br /><br />当時貴族は腐敗し、一方で富裕商人が台頭そんな時代。<br />貴族は金を、商人は名誉を欲しがるという古今東西から<br />現在にも通じる風潮をホガースは鋭く風刺しています。<br />①『契約結婚』<br />テーブルの上に金が山積みになっている。<br />侯爵は家系図をかざしてが名家であることを誇らし<br />げに語っている。侯爵夫人の名前が欲しいために、娘に<br />大量の持参金を持たせて嫁がせたが、伯爵の息子は鏡で<br />自分を写すことで夢中になっている。<br />芝居がかった手法だか分かりやすく描かれています。<br /><br />②『新婚夫婦の遅い朝食の図』<br />新郎は既に浮気していて、昨夜の女のナイトキャップがポケ<br />ットからのぞいているのを犬が嗅いでいる。新妻は、大あくび<br />している。会計士の手には2人の生活を示す請求書の束。<br />既にこの結婚は破綻しているのです。<br />この戯画的描き方はいかにも、英国風。<br />画像は、①、④

    『当世結婚アラモード』~6連作
    1743年
    ウィリアム・ホガース

    後に覇権国となっな大英帝国も、絵画的にはまだまだ後進国
    で、イギリスが世界の絵画史上に登場するのは18世紀に入
    ってからのこと。
    〈イギリスの絵画の父〉ウィリアム・ホガースが1743年
    に描いたこの作品は、西洋絵画の様式(時代区分)では、
    ロココに分類されています。
    彼は、西洋絵画史上、初めて風刺画家といわれていますが
    代表作「当世結婚アラモード」によく表れています。
    ホガース46歳で描いた6枚の連作品。

    当時貴族は腐敗し、一方で富裕商人が台頭そんな時代。
    貴族は金を、商人は名誉を欲しがるという古今東西から
    現在にも通じる風潮をホガースは鋭く風刺しています。
    ①『契約結婚』
    テーブルの上に金が山積みになっている。
    侯爵は家系図をかざしてが名家であることを誇らし
    げに語っている。侯爵夫人の名前が欲しいために、娘に
    大量の持参金を持たせて嫁がせたが、伯爵の息子は鏡で
    自分を写すことで夢中になっている。
    芝居がかった手法だか分かりやすく描かれています。

    ②『新婚夫婦の遅い朝食の図』
    新郎は既に浮気していて、昨夜の女のナイトキャップがポケ
    ットからのぞいているのを犬が嗅いでいる。新妻は、大あくび
    している。会計士の手には2人の生活を示す請求書の束。
    既にこの結婚は破綻しているのです。
    この戯画的描き方はいかにも、英国風。
    画像は、①、④

  • ③『偽医者への訪問 検査』<br />夫が娼婦と共に性病の検診に来ている。しかも医師は<br />偽物で、実は女と共犯のようである。<br /><br />④『伯爵夫人の朝見の儀』<br />伯爵が亡くなり、息子が伯爵、妻が伯爵夫人となった。使用人が<br />彼女の髪を整えるときは、彼女は来客に背を向けて座り、彼らに<br />は気にも留めない。弁護士は夫人の隣の椅子にもたれかかるよう<br />に座っていることで、弁護士とのよからぬ関係がわかる。<br />二人の前にいる子どもが、不貞のシンボルであるアクタイオーン<br />の像の角を指さしている。<br /><br />⑤『伯爵の死』<br />伯爵は妻と彼女の愛人である弁護士を拘束したが、致命的な負傷を<br />負わされた。彼女は負傷した夫に許しを請うその時、殺人を犯した<br />弁護士はナイトシャツのまま窓から外へ急いで逃げた。<br /><br />⑥『伯爵夫人の自殺』<br />彼女の弁護士が殺人の罪で死刑執行された。その後の伯爵夫人は惨めな<br />生活を送り、深い悲しみに包まれたまま自殺した。<br />ここに至っても強欲な父親は、娘の指から指輪を抜いている。 <br />夫婦の間に生まれた子供は性病の影響による障害者に描かれているなど、<br />ここまで描くかと思わせる程ホガースの筆は辛辣である。<br /><br />ホガースの作品が売れた理由のひとつには、彼が優れた銅版画<br />画家ということもある。「当世」をはじめとした風刺シリーズ<br />は、版画に刷られてイギリス中に広まったという。<br />そして彼は、金儲けのためではなく、道徳啓蒙のために、慈善<br />家や教育者の要請で描いたそうである。<br /><br />『当世結婚アラモード』~6連作<br />1743年<br />ウィリアム・ホガース<br /><br />画像は、時計回りで<br />②、③、⑤、⑥

    イチオシ

    ③『偽医者への訪問 検査』
    夫が娼婦と共に性病の検診に来ている。しかも医師は
    偽物で、実は女と共犯のようである。

    ④『伯爵夫人の朝見の儀』
    伯爵が亡くなり、息子が伯爵、妻が伯爵夫人となった。使用人が
    彼女の髪を整えるときは、彼女は来客に背を向けて座り、彼らに
    は気にも留めない。弁護士は夫人の隣の椅子にもたれかかるよう
    に座っていることで、弁護士とのよからぬ関係がわかる。
    二人の前にいる子どもが、不貞のシンボルであるアクタイオーン
    の像の角を指さしている。

    ⑤『伯爵の死』
    伯爵は妻と彼女の愛人である弁護士を拘束したが、致命的な負傷を
    負わされた。彼女は負傷した夫に許しを請うその時、殺人を犯した
    弁護士はナイトシャツのまま窓から外へ急いで逃げた。

    ⑥『伯爵夫人の自殺』
    彼女の弁護士が殺人の罪で死刑執行された。その後の伯爵夫人は惨めな
    生活を送り、深い悲しみに包まれたまま自殺した。
    ここに至っても強欲な父親は、娘の指から指輪を抜いている。 
    夫婦の間に生まれた子供は性病の影響による障害者に描かれているなど、
    ここまで描くかと思わせる程ホガースの筆は辛辣である。

    ホガースの作品が売れた理由のひとつには、彼が優れた銅版画
    画家ということもある。「当世」をはじめとした風刺シリーズ
    は、版画に刷られてイギリス中に広まったという。
    そして彼は、金儲けのためではなく、道徳啓蒙のために、慈善
    家や教育者の要請で描いたそうである。

    『当世結婚アラモード』~6連作
    1743年
    ウィリアム・ホガース

    画像は、時計回りで
    ②、③、⑤、⑥

  • 『ダイアナとエンディミオン』<br /> 1745年頃<br />ピエール・サブレイラス

    『ダイアナとエンディミオン』
     1745年頃
    ピエール・サブレイラス

  • 『テヴェレ川でのスポーツコンテスト』 <br /> 1750年 <br />              クロード=ジョセフ・ヴェルネ<br />

    『テヴェレ川でのスポーツコンテスト』 
     1750年 
    クロード=ジョセフ・ヴェルネ

  • 『ホイッスルジャケット』 <br /> 1762年<br />ジョージ・スタッブス<br /><br />ジョージ・スタッブスは、馬の画家として美術史に名を<br />残しました。イギリスの上流階級は、狩猟や競馬など<br />〈馬〉を主題にした絵画を好みます。<br />スタッブスは、馬を解剖して馬体解剖学を出版するなど<br />解剖学上正確に馬を描くことができる画家でした。<br /><br />馬主のロッキンガム侯爵チャールズ・ワトソン<br />=ウエントワースは、ホイッスルジャケットの並外れた<br />美しさを残しておきたいとスタッブスに依頼。<br />通常絵画の中の馬は、背景の一部か人間の付属物的扱い<br />でしたがスタッブスは、騎手も馬具も取り去って、大胆<br />なポーズを等身大で描きました。たて髪やシッポの部分<br />には、あえて筆の跡を残して自然な質感を出し体全体に<br />は様々な色使いで濃い色と金色を細かく組み合わせるこ<br />とで、艶のある体毛とたくましい筋肉の動きを捉えアラ<br />ブ馬の純血種の高貴で、その逞しくも優雅な姿を描きました。<br /><br />

    『ホイッスルジャケット』 
     1762年
    ジョージ・スタッブス

    ジョージ・スタッブスは、馬の画家として美術史に名を
    残しました。イギリスの上流階級は、狩猟や競馬など
    〈馬〉を主題にした絵画を好みます。
    スタッブスは、馬を解剖して馬体解剖学を出版するなど
    解剖学上正確に馬を描くことができる画家でした。

    馬主のロッキンガム侯爵チャールズ・ワトソン
    =ウエントワースは、ホイッスルジャケットの並外れた
    美しさを残しておきたいとスタッブスに依頼。
    通常絵画の中の馬は、背景の一部か人間の付属物的扱い
    でしたがスタッブスは、騎手も馬具も取り去って、大胆
    なポーズを等身大で描きました。たて髪やシッポの部分
    には、あえて筆の跡を残して自然な質感を出し体全体に
    は様々な色使いで濃い色と金色を細かく組み合わせるこ
    とで、艶のある体毛とたくましい筋肉の動きを捉えアラ
    ブ馬の純血種の高貴で、その逞しくも優雅な姿を描きました。

  • 『ホイッスルジャケット』の大きさを感じてもらえればと思います。

    『ホイッスルジャケット』の大きさを感じてもらえればと思います。

  • 『空気ポンプと鳥の実験』<br /> 1768年 <br />ジョゼフ・ライト・オブ・ダービー<br /><br />当時最新の科学的テーマを描いた作品で、真空の及ぼす<br />効果についての実験の様子が描かれています。<br />空気ポンプを用いて硝子容器の中の空気が抜かれ容器の<br />中の白いインコが苦しむ姿が見えます。鳥の運命を悲観<br />して恐怖にかられる姉妹とその肩を抱いて理論的に説明<br />をする父親。その隣りには死を思い瞑想する老人が描か<br />れています。<br />画面左の男の手には、儚さを象徴する時計が握られていて<br />画面中央には科学者があたかも、父なる神のような姿を<br />写真的でとても美しく描かれています。<br /><br />科学者の面影は、どこか「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の<br />ドクに似ていませんか。(⌒▽⌒)<br />

    『空気ポンプと鳥の実験』
     1768年 
    ジョゼフ・ライト・オブ・ダービー

    当時最新の科学的テーマを描いた作品で、真空の及ぼす
    効果についての実験の様子が描かれています。
    空気ポンプを用いて硝子容器の中の空気が抜かれ容器の
    中の白いインコが苦しむ姿が見えます。鳥の運命を悲観
    して恐怖にかられる姉妹とその肩を抱いて理論的に説明
    をする父親。その隣りには死を思い瞑想する老人が描か
    れています。
    画面左の男の手には、儚さを象徴する時計が握られていて
    画面中央には科学者があたかも、父なる神のような姿を
    写真的でとても美しく描かれています。

    科学者の面影は、どこか「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の
    ドクに似ていませんか。(⌒▽⌒)

  • 『漁から戻る漁師のいる夕暮れの風景』 <br /> 1773年 <br />       クロード=ジョセフ・ヴェルネ<br />

    『漁から戻る漁師のいる夕暮れの風景』 
     1773年 
           クロード=ジョセフ・ヴェルネ

  • 『麦わら帽子の自画像』 <br /> 1782年  <br /> エリザベート=ルィーズ・<br />       ヴィジェ=ルブラン<br /><br />パレットと絵筆を片手に持ち親しげに視線を向けてくれ<br />ている女性は、画家エリザベート=ルィーズ・ヴィジェ<br />=ルブランです。ルーベンスの肖像画「麦わら帽子」に<br />感銘を受け描いたとされています。<br />パリのサロンで展示され、それを観た<br />ヨハン・フォン・ミュラーがエッチングで描きました。<br />ミュラーは、ラファエロやダヴィンチの作品を版画制作<br />し成功していました。<br />しかし、彼女は、自身の自画像のエッチングを見て<br />「黒い影が絵全体的な効果を損ねている」と言った<br />逸話が残されていますが、微笑みの自画像から想像<br />できませんでしたが意志の強い女性だったのですね。<br />しばし、ロココの魅力を味わいました。<br /><br />

    『麦わら帽子の自画像』 
     1782年  
     エリザベート=ルィーズ・
           ヴィジェ=ルブラン

    パレットと絵筆を片手に持ち親しげに視線を向けてくれ
    ている女性は、画家エリザベート=ルィーズ・ヴィジェ
    =ルブランです。ルーベンスの肖像画「麦わら帽子」に
    感銘を受け描いたとされています。
    パリのサロンで展示され、それを観た
    ヨハン・フォン・ミュラーがエッチングで描きました。
    ミュラーは、ラファエロやダヴィンチの作品を版画制作
    し成功していました。
    しかし、彼女は、自身の自画像のエッチングを見て
    「黒い影が絵全体的な効果を損ねている」と言った
    逸話が残されていますが、微笑みの自画像から想像
    できませんでしたが意志の強い女性だったのですね。
    しばし、ロココの魅力を味わいました。

  • 『干草車』 <br /> 1821年 <br />ジョン・カンスタブル

    『干草車』 
     1821年 
    ジョン・カンスタブル

  • ここから、ターナーを4作品まとめます。<br /><br />『強風の中のオランダのボート』<br /> 1801年 <br />       J.M.W.ターナー

    ここから、ターナーを4作品まとめます。

    『強風の中のオランダのボート』
     1801年 
           J.M.W.ターナー

  • 『カレー桟橋』<br /> 1803年<br />        J.M.W.ターナー

    『カレー桟橋』
     1803年
            J.M.W.ターナー

  • 『解体のため最後の錨泊地へ向かう<br />         戦艦テレメール』<br /> 1838年-39年 <br />        J.M.W.ターナー<br /><br />ターナーがまだ子供だった頃,帆船の商人たちが<br />港に出入りする光景をずっと眺めていました。<br />しかし、蒸気機関の発明がすべてを一変させて<br />しまいました。新型の蒸気船はマストの前に大きな<br />煙突があり船の両側には大きな外輪が備わりその後は、<br />スクリュー船も登場しました。<br />そのターナーが1839年(64歳)で描いたこの作品は、<br />かってトルファルガーの戦いで、ネルソン提督が指揮する<br />ビクトリー号を支え無敵艦隊の旗艦だった帆船テレメール号も、<br />今や老朽船と化し役目を終えて廃船になるために曳航されてゆく。引いていくタグボートは最新の蒸気機関船である。 <br />この様なイギリス国民にとって歴史的背景のある主題を描いた<br />この作品は、特別な思いを抱いているのだろうと推測しました。<br />この作品は、1839年のロイヤルアカデミーに出品され <br />大絶賛されました。<br />そのようなこともあり、そして近年2005年イギリス人が<br />選ぶ好きな絵画No.1に輝いています。<br /><br />茶褐色の空に沈んでゆく泣いているような太陽。 <br />この老船に対する美しいオマージュが私たちの胸を打ちます。<br />彼は産業革命が大英帝国にもたらした恩恵を十分理解しながらも<br />〈新しいもの〉〈強いもの〉だけが良いとは限らない、とでも<br />言っているように響いてきて感動をもらいました。<br />

    イチオシ

    『解体のため最後の錨泊地へ向かう
             戦艦テレメール』
     1838年-39年 
            J.M.W.ターナー

    ターナーがまだ子供だった頃,帆船の商人たちが
    港に出入りする光景をずっと眺めていました。
    しかし、蒸気機関の発明がすべてを一変させて
    しまいました。新型の蒸気船はマストの前に大きな
    煙突があり船の両側には大きな外輪が備わりその後は、
    スクリュー船も登場しました。
    そのターナーが1839年(64歳)で描いたこの作品は、
    かってトルファルガーの戦いで、ネルソン提督が指揮する
    ビクトリー号を支え無敵艦隊の旗艦だった帆船テレメール号も、
    今や老朽船と化し役目を終えて廃船になるために曳航されてゆく。引いていくタグボートは最新の蒸気機関船である。 
    この様なイギリス国民にとって歴史的背景のある主題を描いた
    この作品は、特別な思いを抱いているのだろうと推測しました。
    この作品は、1839年のロイヤルアカデミーに出品され 
    大絶賛されました。
    そのようなこともあり、そして近年2005年イギリス人が
    選ぶ好きな絵画No.1に輝いています。

    茶褐色の空に沈んでゆく泣いているような太陽。 
    この老船に対する美しいオマージュが私たちの胸を打ちます。
    彼は産業革命が大英帝国にもたらした恩恵を十分理解しながらも
    〈新しいもの〉〈強いもの〉だけが良いとは限らない、とでも
    言っているように響いてきて感動をもらいました。

  • 『雨、蒸気、速度ーグレート・<br />         ウェスタン鉄道』<br /> 1844年  <br />     J.M.W.ターナー<br /><br />晩年の傑作。油彩画。<br />この時代のターナーの作品の特徴的な画法〈抽象化〉されて描かれています。この年の6年前に鉄道が開通し、当時、最新の鉄道のスピード感を十二分に表現しながら、テムズ川に浮かぶ小舟、耕す農夫、さらにレールの間を走る野うさぎ、まで描かれています。<br />〈逃げるウサギ〉は、<br />汽車から逃げる様子は人類が自然を征服したことを表していて<br />〈雨の大気の描写〉では、 <br />ヒッチを残さない滑らかな表現が好まれていた時代<br />風によって乱れる雨や大気の描写の荒いヒッチは革新的でした。<br />〈船〉<br />旧時代の文明の力だった船は、交通手段にも近代化が差し迫って<br />いることを示唆している。など<br />いろいろなことを語りかけてきます。<br />それにしても、この「空気」の揺れや「スピード感」の表現<br />は時代を超えて迫ってきます。<br /><br />本作を制作するにあたり、ターナーは実際に汽車に乗り<br />窓から顔を出してその躍動を体感したといいいます。<br /><br />優れた風景画が生まれた背景には、水彩技法の発展が<br />欠かせません。水で薄く溶いた顔料で紙に描く水彩は、<br />何よりも速乾性に優れる為時間の限られる屋外での<br />スケッチでは最大に利点を発揮しました。<br />描き直しが効かないので色の選択が重要となりますが、<br />油彩とは異なる透明感も演出できる。<br />ターナーは、水彩を巧みに使いこなし、光や蒸気、水と<br />いった流動的なものを見事に描き出しています。<br /><br />線描ではなく色彩による表現の追求はまさに印象派を予告するかのようです。

    『雨、蒸気、速度ーグレート・
             ウェスタン鉄道』
     1844年  
         J.M.W.ターナー

    晩年の傑作。油彩画。
    この時代のターナーの作品の特徴的な画法〈抽象化〉されて描かれています。この年の6年前に鉄道が開通し、当時、最新の鉄道のスピード感を十二分に表現しながら、テムズ川に浮かぶ小舟、耕す農夫、さらにレールの間を走る野うさぎ、まで描かれています。
    〈逃げるウサギ〉は、
    汽車から逃げる様子は人類が自然を征服したことを表していて
    〈雨の大気の描写〉では、 
    ヒッチを残さない滑らかな表現が好まれていた時代
    風によって乱れる雨や大気の描写の荒いヒッチは革新的でした。
    〈船〉
    旧時代の文明の力だった船は、交通手段にも近代化が差し迫って
    いることを示唆している。など
    いろいろなことを語りかけてきます。
    それにしても、この「空気」の揺れや「スピード感」の表現
    は時代を超えて迫ってきます。

    本作を制作するにあたり、ターナーは実際に汽車に乗り
    窓から顔を出してその躍動を体感したといいいます。

    優れた風景画が生まれた背景には、水彩技法の発展が
    欠かせません。水で薄く溶いた顔料で紙に描く水彩は、
    何よりも速乾性に優れる為時間の限られる屋外での
    スケッチでは最大に利点を発揮しました。
    描き直しが効かないので色の選択が重要となりますが、
    油彩とは異なる透明感も演出できる。
    ターナーは、水彩を巧みに使いこなし、光や蒸気、水と
    いった流動的なものを見事に描き出しています。

    線描ではなく色彩による表現の追求はまさに印象派を予告するかのようです。

  • 『馬フェア』 <br /> 1855年 <br />     ローザ・ボヌール

    『馬フェア』 
     1855年 
         ローザ・ボヌール

  • 『運動する若いスパルタ人』 <br /> 1860年頃 <br />    エドガー・ドガ 

    『運動する若いスパルタ人』 
     1860年頃 
        エドガー・ドガ 

  • 『テムズ川の眺め、<br />      チャリングクロス橋』 <br /> 1874年  <br /> アルフレッド・シスレー

    『テムズ川の眺め、
          チャリングクロス橋』 
     1874年  
     アルフレッド・シスレー

  • 『マルリー・ル・ロワの水飲み場』 <br /> 1875年頃  <br />        アルフレッド・シスレー

    『マルリー・ル・ロワの水飲み場』 
     1875年頃  
            アルフレッド・シスレー

  • 『アニエールの水浴』 <br /> 1884年 <br />ジョルジュ・スーラ <br /><br />弱冠24歳で描きあげたスーラの出世作です。<br />一般的にはスーラは、点描画の画家といわれ<br />ていますが、この作品は厳格にいうと点描作品<br />ではありません。一部の点描部分はは後で書き<br />足したもので、たしかにそれ迄の印象主義より<br />調和を重視した構成です。手前がハッキリ遠景<br />がボヤけるダヴィンチ以来の空気遠近法ですが、<br />ボヤけるのは煙突の煙のせいのようにみせています。<br />

    イチオシ

    『アニエールの水浴』 
     1884年 
    ジョルジュ・スーラ 

    弱冠24歳で描きあげたスーラの出世作です。
    一般的にはスーラは、点描画の画家といわれ
    ていますが、この作品は厳格にいうと点描作品
    ではありません。一部の点描部分はは後で書き
    足したもので、たしかにそれ迄の印象主義より
    調和を重視した構成です。手前がハッキリ遠景
    がボヤけるダヴィンチ以来の空気遠近法ですが、
    ボヤけるのは煙突の煙のせいのようにみせています。

  • 夜間21:00までオープンの金曜日の夜でしたが<br />中程度の広さのある展示室2、3ヶ所で、それぞれ<br />異なる催しが開催されていて<br />(中には、TVカメラも入っていた展示室もありました)<br />それら会場となった展示室は19:00~から一般入場者<br />を禁じクローズになっていました。

    夜間21:00までオープンの金曜日の夜でしたが
    中程度の広さのある展示室2、3ヶ所で、それぞれ
    異なる催しが開催されていて
    (中には、TVカメラも入っていた展示室もありました)
    それら会場となった展示室は19:00~から一般入場者
    を禁じクローズになっていました。

  • 『私たちの牧草地の午後遅く』 <br /> 1887年 <br />カミーユ・ピサロ

    『私たちの牧草地の午後遅く』 
     1887年 
    カミーユ・ピサロ

  • 『バレエの踊り子』<br /> 1890年-1900 <br />エドガー・ドガ<br />

    『バレエの踊り子』
     1890年-1900 
    エドガー・ドガ

  • 『海岸の風景』 <br /> 1892年 <br />テオ・ファン・レイセルベルへ<br /><br />1883年に創設された「20人展」の創設メンバーの1人<br />として18歳のレイセルベルへも加わった。<br />1886年の「印象派展」に出展されたスーラの「グランド<br />・ジャネット島の日曜日の午後」を観て感激しベルギー<br />の画家仲間と点描技法を持ち帰った。翌年、「20展」の<br />招きに応じてスーラは出展した。そして、レイセルベルへは<br />スーラと友人となった。しかし、スーラは1991年31歳<br />の若さで死去した。<br />その後も、レイセルベルへは点描技法の後継者のごとく点描<br />技法で1910年まで作品を描き続けたが、それ以降は点描<br />技法の作品を描くことはなかった。<br />やがて、この点描主義は間も無く消滅してしまうが、マティス<br />やドローネーに影響を残しました。

    『海岸の風景』 
     1892年 
    テオ・ファン・レイセルベルへ

    1883年に創設された「20人展」の創設メンバーの1人
    として18歳のレイセルベルへも加わった。
    1886年の「印象派展」に出展されたスーラの「グランド
    ・ジャネット島の日曜日の午後」を観て感激しベルギー
    の画家仲間と点描技法を持ち帰った。翌年、「20展」の
    招きに応じてスーラは出展した。そして、レイセルベルへは
    スーラと友人となった。しかし、スーラは1991年31歳
    の若さで死去した。
    その後も、レイセルベルへは点描技法の後継者のごとく点描
    技法で1910年まで作品を描き続けたが、それ以降は点描
    技法の作品を描くことはなかった。
    やがて、この点描主義は間も無く消滅してしまうが、マティス
    やドローネーに影響を残しました。

  • 『バレンシアの漁師たち』 <br /> 1895年 <br />    ホアキン・ソローリャ<br /><br />この作品とも初めての出会いでしたが<br />わぁ いいなぁ。と、しばし眺めて<br />いた作品です。

    『バレンシアの漁師たち』 
     1895年 
        ホアキン・ソローリャ

    この作品とも初めての出会いでしたが
    わぁ いいなぁ。と、しばし眺めて
    いた作品です。

  • 『ブルームリザルブ山塊のあるキエン渓谷』<br />       1902年<br />                 フェルデナンド・ホドラー<br />

    『ブルームリザルブ山塊のあるキエン渓谷』
    1902年
    フェルデナンド・ホドラー

  • 『ケイテレ湖』<br /> 1905年 <br /> アクセリ・ガレン=カッレラ<br /><br />ナショナルギャラリーが近年コレクションに加えたばかり<br />の作品で、これぞモダニズムで装飾性とデザイン性を融合<br />させた秀作で、20世紀絵画の新風とも言われています。<br /><br />フィンランド南東部のカレリア地方にあるケイテレ湖を描<br />いた作品。北欧の清凉な空気感が伝わってきます。<br />初めて目にした作品でしたが、なんとも言えぬ凛とした<br />雰囲気で好きになりました。<br /><br />

    『ケイテレ湖』
     1905年 
     アクセリ・ガレン=カッレラ

    ナショナルギャラリーが近年コレクションに加えたばかり
    の作品で、これぞモダニズムで装飾性とデザイン性を融合
    させた秀作で、20世紀絵画の新風とも言われています。

    フィンランド南東部のカレリア地方にあるケイテレ湖を描
    いた作品。北欧の清凉な空気感が伝わってきます。
    初めて目にした作品でしたが、なんとも言えぬ凛とした
    雰囲気で好きになりました。

  • 『波止場の男たち』<br /> 1912年 <br />      ジョージ・ベローズ

    『波止場の男たち』
     1912年 
          ジョージ・ベローズ

  • ターナー、スーラと気合いを入れて観て<br />きましたので、この辺で気分転換して<br />ミュージアムショップで絵葉書などを<br />買いながら、ひと息入れました。

    ターナー、スーラと気合いを入れて観て
    きましたので、この辺で気分転換して
    ミュージアムショップで絵葉書などを
    買いながら、ひと息入れました。

    ナショナルギャラリー 博物館・美術館・ギャラリー

  • 参考<br />新西洋美術史、西洋美術の歴史<br />世界の美術館、西洋名画の読み方<br />各美術館ミュージアムショップて購入<br />した美術書、これまでに録画した美術関連<br />テレビ番組等など。他にWikipedia少々。<br />

    参考
    新西洋美術史、西洋美術の歴史
    世界の美術館、西洋名画の読み方
    各美術館ミュージアムショップて購入
    した美術書、これまでに録画した美術関連
    テレビ番組等など。他にWikipedia少々。

  • ここからルノワールが3作品<br /><br />『セーヌ川の舟遊び』 <br /> 1875年 <br />ピエール=オーギュスト・ルノワール<br />

    ここからルノワールが3作品

    『セーヌ川の舟遊び』 
     1875年 
    ピエール=オーギュスト・ルノワール

  • 『劇場にて(初めてのお出かけ)』 <br /> 1876年-77 <br />ピエール=オーギュスト・ルノワール<br />

    『劇場にて(初めてのお出かけ)』 
     1876年-77 
    ピエール=オーギュスト・ルノワール

  • 『雨傘』 <br /> 1881年-86 <br />ピエール=オーギュスト・ルノワール<br />

    『雨傘』 
     1881年-86 
    ピエール=オーギュスト・ルノワール

  • ここからクロード・モネの作品を6作品を。<br /><br />『ドルヴィルの浜辺』 <br /> 1870年 <br />クロード・モネ

    ここからクロード・モネの作品を6作品を。

    『ドルヴィルの浜辺』 
     1870年 
    クロード・モネ

  • 『ウェストミンスターの下のテムズ川』 <br />   1871年 <br />        クロード・モネ

    『ウェストミンスターの下のテムズ川』 
       1871年 
            クロード・モネ

  • 『アルジャントゥユの雪景色』 <br /> 1875年  <br />       クロード・モネ<br /><br />これまで、モネの描く作品で風景画は<br />印象にあまり残っていなかったのですが<br />今回、ナショナルギャラリーでモネの<br />風景画に向き合い、わぁ いいなぁ と<br />初めて気がつきました。

    『アルジャントゥユの雪景色』 
     1875年  
           クロード・モネ

    これまで、モネの描く作品で風景画は
    印象にあまり残っていなかったのですが
    今回、ナショナルギャラリーでモネの
    風景画に向き合い、わぁ いいなぁ と
    初めて気がつきました。

  • 『サン・ラザール駅』 <br /> 1877年 <br />        クロード・モネ<br /><br />機関車から吐き出される蒸気が<br />旅愁と駅独特の雰囲気包まれた<br />ようになり、旅先で感じるあの<br />切なさを味わいながら<br />しばし、立ち止まって観続けていました。

    イチオシ

    『サン・ラザール駅』 
     1877年 
            クロード・モネ

    機関車から吐き出される蒸気が
    旅愁と駅独特の雰囲気包まれた
    ようになり、旅先で感じるあの
    切なさを味わいながら
    しばし、立ち止まって観続けていました。

  • 『睡蓮の池』 <br /> 1899年  <br />クロード・モネ

    『睡蓮の池』 
     1899年  
    クロード・モネ

  • 『睡蓮、夕日』 <br />    1907年頃 <br />       クロード・モネ

    『睡蓮、夕日』 
        1907年頃 
           クロード・モネ

  • ここからゴッホが3作品<br /><br />『ひまわり』 <br /> 1888年 <br />フィンセント・ファン・ゴッホ<br />

    ここからゴッホが3作品

    『ひまわり』 
     1888年 
    フィンセント・ファン・ゴッホ

  • 『2匹の蟹』<br /> 1889年 <br />フィンセント・ファン・ゴッホ

    『2匹の蟹』
     1889年 
    フィンセント・ファン・ゴッホ

  • 『ファン・ゴッホの椅子』 <br /> 1888年 <br />フィンセント・ファン・ゴッホ<br />

    『ファン・ゴッホの椅子』 
     1888年 
    フィンセント・ファン・ゴッホ

  • やや混み合っています。<br />企画展という程ではありませんが<br />展示室2つくらいで何か催しもの<br />を開催されていました。

    やや混み合っています。
    企画展という程ではありませんが
    展示室2つくらいで何か催しもの
    を開催されていました。

  • 『瞑想中の聖フランチェスコ』 <br /> 1635年-9  <br />フラシスコ・デ・スルバラン <br /><br /><br />『アッシジの聖フランチェスコ展』

    『瞑想中の聖フランチェスコ』 
     1635年-9  
    フラシスコ・デ・スルバラン 


    『アッシジの聖フランチェスコ展』

  • 『聖フランチェスコの法悦』(アッシジ)<br /> 1595年頃 <br />ミケランジェロ・メリージ・カラバッジョ<br />〈ハートフォードのワズワース・<br />        アテネウム美術館所蔵〉<br /> <br />なんと幸運な 『アッシジの聖フランチェスコ展』<br />の開催にあわせてカラヴァッジョの初期の作品が<br />ワーズワース美術館から貸し出されて展示されていました。

    イチオシ

    『聖フランチェスコの法悦』(アッシジ)
     1595年頃 
    ミケランジェロ・メリージ・カラバッジョ
    〈ハートフォードのワズワース・
            アテネウム美術館所蔵〉
     
    なんと幸運な 『アッシジの聖フランチェスコ展』
    の開催にあわせてカラヴァッジョの初期の作品が
    ワーズワース美術館から貸し出されて展示されていました。

  • ナショナルギャラリーでの鑑賞最後の時間は<br />もう一度カラヴァッジョの常設展示室へゆき<br />ちょうどカラヴァッジョの作品の前に長ソファー<br />が設置されていて、そこに腰をおろして贅沢な<br />時間を過ごすことができました。<br /><br />大きな展示室で、入場者の姿は<br />ポッり、ぽっり。<br /><br />カラヴァッジョの作品の前を<br />スッーと通り過ぎる人<br />しばし、立ち止まって凝視する人

    ナショナルギャラリーでの鑑賞最後の時間は
    もう一度カラヴァッジョの常設展示室へゆき
    ちょうどカラヴァッジョの作品の前に長ソファー
    が設置されていて、そこに腰をおろして贅沢な
    時間を過ごすことができました。

    大きな展示室で、入場者の姿は
    ポッり、ぽっり。

    カラヴァッジョの作品の前を
    スッーと通り過ぎる人
    しばし、立ち止まって凝視する人

  • 先程の『アッシジの聖フランチェスコ展』で<br />思いかけずカラヴァッジョの<br />『聖フランチェスコの法悦』を鑑賞することができ<br />喜びました。<br />なにしろ、〈ワズワース・アテネウム美術館所蔵〉<br />の作品ですから、鑑賞する機会はそうそうないと<br />思いました。<br />しかし<br />ナショナルギャラリーで鑑賞予定していた<br />『トガゲに噛まれた少年』<br />1594年~95年、制作地・ローマ<br />が、貸出し中で留守でした。(⌒-⌒; )<br /><br />貸し出された作品は、その街の美術館で、<br />今頃大勢の人を楽しませているのだろうなぁ。<br />

    先程の『アッシジの聖フランチェスコ展』で
    思いかけずカラヴァッジョの
    『聖フランチェスコの法悦』を鑑賞することができ
    喜びました。
    なにしろ、〈ワズワース・アテネウム美術館所蔵〉
    の作品ですから、鑑賞する機会はそうそうないと
    思いました。
    しかし
    ナショナルギャラリーで鑑賞予定していた
    『トガゲに噛まれた少年』
    1594年~95年、制作地・ローマ
    が、貸出し中で留守でした。(⌒-⌒; )

    貸し出された作品は、その街の美術館で、
    今頃大勢の人を楽しませているのだろうなぁ。

  • 作品の前で、カラヴァッジョ論議を<br />話しあう400年後の若者たちの姿を<br />見た作品の向こう側のカラヴァッジョは<br />きっと、喜んでいるのだろうなぁ。<br /><br />そんなことを思い浮かべながら<br />カラヴァッジョのオーラを浴びていました。

    作品の前で、カラヴァッジョ論議を
    話しあう400年後の若者たちの姿を
    見た作品の向こう側のカラヴァッジョは
    きっと、喜んでいるのだろうなぁ。

    そんなことを思い浮かべながら
    カラヴァッジョのオーラを浴びていました。

  • 『洗礼者の頭を受け取るサロメ』<br />1608年~1610年   制作地・ナポリ<br /><br />カラヴァッジョは、追手マルタの騎士が迫っている<br />ことを察知してか、1609年夏から秋にかけて<br />ナポリへ再び向かいました。<br />しかし、居酒屋の入口で武装した4人の男たちに<br />襲われ顔面をひどく傷つけられ顔が判別できない<br />ほどの状態だったという。<br />その後、カラヴァッジョは、ナポリ郊外の〈チェラ<br />マーレ宮殿〉に逃れ、しばらく療養。<br />その間にも、精力的に作品を描き続けたといわれています。<br /><br /><br />

    『洗礼者の頭を受け取るサロメ』
    1608年~1610年 制作地・ナポリ

    カラヴァッジョは、追手マルタの騎士が迫っている
    ことを察知してか、1609年夏から秋にかけて
    ナポリへ再び向かいました。
    しかし、居酒屋の入口で武装した4人の男たちに
    襲われ顔面をひどく傷つけられ顔が判別できない
    ほどの状態だったという。
    その後、カラヴァッジョは、ナポリ郊外の〈チェラ
    マーレ宮殿〉に逃れ、しばらく療養。
    その間にも、精力的に作品を描き続けたといわれています。


  • 『エマオの晩餐』<br />1601年   制作地・ローマ<br />ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ<br /><br />カラヴァッジョは、1571年ミラノ近郊の<br />カラヴァッジョ村に生まれました。<br /><br />カラヴァッジョは、絵画の表現技法を一変させ新しい<br />時代に牽引しました。以前のルネサンスにおいては<br />理想主義を掲げて人間讃歌を美しく描いていましたが、<br />カラヴァッジョが創始者といわれるバロックになると<br />あくまでも、ありのままにリアリズムで描きました。<br />そして、彼はほとんどの宗教画に登場する人物を当時<br />の一般人として描き、町娘や農夫などをモデルにして<br />それが非難の対象ともなっていました。<br />芸術至上主義ともいえるカラヴァッジョは、ともすれば<br />綺麗ごとに堕ちてきていたルネサンスからの絵画を脱却<br />させていったのでした。<br /><br />この作品は、<br />カラヴァッジョがローマの貴族チリアコ・マッテイの注文<br />を受けて描いた作品で、彼がローマで前途揚々としていた<br />頃の作品です。<br />ルカによる福音書 イエスが食事をしていた2人の弟子の<br />前に現れて食事をともにします。弟子たちは最初彼が復活<br />したキリストであることに気づいていません。<br />左のクレオパとされる弟子は、肘の破れた服を着ていて<br />右に描かれているのはルカ、もしくは胸の巡礼者の印で<br />ある帆立貝からペテロとみなされます。<br />キリストがパンを祝福して割いた瞬間、弟子たちは、<br />それがキリストだと気がついたという場面。<br /><br />キリストの傍らでは、画家の時代の衣装を着けた宿の主人が<br />キリストを見つめている。マルコによる福音書 キリストは<br />〈異なる姿で現れたまう〉という聖書の記述通りだが、ここ<br />で描かれているキリストは従前描かれてきたキリストとは、<br />かけ離れていて、長髪だが髭の無いふっくらとした頬の顔を<br />している。<br />画面の右で、両腕を大きく広げている弟子の姿がキリストの<br />磔刑を暗示しており、ルカもしくはペテロが両手を広げた<br />ポーズは絵に奥行きを強調している。という。それらが半身<br />の群像で構成されています。<br />手前にある果物籠は今にもテーブルから落ちてきそうで、<br />彼の静物画を描く力量を改めて示しています。<br />

    イチオシ

    『エマオの晩餐』
    1601年 制作地・ローマ
    ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ

    カラヴァッジョは、1571年ミラノ近郊の
    カラヴァッジョ村に生まれました。

    カラヴァッジョは、絵画の表現技法を一変させ新しい
    時代に牽引しました。以前のルネサンスにおいては
    理想主義を掲げて人間讃歌を美しく描いていましたが、
    カラヴァッジョが創始者といわれるバロックになると
    あくまでも、ありのままにリアリズムで描きました。
    そして、彼はほとんどの宗教画に登場する人物を当時
    の一般人として描き、町娘や農夫などをモデルにして
    それが非難の対象ともなっていました。
    芸術至上主義ともいえるカラヴァッジョは、ともすれば
    綺麗ごとに堕ちてきていたルネサンスからの絵画を脱却
    させていったのでした。

    この作品は、
    カラヴァッジョがローマの貴族チリアコ・マッテイの注文
    を受けて描いた作品で、彼がローマで前途揚々としていた
    頃の作品です。
    ルカによる福音書 イエスが食事をしていた2人の弟子の
    前に現れて食事をともにします。弟子たちは最初彼が復活
    したキリストであることに気づいていません。
    左のクレオパとされる弟子は、肘の破れた服を着ていて
    右に描かれているのはルカ、もしくは胸の巡礼者の印で
    ある帆立貝からペテロとみなされます。
    キリストがパンを祝福して割いた瞬間、弟子たちは、
    それがキリストだと気がついたという場面。

    キリストの傍らでは、画家の時代の衣装を着けた宿の主人が
    キリストを見つめている。マルコによる福音書 キリストは
    〈異なる姿で現れたまう〉という聖書の記述通りだが、ここ
    で描かれているキリストは従前描かれてきたキリストとは、
    かけ離れていて、長髪だが髭の無いふっくらとした頬の顔を
    している。
    画面の右で、両腕を大きく広げている弟子の姿がキリストの
    磔刑を暗示しており、ルカもしくはペテロが両手を広げた
    ポーズは絵に奥行きを強調している。という。それらが半身
    の群像で構成されています。
    手前にある果物籠は今にもテーブルから落ちてきそうで、
    彼の静物画を描く力量を改めて示しています。

  • ほんの数m先にカラヴァッジョの作品。<br />ソファーに座ってゆっくりと向かいあうという<br />なんという贅沢な時間なのだろう。<br />そんなことを 噛み締めながら<br />この時間のために、ロンドンへやってきたのだと<br />(⌒▽⌒)(⌒▽⌒)<br />もう少しの時間ここで こうして観ていよう。

    ほんの数m先にカラヴァッジョの作品。
    ソファーに座ってゆっくりと向かいあうという
    なんという贅沢な時間なのだろう。
    そんなことを 噛み締めながら
    この時間のために、ロンドンへやってきたのだと
    (⌒▽⌒)(⌒▽⌒)
    もう少しの時間ここで こうして観ていよう。

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