2023/03/30 - 2023/03/30
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Noraさん
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3/18~4/3にかけてまだ寒いシカゴを抜け出し、大西洋を越えてポルトガル~スペインに行って来ました。スペインの表玄関は何といってもマドリード。ただしUAのアワードマイルを使ってシカゴからマドリード間を単純往復というのも芸がないので、エクスカーショニスト・パークの特典を活用してワンストップ=イスタンブール経由でマドリードに行きます。マドリードからはイベリア航空でリスボン。何故にイスタンブール?12年前にイスタンブールに行った時、どう頑張っても時間がなくて諦めたエフェスの遺跡(割と古いものに惹かれるタチで)それと旅行者を疲労困憊させる新スタンブール空港も見ておいていいかな。。と、割と単純な理由です。
蛇足ですが今度の旅で空路、陸路合わせると14000マイルくらいで、今までで一番の長旅、しかも一人旅と。。。家人はアンダルシアの高原で行き倒れになった時のこと等余計な心配をしてくれるのですが、深く考えずに出発することにしました。
12日目、いよいよコルドバです。コルドバと言えばメスキータ。今回の私の旅のハイライトはアルハンブラとメスキータと言っても過言ではないくらいです。ここはもう初夏の気配。シカゴと違って眩しいくらいの太陽、そしてカラッと乾いた風が吹き抜けていきます。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- タクシー 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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コルドバ行のALSAのバスチケット。所要時間は2時間半とちょっと。セビリア、グランダと回ってきて、これから行くコルドバで「黄金の三角地帯」が完成する。この三角地帯がアンダルシア州政府が今、最も力をいれている「内陸観光」の拠点なのである。なので当然見どころが集中している。
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昨夜、7:45amにタクシーをとアパートのマネージャーに依頼しておいたタクシーが定刻に来てくれた。早朝であるし、道も混んでなくて20分くらいでグラナダのバスステーションに到着。アパートのマネージャーは昨夜屋上からアルハンブラ宮殿の夜景を撮っていると、自分も登ってきてこのアパートの1階の壁(11世紀の城壁の一部)等について説明してくれた。アルハンブラ宮殿だけではなくまだグラナダの全てさえ見る時間がなかったと私が言うと’また来ればいいよ!。と気軽に言ってくれたけれど。
グラナダのバスステーションに到着。
朝焼けの空、遠くに見えるはシエラネバダ。Exit (グラナダバスステーション店) その他の料理
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早朝のせいか(?)インフォメーションデスクはまだオープンしていない。出発、到着のボードをみたり、カフェテリアでカプチーノをオーダーする時間は十分ある。
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8時ちょっとすぎのバスレーン。
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コルドバ行のバスレーンに徐々に乗客が集合し始める。
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これが我々をコルドバまで届けてくれるALSAのバス。
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チケット照合の後、着席。スペースは十分。そろそろ出発。8:32am.
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ゐ~~んと工事中のターミナルレーンの横をぬけて。。
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ターミナルの外に出る。さらば、グラナダよ!!
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グラナダを出たバスは一路、コルドバのある北西方向に向かう。コルドバまでは約160km。Romeo2rio.comでバスルートをみるとA-92からA-45となっていたようだが、 iPhoneで見ているとN-432を走っているようだ(こちらの方が走行距離は短い)。
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グラナダとコルドバの中間地点あたり。丘陵地帯にオリーブ農園が広がる。
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山肌を埋めるオリーブたち。延々と続く大規模なオリーブ農園。アンダルシア地方はオリーブ,ブドウ,野菜,米等の生産が盛んなことで知られる。特にオリーブ生産においてはスペインは世界のトップで他の州もあわせるとスペイン全体で792万トンを産する。2位のイタリアは328万トン,3位のギリシャは196万トンで断然、他の追従を許さない。
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どんどん植えられるオリーブの苗木たち。
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コルドバに近ずくにつれてオリーブ農園が消えていき、今度は緑がぐんと多くなって野菜畑が広がってくる。地下水を利用した灌漑が普及しているようだ。
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コルドババスステーション(Estacion de autobuses córdoba)に到着。
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バスのレーンが円形配置になっていてこのような中庭もある。外にでてタクシーを拾い今日のホテルに向かう。
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Hostal Palacio del Corregidorにチェックイン。フロントは女子大生のアルバイトっぽい人がやっていて親切ではあったけど夜は無人になるのが難点。ウェブサイトのパティオの画像が素敵で口コミもまあまあだったので(これは後で調査不足だったと判明する)選んだのだがこのホテルはハズレ!!古い家を改装しているためか水回りが悪くて一番閉口したのは防音装置が不十分で隣の宿泊客のイビキがすごくて寝られなかったこと。こんなホテル(ホステル)初めてだ。
追記:あとでグーグルやホテル専門のレヴューサイトをくまなく見たらかなり、辛口の評が載っていた。でもパティオだけはアンダルシア的でとても素敵なのである。(この旅行記の最後の画像をご覧ください) -
チェックインして簡単にアンパックしたらすぐ外出だ。コルドバには1日しかいられないので時間が貴重なのである。ホテルでもらった近くのランドマークが入った地図とiPhoneを頼りに早速メスキータにむかう。暇そうにスマホをいじっているおじさんが立つ広場(Plaza de las Cañas)の横を通って南進。。。
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先生に引率された社会科の学習っぽい小学生たちがたむろする近くの広場を過ぎて。。。
後で調べたら、ここはセルバンデスが滞在したことで有名な旅籠屋ポトロがあるポトロ広場であった。コルドバの紋章であるポトロ(子馬)をモチーフにした噴水(Fuente del Potro)がある。昔ここで馬やミュールなどが売買されていたことに因む名称だといういう話もあるようだが。。。ポトロ広場 広場・公園
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ほどなくメスキータ(Mezquita)、見取り図の北東側のカタリナ門(Puerta de Santa Catalina)に到着。Entryと書いてあるからここで大丈夫だろう。メスキータは「コルドバ歴史地区」として1984年に世界遺産に登録されている。現在の正式名称は聖母マリア被昇天の大聖堂(Cathedral of Our Lady of the Assumption)あるいはグーグルではコルドバのメスキータ(Mosque-Cathedral of Córdoba)であるが、単にメスキータ(Mezquita)と呼ばれることが多い。確かにメスキータはアラビア語でモスクのことであるが、メスキータ(Mezquita)といえばこのコルドバのメスキータを指すように固有名詞化している。
*756年、コルドバを占拠したイスラム教徒は(のちに後ウマイア朝と呼ばる)、当初、先住のキリスト教徒(西ゴート族)と平和的話し合いをもち、共存するかたちでここにあった聖ビセンテ教会の半分だけをモスクとして使っていた。(初期のイスラム教徒はキリスト教徒を同じ「啓示の民」として尊重し、いきなり教会を接収してモスクに改築するような無礼はしなかった。)
しかし、キリスト教会はもともとメッカの方向とは無関係に(往々にして東向き)建てられており、礼拝には不向きであったため、785年、後ウマイア朝の初代アミール、アブドゥル・ラーマン1世が教会の残り半分を買収して、新たに建造したものが今日のメスキータの起源である。取り壊された聖ビセンテ教会の柱や床材などを再利用し新モスクが建設された。が、当初は12本の柱から成る11の身廊(naves)があるだけの小規模なモスクであった。続く後継者の時代に増築や改修がなされ現在のメスキータの形となったのは987年、アル・マンスール(Al-Mansur)の時代と記録されている。
メスキータの中庭までは誰でも無料で出入りできるので、開いている門のどれからでも入場してかまわない。免罪の門でも、西側のディアネス門(Puerta de los Deanes)でも、私が入場したこのカタリナ門でもOK。ただし、朝の無料入場の場合は一刻を争う(?)であろうから、どの門が最初にオープンするか事前調査した方がいいかも。
*『クライシュの鷹』と呼ばれたアブド・アッラフマーン1世の数奇な一生の詳細は https://www.wikizero.com/ja/%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%B31%E4%B8%96
*アミール:アラビア語で司令官、総督を意味し次第にイスラム世界で王族や貴族の総称になる。後にスペイン語化しアドミラル=司令官という言葉になる。
*このカタリナ門は一見してわかるように、イスラム時代のものではなく大聖堂になってから新築された門である。16世紀にエルナン・ルイス2世が建設したもの。メスキータ 寺院・教会
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事前調査。外壁の様子。786年の最初の完成からコルドバの人口増加に対応するため、約200年間に渡り増改築が繰り返された要塞のようなモスク。結果として987年には間口137m、奥行き174mという当時ではメッカのモスクよりも巨大なモスクが完成する。礼拝堂と中庭を合わせて6万人が礼拝可能だったという。メスキータはアミナール(イスラム時のミナレット)、オレンジの中庭、礼拝室の3つからなる。この周囲の外壁は175×135m、高さ10mである。
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1593年にもとあったモスクのミナレットを改修して大聖堂の鐘楼として利用されているアルミナールの塔。塔に登るのはパスしよう!脚力、体力の問題もあるが、セビリアのヒラルダの塔でコリゴリだ。
モスク時代には1日5回のアザーン(礼拝の呼び掛け)のために利用されていたが、レコンキスタ後、大聖堂の鐘楼として改築され16個の鐘とトップにコルドバの守護聖人であるサン・ラファエル像が取り付けられている。全54mで四角柱の部分まで(約40m)が元々のミナレットだった。 -
チケット売り場。モスク(メスキータ)、ベルタワー(アルミナールの塔)と料金が分かれている。一般(general)のメスキータ入場券は13ユーロ, シニアは10ユーロ。ベルタワーは3ユーロ。
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メスキータの入場口に向かう。この突き当りが入場口なのだが、左の壁のアーチ部分、棕櫚の門のあたりまですべて塞がれていることに気付く。モスク時代はここはオープンで、モスクに入りきれない信者は中庭に座って礼拝したと、ものの本で読んだことがある。またアーチから入ってくる自然光がモスクの内部を明るくしていたとも。調べるとレコンキスタ後、1236年に塞がれたようだ。
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この奥がメスキータ入り口でディアネス門の近くになる。左はオレンジの庭。壁に展示されているのはかつて使用されていた天井のビームなどの建材。19世紀の改築時に発見されたものだという。
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入場。そして入り口近くに置いてある親切パンフレットを頂く。これはとても役立った。
メスキータはその歴史において何度も増築、改築を経験している。かいつまんで調べたところでは以下のようになるようだ。
784年 - 786年:コルドバの初代アミール、アブド・アッラフマーン1世の命により、聖ビセンテ教会があった場所にモスクが建設される。
833~848年:アブド・アッラフマーン2世による1回目の拡張工事。
961年 :アルハカム2世の命により、2回目の拡張工事が実施さる。
987~988年 : アル・マンスールにより3回目の拡張工事。現在のメスキータの形となる。
1236年 - カスティリャ王フェルナンド3世の軍によりコルドバ征服。モスクはカトリックの教会に転用される。
16世紀 カルロス1世により、メスキータ中心部にカトリック教会の身廊が増築される。
(注)wikipediaより―イスラムが711年に征服をはじめてから半世紀以上の間、イベリア半島は混乱の極みにあり、この時期に建設されたイスラムのモニュメントは皆無である。 -
入場してすぐに『礼拝の間』、オリジナルのモスクの部分(いわゆる基本部分)。後ウマイヤ朝の初代アミール、アブド・アッラフマーン1世によって建てられた外陣部分で最も古い領域。妃の名をとってアルジャマ モスク(Aljama Mosque)と名付けられた。インターネットや写真でみるより、本物はずっと迫力があって素晴らしい。圧倒されてしまってしばし呆然!!!。。。
アーチの列はキブラ(Kibla,メッカの方向)に対して垂直に立っている。これによってメッカの方向を明示するため。 -
西ゴート帝国時代の聖ビセンテ教会の遺構。同教会の床に残っていたローマ時代の床モザイク。
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メスキータ博物館
ベルタワー(アルミナールの塔)で使われていた大時計のメカニカルな部分。C.1747年、作成者:マニュエル.ガルシア.ピント。 -
さあ、柱をよく見て見よう。アブド・アッラフマーン1世によって最初に建設された部分のクロースアップ。イスラム勢力がこの地にやってくる前にあった西ゴート王国時代の建造物やローマ時代の柱の再利用なので、よく見ると柱の長さ、色、形状が微妙に違う。その調節のために柱の下に台座を設けたり、アーチと柱の間にスペーサーを差し込んだり工夫の跡がみえる。。。
柱材は大理石、花崗岩、碧玉、アラバスター等。フロアー材は西ゴート王国時代の建造物から転用された(と思われる)大理石板が使われている。 -
メスキータの円柱と二重アーチについて。
このモスク建築に携わった後ウマイヤ朝の建築家たちは聖ビセンテ教会の長さやサイズの異なる柱を転用しなければならず、寸足らずとなった円柱の上部10m程度の高い部分をいかにすべきか知恵を絞る必要があった。彼らはメリダにあるローマの水道橋(ミラグロス水道橋)を参考にして、この二重アーチ(下側は馬蹄形アーチ、上側は半円アーチ)を選択したといわれる。その形状もさることながら、個々のアーチ部分の迫石に白い石灰岩と赤のレンガを交互に配した色彩感覚が見事である(ミラグロス水道橋のアーチもピンクと赤の迫石を交互に使っている)。
*迫石(せりいし、voussoir)は、アーチを構成する楔形の建材。
*柱:3回目の増築を終えた時点で1000本以上あったこれらの柱もレコンキスタ後のキリスト教会への改造で中心部の150本ほどが取り払われ、現在は856本ほどになっているそうだ。
参考:ロス・ミラグロスの水道橋 https://www.spain.info/ja/meisho/rosu-miragurosu-suidoubashi/
コルドバのメスキータ大聖堂 https://mezquita-catedraldecordoba.es/site/assets/files/20355/folleto_japones_web.pdf 7/8頁 建築構造 -
それらを別にして1000年以上も前に、時の人々の叡智を集約して建てられた建築物が現代まで存続し、その偉容を我々に示していること自体が奇跡的である。
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これはアブド・アッラフマーン2世の1回目の拡張の改装部分。床に数センチの高低差があり、色も異なる(赤の斜線部)。また教会に転用後の改修で天井がゴシック様式になっている。
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上記、床の継ぎ目部分の拡大図。
参考:https://en.wikiarquitectura.com/building/mosque-of-cordoba/ -
90度移動した位置で。光の具合で1回目の拡張部分とオリジナルとの床段差、スロープがいくらかよく見えるかも。。
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アブド・アッラフマーン2世の1回目の拡張部分に礼拝堂建設のために改築された部分。旧モスクのアーチは翼廊部分の側面に組み込まれている。白い上部の壁面装飾はプラテレスコ様式
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王室礼拝堂。2回目の拡張部分(10世紀のアルハカム2世による)を取り壊して作られた礼拝堂。1371年、エンリケ2世の命でアルフォンソ11世やフェルナンド4世を埋葬するための空間としてつくられた。小窓から差し込む光が美しいモカラべ装飾を際立たせている。
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2回目の拡張部分(アルハカム2世による*)。後ウマイヤ朝はこの当時、最盛期を迎えており、コルドバには300ものモスクがあったと言われている。その中でメスキータは最も重要なモスクであったわけで、装飾性の強い贅を尽くした建築となっている。柱も古いものの再利用ではなく近郊に産する大理石を調達している。
*実際には、アブド・アッラフマーン3世が929年に拡張を開始したが、961年に亡くなったため息子のアルハカム2世が後を継いで、拡張を完了した。 -
2回目の拡張部分(アルハカム2世による)。多弁型二重アーチが使われているのはアルハカム2世の時代(961年)の特徴である。
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ビシャビシオサ礼拝堂(Villaviciosa)入口。中央礼拝堂より早く13世紀に建設された礼拝堂。
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ビシャビシオサ礼拝堂(Capilla de Villaviciosa)。アルハカム2世時代の2回目の拡張部分。この場所はキリスト教徒にとって最も記念すべき場所かもしれない。というのは1236年、カスティーリアのキリスト教徒がコルドバ占拠後にこのモスクに入場し、オスモ大司教の聖別後、まさしくこの場所、このスカイライトの下で最初のミサを捧げたからである。まもなくアルフォンソ10世によって一部を改造してメスキータ内で最初の礼拝堂がここに作られた。イスラムの多弁型二重アーチとその下に設置された十字架のキリストが不思議な空間を創造している。
参考:https://www.nationalgeographic.co.uk/history-and-civilisation/2022/08/cordobas-stunning-mosque-cathedral-showcases-spains-muslim-heritage -
アブド・アッラフマーン2世の1回目の拡張部分を取り壊し、右手に見えるビシャビシオサ礼拝堂(西側)の隣に建築されたゴシックの身廊。この一見、イスラムの多弁アーチのように見える部分は新しさ、形状、色彩の不自然さからキリスト教時代の改造(改悪)であることが一目瞭然である。漆喰仕上げのあと、白字をのこして他を赤の塗料でペイントしている。
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メスキータの一番奥の部分に進む。するとキブラ壁(Muro Quibla)をバックにミフラーブ(Mihrab)がアレンジされた輝く空間が広がる。ミフラーブを中心にして左は宝物室の扉(Bab Bayt al-Mal) 、右がセバット門(Bab al Sabat)である。何度かの拡張でミフラーブもその都度、取り壊され、現在残っているこのミフラーブはアルハカム2世の時代の2回目の拡張部分(961年~976年)にある。これまでのメスキータはどちらかと言うと機能性、必要性を重視した礼拝の空間であったが、この礼拝堂を美的にも芸術的にも完成に近づけようとするアルハカム2世の強い意志が感じられる部分である。コルドバの街が最も繁栄していた時を想像させるような豪華なミフラーブとその付属部位。宝物室には何も保管されておらず、礼拝に必要な品々やコーラン、アルミンバル等だけが納められていた。アルミンバルは一種の階段状の移動式説教壇で、イマームがそこから「クトバ」または金曜日の説教を行うために使われたものである。因みに説教では宗教のみでなく、政治がらみの内容等も取り上げたようだ。 また通常、信者からの寄付や施しもここに保管されたが、それらは宝物とみなされなかった。 部屋の入り口は後世の改修にもかかわらずよく保存されており、美しいビザンチンモザイクもそのままに残っている。
セバット門(Bab al Sabat)はカリフが人目につかずに宮殿からモスクに渡るために使用した門(出入口)でマクスラに続いていた。 後方で階段や廊下に接続しており、厳重に警備され礼拝室からは見えないようになっていた。 現在、この構造の一部は 17 世紀に行われた改修工事により消失している。 -
ミフラーブ(Mihrab)。この空間でイマームが中庭まで続く人々に向かって聖典を読み上げた。
ミフラーブの四角い枠の部分はクーフィー体(アラビア文字の最古の書法)でクルアーンの章句が、その周りや壁面は規則正しくアラベスク模様やモザイクで埋め尽くされている。
*キブラ(Quibla)とは:イスラム教徒が礼拝の際に向う方角、あるいはその方向にある壁。当初ムハンマドはエルサレムの方角に向って礼拝することを決めたが,ユダヤ教徒と敵対するにいたった 624年,アッラーによってメッカのカーバ神殿の方角に向って礼拝することを示唆されたという。以後,イスラム教ではカーバ神殿を信仰の中心とし,全世界のモスクは例外なくその中軸線がメッカの方角,すなわちキブラと一致するように建てられている。また,このキブラの目印として,礼拝室の最奥の壁にはミフラーブが設けられる。 -
このミフラーブの奥は八角形の小部屋になっていて、 華やかな金地のビザンチンモザイクガラスで彩られている。マクスラの部分も同じくビザンチンのモザイク職人の手になるものである(当時、イベリア半島にはビザンチンモザイクの職人もモザイク材も存在しなった。なので、このメスキータのミフラーブ、マクスラ装飾がイベリア半島では最初のビザンチンモザイクによる装飾となった)。何人の職人で何年かかったか不明であるが、我々の目の前にスペインで唯一見ることが出来る10世紀のビザンチンモザイクの傑作がここにある。
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ここにあるミフラーブやマクスラ等のイスラム教の聖域を飾るビザンチンモザイクを見たとき、その背景にいたく興味をもった。宗教の違いや国境を越えて当時のビザンチン帝国と後ウマヤド朝の間には親密な外交的関係があったのだろうか?なぜ、カリフのアルハカム2世(すでに彼の父の代からアミールではなくカリフと称していた)はビザンチン皇帝にモザイクの職人の要請をしたのだろうか?
歴史を遡ると8世紀にダマスクスの大モスク(ウマヤドモスク)をビザンチンモザイクで装飾した例がある。この時のカリフはウマイヤ朝のワリード1世で要請を受けたビザンティン皇帝はモザイク師と膨大な量のモザイク・テッセラを送ったという。この大モスクには(19世紀の火災でその一部が焼失してしまったとはいえ)、今でも中庭に面した部分に壁モザイクが残されており、8世紀のビザンチン帝国のガラス・モザイクの技術の高さを確認することができる。
そうした前例にならいカリフを称するようになったアルハカム2世はコルドバの大モスクにビザンチン由来のガラス・モザイクを施すことで、ウマイヤ家の末裔である自身の権威や正当性を示す意向があったのでははないか?これはとりもなおさず東のアッバース朝に対する示威行為でもあったはずだ。
とにかく、それを別にしてもアルハカム2世の治世下でコルドバは人口50万を抱える世界でも有数の大都会になっていた。規模としてはトップクラスの都市であったが、文化的、学術的には先行する東方のビザンチン帝国等からまだ学ぶべきことが多かった。そこでビザンチン帝国と親交を深め多くの使者を派遣しては貴重な図書を収集させていた(カリフの図書館)。その数は目録においてだけでも44巻。蔵書数は40万巻から60万巻近くにまで及んだと言われている。(アルハカム2世は優れた文化人・教養人であり、その文化的な功績は、後のスペインに大きな影響を及ぼし西欧近代文明の基礎を築いたと言われる。)ただ、こうした書物は殆どギリシャ語で書かれたものであり、当時のイベリア半島にはギリシャ語からアラビア語に翻訳する人材もいなかった。で、それらの人材の派遣をビザンチン皇帝に依頼してもいる(当時のビザンチン帝国はギリシャ語に堪能なアラブ人の人材に事欠かなかった)。これらの例からビザンチン帝国と後ウマヤド朝の間には親密な外交関係が築かれ、文化的交流もあったと考えられる。その結果としてビザンチンモザイクによってメスキータのミフラーブやマクスラが装飾されたとみれば、上記の疑問の答えがでるような気がするのだが。。。
ちなみにビザンティン皇帝ニキフォ ロス2世はこのアルハカム2世の要請に応じ、モザイク技術者を派遣すると共に*320キンタールのモザイク・テッセラの送付目録を後ウマイヤ朝の大使に持たせたという。
*320キンタールはオンラインコンバーターによれば32,000kg、すなわち32トンである。他のサイトでは3000lb.(約1.4トン)が送られたともある。情報のバラツキを否めない。送付手段は不明であるがおそらく海路であろう。
参考:『イスラーム美術』岩波書店.(Bloom, Jonathan and Sheila Blair. 1997. Islamic Art. London: Phaidon.)
イスラーム美術 (岩波 世界の美術)
モザイクの表現技法について(pdfファイル) 東京藝術大学教授工藤晴也
Wikipedia -
ビザンチンモザイク部分のクロースアップ。
建築におけるモザイクとは、テッセラ(tessera)とよばれる石やガラスなどの小片をモルタルに埋め込み、図像を描く技法である。これは壁面に描く壁面モザイクと床面に描く舗床モザイクとに大別されるが、どちらも基本的な技法は同じであり、荒さの異なるモルタルを三層程度重ねて下地層とし、最上層のモルタルが乾ききる前にテッセラを埋め込むものである。このようなモザイクは、古くはシュメールの時代から現代まで続く長い歴史を持つ装飾技法である。ビザンチンモザイクの特徴は金や銀のガラス・テッセラを用いたモザイク技法にあるだろう。壁面モザイクの場合、舗床モザイクと違い表面を均等で平滑にする必要もないため、金や銀のテッセラを不均一な角度で埋め込むことによって光の反射を変化させることが出来る。こうして得られる微妙な陰影によって、フレスコ等では実現不可能な独特な視覚的効果を作り出す事が出来たのである。ビザンチン帝国の首都だったコンスタンティノープル(現トルコ領イスタンブール)のハギア・ソフィアを筆頭に、ビザンチン帝国では多くのガラス・モザイクの傑作が作成され、多くは失われてしまったものの、そのうちのいくつかは現在にまで残されている。
ビザンチン帝国内で作成された聖書のシーンその他の具象的表現のモザイクと違い、ここに描かれたものはダマスクス(ウマイヤ朝期)のものと同様にクルアーンの章句と植物の文様のみである。
参考:イスラーム美術 (岩波 世界の美術)
モザイクの表現技法について(pdfファイル) 東京藝術大学教授工藤晴也
Wikipedia
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2回目の拡張部分(アルハカム2世、Al-Hakam IIによる)962年完成。
マクスラ(Maqsura、カリフの礼拝場所)の中央ドーム。2つの正方形を45度ずらして組み合わせると8角形ができる。一つの角をスキップしながら8本のアーチを組み合わせていくと八角堂のベースができる。この骨格をモルタルや漆喰でドーム状に成形したあとモザイク仕上げしているようだ。
金や青などの多様な色彩のモザイクテッセラで装飾されおり、’ビザンティン美術の重要な作例とされている。
*Maqsuraとは:支配者が礼拝の為に囲われた区域を指す。元来これは支配者の身を守る為、一般の参拝者から隔離出来る様に、金属製或いは木製の格子から造られていた。(比較建築研究会サイトより)。 -
上記の画像を少しだけ拡大。ビザンチン帝国皇帝からの贈り物であるビザンチンモザイクをつかってクーポラになっている天井に黄金や紫、黄、うす緑、青などのモザイク装飾がほどこされた。漆喰装飾もビザンチンの職人の手になるものという。また天井部分のアーチ型の採光窓から入る光がモスク内を明るくし、モザイクの美しさを際立たせている。
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いわゆる、天窓(Lucernario)マクスラ両脇の天井部分、キリスト教徒の改造によってビシャビシオサ礼拝堂の天井部分になっている。リブ付きのドームで、シンプル。
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聖母受胎の礼拝堂(Nuestra Señora de la Concepción)の天井フレスコ画。コルドバのアルフォンソ・デ・サリサネス・イ・メディナ司教(Bispo de Córdoba Alfonso de Salizanes)によって建設が主導され建築家メルチョル・デ・アギーレが完成した埋葬用の礼拝堂。その付属部分のバロックスタイルの天井画である。建設工事は 1679 年に始まり1682 年に完成した。
このほかにメスキータ内には大小の埋葬用の私有礼拝堂が追加されている。17世紀末から18世紀初頭にかけて建造されたミフラ―ブの隣にある聖テレサ礼拝堂(Capilla de Santa Teresa)も、バロック様式のそれであるし、18世紀後半に、ネオクラシカル様式で建設された聖イネス礼拝堂(Capilla de Santa Inés)も霊廟である。
リンク:
聖テレサ礼拝堂 https://es.wikipedia.org/wiki/Capilla_de_Santa_Teresa_(Mezquita-catedral_de_C%C3%B3rdoba)
聖イネス礼拝堂 https://es.wikipedia.org/wiki/Capilla_de_Santa_In%C3%A9s_(Mezquita-catedral_de_C%C3%B3rdoba) -
3回目の拡張部分(アル・マンスール、Al Mansurによる):
10世紀末、アル・マンスールが実施した拡張部分は床が大理石ではなく赤レンガのペーブメントになっている。
手前の角柱にアーチを乗せた部分はもと石壁だったところで、壁を壊して東に(この奥に見える部分)建物を拡張した。
というのは1回目、2回目と南側に向かって建物は拡張されたが、この先, 南にはグアダルキビル川があるため、南進するのは不可能で3回目の拡張はやむなく東側へ建物を広げ現在の大きさと形になった。 -
アル・マンスール(Al Mansur)による3回目の拡張時、東側にメスキータを延長するため、アルハカム2世時代のモスクの東壁を大幅に取り壊し新旧の部分を連結させる必要があった。これはその結果できた新たな大アーチで手前の壁にはアルハカム2世時代の外壁の門にあった馬蹄形アーチと上部にブラインドアーチが見える。
キリスト教の教会になったときに塗り込められてしまった昔のアーチの部分ではない。
参考:The Politics of Piety: Al-Man?ūr’s Extension to the Great Mosque of Cordoba (pdfファイル) -
3回目の拡張箇所(アル・マンスール、Al Mansurによる)赤レンガと石灰岩のアーチの部分は簡略化するためペイントを塗っている。また床は大理石ではなく赤レンガで舗装されている。おそらくそうせざるを得ない予算的制約があったと思われる。この頃にはイベリア半島でのイスラム勢力に陰りが見え始めた頃であり、小国が分裂し、またレコンキスタの勢いも強まってきていたのである。
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結果として世界に類を見ない斬新な(?)デザインのモスク(メスキータ)となった。(拡張の変化点:床の色、微妙な高さの違い、迫石の使用、石壁の有無に現れる)
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3回目の拡張箇所(アル・マンスール、Al Mansurによる)。この頃にはもう再利用する大理石柱はなく、石工が新規に作成した石柱が使われた。柱に石工のサイン(白くサークルした箇所)が残っている柱もある。
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メスキータの内部に割り込むように建てられたキリスト教建造物。ゴシックとルネッサンス様式の折衷のような天井部分。
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アブド・アッラフマーン2世の1回目の拡張部分と3回目の拡張部分(アル・マンスール、Al Mansurによる)にまたがるように作られた「主礼拝堂(Capilla Mayor)」内陣 主祭壇。カルロス5世の時代に作られたもの。ひときわ高い内陣の天井はゴシックからルネッサンスへの過渡期のスタイルで仕上げられている。
正直な意見であるが、この礼拝堂は狭い空間にいろんな要素を詰め込みすぎのように思える。赤大理石で区切られた各セクションに所せましと沢山の彫刻や宗教画がプッシュインされ、おまけにこみ入った天井のパターンとそこから下降する巨大なランプ等が見るものに息苦しさを感じさせる。。。個々の作品は優れたものであっても引き算することも必要なのでは? -
内陣上部のクロースアップ。トップにはこの祭壇のテーマである「聖母被昇天」。が描かれており、その左右には、ローマ帝国時代の殉教者でコルドバの守護聖人である「聖アシスクロ」と「聖女ビクトリア」が描かれている。絵は、コルドバのブハランセ [Bujalance]出身で 宮廷画家としても活躍したアシスクロ・アントニオ・パロミーノ [Acisclo Antonio Palomino] である。
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バレルボールトの天井の下には主祭壇と向き合うように大礼拝堂の聖歌隊席がある。 1748年, スペイン バロックの画家、彫刻家であったペドロ・ドゥケコルネホ(Pedro Duque y Cornejo)の手で彫刻された。南米産マホガニーで非常に重厚な仕上がり。上部のエアリーな部分の雰囲気には重すぎるような気がするのだが。。。
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クロッシング部分は身廊がゴールドで、翼廊がシルバートーンで仕上げられている。メスキータの中央部を取り壊し天井を高くしてゴシックとルネッサンス様式を融合させたスタイルになっている。
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大礼拝堂中心部の楕円形のクーポラ部分の拡大。
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聖テレサ礼拝堂(Capilla de Santa Teresa)。1703年にバロック様式で完成した霊廟礼拝堂。この奥に聖具室がある。
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コルドバのバロック画家アントニオ・パロミーノ [Antonio Palomino] の作、’フェルナンド3世によるコルドバの征服’(La Conquista de Córdoba por Fernando III el Santo)1713年。
https://www.artencordoba.com/en/mosque-cordoba/chapel-santa-teresa-treasure-cathedral/ -
金銀で装飾された聖体顕示台。両サイドの宗教画は左が’フェルナンド3世によるコルドバの征服(La Conquista de Córdoba por Fernando III el Santo)’、右が’聖アシスクロと聖ビクトリア(San Acisclo y Santa Victoria) ’。いずれもアントニオ・パロミ-ノ作。
https://www.artencordoba.com/en/mosque-cordoba/chapel-santa-teresa-treasure-cathedral/ -
クロッシング部(交差部)
壁面装飾はプラテレスコ様式。 -
再びカタリナ門。中身の濃いメスキータ見学を終えてローマ橋の方に向かう。この門のファサードを飾るのは、聖カタリナ、聖アシスクロ、聖ヴィクトリアのミューラル。
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エルナン・ルイス2世が16世紀に設計した上記カタリナ門の出入り口。
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西側ファサードと門。一番手前の装飾がない門がセバット門(Puerta de Sebat)。カリフ専用のモスクへの通路門。後方のウマイヤ朝宮殿(現キリスト教徒の王たちのアルカサル)からこの門を通って地下の階段を経由してマクスラまで行くことが出来た。
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東側ファサードにある聖ニコラス門(Puerta de San Nicolás)。モスク時代はこれらの門はすべてオープンだったがキリスト教時代になって塞がれてしまった。
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プエンテ門(Puerta del Puente)。
ローマ時代のコルドバは城壁に囲まれた都市であり、数多くの門があったが今日残る入口や門は僅かしかない。当時のプエンテ門はローマ橋と接続され、アウグスタ街道の一部を成していたと考えられている。イスラム統治下で城壁の再建や補強とともにこの門の補修や改修も行われ当時はBab al-Qantara (Gate of the Bridge)とよばれた。レコンキスタ後、フェリペ2世のコルドバ訪門を記念して16世紀にルネサンス様式で再建が開始されるも未完成に終わる。その後、1928年にやっと現在の凱旋門のような外観で再建が完成した。門の中央、半円形の部分には、スペイン王家の紋章を掲げた2人の戦士のレリーフが彫りこまれている。
スペイン最大の宗教行事『セマナサンタ(Semana Santa):聖週間』のため、関係者が御立ち台その他を赤い布でカバーしたり会場造りで忙しそうだった。
『セマナサンタ(Semana Santa):聖週間』イエス・キリストのエルサレム入場から受難、復活までを祝う御祭り。 -
グアダルキビル川にかかるローマ橋(Puente Romano)。紀元前1世紀、ローマ帝国の拡大期、アウグストゥス帝の統治時代に建設されたこの橋は、長い年月をかけて再建され、現在の橋の大部分は、8 世紀にムーア人によって再建されたものである。16のアーチの間の橋脚からは頑丈そうな控え壁が川に迫り出した、まさに古代のスタイルの橋。
*グアダルキビル川のGuadalquivirとはアラブ語で「偉大なる川」を意味する。 -
ローマ橋のこちらは上流側。残存するほかのローマ橋でも見られるのだが、「カットウォーター」と呼ばれる橋脚の構造になっていて、三角形に突き出した部分で水流の圧力を減らすように設計されている。8世紀にムーア人によって再建されたものだが、支柱やアーチの一部は古代ローマ時代のオリジナルであるという。
Roman Bridge, cutwatetrs→https://turismomerida.org/what-to-see/roman-bridge/ -
ローマ橋の中央付近に立つ大天使ラファエル像(Statue of St. Archangel Raphael)。
ペストの終焉を記念して建てられたようである。 -
カラオーラの塔(Torre De la Calahorra Tower)。12世紀に建てられた見張り兼、グアダルキビル川の監視塔。現在はアルアンダルス博物館になっていてイスラム時代のイベリア半島の歴史や文化に関する資料が展示されている。このローマ橋とカラオーラの塔は、コルドバ歴史地区としてメスキータと今回観光しなかったアルカサリと合わせて1994年に世界遺産に登録されている。
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アルボラフィアの水車小屋(Molino de la Albolafia、モリノ・デ・ラ・アルボラフィア)
ローマ橋の右岸に雑草に埋もれ今にも壊れそうな水車と水車小屋がある。このアルボラフィアの水車は元々あったローマ時代の粉ひき用水車小屋の遺構を改造したもののようだ。イスラム時代にはグァダルギビール川の両岸にこれだけでなく多くの水車小屋があり、粉ひきやアルカサルの庭園に水を汲み上げるために使われていたようだ。しかしレコンキスタ後、イサベル1世が水車のきしむ音を嫌ったので殆ど解体されてしまい、現存する水車小屋の遺構は11か所のみ。加えて14~16世紀の改修で元の外観をとどめないものも多い。このアルボラフィアの水車は20世紀に再建されたものである。 -
アルボラフィアの水車小屋を違ったアングルで。
グァダルギビール川の両岸に今も残る11 の水車の遺構所在地:アルボラフィア、アレグリア、カーボネル、カシージャス、エメディオ、ロペ ガルシア、マルトス、パパロ ティエルノ、サン アントニオ、サン ロレンソ、サン ラファエル等。これらの中世の水車は 2009 年に、アンダルシアの歴史遺産に登録されている。 -
トリウンフォ(Plaza del Triunfo)広場に立つコルドバの守護聖人、勝利のサン・ラファエル(St. Raphael)の像。
聖ラファエルはペストが流行した時に街を救ってくれたと信じられており、コルドバの守護聖人として崇められている。この像は18世紀のフランス人彫刻家であるミゲール・ベルディギエル(Miguel de Verdiguer)のロココ調の彫刻。 -
カンポス.デ.トロ(Campos De Toro)でランチ。内装がメスキータを意識しているようで微笑ましい。Tripadvisorで評価の高かったレストランで、メスキータのすぐ近くでスタッフもとてもフレンドリーだった。
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この割った卵を揚げてイベリコハムを添えた料理が絶品とあったので私もそれにした。下にカリっとした揚げポテトが敷いてあって本当に美味。一緒に頼んだサラダも(量が多かったが)パチパチはじけそうに新鮮な野菜を使ってあって、おいしいドレッシングがそれを一層引き立てている。お値段も非常に良心的!!ごちそう様!
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そしてポソ・デ・クエト通り(Calle Pozo de Cueto).
メスキータからローマ寺院に行く途中で見かけた小径。花の小道ではないがキュートだと思ったので。。!! -
ローマ寺院(Roman Temple)の遺構。コルドバ市庁舎の隣(テンディーリャス広場Plaza de las Tendillasのすぐ近く)にすっくと立つ。Wikipediaによれば1950年代に市庁舎拡張工事を進めたら偶然、発見されたらしく、1世紀に建設されたローマ帝国の寺院の遺構だと判明。残っているのは基礎、階段、祭壇、そして柱と柱頭の一部だけで、この12本のコリント式列柱は復元されたもの。
ローマ寺院 寺院・教会
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基礎部分などはまだ整理中の様子。
当時のローマ寺院のイメージはhttps://en.wikipedia.org/wiki/Roman_temple_of_C%C3%B3rdoba、Reconstruction of the Roman temple of Córdoba.
さて、コルドバの探索はこれくらいにしよう。このあと、ホテル(ホステル)に帰って、明日のバレンシア移動のためのパッキングをしなければならない。 -
最後に宿舎のHostal Palacio del Corregidorのパティオの画像を2,3。いかにもアンダルシアっぽくていいとおもうのだが。。。
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回廊などもあって。。。
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いい雰囲気!(スカイライトは近年の増築部分と思われる。)1泊だけだったけど、お世話になりました。
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この旅行記へのコメント (2)
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- jijidarumaさん 2023/11/16 14:31:43
- 私の旅はもうセピア色のスペインです。
- Noraさん、
今日は。初めまして、jijidarumaと申します。
何度かお立ち寄り頂き、フォローもありがとうございました。
シカゴ在住の由、アメリカには縁がない私でしたが、それはそれとして
旅行記や掲示板を見させて頂くと、たいへん御丁寧なもので、感心して
当方もフォローさせて頂きました。
どうぞ宜しくお願いします。
さて、私の旅はもうセピア色のスペインです。
宿と航空券を取り、Duesseldorfデュッセルドルフから、夏の休暇で家族旅行に出かけました。1976年8月7日~17日、11日間の夏季休暇で、もう遥か昔です!
当時のアルバムを懐かしく見ていると、
行程はデュッセルドルフ(飛行機)=>太陽海岸・マラガ(バス=>トリモリノス(3泊)(飛行機)=>グラナダ(2泊)(タクシー3時間)=>コルドバ(1泊))(電車2時間)=>セビリア(1泊)(飛行機が遅れて真夜中の出発)=>マドリッド(3泊)(飛行機)=>デュッセルドルフでした。
行程に書いたように飛行機、バス、タクシー、電車に乗り、思いがけない事もあって、記憶に残る旅になりました。
グラナダからコルドバの道を辿りましたので、Noraさんとは逆ですね。
グラナダはアルハンブラ宮殿を初めとして、たいへん魅力的でしたし、宿泊したのはアルハンブラ宮殿近くのAlhambra Palace Hotelアルハンブラ パレス ホテルと言い、当時、4星のホテルに2泊しました。
中々良いホテルでしたが、長女がホテルに絵日記を忘れてしまい、コルドバ行のバス発着所まで電話して教えてくれたのでした。バスの発着所の小父さんが寄って来て、何やらスペイン語で私に話すのですが、何かをホテルに忘れてきたらしい事は理解できました。
(私共がコルドバ行のバス発着所にいると分かったのか?ひょっとしてそこら中に電話したのかもしれない)
慌ててタクシーに乗り、ホテルに戻り、感謝と共にフラメンコの踊りなどを描いた長女の絵日記を持ち帰りました(夏休み中、欠かさず書いてきた絵日記で大変貴重なものでしたから、親切なホテルに感謝したものです。今は絵日記は長女宅に、私の方は親ばか!にも絵日記の中身を全てスキャンして記録しました)。
そんなことでコルドバ行バスが出て行ってしまったので困りました。
長い時間を待つわけにもいかず、仕方なくタクシーを利用して、コルドバに向かう事にしました。・・・が、運転手と手真似での交渉になりました。
偶々、スペインの軍人さんが休暇でコルドバまで同行することになり、値段も安く済んだのです。
親切なタクシーの運転手は途中の八百屋で子供たちにリンゴを買ってくれたりしました。オリーブの連なる丘を写真に撮ろうとすると、すかさず徐行してくれるなど、嬉しい心づかいが思い出されます。
石ころだらけに見えた赤土の丘にオリーブの木だけが点々と植えられていた、いわば荒涼とした風景(絵日記にもその景観が書かれています)の中、凡そ3時間の旅でしたが、運転手さんのお陰で苦にならなかったと、家内のメモに残っています。
初めましての御挨拶にしては、長々としたもので恐縮ですが、
Noraさんの旅行記に刺激され、ツイ、アルバムやら回想記を見つけて、
以上の如く書いてしまいました。
それではまた。
jijidaruma
- Noraさん からの返信 2023/11/17 12:53:20
- Re: 私の旅はもうセピア色のスペインです。
- jijidarumaさん:素晴らしい内容の’はじめまして’をどうもありがとうございます。コルドバでの出来事、大変でしたね。でも’あ~どうしよう!’というハプニングの中に人と人の思わぬ出会いや心温まる展開があり、最終的にうまく収束してよかったです。いいですね、こういう心温まる出会いって!!jijidarumaさんのセピア色の旅行記グループにロカ岬が出てきましたので楽しく拝読致しましたよ。温かいお人柄が随所に感じられると同時に、当方が経験したポルトガルの人々のちょっとウェットで素朴な一面を懐かしく思い出したりして。。。御気づきのように当方はシカゴ郊外に在住で今、落ち葉かきやプラントの越冬準備で忙しくしております。すぐに感謝祭、そして寒波に乗ってクリスマスがやってきます。この厳しい寒さに耐え抜くシカゴの人々はブルース.ウイルスではないけれど、ダイハードシカゴアン(Die Hard Chicagoan)なんていわれるんですよ。家の中はセントラルヒ―ティングですから寒くはないのですが、一歩外にでるとヘビーデューティーの防寒具が必要です。jijidarumaさんは沢山の旅行記をアップしていらっしゃるので長い冬の夜に少しずつ拝読させて頂きますね。これからもどうぞよろしく!! Nora
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