2023/05/07 - 2023/05/07
30位(同エリア45件中)
gianiさん
- gianiさんTOP
- 旅行記201冊
- クチコミ378件
- Q&A回答0件
- 738,607アクセス
- フォロワー15人
この旅行記のスケジュール
もっと見る
閉じる
この旅行記スケジュールを元に
高知県立(歴史民俗資料館/高知城歴史博物館/龍馬記念館/高知城)のミュージアムを梯子して、高知県の歴史を探ってみました。
統一政権発足後から、遠流の地として歩んだ地形的隔絶性を未だに乗り越えられない姿が浮かび上がりました。
仕上げはエネルギー革命と黒船(海外輸入品)襲来で、生まれ育った土地を捨てざるを得ない(過疎化)切実な事情が。
- 旅行の満足度
- 5.0
-
岡豊山歴史公園には、高知県山間部の古民家が移設されています。中にも入れます。
岡豊山歴史公園 公園・植物園
-
まずは、歴民こと県立歴史民俗博物館へ。
高知県立歴史民俗資料館 美術館・博物館
-
土佐国:日本の一員として
701年の大宝律令で、南海道(紀伊+淡路+四国)にカテゴライズされます。都からの道は、和歌山から船で徳島入りするのが本道。淡路島経由で徳島入りも。どちらにしろ、土佐は南海道のなれの果て、僻地です。現在の区分からするとちょっと変ですが、当時の交通体系からは理にかなっていました。 -
上記の制度で、土佐は隠岐/佐渡に並ぶ遠流の地に指定されました。都から見た土佐の立ち位置がわかる一例です。
日本書紀を見ると、それ以前の676年に大宰府長官だった屋垣王が土佐へ流されています。 -
土佐国一宮として、現在の土佐神社が指定されました。5世紀創建の古社です。
-
国分寺も建立されます。
中央政府から派遣された国司の下で、地元豪族の郡司が世襲で地域を管理しました。仏教は大陸からの先進文化の一つでもあり、仏寺があることは、郡司にとっても権威やステイタスシンボルでした。国分寺 寺・神社・教会
-
空海(793-803)
讃岐生まれのエリート。793年に都の大学寮(完了育成機関)を飛び出し、803年に遣唐使の一員になるまでの歴史的空白期間に、土佐etc.で修行に励みます。室戸岬の洞窟で悟りを開きました。
紀貫之(930-35)
土佐国司として赴任。帰路の旅路が土佐日記として知られます。遠流地ということからも、彼の立ち位置がわかります。 -
土地開発を促す法律の影響で荘園開発が進み、豪族は、荘園を管理する荘官として中央勢力(有力寺社/貴族)とのパイプを持ちます。自衛のために武装して武士となり、荘園を強奪することも。武家政権では、地頭を務めます。源氏に味方した安芸氏などです。
一方で、頼朝ゆかりの東国武士も、地頭として下ってきました。長宗我部氏などです。 -
南北朝の争いでは、北朝/幕府方の細川氏が守護になり、田村荘を支配拠点にしました。現在の高知空港の部分です。
高知空港(高知龍馬空港) 空港
-
中世の有名人≒罪人
源希義(まれよし)
頼朝の弟。平時の乱で土佐へ流され、頼朝の伊豆挙兵(1180)に呼応するも、あっさり土佐で討ち取られます。
土御門上皇
父親の後鳥羽上皇が起こした承久の乱(1221)失敗の空気を読んで、自ら土佐へ退きます。(光源氏が、自ら須磨へ退いたのと同じ行動。) -
大高坂松王丸
南朝に付いて、大高坂城(高知城)を拠点に抗争。細川氏は安楽寺山城を拠点にして、両者が激突。松王丸は戦死し、北朝の支配が確立されます。古戦場は、出雲大社になっています。出雲大社 土佐分祠 寺・神社・教会
-
応仁の乱以降
守護細川氏の影響力が弱まり、群雄割拠の時代になります。土佐七雄と呼ばれる勢力が台頭します。
乱の2年目に、関白左大臣を務めた一条教房が自らの所領の一つ、幡多荘の中村に避難します。ここで房家が誕生し、在地ながら中央政界で大納言まで出世します。圧倒的な家柄と幡多郡の土地を基盤に、土佐では別格の存在です。彼は、幼い長宗我部国親を庇護しました。 -
戦国時代の城分布
中央部に偏って分布していることがわかります。つまりは、人口も米の生産量も多いエリアです。西部は一条家、東部は安芸氏の安定政権です。 -
長宗我部氏
歴民が建つのは、長宗我部氏の本拠地岡豊城跡です。肝となる長宗我部氏の展示エリアは撮影禁止です。高知中部の覇権を巡って七雄が争い、本山氏が一歩前へ出ます。父を殺された長宗我部国親は、一条房家の下で育ち独り立ちします。息子元親(写真)と共に、本山氏と決戦を迎えます。岡豊城跡 名所・史跡
-
戸の本の戦いで、初陣の元親は大活躍。父国親の急死を乗り越え、本山氏を征服。その後安芸氏を滅ぼして、七雄を征服。一条氏を滅亡させて土佐統一(1575)、そして四国も統一します。ここがピークで、秀吉の傘下では土佐一国に減俸(1585)。国親は、1599年に亡くなり、盛親の世に。
-
信心深い元親は、毎回の合戦前に若宮八幡宮で戦勝を祈願し、戦勝報告をする神社として一宮の土佐神社を選定しました。
土佐神社 寺・神社・教会
-
秦藤交代
関ケ原で西軍に付いた長曾我部盛親は改易、大坂夏の陣で豊臣勢に付き滅亡します。一方で、真っ先に東軍に付いた山内一豊が土佐を治めます。土佐物語では、一連の出来事を長宗我部氏の祖先の秦氏と山内氏の祖先の藤原氏の名前を取って、秦藤交代と表現します。 -
山内(やまうち)一豊(1545-1605)
秀吉家臣の古参で、初めて城持大名になったのは、長浜城。秀吉が初めて城持になった長浜です。その後、掛川城を基盤に5万石を授けられました。長らく秀次の後見人を務め、秀次切腹時には昇進しています。
石田三成と家康が対立した際には、真っ先に家康への忠誠を表明し、古参の立場を利用して他の大名が家康に付くよう働きかけました。その功績で土佐へ栄転、大幅加増です。 -
土佐入府(1601)
まずは弟の康豊を派遣し、長宗我部の旧臣に対しては、仕官(郷士)と農民(地下浪人)という2つの選択肢を与えます。浦戸一揆/本山一揆などを経て、何とか武士をまとめます。一豊入府の際は家臣団も含めて武装入城、この後も5人の影武者を配置しました。 -
一豊の大仕事の一つは、桂浜の浦戸城から高知へ中心を移したこと。
大高坂山にドでかい城と、周囲に城下町を築きます。江ノ口川と鏡川に挟まれているので、河内(こうち)と呼ばれます。水害が絶えないので、高智と改称し、高知になります。
一豊は実子に恵まれず、康豊の息子(甥)忠義と養子縁組し、1605年に跡を継ぎました。 -
地域支配
敵地へ乗り込んだ一豊は、土佐の6か所に地域拠点を作り、戦国時代の城を中心に治安を維持しました。5人の重臣と弟の康豊に委ねます。図の白い四角が高知城および支城。 -
将軍の家臣として
大名は、将軍直参の家臣で、将軍が代替わりするごとに領土を安堵されました。写真は、秀忠が忠義に宛てた領地判物。
武家諸法度(=幕藩体制 1615-)
大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡(1615)すると、一気に天下は泰平方向に舵を切ります。幕府は武家諸法度を布告し、大名家を統制します。
まずは、一国一城令。豊臣勢力の脅威がなくなったので、大名の軍事力を削ぐ必要が生じました。 -
土佐国は、高知城以外の城を破棄せよということです。領内の城は破棄され、上記の地域支配は土居廊中と呼ばれる防備の施された屋敷を中核に行われました。上の図でも、古城と表現されています。
写真は、幕府年寄(後の老中に相当)から山内忠義へ宛てられた一国一城令。
※高知城の修理/メンテナンスも、幕府に申請/許可が下りてからでなければ行えなくなりました。 -
参勤交代
大名が江戸と領地を1年交代で行き来する取り決めで、大名家の経済力を疲弊させる天才的政策。土佐藩クラスでは、500人を同行することが義務づけられました。実際には、家臣の供(陪臣)を含め本隊は1500人、別動隊を含めると2500人規模の大移動になりました。
前半は、写真のような御座船で、後半は陸路で往復しました。
※武家諸法度により、500石を超える大型船は、製造禁止に。巨大軍艦製造を危惧しての禁令です。 -
江戸には、藩主や妻子が滞在する上屋敷、家臣団が使用する中屋敷/下屋敷があり、土地は幕府が提供しましたが、建物や維持管理に莫大な費用を要しました。これだけでは必要を賄えないので、藩が民間から土地や建物を借りる「控屋敷」がありました。正室と子供たちは江戸を離れることが許されず、人質としての役割を果たしました。
藩主は、月に最低2回は将軍と謁見し、機嫌を窺わなければなりませんでした。
土佐藩は、幕府への材木提供と江戸の消防活動が、平時の割り当てでした。 -
その他拠点
江戸のほかには、京と大坂(以上が三大都市)にも藩邸を持ちました。藩邸の責任者の役職は買付役ということで、藩の運営に必要な物品を買い付ける購買部門でした。大坂は蔵屋敷もあり、年貢米を換金する大事な場所です。西国大名は私費で、京阪に屋敷を構えました。
※譜代大名は、幕府役職(京都所司代の補助=二条城警備)がメインで、二条城周辺に屋敷を構えました。 -
行政機構
大きく近習/外輪に分かれ、近習は江戸/京/大坂/高知城といった藩主の周辺で仕事する内政部門。外輪は、領地(現場)を監督する部門。生産部門は山(山林)/郡(農耕)/浦(漁業)/町(商業)に四分され、それぞれに奉行があてがわれました。興味深いのは、船乗りを司る船奉行の存在でしょうか。 -
厳しい身分/階級制度
長宗我部旧臣の反抗が激しかったことと、とにかく貧しい土地という背景(cf.薩摩藩)を反映しています。武士は上士(山内家譜代)と下士(土佐で新規採用、長宗我部旧臣等。)に大別しました。どの藩でも武士の上下関係はしっかりしていますが、土佐では些細な理由で上士が下士を切り捨て御免してもまかり通る社会でした。
農工商身分も、それぞれ上中下の3階級に区分しました。年貢は、二公一民です。
厳しい制度は、幕末の尊王攘夷運動の温床になります。
※農民の年貢は四公六民、五公五民が全国的スタンダードでした。 -
長宗我部検地帳(1587-98 国重文)
いわゆる太閤検地令に基づき、12年かけて作成された基本台帳。ほぼ完全な形で368冊が現存します。土佐藩でも基本台帳として継承されたので、紛失等を免れました。土佐藩の石高は、20万6000石になります。
余談
田畑の実態は生産者の申告制によるものでしたが、太閤検地では為政者が田畑のの寸法を実際に計測(面積を計算)しました。面積に土地の生産性(4段階で評価=石盛)を掛けたものが石高です。石高=面積×石盛(係数)
土佐入府時は98000石と表現される場合は、軍役基準の石高です。税率は、2公1民(66.7%)でした。 -
藩政改革
忠義は、財政難に陥った藩政を改革するために、一族の血を引く野中家の養子兼山を起用。外輪の最高職「奉行(選ばれし家老が就任)」として辣腕を振るいます。 -
生産力向上を目指し、新田開発を促進。地下浪人になっていた長宗我部遺臣を新田開発の対価として郷士に取り立て、免(税率)も4公6民と優遇し、ヤル気を起こさせました。1670年頃には、新たに10万石の新田が開かれました。図(元禄年間)のように新田村は中部に多く分布し、小作農を自作農に転化させる一石三鳥の政策でした。⑧の野市村は、5669石も開墾されています。
※幕末には、土佐49万石まで石高が伸びます。 -
インフラ開発
新田開発に欠かせないのは、水田へ引く水の確保。用水路を建設します。舟入川(物部川~城下)、新川川(仁淀川~城下)の開削は、全長数十kmの一大プロジェクト。運河も兼ね、物流を促進しました。
捕鯨基地の港を整備(岩盤を掘り込む難工事)するなど、スケールの大きな工事を行います↓。
https://4travel.jp/travelogue/11835175 -
新川川
長浜付近の姿。新川川開発は、仁淀川から外洋を経由して高知城下へアクセスする必要がなくなり、外洋航行用の立派な船でなくても物資を運べる点で、アドバンテージが大きかったです。粗末な船だけでなく、筏でも航行OKです。 -
産業振興
舟入川沿いに、新しい商人町を建設し、商取引を行う特権を与え租税諸役を免除しました。タックスヘブンゆえに御免、転じて後免という名前の町として、現在に続きます。
※後免町は戦後合併して、南国市の中心になります。 -
殖産興業
古来からの名産である材木、和紙や捕鯨、鰹節、茶の生産などを奨励します。大消費地かつ巨大物流ステーションの大坂に近いことが幸いします。 -
材木
1445年の文献でも、土佐の木材は銘木と絶賛されています。
山林は留山留木制度の下、大部分を藩が所有し、資源が枯渇しないよう細心の注意を払いました。家は材木で建てられるので、一貫して需要が安定しました。
伐採したものは、川で海辺の町まで運ばれ、そこから廻船で大阪へ輸送されました。森林の集中する安芸郡は、藩の輸送力のうち8割相当の船舶を保有していました。燃料用の薪や炭も、重要な輸出品でした。 -
海岸部の統治
土佐は長大な海岸線を持ち、九十九洋と形容されます。浦は、海岸線に沿った集落で、生計手段を海に依存するコミュニティです。漁業以外に、藩が仕立てた廻船を乗組員として操船する特別な義務(水主役)が課されました。
主要な浦には、分一役所があり、漁業の運上に掛けられる口銀、船の積荷に掛けられる分一銀を徴収しました。土佐は陸の孤島なので、運輸≒海運という事情が関係していました。 -
商人の躍進
城下を中心に町人が経済力をつけるのは、江戸時代のトレンドです。奈半利川の河口で材木の集積地となった田野浦は、五人衆と呼ばれる豪商が育ちます。時代劇では悪役の「廻船問屋」が躍進します。 -
捕鯨
突き取り漁法でしたが、紀州から網取法を学び、獲れ高が飛躍的に向上しました。鯨を獲れば七浦が潤うと言われる金のなる木でした。藩の許可を得た2組だけが操業でき、操業中は邪魔にならないよう、周辺での漁業は禁止されました。 -
浜で即座に解体され、余すところなく活用されました。鯨には捨てる部分がありません。漁/解体/仲卸等300人以上のチームプレーで成り立つ巨大企業集団でした。
-
鰹漁
17世紀に、紀州から一本釣り等のノウハウが伝えたれ名産になりました。現土佐市の宇佐浦が有名で、朝獲れのカツオを城下まで運んで、刺身で食するのがステイタスでした。すぐに鮮度が落ちるので食中毒も横行、藩主は生食を禁止します。庶民は、表面だけ焙って焼き魚を装う「カツオのたたき」も生み出します。 -
足が速いカツオも、鰹節にすれば遠くまで運べます。紀州からノウハウを学びましたが、1713年には「土佐の産を上とし、紀州熊野はこの次」と本家を超え、朝廷や将軍に献上されました。カツオも、漁/節づくり等の分業で成り立つ組織的企業集団でした。
こうした藩外輸出品は、専売品として藩の財源となりました。 -
失脚
隠居した忠義の容体が悪くなると、後ろ盾を失った兼山は失脚します。大量に郷士を取り立てたことが、上士の怒りを買ったためです。本田(⇔新田)での厳しい年貢取り立てや、厳しい風紀の取締(相撲や祭りも禁止)で民衆の鬱憤が溜まっていたのを反対派は利用して幽閉、翌1664年に死去します。彼の子孫は、男系が途絶えるまで、40年幽閉され、もちろん結婚も許されませんでした。土佐藩士、怖ろし。
※兼山失脚後も、彼の行った土木事業は継続され、永続的恩恵を受けます。野中兼山先生邸址 名所・史跡
-
幕府の諸改革や全国的な天災に呼応して、藩政改革もたびたび実行されました。
中でも、8代藩主豊敷(1712-68)は簡素化に努めました。1727年の高知城焼失後は、簡素な城を再建。 -
家格を10万石に落として幕府への使役を減らしてもらうことを老中に申し出、見栄を重んじる大名界では異色の意思表示をします。写真は、豊敷が老中へ送った伺書。上質の土佐和紙に延々と書いています。左上には、貼り紙が。付紙という幕府からの回答文。文書ではなく、承知したの一言のみのそっけない返事。それでも、重要証拠品なので、丁重に保管されました。
-
藩校開設(1760-)
北会所内に藩校教授(こうじゅ)館を開校。朱子学をメインに教えました。財政改革は、倹約締付の徹底が庶民に嫌われ、頓挫します。
しかし、幕末に動きます。
現在は、土佐女子中等/高等学校になっています。 -
山内豊信(容堂 1827-72)
高知城下で生まれています。正室の子なら江戸藩邸、側室の子なら二の丸御殿、豊信は城外というわけで、分家の生まれです。13代藩主豊熈の跡を継いだ豊惇がわずか10日で死去し、跡を継ぎます(1848)。本来ならお家断絶ですが、豊熈の義兄島津斉彬の計らいで、無事に相続。この経緯から、幕府に恩義を感じます。
現在は天理教会になっています。山内容堂公誕生之地碑 名所・史跡
-
1853年の黒船来航を機に、藩政改革および幕府への提言を行うようになります。藩政は上士の吉田東洋を登用して、近代化を推し進めます。海防、軍備、富国強兵、長崎貿易による増収などです。身分に関係なく有能な人材を活用したので、上士の恨みを買います。野中兼山の時と同じです。国政に関しては、公武合体、開国論者でした。
容堂は、13代将軍の跡継ぎ問題で井伊直弼と意見が対立。江戸で隠居/謹慎を命じられます(1859)。 -
致道館(1862-)
東洋は、儒教思想を教えていた教授館を、時代に即した内容とりわけ近代軍備について学べる藩校にチェンジ。名前も致道館に改めます。跡地は、城西公園になっています。城西公園 公園・植物園
-
土佐勤王党
土佐でも尊王攘夷運動が大きくなり、下士の武市半平太が1861年に土佐勤王党を結成します。藩内の厳しい身分差別等が、下士の目を天皇へ向けさせました。思想の母体になる国学は、儒教思想(上下関係や感情を殺すこと)を否定するものでした。武市瑞山道場跡 名所・史跡
-
吉田東洋暗殺(1862)
東洋は上士の反感を買うだけでなく、攘夷を謳う土佐勤王党とも対立します。後ろ盾だった豊信(隠居して容堂と名乗る)は、江戸藩邸で謹慎中ということもあり、勤王党によって暗殺されます。現在のオーテピアの建つ場所です。藩論は尊王攘夷になります。吉田東洋記念之地 名所・史跡
-
容堂復権
1863年の八月十八日の変で公武合体派が復権すると、容堂の謹慎が解かれ、土佐へ戻ります。下士の武市を快く思わず、公武合体に反対して東洋を暗殺した勤王党への報復に着手し、武市は投獄され、1865年に切腹させられます。土佐勤王党は膠着気味の組織だったために、龍馬や中岡らは、既に(1862-63年)脱藩し、藩の枠を超えて活動します。武市瑞山殉節の地 名所・史跡
-
後藤象二郎と大政奉還
容堂の意向で、東洋の弟子である後藤象二郎が1864年より藩政の中心になります。上士の家柄で、その点でも容堂の眼鏡にかないます。1866年には富国強兵を目的とした開成館を開設し、様々な技術者を養成しようとします。大坂/長崎に出張所を設置して藩の特産品を売り、軍艦や武器を買う資金に宛てました。経営手腕は微妙で、岩崎弥太郎が実務にあたって何とか商売の方は成り立ちます。
後藤は脱藩していた龍馬と接触を試み、亀山社中を藩に取り込みます(海援隊の誕生)。また龍馬から大政奉還のアイデアを訊き、容堂に提言。幕府へは容堂が建白します。1867年10月に大政奉還が実現します。
※容堂は13代将軍の跡継ぎに慶喜を推して、井伊直弼に失脚させられました。 -
戊辰戦争(1868)
大政奉還というウルトラCの出現で、慶喜追討勅令は骨抜きにされます。武力討幕派は、翌68年1月に宮中クーデターを起こし、王政復古令を宣言。朝廷を中核とする新政府を作り、諸大名を起用するも、慶喜は排除した形態にします。徳川無しでは政治を運営できない弱みに付け込んだ大政奉還を繰り出した慶喜の予想を超える事態に、旧幕府支持勢力VS新政府支持勢力の武力衝突が、鳥羽伏見で勃発。容堂も武力討幕は不可避と観念し、乾(板垣)退助を総指揮官とする部隊は官軍として戊辰戦争に参加します。
※乾は後藤の幼馴染で、上士の出。容堂の養子は、三条実美のいとこにあたります。 -
明治政府と自由民権運動
容堂は新政府に登用されますが、下級武士中心の新政府メンバーになじめず、すぐに辞職。後藤象二郎と板垣退助は征韓論を支持し、西郷と共に新政府を去ります。
1874年に板垣退助は「民選議院設立建白書」を提出し、国民が選挙で自分たちの代表を選ぶことを求め、10年後に帝国議会が設立されることを政府は約束します。上士の出ですが、人間の平等にこだわる姿勢でした。
※会津若松城包囲の際に、民と藩の間に深い溝が存在したことが原因であっさり落城し、民心を大切にする為政の大切さに目覚めたと言われます。 -
1874年に板垣は、立志社を結成し、土佐の自由民権運動は草の根レベルまで浸透します。地方自治の法整備が進む前は、女性参政権が認められる自治体が存在するなど、先進的な土地です。しかし、第2回衆議院選挙(1892)では、政府と警察がタッグを組んだ血を見る選挙妨害で壊滅します。
立志社跡の碑 名所・史跡
-
工業化
土佐和紙といった伝統産業のほかに、製糸業、石灰石採掘、水力発電といった近代工業も導入されます。とはいえ、交通体系の未発達(現在まで続く)がネックになり、重化学工業化は進みませんでした。現在の高知県事情は、明治から変わりません。遠流の地だけあって、四国一の不便さは健在です。 -
国政
昭和になると、浜口雄幸や吉田茂といった高知県出身の宰相が誕生します。吉田は外交官出身で、父親は板垣退助の腹心。海外事情に精通し、三国同盟や対米会戦の阻止を働きかけ、投獄も経験します。ジョン万次郎の隣町出身というのは偶然でしょうか。 -
ここからは民俗部門
鰹漁(一本釣り)
鰹を群れのいるところまで漕いで行きます。一番釣れる舳先には、経験ある中年部隊、若者はその後ろ、年配は後ろの舵の部分に陣取ります。餌を左舷から撒いて、群れを引き寄せて漁が開始。釣り人は、右手にへらで海面を弾いて、小魚がいるように見せかけます。左手に持った釣竿に手応えを感じると、両手で釣りあげます。 -
餌かご
釣り針のエサは、エサ係が釣り人へ手渡します。すべてはスピード勝負で、どんどん釣りあげます。カツオは生きた小魚しか食べないので、浦では餌かごに鰯やキビナゴを入れて海中に漬けて置き、出漁前に胴桶に移しました。胴桶の海水は頻繁に取り換えて、餌が死なないようにします。小網で小魚をすくって現地調達することもあります。 -
動力等
明治末にエンジンを搭載する船が出始め、沖合や室戸~足摺の県内を自由に移動できるようになりました。2,3日の漁が可能に。製氷も可能になり、船内一時保存も可能になったこととセットです。昭和期はエンジンが進歩し、千葉や宮城までカツオを追って、現地の港で水揚げしました。カツオ以外では、遠洋漁業も可能になりました。近海では氷漬け、遠くでは冷凍で鮮度を維持します。小魚に見せる水撒きも、散水機が行います。 -
高知城下の食堂街「ひろめ市場」では、鰹のたたきを味わえます。
藁で焙るのがおいしさの秘訣とされます。明神丸 ひろめ市場店 グルメ・レストラン
-
鮮魚店も入っています。写真は、筆者お気に入りの王子水産のもの。半額値引きの時点でこの品質。ねっとりとした肉感は、別格です。市場内で食べる際は申告すると、丸いシールを貼ってくれ、持ち込みでないことの証明となり、堂々と食せます。
続いて、土佐の伝統的鰹節(本節)作りの解説。王子水産 グルメ・レストラン
-
1.生切り
脂が少なく大きくないもの(内部まで乾燥させるため)最適で、成長肥育するために北上する春ガツオがベストです。写真のように尾を持って三枚におろす作業は、土佐切りと呼ばれます。続いて、血合いを境に背と腹に分け(亀節)、それぞれ2分&血合いを落とし、1尾で4つの節が出来上がります。 -
上は、三枚におろす鰹包丁(新品に近い)、中段は使い込まれて研ぎを繰り返したもの。下段は中突で、亀節の血合部分を削って落とす道具。
2.煮熟
籠に節を並べて、釜に投入。沸騰前の温度で、1時間以上煮込みます。肉が締まって生臭みのない作品に仕上がります。 -
3.バラ抜き
バラ抜き桶に水を張り、水で冷却した節を浮かせます。専用の毛抜きで、小骨を一本一本手作業で抜きます。皮下脂肪も取り除き、なまり節(仕掛品)の出来上がり。今も機械化できない部分です。
※このあと火入れすれば、生節(即日工程の製品)の出来上がりです。 -
4.焙乾(水抜き)
なまり節は水分を68%含み、鮮魚や人間と同レベル。蒸籠(写真)に載せて、焚納屋で乾燥させます。薪は楢/楠/椎など、硬くて火持ちの良いものが最適です(機械乾燥が普通)。1回目の焙乾を、水抜きといいます。 -
5.揉み付け
表面の凸凹にパテ(煮熟身と生身をペースト状にしたもの)を塗って、傷口を埋めます。揉付桶(写真)に水を張り、パテを付けた節に水を付けて、摺り込みます。
6.焙乾
揉み付け後も焙乾を繰り返し、回を重ねるごとに火から遠ざけて、じっくりと燻し、水分が26%程度になるまで行います。節の表面は、薪から出たタールで黒くなり、削ぎ落します。こうして荒節の完成です。 -
7.天日干しとカビ付け
2日間天日干しした荒節を風通しの悪い部屋に入れて、カビが付くのを待ち、発酵を促した後、洗い落とします。この作業を何回も繰り返し、カビが付かなくなるまで繰り返せば、本節の完成です。カビは水分と脂分を分解し、酸化防止作用や旨みを生み出します。水揚げから約半年、5㎏の鰹から900gの本節が出来上がります。 -
ウツボ漁(11-3月)
高知以外では、まず味わえない絶品がウツボ。
漁師手製のウツボカゴに魚の内臓を入れて、夕方の岩礁に沈めます。朝に紐で引っ張り揚げて収穫。他の漁と並行して行います。
※カゴには返しが付いているので、一度入ると脱出できない。 -
ウツボのたたき
白い身からは想像できない独特の食感と旨みを堪能するには、刺身かたたきが一番。カツオ以上に深刻な惑溺性を持つ美味しさです。高知以外にも生息していますが、食用にしているところに未だに出会えません。(釣り人たちは味を知っているみたいで、全国の釣れるポイントが共有されています。) -
イカ漁(9-3月)
高知のイカも、絶品です。
夜、火を焚いて行います。釣り竿に、魚や海老に似せたルアーを仕掛けます。天敵から見つかりづらい夜に捕食行動をすることと、光に引き寄せられる習性を利用します。写真のように、釣竿もルアーも専用のものです。 -
山の暮らし
平地が少ない山間部では、雑木を切り払って火を入れた後、畑にするのが伝統でした。焼畑と呼ばれ、灰が肥料代わりになります。雑穀を栽培し、3,4年で地力が落ちると2,30年放置し、再び火入れします。1970年頃まで広く行われました。 -
林業
山間部での基幹産業/現金収入源でした。伐採(杣)/製材(木挽き)/輸送(日傭)と分業化されました。険しい現場では、予め角材にして少しでも軽くしました(写真上1916年)。傾斜の緩やかなところでは、木馬(きんま)を使って、人力で運びました。 -
木馬
雪橇のような形です。人は馬のように曳いて運びます。 -
木材運送
現場から、消費地の大阪まで輸送する必要があります。
左上は修羅、谷間に材木を敷いて作った滑り台です。大規模な山では、森林鉄道を敷設しました。幅や深さが見込めるところでは、筏を組んで川に流しました。道路整備が進むと、馬に荷車を引かせました。港が整備されていない頃は、材木を手作業で海へ落とし込んで、船に載せました。写真はいずれも、1950年代のものです。 -
炭焼き
薪や煙の出ない炭は、貴重な燃料でした。過密な都市部では炭が好まれ、付加価値の高い炭焼きが栄えました。個人/営林署で行い、木馬や馬車で港へ運び、港では天秤棒に移し替えて、大阪行きの船へ積みました。
電気ガスの普及/海外の安い材木が普及した1960年代に林業は競争力を失い、現金収入の手段を失うと過疎化が進行しました。 -
和紙
山間部に自生する楮(こうぞ)ミツマタ等を、写真の蒸桶で蒸して繊維を取り出します。写真は、歴民の屋外展示味元家住宅の土間にあるもの。和紙は水にも強く、耐久性に優れた紙です。 -
柚子
搾ってジュース状にして出荷します。伝統的な柚子搾りは、2枚のシャモジ状の板に挟んで搾りました。 -
合理的に力を掛けられる台状のものが登場しました。
-
民間信仰
県中西部の稲作農家の土着信仰。稲の生育を見守る神で、中部ではオサバイ様、西部では石やしろ様と呼ばれます。 -
写真は田植え時に、畦に築く祭壇。石やしろを中心に、柿の葉の上に寿司をお供えします。収穫後石やしろは、自宅に戻します。
-
恵比寿
外から内へ富をもたらす神ということで、海では豊漁をもたらす神として浦で信仰されました。恵比寿には異郷(戎)からやってくる意味があるので、不漁の時は他の浦の恵比寿像を盗むと豊漁になると考えられました。 -
葬儀
基本は仏式ですが、各地で土着信仰に基づいた習慣が加味され、1970年代まで一般的でした。土佐は、現在も因習の強い地域といえます。 -
いざなぎ流
物部村周辺のローカル信仰で、平安中期から続くもの。儀式の一部は、国の重要無形民俗文化財に指定されています。原始的なアミニズムに、仏教神道等の行事がミックスされたものです。江戸時代には、領主に公認された宗教でした。太夫と呼ばれる宗教者が、祈祷などを行います。写真のように、祈祷文/呪文は、定型化されています。 -
儀式では、内容に沿った御幣(紙で型取った定型のもの)を使用します。
-
ある種の儀式で使用する仮面
陰陽道的な内容を含み、平安時代の文献に出てくる貴族の儀式に通じる部分がいくらかあります。 -
歴民を後にします。
麓の学校分岐バス停を利用。土佐神社を経由して、高知駅までバスがあります。 -
路線バスで訪れられる貴重な郷士宅
1819年築。
夜行バスが発着する高知インターBTのそばです。高知市旧関川家住宅民家資料館 美術館・博物館
-
無事に高知駅に帰着。
べろべろの神様
「おきゃく」は、土佐弁で宴会を意味します。今年には、前の突起に蛇口が付いたバージョンも誕生したそうです。高知駅のJR系土産物店の前に鎮座。勢力増強等の御利益のある、平成令和の民間信仰。高知銘品館 専門店
-
おまけ
フクちゃんでお馴染み横山隆一記念館にあった漫画掲載紙の広告。
あなたの顔は死んでいる!という強烈なメッセージで白粉を売り込んでいます。昭和10年頃。
次の旅行記↓
https://4travel.jp/travelogue/11835175
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
この旅行で行ったスポット
もっと見る
この旅行で行ったグルメ・レストラン
大豊・本山(高知) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
91