2023/05/07 - 2023/05/07
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gianiさん
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江戸時代の1603年に誕生した高知市街。高知が選ばれた経緯と、歴史詰まるお城と城下町を探検します。位置情報も、ぜひ参考にしてみてください。
- 旅行の満足度
- 5.0
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まずは、街の中心となる高知城へ。
初代藩主山内一豊が整備し、1603年に入城しました。
標高47mの大高坂山とその周囲に建っています。高知城 (高知公園) 名所・史跡
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石碑には、国宝高知城と書かれています。というわけで、文化財保護法が施行された昭和25年以前のものだとわかります。
※同法では、追手門と本丸が、国の重文指定。 -
高知城は、南北朝期に南朝方の松王丸が大高坂城を築いたのが始まりです。土塁と柵で敵を防ぐ砦で、軍事的緊張が高まった際に使用されました。普段は、平野部の館で生活していました。
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土佐/四国を統一した長宗我部元親が豊臣秀吉の配下になると、岡豊城(山城)に不便を感じ、里へ降りてきます。大高坂城を整備するも3年で放棄し、桂浜の浦戸城へ移ります。豊臣政権では、材木の調達と大坂~九州の海運を割り当てられたので、双方に便利な海沿いの土地を選びました。
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1601年に入府した山内一豊は、領内を調査し、海に面した平野部に位置する大高坂城を本拠地に選定。交通の便と、城下町を展開するのに十分な土地があったからです。天下は、徳川と豊臣が両存する不穏な時勢でした。
安土桃山時代以降、城は有事の軍事施設から、領主の生活する館の要素も加味されます。江戸時代になると、政庁=現在の県庁に相当する役所、公的儀式の場、権力のシンボルという要素も加わります。山城から平地の城に変化します。
図では、高知城を魅せる(赤)/集まる(橙)/収納備蓄(黄)/住む(桃)に分けて表示しています。 -
いざ、お城へ潜入。周囲は濠で囲まれています。北面は江ノ口川に面し、濠の水はここから引いています。濠の幅は、当時の半分まで埋め立てられています。
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追手門(国重文)
直進すると右側に門が。追手門(一般の大手門に相当)です。
表玄関なので、権威(威厳と豪華さ)を演出する「魅せる」効果も狙います。
※大阪の追手門学院も、大阪城大手門向かいで開校しました。 -
枡形構造
直進ではなく、右折するのは防衛のため。敵が足を止めた瞬間に、三方の壁から一斉射撃。元来た道を戻ろうとすると、搦手門から到着した兵が待ち伏せして八方ふさがり。全国の城に取り入れられた構造です。万一門を潜ると、石落しから岩が落ちて、、、 -
内側から見た枡形
城への入り口は、虎口とも呼ばれます。 -
魅せる
化粧板はケヤキ材。城門には銅細工。機能を超えた大きさ、屋根の反り上がる角度は、軽やかさを演出。 -
追手門を潜ると、板垣退助像が。
筆は、吉田茂。板垣退助銅像 名所・史跡
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追手門から階段を上ります。
踏面の長さがバラバラなのでリズムが狂い、敵の進撃を抑える仕掛けがあります。ツーリストには、優しくない階段です。 -
井戸の段
美味しい水が湧いていて、1日3回藩主向けに汲んで届けたそうです。
またの名を、杉の段とも言います。杉の巨木が群生していたのが由来で、倉庫として利用されました。 -
杉の段から、三の丸の石垣を見上げます。
近江から、穴太(あのう)衆を招聘して築きました。
高さ13m。自然石の形を活かした野面積みです。 -
積石が整然とした切込ハギや打込ハギを採用しなかったのには、理由があります。雨の多い地域なので、降雨を速やかに石垣の外へ逃すために選ばれた積み方です。
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石垣の突起物
水樋です。とにかく雨水を排水することが、至上命題でした。 -
階段を上ると右側が三の丸、さらに上ると詰門。
当時、階段には鉄門と呼ばれる門が建ち、侵入者を阻みました。
鉄門(跡)を突破しても、正面に詰門が鎮座し、二の丸と本丸へ人を寄せ付けません。写真では小さく写っていますが、、、 -
両側を石垣に挟まれた鉄壁の谷。
実はトラップで、詰門を突破しても、谷間に道が続くだけ。頭上の本丸/二の丸から一斉射撃を受ける仕掛けです。 -
門の入り口と出口の場所は左右にズレており(筋違え)、侵入者の動きは鈍くなります。
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今更ですが、高知城の見取図。
来た道を辿ると、①追手門→板垣像→②杉の段(井戸跡、三の丸石垣を見上げる)→③鉄門跡→⑦詰門。
現在詰門は開かずの門なので、右折して④三の丸へ。 -
角度を変えて
右奥が三の丸への階段。 -
三の丸は、儀式や年中行事を行う御殿が。いわゆる講堂、ホール的建物です。
後に藩主のプライベート空間も増設されました。 -
三の丸御殿の見取図
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⑤二の丸へ通じる階段は、三の丸にありました。真っ直ぐ登れず、防衛陣営に延々と腹を見せる進路が憎たらしいです。
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二の丸
三の丸とほぼ同じ広さで、標高差は8m。
藩主が政務を行う表御殿(政庁)と、藩主/側室/奥女中の生活の場である奥御殿がありました。
※武家諸法度により、奥方(正室)とその子供は人質として江戸藩邸で暮らしました。 -
往時の二の丸の間取り
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二の丸から本丸へ行くには、この建物に入る必要があります。
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中はこんな感じで、廊下になっています。
実は、先述の詰門2階の部分で、二の丸と本丸を繋ぐ渡り廊下になっています。
藩主も通行したので、畳敷きの通路でした。 -
詰門の渡り廊下の先は、⑨本丸。廊下門(写真右)を潜ると、石段(写真左)を上って入ります。
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石段を登り切って振り返ると、こんな感じ。
廊下門の下を潜ってきました。
迷路感を肌で感じられる点で、高知城は素晴らしいです。 -
ちなみに廊下門の中はこんな感じで、展示スペースになっています。
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本丸
右の廊下門は東/西多聞に挟まれ、手前には天守や本丸御殿が外周に連なります。 -
本丸の空中写真
1727年の大火で焼失、1729-47年に掛けて再建され、現在に至ります。 -
本丸御殿が、室内入り口に。その奥は天守閣。国宝ではなく重文指定ですが、江戸時代の本丸の建物一式が現存するのは、高知城だけです。しかも、築300年近くと年季も加算。ちなみに多くの城の天守閣が、昭和20年春以降の空襲で焼失し、現存するのは12個(城)のみです。
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本丸御殿
いわゆる書院造で、最高の格式です。客をもてなしたり、特別な儀式を行うのに用いられます。 -
上段の間(奥)
藩主が座る部屋で、畳が一段高くなっています。手前はニノ間で、上級家臣が座ります。左手前は三ノ間、左奥は四ノ間で、家臣の序列に従って座ります。 -
納戸(武者隠し)
ニノ間の家臣から見て左前には、美しい襖が。襖障子には壺金が打たれ、揚巻結びを組緒にした房など、華麗な装飾が施されています。元々は納戸(押入/収納)でしたが、大名屋敷では藩主を護衛する家臣が潜むスペースに変化しました。 -
納戸の中
庶民宅の押入だったら窮屈で押し込められている感じでしょうが、こちらは大名屋敷。武器を構えて、即座に飛び込める態勢を維持できます。 -
うちわけ波の欄間
土佐の左甚五郎こと、武市高朋(1722-76)の作品。黒潮の波をシンプルに表現した透かし彫り。浮世絵に先んじるセンス。本丸御殿は、18世紀築という凄さを感じられるアイコンです。 -
奥座敷には、藩主専用のトイレもあります。
LGBTQとは全く無縁の、身分社会です。 -
御茶所
いわゆる給湯室。お湯を沸かして、茶を立てました。身分の低い人の仕事です。 -
天守閣への扉
いままでの説明を読んでお気付きかと思いますが、お殿様は天守閣最上階に住んで、高いところから領内を眺めるわけではなく、大名の権威を領内に示すシンボルでした。普段は倉庫、有事は最期に立て籠り徹底抗戦/自害するスペースです。
戦国時代的発想でいえば、二の丸が館(居館)で、天守閣が城(臨時要塞)です。 -
天守閣
本丸の標高は44.4m、天守閣の高さは18.5m、締めて63mの高さになります。
ほかの建物と繋がっておらず、形式的には最も初期のスタイルを残します。 -
築城
関ケ原後は豊臣旧臣と徳川方の大名入替もあって、築城ラッシュ。材木/石材/瓦/職人の奪い合いとなりました。高知城は材木や石材は土佐で賄い、瓦や職人は大坂からリクルートしました。職人の日当は、米7合と味噌代と破格。買い手市場というだけでなく、お城の造営は気前よくという対面を保つ意味合いもあったと思います。毎日1200人が作業に従事。 -
配置のわかりやすいデフォルメ模型。
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天守閣内部
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漆喰
英語ではプラスター(plaster)ですが、日本では有機物を練り込む独自性ゆえに国際的にもShikkuiと表記されます。一般には海藻を練り込みますが、土佐漆喰では発酵させた藁を練り込みます。防火性防水性に優れ、重ね塗りで厚さを自由に設定できます。 -
鯱(しゃちほこ)
中国の伝説上の生き物で、綴りの通り頭は虎、身体は魚(シャチ)です。口から水を吹き出し、火事の守り神とされます。過去3回落下しましたが、いずれも豪雨が原因。火事は防げても、水には弱い(自爆)みたいです。 -
最上階からの眺め
手前が二の丸、奥が三の丸。 -
欄干
漆塗りで、32層(32回重ね塗り)の念入り。紫外線に弱いのも理由の一つ。文化財保護で触れませんが、きっとツルツルです。手前の山は、松王丸と対峙するために北朝軍が立て籠もった城。 -
本丸外周の壁
漆喰壁の穴は銃眼、壁から突き出たフードは石落し(いしおとし)、石垣から飛び出しているのは水樋です。 -
石落しと同じライン上には、忍び返しも。
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内側から見ると、銃眼はこんな感じ。
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左の網で保安されているのが、石落し。
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こちらは天守閣にある石落し。これ以上近寄ると、落下の恐れあり。
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黒鉄門
本丸の南口に建ちます。鉄門と同様、鉄板で装甲されていたことが由来。2階には石落しもあり、厳重警備。以上が、高知城です。 -
城下町
第一の目的は、城の防衛要素。城の外周は廊中(桃色)と呼ばれ、外堀に囲まれています。武家屋敷エリアで、上士(中高級家臣)がお城をガードします。西側は下士が住む上町(黄緑)、東側は町人の下町エリア(水色)が並んで城下町を形成します。城下町は鏡川と江ノ口川に挟まれた天然の要害です。
下町の上部と東側(薄い灰色)は、1636年に廿代町/下町新町として、農村から城下町へ編入されました。 -
山田橋
江ノ口川に架かる橋で、高知八幡宮と中江兆民生誕地に挟まれるロケーション。 -
城下町の北側の入り口で、山田橋番所が設置され、役人が出入りをチェックしていました。北山越え(金毘羅宮や高松へ通じる)や阿佐街道(室戸経由で徳島へ通じる参勤交代ルート)の基点で、江ノ口川の水運も網羅したチェックポイント。交通の要所ゆえに高札場も設けられました。獄舎もあり、多くの勤王志士が収監されました。
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番所跡の西側には八幡宮。松王丸が京都から勧請し、土佐藩でも庇護。元々は城内にありました。
高知八幡宮 寺・神社・教会
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番所の先からは新堀川が分岐し、南の鏡川につながる水路です。
城下町(下町 写真右岸)と農村部(写真左岸)を区切る境界線です。
城下町拡大に伴い、東岸も1636年には新町として市街地認定。新堀川 自然・景勝地
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番所の東には、中江兆民生誕地。
自由民権運動家で、東洋のルソーの異名を持ちます。中江兆民生誕地 名所・史跡
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余談
江ノ口川をもう少し下ると、緯度経度で数字の3が羅列する面白い地点が。地球33番地 名所・史跡
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鏡川大橋
北詰(対岸)には、三ツ頭番所が置かれ、当初は城下町枠外でした。名前の通り、鏡川/堀川/国分川が交わり、浦戸湾/土佐湾へ通じる交通の要所。専ら水運を監視しました。橋の先には、幕末に開設された開成館跡が。
大橋北詰めに位置するスポットを位置情報として登録しています。ホテルベストプライス高知 宿・ホテル
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大橋の少し下流には、稲荷神社もあります。
土佐稲荷神社 寺・神社・教会
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天神橋
城下町南側を流れる鏡川に唯一掛けられた橋。というわけで、南側唯一の入り口です。 -
唯一の橋なので、庶民はシンプルに大橋と呼んでいました。
1622年に2代藩主が、山内一豊墓所参りの便を図って架けます。 -
現在の幹線は、もう一つ下流の潮江橋。路面電車も走る橋で、桂浜などに通じます。
潮江橋 名所・史跡
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筆山公園
天神橋の南詰に面します。山内家代々の墓があります。現在は工事中で、入れません。元々は本山氏配下の潮江城で、長曾我部元親が初陣の際、戸の本の戦いの勢いで、潮江城も攻略した歴史スポットです。筆山公園 公園・植物園
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山内家墓所の麓には、山内家の菩提寺である真如寺が。
真如寺 寺・神社・教会
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潮江天満宮
実は、道真の長男が流されたのが土佐で、道真の遺品を運んだ白太夫も重要視されています。藩が社殿を造営するなど、庇護を受けます。天神橋の名前の由来となったスポット。潮江天満宮 寺・神社・教会
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思案橋番所跡
城下町を流れる水路の三叉路に位置し、西側を守ります。石碑等は一切ありません。思案橋も、注意しないと見過ごします。近似スポットを位置情報に入れました。現地での目印は、コンビニ(ファミマ)です。城下町の外ということで、雁切河原は梟首(きょうしゅ さらし首のこと)場で、岡田以蔵などの首がさらされました。きたじ グルメ・レストラン
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城下の開発
新町が1636年までに城下町に編入されたのに対し、上町は1660年代にようやく編入されました。新町の東側は湿地でしたが、干拓や水路整備で町人主導による新田開発が行われました。
お城の北側は、城下四か村と呼ばれ、行政上は農村でしたが、城下町に準ずる扱いを受けました。 -
城下町には東西に街道が走り、はりまや橋で北へ折れました。現在は路面電車も通ります。高知県庁前には、6つの国道が交わる地点であることを示す六角形の石碑が。
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上町
北から北奉公人町、本丁筋、水通町、通町、南奉公人町の順に並び、街道筋の本丁筋以外は、1649年に野中兼山が通りを整備し、城下に編入されます。坂本龍馬生家や本家の才谷屋が位置するように、下士や町人が住むエリアでした。 -
築屋敷
1704年に町人が築いた石垣の堤防。鏡川の河川敷エリアを開発するために敷設。これにより築屋敷が誕生し、上町に編入されました。 -
堤防には写真のような境界石が建てられ、12の区画(水丁場)に区切られます。各区画を担当する住民が、水位を監視していました。有事は家老の指揮下で、身分に関係なく土嚢を積みました。
水丁場 名所・史跡
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堤防の内側(築屋敷)
堤防の高さを感じていただけるでしょうか? -
廊中
上士が住まうエリア。というわけで、板垣退助生家があります。
明治に真言宗のお寺になります。板垣退助誕生地 記念碑 名所・史跡
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同じく、上士の後藤象二郎生家もあります。現在は教会施設。
幼馴染の板垣曰く、後藤はビビりで、ちょっとの地震でも大騒ぎ。蛇も大嫌いなシティボーイでした。後藤象二郎誕生地碑 名所・史跡
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下町
町人町です。中心部は京町。京都から来た井筒屋宗泉が呉服店を開いたのが発祥。現在も大丸を中心とした、一大ショッピング地区です。 -
交通の十字路はりまや橋もあります。
はりまや橋 名所・史跡
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写真集
昔は、全体的に慎ましい橋です。
元々堀を挟んで建つ播磨屋と櫃屋を結ぶ私設橋でした。
世間では、某時計台/オラ●ダ坂と並ぶ、三大がっかり名所の一つとされます。 -
実は、地元で有名な悲哀話のスポット。
よさこい節の冒頭は、土佐の高知のはりまや橋で坊さんかんざし買うを見た。です。
髪の毛のない坊主が、かんざしを買うなんて変な話(笑)という滑稽さを感じさせます。 -
竹林寺の住職純信(37歳)と、洗濯女として出入りしていたお馬(17歳)は惹かれ合った。それを見て焦った若い修行僧はお馬の気を引くために、はりまや橋沿いの橘屋でサンゴのかんざしを買い、プレゼントするが受け取ってもらえない。嫉妬に狂って、純信がかんざしを買ってお馬にプレゼントしたと言いふらし、噂が広まります。2人は駆け落ちを決行するも捕まり、恥をさらされます。
今も、はりまや橋周辺は、サンゴを扱うお店が多いです。
※小乗仏教は言うまでもなく、浄土真宗以外の大乗仏教は、妻帯を禁じています。明治期の迫害で寺を継ぐ者が不足したために、妻帯で子孫を宿し、寺を継ぐ形が一般化しました。 -
おまけ
近所には、がっかりスポットを謝罪するモニュメントも。
今の時代、謝罪を怠ると炎上しますからね、、、 -
良く見ると、文字がただれていてホラー。
魚の棚商店街 (高知市) 市場・商店街
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はりまやBT前のよさこい節像も、光の具合ではホラー。
はりまや橋観光バスターミナル 乗り物
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鏡川河口部は、板垣スポット。
1882年に岐阜での遭難、欧州視察が重なり、翌年に帰国。
まるで凱旋パレードのように、鏡川周辺に民衆の大歓迎を受けます。板垣退助帰朝記念碑 名所・史跡
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鏡川河口(当時)に浮かぶ丸山台。
台場跡ではなく、明治期に此君亭という料亭がありました。船のみのアクセスで、板垣もひいきにしました。1946年の南海地震で、島の半分以上が水没。 -
自宅も鏡川沿い。
戊辰戦争では会津会戦の軍功者ですが、会津藩士の命乞いに奔走するなど、常に弱者の味方でした。相撲好きとしても知られ、自宅には土俵もありました。上士の出とはいえ、質実剛健が家風だった点も影響しているかと思われます。
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https://4travel.jp/travelogue/11840658板垣退助旧邸跡碑 名所・史跡
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