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桑名市住吉町の住吉神社。<br />風の吹きすさぶ揖斐川堤を2~3分程下流に進む、右側に大きな鳥居と櫓が見えてくればそこが七里の渡し跡。

七里の渡し跡と蟠龍櫓

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2022/12/14 - 2022/12/14

843位(同エリア965件中)

旅行記グループ 桑名・鳥羽・磯部町

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wabisabi2さん

桑名市住吉町の住吉神社。
風の吹きすさぶ揖斐川堤を2~3分程下流に進む、右側に大きな鳥居と櫓が見えてくればそこが七里の渡し跡。

旅行の満足度
2.5
観光
2.5
交通
2.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
私鉄 徒歩
  • 桑名市住吉町の住吉神社。<br />風の吹きすさぶ揖斐川堤を2~3分程下流に進む、右側に大きな鳥居と櫓が見えてくればそこが七里の渡し跡。<br /><br />昔は東海道41番目の宮宿から七里の渡しを利用し、海路で伊勢に向かうと最初に上陸するのが桑名の七里の渡し跡。<br />海が荒れ、渡れない時には陸路佐屋街道を歩いて42番目の桑名宿へ向かう手もあるが、自分なら安宿でちびちび飲んだくれ渡れる時を待つんだろう。<br /><br />広重が描いた絵にも伊勢国一之鳥居とも呼ばれた大きな神明鳥居が描かれ、正に伊勢路の玄関口としてのランドマーク的存在。<br />天明年間(1781~1789)に建てられたこの鳥居、お伊勢さんの遷宮に合わせ、宇治橋の鳥居を移築し建替られていたという。<br /><br />帆を大きく膨らませた舟は続々とこの地を目指し、桑名宿は人や物が集まる物流の拠点として賑わいを見せた。<br />

    桑名市住吉町の住吉神社。
    風の吹きすさぶ揖斐川堤を2~3分程下流に進む、右側に大きな鳥居と櫓が見えてくればそこが七里の渡し跡。

    昔は東海道41番目の宮宿から七里の渡しを利用し、海路で伊勢に向かうと最初に上陸するのが桑名の七里の渡し跡。
    海が荒れ、渡れない時には陸路佐屋街道を歩いて42番目の桑名宿へ向かう手もあるが、自分なら安宿でちびちび飲んだくれ渡れる時を待つんだろう。

    広重が描いた絵にも伊勢国一之鳥居とも呼ばれた大きな神明鳥居が描かれ、正に伊勢路の玄関口としてのランドマーク的存在。
    天明年間(1781~1789)に建てられたこの鳥居、お伊勢さんの遷宮に合わせ、宇治橋の鳥居を移築し建替られていたという。

    帆を大きく膨らませた舟は続々とこの地を目指し、桑名宿は人や物が集まる物流の拠点として賑わいを見せた。

  • 七里の渡し跡全景。<br />後方に見えている櫓は蟠龍櫓と呼ばれ、七里の渡しに入る船の監視する建物。<br />現在の櫓は平成15年(2003)に水門の管理棟として往時の外観を再現した水門統合管理所として一般に公開されています。

    七里の渡し跡全景。
    後方に見えている櫓は蟠龍櫓と呼ばれ、七里の渡しに入る船の監視する建物。
    現在の櫓は平成15年(2003)に水門の管理棟として往時の外観を再現した水門統合管理所として一般に公開されています。

  • 渡し跡に建つ鳥居と常夜灯。

    渡し跡に建つ鳥居と常夜灯。

  • 渡しの内側。<br />広い空間は伊勢の入国管理や渡航料の徴収など行われたのだろう。

    渡しの内側。
    広い空間は伊勢の入国管理や渡航料の徴収など行われたのだろう。

  • 水門でしっかり護られた現在の渡しから蟠龍櫓(水門統合管理所)の眺め。<br />この堤の先は揖斐川が流れています。

    水門でしっかり護られた現在の渡しから蟠龍櫓(水門統合管理所)の眺め。
    この堤の先は揖斐川が流れています。

  • 渡し跡の解説板。<br />ここには伊勢参宮名所図会の挿絵と渡しの説明が書かれている。<br />渡し周辺には舟番所や高札場、脇本陣や問屋、宿など連なり賑わっていた様子が描かれています。<br />渡しで繋がれた東海道はここから再び陸路となり南に伸びていきます。

    渡し跡の解説板。
    ここには伊勢参宮名所図会の挿絵と渡しの説明が書かれている。
    渡し周辺には舟番所や高札場、脇本陣や問屋、宿など連なり賑わっていた様子が描かれています。
    渡しで繋がれた東海道はここから再び陸路となり南に伸びていきます。

  • 渡し跡に建つ一基の常夜灯。<br />竿には安政3年(1856)と刻まれています。<br />本来の常夜灯は天保4年(1833)寄進のものが建っていたそうです、しかし伊勢湾台風で倒壊し、代替として多度大社から上部のみ移されたものがこの常夜灯。<br />二基一対とは限らないが、ひょっとすれば多度大社に一基だけの常夜灯があるやもしれない。

    渡し跡に建つ一基の常夜灯。
    竿には安政3年(1856)と刻まれています。
    本来の常夜灯は天保4年(1833)寄進のものが建っていたそうです、しかし伊勢湾台風で倒壊し、代替として多度大社から上部のみ移されたものがこの常夜灯。
    二基一対とは限らないが、ひょっとすれば多度大社に一基だけの常夜灯があるやもしれない。

  • 渡し跡の西に東海道の道標。<br />ここから東海道が直角に曲がり、矢印の先は蟠龍櫓、西に進むと宿場へ続く。

    渡し跡の西に東海道の道標。
    ここから東海道が直角に曲がり、矢印の先は蟠龍櫓、西に進むと宿場へ続く。

  • 渡し跡の西に東海道の道標があり、ここから東海道が直角に曲がり、矢印の先は蟠龍櫓、西に進むと宿場へ続く。<br />今日のように風が吹きすさぶ日に舟は出たのだろうか?<br />宿で蛤を肴に一杯やるのが一番かも。<br />

    渡し跡の西に東海道の道標があり、ここから東海道が直角に曲がり、矢印の先は蟠龍櫓、西に進むと宿場へ続く。
    今日のように風が吹きすさぶ日に舟は出たのだろうか?
    宿で蛤を肴に一杯やるのが一番かも。

  • 七里の渡し跡と蟠龍櫓(水門統合管理所)<br />現在の建物は、2003年に水門統合管理棟として建てられたもの。<br />

    七里の渡し跡と蟠龍櫓(水門統合管理所)
    現在の建物は、2003年に水門統合管理棟として建てられたもの。

  • 蟠龍櫓は一階はポンプ場管理施設、2階は展望室になっています。<br />慶長6年(1601)本多忠勝は桑名藩入封直後、揖斐川沿いのこの地に城郭の建造を始め、船着場の整備や4層6階の天守をはじめ、こうした櫓を51基、46基の多聞を立て整備したとされます。<br />この蟠龍櫓の建設時期は定かではないそうですが、元禄期の大火後、再建された櫓の中に、蟠龍櫓が含まれていたとされます。

    蟠龍櫓は一階はポンプ場管理施設、2階は展望室になっています。
    慶長6年(1601)本多忠勝は桑名藩入封直後、揖斐川沿いのこの地に城郭の建造を始め、船着場の整備や4層6階の天守をはじめ、こうした櫓を51基、46基の多聞を立て整備したとされます。
    この蟠龍櫓の建設時期は定かではないそうですが、元禄期の大火後、再建された櫓の中に、蟠龍櫓が含まれていたとされます。

  • 二階展示室。<br />展示物の龍は古来より日本では水を司り、中国では寺院や廟の装飾としても用いられています。<br />蟠龍と呼ばれるこの龍は、天に昇る前のうずくまった状態の龍を指すようです。<br />この龍は七里の渡しの守護神として、蟠龍櫓に据えられ航海の安全を守護していたとされます。

    二階展示室。
    展示物の龍は古来より日本では水を司り、中国では寺院や廟の装飾としても用いられています。
    蟠龍と呼ばれるこの龍は、天に昇る前のうずくまった状態の龍を指すようです。
    この龍は七里の渡しの守護神として、蟠龍櫓に据えられ航海の安全を守護していたとされます。

  • 実際の龍。<br />一階の屋根の上から揖斐・長良を見据えています。

    実際の龍。
    一階の屋根の上から揖斐・長良を見据えています。

  • 展示スペースの桑名城見取り図。<br />蟠龍櫓は航海の安全だけではなく、戦略的にも監視にあたる重要な役割を持っていました。

    展示スペースの桑名城見取り図。
    蟠龍櫓は航海の安全だけではなく、戦略的にも監視にあたる重要な役割を持っていました。

  • 謂れは分からないけれど、蛤の貝殻を綺麗に装飾した人形が展示されていました。

    謂れは分からないけれど、蛤の貝殻を綺麗に装飾した人形が展示されていました。

  • 現在は三之丸公園として整備され、名の通り以前は桑名城の一画をなす、闘いの最前線として整備されていきました。<br />

    現在は三之丸公園として整備され、名の通り以前は桑名城の一画をなす、闘いの最前線として整備されていきました。

  • 一方で木曽三川の河口にあたるこの地は治水の歴史そのものでもあります。<br />宝暦治水解説は以下。<br />「木曽三川は、木曽・長良・揖斐川の順で河床が低くなっており、その川筋は輪中を取り囲んで網の目のようになって流れていた。<br />木曽川の洪水は、長良川、揖斐川を逆流し、氾濫を繰り 返していました。<br />徳川幕府による木曽川左岸の御囲堤の完成 (1609)により、美濃(現在の岐阜県)の水害がますます多くなりました。<br />その後、徳川幕府は宝暦3年(1753)、美濃郡代の伊沢弥惣兵衛為永が立てた木曽三川の分流計画をもとにした治水工事を薩摩藩(現在の鹿児島県)に命じました。<br />宝暦4年2月(1754)薩摩藩家老の平田靭負を総奉行として工事が始められ、油島締切、大樽川洗堰、逆川洗堰締切などの大工事(宝暦治水)を1年3ヵ月で完成しました。<br />しかし、平田靭負をはじめ80余名の病死、割腹者をだしました。<br />工事にかかった費用約40万両(当時の薩摩藩全収入の2年分以上)のうち、幕府の負担はわずか1万両で、薩摩藩は多くの借財を抱えることになりました。<br />宝暦治水では、三川の完全分流は出来ませんでしたが、近代治水工事の先駆けとなったものといえるでしょう。」<br />とあります、現在の様に鉄筋やコンクリートもない時代に木材や石材、砂利などで締切を作る作業は人と自然の闘いの場だったようです。<br />

    一方で木曽三川の河口にあたるこの地は治水の歴史そのものでもあります。
    宝暦治水解説は以下。
    「木曽三川は、木曽・長良・揖斐川の順で河床が低くなっており、その川筋は輪中を取り囲んで網の目のようになって流れていた。
    木曽川の洪水は、長良川、揖斐川を逆流し、氾濫を繰り 返していました。
    徳川幕府による木曽川左岸の御囲堤の完成 (1609)により、美濃(現在の岐阜県)の水害がますます多くなりました。
    その後、徳川幕府は宝暦3年(1753)、美濃郡代の伊沢弥惣兵衛為永が立てた木曽三川の分流計画をもとにした治水工事を薩摩藩(現在の鹿児島県)に命じました。
    宝暦4年2月(1754)薩摩藩家老の平田靭負を総奉行として工事が始められ、油島締切、大樽川洗堰、逆川洗堰締切などの大工事(宝暦治水)を1年3ヵ月で完成しました。
    しかし、平田靭負をはじめ80余名の病死、割腹者をだしました。
    工事にかかった費用約40万両(当時の薩摩藩全収入の2年分以上)のうち、幕府の負担はわずか1万両で、薩摩藩は多くの借財を抱えることになりました。
    宝暦治水では、三川の完全分流は出来ませんでしたが、近代治水工事の先駆けとなったものといえるでしょう。」
    とあります、現在の様に鉄筋やコンクリートもない時代に木材や石材、砂利などで締切を作る作業は人と自然の闘いの場だったようです。

  • 上は明治の改修。<br />「江戸時代には、宝暦治水をはじめ数々の工事が行われましたが、当時の財政、河川行政、河川技術では、木曽三川の完全な分流を行うことができませんでした。<br />明治時代になると鎖国がとかれ、外国の技術が次々と入ってくるようになりました。<br />明治政府は、すぐれた水工技術をもっていたオランダから10人の技師団を招き、河川・港湾事業を進めました。<br />オランダ技師団のひとりヨハニス・デ・レイケは木曽三川の流域を詳しく調査・測量し、改修計画を策定しました。<br />この計画をもとに明治20年(1887)、明治改修に着手。<br />明治24年(1891) の濃尾大震災や度重なる洪水などにより工事は難航しました。<br />政府は明治29年(1896)に河川法、同30年に砂防法、同33年には土地収用法を定め、工事の進捗を図った結果、着工から26年後の明治45年(1912) にすべての工事が完了しました。<br />この明治改修により、木曽三川の流れは大きく姿を変え、以後の流域の洪水被害は大幅に少 なくなりました。」とあります。<br />左のグラフが右に行くにつれ一気に減少しているのは、その成果の現れ。<br />三川分離で治水が出来て一安心、反面それまで舟で自由に行き来できた隣の川は「ちょっと待てぇ、河口まで行くんかい?」となる。<br />デ・レイケは木曽三川公園の船頭平河川公園にある船頭平閘門など手掛け、閘門は今も現役で動いています。<br /><br />下<br />伊勢湾台風以降の治水整備。<br />「明治改修以降も、洪水は数々の被害をもたらしました。<br />その中でとくに忘れられないのが昭和34年9月26日に上陸し、台風災害として最大の被害をもたらした伊勢湾台風です。<br />被害のほとんどが東海地方に集中し、愛知・岐阜・三重3県下で死者・行方不明者 4,637人、負傷者約6万5千人という大惨事になったのです。<br />被害の大きな原因は、高潮の発生でした。<br />当時の小さな堤防は次々と壊れ、村や町は泥の海にのみこまれてしまったのです。 水との闘いは台風が過ぎ去った後も長く続きました。<br />なぜなら、木曽三川下流部では、海面よりも低い土地が多かったため、なかなか水がひかず一般国道1号、当時の国鉄関西本線、近鉄名古屋線などの各交通機関もいたるところで分断されマヒ状態となりました。<br />衛生状態も悪くなり、赤痢患者も多数発生しました。<br />伊勢湾台風の教訓はその後、地下水利用制限などの地盤沈下対策や、高潮対策事業 にいかされ、堤防の高さや構造などが見直されました。」<br />

    上は明治の改修。
    「江戸時代には、宝暦治水をはじめ数々の工事が行われましたが、当時の財政、河川行政、河川技術では、木曽三川の完全な分流を行うことができませんでした。
    明治時代になると鎖国がとかれ、外国の技術が次々と入ってくるようになりました。
    明治政府は、すぐれた水工技術をもっていたオランダから10人の技師団を招き、河川・港湾事業を進めました。
    オランダ技師団のひとりヨハニス・デ・レイケは木曽三川の流域を詳しく調査・測量し、改修計画を策定しました。
    この計画をもとに明治20年(1887)、明治改修に着手。
    明治24年(1891) の濃尾大震災や度重なる洪水などにより工事は難航しました。
    政府は明治29年(1896)に河川法、同30年に砂防法、同33年には土地収用法を定め、工事の進捗を図った結果、着工から26年後の明治45年(1912) にすべての工事が完了しました。
    この明治改修により、木曽三川の流れは大きく姿を変え、以後の流域の洪水被害は大幅に少 なくなりました。」とあります。
    左のグラフが右に行くにつれ一気に減少しているのは、その成果の現れ。
    三川分離で治水が出来て一安心、反面それまで舟で自由に行き来できた隣の川は「ちょっと待てぇ、河口まで行くんかい?」となる。
    デ・レイケは木曽三川公園の船頭平河川公園にある船頭平閘門など手掛け、閘門は今も現役で動いています。


    伊勢湾台風以降の治水整備。
    「明治改修以降も、洪水は数々の被害をもたらしました。
    その中でとくに忘れられないのが昭和34年9月26日に上陸し、台風災害として最大の被害をもたらした伊勢湾台風です。
    被害のほとんどが東海地方に集中し、愛知・岐阜・三重3県下で死者・行方不明者 4,637人、負傷者約6万5千人という大惨事になったのです。
    被害の大きな原因は、高潮の発生でした。
    当時の小さな堤防は次々と壊れ、村や町は泥の海にのみこまれてしまったのです。 水との闘いは台風が過ぎ去った後も長く続きました。
    なぜなら、木曽三川下流部では、海面よりも低い土地が多かったため、なかなか水がひかず一般国道1号、当時の国鉄関西本線、近鉄名古屋線などの各交通機関もいたるところで分断されマヒ状態となりました。
    衛生状態も悪くなり、赤痢患者も多数発生しました。
    伊勢湾台風の教訓はその後、地下水利用制限などの地盤沈下対策や、高潮対策事業 にいかされ、堤防の高さや構造などが見直されました。」

  • 揖斐川の強靭な堤防から治水、利水目的の長良川河口堤の眺め。<br />時代は移り変われど、この地は今も自然と人の鬩ぎあいの場。<br />

    揖斐川の強靭な堤防から治水、利水目的の長良川河口堤の眺め。
    時代は移り変われど、この地は今も自然と人の鬩ぎあいの場。

  • 強靭な堤防と水門で仕切られた柿安コミュニティーパーク水路。<br />本多忠勝が整えた桑名城は今はなく、桑名は蟠龍とこの堤防に護られていると云ってもいいでしょう。<br />それでは本多忠勝公に逢いに行きます。<br /><br />所在地 / 桑名市船馬町<br />訪問日 / 2022/12/14<br />住吉神社から徒歩 / 揖斐川堤を下流に向け10分程

    強靭な堤防と水門で仕切られた柿安コミュニティーパーク水路。
    本多忠勝が整えた桑名城は今はなく、桑名は蟠龍とこの堤防に護られていると云ってもいいでしょう。
    それでは本多忠勝公に逢いに行きます。

    所在地 / 桑名市船馬町
    訪問日 / 2022/12/14
    住吉神社から徒歩 / 揖斐川堤を下流に向け10分程

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