2023/05/02 - 2023/05/02
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hijunoさん
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堺巡りの続きです。百舌鳥古墳群の中で、行きたかったところ、三つの古墳をめぐります。どの古墳も大きな前方後円墳、古代の権力者たちの様子がうかがえます。古墳も本来はもっとたくさんの数があったようですが、土地の開発などで失われていったものも多く、このいたすけ古墳も市民運動で保存された古墳の一つです。堺市立みはら歴史博物館では近くの黒姫山古墳から出土された甲冑がとてもリアルで、このみはら地区にはほかにも遺跡も多くて、百舌鳥古墳群からは少し離れた場所にはありますが、こちらでも古代は権力を持った人々が栄えた地域であったことがよくわかりました。また河内鋳物師の集団が居住していたところとしても知られています。そちらの展示もとても面白かったです。堺はまだまだほかにも見たいところが沢山、時間をみて、また回ってみたいと考えています。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
-
百舌鳥古墳群へ向かう途中、車の中からもちらり、古墳です。
あちこちに保存された古墳があります。 -
まずは、御廟山古墳から。
お堀もまるで大きな池のように、真ん中にんもりとした古墳、前方古墳です。 -
百舌鳥古墳群のひとつ、御廟山古墳。
お堀がとても広くて、池みたいです。5世紀の前半に造られた前方後円墳。百舌鳥陵墓参考地として被葬者が大15代の応神天皇とされているようです。
墳丘が3段にあったようで、陪塚も周囲に数基あったようです。墳丘の長さも200m以上ある大きな前方後円墳です。 -
車で回ったので、車をやっと止めて、この位置から観ました。
樹々が生い茂っていました。周りは水で囲まれています。 -
次はいたすけ古墳へ。
おなじく、車だととても不便。やっと停車して、写真をすばやく撮ります。
百舌鳥古墳群のほぼ、真ん中に位置する前方後円墳。
周りは一重の濠。
墳丘には埴輪や葺石があったそうです。 -
こちらの古墳も5世紀前半の築造。
陪塚もいくつかありましたが、消滅してしまったものもあります。 -
こちらの古墳は昭和30年ごろに工事によって破壊の危機がありましたが、市民の保存運動によって守られ、その後国指定史跡になっています。
出土した冑形の埴輪は実物を忠実に模したものとして有名です。
堺市博物館でも展示されていました。
土地開発もとても大切なことですが、古墳が次々と消滅していき、発掘調査も遺跡が無くなってしまう前に急いで行う、、、ということも以前はよくあったのですが、今もそうなんでしょうか~。 -
ニサンザイ古墳。
こちらも全長が300m、全国7番目の大きな前方後円墳です。
5世紀後半の築造といわれています。 -
ニサンザイという言葉は、陵から来ているといわれています。
濠にかけられた橋の一部が見つかっています。
反省天皇陵とも言い伝えがあります。 -
こちらの古墳は特に、美しい形が残っているそうです。
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周囲も散歩ができる道ができていて、公園のように整っていました。
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続いて、堺市立みはら歴史博物館へ。
百舌鳥古墳群より少し離れています。 -
外に美しい鐘がありました。
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このみはら地区では河内鋳物師の発祥の地といわれています。
鋳物の歴史がある土地。
記念して、後にこの鐘を造ったそうです。 -
中は撮影禁止の物を除いて、撮影可。
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とても広い建物です。
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民俗的な資料も入口付近にあり。
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三原の歴史をパネルで説明。
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とてもわかりやすく、時代ごとに説明がありました。
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主にテーマが二つ。
一つは黒姫山古墳について。
もう一つは河内鋳物師について。
最初に黒姫山古墳から。
黒姫山古墳は百舌鳥古墳群と古市古墳群とのほぼ、真ん中に位置する古墳。
5世紀中期ころに造られた前方後円墳です。 -
出土した形象埴輪。
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こちらがその写真。
墳丘の長さはおよそ114m。
この地方を治めていた豪族 丹比氏(たじひし)の墓と考えられています。 -
葺石を敷き詰める様子が模型で表されていました。
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みはら地区にある黒姫山古墳、ちょうど、百舌鳥古墳群と古市古墳群の間にあることがわかります。
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黒姫山古墳の近くにも小さな古墳6基ほどかあったようで、このさばやま古墳もひとつ。埴輪などが出土しています。
これらの古墳、今は墳丘を残すものはないそうです。 -
出土した埴輪、円筒埴輪などの数々。
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黒姫山古墳の埴輪について詳しい説明がありました。
多くの埴輪などが出土しています。 -
穴は透かし孔。
築造当時、墳丘上段に360本の円筒埴輪、約42本の蓋つき埴輪、下段にも約660本の円筒埴輪が使用されていたと、パンフレットにありました
左のほうの形、ゆき型埴輪といわれるもの。
矢を入れて持ち歩く容器のことだそうです。 -
当時は祭祀などにも使われていたのでしょうか。
意匠を凝らした埴輪がたくさん。 -
この地を治めていたといわれる丹比氏についての説明。
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おなじくみはら地区にある、遺跡から出土したもの。
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とてもリアルだと思うのがこちらの甲冑の展示。
パンフレットにもありましたが、当時の甲冑とは武器のみならず、政治的軍事的な地位を象徴するものであったとのこと。 -
黒姫山より出土した甲冑。
甲冑が様々な形で48個ほど、付属具や武器なども出土。
古墳一基に服装された甲冑の量は全国最多だそうです。
鉄製の武器などはとても重そうですけれど、実際にこのようなものを使って戦いが繰り広げられていたのかと。。 -
短冑とよばれるもの。
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短甲はこのような三角形のものや長方形のものをつなぎ合わせて造るそうですが、大陸からの技術です。
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鉄ていとよばれるもの。
これを使って、黒姫山古墳で出土された甲冑は甲を造っていたようです。
他の地域では皮綴じで製造していた甲ですが、黒姫山古墳は鉄版技術が発達していたことを示しています。 -
全国の甲冑の出土の様子や、
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甲冑の特徴や出土状況などが詳しくパネルで紹介されていました。
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甲冑が体を傷つけないように、鹿の皮を使って直接甲冑が触れないようにしていたといいますが、皮紐を使ってお洒落な風にも仕上げていたようです。
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甲冑の変遷。微妙に変化していきます。
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武人の再現をしたものがありました。
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後の甲冑、挂甲も出てきます。
黒姫山の時代よりも後の時代。
馬に乗る場合、乗りやすい甲冑のようです。6世紀前半ごろのもので、継体天皇陵と考えられる古墳で出土しています。どんどん武具は発達していきます。
甲冑もどんどん技術も発達していきますね。 -
イチオシ
黒姫山出土の甲冑もよくみると、工夫が凝らしてあって、それぞれに特徴もあり、古代人の美意識みたいなものも感じます。
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次に、河内鋳物師のコーナーの部屋に入ります。
平安時代から鎌倉時代にかけて河内鋳物師の集団が活躍していました。
鍋や釜などの生活用具を造って都で売り歩いた「土鋳物師」と全国の寺社や梵鐘などの大型のものを注文主のところまで出向く「廻船鋳物師」がいたそうです。 -
まず、部屋に入ると、当時の鋳造の場所が発掘され、そのまま展示されています。
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梵鐘の鋳造土坑など。工房の様子。
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河内鋳物師の歴史。
7世紀後半にはもう活動を初めています。 -
鎌倉時代のころの居住の様子。
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説明にもありますが、研磨剤に使われたムクの樹が植えられたいたようです。
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河内鋳物師たちが造ったものなど。
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梵鐘や湯釜などの型。
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梵鐘を造る際の説明。
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河内鋳物師の居住地である余部日置荘遺跡の説明。
高級な鍋屋かまなども生産し、都で売り歩いていたそうです。 -
技術の変遷など。
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ちょっとピンボケでよく見えないのですが、梵鐘などの鋳造も行っています。
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梵鐘の説明。
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河内鋳物師の歴史や廃寺などから出土した瓦など。
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東大寺大仏の再建のためには、多くの人々が関わっています。
中国からの鋳物師とともに、河内鋳物師の草部一族14名も関わり、大仏は再建されています。
河内鋳物師のプロ集団が活躍していた時代を知ることができました。 -
外の廊下にもパネルがあって、わかりやすい説明でした。
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お昼が遅くなりました。
お腹ペコペコ。
夫は暑いなかでも、熱いラーメンを。 -
わたしは、今年初の冷やし中華を食べて帰りました。
夏がきますね~。
最後までお読みいただいて、ありがとうざいます。(^^)
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