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とても久々に大阪城へ行きました。お城と桜はなんとも美しかったのですが、人出も多く、天守閣も大行列でしたので、あきらめました。大阪城の歴史についても、つくづく、波乱万丈のお城だったと感じます。お城はもともと戦いの場所にもなるのが当たり前とはいえ、大阪夏の陣で豊臣氏が滅び、また近年では第二次世界大戦の際に大阪城が利用され、また被害をうけていたこと、戦前は軍の施設として、戦後もGHQに接収され、大阪城の歴史が深いです。天守閣は次回にリベンジです。またその近くに細川ガラシャ最期の地といわれる、越中井があります。細川家の屋敷跡に井戸だけが残っていたそうで、それを再現した場所です。さらに近くに大村益次郎の殉難の碑や寓居跡があります。<br />大村益次郎は京都で命を狙われ、負傷し、治療しますが、その甲斐もなく、今の国立大阪病院あたりにあった病院で亡くなります。<br />短く数奇な濃厚な人生だったとおもいます。<br />

おおさかさんぽ  波乱万丈のお城 大阪城~細川ガラシャ最期の地~大村益次郎遭難の碑と寓居跡

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2023/03/26 - 2023/03/26

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Reise

Reiseさん

とても久々に大阪城へ行きました。お城と桜はなんとも美しかったのですが、人出も多く、天守閣も大行列でしたので、あきらめました。大阪城の歴史についても、つくづく、波乱万丈のお城だったと感じます。お城はもともと戦いの場所にもなるのが当たり前とはいえ、大阪夏の陣で豊臣氏が滅び、また近年では第二次世界大戦の際に大阪城が利用され、また被害をうけていたこと、戦前は軍の施設として、戦後もGHQに接収され、大阪城の歴史が深いです。天守閣は次回にリベンジです。またその近くに細川ガラシャ最期の地といわれる、越中井があります。細川家の屋敷跡に井戸だけが残っていたそうで、それを再現した場所です。さらに近くに大村益次郎の殉難の碑や寓居跡があります。
大村益次郎は京都で命を狙われ、負傷し、治療しますが、その甲斐もなく、今の国立大阪病院あたりにあった病院で亡くなります。
短く数奇な濃厚な人生だったとおもいます。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
乳幼児連れ家族旅行
交通手段
自家用車 徒歩

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  • 美しいお堀と桜満開。<br /><br />予想していましたが、やはり、日曜日でもあり、人が多い、にぎわっています。

    美しいお堀と桜満開。

    予想していましたが、やはり、日曜日でもあり、人が多い、にぎわっています。

  • ピンクがずらり。

    ピンクがずらり。

  • お城に来たのは久しぶり。それこそ何十年ぶりです。<br /><br />今風のイベントもたくさん。楽しそう。

    お城に来たのは久しぶり。それこそ何十年ぶりです。

    今風のイベントもたくさん。楽しそう。

  • 土日限定の見学場所もあるんですね。<br />だからこんなに混んでいるんだ。。

    土日限定の見学場所もあるんですね。
    だからこんなに混んでいるんだ。。

  • 広いお城の敷地。<br />どこから回ろうかと考えています。<br /><br />

    広いお城の敷地。
    どこから回ろうかと考えています。

  • お城の堀を渡って、

    お城の堀を渡って、

  • 大手門から入ります。

    大手門から入ります。

  • 内側からみたところ。<br />桜がなんとも美しい~。

    内側からみたところ。
    桜がなんとも美しい~。

  • 大阪城といえば、巨石の石垣が有名。

    大阪城といえば、巨石の石垣が有名。

  • 説明書きにもありますが、敵の侵入を防ぐ目的でもあった巨大な桝形の石。<br /><br />徳川の時代に再建されたときに、命により藩主より差し出されたもの。<br />

    説明書きにもありますが、敵の侵入を防ぐ目的でもあった巨大な桝形の石。

    徳川の時代に再建されたときに、命により藩主より差し出されたもの。

  • 桜がみごとにあちこちに。

    桜がみごとにあちこちに。

  • 巨大な石をみごとに組み立てて、

    巨大な石をみごとに組み立てて、

  • もう一度、門の周りの巨石をみます。

    もう一度、門の周りの巨石をみます。

  • 枝垂れ桜もみごと。<br />あちこちで、皆が記念撮影をしています。

    イチオシ

    枝垂れ桜もみごと。
    あちこちで、皆が記念撮影をしています。

  • 堅固な石垣です。<br />多くの大名たちの協力があって、石も確保できたはず。

    堅固な石垣です。
    多くの大名たちの協力があって、石も確保できたはず。

  • 石を切り崩すときにできた、くさびを入れたものも。

    石を切り崩すときにできた、くさびを入れたものも。

  • 南仕切り門跡、太鼓楼跡。<br /><br />ここにも巨石。<br />ぴったりと隙間なく積まれた巨石たちに驚きです。

    南仕切り門跡、太鼓楼跡。

    ここにも巨石。
    ぴったりと隙間なく積まれた巨石たちに驚きです。

  • 天守閣のほうへ歩きます。

    天守閣のほうへ歩きます。

  • 堀も大きいです。<br />なかなか天守閣のほうへたどり着けません。<br />広い。

    堀も大きいです。
    なかなか天守閣のほうへたどり着けません。
    広い。

  • やっと天守閣へ渡る橋へ来ました。

    やっと天守閣へ渡る橋へ来ました。

  • 水はありませんでした。<br />古い石垣です。<br />刻印もあるかな。。

    水はありませんでした。
    古い石垣です。
    刻印もあるかな。。

  • やっと天守閣が見えてきました。

    やっと天守閣が見えてきました。

  • 門のそばに会った井戸。<br /><br />

    門のそばに会った井戸。

  • 説明板があります。<br /><br />5つの井戸のうちのひとつ。<br />金、銀と水の性質で名前が付けられていたのですね。<br /><br />役人の水を飲む場所でもあり、第二次世界大戦の際の軍も利用したとのこと。<br />

    説明板があります。

    5つの井戸のうちのひとつ。
    金、銀と水の性質で名前が付けられていたのですね。

    役人の水を飲む場所でもあり、第二次世界大戦の際の軍も利用したとのこと。

  • 桜門をくぐります。<br />

    桜門をくぐります。

  • こちらも桜がさかり。

    イチオシ

    こちらも桜がさかり。

  • 説明板。<br /><br />徳川の時代にできた桜門。<br />当時から桜が美しかったでしょう~。

    説明板。

    徳川の時代にできた桜門。
    当時から桜が美しかったでしょう~。

  • こちらにも巨石が。<br /><br />説明板によると、右のほうの巨石は雨が降ると龍が、左のほうは、虎が見えるといわれています。

    こちらにも巨石が。

    説明板によると、右のほうの巨石は雨が降ると龍が、左のほうは、虎が見えるといわれています。

  • 天守閣です。<br />天守は1931年に文献などをもとに復元されたもの。<br /><br />1583年から、豊臣秀吉が築城した大阪城ですが、1615年の大阪夏の陣で焼失、今は埋没しています。現在の大阪城の遺構は徳川秀忠の時代に1620年から築城したものです。<br /><br />豊臣の時代、徳川の時代を経て、江戸の末期には徳川慶喜が大阪城にも居城し、幕末の混乱期にはお城の建物が消失するなどの被害設けています。<br />第二次世界大戦の際に大阪大空襲でも大阪城は被害を受けていることと、戦後は城内の軍用地は占領軍に接収されたこと、、、<br />お城のめまぐるしい時代の変遷に同情すら感じてしまいます。<br /><br /><br />

    イチオシ

    天守閣です。
    天守は1931年に文献などをもとに復元されたもの。

    1583年から、豊臣秀吉が築城した大阪城ですが、1615年の大阪夏の陣で焼失、今は埋没しています。現在の大阪城の遺構は徳川秀忠の時代に1620年から築城したものです。

    豊臣の時代、徳川の時代を経て、江戸の末期には徳川慶喜が大阪城にも居城し、幕末の混乱期にはお城の建物が消失するなどの被害設けています。
    第二次世界大戦の際に大阪大空襲でも大阪城は被害を受けていることと、戦後は城内の軍用地は占領軍に接収されたこと、、、
    お城のめまぐるしい時代の変遷に同情すら感じてしまいます。


  • 「太閤はんのお城」と、昔から祖父母たちも呼んでいました。<br />大阪の象徴みたいな場所でした。<br />今のアベノハルカスのような。。。<br /><br />子供のころ、何回か訪れていますけれど、そんな激動の時代を経てきたお城という印象もありませんでした。<br /><br /><br /><br />

    「太閤はんのお城」と、昔から祖父母たちも呼んでいました。
    大阪の象徴みたいな場所でした。
    今のアベノハルカスのような。。。

    子供のころ、何回か訪れていますけれど、そんな激動の時代を経てきたお城という印象もありませんでした。



  • 仕切り門のあったあたり。

    仕切り門のあったあたり。

  • それにしても、巨石は一体どのくらい使われているのだろう~。

    それにしても、巨石は一体どのくらい使われているのだろう~。

  • お城の裏側。<br /><br />実は、大阪歴史博物館で天守閣とのセットのチケットを買いましたが、<br />天守閣への大行列を見て、あきらめました。<br /><br />込み具合をあらかじめ確認しておいて、チケットも買えばよかった~。<br /><br />

    お城の裏側。

    実は、大阪歴史博物館で天守閣とのセットのチケットを買いましたが、
    天守閣への大行列を見て、あきらめました。

    込み具合をあらかじめ確認しておいて、チケットも買えばよかった~。

  • お城裏側を歩いていて見つけた戦争の被害のあと。

    お城裏側を歩いていて見つけた戦争の被害のあと。

  • 説明板もあります。<br /><br />強固な石垣、あまり被害は受けなかったようです。<br />それでも、のちに修復。

    説明板もあります。

    強固な石垣、あまり被害は受けなかったようです。
    それでも、のちに修復。

  • 近くにお社がありました。<br />糒櫓のあと。<br /><br />説明板です。

    近くにお社がありました。
    糒櫓のあと。

    説明板です。

  • お社があります。<br /><br />説明板にもありますが、このあたりに松があり、「豊臣秀頼の生害の松」といわれていたそうです。<br /><br />秀頼は淀殿らと、城内で自害したといわれて、その場所が今も特定されてあるそうです。

    お社があります。

    説明板にもありますが、このあたりに松があり、「豊臣秀頼の生害の松」といわれていたそうです。

    秀頼は淀殿らと、城内で自害したといわれて、その場所が今も特定されてあるそうです。

  • 小さなお地蔵さんたちと、桜。

    小さなお地蔵さんたちと、桜。

  • もうこのあたりもすでに高い場所。

    もうこのあたりもすでに高い場所。

  • 桜があちこちに。<br /><br />遠くまで見渡せます。

    桜があちこちに。

    遠くまで見渡せます。

  • 月見櫓のあったあたり。

    月見櫓のあったあたり。

  • 説明板。<br /><br />明治維新のころに消失したそうですが、かつてはここから月見もしたそう。<br /><br />

    説明板。

    明治維新のころに消失したそうですが、かつてはここから月見もしたそう。

  • 枝垂れ桜、、、何と可憐な、、、。

    イチオシ

    枝垂れ桜、、、何と可憐な、、、。

  • こちらは、旧大四師団司令部庁舎だったところ。<br />お城のそばに。<br /><br /><br />

    こちらは、旧大四師団司令部庁舎だったところ。
    お城のそばに。


  • 中ではコナンのイベントをしていました。

    中ではコナンのイベントをしていました。

  • お昼を買います。

    お昼を買います。

  • 市多聞の跡あたりで休憩。<br /><br />ここも維新の混乱期に焼失してしまったそうです。<br /><br />天守閣には登れませんでしたが、お城の周りをぐるり一周。<br />次回にリベンジです。<br /><br />

    市多聞の跡あたりで休憩。

    ここも維新の混乱期に焼失してしまったそうです。

    天守閣には登れませんでしたが、お城の周りをぐるり一周。
    次回にリベンジです。

  • 城内には、タイムカプセルもありました。<br />説明によると、2000年の樹木の種子を植えたら、みごとに育っているそうです。(吹田の万博会場跡)<br />

    城内には、タイムカプセルもありました。
    説明によると、2000年の樹木の種子を植えたら、みごとに育っているそうです。(吹田の万博会場跡)

  • 次に越中井に向かいます。<br /><br />細川ガラシャの最期の地。<br />大阪城、難波宮からも近いです。<br /><br /><br />難波宮から歩いて、坂道を下って、

    次に越中井に向かいます。

    細川ガラシャの最期の地。
    大阪城、難波宮からも近いです。


    難波宮から歩いて、坂道を下って、

  • 細川ガラシャが石田三成の人質になることを拒み、この地で命を落とします。<br />細川家の屋敷跡には井戸が残っていたそうです。<br />こちらの井戸はのちに、再建されたと聞きました。

    イチオシ

    細川ガラシャが石田三成の人質になることを拒み、この地で命を落とします。
    細川家の屋敷跡には井戸が残っていたそうです。
    こちらの井戸はのちに、再建されたと聞きました。

  • 説明板。

    説明板。

  • 地蔵尊。

    地蔵尊。

  • 石碑もあります。

    石碑もあります。

  • 辞世の句もありました。

    辞世の句もありました。

  • 屋敷に残っていたとされる井戸は後に、再現されました。<br />越中井と呼ばれる所以はこの井戸が残っていたからです。<br />台所だった場所。

    屋敷に残っていたとされる井戸は後に、再現されました。
    越中井と呼ばれる所以はこの井戸が残っていたからです。
    台所だった場所。

  • 近くに、細川家の跡のわかる石碑もありました。

    近くに、細川家の跡のわかる石碑もありました。

  • 今は静かで、桜の花が華やかでした。<br /><br />近くの教会には細川ガラシャとキリスタン大名で有名な高山右近の像があるそうです。

    今は静かで、桜の花が華やかでした。

    近くの教会には細川ガラシャとキリスタン大名で有名な高山右近の像があるそうです。

  • さらに、近くに大村益次郎殉難の碑があります。<br /><br />大村益次郎は戊辰戦争でも活躍、近代の陸軍兵制に尽力しますが、<br />不平士族などより襲われ、京都で重傷を負います。<br />今の国立大阪病院あたりの病院で右脚を切断する手術を受けますが、手遅れとなり、敗血症にて亡くなります。<br /><br />切断された右脚は本人の希望で、師の緒方洪庵のお墓の横に。<br /><br /><br />

    イチオシ

    さらに、近くに大村益次郎殉難の碑があります。

    大村益次郎は戊辰戦争でも活躍、近代の陸軍兵制に尽力しますが、
    不平士族などより襲われ、京都で重傷を負います。
    今の国立大阪病院あたりの病院で右脚を切断する手術を受けますが、手遅れとなり、敗血症にて亡くなります。

    切断された右脚は本人の希望で、師の緒方洪庵のお墓の横に。


  • 大きな石碑です。

    大きな石碑です。

  • 火吹き達磨と呼ばれた大村益次郎の像があります。

    イチオシ

    火吹き達磨と呼ばれた大村益次郎の像があります。

  • 良く読めませんでしたが、碑文もあります。

    良く読めませんでしたが、碑文もあります。

  • 発起人の名前がずらり。

    発起人の名前がずらり。

  • 松岡洋右や松下幸之助の名前も見られます。

    松岡洋右や松下幸之助の名前も見られます。

  • 次に向かったのが、さらに近くにあった大村益次郎寓地址の石碑へ。<br /><br />

    次に向かったのが、さらに近くにあった大村益次郎寓地址の石碑へ。

  • 緒方洪庵の適塾で学んでいた大村益次郎がこの地にあった屋敷に住んでいたそうです。

    緒方洪庵の適塾で学んでいた大村益次郎がこの地にあった屋敷に住んでいたそうです。

  • ビルの片隅にひっそりと建っています。<br />なかなか見つけられませんでした。<br /><br />大村益次郎は私が尊敬する人物の一人で、数年前に山口の大村益次郎の記念館やお墓、出生の場所などを訪ねたことがありますが、また行きたくなりました。<br /><br />医師であり、蘭学を学び、その後近代兵制樹立に尽力した人物、、、<br />その数奇な運命と短い時間に登場して、あっという間に世を去ってしまった人物、、、。<br />短い一生でしたけれど、彼の才能を引き出した人々にこたえるべく、懸命に目の前の仕事に埋没したことをおもいます。<br /><br />司馬遼太郎の小説、中国語で「花神」は、はなさかじいさんの意味ですけれど、まさにそんな瞬く間の人であったとあらためて感じました。<br />幕末の動乱期から明治の初めにかけて、どれだけのはなさかじいさん的な人が多かったことでしょう~。<br /><br /><br />さいごまでお読みいただいて、ありがとうございます。^^<br /><br /><br /><br /><br />

    ビルの片隅にひっそりと建っています。
    なかなか見つけられませんでした。

    大村益次郎は私が尊敬する人物の一人で、数年前に山口の大村益次郎の記念館やお墓、出生の場所などを訪ねたことがありますが、また行きたくなりました。

    医師であり、蘭学を学び、その後近代兵制樹立に尽力した人物、、、
    その数奇な運命と短い時間に登場して、あっという間に世を去ってしまった人物、、、。
    短い一生でしたけれど、彼の才能を引き出した人々にこたえるべく、懸命に目の前の仕事に埋没したことをおもいます。

    司馬遼太郎の小説、中国語で「花神」は、はなさかじいさんの意味ですけれど、まさにそんな瞬く間の人であったとあらためて感じました。
    幕末の動乱期から明治の初めにかけて、どれだけのはなさかじいさん的な人が多かったことでしょう~。


    さいごまでお読みいただいて、ありがとうございます。^^




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