2022/12/23 - 2022/12/23
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gianiさん
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この旅行記スケジュールを元に
企画展は、爆心地の被災前後を写真で追います。
新館の常設展は、核開発から原爆投下の経緯とその後を追います。
日本は核兵器による最大を被害を受けたことは事実ですが、
もしも日本が先に核を手にしたなら?
と考えると、色々と考えさせられます。
前編↓
https://4travel.jp/travelogue/11807669
- 旅行の満足度
- 5.0
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企画展は、爆心地のビフォアアフターです。
旧猿楽町・細工町は、大手町1丁目に編入されています。 -
まずは、航空写真。
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今回の舞台は、電車通りに並行する猿楽通りと、現在のおりづるタワー、爆心地、お好み焼長田屋(いつも外国人の行列ができている)を結ぶ通りです。
おりづるタワー 名所・史跡
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島病院
広島郵便局電話課の建物を買い取り、1933年に外科病院として開業。
煉瓦造り2階建て、玄関が印象的な建築です。爆心地 名所・史跡
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院長室
前列左より2人目が院長。市内で手術をできる外科医は少なく、常に満床でした。
医院ではなく病院という名称からも、病床数の多さが分かります。お好み焼 長田屋 グルメ・レストラン
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敷地内には猿檻があり、5,6匹が飼育されていました。出入り自由で、地域の憩いの場にもなっていました。
島病院の面した通りには、内科の黒川病院、皮膚科泌尿器科の清病院、山陽医院も立地しました。 -
猿楽通り
電車通りの一本南の道。賑やかな通りです。東向きに撮影。 -
上の写真の手前には、広島県産業奨励館(写真)が川に面して建っていました。北には日本赤十字社、南には広島郵便局が建っていました。
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被曝した島病院
厚さ1mの壁は、どんな爆弾にも耐えられる筈したが、玄関付近以外壊れています。8/6午前8:15、島病院の上空650mで炸裂しました。いわゆる爆心地です。 -
猿檻
原爆投下時に病院にいた約80名は全員死亡。島薫院長は出張中だったために難を逃れました。黒川節司、清茂基院長らも亡くなりました。 -
猿楽町通り
被曝前と同じ方向を撮影したもの。
手前から順に鯉城通り沿いの千代田生命広島支店と安田生命広島支店、芸備銀行本店、中央通り沿いの福屋百貨店が写っています。ミモザランチ喫茶 グルメ・レストラン
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島病院の向かい側
通りを挟んで島病院の向かいに建つ広島郵便局は瓦礫になり、防空壕だけが残っています。その奥は元安橋と燃料会館(現レストハウス)。 -
原爆ドーム
産業奨励館の壁は半分以上が失われ、原爆ドームとして残っています。原爆ドーム 名所・史跡
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日本赤十字社
原爆ドームと相生橋の間に立地。屋上に開いている穴が、爆心地と至近距離(真上からの爆風にさらされた)に位置することの証左です。 -
復興のシンボル
被曝の2か月後の10月、原爆ドームの手前に材木による建物の枠が写っています。 -
バラックが完成。米兵から復興第一号商店とみなされる。川本福一氏は妻と六女を失い、自らも負傷したが、いち早く川本商会(自転車店)を再建した。
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戦後に生まれた子供(1945.12月生まれ)を抱いて
被曝前は川本商会の6軒隣に位置した伊勢屋商店の伊勢千枝子さんは、12月に出産。夫は原爆で亡くなっていたので、6人の子供を養うために雑貨店を営業し続けた。
写真は1947年秋。 -
息子の栄一さんによると、子どもたち皆を集めて「お母さんは、これから男になるよ。」と言ったのが印象に残っているとのこと。子供たちは牛乳配達などをして母親を支えました。左から2人目が千枝子さん。
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再建された島病院(外科)
1948年に、木造モルタル造りの2階建ての病院として開業。
毎年8/6にスタッフで慰霊食事会を行いましたが、長男の証言によると、
毎回話題が原爆になると、院長はいつの間にか席を外していたそうです。
一番グロテスクな現場をこなす外科医の強靭なメンタルを以てしても、耐えがたい。院長の心の傷の大きさを垣間見る、重みのある証言です。 -
爆心地には、今も島内科医院が営業中。世代交代で、診療科目も変わっています。規模も病院から医院へダウンサイズ。
爆心地 名所・史跡
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現在の原爆ドーム
左に楠の枝が写ります。広島中心部は75年間草木が生えないと言われましたが、楠が芽を出したのを川本福一さんが発見。大切に育てる一方で、植樹も行いました。復興樹と呼ばれています。 -
現在の元安橋
郵便局跡地には、職員殉職の碑だけが残っています。 -
現在の燃料会館
レストハウスとして、売店付き休憩所となっています。
続いて、常設展の核兵器について。 -
1938.12
ドイツのオットー・ハーンが核分裂を発見し、リーゼ・マイトナーが立証する。
1941.11
各国が核開発を始める中、アメリカ科学アカデミーが3,4年以内に原爆は製造可能と声明を出し、アメリカでも本格的に開発を始める。
1941.12.8
日米開戦 -
マンハッタン計画
産学軍共同で、米加37か所の拠点で、22億ドル(現在なら3兆円以上)と13万人の労働者を集結し、3年かけて最終的に4発の核弾頭を開発製造した。1945.7.16に1発目のガシェットによる核実験が成功した。 -
原爆投下は日本へ
長引く対日本戦。本土上陸作戦は甚大な被害が予想されることと、ソ連参戦を要請して貸しを作りたくない思いから、原爆投下による早期停戦を考えた。 -
投下目標の検討
1945年4月27日に、17の地域が候補に挙がる。5/11には京都、広島、横浜、小倉の4つに絞られる。選定基準は①直径3マイル以上の市街地がある。②ふさわしい地形。③空襲で街が破壊されていないこと。の条件をすべて満たす事だった。 -
模擬爆弾の投下
原爆投下に専念する部隊が組織され、アメリカ国内で訓練を重ねた。7/20~8/14まで下記の都市に合計49個の模擬爆弾が投下された。
※ポツダム宣言受入を通知した8/14まで、3発目の原爆投下の準備をしていたという事でしょうか。 -
原爆投下命令書(7/25)
8/3以降、目視可能な天候になり次第、広島・小倉・長崎・新潟のいずれかに1発目を投下するようにとの指示。
※科学者や軍部らをメンバーとする委員会(大統領へ助言)が存在しました。科学者は核開発が進むにつれて破壊能力の大きさに気づき、使用を控えるよう提言。軍部も、事前警告なしという点に反対、無人島(デモ兵器)や軍事施設(大量破壊兵器)への使用を優先し、都市部(大量殺戮兵器)への投下は下策と提言。
シビリアンコントロールの原則(文民統治)に基づき、大統領の考え(事前警告なし+市街地投下)が遂行されます。 -
野戦命令第13号(8/2付)
原爆投下日は8/6。第一目標は広島、相生橋目掛けて投下するように。
広島が駄目なら、小倉、長崎の順に候補が。新潟は除外されている。
※広島は候補地で唯一、連合軍の捕虜収容所がないと認識されていた。さらに大都市、軍都、工業都市としての性格からも、軍事・精神的ダメージを与えるのに最適とされた。 -
右:リトルボーイ(少年)
広島に投下されたもので、改良により小型化されたことに由来。ウラン235を使用。全長3m直径0.7m重さ4t。
左:ファットマン(デブ男)
長崎に投下されたもので、プルトニウムを使用。第一目標は小倉だったが、視界不良によって第二候補の長崎に投下。
ウランとプルトニウム両方の臨床実験をしているところがしたたかです。 -
リトルボーイには50㎏の濃縮ウランが搭載されたが、実際に核分裂を起こしたのは、そのうちの僅か1㎏(写真の量)でした。
※広島型は、能力の2%しか引き出せなかった。それでも、この威力ということ。 -
爆風
爆心地では1平方メートル当たりで11トンの圧力がかかった。
150m圏内では、耐震建物も損書を受け、2km圏内では、木造家屋が全壊した。窓ガラスの損傷は、27km離れた場所でも報告された。
人体には、吹き飛ばされる、倒壊家屋の下敷きになる、ガラス破片が刺さる等の影響を及ぼした。 -
熱線
爆心地では摂氏3000度以上、1.2km圏内では皮膚が炭化した。火傷は3.5km圏内で発症(いずれも障害物がない場合)。黒色は熱を吸収しやすいので、より多くの熱を受け止めた。写真のように、着物の柄の黒い部分に合わせて火傷が出ることも。 -
熱線:火災(自然発火)
二次災害として高温のために自然発火し、火災が同心円状に広がった。木造家屋は、格好の燃料だった。
建物の被害状況
半径2km圏内は全壊全焼(赤)、外側が全壊(橙)、その外が半壊。
爆風・熱線・火災の調和で、大きな被害を与えた。 -
放射線
核分裂の最初の1秒間に放出された初期放射線(ガンマ線・中性子線)と、それを吸収した物質(地面・瓦礫・塵・大気)から放たれる残留放射線(ガンマ線・ベータ線)に大別される。 -
急性障害
被爆直後、あるいは短期間のうちに発症するもの。
写真は、ガンマ線の被ばく量による影響。
7000mSv(ミリシーベルト)を超えると死亡、3000mSvを超えると50%が死亡する。爆心地から1kmの地点では、4220mSvに達した(障害物の無い場合)。
症状は、500以上でリンパ球の減少、1000以上で吐き気、3000以上で脱毛が見られた。 -
急性障害の経過
四分される。
第一期(8/6当日~)
即死。全身の脱力感、吐き気、発熱、下痢による全身衰弱を経て死亡。
第二期前半(2週間後~)
脱毛、皮下出血斑などの出血、咽頭痛、口内炎、白血球減少が現れて死亡。
第二期後半(34日後~)
・比較的軽い症状の人は、回復へ向かう。
・被爆による免疫低下から肺炎などの合併症が現れ、容態が悪化する場合もある。
第三期(2か月後~)
これまでの症状は回復へ向かうが、精子量の減少と月経異常は残る。 -
後障害
年月を経て発症するもの。
上の表では、200mSv以上の発祥無に該当。
原爆小頭症や知的障害など胎児に関わるものも含まれる。 -
白血病と癌
白血病の発症は被爆後2,3年を経て始まり、7,8年後にピークを迎える。被爆後何年経過しても、リスクは消えない。
一方の癌は発症するまでの潜伏期が長く、被爆後5-10年頃に増加が始まったと考えられる。 -
人体への影響が大きい部分
口~尿道・肛門に至る器官、生殖器、骨髄に大別される。 -
胎内被曝
頭囲が著しく小さい小頭症、重度の知的障害など。
妊娠8~15週目に大量の放射線を受けると、脳に障害を伴うリスクが高まる。現在は、年齢的に癌を発症する可能性もある。
今まで見てきたように、放射線が人体に及ぼす影響は事前に動物実験等で十分に調査されたわけではなく、完全に見切り発車だったといえる。 -
終わらない核開発
日本で使用するための1945.7.16の核実験後に日本は全面降伏してミッションは完了したが、その後も核開発は続けられた。1946年にマーシャル諸島がアメリカの恒常的な核実験場になった。1980年までに、世界で500回あまりの核実験が行われた。 -
第五福竜丸乗組員および漁獲物の被爆
1954年3月1日、マーシャル諸島のビキニ環礁で水爆実験が行われた。事前警告が行われなかったため、第五福竜丸を始め、多くの漁船の乗組員および漁獲物が被曝した。原爆マグロという言葉に表されるように、現場周辺での漁獲物は長期にわたり放射能を検出した。 -
上記の事件は第三の被曝と言われるが、日本人以外も核兵器の被害を受けた。水爆実験では、火傷・下痢・嘔吐・頭痛・脱毛・甲状腺異常・出産異常が現地住民の間で見られた。
写真の火傷を負った少年は、6年後に癌と思われる病気で亡くなった。 -
アメリカ本土での被爆
被爆は信託統治領だけではなかった。1951年にはネバダ州に核実験場ができ、同州のみならず、風下に位置するユタ、アリゾナ州で17万人が被曝。白血病や癌で死亡する人が増加した。図のように、殊にロッキー山脈東側の全米各地に、放射性物質が降下している。 -
各国の状況
旧ソ連では、1949-89年にかけて459回の核実験を行い、周辺住民は被爆後に多くの症状で苦しんだ。写真は皮膚がんを発症した住民。 -
占領下での原爆症調査
米軍上陸と同時に、大勢の科学者が調査のために広島入りしたが、1947年3月にはABCC(原爆傷害調査委員会)が広島に開設。被爆者は治療を期待したが、あくまで調査・研究に徹した。聴取・検査等は、学術研究のためだけに行われた。被爆者救済措置は、主権回復まで待たなければならなかった。 -
最後の展示物
2016年5月27日に平和記念公園を訪問したオバマ大統領のメッセージと自ら織った鶴が2羽(共に実物)。
以上でした。 -
おまけ
2019年の企画展の資料より
島病院の向かいにあった広島郵便局(建物は全壊)の鉄塔には、CENTER OF IMPACT(爆心地)の看板が。軍属を含む大勢の連合国の人が観光に訪れました。
写真は、1948年の時点。 -
その横で吉川清さんは土産物店を開き、彼らを相手に商売した。土産物には原爆で変形した瓶や瓦などがあった。客の求めに応じて、ケロイドの残る背中を見せることもあった。
1951年撮影
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