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2023年1月、埼玉県熊谷市の「妻沼聖天山」へ行ったら、ロウバイが咲いていました。<br />参道の途中、「仁王門」の南側に、少しだけですが植栽されていて、満開の少し前くらい、まだ傷みが少なくて綺麗な花でした。

「妻沼・聖天山」のロウバイ_2023_少しですが、まだ傷まずに綺麗に咲いていました(熊谷市)

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2023/01/22 - 2023/01/22

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minaMicaze

minaMicazeさん

2023年1月、埼玉県熊谷市の「妻沼聖天山」へ行ったら、ロウバイが咲いていました。
参道の途中、「仁王門」の南側に、少しだけですが植栽されていて、満開の少し前くらい、まだ傷みが少なくて綺麗な花でした。

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  • 「妻沼聖天山」は、熊谷市の北端、旧妻沼町(2005年に熊谷市に合併)にあります。

    「妻沼聖天山」は、熊谷市の北端、旧妻沼町(2005年に熊谷市に合併)にあります。

  • (東側の)県道341号線から参道を歩き、「貴惣門」へ向かいます。

    (東側の)県道341号線から参道を歩き、「貴惣門」へ向かいます。

  • 赤い車とその関係者の邪魔にならないように、左側へ回り込みます。

    赤い車とその関係者の邪魔にならないように、左側へ回り込みます。

  • 嘉永4年(1851)に完成した「貴惣門」は、側面に破風が3つ重なっています。”類例の少ない奇抜な形式”と、説明板に書かれていました。

    嘉永4年(1851)に完成した「貴惣門」は、側面に破風が3つ重なっています。”類例の少ない奇抜な形式”と、説明板に書かれていました。

  • 「貴惣門」の内側、参道の右(北側)に、「斎藤別当実盛公の像」があります。<br /><br />この地(長井庄:現在の熊谷市妻沼)に生まれ、この地を本拠とした斎藤実盛が、長井庄の総鎮守として聖天宮を建立したのが、「聖天山」の始まりとされています。

    「貴惣門」の内側、参道の右(北側)に、「斎藤別当実盛公の像」があります。

    この地(長井庄:現在の熊谷市妻沼)に生まれ、この地を本拠とした斎藤実盛が、長井庄の総鎮守として聖天宮を建立したのが、「聖天山」の始まりとされています。

  • 参道を奥へ進むと、「中門」の前にも赤い車とその関係者がいました。

    参道を奥へ進むと、「中門」の前にも赤い車とその関係者がいました。

  • なので、邪魔にならないように、参道を除けて右(北側)へ入って行くと、”広場”がありました。<br /><br />境内に立っていた”境内図”によると、ここは「お祭り広場」です。正面には「野外ステージ」があります。右隅には、何やら動物が写っています。

    なので、邪魔にならないように、参道を除けて右(北側)へ入って行くと、”広場”がありました。

    境内に立っていた”境内図”によると、ここは「お祭り広場」です。正面には「野外ステージ」があります。右隅には、何やら動物が写っています。

  • 近づいてみると、コレが置かれていました。

    イチオシ

    近づいてみると、コレが置かれていました。

  • その奥には、髪の長い…… コレがあって、周りには遊具が置かれています。かつて保育園があったのでは、とも思わせますが、境内に立っていた”境内図”を見ると、「遊園地」の標記がありました。

    イチオシ

    その奥には、髪の長い…… コレがあって、周りには遊具が置かれています。かつて保育園があったのでは、とも思わせますが、境内に立っていた”境内図”を見ると、「遊園地」の標記がありました。

  • さらに「野外ステージ」の後には、別の二体がありました。<br /><br />右の髪型、昔、ワンレンとか言いましたよね。

    さらに「野外ステージ」の後には、別の二体がありました。

    右の髪型、昔、ワンレンとか言いましたよね。

  • 振り返って西方向を見ると、赤い灯籠が並んだ向こうに丘があって、”塔”が建っています。

    振り返って西方向を見ると、赤い灯籠が並んだ向こうに丘があって、”塔”が建っています。

  • ”境内図”には、「平和の塔」と書かれています。

    ”境内図”には、「平和の塔」と書かれています。

  • 「平和橋」を渡って、近くに行ってみます。

    「平和橋」を渡って、近くに行ってみます。

  • 橋の下の川(堀?)は凍っていました。

    橋の下の川(堀?)は凍っていました。

  • 熊谷デジタルミュージアムによると、この建物は「歓喜院平和の塔」、昭和33年(1958)に建てられた総檜造りの多宝塔です。国登録有形文化財です。

    熊谷デジタルミュージアムによると、この建物は「歓喜院平和の塔」、昭和33年(1958)に建てられた総檜造りの多宝塔です。国登録有形文化財です。

  • 丘の麓の観音像です。

    丘の麓の観音像です。

  • 丘の下を南へ歩くと、修行大師像の向こうに「弁天社」が建っています。

    丘の下を南へ歩くと、修行大師像の向こうに「弁天社」が建っています。

  • その南側には、童子(?)の像がありました。

    その南側には、童子(?)の像がありました。

  • 橋を渡って更に南へ行くと、滝があります。滝の右には「軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)」が彫られています。

    橋を渡って更に南へ行くと、滝があります。滝の右には「軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)」が彫られています。

  • 歩いてきた道を振り返った景色です。左手前が”童子像”、その右奥が「弁天社」、その後、木の向こうに「平和の塔」があります。

    歩いてきた道を振り返った景色です。左手前が”童子像”、その右奥が「弁天社」、その後、木の向こうに「平和の塔」があります。

  • 「本殿」に向かって歩くと、「夫婦の木」がありました。<br /><br />説明板には、「ケヤキとエノキが、互いに寄り添い、絡み合い、助け合い、力強く古今を生きる、神秘な縁結びのご神木」と書かれています。ネット情報などによると、一体化したような根元の部分が”重要なところ”らしいのですが、写し損ないました。

    「本殿」に向かって歩くと、「夫婦の木」がありました。

    説明板には、「ケヤキとエノキが、互いに寄り添い、絡み合い、助け合い、力強く古今を生きる、神秘な縁結びのご神木」と書かれています。ネット情報などによると、一体化したような根元の部分が”重要なところ”らしいのですが、写し損ないました。

  • 「鐘楼」は、「本殿」のすぐ北側に建っています。

    「鐘楼」は、「本殿」のすぐ北側に建っています。

  • ぐるっと迂回して、「本殿」にやってきました。

    ぐるっと迂回して、「本殿」にやってきました。

  • 新年のご挨拶をして、南側へ歩きます。

    新年のご挨拶をして、南側へ歩きます。

  • 境内の混雑を避けて、南側の道路へ出てきました。写真は、東方向の景色です。

    境内の混雑を避けて、南側の道路へ出てきました。写真は、東方向の景色です。

  • 西方向の景色です。

    西方向の景色です。

  • 南側から、再度、境内に入ります。

    南側から、再度、境内に入ります。

  • 左側の木に、白い花が咲いています。

    左側の木に、白い花が咲いています。

  • ウメが咲き始めているのかと思って、近寄ってみました。

    ウメが咲き始めているのかと思って、近寄ってみました。

  • ウメではなくて、咲き残っている冬桜だと思います。

    ウメではなくて、咲き残っている冬桜だと思います。

  • 境内を喜多へ歩くと、「仁王門」の手前に石灯籠が並んでいます。<br /><br />石灯籠の向こう側、「仁王門」の横に黄色い花が咲いています。

    境内を喜多へ歩くと、「仁王門」の手前に石灯籠が並んでいます。

    石灯籠の向こう側、「仁王門」の横に黄色い花が咲いています。

  • ここにロウバイが咲いていました。

    ここにロウバイが咲いていました。

  • 後方の建物は、弘法大師をお祀りした「太子堂」です。平成7年(1995)に建て替えられました。<br />関東88カ所霊場の第88番結願所、そして、幡羅88カ所の第13番札所、だそうです。<br />(聖天山のホームページ)

    後方の建物は、弘法大師をお祀りした「太子堂」です。平成7年(1995)に建て替えられました。
    関東88カ所霊場の第88番結願所、そして、幡羅88カ所の第13番札所、だそうです。
    (聖天山のホームページ)

  • ロウバイは、だいぶ咲き進んでいます。

    ロウバイは、だいぶ咲き進んでいます。

  • 傷んだ花が少ないので、綺麗に咲いています。

    イチオシ

    傷んだ花が少ないので、綺麗に咲いています。

  • こちらの後方は「仁王門」です。

    イチオシ

    こちらの後方は「仁王門」です。

  • 熊谷デジタルミュージアムによると、この「仁王門」、先代が明治24年(1891)の台風で倒れたイチョウの木の下敷きになって倒壊したため、明治27年(1894)に再建されたものです。

    熊谷デジタルミュージアムによると、この「仁王門」、先代が明治24年(1891)の台風で倒れたイチョウの木の下敷きになって倒壊したため、明治27年(1894)に再建されたものです。

  • 「太子堂」は再建時期が新しいので(?)煌びやかです。

    「太子堂」は再建時期が新しいので(?)煌びやかです。

  • 「本殿」は、奥殿・中殿・拝殿よりなる権現造りで、平成24年(2012)に国宝に指定されました。現存する「本殿」は、先代が焼失し、江戸時代中期に再建されたものです。(聖天山ホームページ)

    「本殿」は、奥殿・中殿・拝殿よりなる権現造りで、平成24年(2012)に国宝に指定されました。現存する「本殿」は、先代が焼失し、江戸時代中期に再建されたものです。(聖天山ホームページ)

  • 江戸時代初期の火災では、「中門」を残して焼失したそうです。(聖天山ホームページ)

    イチオシ

    江戸時代初期の火災では、「中門」を残して焼失したそうです。(聖天山ホームページ)

  • 蕾が未だ少し残っているくらいの、満開少し前くらいの咲き具合が綺麗ですね。

    イチオシ

    蕾が未だ少し残っているくらいの、満開少し前くらいの咲き具合が綺麗ですね。

  • 聖天山のロウバイは、ここに咲くだけですが、とても綺麗です。

    聖天山のロウバイは、ここに咲くだけですが、とても綺麗です。

  • 「仁王門」の左右に立つ「仁王像」は、東日本大震災で像が傾いたのを機に修復されました。その時、体内から見つかった”木札”には、この「仁王像」は、万治元年(1658)12月、良海院主の代に、鎌倉の仏師・法橋雲海によって造立された、と記されていました。像の修復は、平成25年(2013)に終わりました。(熊谷デジタルミュージアム)

    「仁王門」の左右に立つ「仁王像」は、東日本大震災で像が傾いたのを機に修復されました。その時、体内から見つかった”木札”には、この「仁王像」は、万治元年(1658)12月、良海院主の代に、鎌倉の仏師・法橋雲海によって造立された、と記されていました。像の修復は、平成25年(2013)に終わりました。(熊谷デジタルミュージアム)

  • 普通に参道を通ってお参りするときには、ロウバイが咲いていても気付かないかもしれません。

    普通に参道を通ってお参りするときには、ロウバイが咲いていても気付かないかもしれません。

  • 「仁王門」の北側、「お祭り広場」との間に小さな池があって、その中央に”ゾウの像”があります。境内に立っている”境内図”には、「放生池」と書かれていました。この鼻の形って、元は噴水だったのでしょうか。

    「仁王門」の北側、「お祭り広場」との間に小さな池があって、その中央に”ゾウの像”があります。境内に立っている”境内図”には、「放生池」と書かれていました。この鼻の形って、元は噴水だったのでしょうか。

  • 池の周りには、スイセンが咲いていました。

    池の周りには、スイセンが咲いていました。

  • まだ、さほど傷んでいません。

    まだ、さほど傷んでいません。

  • 「貴惣門」に向かって、参道を通って帰ります。

    「貴惣門」に向かって、参道を通って帰ります。

  • 「貴惣門」から、「中門」の方向を振り返って見た景色です。

    「貴惣門」から、「中門」の方向を振り返って見た景色です。

  • 「貴惣門」は国指定重要文化財で、竣工は嘉永4年(1851)です。

    「貴惣門」は国指定重要文化財で、竣工は嘉永4年(1851)です。

  • この日は、「妻沼聖天山」で、綺麗なロウバイを見ることが出来ました。<br /><br />( おしまい )

    この日は、「妻沼聖天山」で、綺麗なロウバイを見ることが出来ました。

    ( おしまい )

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