2023/01/24 - 2023/01/24
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gianiさん
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鳥取県なのに、島根と一体化しているエリア。
そんなスポットをのんびりと回ってみました。
人気急上昇中の松本若菜さん所縁のスポットです。
- 旅行の満足度
- 4.0
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環日本海研究室
古来から、日本海沿岸諸国間の交易が盛んだったことを学べます。環日本海研究室 美術館・博物館
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線刻壁画
因幡(鳥取県東部)の古墳群の石室には、帆船を描いたものが多く描かれているのが特徴。当時から外洋航海が盛んだったことが分かる。 -
渤海路
遣隋使・遣唐使が有名だが、同時期の交流は渤海国との方が圧倒的に多い。唐は新羅と同盟を組んで渤海国を包囲した。安全保障の観点から隣国日本との関係を探った。その結果、多くの航路が開拓された。 -
遣唐使は対馬海峡から朝鮮半島沿いを航海する北回り航路が主流だったが、新羅との関係が悪化したために、航海の難しい東シナ海回りの南航路へシフト。その中で、安全な渤海路がバイパス路として利用された。
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交易品
日本から渤海国へは、織物・扇・漆・椿油・水晶玉・黄金が輸出された。 -
一方で、渤海国からは蜂蜜・朝鮮人参・毛皮等が輸入された。特に珍獣の毛皮は、貴族に珍重された。
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現在の境港
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室町時代
京極氏の分家尼子氏が、出雲国守護代として月山富田城に入る。京極氏を排除し、伯耆因幡(現在の鳥取県)を含む8か国を傘下に収める。月山富田城跡 名所・史跡
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尼子氏は毛利元就に滅ぼされ、元就の甥吉川広家が入府する。広家は新たな本拠地として米子城整備に着手するも、関ヶ原の戦いに敗れて改易。
写真は富田城本丸から、広瀬町を見下ろす。 -
余談
家康から出雲を任された堀尾氏は、藩庁を富田から松江へ移す。松江藩は松平氏の手に移り、支藩の広瀬藩3万石の陣屋が置かれた。
写真は、陣屋跡。 -
米子藩
1618年迄の短期間存在した。米子城を藩庁とする。
鳥取藩
1618年以降は、鳥取藩に編入される。因幡伯耆2国を統治したために、米子城には城代家老を配置した。代々荒尾家が委任統治した。米子城跡 (湊山公園) 公園・植物園
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本丸からの景観
天守閣は、明治時代に取り壊されました。
大小2つの天守閣という稀な配置です。 -
寺町の一角に、米子城騒動の犠牲になった横田内膳の墓碑があります。
妙興寺 寺・神社・教会
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米子城騒動
家康によって米子藩主にされた中村一忠は弱年11歳だったので、併せて横田内膳を後見役を命じた。幼い城主を良く支えたが、藩内の反対派が城主を唆し、3年後に騙し討ちに遭って命を落とした。首謀者らは家康の裁断で切腹。
※一忠が20歳で亡くなると、取り潰される。 -
加藤貞泰
1610-17年まで米子藩主を務めるも、伊予大洲へ転封。 -
鳥取藩時代
1617年に姫路の池田光政が鳥取(因幡国)へ移封。移封に際し、伯耆国も与えられた。この時期、米子に隣接する皆生を開発する。
1632年に光政は岡山へ転封され、叔父の池田光仲が鳥取藩を引き継ぎ、明治維新まで世襲される。米子は一族の荒尾家が委任統治した。荒尾氏は鳥取で勤務し、配下の米子組と呼ばれる55家の家臣団が現地で政務に当たった。 -
鬱陵島
米子の商人大谷甚吉と村川市兵衛は、幕府の許可の元、1624年以降輪番で朝鮮沖の鬱陵島(日本名:竹島)へ渡航し、70年程独占的に事業を行ったが、李朝の住民も渡航するようになり、紛争が起きる。1696年に幕府と李朝の話し合いで、鬱陵島は李朝の領土とされ、日本人の渡航は禁止された。
※日韓竹島問題の竹島は、当時松島と呼ばれた別の島です。 -
城下町の整備
地図上部の枠外に米子城がある。
その下には内堀が通っているが、現在は埋め立てられて道路になっている。
加茂川は城下町に入ると、地図下部を左右に通る外堀を兼ねて海へ注ぐ。 -
加茂川に架かる京橋の袂には、現在も後藤家が。当時は海に面した藩御用達の廻船問屋でしたが、現在は埋立で内陸化しています。18世紀の建築で、国の重文指定です。
回船問屋後藤家住宅 名所・史跡
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外堀も兼ねた加茂川沿いには蔵が立ち並び、今も多く残っています。
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鹿島家
米子の豪商。1852年に小天守閣の修理資金が供出できず、鹿島家に全費用を負担させました。その金額は千両とも二千両ともいわれています。その際に、交換した鯱を賜った次第です。という訳で、築城当時の400年超えの作品です。
外堀の一本裏の通りには「鹿島茶舗」が。店主に声掛けすると、中庭に飾ってある米子城天守にあった鯱を見せてもらえます。米子城 しゃちほこ 名所・史跡
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鉄砲小路界隈は、鉄砲足軽が住んだ区画です。金物店が多いです。そして、鉄砲・火薬を扱うお店もあります。
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そんな一角に味なお蕎麦屋さんを見つけました。
林そば屋 グルメ・レストラン
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寒いので、温かいそばを。
そばもつゆも、ゲソ天も、そばつゆも最高。 -
という訳で、ベストコンディションで味わえるザルも追加で注文。
超お薦めです。
余談ですが、座敷は江戸時代みたいな感じです。 -
笑い通りを歩きます。
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電柱もクレイジー。
しょうじき村~笑い通り 名所・史跡
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9号線にぶつかったら右折して、旧市庁舎を利用した博物館へ。
建物が古いので電気暖房が難しく、展示室はだるまストーブが主力。米子市役所旧館(山陰歴史館) 美術館・博物館
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木棉栽培
米子~境港へ延びる弓浜半島は、水を得にくい土地だったので、法勝寺川から取水して半島を縦断し、境水道に通じる米川用水が58年の歳月をかけて1758年に全通。土壌塩分の問題もあって、木棉が作付けされた。他と比べて倍近くの肥料を要し、且つ収量も少ない状況だったが、安い人件費と安い肥料を武器に品種改良と相まって、名産品になった。 -
伯州綿と付加価値の付いた絣は、弾力性と保温性に優れ、高い評価を得た。
木棉栽培は、高栄養の鰊のカスを肥料としたが、弓浜では中海産の藻葉(海藻の一種で価格は前者の1/15程度)を肥料にした。 -
鉄道の開通
1902年に境港~米子間が開通。流通優先だった。1908年には鳥取、1912年には京都~出雲市が繋がる。1928年には山陽(倉敷)とも接続し、米子は鉄道の十字路、物流の交差点となった。山陰鉄道発祥の地 名所・史跡
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1963年には駅ビルを建設。3-6階は国鉄米子鉄道管理局のオフィスで占めた。山陰で唯一の鉄道管理局で、山陰本線が京都起点のために(中国ではなく)関西支社に属した。
現在の米子駅は、機関車や車両の基地、貨物取扱等から撤退し、鉄道都市として役割は終わっている。 -
おまけ
笑い通りには、こんなレトロな建築も散在。
この理髪店も営業中です。
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https://4travel.jp/travelogue/11801360
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