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北門まで来ると神籠石散策ルートのほぼ半分を踏破したことになります。<br />石城山神籠石には北門と東門の二つが存在しますが、散策ルートとして見ることができるのは現在北門だけです。<br />東門の神籠石は地中に埋もれていて現在は見ることができません。<br />北門を過ぎると石城山神籠石最大規模である東水門に到達します。今回の旅行記はここまでの行程をお送りします。<br /><br />

謎の古代遺跡神護石を訪ねてみた 3 北門から東水門まで

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2022/05/10 - 2022/05/10

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ポポポ

ポポポさん

この旅行記のスケジュール

2022/05/10

この旅行記スケジュールを元に

北門まで来ると神籠石散策ルートのほぼ半分を踏破したことになります。
石城山神籠石には北門と東門の二つが存在しますが、散策ルートとして見ることができるのは現在北門だけです。
東門の神籠石は地中に埋もれていて現在は見ることができません。
北門を過ぎると石城山神籠石最大規模である東水門に到達します。今回の旅行記はここまでの行程をお送りします。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
同行者
一人旅
交通手段
自家用車 徒歩

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  • 旅行記を書き起こすのは実に5か月振りです。最近頓に記憶力が衰え集中力が欠けてきました。旅行記を仕上げる気力が湧かないためようやく次の旅行記を書くのに5か月も要してしまいました。<br />この旅行記の他にも、未完成の旅行記はまだ2つもあるのでおいおい完成したいと思いますが、まずは仕掛中のこの旅行記から筆を進めることにしました。<br />さて今回は西水門から神籠石沿いの遊歩道を歩き北門に到着したところからです。<br />石城山神籠石には2つの門があります。一つはこの北門でもう一つは東門。<br />この内北門を巡るコースが石城山神籠石の探訪コースになっています。<br />門につらなる神籠石は他には見られない大きな石が据えられていました。<br />北門は石垣で囲まれていませんが、版築と呼ばれる8mの高さの堅固な土塁で囲まれていたそうです。<br />その土塀の基礎石となっていたのが写真の神籠石です。<br />今まで見てきた神籠石に比べると一つ一つの石が大きく、一辺の石の研磨はとても丁寧にされていました。

    旅行記を書き起こすのは実に5か月振りです。最近頓に記憶力が衰え集中力が欠けてきました。旅行記を仕上げる気力が湧かないためようやく次の旅行記を書くのに5か月も要してしまいました。
    この旅行記の他にも、未完成の旅行記はまだ2つもあるのでおいおい完成したいと思いますが、まずは仕掛中のこの旅行記から筆を進めることにしました。
    さて今回は西水門から神籠石沿いの遊歩道を歩き北門に到着したところからです。
    石城山神籠石には2つの門があります。一つはこの北門でもう一つは東門。
    この内北門を巡るコースが石城山神籠石の探訪コースになっています。
    門につらなる神籠石は他には見られない大きな石が据えられていました。
    北門は石垣で囲まれていませんが、版築と呼ばれる8mの高さの堅固な土塁で囲まれていたそうです。
    その土塀の基礎石となっていたのが写真の神籠石です。
    今まで見てきた神籠石に比べると一つ一つの石が大きく、一辺の石の研磨はとても丁寧にされていました。

    石城山神籠石 名所・史跡

  • 北門を正面から眺めたところです。<br />門の左右には大きな神籠石があり、この神籠石の上に高い土塀が築かれていました。<br />ここに備え付けられていたのは木製の大きな門。門の柱は60㎝四方の大きな柱だったそうです。<br />

    北門を正面から眺めたところです。
    門の左右には大きな神籠石があり、この神籠石の上に高い土塀が築かれていました。
    ここに備え付けられていたのは木製の大きな門。門の柱は60㎝四方の大きな柱だったそうです。

  • ここにも石城山神籠石の説明板がありました。<br />この説明文によれば神籠石列石線の最下部は北水門あたりで268mあたりだということです。<br />つまり北門は石城山神籠石では最も低い所に造られた城門なのです。しかし、城門の割には防御が手薄のように感じました。

    ここにも石城山神籠石の説明板がありました。
    この説明文によれば神籠石列石線の最下部は北水門あたりで268mあたりだということです。
    つまり北門は石城山神籠石では最も低い所に造られた城門なのです。しかし、城門の割には防御が手薄のように感じました。

  • 北門の門のあった場所。右にある神籠石を基礎としてその上に8mの土塁が築かれていたそうです。そして神籠石は土塁の土留施設であったと考えられています。<br />写真左隅の大きな石は沓石と呼ばれる門の礎石です。<br />右案内板の後ろに階段がありますが、この道は駐車場とキャンプ場に抜ける近道の遊歩道。<br />私は東水門を見て回る予定にしていたので、この遊歩道は歩きませんでした。

    北門の門のあった場所。右にある神籠石を基礎としてその上に8mの土塁が築かれていたそうです。そして神籠石は土塁の土留施設であったと考えられています。
    写真左隅の大きな石は沓石と呼ばれる門の礎石です。
    右案内板の後ろに階段がありますが、この道は駐車場とキャンプ場に抜ける近道の遊歩道。
    私は東水門を見て回る予定にしていたので、この遊歩道は歩きませんでした。

  • 写真が沓石。北門の門柱の礎石です。沓石にはコの字型のくり抜きがあり、この部分に柱が立っていたそうです。コの字型のくり抜きは1辺が60㎝であるため、門柱は1辺60㎝の方形の柱であったことがわかっています。<br />なお、沓石は同型の者がもう一つあったのですが、現在は北門にありません。ではどこにあるのでしょうか?<br />それにはこのような逸話が残っています。時は幕末、第二奇兵隊の本陣が置かれた石城山では第二次長州征伐に備えて厳しい訓練が行われていました。<br />その時分息抜きとして行われていたのが隊士の力比べでした。沓石を抱えてどこまで運べるかという競技でしたが、元力士の隊士が沓石を抱えて先程の駐車場に向かう坂道を上り、その先の道の途中まで運んで行ったという事です。<br />今でも駐車場に向かう遊歩道の途中にその沓石は捨て置かれたままになっているそうですが、私は東水門に向かったので事の真相をたしかめるには至りませんでした。<br />

    写真が沓石。北門の門柱の礎石です。沓石にはコの字型のくり抜きがあり、この部分に柱が立っていたそうです。コの字型のくり抜きは1辺が60㎝であるため、門柱は1辺60㎝の方形の柱であったことがわかっています。
    なお、沓石は同型の者がもう一つあったのですが、現在は北門にありません。ではどこにあるのでしょうか?
    それにはこのような逸話が残っています。時は幕末、第二奇兵隊の本陣が置かれた石城山では第二次長州征伐に備えて厳しい訓練が行われていました。
    その時分息抜きとして行われていたのが隊士の力比べでした。沓石を抱えてどこまで運べるかという競技でしたが、元力士の隊士が沓石を抱えて先程の駐車場に向かう坂道を上り、その先の道の途中まで運んで行ったという事です。
    今でも駐車場に向かう遊歩道の途中にその沓石は捨て置かれたままになっているそうですが、私は東水門に向かったので事の真相をたしかめるには至りませんでした。

  • 北門入り口左側の神籠石。

    北門入り口左側の神籠石。

  • こちらは右側の神籠石。左右ともに北門の土塁の基礎部分であるため神籠石の中でも特に大きな石が使用されていました。<br />

    こちらは右側の神籠石。左右ともに北門の土塁の基礎部分であるため神籠石の中でも特に大きな石が使用されていました。

  • 北門前にある石垣。シダに覆われていて注意して見ないとその存在すら分からないようになっていました。さて、この石垣は段差の低い石垣でしたがこれは何のために設けられたのか?<br />北門入口の地盤強化と土砂の流出を防ぐための物だったのでしょうか?<br />さらにこの門では大きな疑問がありました。<br />今まで見てきた西水門や北水門では三方を高い石垣や土塁で取り囲んで寄せて来る敵軍に対し3方向から矢の雨を降らせて大量の出血を強いる強固な防御施設でした。<br />ところが北門は8mの土塀と大きな門に守られていたとしても西水門や北水門ほどの防御効果はなさそうです。<br />なぜ重要な城門の防備が手薄なのか不思議で堪らないので後日色々調べてみました。<br />その中に「北門は桝形をなし、強固な防御能力を有していた」との記述を見つけました。<br />桝形とは虎口の最も発展した形態で四方を枡のように石垣で取り囲み、この空間に入り込んだ敵兵を四方から矢や鉄砲で打ち掛け殲滅させるという戦国時代に発展した防御施設です。7世紀にはまだこのような究極の防御施設は登場していません。<br />これは虎口と表記すべきところを誤って桝形と表記してしまったのでしょう。<br />発掘調査の記述などから考えられるのは、7世に建てられた山城が長い年月の間に風雨にさらされて崩落などで風化してしまい、もはや原型を留めないまでに崩壊したのではなかという事です。<br />北門に関しては高い土塀によって三方が取り囲まれていたと考えられています。<br />土塀の基礎部分であった神籠石が他の水門の様には残っていなかったのです。門の部分はしっかり残っていますが、他は崩落したような神籠石があちこちに散乱していたそうです。

    北門前にある石垣。シダに覆われていて注意して見ないとその存在すら分からないようになっていました。さて、この石垣は段差の低い石垣でしたがこれは何のために設けられたのか?
    北門入口の地盤強化と土砂の流出を防ぐための物だったのでしょうか?
    さらにこの門では大きな疑問がありました。
    今まで見てきた西水門や北水門では三方を高い石垣や土塁で取り囲んで寄せて来る敵軍に対し3方向から矢の雨を降らせて大量の出血を強いる強固な防御施設でした。
    ところが北門は8mの土塀と大きな門に守られていたとしても西水門や北水門ほどの防御効果はなさそうです。
    なぜ重要な城門の防備が手薄なのか不思議で堪らないので後日色々調べてみました。
    その中に「北門は桝形をなし、強固な防御能力を有していた」との記述を見つけました。
    桝形とは虎口の最も発展した形態で四方を枡のように石垣で取り囲み、この空間に入り込んだ敵兵を四方から矢や鉄砲で打ち掛け殲滅させるという戦国時代に発展した防御施設です。7世紀にはまだこのような究極の防御施設は登場していません。
    これは虎口と表記すべきところを誤って桝形と表記してしまったのでしょう。
    発掘調査の記述などから考えられるのは、7世に建てられた山城が長い年月の間に風雨にさらされて崩落などで風化してしまい、もはや原型を留めないまでに崩壊したのではなかという事です。
    北門に関しては高い土塀によって三方が取り囲まれていたと考えられています。
    土塀の基礎部分であった神籠石が他の水門の様には残っていなかったのです。門の部分はしっかり残っていますが、他は崩落したような神籠石があちこちに散乱していたそうです。

  • 北門を通り過ぎると再び神籠石の列石が通路に沿って設置されていました。

    北門を通り過ぎると再び神籠石の列石が通路に沿って設置されていました。

  • 北門は石城山を取り巻く神籠石の中で最も標高の低い所にありますので、これからは上りの山道が続きます。

    北門は石城山を取り巻く神籠石の中で最も標高の低い所にありますので、これからは上りの山道が続きます。

  • 御覧のように山道にはコンクリート製の階段が設けられていますが多くは落ち葉に埋もれていました。<br />コロナ禍の影響で2年間ほぼ訪れる登山客もいなかったであろうことが堆積した枯葉からも推測できます。

    御覧のように山道にはコンクリート製の階段が設けられていますが多くは落ち葉に埋もれていました。
    コロナ禍の影響で2年間ほぼ訪れる登山客もいなかったであろうことが堆積した枯葉からも推測できます。

  • 上りの山道と神籠石の列石。

    上りの山道と神籠石の列石。

  • 上り坂の途中から坂の下にある北門方面を望む。

    上り坂の途中から坂の下にある北門方面を望む。

    石城山神籠石 名所・史跡

  • 上り坂が連続して続くのでかなり体力を消耗します。<br />この辺りはかなりキツイので度々休憩を取りながら登りました。

    上り坂が連続して続くのでかなり体力を消耗します。
    この辺りはかなりキツイので度々休憩を取りながら登りました。

  • 傾斜が緩やかになった所でコンクリート製の階段は終わりました。

    傾斜が緩やかになった所でコンクリート製の階段は終わりました。

  • ここからは緩やかな登りを進みます。

    ここからは緩やかな登りを進みます。

  • 風雪に耐え苔むした神籠石。

    風雪に耐え苔むした神籠石。

  • 登り坂が緩やかになった箇所に版築土塁と版築工法の説明文がありました。<br />版築土塁は古代朝鮮で作られていた防御用の土塁です。<br />百済が新羅に攻め滅ぼされた時に多くの百済人は王族とともに日本に逃れてきました。その避難民の中には百済の職人や技術者が多く含まれていました。<br />白村江の戦で敗れた日本が唐・新羅連合軍の来襲を防ぐために、百済の技術者の指導でこの土塁が築かれたと考えられています。<br />さらには北部九州が唐・新羅連合軍に蹂躙された後は都がある大和に侵攻して来ることが予想されるので本州の西の端に堅固な防御拠点としてこの山城が築かれたと推測されています。<br />

    登り坂が緩やかになった箇所に版築土塁と版築工法の説明文がありました。
    版築土塁は古代朝鮮で作られていた防御用の土塁です。
    百済が新羅に攻め滅ぼされた時に多くの百済人は王族とともに日本に逃れてきました。その避難民の中には百済の職人や技術者が多く含まれていました。
    白村江の戦で敗れた日本が唐・新羅連合軍の来襲を防ぐために、百済の技術者の指導でこの土塁が築かれたと考えられています。
    さらには北部九州が唐・新羅連合軍に蹂躙された後は都がある大和に侵攻して来ることが予想されるので本州の西の端に堅固な防御拠点としてこの山城が築かれたと推測されています。

  • 版築土塁の遺構。<br />土塁その物は長い年月風雨にさらされて当時の姿を留めていませんが、版築土塀であったであろうと思われる場所は神籠石の周辺に今も残っています。<br />写真中央の黒い物体の右横に少し小高い凸部分が残っていますが、これが版築土塀です。<br />凸部分から右下にかけて急勾配で傾斜している土塊の塊が版築土塀の遺構なんです。<br />このような遺構は神籠石の付近にあちこち残っていますが、昭和の大規模な遺跡発掘調査でその存在が学術的に確認されました。

    版築土塁の遺構。
    土塁その物は長い年月風雨にさらされて当時の姿を留めていませんが、版築土塀であったであろうと思われる場所は神籠石の周辺に今も残っています。
    写真中央の黒い物体の右横に少し小高い凸部分が残っていますが、これが版築土塀です。
    凸部分から右下にかけて急勾配で傾斜している土塊の塊が版築土塀の遺構なんです。
    このような遺構は神籠石の付近にあちこち残っていますが、昭和の大規模な遺跡発掘調査でその存在が学術的に確認されました。

  • 版築土塀に平行して見られる神籠石。<br />発掘調査の結果神籠石は版築土塀の基礎石であることが分かりました。という事は神籠石の上には版築土塀があったことになりますが、こちら側は長年の風雨で土塀そのものがほ崩壊し流されて、基礎部分の神籠石のみが今に残ったようです。<br />結果石城山山城は周囲を2重の版築土塀で広範囲に防御されていたことが分かります。<br />そして土塀と土塀の間、現在の山道・遊歩道が防御する兵士が通行する通路であったのです。

    版築土塀に平行して見られる神籠石。
    発掘調査の結果神籠石は版築土塀の基礎石であることが分かりました。という事は神籠石の上には版築土塀があったことになりますが、こちら側は長年の風雨で土塀そのものがほ崩壊し流されて、基礎部分の神籠石のみが今に残ったようです。
    結果石城山山城は周囲を2重の版築土塀で広範囲に防御されていたことが分かります。
    そして土塀と土塀の間、現在の山道・遊歩道が防御する兵士が通行する通路であったのです。

  • 版築土塀の上から眺めた景色。<br />前方、瀬戸内海と光市です。

    版築土塀の上から眺めた景色。
    前方、瀬戸内海と光市です。

  • 周囲の山々。<br />ここからの眺めはよかった。

    周囲の山々。
    ここからの眺めはよかった。

  • 同じく周囲の山々。

    同じく周囲の山々。

  • 再び光市方面の景色。

    再び光市方面の景色。

  • 景色をアップにすると光市(市の一部)と瀬戸内海に通じる湾の様子が良く分かる。

    景色をアップにすると光市(市の一部)と瀬戸内海に通じる湾の様子が良く分かる。

  • 版築土塀の遺構を過ぎると今度は下り坂が続く。

    版築土塀の遺構を過ぎると今度は下り坂が続く。

  • この下り坂は先程の上り坂よりも大きくて形の整った神籠石が続いていました。

    この下り坂は先程の上り坂よりも大きくて形の整った神籠石が続いていました。

  • 右神籠石、左版築土塀の遺構。中央の山道が山城時代の城内の通路です。<br />版築土塀は6mの高さと案内板には記述されていたが、神籠石の大きさからこの周辺には大きな土塀があったのではないかと推測できます。

    右神籠石、左版築土塀の遺構。中央の山道が山城時代の城内の通路です。
    版築土塀は6mの高さと案内板には記述されていたが、神籠石の大きさからこの周辺には大きな土塀があったのではないかと推測できます。

  • 大きな神籠石の列石が終わると今度は石垣状の神籠石が現れました。

    大きな神籠石の列石が終わると今度は石垣状の神籠石が現れました。

  • ここからは石垣が続く。

    ここからは石垣が続く。

  • 石垣の石はかなり崩壊していました。<br />風雨の影響だけでは無く、木の根の繫茂の影響も大きいのではないかと思われます。

    石垣の石はかなり崩壊していました。
    風雨の影響だけでは無く、木の根の繫茂の影響も大きいのではないかと思われます。

  • 石垣状の神籠石が最も崩落していた箇所です。

    石垣状の神籠石が最も崩落していた箇所です。

  • 石垣は下り坂に沿って造られています。

    石垣は下り坂に沿って造られています。

  • ここから一挙に下ったその先は・・・。<br />何やら広い場所に出るようですね。

    ここから一挙に下ったその先は・・・。
    何やら広い場所に出るようですね。

  • 下った先の山道は右に曲がっているようです。

    下った先の山道は右に曲がっているようです。

  • 下り終えた場所から後ろを振り返って見たところ。<br />かなりの勾配の下り坂でしたが、振り返り見るとそんなに急な坂道には見えません。

    下り終えた場所から後ろを振り返って見たところ。
    かなりの勾配の下り坂でしたが、振り返り見るとそんなに急な坂道には見えません。

  • ここの参道はかなり幅広でした。<br />神籠石の周囲に梁巡らされた山道の中でこの場所の道が一番幅広でしたね。

    ここの参道はかなり幅広でした。
    神籠石の周囲に梁巡らされた山道の中でこの場所の道が一番幅広でしたね。

  • 坂道を下った先にあったのが東水門です。<br />今まで見てきた水門の中で最も規模の大きな石垣で造られていたのが東水門でした。

    坂道を下った先にあったのが東水門です。
    今まで見てきた水門の中で最も規模の大きな石垣で造られていたのが東水門でした。

  • 石垣の高さや長さでは最も大きな水門です。<br />7世紀後半に造られた山城の水門ですが、造られた当時のままに現存しているのが何か奇跡のようです。<br />国家存亡の危機感がかくも巨大な山城を造らせたんですね。しかも山城の神籠石はこの場所だけではなく九州北部の福岡県や佐賀県にまたがる広範な地域には水城や朝鮮式山城と連携して点々と造られていますし、本州では山口県をはじめとして瀬戸内沿線に並ぶように、そして四国にまでも造られていたんです。<br />その数実に16か所。いかにこの時代には国防意識が高かったのかを物語っていると思います。<br />これらの山城や朝鮮式山城(3か所)、それに巨大な防御施設の水城を作るために膨大な数の民が駆り出されたであろうことは疑いようもありません。<br />これに比べて平和ボケした現在の日本国民の国防意識の低さを見るにつけて、この先本当に大丈夫だろうか、いつまで日本は国家として存続する事ができるのだろうかと心配でなりません。

    石垣の高さや長さでは最も大きな水門です。
    7世紀後半に造られた山城の水門ですが、造られた当時のままに現存しているのが何か奇跡のようです。
    国家存亡の危機感がかくも巨大な山城を造らせたんですね。しかも山城の神籠石はこの場所だけではなく九州北部の福岡県や佐賀県にまたがる広範な地域には水城や朝鮮式山城と連携して点々と造られていますし、本州では山口県をはじめとして瀬戸内沿線に並ぶように、そして四国にまでも造られていたんです。
    その数実に16か所。いかにこの時代には国防意識が高かったのかを物語っていると思います。
    これらの山城や朝鮮式山城(3か所)、それに巨大な防御施設の水城を作るために膨大な数の民が駆り出されたであろうことは疑いようもありません。
    これに比べて平和ボケした現在の日本国民の国防意識の低さを見るにつけて、この先本当に大丈夫だろうか、いつまで日本は国家として存続する事ができるのだろうかと心配でなりません。

  • 東水門の全景。中央に山姥の穴と呼ばれる出水口があります。

    東水門の全景。中央に山姥の穴と呼ばれる出水口があります。

  • 山姥の穴のアップの写真。<br />現在はこの穴から水は流れていません。長い年月の間に山水の流れが変わったのかもしれません。<br />この穴が何故山姥の穴と呼ばれるのか調べましたが、記述された文献が無く分かりませんでした。

    山姥の穴のアップの写真。
    現在はこの穴から水は流れていません。長い年月の間に山水の流れが変わったのかもしれません。
    この穴が何故山姥の穴と呼ばれるのか調べましたが、記述された文献が無く分かりませんでした。

  • 東水門の全景。<br />写真で見ると大きさが分りませんが、石垣の高さは7~8mはあろうかという高さです。<br />石垣の全長も長く一口で言えば巨大で長大な石垣ということです。

    東水門の全景。
    写真で見ると大きさが分りませんが、石垣の高さは7~8mはあろうかという高さです。
    石垣の全長も長く一口で言えば巨大で長大な石垣ということです。

  • 東水門までが一般的な石城山の散策コースです。<br />次回は東水門から駐車場までの散策ですが、石城山の別の姿を見て頂きたいと思います。<br />訪問いただきまして誠にありがとうございました。

    東水門までが一般的な石城山の散策コースです。
    次回は東水門から駐車場までの散策ですが、石城山の別の姿を見て頂きたいと思います。
    訪問いただきまして誠にありがとうございました。

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