2022/05/10 - 2022/05/10
27位(同エリア61件中)
ポポポさん
この旅行記のスケジュール
2022/05/10
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車での移動
山陽自動車道熊毛インターで降りて一般道へ
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車での移動
県道8号線を光市方面へ
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岩城山の登り口三国志城を目指す
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史跡石城山神籠石の記念碑
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石城山
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神護寺仁王門
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岩城神社
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第二奇兵隊本陣跡
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石城山神籠石
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この旅行記スケジュールを元に
石城山神籠石とは7世紀に白村江の戦で唐・新羅連合軍に大敗した大和朝廷が、筑紫(福岡)方面から上陸するであろう唐・新羅連合軍を迎え撃つ拠点として作られた山城だと考えられている。
神籠石は本州では山口県光市の他岡山県や兵庫県に見られるが光市の石城山神籠石は本州の最も西に位置しており、本州に上陸した唐・新羅軍の侵攻を食い止めるために建てられたと考えられている。
石城山神籠石は史書にもその記述が無いためいつ建てられたのか、また何のために建てられたのかは分かっていない。四国の愛媛県や香川県にも神籠石の存在が認められ、神籠石の大部分は九州北部の福岡県・佐賀県に分布している。
石城山神籠石は昭和10年に国の史跡に指定されている。昭和20年前に国の史跡に指定されたのは北部九州の神籠石2か所と岩城山神籠石の3か所であった。
その後昭和20年代に神籠石系山城として北部九州の4か所が国の史跡指定を受け、その後北部九州の2か所が指定を受けた後中四国の山城が神籠石系山城として指定を受けた。現在では北部九州と中四国に合計16か所の神籠石系山城が見られる。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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皆さんこんにちは。皆さんは神籠石(こうごいし)って聞かれたことがありますか?神籠石と言うのは7世紀の中頃から後期までに作られた謎の古代遺跡のことなんです。
いつも海外旅行の旅行記ばかりでしたが久々に国内の旅行記を書こうと思って旅行記にとりあげました。
そもそも私が神籠石の存在を知ったのは2013年のこと、光市にある三国志城(三国志の国内唯一の博物館)を訪れた時のことでした。
三国志の名場面のレプリカなどが展示されている一室に神籠石の特別展示室があったのです。
室内には地元中学の歴史地理班が調査した石城山の神籠石の研究結果が写真や図面や模型などによって神籠石の事が詳しく紹介されていました。
この展示は私のような歴史ファンには垂涎の内容でした。よし是非この遺跡を見に行こう、古代のロマンに触れてみようと即座に登山を決意したものの、その日は登る時間が無いため断念。日を改めて登ることにしました。
しかし、自宅からここまでやって来るには距離が遠い。いつの間にか月日は過ぎて訪れたのは翌年2014年の5月でした。
車で頂上まで上がり、5つ峰を取り囲んだ神籠石の列石と水門、門を見てきました。この時は旅行記を作るつもりが無かったため写した写真は数十枚しかありませんでした。
そして月は過ぎ、コロナで海外旅行に行けなくなってからはこの貴重な古代遺跡を旅行記にして残したい、多くの人に読んでいただきたいと思うようになりました。
こうして石城山を再訪したのは2021年5月。今回は全山余すことなく歩いて完璧な旅行記を作ろうと意気込んでいましたが思わぬトラブルが発生し途中で断念せざるを得ませんでした。デジカメのバッテリーが切れてしまったのです。
失意の内に帰宅せざるを得ませんでしたが、再び作成を決意して今回が3度目の正直となりました。
前置きが大変長くなりましたが、ここから本編をスタートします。
石城山神籠石は光市石城にある石城山山頂にある古代遺跡です。遺跡が特殊な物で発見されたのが明治の終わり頃なのでほとんどの方がご存知ないと思います。
石城山は光市の山間部にあるため山陽自動車道の熊毛インターから降ります。 -
山陽自動車道熊毛インターチェンジ出口です。
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熊手インターチェンジを出るとすぐに三叉路の交差点がありので、この交差点を右折して神籠石がある光市へ。
標識には光・柳井・田布施方面右側として表示されていました。 -
県道8号線沿いには写真のような観光地の案内板があるので矢印の指示通りに進みます。
県道8号線を進むと最初に右斜めに分かれる道があるので、右に進んで道なりにさらに進みます。
光市の山間部は県道の他市道も有り分かり難いと思いますのでナビを使った方が分かり易いです。
しかし石城山では検索がヒットしません。三国志城で検索してルートを探しましょう。 -
石城山に行く途中で目にする伊藤公資料館の案内掲示板。
この案内板の指示通りに進んで行くと石城山のルートから外れてしまいますが、この案内板を目にしたという事はこの時点ではルートが間違いないことを示しているので参考にしてください。 -
三国志城までの正しいルートを走っているなら見えて来るのがこの通信塔。
この通信塔がある山が石城山なんです。
写真正面の山が石城山。石城山 自然・景勝地
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石城山をアップにした写真。
石城山 自然・景勝地
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石城山入り口の案内表示が見えてきました。この先を左折すると石城山の登山道です。またナビで検索した三国志城があります。
この道路を直進しても石城山への登山道があります。この表示板同様に石城山の入り口であるある三叉路の手前に表示板があります。こちらかr上る場合は三叉路を左折します。
2021年5月に石城山に上った時は写真表示の道では無く、この先の登山道から上りました。
今回はこちらの道から上りましたがその訳は、コロナ禍で登山道が整備不良のため沢山の枯葉が登山道に堆積していたのです。道路の路肩も落ち葉で判別できませんでした。
また沢山堆積した落ち葉の上を走るとタイヤがスリップしそうでスピードが出せなかったのです。
2014年5月に石城山に上った時はこの先の登山道を利用しましたが、頂上までの距離は短いし道路の状態も整備されていて全く問題は無かったのですが、コロナ禍の影響で様変わりしていました。
石城山に上られる方は三国志城がある写真の登山道をお勧めします。 -
新緑の石城山周囲の山。綺麗でしたがそろそろ新緑は終わりかけのようでした。
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道路沿いにある「史跡石城山神籠石」の石碑。
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その石碑から見えるこの山が石城山です。
石城山 自然・景勝地
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山口県でよく目にするのが黄色のガードレール。
白が一般的なガードレールですが山口県ではこの黄色のガードレールが一般的なんです。
昭和38年第18回国民体育大会が山口県で開催されました。この時県民上げて取り組まれたのが「花いっぱい運動」。そして山口県の県花「夏ミカン」にちなんで県下のガードレールが夏ミカンの色である黄色(正確にはオレンジ色)に統一されたのです。
ガードレールの色が黄色なのは山口県のみ。現在も他県では無いと思いますが、最近の新規のガードレールは白色なので山口県下では白と黄色が入り交じっています。 -
この先の道が石城山登山道へと続きます。なお石城山への登山道ですが県道でもあります。
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登山道沿いにある三国志城(正式名称は石城の里三国志城)。コロナ禍の影響でしょうか店舗は閉められていて休館中の札が掛けられていました。
2021年5月に来た時も閉められていたのですが、その時はコロナ禍の影響で来館者が少ないためしばらく休館するんだなと思っていましたが、コロナが下火となった今でもまだ閉めているんですね。
いつ再開するんでしょうか。以前訪れた時は全国から三国志ファンが集まる博物館だったのですが・・・。石城の里 三国志城 美術館・博物館
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写真は2021年5月に訪れた時の博物館の様子。今と変わらない状態で閉まったままでした。
石城の里 三国志城 美術館・博物館
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こちらが博物館の本館、展示室が中にあります。この博物館は谷千寿子館長が中国成都の武候祠博物館の監修と協力を得て開設した三国志の博物館で、展示品としては市内の竹島古墳から出土した魏や呉から伝来した三角縁段階式神獣鏡や四神四獣鏡の紹介や諸葛孔明の食卓書斎着物(復元品)、三国志の名場面のジオラマ、出師の表の拓本、三国志時代の墓から出土して装飾品、神籠石関連資料などが展示されていました。
一番印象に残っているのが三国志名場面のジオラマと神籠石の資料です。
なおジオラマは四川省美術家協会学芸員が制作した物だそうです。石城の里 三国志城 美術館・博物館
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こちらが博物館尾入り口。
この博物館は閉鎖されたままという事が気になり後日調べたところ、谷館長が2015年4月に逝去され閉館になったそうです。合掌。
引き継ぐ者が誰もいなかったのでしょうね。
光市や光市観光協会は引き継がなかったのでしょうか。ジオラマはとても立派な物でしたし、三角縁神獣鏡や神籠石の資料、出師の表の拓本四川省の学芸員が制作した実物大の復元品など貴重な展示物がありました。
これらはどうなったのでしょうか?気になりますが今は旅行記を進めましょう。石城の里 三国志城 美術館・博物館
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県道の途中にあった石城山の登山道です。この登山道は徒歩で登る道ですが、山の麓から登るのでかなり厳しい登山になりそうですね。
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登山道の案内板と県道の自動車用登山道。
なお石城山への登山道はこの先いくつかありました。
2021年5月に来た時の登山道は枯葉に埋もれて厳しい状態でした。そのため今回は頂上まで行くのにかなり時間がかかるだろうと覚悟していましたが、麓から中腹までは道路の枯葉は大部分取り除かれ山頂に近い登山道でも枯葉は少なかったため上り易かったです。とは言うものの県道乍ら道幅は狭く、途中車の離合が難しい山道です。離合が可能な場所は一か所しかありません。下りの車に出会わないようにと念じながら車を走らせましたが、幸いなことに下りの車に出会うことも無く頂上に到着しました。 -
石城山山頂の無料駐車です。奥に見えるのがトイレ、そのさらに奥が石城山キャンプ場です。
キャンプ場があるためなのか駐車場はかなり広く、相当数の車が駐車できそうす。 -
キャンプ場側から見た駐車場入り口。
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駐車場の奥にあるのがキャンプ場。
幕末の時はこの山に駐屯していた第二奇兵隊の練兵場でした。石城山キャンプ場 キャンプ場
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石城山キャンプ場。新緑の時期は周囲が一面緑に囲まれてとても美しいところでした。
ところでこのキャンプ場、以前は確かにキャンプ場だったようですが第二奇兵隊関連史跡案内図では旧キャンプ場と表示されていました。
どちらが正しいのかな?石城山キャンプ場 キャンプ場
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岩城山は神籠石の古代遺跡がある山ですが、幕末に長州藩の諸隊の一つ第二奇兵隊の本陣が置かれていたため第二奇兵隊の関連史跡も残っています。
この案内板はその関連施設の説明板。神籠石を見に行くと同時にこれらの施設を見学する事ができます。 -
長州第二奇兵隊の概要と関連施設の案内板。
これをお読み頂けると第二奇兵隊の理解が深まると思います。 -
そしてこちらが神籠石の散策案内図。
岩城山には神籠石の遺跡がいくつか残されていてその主な物の写真が案内図の上部に掲載されていました。 -
こちらはその施設の写真のアップ。
岩城山神籠石には2つの門(北門と東門)と4つの水門の遺跡が残されています。
写真はこれらの内見ることができる4つの遺跡と列石。 -
写真のうち南水門は県道(登山道)の側にあるようですが、道をかなり下ることになるので今回は見学か所から除きました。
県道に露出する列石は車の車窓から見えます。 -
石城山神籠石散策の案内文。
通常の散策コースは随身門から入り石城神社、西水門、北水門、北門、東水門と巡って駐車場に戻ります。
この逆コースを巡る人もいるようですが、上のコースの方が道に迷いません。 -
見晴らし台から見た光市と瀬戸内海の景色。
光市越しに見える島は笠戸島です。光市のコバルトラインと呼ばれる室積と同様風光明媚な島として有名です。 -
笠戸島のアップ。
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では神籠石探訪散策をスタートします。
スタートは神護寺仁王門(随身門)から。 -
神護寺仁王門を潜った500mの先に西水門があるようです。
標識の矢印に沿って進みましょう。 -
神護寺仁王門(随身門)の説明板。
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こちらは石城山神籠石の説明板。
石城山神籠石の存在は史書にも記載が無く誰がいつの時代に何の為に造ったか全く分かっていませんでした。
明治31年に福岡県の高良山で神籠石が発見されて神域説と山城説の論争が繰り返され定説がありませんでしたが、昭和38年~39年行われた国の文化財保護委員会(現文化庁)、県教育委員会、大和町(現光市)の合同発掘調査で人枡、柱穴、版築工法による大土塁が数百メートルにわたり発見され、石城山神籠石が巨大な古代山城遺跡であったことが分かりました。
石城山神籠石は岩城5峰(高日ケ峰、鶴ケ峰、大峰、月ケ峰、星ケ峰)を取り囲む列石線が約2533mに及ぶ大規模な山城でした。 -
では神護寺仁王門を潜って神籠石の探検、スタート。
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神護寺仁王門を通り抜けた先にある山道は岩城神社の参道としての機能を有しているため、参道の左右に灯篭が設置されていました。
さて写真は2021年5月にここを訪れた時の様子を写したものですが、コロナ禍で参道の整備が全くが行われていませんでした。参道の所々には堆積した落葉が雨水で流された跡がありましたが、それ以外は厚い落ち葉の堆積に埋もれていて、靴が落ち葉に埋もれるところもありました。 -
ところが今年は状態が一変していたのです。
あれだけ堆積していた落ち葉が参道の中央部にはほとんどありません。しかも道の中央には車の轍の跡までありました。この時は何故轍の跡があるのか理解できませんでしたが、遠くから機械の音が聞こえてきました。
2年間手入れされなかった参道ですが今年は5月の連休に観光客が来るであろうことを予想して地元のボランティアの方々が清掃してくださったのでしょう。 -
轍の跡が残る道は奥へ奥へと続いています。
参道の両隅には落ち葉の枯葉が渦高く積まれていました。 -
2021年5月の参道風景。中央部分は風雨で落ち葉が流された形跡がありますが、それ以外は落ち葉に埋もれていました。
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参道を進むと見えてきたのが岩城神社。
岩城神社は延喜式内社で由緒ある神社、現在国の重要文化財に指定されています。石城神社 寺・神社・教会
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岩城神社の由来や来歴は説明板を読んでください。
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神社の狛犬です。普通の狛犬と違ってユニークな顔をしていたので思わずパチリ。
石城神社 寺・神社・教会
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正面アップでもう1枚。鼻と口が実にユニーク。口はへの字口ですね。
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こちらは阿形の狛犬。
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本殿は修復工事の真最中でした。修復中の本殿の右に見える建物が拝殿です。
これで納得。参道の轍の跡は工事業者の車が通っていたんですね。そして聞こえていた音は発電機の音でした。石城神社 寺・神社・教会
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本殿の写真は2021年5月に来た時に写した物があります。
写真左の建物が本殿です。石城神社 寺・神社・教会
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本殿を右前から写す。(2021年5月の写真)
石城神社 寺・神社・教会
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本殿は工事用シートですっぽり覆われていて、どの部分が修復中なのか外からは分かりません。
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修復工事は本殿の保存修理工事です。工期は今年の10月まで。
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修復前の本殿屋根の写真と本殿屋根修復工事の写真です。
本殿の屋根は杮葺き(こけら葺き)ですが木の薄板を取り換えるようです。加えて縁廻りの部材の交換があるようですね。
神社・仏閣でよく耳にするのは檜皮葺ですが、杮葺きもよく用いられる屋根葺きの工法です。杮葺きは木の薄板を何枚も重ねて吹き上げる伝統的な工法で優美な屋根を造ることができるそうですよ。 -
こちらの写真は足場工事と本殿の杮葺き屋根の解体前の写真です。
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工事前の本殿の写真。
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石城神社の次に見えてきたのが第二奇兵隊の本陣があった広場です。
ここに幕末第二奇兵隊の本陣が置かれていました。 -
こちらは2021年5月に訪れた本陣跡。
コロナ禍でボランティアの手が入っていないため草茫々でした。
今年は草の量が少ないので連休前に草刈りが行われたのでしょう。 -
第二奇兵隊本陣跡の説明板。
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第二奇兵隊本陣跡には以前神護寺という真言宗のお寺があって、このお寺が第二奇兵隊の本陣として利用されていたそうです。
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神護寺跡地ということで千手観音像が一体空地の隅に祀られていました。
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同じ場所の2021年5月の写真。
草刈り等の手が入っておらず草が茫々と茂っていました。 -
本陣跡の向かい側(登山道の左側)には元総理大臣岸信介氏の漢文の碑がありました。
題して七言絶句の「第二奇兵隊志士を懐う」の碑。 -
碑文の読み、及び解釈、作成され経緯が書かれていました。
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ここは西水門と三鍛冶屋の分かれ。三鍛冶屋は2014年に来た時には訪れていない場所です。
2021年5月に再訪した時の目的は前回見ていない場所も含めて神籠石遺跡を巡ること。躊躇することなくか下りの坂道を降りて行きました。
案内表示は850mなのでさほど遠くでもありません。軽い気持ちで坂を降り始めましたが、この坂道は思ったよりも厄介な下り坂でした。
①思った以上に坂の勾配がきついこと
②落ち葉の堆積が多く滑りやすい、さらに落ち葉の堆積層が厚く足を取られてしまうこと
③登山道がイノシシの獣道と化しており、道が凸凹で歩きにくい
以上のように登山道(山道)の状態が悪くウォーキングシューズでは滑りやすいため坂道の途中で断念し、登山靴かトレッキングシューズで再挑戦することにしました。
この案内表示の所まで引き返し、西水門へ進むルートに変更しました。
西水門に至る途中に神籠石の列石があるので写真に撮ろうとしましたがシャッターが下りません。カメラのバッテリーがなくなっていたのです。
昨年訪れた時はこのような理由で散策を断念して今年再訪することにしました。
(写真は2021年5月に写したもの) -
三鍛冶屋に至るルートは坂道の勾配が急なのでこの方面の散策はカットし、迷わず西水門に至るルートを選びました。
途中の山道はイノシシの獣道と化していたため掘り返されてボコボコです。 -
西水門に向かうルートを歩いて行くと神籠石の列石が見えてきました。
神籠石散策図によると石城山の南側では神籠石が土中に埋もれていると表示されています。
奇兵隊本陣跡から西水門に至るルートの途中から神籠石の列柱を見ることができました。 -
神籠石の列柱は長い年月の間に木の根やシダが列石の継ぎ目に入り込み、それらによって石は砕かれていました。
その崩壊が著しかったのが、写真の列石の先でした。石城山神籠石 名所・史跡
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写真のように加工された石と石の僅かな隙間に木の根が入り込み、やがて木の根が太ることによって自然に砕かれて行くのです。
石城山神籠石 名所・史跡
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木の根が岩の間に入り込んでいる様子はストロボを発行させない方が分かり易かったです。
これはノーフラッシュの写真。 -
岩と岩の間にはシダの根が入り込んでいる所もありました。
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岩と岩の間にコピー用紙を差し入れてみましたが、用紙は岩の隙間に入りません。
別の岩と岩との間にも用紙を差し入れましたが、これも入りません。
これにより人工的に加工した神籠石は隙間なくピッタリ岩と岩とがくっ付けられていることが分かりました。 -
神籠石を加工して設置したり、加工技術を日本の職人に伝授したのは百済から日本に亡命してきた職人たちと言われています。
古代にこのような石の加工技術があったとは驚きです。インカ帝国の石の加工技術はとても優れていたと言われていますが、インカ帝国時代よりはるかに古い古代日本においてこのようなすぐれた石の加工技術がすでに伝わっていたとは驚きでした。 -
この付近には沢山の露出した神籠石が放置されていますが、これらの神籠石は列石が風雨によって露出したものではなく、上から崩落してきたものだと考えられています。
なぜなら神籠石の列石が風雨によって露出したとは考えにくいからです。これらの神籠石はかなり大きな物でした。 -
ちなみにコピー用紙でその大きさを比べてみましょう。
コピー用紙A4版の一辺は縦が29.5㎝、横が21㎝です。石の縦の長さは約37㎝、横はコピー用紙ほぼ3枚分なので63㎝です。
神籠石の左側は割れた跡があるので、横は63㎝よりももっと長かったと推測できます。 -
さらに神籠石の高さ(幅)は約35㎝でした。
これで1個の加工された神籠石はかなりの大きさの石だったことが分かります。当五個の石の重さは相当な重量になるでしょう。
さらにこれらの石は何処から切り出して来たのでしょうか?付近に採石場はあるのでしょうか?
光市には以前採石場があったそうですが、古代から石を切り出していたかどうかは記録がないので分かりません。
石城山神籠石の記録は一切残っていないため、このようなことも全く分からないのです。 -
さらに先に進みましょう。山道はイノシシの通り道になっていて、あちらこちらを掘り起こされボコボコになっていました。
2014年にここを訪れた時は綺麗に整備された山道(登山道)でしたが、こんなに変貌しているとは思いもしませんでした。 -
見晴らしがいい場所から望む瀬戸内海。
光市の風景ですが海に浮かぶ島は多分笠戸島だと思います。 -
列石の上に横に連なる列石の遺構があり、写真はその一部を写したもの。
本陣跡の広場から西水門に至るルート上には巨石を含めて大小の多数の石が登山道周辺に転がっています。
このように沢山の崩落した石が点在しているのはこの限られた場所のみです。この場所とは岩城山山城の西側の部分。
つまり唐・新羅連合軍が筑紫の国(現福岡県)に上陸して東進を開始した時に、これらの軍勢とぶつかるであろうと想定される方向が石城山山城の西斜面です。
私見ではこれを想定して西側斜面に厚い防御を施していたのではないかと考えます。
西側斜面には露出した巨石や、列石規模の神籠石が帯状に配置されたと推測できる場所が散見されます。
すでに大木の根などにより著しく破壊されているため元の姿がどうだったのか想像すら難しい状態ですが、写真のように加工した角い神籠石がいくつも斜面に残っています。
石垣状態ではないが列石の帯状の物が何列何層にも渡って施されていたのではないかと推測しています。そして強固な石の防御壁を構築して唐・新羅連合軍の侵攻に備えたのではないかと・・・。
それを裏付けするような場所がこの後出て来ますのでお楽しみに・・。 -
列石の神籠石。先程A4板のコピー用紙で起き差を測りましたが、横幅はコピー用紙もう一枚分長い神籠石でした。つまり横幅は84㎝、どうもこのサイズが加工された神籠石の基本サイズのようです。
写真の数が多いのでここで一旦終了して次回は西水門にから北門までの旅行記を掲載しようと思います。
今回の旅行記はプロローグのような物でしたが、次回は神籠石の核心に迫りますのでお楽しみに。
訪問いただき誠にありがとうございました。
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