2022/05/10 - 2022/05/10
23位(同エリア61件中)
ポポポさん
この旅行記スケジュールを元に
石城山神籠石の続きです。
前回は西水門の手前迄でしたが、今回の旅行記から石城山神籠石の核心部分に触れて行きます。
山と山との谷あいには水門と呼ばれる石垣が築かれていますが、この構造が近世の城郭に見られる虎口に酷似しているのです。
古代の山城で近代城郭の防御施設と同じものが施されていたことに驚きを隠せませんでした。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
西水門手前の神籠石列石。
写真の神籠石は破損がないため再び縦横の長さを計測してみました。 -
横はA4版コピー用紙の3枚分、29.5㎝×3で88.5㎝。
縦は用紙の2.5枚分、21㎝×2.5で52.5㎝。コピー用紙との比較でもかなり大きな石だと分かります。
このような大きな石を何千何万と切り出して急な坂を運び上げ、山の8合目付近に環状形に列石を配置していく。気の遠くなるような作業です。
この作業には途方もない労働力が必要だったでしょう。古代によくこのような物ができたなと感心します。
これも当時の国家の危機意識の成せる技だったのでしょう。 -
列石の上部の斜面の神籠石。
この辺りの列石の上部には写真のような神籠石が多数あります。木の根などにより神籠石は砕かれて自然崩落しているため、山城が造られた時にどのように神籠石が配置されていたかは全く分かりませんが、多数の石が西側斜面に配置されていたことは推測できます。 -
西側の斜面を切り開いて造ったと思われる広く平らな空き地。
写真では広さが分かり難いですがかなり広い平地です。自然の山にはこのような平地はありませんので人為的に造られたと考える方が自然だと思います。
ここは山城の構造物で曲輪と呼ばれる場所ではないかと思っています。
この平地に櫓などを建てて見張り台として使用したのかもしれません。石城山神籠石では館の跡は残っていないそうですが、ここは櫓などの防御施設があったのではないかと思います。 -
平地の場所をやや下の方から見上げると平地を囲むように周囲に神籠石が配置されていました。
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この巨石も平らな敷地を取り囲むように配置されています。
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平らな敷地をさらに下から見上げると、敷地の周囲が神籠石で囲まれていることが分かりました。
石垣が築かれている訳ではありませんが、平たい敷地部分が崩れ落ちないように岩で斜面が補強されていたようです。 -
平地の下は深い谷になっていて写真のような巨石がゴロゴロしていました。
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平地の先に下り坂の遊歩道がありました。
今まで歩いて来た山道は山の谷の途中で失われていたので、この遊歩道を降りる方が賢明です。
遊歩道を降り切った所に下りのつづれ織りの坂道があります。 -
下り坂の遊歩道を降りると写真の山道に出ます。
この山道を進んだ先に西水門がありました。 -
これが西水門です。3段の石垣がある造りで山と山との谷あいに築かれていました。
しかし、ここで写したはずの写真が数枚写っていません。いつものカメラのトラブルのようです。
西水門の本来の役割を理解するための鍵となる写真でしたが無いものは仕方がありません。
西水門に降り立ってそこから写した写真があるので、その写真で説明しましょう。 -
中央の窪んだ所を通って西水門に至ります。写真右上の黒い場所が本陣跡から降りてきた山道です。
左の大きな岩を屏風岩、右の小さな石を亀石といいます。2014年に訪れた時は名前が書かれた案内板があったのですが今は何もありません。朽ち果ててしまったようですが、新たに差し替えられた訳でもなく、荒れるに任されたような状態でした。 -
屏風岩と亀石の間は人一人がやっと通れるくらいの広さしかありません。
しかも下りの階段があるので急いでは降り難い構造です。
下りた所の下には巨岩が横たわっていて広い平地になっていました。
この広場には神籠石の案内図で示された龍尾石という平らな石があるのですが、どのような目的で置かれたのかは皆目分かりません。説明板らしきものがここには無かったのです。
屏風石と亀石は西水門に抜ける重要な関門だったとの仮説をたててみましょう。
第二奇兵隊本陣跡と西水門の間の防御陣地を敵兵が突破して西水門に向かって来たと仮定します。
その場合は西水門に抜ける人一人しか通れない小さな道は封鎖されます。狭いこの関門は容易には突破されない構造だったはずです。多分構造上から亀石の上には屏風岩と同等の巨石かもしくは土塀、頑強な板塀があったと考えられます。
一方山と山との谷あいの設けられた西水門に向かって川下から敵兵が攻め上ってきた場合は3段の石垣から成る西水門に設けられた土塀の上からと、この巨岩の上に配した弓兵から雨あられと矢が降り注ぎ、攻め上る敵兵をなぎ倒したことでしょう。
この場所は近代城郭では必ず設けられている虎口と呼ばれる防御構造にとてもよく似ていて、この虎口の変形のように感じました。
虎口とは敵兵をこの字型の空間に誘い込んで3方向から鉄砲や矢を打ち込み、敵兵を射殺すいわばキルゾーンと呼ばれた防御施設です。
古代の山城を造った百済の技師や工人たちにこのような防御知識があったとは驚きでした。 -
巨石の上にある広場から眺めた西水門。
この写真では3段から成る石垣の西水門の全景は見えていません。 -
山道の道なりに降りていきます。
西水門中央部は割と小さ目な石で石垣が築かれていますが、その端は写真のように巨岩が据え付けられていました。 -
西水門の石垣。神籠石の列石は石と石の間に隙間が無いように組まれていましたが、ここの石垣は野面積みで結構隙間がありました。
山から落ちる流水を流れやすくしているのだと思います。 -
中央の石垣を通り過ぎると再び神籠石の列石が続いていました。
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北水門に続く山道の途中から見下ろした西水門の全景。
写真を写した上りの山道も下から這い上がる敵兵には高い障害物になります。この場所に弓兵を配置すると三方から敵兵を挟撃することができます。
この形は虎口そのものです。ここの構造物や地形を理解すればこの山が山城であることは理解できると思います。 -
北門に続く上りの山道の途中から写した屏風岩と亀石がある景色。
平地の下には並ぶ様に巨石が2つあり、さらにその右にも連なった巨石がありました。 -
次は北水門へ向かいます。案内表示が指し示す方向が北水門です。
ここは変った地形で山道が三叉路になっていました。 -
左の道は何処に行くのでしょうか。散策案内図では北西に向かう道が途中でカットされています。
ひょっとして下山する道かな? -
この道は北水門に向かう遊歩道。
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そしてこの右の道は散策案内図によれば石城神社に向かう山道でした。
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では迷わずに案内表示に従って北水門に向かいましょう。
北水門までは山を下りますが、下りの道には階段が設けられていたものの大半が枯葉に埋もれていました。運動靴では枯葉に足を取られて滑りそうです。
トレッキングシューズか登山靴を履くのがいいでしょう。
2014年に散策した時とは遊歩道の整備が各段に違いました。コロナ禍の影響で遊歩道の整備がなされていないのでしょうが、今ではイノシシの獣道になって荒れ放題です。 -
おびただしいほどの枯葉に埋もれている遊歩道。
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坂道の遊歩道を下って来ると開けた場所が見えてきました。
この先に北水門があるのかな? -
先程の場所からさらに下る道があり。下りきったところが北水門のようです。
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降り切った所から遊歩道を振り返って見たところ。
この辺りは枯葉が積もってはいるものの階段がはっきり分かりますが、大半は枯葉に埋もれていました。 -
坂道を降り切った所は西水門と同じようにかなり広くて平らな空き地があり、そこから北水門が見えました。広場には下りの階段があったのでそこを降りて北水門に向かいました。
北水門は西水門と違って大きな石垣が一つあるだけです。名称は北水門ですが水の出口は石垣の中央の下に小さな穴があるだけです。その穴(石垣の中央下の穴)は山姥の穴と呼ばれ、夜間に山姥がここから出入りしていたそうです。
この水門も谷あいに造られているので、どう見ても防御用の石垣にしか見えません。 -
石垣の高さはおよそ5~6mと言うところでしょうか。近くに寄って見ると結構高い石垣でした。
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北水門の右端に山水が流れ落ちる場所がありました。
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写真が見にくいですがここに水が流れていました。
元々中央の穴に流れていた山水が、時代の流れと共に流れるルートが変わったのでしょう。それにしても水量が少ない水門です。 -
北水門の威容。西水門に比べて堅牢な石垣であった事が分かります。
石垣の上に板塀や土塀があればその高さは7~8m前後にもなり強固な防御施設となります。 -
北水門周囲の様子。正面の藪に覆われたところが坂道の遊歩道を降りてきた場所です。覆われた草で形状が分かり難いですが、平たい広場になっていました。
その広場の下は石垣です。
北水門の前はなだらか下り坂で西水門と同じように虎口の形をしていました。
水門前に殺到した敵兵(唐・新羅連合軍)は3方向から射竦められるような構造になっていました。 -
北門に向かう高台の登山道から眺めた北水門。
北水門の石垣はかなりの高さであることが分かります。 -
3方を石垣で囲まれた北水門の虎口の全景。
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北門に向かう途中で出会った「マムシグサ」の群落地。正式名称は「アオテンナンショウ」で日本各地の山に自生しています。
蝮の鎌首に当たる部分は仏炎苞と呼びますが、質はこれが花なんです。
5月なので鎌首の部分はまだ小さいですが、これから成長して6・7月には大きくなります。6,7月にマムシグサに出会うとドキッとしますね。 -
「マムシグサ」の群落地。
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北門に向かうには北水門から石垣沿いの道を上り、ここから右の階段を上って行きます。
左に進めば虎口の一角を構成する石垣の上に行けます。 -
虎口の全景。写真中央に立っている1本の木の下には石垣の上に土があり北水門の高さより少し高くなっていました。
北水門の場合は3方が石垣に囲まれていて、西水門よりも堅牢で規模の大きな虎口でした。 -
虎口の全景。
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案内板の指示通りに階段を上がって行くと再び神籠石の列石に出くわしました。
遊歩道は相変わらず落ち葉に覆われていましたが、神籠石は傷みや破損がほとんど無く、建設当時の姿をとどめていました。
ここの遊歩道は右に神籠石の列石が、左には土塁の遺構がはっきり残っています。石城山神籠石 名所・史跡
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遊歩道に積もった落ち葉はイノシシの格好の遊び場のようで、悪さをした後が生々しく残っていました。
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整然と配置された神籠石の列石。
石城山神籠石 名所・史跡
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こちらの遊歩道沿いの神籠石はほとんど傷みがありません。
道の左側には土塁の痕跡が延々と続きます。 -
遊歩道の左側に巨石が現れました。
石城山で見る石の中で最も大きな巨石でした。 -
この岩の名は龍石。どうして龍石なんでしょうか?岩の形が龍に似ているのかな。
龍石と書かれた木の杭は下の方が朽ち果てていて、岩に立てかけてありました。 -
龍石を通り過ごして反対側から見た様子です。巨石がどうして遊歩道(山城の通路)脇にあるのでしょうか?
自然にあった岩では無く、人為的にここに置かれた公算の方が高いと思います。
では何のために置かれたのか?私は通路の関門があったのではないかと考えました。
果たしてその通りなのか可能性を探りましょう。 -
反対側の斜面にも写真のような巨石がありましたが、龍石よりは小さい岩でした。
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龍石の反対側にある基壇にあたる部分。基壇の石と思われるものがありましたが、巨石の基壇としては規模が小さすぎるようです。
置かれた巨石が長い年月の間に砕け飛散したと考えられなくも無いですが、巨石であればいくつかの塊が残っていてもいいはずです。
しかし、そのような石の塊はありません。 -
写真の左に巨石が置かれたのであれば左の斜面を掘り下げて巨石を据える空間を確保しなければなりませんが、そのような痕跡はありません。
右の巨石を関門として使用するのであれば、左の山の斜面をそのまま残し、斜面と巨石の間に木の関門を設置したと考える方が自然なのかもしれません。 -
北門からは上りの遊歩道(山城の通路)が続きます。
右には神籠石の列石、左は土塁の遺構が続いていました。
土塁の遺構は北水門から北門に至る区間が一番よく残っています。昭和の学術調査ではこの土塁の跡が山城の通路と判定する証の一つになったそうです。 -
神籠石の列石。この区域の列石は保存状態が良く山城の創建当時の様子を今に良く残しているそうです。
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神籠石の列石。
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延々と続く神籠石の列石。
石城山神籠石 名所・史跡
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神籠石と神籠石の合わせ目。縦に一本線が見えるだけで隙間は全くありません。
精工に加工された石の接着面に驚くばかりです。古代の技術に脱帽。
日本でもインカ帝国の遥か800年以上も前に、インカ帝国の石の加工技術に勝るとも劣らない技術があったのです。
古代の石の加工技術恐るべしです。 -
ちなみにA4のコピー用紙を差し入れてみましたが、石の合わせ目には全く用紙が入りませんでした。
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淡々と神籠石の列石が続きます。
遊歩道を黙々と歩いて行くと、古代によくもまあこんな物を造ったものだと感嘆します。 -
列石のカープ。
直線や緩やかなカーブが多かった列石ですが、このように角度の大きなはカーブは珍しい。 -
北門に到着しました。北門と呼ばれる遺構の列石には大きな神籠石が使用されていました。
今回は北門まで、次回は北門の神籠石を見た後東水門までの旅行記をお送りします。
ご訪問下さりありがとうございました。石城山神籠石 名所・史跡
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