2022/04/12 - 2022/04/12
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Yasoさん
今年1月に漫画家の水島新司さんが亡くなりました。
自分にとっての最重要漫画家の1人である事は理解してましたが,頭の中にかすかに残っている昔の記憶をたどって行くと,小学校に入る前に読んでいたマンガは・・・あれ「ドラえもん」が出てこない。自分的に意外でした。「ドラえもん」は間違いなく最初期に読んでいたマンガだったはずですが,幼稚園時に読んでいたマンガとして記憶に残っているマンガは「ドカベン」だけだったのです。
この瞬間,記憶を元にすると,僕の1番最初に好きになったマンガは「ドカベン」であり,最初に好きになった漫画家は「水島新司」という事に決定しました。
「ドカベン」は本当によく読んでました。自分への影響は計り知れないと思います。この機会に何かしなくては,と思うも「ドカベン」全巻読み返すでは当たり前過ぎるなぁ,と。考えた結果「水島新司という人の生まれてからの足取りを辿る旅」というのはどうか?となり,初めて「水島新司」で検索,いろいろ調べてみる事に。
そうして大まかに水島新司さんの足取りが分かりました。今回,この不世出の漫画家の歩みを1ファンとして辿って行きたいと思います。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 新幹線 JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
【新潟編】
水島新司さんは「1939年4月10日新潟県新潟市生まれ」という事で,やって来ました新潟へ!
かつて通った事はありますが,また新潟県内には何度か足を踏み入れた事はあるものの,新潟駅下車は自分史上初です。
新潟は雪国のイメージがありますが,4月(水島さんの誕生日の翌々日!)に行き,確かに電車でトンネルを抜けたら雪国でしたが,平地の新潟駅周辺は雪はまるっきり見られませんでした。
写真=「新潟駅」です
新潟駅の開業は1904年だそうですが,現在地に開業したのは1958年との事。水島さんが新潟から出た年ですね。 -
駅の北側の大きな通りを道なりに1km程行くと,
写真=「萬代橋」があります
今の萬代橋は3代目で1929年に出来,重要文化財となっている様です。「昭和時代初期における大規模なコンクリートアーチ橋の貴重な現存例」であって,新潟市のシンボル的存在だそう。 -
萬代橋が架かるのが,
写真=「信濃川」です
言わずと知れた日本一長い川ですね。全長367kmですが,この辺りは河口まで3~4kmくらいの所です。 -
とりあえず新潟の街並みを上から見てみようと,信濃川沿いを海の方へ歩きます。
写真=「万代島ビル」です
2003年に出来た,新潟県で最も高い建物だそうです(高さ約140m)。ここの展望台へ行ってみます。 -
イチオシ
写真=万代島ビル31Fから南西方向の眺めです
信濃川に架かる橋がいくつか見えますが,手前から2つ目が萬代橋です。
で,3つ目と4つ目の橋の右側辺りが水島新司さんの子供の頃の生活圏になると思われます。その辺りを目指します。 -
写真=万代島ビル31Fから西方向の眺めです
信濃川の向こう,2km程行ったら日本海になります。
ちなみに「信濃川,日本海,関屋分水(信濃川の人工水路)」で囲まれた陸地を「新潟島」というそうです。
関屋分水が出来たのが1972年という事なので,それ以降の呼び名であり,歴史はまだ浅いですが「市民の間での通称に留まらず,新潟市の行政でも市議会でも会議名や議題名に用いられるほど定着している」そうな。へぇ~。
さて,僕も新潟島に入ります。 -
イチオシ
驚きましたが,新潟は幕末の開港5港(横浜,神戸,長崎,函館,新潟)の1つだったんですね。他の4港に比べ,西洋風建築がいろいろあるとかチャイナタウンがあるとか,そういう文化があまり感じられないのは何故なんでしょう。
新潟島に入り,信濃川沿いに更に海の方へ行くと,
写真=重要文化財の「旧新潟税関庁舎」があります
「新潟港の運上所(後の税関)として」明治2年(1869年)に建てられ「開港五港の税関の建物としては唯一現存している」貴重な建物だとか。へぇ~。
新潟の歴史や地理をほんの少し学びましたので,いよいよ水島さんの足取りを辿ります。
-
水島新司さんの実家は「新潟市の魚屋」という事ですが,具体的な場所までは分かりませんでした。ただ小学校が白山小らしいので,これでかなり絞られます。
「新潟の魚屋」で調べると興味深い事が分かりました。
江戸時代,いろんな町でみられたそうですが「同じ商売をする店が特定の地域に集まって」いるという特徴があるそうで(「町座」というそうです)新潟もそうだったとの事。
で,魚屋はいうと「現在の本町通11番町西側」に町座を形成していた様です。白山小も本町通11番町もいわゆる「新潟島」内にあり,互いの距離はそれほど遠くありません。もしかしてこの辺か!?
写真=「旧第四銀行住吉町支店」です
昭和2年(1927年)の建物で,今は旧新潟税関庁舎と同じところに建ってますが,元は住吉町にあり移築されたそう。
「本町通11番町」は住吉町から2~300mくらいの所にあります。 -
一方で現地調査をした所,水島さんの実家に関して「カミ町」「カワバタ町」という情報をゲット!
所が,新潟市には「カミ町」という地名は存在しません。何かの間違え・・・?と思いきや!
萬代橋から新潟島に入ると「征谷小路」という通りになります。この征谷小路を境として,信濃川の上流の方を「上(かみ)町」下流の方を「下(しも)町」と呼ぶ,という呼び方があるとの事!
あった「上町」!
しかし・・・!「本町通11番町」は「下町」のエリアになります。振り出しに戻っちゃいました(苦笑)。
写真=「ぷらっと本町」です
「ぷらっと本町」は本町通6番町の商店街で,この商店街を抜けた辺りから「下町」になります。更にずっと行くと「本町通11番町」ですね。 -
もう1つの「カワバタ町」ですがこっちは「川端町」がちゃんとあります。そして「川端町」こそ「上町」のエリアにある地名です!
しかも白山小の近く,というより白山小の住所が「川端町」の様です!
写真=本町通5番町の方面です
こちらが「上町」エリアになります。 -
写真=道の左側が「川端町」になります
この辺に水島新司さんの実家の魚屋があったのでしょうか?
とりあえず,水島さんの少年時代に思いを馳せながら,この辺りを歩き回る事にします。 -
水島さんが2歳の時に太平洋戦争が始まってますね。
新潟市は空襲されなかった様ですが(長岡市が相当やられたそうです)原爆投下の候補にあがっていたという事で「原爆疎開」があったそうです。これは知らなかった。1945年8月14日には「市内はほぼ無人に近い状態」になっていたとか。へぇ~。
そのまま終戦を迎えたそうです。
写真=「上大川前通」です
本町通より信濃川寄りの通りです。 -
白山小に入学したのは1946年4月だと思われます。
ちなみにこの頃は「国民学校初等科」だったそうな?1947年から「学校教育法」が出来て「小学校」に変わって行ったとか。
写真=「新潟市立白山小学校」です
当時の校舎は1964年の新潟地震で倒壊した様です。 -
写真=白山小学校のプールです,奥に校庭が見えます
写真の右側はすぐ信濃川になります。
水島さんの小学校時代のエピソードとして確定的なものは,調べても分かりませんでした。
足が速くて「50m,100mの短距離は負けた記憶がない」というのは小学校の体育の時間でしょうか?中学校かもしれないですが,まあとにかく水島さんは子供の頃,運動神経は抜群だったみたいです。 -
水島さんの父上の実家は大きな魚料理店だったとか。子供の頃「おやじの包丁さばきは新潟一」「どの魚屋さんよりも速くてうまい」と思っていたそうです。これは単に息子の思い込みでなく,近所の人たちも見に来る程だったとか。
水島さん自身も家業を手伝い「将来は兄貴と一緒に親父の後を継ぐ」予定だった模様。
写真=上大川前通から見えた,昔ながらの家々です
昭和の,それこそ僕が読んでた水島漫画に出てきそう。 -
一方で「おやじは気が向かないと1週間くらい仕事をしない」人だったらしく,店の事や魚の仕入れは子供達(9人いたそうです)が担当してたとか。
なんというか,職人肌ってより芸術家肌って感じの人ですね。
更に父上は「パチンコに金を使う」し「初めての人にもツケで」売り「結局金を取れない」ので,生活は大変だったそう。
後に水島さんは「貧乏を描いたら誰にも負けない」と言っていたそうですが,少年時代の自分の体験が元になってるのでしょうか。
写真=「本町通」から見た「鍛冶小路」です
水島さんが少年時代を過ごしたと思われる辺りには,信濃川と平行するような形で「上大川前通」「本町通」「東堀通」「古町通」「西堀通」とメインの通りがあって,通りを繋ぐような形でいくつも「小路」があります。
「小路」はそれぞれ名前がついてる様です。 -
さて「水島漫画を読んだことが野球好きになったきっかけ」という方は結構いるかもしれませんが,肝心の「水島新司はなぜ野球好きになったか」というのは,ファンの間でも謎の様です。僕も分かりません。推測するしかありません。
水島さんの少年時代にはすでに高校野球もプロ野球もあり,野球はある程度の人気スポーツだったはずです。
更に「店の前で,毎日のように,おやじとキャッチボールをしました」「タイガースファンでした」というご本人の証言もあるので,基本的に父上が野球好きで,水島さんも,物心つく頃にはいつの間にか野球好きだったのかもしれませんね。
写真=「本町通」から見た「碇屋小路」です -
父上としては「息子は魚屋を継ぐ」と思って疑わなかったのでしょう。でも,戦後の自由な世の中で生きている少年には「魚屋」だけでとどめておくのは難しかった様です。
「大きくなるにつれ,魚屋以外のいろいろな夢が私の中でふくらんでいった」との事で,絵を描くのも好きだったそうですが,「プロ野球選手」が1番の夢になったそうです。
写真=「本町通」から見た「曲師屋(まげしや)小路」です -
所で,水島さんが通った小学校と中学校の間に「白山公園」があります。調べるうちに「水島さんと野球」に関する興味深い発見がありました。
写真=「白山公園」内「白山神社」のひょうたん池です
「白山公園」は完成時期は明確でない様ですが,1872年(明治5年)にはすでに工事が始まっていたらしく「日本で最初に開設された25箇所の都市公園のうちのひとつ」だそうです。へぇ~! -
今の「白山公園」に野球場はないのですが,水島さんの少年時代には野球場があったとの事!
写真=「白山神社」の本殿です
「白山神社」は創建年は不明のようですが,平安時代中期だそう。現在の本殿は1647年(正保4年)に建てられたものだとか。
「あぶさん」の景浦安武は結婚式をここで行なっているそうな。そうなんや!(すみません「あぶさん」は読んでないもので・・・) -
その名も「白山球場」で,1937年に完成して,1964年の新潟地震で倒壊したそうです。という事は,水島さんが生まれてから新潟を離れるまで,ずっと存在していた事になります。
写真=「白山神社」の随神門です
ちなみに景浦は「幼少期は悪戯坊主」で白山神社の宮司に「松の木に吊されたこともある」そうで。更に悪友と組んで「白山神社の賽銭を盗んだこともある」とな。そうなんや(苦笑)。 -
1948年5月13日に白山球場で新潟県初のプロ野球が開催されたそうです。阪神VS中日で「平日開催にもかかわらずスタンドは満員札止め1万5000人で埋ま」ったとの事。
タイガースファンの水島家は,この試合を観に行ったかどうかは分かりませんが,この話で盛り上がった可能性は高いんじゃないかと思われます。
写真=「白山公園」はお花見にも適してますよ~ -
水島さんが中学校に通う際,白山球場の脇を通っていたと思われます。この球場で野球を見た事はあったのでしょうか。そんなことを考えてしまいます。
写真=「白山公園」内「新潟県民会館」です
白山球場の跡地には,1967年に「新潟県民会館」が開館している様です。 -
1952年4月に白新中に入学したと思われます。
「白新」という名で,水島漫画ファンとしては思わずニヤリとしてしまいます。
「ドカベン」で主人公の山田太郎の神奈川県内での最高のライバルの1人,不知火守の学校が「白新高校」ですねぇ。自分の母校をライバル校に持ってくる所が水島さんのニクい所です。
不知火は結局,山田に阻まれて甲子園の土を踏むことは一度もなく白新高校を卒業します。
そしたら今回初めて知ったのですが「野球狂の詩」で白新高校は「夏の甲子園で準優勝」しているとか。そうなんや!(すみません,僕は「野球狂の詩」も読んでません・・・)
写真=「新潟市立白新中学校」です -
僕が野球部だったのでふと思いましたが,水島さんは中学で野球部だったのでしょうか?その辺の情報もないですね。この頃はあまり部活動は盛んではなかったのかも?
さあ,水島ファンにとって今や伝説のエピソードとも言える場所に来てしまいました!
「母校の白新中の隣りにある新潟明訓高の野球部の練習を憧れながら見ていた」というエピソードです。
これに関しては「白新中から見ていた」「魚屋の手伝いの行商中にリヤカーを引きながら見ていた」あるいは「しょっちゅう練習を見に来る水島少年を野球部員が誘ってくれて一緒に練習をした」「誘ってくれた野球部員が山田のモデル」とか,ファンの妄想とも思える(笑)エピソードまでいろいろありますが,全部本当なのか一部なのか,ちょっと分からないですね。
ご本人の証言によると「僕も野球をやりたかった。中学校の向かいが新潟明訓高校だったんで『明訓に入ってショート守って』と思っていた」との事。ショートなんですね,スターポジションじゃない所が水島さんらしいというか。
とにかく,新潟明訓高に憧れていたのは間違いなさそうです。
写真=白新中の向かいが・・・ -
写真=かつて「新潟明訓高校」だった敷地です
「新潟明訓高校」は「新潟夜間中学」として1921年に開校したそうです。
1948年に「新潟明訓高等学校」になり,1950年にこの場所(川岸町=白新中の隣り)に移転したとか。って事は,水島さんが中学に入った頃はまだ,出来たてじゃないですか新潟明訓!そういう意味でも憧れだったのかなぁ。
しばらくこの場所から動けませんでした。完全に怪しいおっさんです(苦笑)。
今から約70年前,水島新司という少年が,実家の魚屋を手伝いつつ,野球への憧れを膨らませていたんですねぇ。この場所で。 -
新潟明訓が甲子園に初出場した時は話題にもなりましたし,僕の中でも盛り上がりました。
2004年に再び移転して,今はここから南東に6~7kmの所にある様です。
写真=右側がかつて「新潟明訓高」だった敷地で,その奥が「白新中」です -
所が「中学2年の時に家庭の状況が変わって,学校どころじゃない」という事になってしまった様です。
「野球どころじゃない」ではなく「学校どころじゃない」というのが,家庭の経済状況の大変さがうかがえます。
父上も「学問より手に技術をつけろ」という人だったらしく,水島さんは「中学3年は3日しか(学校に)いっていない」そうです。この頃から実家の手伝いに明け暮れる日々になったのでしょう。
そうして「新潟明訓高への進学」も「プロ野球選手の夢」も完全にあきらめたとの事です。
写真=かつて「新潟明訓高」だった敷地の向こうは信濃川です -
そうして中学卒業後も,父上が借金をしていた水産問屋で働いたとの事。
この水産問屋の場所も分かりません。「本町通11番町」だったかもしれませんね。
そんな頃,1955年10月1日「新潟大火」が起きます。新潟島の中心部が相当な被害にあった火事だそうです。「台風の影響を受けた強風」かつ「建物はまだ木造が多かった」ので,周辺で焼け残った建物は少なかったとか。死者が1人も出なかったのは奇跡的だそう。
水島家への影響は,どうだったのでしょうか。
写真=「本町中央市場(人情横丁)」です -
水産問屋で「人身御供のように」働いたという水島さん。後々「青春のすべてを家の犠牲にした。でも当時は僕もそれを当たり前だと思ったし,恨みもなし。後悔もないんですよ」と語っています。
でも,これは僕の想像ですが「このままで終わってたまるか」「なんとか別の道を探し出してやる」くらいの事を考えていたのではないかと,後の事を考えると,そう思ってしまいます。
まだ10代半ば,仕事が忙しくてヒマはあまりなかったかもしれませんが,何かを吸収しようとするアンテナは張っていたのではないでしょうか。
写真=「東堀通」です -
ここで水島新司さんの「魚屋」「野球」続く3つ目のキーワード「漫画」がついに出てきます!
「17歳で貸本屋でさいとうたかをさんの作品に出会って,かっこいいなと」思ったそうです。が,普通だったら読んで満足すると思われる所ですが,描いてみようと思ったところに「このままで終わってたまるか」魂が見て取れますね。
そして,睡眠時間を削るなど,わずかなヒマをみつけての執筆活動が始まります。
「もともと絵を描くのは好きだった」そうですが,絵と漫画は違います。僕も漫画を描いていたから分かりますが,慣れないうちは1作(数十ページ)描くのも相当時間かかります。当時はまだ「漫画の描き方」なんてガイドブックもなかったでしょうし。ましてやわずかなヒマで描くとなると,とんでもない時間がかかるのでは・・・。
と思いきや「まねして描くとけっこううまく描ける」と。やはりモノが違うのです,漫画家になれなかった僕と天下の水島新司では(苦笑)。モチベーションもハングリー精神も全然違うのです。
写真=「本町通」沿い,左側は銭湯,右側には映画のポスター,昭和の風景を発見 -
イチオシ
水島新司さん,漫画を描いてた事を誰かに話してたのかなぁ・・・。そんな事を考えてしまいます。父上には言ってないでしょうね。きょうだいの誰か,友人でも,理解者はいたのだろうか。孤独な戦いだったのでしょうか?
完成した作品を「手元に置いておくだけではもったいない」という事で,大阪の貸本専門出版社・日の丸文庫(当時は光映社?)の短編集「影」の第1回新人漫画コンクールに「駄目元で応募した」ら見事,二席に入賞したそうです。
「思ってもみなかった漫画家への道が開け」始めました!
所で,このエピソードにも僕が調べた限りでは2説あります。「評価としては次点であったが審査員の一人だった佐藤まさあきがその才能を評価し入選を強硬に主張。特別に特選二席として表彰される」というのと「水島のマンガの技術は応募作品の中では群をぬいていて,一位に推薦する人もあったほどだったが,新人らしい新鮮さに欠けるということが問題になって,結局,一位の座を他に譲ったのである」というのです。
何というか真逆の説ですねぇ。
しかもこの漫画賞に,水島さんは3本も応募していたそうです。
写真=白山公園内にある「新潟県政記念館」です
「新潟県政記念館」は,元々は新潟県会議事堂として1883年に出来た建物で,今は重要文化財になっています。「現存唯一の府県会議事堂の遺構」として価値が高いとか。 -
水島さんは新人賞の授賞式に出席するために大阪に行きます。場所は心斎橋の不二家レストランだったとか。
「出版社(日の丸文庫)の社員に欠員が出た」そうで,そこの山田社長から「大阪に出て編集部に寝泊まりして,編集を手伝いながら先輩たちの作品を見て勉強したらどうか」と提案されたらしいです。
水島さんはこれを「夢のような話」と受取ります。
後は,地元の人を説得するのみ・・・。
写真=東堀通5・6番町と古町通5・6番町をつなぐ道です -
新潟に戻った水島さんは家族を説得します。
水島家でどういった話し合いがあったのか,想像するしかありませんが,父上としては大事な働き手の息子だし,水産問屋にも迷惑がかかるし,相当反対されたと思われます。
水島さんはどうやって説得したのでしょう。「今まで散々,家のために働いてきたじゃないか!」「オレは一度野球を諦めた!」「今度はオレのやりたいことをやらせてくれよ!」(水島漫画調で)ってな事を言ったのでしょうか。
最終的には「おやじの反対を押し切って」大阪に行く事になります。ただし「1年たって漫画家としてどうにもならなかったら新潟に戻る」という父上からの条件があった様です。
という事で,ついに水島新司さんの漫画家人生がスタートします!
写真=「古町5番町商店街(水島新司まんがストリート)」です
新潟編の最後は,水島漫画の人気キャラの銅像が立ち並ぶアーケード商店街「水島新司まんがストリート」です。 -
写真=「景浦安武」の像です
「あぶさん」の主人公ですね。「景浦」よりも「あぶさん」として,読んだことのない僕でも知ってます。酒がムチャクチャ好きなキャラとして(苦笑)。
漫画内の「ホークスの背番号90」は現実世界のホークスで「あぶさん」連載中は漫画に配慮して(?)欠番だったそうな。
更に引退した時は現実のホークスで「景浦安武引退セレモニー」が行われたとか。凄いことですよね,これ。 -
写真=「水原勇気」の像です
「野球狂の詩」の主役キャラの1人ですね。今でも女性プロ野球選手は存在しないのに,1970年代に主役に持ってくる発想,先見性が今考えるとすごいです。
当時,水島さんがいろんな方に女性プロ野球選手のアイディアをどう思うか聞いたそうですが,頭ごなしに「女性はムリ」という反応が多かったそうな。
そんな中,野村克也さんだけは「女性かー。1つボールがいるな。落ちる球が一番いいな。1つあればバッター1人かワンポイント、1イニングとか使える」と言ったとか。 -
写真=「里中智」の像です
さあ来ました。僕の大好きな「ドカベン」のキャラが。今考えると「ドカベン」はリアリティと荒唐無稽が違和感なく混ざり合って,絶妙な世界観を作り出していた気がします。
里中はリアリティの方のキャラなので,強烈な印象があるわけではないですが,山田とのバッテリーで,痛々しい姿で投げていたってのがすぐ思い浮かびますね。突き指したりねぇ。
「さとるボール」ってのがありましたね。それも魔球っぽくないからあまり印象に残ってないのかな。でも荒唐無稽じゃないからいいんですよね,彼の場合は。
だからバレンタインのチョコが大量に届いたりするんですよね。これ初めて知った時はビックリしましたけど(笑)。 -
イチオシ
写真=「山田太郎」の像です
言わずと知れた「ドカベン」の主人公ですねぇ。この山田,子供の頃は全く気付きませんでしたが,漫画の主人公として,結構異端児の様です。
まず,当時「野球漫画の主人公はピッチャーじゃなくてはならない」みたいな暗黙の了解があったってな話を聞きます。彼はキャッチャーですから「野球漫画の主人公の革命児」でもあったんですね。
後,これは僕の個人的な体験からですが,漫画を出版社に持ち込んだ時に編集者から「目をもっと大きく描いた方がいいと思います。やっぱり漫画の主人公は基本的に目が大きいので」というような事を言われて,初めて「そういうもんなんだ?」と気付いた事がありました。山田太郎はそもそも目の玉がないですからね(笑)。異端児としか言いようがないです。
連載開始前に,水島さんが最初に山田の顔を編集長に見せたら,どうも反応良くなくて,すかさず岩鬼の顔を見せたら「いけそう!」となったらしいですよね。
山田って,たぶん人気投票しても主人公なのに1位になれないタイプだと思います。けど,僕は好きでしたねぇ。危険キャラ,荒唐無稽キャラが出てきても,彼の安定感,安心感あるキャラでうまく収まるみたいな,そういうのがあったと思います。
山田と岩鬼に関しては,止まらなくなりそうなので,早めにやめときます(苦笑)。 -
写真=「岩田鉄五郎」の像です
「野球狂の詩」の主役の1人,というだけでなく様々な水島漫画に登場しているらしいですね。「野球狂の詩」を読んだことない僕でも,なんとなく馴染みがあります。
なんというか,水島さんがつい使いたくなっちゃうキャラなんでしょうかね。好きな時に好きなように使うキャラだからか「登場作品によって,来歴や立場,場合によっては容姿や性格も大きく異なる」とか・・・(笑)。
とりあえず今回,岩田の投げるときの掛け声が「にょほほほ~!」である事を初めて知りました。水島漫画の掛け声は「うおおお~!」だと思ってたのに,斬新だな!と思いました。 -
写真=「殿馬一人」の像です
「ドカベン」の荒唐無稽キャラの代表格ですね。づ~らづ~らとやる気なく(?)歩き,一挙手一投足がとにかく独特でした。僕は漫画をムチャクチャ読みまくってるわけじゃありませんが,こんなキャラ滅多にいないんじゃないでしょうか。
「岩鬼が出て,山田が返す。これが明訓の必勝パターン」ってのがありましたが「岩鬼がボケて,殿馬が突っ込む。これが明訓の必笑パターン」だったと思います。
殿馬といえば,何と言っても「秘打」ですよね。「白鳥の湖」が有名ですが,僕が印象に残ってるのは「秘打・黒田節!」。丁度「ドカベン」を好きになり始めの頃だったから,特別に覚えてるのかな?
そういえば「ドカベン」が最も盛り上がっていた頃の,山田達が2年の春の甲子園の決勝,土佐丸戦。勝負を決めたのは山田じゃなく殿馬のホームランでしたよね。あれは「白鳥の湖」じゃなくて,確か超長いバットで,だんだん思い出してきました,「秘打・円舞曲別れ」だったっけか,犬神がボールもろとも落ちるシーン,よく覚えてます!今考えると,なんで山田じゃなく殿馬だったのかなって感じもしますが,殿馬も主役の1人だからなぁ。
余談ですが「デスノート」読んだ時,「L」のキャラを「独特だけどどっかで見たな,こんなキャラ。そうだ殿馬だ!」と思ったのを思い出しました。「やる気無さそうで,動きがユニークで,天才的」ってのが,なんか似てるなと。 -
イチオシ
写真=「岩鬼正美」の像です
トリは「男・岩鬼」です!荒唐無稽な要素をたくさん持ちつつも,リアリティのある人間性も持っている「ドカベン」の傑作キャラですね。
まずやはり「ハッパ」ですよね。突然,花咲いたりしますからねぇ(笑)。後,「学帽」。彼は打席立つときもヘルメットはなく学帽。野球界から特別に認められてたんですねぇ。
「やぁ~まだ」「さと~」「とんまぁ」と人に対して独特の呼び方。先輩に対しても「どえがき」と敬意も何もない(苦笑)。自己中で傲岸不遜な一面がありつつも,殿馬や山田の妹のサチ子の突っ込みに「ど,どブスチビ」とあえなく論破される一面もあり,愛されキャラでした。
肝心の野球では,三振が多くても全然めげない。どころか,常に賑やかでサービス精神旺盛。まさにキャプテンに相応しい男?
そして「悪球打ち」ですよね!岩鬼の悪球のホームラン率は100%ではないか?と思われる程,悪球に強い男です。しかも打球音が「グワラゴワキィ~ン!」みたいな,物理法則を無視した音になってます。
子供の頃はムチャクチャ好きでしたねぇ。好きすぎて,千葉県人なのに関西弁を真似してました(苦笑)。
岩鬼も神奈川県人なのに,何故関西弁?ってのは作中で説明ありました。
水島さんは新潟県人なのに何故関西弁のキャラが得意?ってのは,大阪行ってたからなんですね。では大阪編です。 -
【大阪編】
1958年2月頃発行された日の丸文庫の「影」17号に受賞作の「深夜の客」が掲載され,それが漫画家としての水島さんのデビュー作になった様です。
「影」は基本的に探偵物の短編誌との事で「深夜の客」もそういう作品の様です。水島漫画は探偵物から始まったんだ?ってのが分かりました。
絵柄はとても水島新司さんとは思えない,どちらかというと手塚治虫さん的な絵柄ですね。さいとうたかをさんを真似して描いたとの事ですが,この当時はさいとうさんも,手塚さんの延長上の様な絵柄だったと思われます。
写真=「大阪城」天守閣です
日程と予算の都合により,大阪訪問は叶わず。大阪の画像は2006年の旅行の時の物を使用させていただきます。 -
この頃の「影」の執筆陣,辰巳ヨシヒロさん,さいとうたかをさん,佐藤まさあきさんといった人達はいわゆる「劇画を作った人々」です。1958年時点では,一応「劇画」という言葉はあったようですが,一般的な意味での「劇画」はまだ影も形もない時代,と言ってもいいと思います。
「日の丸文庫」には「何か新しいものを生み出してやる」というエネルギーの塊みたいな若者が集って,凄い熱気だったのではないか,と思ってしまいます。
水島さんが劇画家って言われる事はあまりないと思いますが(初期の「ドカベン」をみると結構極太の線の絵柄で劇画っぽい感じもしますが)劇画の黎明期に立ち会っていたんですねぇ。
そういう新しい物を感じ取るというか,見つけ出すというか,そういったセンスも持っていたんですね。
写真=「大阪城」の石垣です -
水島さんの大阪での住む場所は,出版社の「倉庫の一角を改造した小部屋」だったそうで,そこで寝起きしつつ「早朝から編集部の雑用をこなし,マンガも執筆」という生活だったとか。
ずっと漫画を描いていられる環境ではないけど,堂々と漫画を描ける生活になったわけですね。
日の丸文庫(光映社)の所在地は当時の住所で「大阪市南区安堂寺橋通」だそうですが,これは現在「大阪市中央区南船場」になっている様です。
写真=「船場センタービル」です
「船場センタービル」から南に4~500m程行けば,南船場です。
大阪の中心ですねぇ。 -
「影」でコンスタントに作品を発表しますが,最初期の水島漫画のタイトルは「拳銃と顔役」「地獄の写真」「俺は殺る」「命知らずの探偵屋」「どうして俺は捕ったか」など,とても「野球漫画の水島新司」の作品とは思えないタイトルが並びます。
その中で1959年5月頃に発表された「彼奴さえいなけりゃ」は,ジャンルこそスリラーですが「野球を題材にした水島漫画として最古の物」だそうです。へぇ~。
写真=「道頓堀」です
南船場から更に南に500m程行くと,道頓堀です。当時の道頓堀ってどんなんだったんだろ? -
さて「1年」の約束ですが,水島さんとしては「定期的に作品を発表してる」けれど,父上としては「漫画家として今後ずっとやっていけるのか」まだ納得出来なかったようです。
1年で結論は出なかったみたいで,水島さんは「1年半後に独立」する事になるのですが「その時稼いだ7万円(今だと70万~140万?)を見せても,おやじは信じないんです」と。父上は「出版社の社長から借りてきたんだろう」ときかなかったそうな。「それで社長に電話して確認してもらった。そしたら『そんなにもうかるもんなのか』って。それからはもう何も言いませんでした。」というようなやり取りがあった様です。
写真=「道頓堀」ですが,こういう作り物多いんですよね,ここは
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1960年に独立した水島さんは「日之出荘」というアパートに住んだそうです。影丸譲也さん(「ドカベン」の影丸のモデル?)など,何人かの漫画家が一緒に住んでいたとか。
東の「トキワ荘」西の「日之出荘」と言われたかどうかは定かではありません(笑)。
写真=「なんばパークス」です
僕が「なんば」という言葉を初めて知ったのは,たぶん「男どアホウ甲子園」だと思います。 -
独立して,父上からも文句は無くなり,ついに漫画を思う存分描ける環境を手に入れた水島新司さん。次々と作品を発表していきます。
この頃はほぼ,日の丸文庫の専属という形でやっていた様ですが「影」の他に,時代劇短編集「魔像」(「五百両の錦絵」「大あばれ!!百姓侍」),短編集「オッス!」(「巡査日記」「無敵ダンプガイ」),「水島新司爆笑シリーズ」(「げんこつ高校生」「ふとっちょのキー太郎」),テレビドラマの漫画化(「番頭はんと丁稚どん」「てなもんや三度笠」)など,様々なジャンルの物を描いていたそうです。
僕の知ってる水島漫画はほんの一部だったんだ?って感じです。
写真=「通天閣」です
僕が「通天閣」を初めて知ったのは,たぶん「ドカベン」です。「坂田三吉」という名前もです(笑)。 -
一方で,ずっと描きたかったけど「まともな絵が描けるまで待った」ジャンルがありました。それが「野球漫画」です。
題材としてはちょくちょく取り上げていた様ですが,本格的な野球漫画は,自分が納得できる画力を手に入れるまで描かなかったそうです。
大阪時代の絵柄を見ると,まだ「水島漫画の絵」ではないんですよね。作品を描きつつ「野球の絵」を勉強していたんでしょう。
大阪だから甲子園にも取材に行ったりしたのかなぁとか考えてしまいます。
そんな中,1964年に水島さんは上京した様です。
写真=水島さんが大阪にいた頃は影も形もなかった「大阪ドーム(京セラドーム大阪)」です
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【東京・神奈川編】
上京した水島さんは主に「週刊少年キング」(少年画報社)で作品を描いていたそうです。「キング」は当時の5大週刊少年漫画誌の1つで,最も人気が低かったとはいえ,発行部数は25万部はいっていた様です(「影」は最盛期で8千部くらいらしいです,貸本なので単純比較は出来ないかもしれませんが)。
1966年にサッカーもの(!)の「下町のサムライ」,1967年に梶原一騎さん原作の「ファイティング番長」などなど描いていた模様。
さて!「今は自分が考える,投げる,打つ,走るがまだ描けない」ととっておいた野球漫画ですが,28歳の時「この絵なら勝負できる」という境地に達したそうです。
1969年「週刊少年キング」で花登筺(はなとこばこ)さん原作の「エースの条件」を連載。これが水島さんの,最初の本格的な野球漫画とされるみたいです。
僕は読んだことはないのですが,今回絵柄を見たところ,僕が知る「水島漫画の絵」だ!と思いました。それまでの「漫画」タッチの絵にいい感じで「劇画」要素が加わった絵柄です。
ここからついに水島野球ワールドが全開していきます!
写真=「少年画報社」ですが,工事中で本社は仮移転中だそう -
1970年「男どアホウ甲子園」を「週刊少年サンデー」(小学館)で連載します。
やっと僕の読んだ作品が出てきました(笑)。
この作品,原作者は佐々木守さんになってますが,佐々木さんは野球の知識がなかったため,野球の試合になると全て水島さんが担当していたとか。
それまで「魔球漫画」がいろいろありましたが,主人公を「剛球一直線」にした事で,魔球が影をひそめる様な作品になってたのでは。藤村甲子園が投げるときの「うおおおお!」は,何の違和感もなく読んでました。小学校低学年の頃ですかねぇ。普通に投げるとき「うおおおお!」って言うのかと思ってたのかも(笑)。
また,そういう時代だったからでしょうか,あるいはまだ水島さんが野球漫画に慣れてなくて手探り状態だったからでしょうか,最初の内は野球部に賭博好きの連中がいたり,抗争したりして,とても野球を伸び伸び出来る環境じゃないんですよねぇ。今読むと「ありえへん」とか思ってしまいます。
テレビアニメ化もされ,水島さんの最初の大ヒット作となりました。1973年度の小学館漫画賞を受賞しています。
写真=「小学館」です -
1972年から「野球狂の詩」を「週刊少年マガジン」(講談社)で連載します。
最初は月刊ペースの不定期連載だったそうで,週刊連載になったのは1976年の事だとか。元々,話ごとに主人公が違う短編の連作集のような漫画だったんですね。
僕は恥ずかしながら,この作品を読んだことがないのですが,岩田鉄五郎は「大甲子園」にも出てたので多少馴染みがあります。
テレビアニメ化され,アニメ映画化もされたそうです。実写でも映画化されたり,テレビドラマにもなってたとか。へぇ~。
1973年度講談社出版文化賞(児童まんが部門)を受賞しています。
写真=「講談社」です -
同じ年に「週刊少年チャンピオン」(秋田書店)で「ドカベン」の連載が始まります。
ついに来ました!僕の最も好きな漫画の1つです。僕だけじゃなく,当時は社会現象化した国民的野球漫画だったと言ってもいいのではないかと思います。
「ドカベン」ってそもそも弁当の事で,野球とは何の関係もなかったのに,今や「野球の強打者(体型が太目の)」って意味になってますもんね。
でも完全なる柔道漫画で始まってました。そういえば,殿馬や里中は野球になってから出てきたキャラでしたが,岩鬼は柔道もやってましたよねぇ。ホントに山田の追っかけだったんだなぁ,岩鬼って(笑)。
そして水島さんが子供の頃憧れていた新潟明訓高校が,神奈川県の明訓高校としてこの漫画で出てくる事になります。
テレビアニメ化もされました。主題歌は今でもよく覚えていますよ。実写映画化もされてましたねぇ。しかも水島さんが出演してました。徳川監督役で,ラスト辺りでノックしてたシーン,頭に焼き付いてます(何故このシーンが?と自分に突っ込みが入りそうですが・笑)。
「ドカベン」に関してはネタが多いので,また後ほど・・・。
写真=「秋田書店」です
「秋田書店」に行ったのは,20年振りくらいだと思います。前回行ったのは,自分の漫画の持ち込みでした。今回,いろんな出版社の写真撮りましたが,どこに持ち込みに行っても,あまりいい思い出になってないのです(苦笑)。
「水島さん追悼の旅」はある意味「僕自身の懺悔の旅」だな,とか思ってしまいました。 -
所で水島さんが高校野球にハマったのは「やっぱり江川からですよ」との事。あの怪物・江川卓さんですね。「私にとってはモノが違う」と絶賛しています。「江川のボールはバットに当たらないんだもん。打者がファウルを打つとスタンドが沸いた。」ってホントすごいですね・・・そんな感じだったんだ?
「江川とは電話でインタビューしてから家族ぐるみの付き合いになって,甲子園の大会中は同じ宿舎に泊まって一緒に風呂に入ったりしていた。」との事。1973年の事だと思われます。いや~水島さんのキャラもすごいって事が分かるエピソードですねぇ。
水島漫画には実際の野球選手もよく出てきますが,こうやって実際の選手と仲良くなるから,好きに描けたのかもしれないですね。
写真=「明治神宮外苑」の軟式野球場です
いつ頃からかは分かりませんでしたが,水島さんは忙しい執筆時間の合間によく草野球をやっていた様です。その場所が神宮外苑軟式野球場だったとか。 -
1973年「あぶさん」を「ビッグコミックオリジナル」(小学館)で連載します。
少年漫画だけでなく青年漫画にも進出します。酒飲みの漫画は少年漫画では描けないでしょうね(笑)。あ,でもどうでしょうこの時代だったら・・・。
僕はこの作品を読んでませんが,時々新聞に載ったりして「『あぶさん』まだ続いてるんだ?長っ」とか思ってました。結局2014年まで,41年も連載が続いた長期連載漫画になりました。
それだけ長く続き,実在選手もたくさん出てくるので「パ・リーグの選手はこの作品に登場して初めて一人前の選手だと認められた」という説もあるそうな。
1976年度の小学館漫画賞(青年一般部門)を受賞しています。
写真=「明治神宮外苑」の軟式野球場です,奥に神宮球場が見えます -
同じ1973年に描かれた「出刃とバット」という,あまり知られていないと思われる作品があります。
この作品の主人公は「新潟県の白新中学で野球部員」かつ「魚屋の息子であり家庭の事情のため高校進学を断念」という境遇で,モロに水島さん自身の身の上を反映しています。
短編作品ですが,1973年度の小学館漫画賞を受賞しています。
機会があったら読んでみたい作品です。
写真=「明治神宮外苑」の銀杏並木です
草野球をやってる場所というと「その辺の空き地」とか「河原」とかのイメージがありますが,神宮外苑はなんというか格調高い感じがしますね。 -
1975年に「一球さん」を「週刊少年サンデー」で連載します。
結構個人的に思い入れのある作品です。野球の事を何にも知らない忍者の子孫が主人公という,下手すると荒唐無稽な設定ですが,子供の僕はなんの違和感もなく読んでました。
「男どアホウ甲子園」の主要キャラが主人公の育ての親だったり,野球部の監督だったりと,後日談の様な作品でもあります。ラストで藤村甲子園がついに出てきて,盛り上がり最高潮になる展開でしたねぇ。
純粋に野球が好きでやっているキャラは見当たらず,チームワークなんてあるのか?ってな高校が舞台で,トラブルだらけ。むしろ主人公の真田一球がさわやかで純粋なキャラで,野球をどんどん覚えつつ,チームもまとめていこうとする展開だった様な。一球さんのキャラが好きでしたよ。
結局オリジナル野球部員も,助っ人として来た3人(三球士)も,みんな辞めてしまい,一球さんが寄せ集めたメンバーで甲子園に行くというストーリーでした。
「常勝・明訓」の「ドカベン」とは違い,野球の影の部分が印象に残っている作品です。
テレビアニメ化もされてます。主題歌をまだ覚えてますが,今考えると「ドカベン」に比べて影のある曲でした。
写真=「武蔵小金井駅」です
いつからいつまでか分かりませんが,水島さんは武蔵小金井駅周辺に住んでいたそうです。 -
写真=「武蔵小金井駅」北口からすぐの小金井街道です
この辺りに「白鳥」という喫茶店があったそうで,水島さんは一時期その店でアイディアを考えたりしていたとか。で,マスターの娘の「ユウキ」という名前を貰って水原勇気の名が決まった,という説がある様です。
実話だとすると,水原勇気が漫画に登場したのは1976年との事ですので,その頃には水島さんはこの辺りに住んでいたのでしょう。 -
1977年には「球道くん」を「マンガくん(連載中に『少年ビッグコミック』に名称変更)」(小学館)に連載します。月2回の隔週誌だったそう。
一応全部読んでるんですけど,約40年前に1回だけ通して読んだだけですので,あまり記憶に残ってないのです。球道くんのキャラは好きでしたけどね。
妙に覚えてるシーンは,なんかやたら邪魔してくるヤツと球道くんが決闘して,傷だらけの球道くんが「監督,出場停止です」とユラ~っとなってるシーンです。子供心に衝撃的だったからでしょうか。
キャラとしては藤村甲子園と似ていますが,関東版を描きたかったのか?それとも山田太郎のライバルを作っておきたかったのか?
我が千葉県の浦安の話でもあります。まだディズニーランドが出来る前の浦安(市ではなく町でした)を舞台にするとは,さすが水島さん渋いです。
写真=「武蔵小金井駅」付近です -
さて!この頃の水島新司さんは凄いことになってました!
1977年の時点で「ドカベン」「野球狂の詩」「あぶさん」「一球さん」「球道くん」と5つの連載を抱えている状態です。「球道くん」は隔週とはいえ,週刊連載を4つも同時期に持ってるとは,今では考えられないですねぇ。
それなのにこの年は「一球入魂」という野球専門月刊誌を創刊して,自ら編集長になってしまったそうで。自分で更に仕事を増やすという暴挙(?)に出てます(笑)。
「ドカベン」「野球狂の詩」はテレビアニメ化され,翌78年には「一球さん」もアニメ化。人気もすさまじい事に。
1977年の長者番付・文化人部門で1位になるほどの人気ぶりだった様です。
更に特筆すべき事は,自身で実写版「ドカベン」に出演したり,紅白歌合戦のゲスト審査員を務めたり,翌78年には「ああ野球狂」というレコードまで自ら歌って出している所です。
水島漫画が大ヒットしただけでなく,水島新司さん自身がタレント活動してる様な状態だったんですね。
写真=神宮外苑軟式野球場の隣りに位置する「明治神宮野球場(神宮球場)」です -
そして,僕が水島漫画を読み始めるのもこの頃です。この流れだと,ただのミーハーだったんじゃねぇか,と自分に突っ込みが入りそうです(苦笑)。
幼稚園の頃(78年頃)に「ドカベン」最新刊24巻を家で読んでたってのが最古の記憶なのですが。今回調べると,単行本24巻の発売は76年らしいのです。そんな前?4歳だよ?でも最新刊だったよな・・・。迷宮入りしそうなので,考えるのはやめます。
とにかくリアルタイムで「ドカベン」の単行本を愛読していましたよ。
「ドカベン」はいろんなネタがありましたよねぇ。ちょっと思いつくだけでも,山田が記憶喪失になったり,金縛りなんてのもありました。優勝旗も盗まれましたよね。里中が出られなくなって渚で苦労する試合とか。山田の全打席敬遠は後に本当の甲子園大会で起こるし。岩鬼が失恋でやる気喪失しちゃったなんてのも。
キリがなくなってきますね。
写真=「サーティーフォー保土ヶ谷球場」です
「ドカベン」の神奈川県予選で馴染みのある「保土ヶ谷球場」は実在していて,今は命名権の関係で上記の名前になってます。初めて行ってきました!
水島さんも取材で訪れていた事と思われます。 -
1979年,連載8年目の「ドカベン」に作品内で,ある大事件が起きます。
山田太郎が1年の夏,2年の春でそれぞれ全国大会優勝を果たし,夏連覇かつ春夏連覇を目指す明訓高校。
2年の夏の甲子園,2回戦の相手が岩手代表の弁慶高校です。(この辺,全部自分の記憶だけで書いてるので,間違いもあるかもしれません)弁慶高校のエース義経が明訓戦の前に「最初の打者の初球でど真ん中ストライクを投げる」と投球予告をします。これに対して明訓のメンバーは「1番が悪球打ちの岩鬼だから,ストライク投げても打てないから,意味ない予告じゃん」ってな反応をします。が,監督の土井垣はいい作戦を思いつきます。
1番の岩鬼と4番の山田を交換して「1番山田,4番岩鬼」の明訓前代未聞の打順を組むのです。「山田だったら,あらかじめストライクと分かっていれば,絶対にホームランを打つ」と土井垣監督は考えます。義経はストレートの握りまで見せて投げ,山田は見事にプレイボールホームランを打ちます!作戦成功!
と思いきや,実は弁慶高校の術中にハマっていたのでした。いつもの明訓は「1番の岩鬼が出て,4番の山田が打って返す」というパターンだったのが,「1番の山田が出ても,足が遅くて帰れない」ってな事になってしまいます(まあ山田がホームラン打てばいいんですけど)。いわゆる「帰る男が返す男になり,返す男が帰る男になる」状態。これにハマった明訓は必勝パターンが崩れていきます。
弁慶高校でもう1人カギを握るのが,武蔵坊という超人的(?)な能力を持った選手でした(ホントに高校生か?)。試合展開の詳細はさすがに思い出せませんが,確か武蔵坊の力で逆転された明訓が9回になんとか追いつきます。
試合を見に来ていた土佐丸高校の犬飼小次郎が「これで延長だ,勝ったな明訓」と言い,土井垣がうれしそうに「まだ分からん」というシーンを覚えてます。
しかし9回裏,送球がランナーの武蔵坊に直撃して,そのすきに義経がホームを狙います。タイミング的にはアウトでしたが,義経は「八艘飛び」で山田のタッチをかわしホームイン。武蔵坊は送球を受け「仁王立ち」状態。歴史好きがニヤリとしそうな展開で常勝・明訓は敗れます。
これを読んだ時の衝撃はあまり覚えてないんですよね。常に単行本で読んでたので,常に兄から前情報があったのかもしれません(笑)。
写真=「サーティーフォー保土ヶ谷球場」の一塁側選手入口です
こういう所,水島さんだと顔パスで入れる様な気がしちゃいます(笑)。 -
これ以降「ドカベン」は妙に盛り下がった感じになります。名勝負といった試合が思い浮かびません。水島さんのモチベーションが下がったのでしょうか。
象徴的なのが3年春の甲子園での土佐丸との試合。土佐丸選手に殺気だった感じが全然なく,肩透かしを食らったかの様にあっさり明訓が勝ちます。
大平新監督の息子の高校との対決で,ドラマ的に盛り上がったりもしましたが,おおむねあっさりと3年の春は甲子園で優勝します。
そして1981年,里中が母の病気のため野球部を辞め,岩鬼が自分の帽子を取って投げるシーンで「ドカベン」は終了します。
この時も僕は「終わって残念」という記憶は無いんですよねぇ。たぶん兄から「この後の事」を聞いていたからじゃないかと思います。「3年の春」で終わってる所が,やはりポイントですよね。
写真=「サーティーフォー保土ヶ谷球場」の用具置き場?です
こういう所も水島さんは丹念に取材してそう,と勝手に思ってしまいます。 -
1981年「光の小次郎」を「週刊少年マガジン」に連載します。
僕は読んでないのですが,プロ野球12球団が,全て水島さんオリジナルのチームというチャレンジングな作品です(名前はメジャーリーグからとっているそう)。
リーグもオリジナル,リーグごとに例えば延長戦のルールもオリジナルの様です。
「実際のプロ野球界よりおよそ20年余り早く,ほぼ全国に渡って球団が配置されている」という点は,まさに水島予言ですね。
写真=「明治神宮外苑」の軟式野球場です -
1982年に「ダントツ」を「週刊少年チャンピオン」で連載します。
1年という短い連載期間でしたが,個人的に好きな作品です。初めて水島作品を連載最初からリアルタイムで(と言っても単行本ですが)最後まで読んだ作品になります。でも,これと「大甲子園」だけですけど・・・。
今考えると,高校野球の「監督」を主人公にしたという点で画期的だったのではないでしょうか。
特筆したいのは「男どアホウ甲子園」「一球さん」「球道くん」などで描かれていた「賭博好きの連中」「野球以外での抗争」「部員同士の対立」「野球を邪魔してくるヤツ」という「野球を伸び伸びやれる環境ではないような状態」が,この作品には全くなく,野球がうまい選手も下手な選手も,楽しく伸び伸びやっている様な姿が最初から最後まで描かれている点です。
70年代的なものが終わり,80年代的になったと言ってもいいかもしれません(笑)。
弱小野球部が勝ったら,タダ飯を食わせてくれる食堂のオヤジが,すぐ負けると思ってたのにずっと勝ち続ける野球部に対して「もう乗り掛かった舟だ!全部タダ~!!」と開き直るシーン,まだ良く覚えてます。痛快でした。
水島さんにとっては「大甲子園」の前にもう一校描いとくか,くらいの作品だったかもしれないですが,僕にとっては結構思い入れある作品です。
写真=「聖徳記念絵画館」です
「聖徳記念絵画館」と銀杏並木の間に「神宮外苑軟式野球場」はあります。
この広いスペース,「おお~」って思いました。「スケボー禁止」ってあるのに,いましたよスケボー少年(苦笑)。でもこの広いスペース,気持ちは分かるって感じです。 -
そして!1983年,「週刊少年チャンピオン」で「大甲子園」が始まります!
当時,小学生の僕は興奮しましたねぇ。好きな水島漫画の主人公たちが同じ作品で対戦する,というファンが憧れる様な話が実現してしまいましたから。
水島さんは「野球が大好き」だけじゃなく「自分の野球漫画も大好き」なんでしょうね。以前テレビで,確かビートたけしさんが「水島さんって『岩鬼がよぉ』って自分の漫画のキャラの事話し出すんだよね」とか言ってましたが,ホントに自分の漫画大好きなんでしょう。だからこそ「大甲子園」を描けたのかもしれません。
今回,初めて知ったんですが,いつ頃からこの構想があったのかは分かりませんが「どの高校野球漫画も(主人公の)三年春の甲子園までで物語を終了させていた」らしいです。へぇ~。細かく突っ込むといろいろ矛盾は出てきますが,ここはしっかり考えてたんですね。
全編面白かったですが,特に3回戦の「明訓VS巨人学園」,準々決勝の「明訓VS光」,準決勝の「明訓VS青田」は最も興奮した所です。
「明訓VS青田」は超長かったですね。確か延長18回引き分け再試合になりました。そして,球道くんの球速がどんどん伸びて行きました。160キロが出た時は当時中学生の僕でも「ありえないなぁ」と苦笑してしまいましたが,今,現実になってしまいましたからねぇ。ホントびっくりです。水島さんの予言力が凄いのか,現代の高校生の資質と努力が凄いのか・・・。
写真=「明治神宮外苑」の軟式野球場です -
所で,水島さんは草野球でたけし軍団とよく試合をしていたそうですが,その関係か「ビートたけしのスポーツ大将」(1985~1987年)というテレビ番組にも,たまに出演してた様です。
余談ですが丁度この頃,僕は中学生で野球部で,顧問の先生のチームがどういうコネからか,この番組でたけし軍団と試合をして勝ってしまった,というのをテレビで見た記憶があります(笑)。
写真=「明治神宮外苑」の軟式野球場です
1987年に「大甲子園」が終了します。この時点で僕の興味・関心は映画,音楽などに移っていて,ここで水島漫画愛読の日々は終了します。今考えると約10年間です。長かったのか,短かったのか・・・。この年頃という事を考えると,やはり長かったと言えるでしょう。 -
1989年に「おはようKジロー」を「週刊少年チャンピオン」に連載します。
この作品,物語の期間は主人公が高校に入学した4月~夏の甲子園大会の8月までの約5ヶ月なのに,連載期間は約5年半という,かなりじっくり進む作品の様です。「大甲子園」もそうじゃん?という意見もあるかもしれないですが,あっちはオールスター勢ぞろいでネタには困らないですからねぇ(ちなみに「大甲子園」は1ヶ月くらいの話で4年半くらい連載してますね・それもすごい)。
オール新キャラの物語でどういう内容なのか気にはなります。
しかも我が千葉県の話の様で。千葉代表が甲子園で活躍する,それだけでも機会があったら読んでみたい作品です。
写真=「吉祥寺駅」です
いつ頃か分かりませんが,水島さんは吉祥寺駅付近に豪邸を建てたそうです。そしてここが終の棲家になった様です。
この豪邸を上から見ると,一部がホームベースの形に見えるとか。水島さんらしい遊び心でしょうか。 -
1991年夏に「新潟編」でも書きましたが,新潟明訓が甲子園に初出場します。
1993年「平成野球草子」を「月刊ビッグゴールド」(小学館)に連載します。
大ヒットはしなかった様ですが,短編読み切り集といった形式で「平成版・野球狂の詩」と言ってもいいクオリティの高さ,という説もあるそうです。
写真=吉祥寺駅近く「井の頭公園」の井の頭池です -
さて,社会現象となるほど大ヒットした「ドカベン」ですが,高校野球で話が終わっています。(僕は個人的にそれで良かったのです)が,水島さんはちゃんとプロ野球編の構想を考えていたそうです。
水島さんが南海ホークス狂だったので「もちろん山田は南海で」でも「現実で『ドカベン』と言われていた香川伸行が先に南海に入ってしまった。ドカベンを2人も南海に入れるわけにいかないし,あれで完全に狂いました」との事。こうして山田太郎の話は「大甲子園」で終わり,となったそうです。
しかし1994年,当時西武ライオンズの4番だった清原和博さんに「山田たちはプロに行かないんですか? 僕は山田から4番とはなにかを教えてもらったんです」と言われ,水島さんの心が動いたそうです。
更にイチローさんから「一つこれだけは約束して下さい」「殿馬だけはオリックスへ入れること」「『ドカベン』のキャラクターとしては,秘打が売りの殿馬が一番好きなんです」「殿馬と是非,一・二番コンビを組みたいんです」と具体的なアイディアが来たそうです。イチローさん大好きの僕としては思わずニンマリです。
そうして1995年「ドカベン プロ野球編」が「週刊少年チャンピオン」で連載開始します!
清原さんに「山田には,自分と同じチームでクリーンナップを組ませて欲しい」とリクエストされて,山田は西武に入団する事になったそうです。でも水島さん的に「清原が巨人に行ったときは『この裏切り者』とショックだった(笑)」そうです(苦笑)。
「プロ野球編」は2004年に「スーパースターズ編」,2012年に「ドリームトーナメント編」と題名を変えつつ,長期連載になります。
写真=「井の頭公園」の井の頭池です -
神奈川県大和市に1980年に完成した「引地台野球場」が,改修工事を経て,1996年に全面人工芝で電光掲示板等を有す本格的野球場として生まれ変わったそうですが,その際に水島さんがアドバイスをした事で「ドカベンスタジアム」という愛称になったそうです。へぇ~。
落成式には水島さんの講演会も行なわれたとか。
ちなみに2014年に正式名称の方は「大和スタジアム」になったとの事。
写真=「大和スタジアム(ドカベンスタジアム)」です -
そして,1997年には球場改修の総仕上げとして,球場正面に山田と里中のブロンズ像が建てられたそうです。全然知りませんでしたよ。
写真=「大和スタジアム(ドカベンスタジアム)」の里中と山田の像です(山田が見えにくくて申し訳ないですが・苦笑) -
この頃になると,もはやレジェンド的存在となっている水島さんです。それなりの仕事やそれなりの評価も受けていく事になります。
そして故郷・新潟の為にもいろいろと活動をしていった様です。
1998年から「にいがたマンガ大賞」の最終審査員を務めていたそうです。
「にいがたマンガ大賞」は新潟市で開催されているマンガコンテストで,自治体の主催によるマンガコンテストは「日本だけでなく世界でも珍しい」そうな。
写真=「大和スタジアム」の文字の下に「DOKABEN STADIUM」の文字が! -
2001年に開館した石ノ森章太郎さんの記念館「石ノ森萬画館」(宮城県石巻市)の初代館長を2003年まで務めます。
石ノ森章太郎さんとそんな繋がりがあったとは,意外でした。
2002年「マンガジャパン」の代表世話人に就任します。
「マンガジャパン」はストーリー漫画家を中心とした交流団体で,漫画家の権利を守ることを目的とするほか,国際文化交流事業なども行っているそうです。
東日本大震災の時は,津波で被災した石ノ森萬画館に団体から義援金を贈ったらしいです。
写真=「井の頭公園」の「お茶の水」です
「お茶の水」は徳川家康(明訓の監督ではありません・笑)が井の頭池の湧水を関東随一の名水とほめて,お茶をいれたという伝説から名がついたとか? -
2002年に,新潟の中心市街地活性化策として,古町5番町商店街に,僕も見てきた例の銅像7体が設置され「水島新司まんがストリート」となります。
更に2003年からは市観光循環バス(ドカベンバス)が走ったり,市役所や新潟空港ロビーで「山田太郎等身大ボード」が置かれたり,新潟で水島さんのキャラクターがいろいろ見られる様になったそうです。
2005年には「新潟市サポーターズ倶楽部」の会長に就任します。
「新潟市サポーターズ倶楽部」は首都圏在住者を中心に,新潟市の様々な魅力を全国そして世界に発信しつつ,新潟市の振興・発展を目指す組織だそう。
写真=「井の頭公園」の「お茶の水橋」です -
2005年には紫綬褒章を受賞しています。
「ついに勲章か!」と思いきや「褒章」と「勲章」は別物だったんですね!「勲章」は「広く社会や国家に長年にわたる貢献をした人」に対してで「褒章」は「特定分野の発展に多大な貢献をした人」に対して,だとか。へぇ~。この機会に学びました(笑)。
「紫綬褒章」は「科学技術分野における発明・発見や,学術及びスポーツ・芸術文化分野における優れた業績を挙げた方」が対象だそうです。
更に2007年度,日本漫画家協会賞の文部科学大臣賞を受賞しています。「全作品」に対してだそう。
写真=「井の頭公園」の井の頭池です -
所で,「新潟県立野球場」作る際,名称を「ドカベンスタジアム」にするという話があった様です。水島さんも無償使用を快諾していたそうですが,県知事が代わり「命名権」の話が出てきたそう。
「企業名」と「ドカベン」の併記,の話もあったそうですが,うまくまとまらなかった模様。
2009年に新潟市商工会議所や県野球連盟などが「ドカベンを球場名に」と約4万人の署名を集めたそうです。この時点で名乗り出る企業はなく売却先は決まっていなかったそうですが,結局「HARD OFF ECOスタジアム新潟」となりました。
この話と関係あるかどうかは定かではないのですが,この年に水島さんは「新潟市サポーターズ倶楽部」の会長職と,「にいがたマンガ大賞」の最終審査員を辞任した様です。
写真=「井の頭公園」の神田川の起点となる所です -
2014年に旭日小綬章を受賞します。
今度こそ勲章です!旭日章は「社会の様々な分野における功績の内容に着目し,顕著な功績を挙げた者を表彰する場合に授与する」賞だとか。
写真=井の頭公園~吉祥寺駅間の商店街です -
2015年,新潟の「水島新司まんがストリート」の山田太郎の銅像を使って,ケツバットをされてる様に見せるトリック写真「ケツバットガール」がネットで話題になったとか。女性達が実に楽しそうなのですが,う~む,この人達は山田のキャラもケツバットの痛さも,分かってないんだろうなぁとか思ってしまいます。
ケツバット経験者からすると,もう立っていられないくらいの痛みで芋虫のようにゴロゴロと転がりつつ「ぐぉぉぉぉ(汗)」と悶え苦しむ事になります(バットの質とやる人にもよると思いますが)。
水島さんもこの事実を悲しんでいた様です。
これと関係あるかどうかは定かではないですが,この年,水島さん側が銅像の撤去を要請したそうです。同年,契約解除でドカベンバスや山田太郎等身大ボードは終了した様ですが,協議の結果,7体の銅像はみんな残る事になったとか。
おかげで僕もおがむ事が出来ました。
写真=「大和スタジアム(ドカベンスタジアム)」です
こちらの山田像はボールに当たる前の状態なので,ケツバット問題はなさそうです。
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2018年「ドカベン ドリームトーナメント編」が終了し,ついに「ドカベン」シリーズが完結します。
正味約36年ですが,1972年から46年(!)かけて描かれた事になります。単行本はシリーズ計205巻(!)との事。
僕が子供の頃は,漫画の単行本100巻なんてありえない世界でしたが,今は珍しくなくなってきてますよねぇ。200巻もちらほらありますからねぇ。
100巻超えだと,水島さんは「あぶさん」もあるので,2作持ってるってのがとてつもないですよね。
写真=「大和スタジアム(ドカベンスタジアム)」の内野スタンドと外野スタンドの間です -
この頃までには,相当のプロ野球選手に影響を与えていたと思いますが,2018年に野球殿堂の特別表彰の候補になります!
特別表彰の対象者は「日本の野球の普及及び発展に顕著な貢献をした人,しつつある人」という定義なので,なるほど野球選手じゃなくてもいいんだ。
「漫画家としての初の野球殿堂入り」はなるのか?ファンとしては期待してしまいますが,14票中3票獲得で候補者10人中同率4位,殿堂入りならずという結果に。得票率75%(11票)で殿堂入りという事なので,う~む厳しいですね。
2019年も候補入り。5票獲得で10人中3位になるも殿堂入りならず。来年こそは!
と思いますが,2020年は3票獲得で10人中5位という結果。
そして2020年12月,2021年の候補を「心境の変化があった」と辞退します。ファンとしては残念だけど,ご本人の判断だからしょうがないです。
同じタイミングで「漫画家引退」を発表します。
ティーンエイジャーの頃,たまたま手に取った(と思われる)「影」からスタートした漫画家人生。1958年にデビューして63年,ついに水島新司さんが引退してしまいました。僕はこの時,兄に久しぶりにメールしました。
最後の作品となったのは2018年の「あぶさん」の読み切り「あぶさん~球けがれなく道けわし~」だそうです。「球道くん」と混ざっちゃってます。この辺の自由さも水島さんらしいです。
写真=「大和スタジアム(ドカベンスタジアム)」のバックスクリーンの後ろ側です -
イチオシ
2020年1月10日,肺炎のため東京都内の病院で亡くなります。82才でした。
今回,時間をかけていろいろと調べ,新潟に行き,神奈川と東京にも行って来ました。この旅行記にも相当時間を費やしました。久々に水島ワールドに長時間入り込んだ感じです。1987年に「大甲子園」を読み終わって以来の事だと思います。
最後に,まだ残っているネタを。
「ドカベン」で山田が「米粒には7人の神様がいる。だから一粒でも残すと罰が当たる」ってな事を言いますが,僕はモロに影響受けてます。今でも,なるべく一粒も残さないで食べる様にしていますよ。
それと,これも山田が「まず足にお湯をかける」「立った状態で入り,ゆっくり座る様にして徐々に浸かり,肩まで入る」ってな感じでお風呂の入り方を説明しますが,これも影響受けてます。いまだにこの入り方してますね,よく考えたら(笑)。
こういう日常生活の,親から教わるような事を水島漫画は教えてくれた様な気がします。漫画では珍しいのではないでしょうか。
他にも「蹲踞(そんきょ)の姿勢でどれだけ立っていられるか」と足腰を鍛えたり「快速列車に乗っているときに通過駅の駅名を読んで」動体視力を鍛えたり(これ結構難しいんですよねぇ・苦笑),自分でもホント影響受けてるなぁと思います。
写真=「大和スタジアム(ドカベンスタジアム)」の山田像です -
イチオシ
写真=「大和スタジアム(ドカベンスタジアム)」の山田像脇の水島新司さんのサインです
水島新司さん,今まで本当にありがとうございました!
[参考文献]
朝日新聞社会部編.おやじのせなか.東京書籍,2001.
桜井昌一.ぼくは劇画の仕掛人だった.エイプリルミュージック,1978.
「みんなが売ってみんなが儲かるー新潟町の魚屋たちー」.新潟県立文書館.https://www.pref-lib.niigata.niigata.jp/?page_id=1158
原田遼.「漫画家・水島新司さんが語っていた『ドカベン』あふれる甲子園への思い」.東京新聞.2022.https://www.tokyo-np.co.jp/article/154677
中野晴行.「水島新司引退宣言へ贈ることば」.論座.2020.https://webronza.asahi.com/culture/articles/2020120800003.html
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