2022/01/27 - 2022/01/27
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壱岐照三さん
リバークルーズは憧れで、とりあえずは長江、ライン川あたりを制覇したい、と思っている。ゆくゆくはザイール川(コンゴ川)、ニジェール川のクルーズに行きたい、と考えているのだが、とりあえず今の情勢だと、神田川がせいぜいか・・・ということで、都合3時間、大クルーズの旅行記。
東京在住の人、または東京に通勤している人はご存知と思うが、神田川の水辺を歩いている人や、川遊びをしている人、船で物を運んでいる人はほとんどみない。つまり、人類未踏の川、でもあるため、まずは準備段階で両国から千住までの隅田川を大型船で軽く往復、改めて探検用の小型船に乗り込み、両国橋のたもとの河口から神田川に入っていった。・・・
なお、文中「〇〇年架橋」とあるのは、その橋のオリジナルが一番最初に架かった年、という意味で、写真に写る目の前の橋が架かった年、ではない。念のため。
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隅田川についてはメインの話ではないので端折るが、両国橋の船着き場から相当遡った旧綾瀬川の河口。ここを進むと隅田大門を経て荒川に出る。場所的には汐入公園と墨田区総合運動場の間あたり、ここで隅田川は大きく西側に曲がる。
地域的には鐘ヶ淵、鐘淵化学やカネボウの発祥の地、という方が分かりやすいか。鐘ヶ淵、というのは1620年にこの近くにあった普門院というお寺が亀戸に移転する時に、その鐘を間違って川に落としたことに由来(墨田区は後世の伝説と否定しているが)しているとのこと。他にもたくさん由来があるのだが、なぜここで写真を撮ったかと言うと、その鐘が落ちているのがこの辺だから。左に写っているのは隅田川沿いに今もある造船所の一つ。 -
折り返し地点である千住大橋(国道4号線)。これより先は低い橋があるため、潮位の低い時を見計らって・・・のようでないと進めない未開の地である。ちなみに隅田川につながる新河岸川にある板橋の小豆沢まで不定期に行くことができるが、相当な装備が必要と思われる。
この千住大橋は1594年に徳川家康が幕府を開く前に初めて隅田川に架けた橋で、これ以後江戸幕府の直轄橋である両国橋が出来るまで、隅田川に架橋は認められなかった。ちなみにやや下流の白髭橋(明治通り、この橋自体は大正時代に出来た新しい橋)のところに旧東海道の「白髭の渡し」という渡し舟があり、江戸時代より前はここがメインストリートだった。両国橋より下流は海か江戸時代に出来たもの、と考えてもいいそうだ。 -
折り返してからだいぶ戻って、南千住の石浜神社の屋根。724年に聖武天皇の命により作られた、ってホント?と聞きたくなる。東大寺の大仏を作っていたころ、こんな東国の何にもない土地(武蔵の国の府中や国分寺からも遠く離れている)に寺を立てろ、なんて言ったんだろうか・・・今はやりの頼朝も戦勝祈願した神社だとのこと。東京ガスのガスタンクもいつもお世話になっているので、合わせて手を合わせた。
浅草よりもっと上流の隅田川沿いにはこのように江戸時代よりはるかに昔の、おどろおどろしい歴史ものが沢山ある。これを近代都市につなげた江戸幕府の行政能力には改めて感心する。 -
隅田川からのスカイツリーの眺めはは多分ここが一番のベストショットではないか。例のオブジェも見えないし。・・・
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両国橋の小型船への乗換場所。先住民との接触を避けるためにこのように厳重な柵がめぐらされている。
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小型船に乗換え、いよいよ神田川に向かう。写真は神田川と隅田川の合流地点、河口である。
神田川はご存知の通り、井の頭公園の井の頭池から隅田川までの一級河川であるが、井の頭池から文京区関口(有楽町線江戸川橋)あたりの神田上水、そこから飯田橋を経て水道橋の手前の日本橋川合流点の旧江戸川(江戸川橋駅の「江戸川」はこちらに由来していて、現在の江戸川とは関係ない)、それより下流、の三つに分かれる。飯田橋近辺から隅田川までは伊達藩が開削事業を幕府より普請したので、「伊達堀」「仙台堀」と呼ばれたそうだが(今の中央線の乗客は神田川を見ても、伊達藩やら仙台を思い浮かべる人は皆無と思うが)その伊達堀の部分を日本橋川河口まで遡るのが、今回の探検である。
前方は神田川に架かる一番最後の橋である柳橋(柳橋通り)。1698年に架橋。花街の柳橋はこの橋の名前から来ているらしい。 -
浅草橋(江戸通り・国道6号線)。こちらは江戸初期からの橋で、日光・奥州街道の起点としても、ある意味両国橋より重要だったかも。浅草見附として、出入りする人の監視も行った。外堀にあたる神田川を越えれば、お城も近い。・・・私も浅草橋駅は何度か利用したことがあるが、これが浅草橋だ、と意識してみたのは初めてである。
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和泉橋(昭和通り・国道4号線)。1632年架橋。近くにあった伊勢藩主、藤堂和泉守の屋敷に因んで名づけられた橋、
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岩本町の駅から秋葉原に行くときは昭和通りを歩くので、書泉のビルも見慣れた光景、と思っていたが、神田川から見るとまた違った風情がある。ビルの下にちょっとした船着き場がある。
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神田ふれあい橋(人道橋・1991年架橋)と新幹線の鉄橋。新幹線建設工事の時に、工事用に作業する人の行き来が出来るように、仮設の人道橋を作ったのだが、工事終了後もこれは便利がいい、ということでそのまま残った。
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万世橋(中央通り・国道17号線(中仙道の一部))1884年架橋なので、明治時代に出来た橋だが、元々、中仙道には筋違橋という別の橋が架かっていてその橋がなくなったあと、中仙道の本道が後述する昌平橋を通るようになり、こちらは中仙道の脇道になっている・・・とのことだが、現代東京においては、中仙道というと国道17号を思い浮かべると思うので、江戸人はどう言うだろう。
秋葉原から御茶ノ水にずっと上がるこの付近は個人的には大好きなところである。 -
旧万世橋駅を改装したマーチエキュート万世橋。私は大宮に移転する前の交通博物館をぎりぎり知ってる世代だが、商業施設だけでなく、JR東ももうちょい何とかすればよかったのに、と思う。
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昌平橋(外堀通り)。寛永年間、1620年頃に架橋。湯島聖堂を作った時に、孔子生誕地である魯国の昌平に因んで名づけられたとのこと。余談だが、このような中国の故事に基づいて名づけられた橋は少なく、誰誰がこう言ったとか、ダジャレみたいなネーミングの橋が多い中、貴重な名前である。
右側(北側)はすぐに17号・中仙道にぶつかるので、こちらが中仙道だ、と言うのは分からないではないが、外堀通りをまっすぐ行くと当然日本橋には行かないので、江戸時代はどうだったのか、いまいち分からない。 -
お茶ノ水分水路の入口。神田川の氾濫を防ぐための水路で溜池みたいな役割か。下のリンクが分かりやすい。
https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/content/000047322.pdf -
神田川橋梁(地下鉄丸ノ内線・1956年架橋)と聖橋(本郷通り・1927年架橋)。聖橋は両岸の東京復活大聖堂(ニコライ堂)と湯島聖堂を結ぶから、と言うのが名前の由来。丸ノ内線は四谷や後楽園でも地上区間があるが、神田川橋梁の設計者は「地下鉄だから地下を通そう」などと考えなかったところがすごい(!)と思う。
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同じく神田川橋梁。表紙とは反対方向の電車。
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御茶ノ水駅の再開発工事で神田川に立てられた鉄骨。
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お茶の水橋(明大通り・1891年架橋)私は御茶ノ水はこの東口の方をよく利用するので、こちらの橋のの方がなじみがあるが、下から見るとやはり趣が違う。ここの渓谷が深いため、江戸時代には架橋技術がなかったので、明治になって作られたとのことで、今では駅前の交差点からほとんど橋を意識せずに医科歯科大学の方に渡れるが、実は難所であったとのこと。
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御茶ノ水を過ぎたところで、中央線を望む。実は昔から一度あの神田川を船で行ってみたい、と思っていたので、感無量なところがある。前にモーターボートで水上スキーをやってる人をみたことがあるが、今でも出来るのだろうか。
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水道橋方面に向かって船は進む。何となく秘境の雰囲気・・・はないか。
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順天堂大学。元々ここにあった高林寺(現在は本駒込の方に移転)境内から名水が湧き出てきて、それを将軍にお茶用の水として献上した、という事から、「御茶ノ水」という地名が出来た。目黒のさんまみたいな話か・・・。
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順天堂大学~工芸高校のあたりの河岸だが、きちんと手入れされているのが印象的。
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神田上水懸樋跡の碑を後ろから見る。神田上水は近くの水戸徳川邸に給水してから、この地点で神田川を懸樋という木製の水道管で渡り、神田、日本橋の方に給水していた。ちゅんと正面から見た方がよい。
ちなみにこの少し先の都立工芸高校の辺りに室町時代に立てられた「吉祥寺」という由緒のあるお寺があり、明暦の大火の後に移転(現在はやはり本駒込にある)、その時になぜか門前町の住民はついていかず、(中央線もなかった時代に)はるか彼方の五日市街道沿いの武蔵野台地に移り、開墾して町を作った。それで名前だけはお寺の名前を借りて「吉祥寺」と名付け・・・ということで、この辺は(三鷹の隣の)吉祥寺発祥の地(?)でもある。
この「明暦の大火」を機に〇〇した、という施設は案外多い、次が「関東大震災」、その次が「東京大空襲」というところか。 -
上述のように「水道橋」というのは、神田上水懸樋に由来するものなのだが、この橋、水道橋駅の東口から東京ドーム方面に行くときに渡る橋で、多分、何百回と渡っていると思うが・・・「水道橋(白山通り・1620年頃架橋)」という名前とは知らなかった。
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後楽橋(水道橋西通り・1927年架橋)。工事中のこの橋に掛かっている「空頭注意」の空頭とは何か、が話題になった。感覚的意味合い?は分かるのだが・・・建築・土木系の用語らしい。
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千代田清掃事務所・三崎町中継所。千代田区、文京区の不燃ごみをここでトラックから、はしけに積み替え、神田川を通って、江東区の中央防波堤埋立処分場に持っていく。何と東京のど真ん中のごみ処理に船を使っているとは・・・
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日本橋川の分流地点で交通整理をしている船、と言えばいいのだろうか。工事関連なのかよく分からないが、赤い旗は停止、白い旗だと日本橋川に進入出来る。
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さて、秘境もいよいよ奥地に入っていく。水道橋と飯田橋の間にある日本橋川の入口である。ここから隅田川まで流れる一級河川、であるのだが、よく話題になっている日本橋上空だけでなく、首都高5号線・都心環状線がずっと川面を覆っているため、なかなか存在の分かりにくい川である。
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日本橋川に入った直後の写真。上を走るのが首都高速5号線。
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あいあい橋(人道橋・2002年架橋)飯田橋のI(あい)、愛される橋のあい、からネーミングしたとのこと。飯田橋貨物駅の跡地再開発の時に合わせて出来た、の方が分かりやすいかも。
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新川橋(1926年架橋)話が長くなるので端折るが、江戸時代にはこの辺の日本橋川は埋められていて陸地であった。1903年に再開削して川となり、文字通り「新川」と呼ばれ、1923年の関東大震災の復興事業の一環として架橋された。
ちなみにこの橋の先に「神田三崎町」があるが、三崎とは「岬」のことで、江戸時代以前に日比谷の入り江に突き出た岬だった、ということから名づけられている。日比谷が漁村だったころの江戸の地図、というのは、今一つイメージにならないが。 -
南堀留橋(江戸時代初期架橋)。なぜか堀留橋(江戸時代初期架橋・専大通り)の写真を撮っていないのだが、堀留とは文字通り外堀が終わっているところで、堀留橋から神田川までの間の日本橋川は埋められたり、開削したりを繰り返している。写真からははっきりしないが、首都高との間が狭くて圧迫感がある。
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俎橋(まないたばし・江戸初期架橋・靖国通り)上記のように、日本橋川は昔は外堀につながっていたので、昔は日本橋川最上流の橋だった。「まないた」というのは、架橋当時、反ったまないたに似ていた、近くに幕府御台所役人が集住していた、等の由来があるとのこと。地名にはないので、まあそうなんだろうけど・・・。
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宝田橋(1929年架橋・竹平通り・千代田区役所)関東大震災復興時事業の一つ。太田道灌が江戸城を築いた頃、近くに宝田村という村がありました、というのが名前の由来だそうだが、現在の地名に残っている訳でもなく、そこまで行くと伝説の世界だよね。・・・
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雉橋(江戸初期架橋・雉橋通り)朝鮮通信使の饗応用に近所できじを飼っていた(千代田区の見解。Wikiは唐人用、となっている。)という事から、名づけられたとのこと。韓国人旅行客のパズるスポット、になってもいいような気がするが、それは聞いたことがない。
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私は知らなかったのだが、この雉橋を過ぎたあたりから、昔の江戸城の外堀の石垣がオリジナルの状態で残っている。これは確かに地上からは見にくい。
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石垣を普請した大名がそれぞれ自分たちが作りました、という印を残したそうで、それが石に彫られている。ガイドの人がレーザーポインターを当ててくれた(緑の部分)ところには卍の印が見える。
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同じく石のサイン。田のように見える。左上の160は現代世界のもの。念のため。
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神田橋(江戸初期架橋・日比谷通り)。神田明神にちなんだ名前、というか、そもそも「神田」というのはどういう由来かに行きつくが、まあ「神のたんぼ」があったんだろうねえ。
雉橋から神田橋まで橋を二つとばしているが、
一ツ橋(平川(旧日本橋川)と小石川(谷端川・現在は暗渠)がここで合流して一つの川になった、ということに由来。一つ二つ三つの一つではない。ちなみに地名の一ツ橋、一橋大学、一橋家、等は、この橋の名前に由来していて、橋ありき、である。)
錦橋(近所に一色さんがふたり住んでいたので、一色が二つで二色=にしき=錦)
がある。 -
鎌倉橋(江戸初期架橋・大名小路・都道402号)江戸築城時に、伊豆から運んだ石材をこの付近で陸揚げした鎌倉河岸に由来。当時の人は「伊豆ってどこ?。まあ鎌倉の方から来るには違いないから、鎌倉ってしておこう。(一応、東京都の見解)」と思ったのでは、とのこと。鎌倉河岸にあった豊島屋は今もある
https://www.toshimaya.co.jp/brand -
外堀橋梁(1919年架橋・鉄道橋)方面を望む。手前は竜閑さくら橋(2018年架橋・人道橋)
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外堀橋梁はJR線が東京駅を出てすぐに渡る橋だが、このように鉄道院の紋章が残っている。国鉄・日本国有鉄道・JNRのロゴも最近は見かけなくなったのに、こういうのが残っているとは・・・鉄道院は1920年に鉄道省に昇格、当時は南満州鉄道等も管轄下であった。
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常盤橋門跡。江戸城の大手門につながる門の跡。ここにつながる常盤橋は関東大震災で破壊され、渋沢栄一が中心となって修復した。
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常盤橋(1590年架橋・人道橋)常盤橋と名付く橋は複数あるが、これは上述した常盤門に通じる常盤橋。関東大震災だけでなく、東日本大震災でも被害を受け、修復された。写真の建物は日本銀行。
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常盤橋のちょっと先、渋沢栄一の銅像が見えるはずだが・・・見えない。地上から行った方が確実。
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一石橋(江戸初期架橋・外堀通り)その昔、近所に後藤さんが二人いて、後藤+後藤=五斗+五斗=一石。・・・・ほんとか?と言いたくなるが、地名にはないので、そうなのでしょう。
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西河岸橋(1891年架橋・日銀通り)明治時代に出来た橋だが、一石橋、日本橋の間を西河岸と呼んでいたそうで、それにちなんだ名前。比較的真っ当(?)なネーミングと思う。
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さて、いよいよ日本橋(1603年架橋・中央通り)である。首都高を作った時に、橋の真ん中の飾り物を避けるのに苦労した、とのこと。この光景ももうすぐ、いや、はるか先には見納めか。
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日本橋にはこのように関東大震災の火災の跡が残っている。火災で焦げた跡や熱で石が削れてしまった跡を見ることができる。この橋も何十回も渡っているはずだが、知らなかった。
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日本橋のたもと、昔の野村證券の本社ビルの横あたりにある船着き場。今日は亀島川をクルーズしたあと、ここまで戻ってきて解散する。
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江戸橋(江戸初期架橋・昭和通り)明治以降はこの橋を中心に色々な新制度が生まれた、発祥の地として有名、とのこと。
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その発祥の地として、1871年に日本で初めて出来た郵便局、日本橋郵便局だが木が影になって看板が見えない。・・・
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日本橋ダイヤビルディング。1930年に出来た三菱倉庫江戸橋ビルの一部を残している。
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首都高江戸橋ジャンクション。日本橋の部分の首都高を地下化したら、こういうのは大変な気がするけど。・・・
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石神井川は現在王子の近くで隅田川に合流しているが、その石神井川の分流の一部がここまで流れていて、その出口、みたいな話だったが、ネットで調べてもよく分からなかった。・・・鎧橋の手前である。
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鎧橋(1872年架橋・平成通り)江戸時代は鎧の渡し、として橋はなかった。11世紀の源頼義が東国遠征の際に鎧を沈めてお祈りをした、または、平将門が鎧と兜をおさめた(中央区の見解)のが起源、とのこと。ちなみに兜町の語源となった兜神社は源義家が兜を下ろして休んだ、とある。いずれにしろ、11世紀頃はこの辺は軍事拠点だったのだろう、多分。
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茅場橋(江戸時代架橋・新大橋通り)これは近所の茅場町に由来しているが、家康が入城したころは、海辺でかやが茂っていて、そのかやを扱う業者が集まっていたことから「茅場」と呼ばれていたとのこと。
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亀島川入口。ここから亀島川は分流して、隅田川に流れ込む。
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湊橋(1679年架橋・箱崎湊橋通り)文字通り、この先は港だった、ということに由来しているらしい。
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ミツカン、中埜酢店は今でも愛知の半田に本社のある愛知の会社だが、19世紀初めに江戸に進出、米酢でなく安価な粕酢を普及させたため、江戸で寿司ブームが起き・・・ということで、ミツカンがなければ江戸前寿司はもちろんのこと、寿司という文化が普及しなかったかも知れない。ということで、東京の人はありがたくミツカン酢を使うように。
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豊海橋(1698年架橋・鍛冶橋通りの先)日本橋川にかかる最後の橋である。
ちょうど左手に日本アイ・ビー・エムの本社があるが、その近くに高尾稲荷という社がある。1659年新吉原(今でいう吉原。明暦の大火の前は日本橋にあった。)の遊女、二代高尾大夫を仙台藩主伊達綱宗が身請けしようとしたところ、拒否したため、高尾は隅田川船上で吊るし切り(どういう処刑方法かいまいち不明)され、その遺体が流れ着いてのを不憫に思った近くの人々が祀って祠をたてた、ところから始まる。伊達騒動を起こしたお殿様だが、伊達騒動側(?)はフィクション、としてるそうだが、真相はいかに。 -
ほんとの河口から隅田川、永代橋を望む。長い秘境の旅を終えて、ようやく文明の地に・・・
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永代橋(1698年架橋・永代通り)ちょっとだけだが、隅田川を進む。永代というのも諸説あるそうだが、突き詰めると「江戸幕府フォーエバー」だろう。
ちなみに赤穂浪士はこの橋を渡って泉岳寺に向かったそうだが、地下鉄でも相当時間がかかる。戦った後にさらに歩いて行ったのだから、昔の人は鍛え方が違う。 -
中央大橋(1994年架橋・八重洲通り)バックのタワマンと共に。平成になって初めて隅田川に架かった橋だが、中央区の橋だから、でしょうね。隅田川はパリのセーヌ川と友好河川になっていて、フランスの会社が設計している。
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霊岸島水位観測所。元々日本の海面の高さの基準を決めていたところで、今は三浦半島の油壷に移っている。この亀島川が囲っている島を霊厳島と呼んでいた。そのもとになった霊厳寺は明暦の大火の後に今の江東区白河に移転している。
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いよいよ亀島川の河口である。と言ってもこちらも門で仕切られている。河の入口と出口に水門が設置されている一級河川というのは珍しいのでは。亀島はもともと亀の形をしていた、甕を使う醸造製品を商う場所だった、の二説あるとのこと。
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南高橋(1932年架橋・桜通り)関東大震災で被災した両国橋の鉄骨を使って、復興事業として、橋が架かってなかつたこの地区に橋を架けた、とのことで、結果的に明治時代の鉄骨橋梁の姿を残していてるということで、中央区の文化財に指定されている。後述の「高橋」の南だから、と言うのが名前の由来。
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この付近はボートの係留が多い。ボートって都内の川とかに置けるものなんだろうか。ちょっぴりだけ、興味がわいた。
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高橋(1640年頃架橋・鍛冶橋通り)当時の船が行き来できるように、高い橋を作った、ことからこの名前が付いた。ライトアップ用のライトが付いている。
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亀島橋(1699年架橋・八重洲通り)ここも赤穂浪士が渡った、そうだが、島に入るのは道をふさがれる可能性はなかったか、とついついつまらないことを考えてしまう。
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霊岸橋(1640年頃架橋・永代通り)霊岸は前述の霊厳寺に由来する。奥には日本橋川の分水地点の水門が見えている。手前の船上の人が赤い旗を持っているが、文字通り赤信号で進入できない。そんなに交通量が多い(?)とも思えないのだが。
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ようやく亀島川を抜けて、日本橋川に出る。ここから日本橋まで遡る。
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鎧橋を下流側から見る。正面は東京証券取引所。
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ついに終点の日本橋船着き場。お疲れさまでした。
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秘境を共にした船である。雨が降ってるときはどうするんだろう、というのはふと疑問。
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地下鉄の日本橋駅に向かう途中。第一京浜と国道一号線の分かれ目の日本橋交差点。だが、元々まっすぐ行く方が一号線(そりゃそうだろう)だったとのこと。ということで、クルーズは終了し、地下鉄で家に帰りました。・・・。
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