2019/06/02 - 2019/06/10
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旅 夢太郎さん
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永年の憧れの地、長安(現在の西安)へむかいました。シルクロードの起点となり、玄奘三蔵法師が遠くインドに向け旅立ち、杜甫、李白達が任官を求めて赴き、そして長く中国王朝の都として栄えた所で、期待に夢膨らみました。しかし当時を偲ばせるものは、大雁塔と古城壁ぐらいしか無いとのこと、少々寂しさを覚えました。それでも、鐘楼、城壁を目の当たりにした時の感慨はひとしおでした。西安は1000万人を超える大都市で、高層ビル、マンションの建ち並ぶ姿には圧倒されました。また、「兵馬俑坑博物館」も期待通り見応えのあるものでした。最後は中国五名山の一つ崋山ハイキングで締めくくりとなりました。今回のシルクロードの旅は、敦煌から天山北路の一部を探訪するものでした。今後は、機会があれば天山南路も訪れ、タクラマカン砂漠を縦断し、ホータン、クチャ、カシュガル等にも行ってみたいと思っています。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 社員・団体旅行
- 交通手段
- 鉄道 観光バス
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
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「高昌故城」にやってきました。かつて源蔵三蔵が立ち寄った所。今回のハイライトの1つでした。周りは火焔山に囲まれており、相当厳しい環境の中にありました。よくもこうした中に城があったものかと驚きましたが、当時の気候は温暖で、穀麦が再塾し、養蚕に適し、五果が多く、また水を引いて灌漑農業行っていたというから、驚きでした。広さは東西1600m、南北1500mと広大でしたが、ゴルフカートのような車で一周しました。
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玄奘三蔵のモニュメントがありました。629年に仏典を求めて天竺(インド)へ向かい645年多くの仏典を持って帰還したそうですが、その途中、ここに立ち寄ったそうです。また王の依頼により、説法したといわれています。また、「般若心経」を翻訳したことは広く知られています。
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大仏寺中心塔殿
ここ高昌故城には、最盛期には約3万人もの住民が暮らしていたそうで、また、僧侶も3千人いたそうです。
紀元前1世紀から栄えたオアシス都市で、新彊における政治、経済、文化の中心地だったそうです。 -
西南大仏寺 かつて玄奘三蔵法師が2ヶ月間滞在した時、ここに宿泊したそうです。再びインドに向け旅たつ時、高昌王は多大な支援を行ったそうです。またインドから帰国の際は、再びここを訪れる約束で旅たったそうですが、高昌国はその後、唐に滅ぼされ、約束は叶わなかったそうです。
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続いて交河故城を訪れました。紀元前2世紀~5世紀にかけて建設された、オアシス都市です。建築物は全て天然の土を掘って造られたもので、世界最大で最古の土の都市遺跡だそうです。遺跡の全長は約1600m、幅は最大で300mあり、周囲は約30mの断崖に囲まれた自然の要害をなしています。この旅はハイキングということなので、普段はあまり行かない所まで案内してもらいましたが、暑さの中のハイキングは大変でした。
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ここ交河故城には、前漢の時代約6500人が暮らしていたそうで、唐の時代には西域の中心都市だったそうです。現在こうして見る限り、ここにオアシスがあったとは信じ難いですが、当時はたいへん豊かだったのでしょう。
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広大な敷地には、寺、住居、公的機関が建ち並んでいたそうです。また、他からの侵入を防ぐため、多様な工夫がなされており、激しい戦いがあったことを裏付けているそうです。
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9世紀~14世紀にかけてトルファン一帯は戦火に巻き込まれ、次第に破却されて行ったそうです。
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続いてトルファンから55kmのところにある吐峪溝を訪れました。ここは、最古のウイグル族が暮らす村(マザール村)だそうです。イスラム教徒の聖者ホージャの墓があり、中国イスラム教の聖地とされている所です。約2時間半のハイキングでしたが、ここでも大変な暑さで、身にこたえました。
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イスラム教徒の聖者ホージャの墓
多くの信者が参拝に訪れるそうです。 -
日干し煉瓦を積み上げた昔ながらの、村の風景です。
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夜、多くの人たちは屋外に寝床を取るそうです。
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村は火焔山を貫く渓谷にありました。
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吐峪溝の人達は、観光客にとても親切に接してくれるそうです。
(観光客慣れしているとはいえ、決して物をねだったりはしないそうです) -
「こんにちは」と挨拶したら可愛い笑顔で応じてくれました。
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40℃近い気温と思われます。(これまでのハイキングの中で一番キツイものとなりました)
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高速鉄道でトルファンから、敦煌の郊外にある柳園南駅に向かいました。(所要時間 約3時間40分)さらに柳園南駅から敦煌の市街までバスで約1時間でした。
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高速鉄道の車窓からの風景です。延々と荒野が続き、マアーよくもこんな所を旅したものと、ただただ驚くばかりでした。
また、柳園南駅から敦煌市街までの景色も、ただただ荒野の中でした。 -
敦煌に到着しました。古代シルクロードの西安から中央アジアへと繋がる、重要な都市として栄えた街です。街は高層建築物は無く大変落ち着いた雰囲気でした。現在の人口は約15万人だそうです。近くには鳴沙山、月牙泉、莫高窟、玉門関等々の人気スポットがあります。
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敦煌といえば鳴沙山。東西約40km、南北約20kmにもおよぶ壮大な砂丘です。多くの観光客がラクダ体験を楽しんでいました。
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パートナーもラクダに乗って頂上付近まで登り、そこから徒歩で頂上に到着したそうです。眺めが大変素晴らしかったようです。私は猛暑のハイキングに疲れ果て、ベンチで休みました。
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月牙泉です。2000年以上も枯れることなく湧き出る神秘的な泉は、とても綺麗でした。古来には、仙人が住む場所として寺院が建てられたそうです。
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敦煌の南東約30kmの所にある莫高窟を訪れました。
バスが砂煙を上げて向かって行くと、その先に4世紀~14世紀にかけて築かれたという石窟群が見えて来ました。 -
莫高窟は想像を遥かに超える地にありました。敦煌からの道のりは荒野のなか。やがて見えてきた小さなオアシスの中にポツンと佇んでいました。周りは広大な砂漠地帯でした。
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南北1600mに渡って、700余りの洞窟があり、その中に2400もの仏像が安置されているそうです。当初は仏教の修行の場として築かれたもので、北側の石窟には僧たちが修行や祈りの生活を続けた、痕跡が残っているそうです。
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莫高窟の中での最高傑作「第45窟 菩薩像」
(写真は観光パンフレットより) -
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西安に夜遅くに到着しました。城壁だけは見過ごしたくないと、添乗員さんに見学をお願いしたところ、ホテルから近いこともあって、快く案内して下さいました。西安のシンボル西門です。(表紙の写真も城壁風景です)
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西安の鐘楼です。
長安は唐の六代皇帝「玄宗」の時、最も繁栄を極め、人口100万人の国際都市として大いに賑わったといわれています。 -
「国破れて山河在り 城春にして草木深し」杜甫の代表作「春望」はここ長安で詠まれたものだそうです。この城壁には登ることが出来、市中及び遥かな山河が望める事が出来るそうですが、残念ながらスケジュールの関係で実現出来ませんでした。
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兵馬俑博物館
秦の始皇帝を永遠に守るために副葬された、軍団等には圧倒されました。この兵馬俑坑の西1.5kmのところに「秦始皇帝陵」があるそうです。70万人もの囚人を動員し、36年もの歳月をかけて完成させたそうです。(残念ながらスケジュール上、見学出来ませんでした。) -
兵馬俑坑
想像を超える光景でした。現在までに、8000体の俑が確認されているというから、驚きです。 -
日本でも何体か展示されたことがあり驚かされましたが、このように多くの兵馬俑を一同に見るとさらに圧倒されました。
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顔、形同じものは無いというから、さらに驚きです。
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豪華その物の兵馬俑
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旅の最後は、西安から120km離れたところにある、崋山ハイキングです。ロープウェイに乗って向こうに見える高峰まで行き、さらに崋山で最も高いとされる南峰(2155m)まで歩いて行きます。ここは道教の修行地として利用されているそうです。
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高所恐怖症の方には、大変厳しそうです。頂上には「長空桟道」といって世界一危険な登山道があるそうです。ネットで見るとスリル満点。挑戦している人、度胸あますねー。(武陵源のロープウェイといい、中国のスケールの偉大さには驚かされます)
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旅の想い出として「夜光杯」を購入しました。
少々値は張りましたが、王翰の涼州詞「葡萄の美酒 夜光の杯」好きな漢詩に誘われての購入でした。この「夜光杯」は、ホータンで採れる玉を削って作られる盃で、薄いほど良い品とされ、2つと同じものは無いとのこと。また、夜、月明かりの下で酒を飲んでいると月光を受けて、酒が光って見えることから、この名があるそうです。非常に表面張力が強く、酒をいっぱい注ぐと大きく盛りあがります。
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