2019/03/21 - 2019/03/21
727位(同エリア1253件中)
とやすけさん
日本百名城を制覇するために来た山梨県です。
今回は、甲府城と武田氏館だけを目的に訪れましたが、今度またゆっくり楽しみたい県の一つです。
2019.3の旅でしたが、4travelにupし忘れていました。
この頃はまだコロナなんて単語も聞かなかったなー。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 3.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 新幹線 徒歩
-
新宿からあずさ3号で甲府着3430円也
甲府開府500年なんですね!? -
さっそく向かったのは、甲府城。
甲府というと武田信玄のイメージですが、甲府城は武田信玄に何の所縁もありません。 -
武田氏滅亡後、豊臣秀吉の命により築城されました。
関東の徳川家康に対抗するための重要な戦略拠点として築かれたといわれ、徳川体制になってからは西側への備えとしての重要性を保ち続けたといわれています。 -
甲府城は、古くは甲斐府中城、一条小山城、舞鶴城、赤甲城などとも呼ばれていました。
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天正10年(1582)甲斐国は戦国大名・武田氏の滅亡後、まず織田信長の領国となり、本能寺の変の後は徳川家康の支配するところとなりました。
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豊臣秀吉が天下統一をなしとげると、秀吉の命令により甥の羽柴秀勝、腹心の部下である加藤光泰らによって築城が始められ、浅野長政・幸長父子によって完成をみました。
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慶長5年(1600)関ヶ原の戦い以降は再び徳川の城となり、幕末まで存続しました。
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その後、享保年間の大火により、城の本丸御殿や銅門を焼失するなど、次第にその壮麗な姿は失われていきました。
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明治時代になると、甲府城も廃城となり、明治10年前後には城内の主要な建物はほとんどが取り壊されました。
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甲府城は明治に入り、徳川時代の面影を大幅に失うこととなり、残された城跡が明治37年(1904)に「舞鶴公園」として開放されました。
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甲府城
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甲府城
3月下旬で桜シーズンでした。 -
甲府城
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甲府城の鯱
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甲府城
戦略的に重要な場所だったんですね。 -
甲府城
石工具説明図
こうやって石垣の石を作っていたんですね。 -
甲府城
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昭和39年(1964)には都市公園「舞鶴城公園」として都市計画決定されました。最近では、舞鶴城公園整備事業が行われ、鍛冶曲輪門、稲荷曲輪門などの門や稲荷櫓が復元されました。
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甲府城
そろそろ、お昼を食べに行きます。 -
甲府駅に戻り、武田信玄こんにちは。
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山梨と言えばほうとう。
ほうとうと言えばの小作 -
豚肉ほうとう 1400円
いつも小豆ほうとうが気になるけど、量が多すぎて頼めない。。 -
さて満腹をさすり、次のお城を目指します。
徒歩圏内で2つもお城を周れるのは珍しいです。 -
沿道の菜の花も満開でした。
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信号機の上にはカワセミが。
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良い散歩になりました。
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さて、到着したのは武田氏館
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まず、橋を渡れば、、
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武田神社です。
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ちゃんとお参りします。
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今年もいい旅が出来ますように!
(-人-)オネガイシマス -
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武田氏館
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武田氏館
写真少なくてすみません。。 -
百名城のスタンプ押印してホテルに向かいます。
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ホテルで食べる自分用の甘味をお土産に買って帰ります。
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夕食は何にしようと外に出たら「甘旨フェア」なるものをやっていたので、これで夕食にしました。
たしか、豚ステーキ串とケバブ的なものを食べました。 -
たった一日で二城を巡り、ほうとうも食べれた甲府旅でした。
翌日からは長野に向かうため、今回は続百名城は諦めました。
(この当時、続百名城は集めていなかったのかも知れない。。)
それでは、ご精読ありがとうございました。
(長野編も宜しくお願いします。)
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