2021/11/25 - 2021/11/25
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ryujiさん
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今この時期、紅葉は真っ盛りです。 奈良方面への旅を計画しました。 本日は(11月25日)、天気もまずまずの様で家内と共にドライブと洒落込んだ次第です。
AM8:00に我が家を出発です。 車での奈良の旅は5~6回はあり、いつものルートは下記の通りです。
我が家―羽島大須-23号長良川右岸―木曽三川公園―258号―桑名東Ic
-名阪25号にて奈良へと。
最初の訪問地、円成寺から始めます。
(写真・第一次大極殿 奈良市)
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 自家用車
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円成寺の庭園を散策する。 先ずは参道へ、真っ赤な紅葉はとても美しい!。
(写真・円成寺の山門) -
次は名勝庭園を散策。 池に映る景観に感激!。
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同上。
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境内の入り口で、入場料500円を払う。
豪華絢爛な本堂を見学。 -
多宝塔を見る。
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護摩堂を見る。
円成寺を見学後、奈良市の中心地へ西に向かう。 -
今回の旅で、旅行記のタイトル「平城京を生きた男たち」について。
奈良に都を移した方は、元明天皇(710年)で皆様方周知のとおりです。 元明天皇在位後、和同~天平~宝亀に至る74年間を奈良時代(平城京時代)と言う。
律令国家の完成の過程で、一見華やかで平和な天平文化を想像しがちであります。 しかしこの時代、平城京ではいろいろな血生臭い政変等が勃発しました。 そこで私は、以前より興味を抱いてた三人をこの旅行記に登場させたいと思います。
長屋王 (684~729) 華麗なる皇親政治の実力者。
藤原広嗣公 (716?~740) 悲運の貴公子。
藤原百川公 (732~779) 平安京への道すじを描いた男。
この三人です。 彼らの思い・人となり等を、私自身の独断と偏見をもって旅行記で述べてみたいと考えました。
(写真・平城宮跡 2013.03.に撮影)
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長屋王を中心とした系図。
長屋王は、天武天皇の直系の孫である。 本来ならば天皇になってもおかしくない存在の人です。 天武長男で父の高市皇子(太政大臣)は、母の身分が低かった為に皇統から外れ、皇后であった持統天皇の長男の草壁皇子直系に皇統が受け継がれた。 系図は、草壁皇子ー文武天皇-聖武天皇―孝謙天皇です。
では最初は長屋王からスタートします。 まずこの時代の背景と状況を少し述べさせてください。
天武天皇亡き後、持統天皇はいかに皇統を長く存続するかをとても心を砕いていた様です。 長屋王の存在、政治手腕をどこまで周知していたかは定かではないが、結婚していたとされる吉備内親王を含むこの皇親を重視していたように思われます。 天武天皇と自身の直系が絶えることがあれば、母系(吉備内親王)での第二の皇統を考えたとされています。(長屋王から膳夫王・葛木王・鍵取王へ、不比等の娘との子・安宿王又は桑田王(高階祖)ではない) -
奈良市の中心地より車で約1時間、西方にある平群町へ遣ってきました。 ここには、長屋王の墓とされる地があります。 到着後早速、私はこの王に手を合わせて黙濤をしました。
(写真・長屋王御陵公園) -
同上。 角度を変えてもう一枚をカメラに。
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長屋王の変。
藤原不比等の死(720年)後、長屋王は宮廷政冶一位(左大臣)の人に昇りつめた。 政治勢力として長屋王VS藤原四兄弟の構図ではありますが、当初は四人ともにまだ官位が低くとても太刀打ちできない状況だったようです。 しかし妹の光明子が(聖武天皇の妃・安宿媛ともいう)後ろ盾で、唯一の頼りの綱だったようです。
両者の争いの始まりとして、聖武天皇の即位(724年)です。 天皇の母親である宮子夫人(四兄弟の姉)の尊称問題です。 「宮子は大夫人じやぁ~ないぞ」と房前の発案を、長屋王にピシャリと却下され、苦渋を舐めさせられた四兄弟でした。
(註・藤原四兄弟とは不比等を父として、武智麻呂・房前・宇合・麻呂をいう)
長屋王の変(729年)の発端は、やはり聖武天皇の子・基皇子の夭折です。 現代の社会では考えられない問題ですが、長屋王が呪詛したという事件です。 力を付けてきた四兄弟は、舎人・新田部の両親王を味方にして一気に邸宅を取り囲み自刃に追い込んだ。 国を傾けた断罪として処理された。 長屋王と吉備内親王、それに4人の息子は全て命を果てたのである。 -
長屋王の石塔。 天武天皇の孫で良血で頭がよく、抜群の政治手腕を発揮したようです。
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宮内庁による、石塔の左隣には鳥居もありました。 これも王の死を悼む計らいか?。 無実による王の悲痛な死、私は万感の思いでこの地を後にした。
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長屋王の墓の北隣に吉備内親王の墓がありました。 ここも私は手を合わせてお参りをしました。
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系図でみる長屋王と吉備内親王。
ふたりは共に父親は兄弟であり、又ふたりは共に母親も姉妹です。 最も血の濃い、いとこ同士の結婚です。 長屋王に同母の兄弟はいない。 吉備内親王の姉は元正天皇・兄は文武天皇。 私の言葉でいうならば、正にサラブレッドの王子さまとお姫さまだ。
(註・長屋王の母は御名部皇女で、吉備内親王の母は元明天皇、共に天智天皇を父とする同母姉妹)
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吉備内親王の為に建てられた鳥居。
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吉備内親王の石碑。 写真では何が記されているか判らないが、私は読めました。 吉備内親王の文字が。
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この平群町にある長屋王と吉備内親王の墓ともお別れです。
最期に「長屋王の変」の総括と言う事で。 余りにも理不尽で、無実の人間を貶めた事件である。 長屋王と吉備内親王の血筋を根絶したい、まさに藤原四兄弟の陰謀に他ならない。 -
旅の途中で通り過ぎてしまいました(写真)。 ここは奈良市役所の西隣で、現在はミ・ナーラ(旧イトウヨーカ堂奈良店)となっています。
そうなんです、ここが1300年前この地にあった長屋王の大邸宅跡です。
平城京のすぐ南西でもあり、この一等地に約250m四方の広大敷地を占めていた。 邸宅跡から約3万5千点の木簡が出土。 その解読により、長屋王家の華麗なる生活などが顧みることができる。
(写真ネットより・長屋王邸宅跡) -
同上。
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奈良市内、中心地で見る紅葉。
ドライブ中に写真を、市内は紅葉の真っ盛りである。 -
同上。
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一旦の休憩タイムです。 浮見堂南付近の食堂へ入りました。 トンカツの店「赤レンガ」です。
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家内の好きなヒレカツ定食を注文です。
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ほぼ完食?です。 残飯ありのよろしくない写真で失礼いたしました。
次の訪問地は、奈良公園よりやく2Km程南にある南都鏡神社です。 この食堂の近くででもあり、早速出かける事にしました。 -
日本で最初の怨霊・藤原広嗣公の神社。
この鏡神社は、平城天皇即位の大同元年(806年)新薬師寺鎮守として創祠されました。 なお、創建に当たっては、現在の佐賀県唐津市にある「鏡神社」から奈良時代に謀反を起こして処刑された藤原広嗣を御祭神として勧講を受けたものとされており、この神社は藤原広嗣の怨霊を鎮める神社としての役割を果たしてきた。
(写真・鏡神社の境内)
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鳥居の右横にある石碑。
「藤原廣嗣公奉祀」の記載を見つけました。 平城天皇の生母乙牟漏は、広嗣公の姪にあたります。 この神社の創祀に当たって、天皇の並々ならぬ熱意を私は感じました。 -
いよいよ二人目、私の興味人物の藤原広嗣の登場です。 広嗣は藤原式家の祖、宇合の嫡男です。
ここで、この時代の背景を述べさせていただきます。 長屋王の死後8年(737年)、天然痘の流行で四兄弟はつぎつぎに倒れて(死)しまった。 これは長屋王の怨霊だと実しやかにささやかれたという。
藤原四兄弟の死後、新たに登場したのが橘諸兄である。 諸兄は敏達天皇を祖とする旧皇族で、父は美努王で母は県犬養(橘)美千代です。(美千代は、後に不比等に嫁ぎ光明子を産む・諸兄とは異父兄妹) 公家の多くが亡くなり、生き残ったのは、諸兄と鈴鹿王(長屋王の弟)ぐらいであった。 すぐさま右大臣として政権を担った諸兄は、広嗣を太宰府に左遷して唐(留学生)からの帰国した吉備真備と玄肪を重用した。 これが「藤原広嗣の乱」のきっかけになったようです。この乱は、私たちの学校の教科書では殆ど習ってはいない。 はたして真実はいかに?。 -
イチオシ
藤原広嗣は、はたして謀反を起こしたのであろうか?。 私は思う、ここがキーポイントであろう。 広嗣は、災厄の原因は吉備真備・玄肪といった反藤原勢力によるものとして上奏文を朝廷へ送った。(二人を罷免せよとの?) 自分の方が優れている、幾分粗暴にて傲慢な性格のようにも思える。
この上奏文が朝廷批判となり(謀反)、上奏文の返事はなく広嗣が乱を起こす前?に、諸兄は九州へ軍を出兵して制圧してしまったようです。 広嗣(享年24歳?)と弟の網手は斬首、関わりのある式家の殆どの者が流罪となった。 GOサインを出したとされる、聖武天皇の行動(すべてを諸兄に任せて逃避する)にどこか不自然さがうかがえる。 往々にして、歴史は勝者側の論理で決着している様です。 -
鏡神社を散策する。 拝殿をカメラに収める。
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写真は私の好きな広嗣の和歌、万葉集からの一首です。 この歌の投稿は、「万葉の世界を訪ねて 後編」の旅行記に載せております。 鏡神社で、和歌との出会いがあり嬉しい限りです。 24歳?にして非業の最期を遂げた広嗣にもこんなナイーブな一面が・・・・・、若さが溢れる「青春の謳歌」を感じた私です。
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これは何だろう、祖霊社のようです。 上部に白い布がかぶせてあるのは?、私には分かりません。
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必然の!、私の見る藤原広嗣の乱。
最初に結論から言いますと、この乱は起こるべくして起こったといっていいでしょう。
「長屋王の変ー藤原四兄弟の死-実権が諸兄(真備・玄肪)」こうした順序を顧みれば、父と伯父たちが奪い取った政権の報いが・・・・。
長屋王の変の当時、10代だった広嗣少年。 心に強く残る事件だったはずです。 新諸兄政権(皇族による)においては、藤原氏憎しの感があったのではなかろうか?。 乱のきっかけは(上奏文の提出)、親の不始末を子が責任をとる意味で、藤原氏の中から広嗣が格好の標的になったのであろう。 -
藤原広嗣の乱後、霊が祟るとの風評流れ、6年後に玄肪は九州に配されて死し、10年後に真備は肥前に左遷された時に、この広嗣の霊を祀ったといわれる。
私の所感として。 この事項から、真備・玄肪はそれ程優秀な人物ではなかったようです。 広嗣をして、その判断はまんざら間違っていなかったようだ。 容姿端麗にして文武の才に富んだとされる広嗣を、私は「悲運の貴公子」として賛辞を贈りたい。 -
南都鏡神社の北隣にある、新薬師寺を見学する。
(写真・本堂) -
同上。
四方が1間の仏堂。 これにて鏡神社を後にする。 -
最期は藤原百川公です。
旅行の日程では正午頃、円成寺の紅葉見学を終えて北西に車を走らせる。 奈良市の県境にある京都府木津川市へ約20分程で来ました。 人通りの少ない、閑散とした田舎町にある藤原百川公の墓を訪ねました。 誰もいない中で私はお参りをしました。 -
藤原百川は、式家の祖宇合の八男です。 前述した広嗣の弟になります。 系図で特筆すべきは、娘の旅子が桓武帝の妃になり淳和天皇を輩出したことです。 生前での官位は高くはなかったが、淳和天皇(母方の孫)の即位で「従一位太政大臣」の追号を賜れました。
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藤原百川の功績は、まず称徳天皇の没後の皇位の継承問題であろう。
称徳天皇は皇太子を決めていなかった為、「誰が次の天皇に」と大問題であったようです。左大臣の永手(北家)ら(藤原四家ほとんど)が推す白壁王と右大臣の吉備真備が推す文室浄三(長皇子の子)の二人であった。一説によると、百川が偽りの遺言書を読み上げて白壁王に決まり、光仁天皇が即位したという。 (この公家会議で、落胆した真備は辞意を申し出たが、後に新天皇より留保される) -
百川と山部王(後の桓武天皇)。
私が思うに、光仁天皇に信任厚かった百川ですが、その先々までを展望していたようです。 (老齢の天皇の後、皇太子の他戸皇子が天皇になっては困る)
百川と五歳下の山部王とはずっと以前より入魂の中であった。(山部王は、仲麻呂全盛期・大納言の父を通じて公家たちに顔が売れていたようです) 山部王の母(高野新笠)は百済の帰化人で身分が低かった。 百川の最も意中の人こそが山部王!、そこでいきなり天皇へは・・・・、百川の思案の場だったようです。 光仁天皇の息子であれば皇太子に出来る。 如何にすれば皇太子に、より難局ありを覚悟していたのであろう。 そして血統で悩む王を励まし勇気付けて、いつか来る機会を待ち続けていたに違いない。 -
井上(いがみ)内親王と他戸(おさべ)皇子の幽閉。
百川の次のお仕事は、山部王を皇太子にすることです。 それを成就することが、命を懸けての事(自身の使命)だったように思えます。
歴史で見る上記の事件は、井上内親王が天皇を呪詛したという大逆のかどで皇后が廃され、連座するかたちで他戸皇太子も廃された。 そして共に幽閉先で急死(暗殺?)した。(この事件の裏には、策士で名高い百川による策略があったとされています?)
こうして百川が待ち望んだ、山部王の立太子が実現した。 -
臨終の藤原百川。
ずっと以前にネット見た、百川の臨終の場を述べさせて頂きます。 779年に百川は病床にあり、皇太子の山部王はお見舞いに訪れた。 その場には、三人の女性(母・妻の諸姉・娘の旅子)が付き添っていたという。 そこで何を語られたかは分かりませんが、おそらくは娘の旅子(推定20歳)をよろしく頼むとでも言ったのであろう。(百川享年47歳 遺子緒嗣は幼く五歳)
(註・一説に、「自らの所業を思い起こせば地獄に落ちても仕方のない身だ」、と語ったとか?)
百川が夢に見た桓武帝の即位は、それから二年後の781年(長岡京にて)のことであった。
桓武天皇は平安京遷都後の802年に、百川の恩に報いるために弱冠28歳の遺子緒嗣を参議に抜擢した。
桓武天皇の誕生を見ることが叶わなかった百川ですが、自身が描いていた理想の日本が到来したのではなかろうか。 その意味で私は、百川を「平安京への道筋を描いた男」としたい。 -
朱雀門。(平城宮に入る南口の正門)
彼ら(長屋王・広嗣公・百川公)にとっては、共に生きた思い出の深い門であったに違いない。
(写真・朱雀門 2013.03に撮影) -
それぞれの三人(長屋王・広嗣公・百川公)が活躍をした平城京を後にした。 そろそろ家に帰るとしょう。
(写真・平城京跡 2013.03に撮影)
最期に今回の旅行記で。
この紅葉の美しい時期に奈良を訪問ことはよしとすべきであろう。 計画に無理があったか、又は道路が混んでいたのもあり、長谷寺等2~3か所が行けなくなりました。 先の事は不明ですが、元気で機会があれば又出かけたいものです。
-平城京を生きた男たち おわりー
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この旅行記へのコメント (18)
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- 前日光さん 2022/07/01 23:29:10
- 陰謀渦巻く時代
- こんばんは、ryujiさん
実は数日前にコメントを書いたのですが、途中で消えてしまいました。
よくあることとは言え、けっこうなショックを受けていた頃、猛暑がやって来ました!
暑さが苦手で、コメントを書く意欲も奪われ、今になってしまいました。
さて、この時代、藤川百川らによって辛酸をなめた人物、光明子の姉で在りながら、その輝きとは裏腹に陰のように生きた女性が「井上内親王」です。
3年くらい前に五條市にある「栄山寺」に行ったのですが、その寺内に御霊神社があって、そこに井上内親王とその息子の他戸親王が祀られています。
彼女は伊勢の斎宮に選ばれ、幼くして母の元から引き離されました。
11才で伊勢に旅立ち、その後17年間も斎宮を務めたので、すっかり忘れられた存在になっていました。
さらに弟の安積親王が不審の死を遂げたので、斎宮の任を解かれ都に戻りました。
父聖武の計らいで、10歳も年上の白壁王(後の光仁天皇)と結婚、45歳という高齢で他戸親王をもうけました。
しかし他戸親王の異母兄・山部親王(後の桓武天皇)を皇位に就けようとする藤川百川らの陰謀によって都を追われた母子は、五條の地に幽閉されたのです。
そして宝亀6年(775年)4月、母子は同じ日に亡くなっているのです!
井上内親王57歳、他戸親王は13歳でした。
この二人の怨念が、都に多くの禍をもたらしたと言われていますが、あの時代ですから当然そう思われたのでしょうね。
二人の霊を鎮めるために、五条には現在でも23もの御霊神社があるのだそうです。
偶然奈良市内で入った居酒屋のマスターから、五條は面白いよと言われ行ってみたのですが、栄山寺はなかなか見応えがありました。
歴史上、不遇な運命をたどった人々には、心動かされるところがあります。
その心の中を思いやると、どれだけ悔しかったことだろうと、思い入れを深くしてしまいます。
権謀術数渦巻くのは、今も昔もさほど変わらないのかもしれませんが、系図などを眺めていると、いろんな人のいろんな思惑が垣間見えて、そういう世界にワクワクしてしまう私です。
ryujiさんのこの旅行記を拝見しながら、何とも言えない想念が湧いてきた次第です。
長々と申し訳ありません。
今度こそ、無事送信できることを祈り、投稿ボタンを押します。
では!
前日光
- ryujiさん からの返信 2022/07/02 12:56:48
- RE: 陰謀渦巻く時代
こんにちは、前日光さん。 またまた小生の旅行記にコメントを頂きありがとうございます。 興味ある事項に楽しく拝見しました。
策士藤原百川の陰謀で貶められた、井上内親王と他戸親王の母子の悲哀は余りにも有名です。 小生が思う所ほぼ真実のようです。 天皇の奥さんと実子を、どうして百川がそんな力を・・・、小生は不思議に思いました。 当時百川はよくあっても参議、しかし・でも?当時の警察権(今でいう警察庁の長官)の職務を持っていた様です。 兄の良継に相談していたかは不明ですが?。 ともあれ、山部王には「何が何でも天皇に」の堅い信念があったのは明らかでしょう。
前日光さんは五条市の栄山寺へ行かれてましたか。 実は小生、ここへは行った事がありません。 コメントの解説で井上内親王が57歳、他戸親王13歳でしたか、これは初めて知りました。 暗い歴史の中に閉じ込められてしまった2人を思うと居たたまれないですね。 1度訪れることがあれば手を合わせたい思いです。
歴史とは、いろいろな見方があるようです。 藤原氏について思う事ですが。
日本の歴史で藤原氏の摂関政治がよく議論されました。 「天皇の寄生虫」だとか、永年にわたり「日本国をだめにした」とか、あまり藤原氏への印象は良くない様です。 確かこれは以前に小生がコメントを。(ネットの引用で) 藤原氏の中で、道長・頼通はダメな最たる例のようです。 鎌足(大化の改新)・百川・基経(陽成天皇の廃帝)の三公は国への貢献を上げています。 歴史とは見方によりさまざまのようです。
改めて、今回コメントを頂きありがとうございます。 いつものことながら、自身の思いのコメントが主になり申し訳ありません。 お許し下さい。
ryuji
- 前日光さん からの返信 2022/07/03 16:55:16
- RE: RE: 陰謀渦巻く時代 訂正(>_<)
- こんにちは、ryujiさん!
百川の苗字、「藤川」なんて書いてしまいました(^^;)
当然「藤原」ですよね!
「百川」と思っていたら、「藤川」となってしまったようです(~_~;)
訂正させていただきますね。
話は違いますが、昨日偶然BSTBS昼からの関口宏さん司会の「新しい古代史」というのを見ました。
昨日のはスサノオノミコトやオオクニヌシ、アマテラス等々のことでしたが、来週の9日(土)は「聖武天皇」についてをやるみたいです。
真面目なカタイ番組ですが、興味を持ってみると楽しいかもと思いました。
また本日3日は、BS11イレブンで夜8時から「万葉びとと令和の物語」を、中西進さんが奈良めぐりをしながら案内してくれるようです。
いちおうお知らせです(^^)/
では。
前日光
- ryujiさん からの返信 2022/07/03 19:17:10
- RE: RE: RE: 陰謀渦巻く時代
こんばんは、前日光さん。
テレビ番組のご紹介を頂きありがとうございます。 大いに興味を持ってはいますが・・・・残念!。 実は我が家のテレビはBS放送は映らない。(10年程前にアンテナ故障を期に放送を解約) 番組を見て、前日光さんと思いを共有出来ず申し訳ない思いです。
話は違いますが、本日8時より「鎌倉殿の13人」が放映されます。 おそらくは前日光さんはご承知の事と思いますが、小生は毎週楽しみしている番組です。 昨今、この大河ドラマを旅行記として投稿された方を知りました。 そして厚かましくも小生の方からコメントをした次第です。
コメントありがとうございます。
ryuji
- 前日光さん からの返信 2022/07/05 10:56:31
- RE: RE: RE: RE: 陰謀渦巻く時代
- ryujiさん、こんにちは。
BSが入らないとのこと、残念ですが、もし私が視聴して面白いことがありましたら報告しますね!
さて、「鎌倉殿」ですが。。。
実は私、初めてと言っていいくらいの「大河離脱」をしてしまいました(^^;)
ずっと日曜の8時は大河という日課でしたが、今回は、全く止めてしまいました。
理由は、頼朝役がダメなのです。
大泉さんのことは、決して嫌いではありませんが、あの人の頼朝は理屈抜きでダメなんです。
私にとっての頼朝は、大昔に見た大河「源義経」の芥川比呂志さんなんですよ。
本当に古いのですが、今までいろいろな頼朝を見ても、芥川さん以外に適役はないと子供心に思い込んでしまったようです。
まだ中学一年くらいの時に見たのですが、思い込みって恐ろしいものですねぇ。
頼朝が死亡したようなので、また大河に復帰しようかなと思っているところです(^_^;
前日光
- ryujiさん からの返信 2022/07/05 13:27:57
- RE: 鎌倉殿の13人!
- こんにちは、前日光さん。
ありがとうございます、コメントを頂いて。 タイトルは、題しての「鎌倉殿の13人」。
小生の思うところ、前日光さんは「頼朝アレルギー?」の重症とお見受けしました。 人それぞれ、過去の思いの中でどうしても譲れないものがあるんでしょうね。
頼朝公の人となりを。 このお方は偉人です、小生はおおむね是としたいですね。(意味不明です!・・正しい行動をされた人と理解を)
小学校の頃ですが、「京の五条の橋の上」で義経と弁慶のお話で頼朝はあまり知らなかった。 いわゆる「判官びいき」でした。 しかし中学・高校での歴史で頼朝公が好き(役者に関係なく)になりました。 このお方の偉業は、武家政権を確立し700年程存続させた。 それと東大寺の再建です、立派な心がけです。
前日光さん、これからの「鎌倉殿の13人」を是非とも見てください。 貴女様の心の内までとやかくは申しません。
ryuji
-
- sirokuma123さん 2022/05/16 22:25:22
- 訪問と「いいね!」ありがとうございます
- こんばんは ryujiさん
訪問といいね感謝です?
奈良は一度だけパック旅行でお水取りを見に行っただけなので、旅行記を読ませてもらって是非個人でのんびりと訪れたいと思いました。情報ありがとうございます。
早く海外旅行復活したいですが、お先真っ暗です。
しばらくは国内旅行を楽しみたいと思います。
今後ともよろしくお願いいたします。
sirokuma133
- ryujiさん からの返信 2022/05/17 07:06:49
- Re: 旅行を見て頂きありがとうございます!
- おはようございます、sirokuma133さん。
こちらこそありがとうございます。
そうですね、奈良は大好きなところです。 特にこの時代(奈良朝時代)には昔から興味を持っておりました。 幸いにも我が家より車で2時間余、老体に鞭打って出かけております。
小生は、このコロナ禍で海外旅行は卒業のようです。 歳もトシ、決して多くない渡航歴ですが終了を心に決めています。
改めてありがとうございます。 フォートラもいつまでか分かりませんが、こちらこそよろしくお願いします。
ryuji
-
- うふふ♪♪さん 2021/12/11 22:13:07
- お久しぶりです! うふふ♪♪です!
- ryujiさんへ☆☆
こんばんは!
面白かったです!!
この辺りの時代(天智天皇~元正天皇くらい)は、
少女漫画で読んでいまして(恥・・)・・💧
(漫画だとすっごく頭に残るうふふ♪♪なのでした・××・・💧💧
如何に、おべんきょーがダメだったかがよくわかる・・あぁ・・💦💦××・・)
で、割と人間関係が(なんと漫画に出てくる絵柄のままで把握・恥💧)把握出来ているので、
拝読していてとても面白かったです♪♪
最近は聖徳太子を教えないらしいですよね。
長い間、1万円札だったのに!
(私も近年、<ほんとに存在したの?>と思っていましたが。)
ほんと、私たちが習ってきた歴史って・・
どこまでが真実なんでしょうか・・はぁ・・
(天皇陵が全然発掘出来ないので、日本の古代史、さっぱり不明ですものね。
学生時代、考古学専門の友人が嘆いておりました。)
藤原不比等ってすごい人ですよね。
一旦、壬申の乱で敗北者側になっているのに、
なぜか子供たちは4人揃って、政権に付き、娘たちは天皇と結婚・・
一体、何をしたら、そんなすっごい敗者復活戦が出来たのでしょうね??
結局、今のお公家さんは、み~んな不比等の子孫ですもの・・
(まぁ、鎌足の子孫とも言えますが・・)
車で奈良までってお元気ですね~☆☆
だけど、興味のある史跡を辿りつつ、歴史に想いを馳せる旅、
すごくいいですね~☆☆
ほんと、面白かったです!!
楽しい旅行記、いつもありがとうございます!!
ちょ~っと復活気味のうふふ♪♪より♡
- ryujiさん からの返信 2021/12/12 09:08:00
- RE:コメントを頂きありがとうございます!
- > ryujiさんへ☆☆
>
> こんばんは!
> 面白かったです!!
>
> この辺りの時代(天智天皇?元正天皇くらい)は、
> 少女漫画で読んでいまして(恥・・)・・💧
> (漫画だとすっごく頭に残るうふふ♪♪なのでした・××・・💧💧
> 如何に、おべんきょーがダメだったかがよくわかる・・あぁ・・💦💦××・・)
> で、割と人間関係が(なんと漫画に出てくる絵柄のままで把握・恥💧)把握出来ているので、
> 拝読していてとても面白かったです♪♪
>
> 最近は聖徳太子を教えないらしいですよね。
> 長い間、1万円札だったのに!
> (私も近年、<ほんとに存在したの?>と思っていましたが。)
>
> ほんと、私たちが習ってきた歴史って・・
> どこまでが真実なんでしょうか・・はぁ・・
> (天皇陵が全然発掘出来ないので、日本の古代史、さっぱり不明ですものね。
> 学生時代、考古学専門の友人が嘆いておりました。)
おはようございます、うふふ♪♪さん。 ご無沙汰してま〜す。
アリガトウ、こんな旅行記にご意見を頂いちゃって。 面白い?、私は嬉しいのひと言に尽きます。 こうした古代史のもので、少女漫画ってあるんですか?。 知りませんでした、私も是非見たいものです。
聖徳太子ね、私の時代(遠い昔)は歴史で習いました。 立派なお方で、一番高いお札の肖像画になっておりました。 昨今の教科書からは消えてしまいましたか?、一度孫に確認することにします。
>
> 藤原不比等ってすごい人ですよね。
> 一旦、壬申の乱で敗北者側になっているのに、
> なぜか子供たちは4人揃って、政権に付き、娘たちは天皇と結婚・・
> 一体、何をしたら、そんなすっごい敗者復活戦が出来たのでしょうね??
> 結局、今のお公家さんは、み?んな不比等の子孫ですもの・・
> (まぁ、鎌足の子孫とも言えますが・・)
藤原不比等について。 そうなんです、私もうふふ♪♪さんと同意見ですよ。(壬申の乱での敗者側) ご承知と思いますが、天智天皇さんと父の鎌足さんは蜜月の仲です。 天智さんの子と言われているくらい。 だったら何故か?、確かに乱後に中臣金等の一族が処罰されました。 この時点で中臣鎌足さんはすでにこの世になく、不比等は一三歳の少年でした。 きっと、乱の責任もなければ、功労もなかったと思われます。 資料によれば、確か下級役人から精進されたと記載されています。
>
> 車で奈良までってお元気ですね?☆☆
>
> だけど、興味のある史跡を辿りつつ、歴史に想いを馳せる旅、
年甲斐もなく車で奈良まで走り回りました。 行きたい思いが先行し、我ながら頑張ったそんな感じかな。
> すごくいいですね?☆☆
>
> ほんと、面白かったです!!
> 楽しい旅行記、いつもありがとうございます!!
アリガトウ、「ほんと面白い」なんて、お世辞にも?。 又・又嬉しいです!、こんな旅行記しか投稿できませんがガンバリがいがあります。
>
>
> ちょ?っと復活気味のうふふ♪♪より?
ちょ?っと風変わりな旅行記のryujiより?
-
- マリオットさん 2021/12/10 09:27:28
- このような視点もあったですね。
- 奈良へは何度か行ったことがありますが、歴史上の人物を追って見学したことはありません。知らない人名と場所ばかりで、奈良の見方としては面白い視点だと思います。
初めて平常宮跡へ行ったのは、かなり昔でした。ただ、広いだけの所で何もなかったのですが。ずいぶん歴史公園らしくなっているようですね。また奈良へ行ってみたくなりました。
- ryujiさん からの返信 2021/12/10 14:21:34
- RE:このような旅行記にコメントを頂きありがとうございます!
- こんにちは、マリオットさん。
旅行記にコメントを頂きありがとうございます。 おそらくは、旅行記として我流(本流でなく)と言うべきものでしょうね。 このフォートラではあまり制約があると聞いておりません。 そんなことで、自身の好きな歴史中心で投稿しました。 奈良を見るうえで、「面白い視点」と言って頂き嬉しく思っています。
奈良は我が家よりかなりの距離がありましが、定年後7〜8回は行ったと思います。平城京もそうですが、私にとって奈良は「旅の生きがい」になっているようです。 まさに奈良は歴史の宝庫です。
改めて、コメントありがとうございます。
ryuji
-
- しにあの旅人さん 2021/12/09 07:55:12
- 知らないこといっぱい。
- ご無沙汰しておりました。
ミ・ナーラ以外は行っておりません。ここは永らく空き地だったのに、当時の地主が無理やりデパートを作ったそうです。一応発掘はされましたが、正門跡さえ確定できないまま、適当にやったみたい。それでも大量の木簡など貴重な資料が出てきました。全域保全されていれば、巨大な古代資料館だったのに、残念。
そのせいか、そのデパートもその後のナンチャラも潰れて今は3代目です。長屋王の呪いを軽く見たバチでしょう。
次回は中も見ようと思っていますが、お浄めの塩をもっていくつもりです。
平群の長屋王のお墓が宮内庁治定の御陵だとは知りませんでした。ちゃんと三禁立看まである。
鏡神社は全く知りませんでした。
立派な両部鳥居ですね。いつ頃建立のものでしょうか。
百川のお墓も未知。木津川のあたりは何回も行ったのですが、知りませんでした。
知らないことがいっぱいで、楽しく読ませていただきました。
- ryujiさん からの返信 2021/12/09 11:06:36
- RE: 旅行記にコメントを頂きありがとうございます!
- > ご無沙汰しておりました。
こんにちは、しにあの旅人さん。 こちらこそご無沙汰しております、
>
> ミ・ナーラ以外は行っておりません。ここは永らく空き地だったのに、当時の地主が無理やりデパートを作ったそうです。一応発掘はされましたが、正門跡さえ確定できないまま、適当にやったみたい。それでも大量の木簡など貴重な資料が出てきました。全域保全されていれば、巨大な古代資料館だったのに、残念。
> そのせいか、そのデパートもその後のナンチャラも潰れて今は3代目です。長屋王の呪いを軽く見たバチでしょう。
> 次回は中も見ようと思っていますが、お浄めの塩をもっていくつもりです。
長屋王の邸宅跡ですが、不慣れなナビで通り過ぎてしまいました。(残念!、ネットでカバーしました) おっしやる通りで、そごう・イトウヨーカ堂も潰れて無くなってしました。これも長屋王の呪いのせいなんでしょう。 膨大な数の木簡の出土品、ホントにもっと早く見つかっておれば、私も残念・無念です。 古代遺跡・出土資料関係のスペシャリストの貴方様の事、私の旅行記の出番が無かったかもしれません。
>
> 平群の長屋王のお墓が宮内庁治定の御陵だとは知りませんでした。ちゃんと三禁立看まである。
この平群町のお墓は、旅行記では絶対に外せない思いで時間をかけて行ってきました。 ひと言、加えさせてもらえれば、「長屋王・吉備内親王」の二人には以前より思い入れのある人物でした。
>
> 鏡神社は全く知りませんでした。
> 立派な両部鳥居ですね。いつ頃建立のものでしょうか。
> 百川のお墓も未知。木津川のあたりは何回も行ったのですが、知りませんでした。
> 知らないことがいっぱいで、楽しく読ませていただきました。
鏡神社と木津川市の墓も私が初めて知り、出かけるきっかけとなった地です。 旅行記の全体で言えることですが、私の場合は人物像が出発点のようです。 しにあの旅人さん、一度お出かけされては?。 遺跡・資料の視点での考察を期待しております。
私の拙い旅行記にコメントを頂けた事感謝します。
ryuji
-
- mistralさん 2021/12/01 21:00:48
- タイトル、カッコいいですね。
- ryujiさん
こんばんは。
ご計画が実行に移されたんですね。
時はまさに紅葉まっさかりの折、奥さまとの心も弾むドライブ旅だったと想像
致します。
「平城京を生きた男たち」とのタイトルもカッコいい!
私は壬申の乱に首を突っ込むまでは、奈良時代は天平文化という言葉の印象のとおり
豊かな文化にかおる時代だったと思い込んでいました。
ところが実態は、ryuji さんもコメントされておられましたように
血生臭い政変が頻発していた権謀術数の渦巻く時代だったということが
徐々にわかってきています。
政治手腕があったとされる長屋王が廃されていなければ、その後の天武天皇の系統
も違ったものとなっていたのかもしれませんね。
歴史上のもしも、、、だったならばという仮定は
若くして命を奪われる定めとなった有能な人々に対する哀悼の気持ちから発せられる
ものなのでしょう。
藤原広嗣の乱、あたりからはまだ私は何もコメントができないのです。
ただいま勉強中という事で失礼いたします。
それでもryujiさんが注目されておられた悲運の貴公子たち、にとっても関心を
もっております。
mistral
- ryujiさん からの返信 2021/12/01 23:21:46
- RE: 早速見て頂きありがとうございます!
- > ryujiさん
>
> こんばんは。
> ご計画が実行に移されたんですね。
> 時はまさに紅葉まっさかりの折、奥さまとの心も弾むドライブ旅だったと想像
> 致します。
> 「平城京を生きた男たち」とのタイトルもカッコいい!
> 私は壬申の乱に首を突っ込むまでは、奈良時代は天平文化という言葉の印象のとおり
> 豊かな文化にかおる時代だったと思い込んでいました。
> ところが実態は、ryuji さんもコメントされておられましたように
> 血生臭い政変が頻発していた権謀術数の渦巻く時代だったということが
> 徐々にわかってきています。
こんばんは、mistralさん。 嬉しいですね、こんなに早くコメントを頂いちゃって。改めてありがとうございます。 奈良行きですが、有言実行でしたね。 いまは決行できて安堵していますが、気の小さい私で大きなプレッシャーでした。 タイトルね、カッコいいですか?アリガトウ。 3つ・4つ考えて「平城京を生きた男たち」に決めました。 私もmistralさんと同じ考えでしたよ、和歌に詠まれた優雅な趣とか。 mistralさんが使われた4字熟語の「権謀術数」、私は今日初めて活字にしました。今回の旅行記では「的を射る」言葉の箇所が多いと思います。 ホントに国語力のなさを痛感します。 これからも遅くない?各箇所で使おうかな?。
>
> 政治手腕があったとされる長屋王が廃されていなければ、その後の天武天皇の系統
> も違ったものとなっていたのかもしれませんね。
> 歴史上のもしも、、、だったならばという仮定は
> 若くして命を奪われる定めとなった有能な人々に対する哀悼の気持ちから発せられる
> ものなのでしょう。
> 藤原広嗣の乱、あたりからはまだ私は何もコメントができないのです。
> ただいま勉強中という事で失礼いたします。
> それでもryujiさんが注目されておられた悲運の貴公子たち、にとっても関心を
> もっております。
長屋王・吉備内親王から皇統が受け継がれたら?、称徳天皇でSTOP後に。 私は大賛成です。 でもおっしゃる様に「たら・れば」で長屋王はいない。 歴史は皇統が天智天皇系へとなったのは周知のとおりです。ここの所は百川を主役で旅行記にしました。 でも上手くまとめる事出来なくて申し訳ない思いです。
藤原広嗣ですが、私は45年前より興味を持っておりました。その訳はチョット申し上げられませんが、やっぱり・・・・「悲運の貴公子」とでも申しておきます。
改めてメールをありがとうございます。
。
> mistral
ryuji
- mistralさん からの返信 2021/12/02 21:35:44
- Re: タイトル、カッコいいですね。
- ryujiさん
お返事をありがとうございました。
悲運の貴公子、藤原広嗣さんにとても惹かれました。
ましてryujiさんが45年前から興味を持っておられた、という事を聞きますと
一層です。
確かに時のうねりには抗えなかったのでしょう。
父と伯父さんたちが奪いとってきた政権の報い!
広嗣さんが責任を取らされた、というお言葉には説得力があります。
親の因果が子に報い、、、なんて悲しい事でしょう。
天智天皇の因果が大友皇子に、天武天皇の因果は天武チルドレンに、
その後も因果応報は続いて、、、
新薬師寺の十二神将像の迫力にはワクワクしながら拝見した記憶があります。
その折にはまだ知る由もありませんでした。
すぐそばにある今回の旅行記に登場しました鏡神社、
さらにはそこの摂社でもある比賣神社は十市皇女の古墳の地にある事など、
次の機会があれば、私もお詣りしたいと思いました。
mistral
- ryujiさん からの返信 2021/12/03 12:49:49
- RE: Re: 重ねてのコメントを頂きありがとうございます!
- > ryujiさん
>
> お返事をありがとうございました。
> 悲運の貴公子、藤原広嗣さんにとても惹かれました。
> ましてryujiさんが45年前から興味を持っておられた、という事を聞きますと
> 一層です。
> 確かに時のうねりには抗えなかったのでしょう。
> 父と伯父さんたちが奪いとってきた政権の報い!
> 広嗣さんが責任を取らされた、というお言葉には説得力があります。
> 親の因果が子に報い、、、なんて悲しい事でしょう。
> 天智天皇の因果が大友皇子に、天武天皇の因果は天武チルドレンに、
> その後も因果応報は続いて、、、
>
こんにちは、mistralさん。
まずは、私の独断と偏見での旅行記にお付き合いして頂き感謝致します。 歴史を公平に見ると、藤原広嗣公はそれ程の優秀な人物ではなかったかもしれません。 時代劇で見る、主役と対する悪役の構図ですね。(父の藤原四兄弟を悪役にしていまいました) これはmistralの旅行記での、大友皇子と天武天皇に対するお気持ちとご一緒かも?。
> 新薬師寺の十二神将像の迫力にはワクワクしながら拝見した記憶があります。
> その折にはまだ知る由もありませんでした。
> すぐそばにある今回の旅行記に登場しました鏡神社、
> さらにはそこの摂社でもある比賣神社は十市皇女の古墳の地にある事など、
> 次の機会があれば、私もお詣りしたいと思いました。
そうそう写真には撮りませんでしたが、鏡神社の摂社である、比売神社を見てきました。(失礼・我がパソコンは旧態字が表示不能) 十市皇女が祀られたというこの神社は、mistralさんの専門分野でしたね。 今後訪問できるといいですね。
>
改めてありがとうございます。
> mistral
ryuji
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